2009/11/27

ウォーリーとハーレクイン・ロマンス

映画『ウォーリー(Wall・E)』を観ました。

たまたま、速水健朗さんのレクチャー、「ケータイ小説的郊外」@横浜に参加したあとに観たのですが、このレクチャー前半のハイライトだったハーレクイン・ロマンスの話が頭の片隅にあったせいか、『ウォーリー』をハーレクイン・ロマンスの男性主人公&ロボット・ヴァージョンとして観てしまいました。

速水さんは、ハーレクイン・ロマンスのポイントとして、

・階級上昇を巡る物語(シンデレラ・パターンで、主人公は庶民、もしくは上流階級に近い庶民という設定)
・旅行とワンセット(ハーレクイン・ロマンスは、駅や空港で販売されている)
・主人公の相手役は外国人であることが多い(アラブ系、ラテン系が人気)

この3つがあると指摘しています。特に3番目の相手役に関して、もはや人間ですらない宇宙人や吸血鬼をフィーチャーしたパラノーマルと呼ばれるジャンルが現在人気が高く、パラノーマルはそのまま『ウォーリー』に適用できるように思いました。

『ウォーリー』のストーリーを一言で言い表すと、「ゴミ処理を生業とする無骨なブルーカラーの男の子が、高度で洗練されたテクノロジーの申し子であるホワイトカラーの女の子に恋する話」です。

相手役のロボット、イヴが宇宙船に乗って地球にやってくるところは、「空から女の子が落ちてくる」パターンの変型とも言えるし、主人公のウォーリーがイヴを連れ去る宇宙船にくっついて宇宙旅行することも含め、上に書いたハーレクイン・ロマンスのポイントにピタリと当てはまります。

ハーレクイン・ロマンスの核には、オリエンタリズムやポスト・コロニアルな世界認識、文明の衝突がある、と言う速水さんの指摘に添うと、『ウォーリー』にも一見、そのような文明の衝突があるように見えます。草木の生えない砂漠とゴミで埋もれた廃墟と化した地球、そこから逃亡した人類が巨大宇宙船内に作り上げたコクーンのようなハイテク都市、その都市で暮らす内に肥満化した怠惰な人類。

ネタバレすると、地球をスクラップにしたのも、宇宙船を建造して人類のゆりかご状態を作ったのも、BnL社(Buy n Large社)という国家を超越したグローバル企業であり、対立してるかに見えた2つの文明は元を正すと同じものであることが、物語が進むにつれ、わかります。エンド・クレジットの後にBnL社のロゴが映るので、この映画をスポンサードしてるのもBnL社だった、というオチ。

この設定は、子供向けのファミリー・ピクチャーとして物語を単純化するという側面も当然ありつつ(なぜ地球がゴミ屋敷になったのか?BnL社とは?ウォーリーはどうして一人だけ生き残ったのか?というような説明は一切なく)、エコロジー礼賛、テクノロジー批判、グローバリズムへの皮肉というこの映画の割と安直と言えなくもない、わかりやすいメッセージの称揚につながっています。

ハーレクイン・ロマンスでは、西洋から見た東洋(アラブ含む)やニューワールドが美化され、ここにはないどこか遠くへの憧れがロマンスの駆動力になります。『ウォーリー』ではこの図式が反転し、ニューワールドにたどり着くと、そこはグローバル市場主義が行き詰まった西洋社会そのもので、テクノロジーと医療システムで生き長らえる人類は退屈な毎日を無為な消費と享楽で過ごすばかり。伊藤計劃の『ハーモニー』の世界観を思い出しました。

ロマンスの舞台となるべき場所が絵に描いたようなディストピア未来社会なので(実際、人類同士のロマンスが芽生えにくいという描写もあり)、東洋に行ったハズが西洋だったという同じ穴のムジナ状態で、文明の衝突もほとんど起きない。このままではロマンスとして面白くならないところを、ピクサーらしいドタバタ・アクションでカバーし、ドタバタの中で仲間ができたり次第に恋が芽生える過程をソツなく描いています。

個人的には、この後半より、前半の地球編の方が面白かったです。最近のVFXでドーピングしたハリウッド映画にありがちな目まぐるしい視点移動ではなく、冒頭の俯瞰ショットをはじめ廃墟や瓦礫の山を移動する米粒のようなウォーリーをとらえたロングショットを多用していて、古典的なフィルムの作法を精密なCGの絵でシミュレートしたような静かな高揚がありました。ほぼ会話のないサイレント映画で、廃墟にサッチモの「ラ・ヴィアン・ローズ」が響いたりする前半を1時間半の映画に引き延ばしたらよかったのに。そうするとディズニー的なエンタメとしては成立しなくなるか。

ウォーリーはE.T.にソックリで、『E.T.』は地球人の子供が宇宙人と友達になる話、こちらは地球人のロボットが宇宙人のロボットと恋に落ちる話、なぜ、友愛じゃなくて恋愛なのだろう?と考えると、ウォーリーが階級差にも関わらず、一目惚れの片思い状態でイヴに猪突猛進のアプローチをかけるという無茶ぶりがあるから物語が進むので、友愛ベースだと旅の途中で友達を作って聖杯探求に出かけるという王道パターンにしないと、たぶん転がっていかない。シンプルなボーイ・ミーツ・ガールでハーレクイン・ロマンス路線で正解だったと。あと、『E.T.』は地球人の子供がE.T.の保護者的存在だったのが、こちらはウォーリーより高性能で高知能のイヴがウォーリーの保護者的存在になっていて、そこも主客が逆転しているように思います。

気になったのは、ウォーリーと人間の質感の違い。ウォーリーは細密でリアリスティックなCGなのに、人間はいつものピクサー風のデフォルメされたツルンとした絵。BnL社のメッセージヴィデオに実写の人間が登場するのも違和感。あえて質感の統一を避けたのかもしれないけど、アンドリュー・スタントン監督の前作『ファインディング・ニモ 』では、人間は魚視点からしか描かれず、画面に映るのは首から下までという演出だったので、今回はリアリズムとしては後退してるような・・。

宇宙で安寧に暮らしていた人類が荒廃した地球に戻ってきてメデタシという終わり方も、エコロジーの解釈としてやや弱く、ピクサーの盟友である宮崎駿には及ばないというのが正直な感想です。ウォーリーと人間の触れ合いもさほど深くは描かれず、人間側でキャラが立ってるのは艦長くらいなので、ここはいっそのこと、宇宙船には人間の痕跡はあるもののロボットだけが生き残って独自の社会を形成していた、という設定にした方が、SF好きとしてもより興味深い話になった気がします。

このように大人目線でとらえると、色々と疑問が浮かんできて物語に没入できないのですが、ラストでウォーリーとイヴがはじめて手をつなぐシーンは素直に感情移入できました(「手をつなぐ」というのが、この映画の主題のひとつ。そういえば、『エヴァ』もそうだった)。その直前、機能不全に陥ったウォーリーがCPU基盤を入れ換えることで生き返る描写がアッサリし過ぎてる嫌いはあるものの、パラノーマルな異種交流ロマンスの子供向けヴァージョンとしては、この落としどころで腑に落ちました。

2009/11/15

FEED告知、または壁紙音楽宣言

初めて(?)ちゃんとブログで告知してみます。


FEED@SIGN GAIENMAE

日時:2009.11.15. 日曜日 19:00 - 23:00

場所:サイン外苑前
地下鉄銀座線外苑前駅から徒歩1分

料金:フリー(*カフェの通常営業時間内なので飲食費は必要となります)

SOUND:♪, Iwalsky, NobuyaTogashi


かれこれ足掛け5年くらい、SIGNの通常営業時間内に店内のDJブースをお借りして音楽を流しています。

最近気に入ってる言葉は「壁紙音楽」です。古き良き環境音楽。ミューザックの垂れ流し。スーパーフラットなスーパーマーケット・ミュージック。ウォール・ペーパー・ジャーナルならぬウォール・ペーパー・ミュージック。狭間にある、行間にある、「In Between」な、あいだの、あまたの、あしたの、音楽。いつでもそこに壁がある限り壁によりかかる人も壁に窓を作る人も壁に落書きする人も壁に卵をぶつける人も壁紙音楽を流す人もいるのだと思います。

2009/07/12

東のエデン

『東のエデン』を観た。

昨年から、iPhone界隈でセカイカメラというAR(拡張現実)アプリが話題になっていて、そのセカイカメラにインスパイアされたような画像認識技術がこの作品に登場する(劇中では、東のエデン/エデンシステムと呼ばれ、この技術を使ってIT起業しようとする学生サークルの名称でもある)。現実世界をエアタグでクリッカブルにしてソーシャルメディア化しようというのは、とてもテクノロジー・ドリブンな楽天的な発想で、そこには言うまでもなく落とし穴があり、『東のエデン』でもエデンシステムが出会い系の巣となった結果、スキャンダル事件が起きて成功できなかったという経緯が遠回しに描かれている。

『東のエデン』は、ARだけではなくニートの就業問題や格差社会、さらにはミサイル・テロといったいまっぽい要素がテンコ盛りで、そんな「閉塞した日本の空気」を変えるために100億円の電子マネーを持たされ『デス・ノート』的な生死のゲームに他の11人のセレソンと呼ばれるメンバーと共に強制参加させられる滝沢朗と、彼を空から降ってきた(実際は裸でホワイトハウス前に出現した)王子様と思いたいが実はテロリストかもしれないし何者なの?と逡巡する森美咲とのボーイミーツガールの物語である。

ニュースやはてなブックマークの人気エントリーに上がりそうな社会的で下世話な素材をアニメに取り入れた着眼点は新鮮だが、素材の挿入で止まっていて、シリアスな社会派ドラマにも、お気楽なラブコメにも振り切れず、かといって、『デス・ノート』の荒唐無稽なハッタリを効かせた知能戦にもなりきれてないという、なんともバランスの悪い煮え切らない作品になっていると思う(その後を描く映画が控えているので評価は保留したいが、2クールの連続TVドラマとして完結した方が美しかったと思う)。

日本に11発もミサイルが落とされているのに、特別警戒態勢や戒厳令が敷かれておらず、平穏な日常が続いているのにまず拍子抜けする(好意的に解釈すれば、平和ボケしてる日本と言いたいのだろう)。また、2万人の裸のニートがドバイにコンテナ船で運び込まれるという設定に確固たる説明がなく(なぜ裸?なぜドバイ?)、ラストの11話で滝沢が「もまいら!」と2ch用語でニートたちを先導すると、滝沢に騙させて怒りを覚えているハズの彼らがロボトミー手術を施した軍隊のようにあっさり素直に従い、滝沢に言われるがままに文殊の知恵ならぬ「直列につながれ」て、一斉に携帯で間近に迫るミサイル攻撃へのアンサーをメールで打つという下りは、ハーメルンの笛吹きを模してるにしても引いてしまう。

監督の神山健治はココで、「僕らの世代がもし『ナウシカ』やったら、必ず、風の谷にもナウシカに不満をもってる奴がいるというのを描いちゃうんですよ」と語っているのだが。ナウシカや滝沢というカリスマを包含する世界観を構築するには、それを観る者に納得させるウソが必要で、滝沢はひょうひょうとした屈託のない明るい青年で人々の耳目を集める内面性やカリスマ性が欠落している。そういうミスマッチを狙ったのかもしれないが、少なくとも、こっちにはミスマッチならではのツイストが伝わってこない。内面が欠落した男がいかにカリスマになったかを瞠目すべき筆力で描き切った『ワールド・イズ・マイン』とは対照的だ。

逆に、神山健治の師匠でもある押井守ならば、転向した元左翼か『パトレイバー2』の柘植(つげ)のようなテロリストか、いづれにしても屈託のありすぎるキャラクターになってしまうところだろう。この作品の主要舞台は、六本木や豊洲などセキュリティ的に整備されたシミュラークル化した街であり(森美咲は森美術館から取ったのかな?)、押井が『パトレイバー2』で描いたような時代に取り残された薄汚れた市井の風景はほとんど出てこない。強いて言えば、ヒキコモリの天才プログラマー、板津が住んでいる京都のアパートと、最も押井的なキャラクターと言えるセレソンの近藤が殺される新宿歌舞伎町くらいか。

滝沢が根城にする豊洲のショッピングセンター=SCはその意味で象徴となりうる場所だ。神山は劇中で、ジョージ・ロメロの『ゾンビ』を引用しながらショッピングセンターは消費社会の縮図うんぬんとサークルのメンバーに言わせてサラリと流しているが、『ゾンビ』好きの僕としてはここも淡白すぎるように感じた。宮崎駿や磯光雄なら、クライマックスの豊洲SCにおける憤懣やるかたないニート=ゾンビと主人公たちの攻防をもっと活き活きした血肉化したアニメーションとして面白おかしく描いたんじゃないか。

この作品には、物語をもっともらしく成立させるウソや設定の破綻を吹っ飛ばして観客の生理に訴えかけるような情動、エモな高揚に決定的に欠けている。エモーションを形成するためのキャラクターの行動原理が不明なのだ。なんでも願い事を叶えてくれる魔法の携帯を持つ滝沢は安全で完全無欠のヒーローで、『ゾンビ』が描いたような、消費にうつつを抜かす一般人が自分たちの鏡としてのゾンビに襲われるという物語構造から生まれるリアリティには程遠い。

他にも、セレソンのほとんどが猟奇殺人とテロで日本を建て直そうとする(鼻っから建て直すことを諦めている)頭がおかしくて単細胞な人ばっかりだったり、セレソンの命令を実行するにはお金やスパコンだけではなく、実際にそれを動かす人的資源という野暮ったく七面倒臭いものが現実に横たわってるハズなのだが、それらの存在がまったく描かれなかったり、突っ込みどころが多すぎる。広告代理店とテレビ局の要請で「ハチクロのキャラでトレンディでオサレなヤングに受けるアニメを」(笑)という大人の事情でこうなったのかなとは予想できるのだが、異なる素材をもう少しうまく活かせてたら、と思うと残念。

というか、OPのオアシスの起用から拒否反応が出ていたのになぜかスルーできず、1話が期待感を持たせる出来だったので、AR(拡張現実)を扱ったSFアニメとして先行する『電脳コイル』をどのように超えるのか、または迂回してやり過ごすのかという個人的興味もあって全部観てしまったのだった。結局、ARは物語の根幹にほとんど関わらないまま終わってしまったが。(高品質なアニメーションであるのは承知の上で批判ばかりになってしまい、ファンの方はごめんなさい。特に、グラデーションではなくベタの塗り分けで精緻に描かれた背景は、グラフィカルで素晴らしかったと思う。)

あと、伏線が回収されないのは、アニメに限らず、もはや一個の作品の成立事情を超えた文化的パラダイムの問題だというのがわかったので、そういう意味でも観てよかった。神山健治が好きだというタイトルのネタ元でもある、故・杉浦日向子の「東のエデン」は読んでみたい。

2009/06/16

Sweet Dreams Of Magazines


以前も告知した『Sweet Dreams』が発売中です(ブログでのお知らせが遅くなってすいません・・)。全180頁の力作です。本屋や輸入盤屋で見かけたら、手に取ってみてください。僕も末席を汚しています。

福田さんは「単なる音楽雑誌にはしたくない」と言ってましたが、新聞やTVのような超メジャー級のメディアでもなく、急速に力を失っていく総合誌でもなく、かといって旧来のスタンスにおける音楽専門誌やサブカル誌でもなく(大きな括りで言えば、『Sweet Dreams』もサブカルチャーに入るのでしょうが・・)、中間ジャンルとしての読み物雑誌、ライフスタイル・マガジンを目指してるのかな?と僕は勝手に受け取りました。とにかく活字がビッシリと端正なレイアウトの中に収まっていて、内容はインディ・ロックを中心にした音楽がメインですが、舞踏家の旅行記やオバマの選挙レポートや32歳で亡くなったウィキペディア・ピープルの記事や小説やイラストやコラムがアトランダムに並んでいて、個人的に専門誌に感じるような息苦しさは感じません。

出版カルチャー華やかりし頃にデビューした総合誌やライフスタイル・マガジンの多くはマジョリティを相手にしていて、それゆえにそれらを享受できた世代以降との断絶がいま大きくなっているのは言わずもがなな現象です。週刊文春や週刊プレイボーイやエスクワイアや暮らしの手帖や花椿を熱心に読む若者というのが想定しにくいというか(実際に統計を取ってみたわけではないのであくまで仮定ですが)、人間が興味あることを全部扱っちゃう!という総合誌的なものがそっくりそのまま形を変えてインターネットで体現してしまったわけで、マイノリティというかサイレント・マジョリティな人々に届けるパーソナルな視点に立脚したライフスタイル・マガジンというのがこれから模索されていくとしたら、そのひとつの回答がこういう形になるのかなと漠然とですが思いました。

あと、コラムやエッセイって日本の雑誌だと有名人や文化人、功成り名を遂げた人気者が書くというのが慣例になってる気がしますが、僕のイメージでは有名無名は関係なく、そもそもは肩書きや名前とは別のところで(文字通り、肩の力を抜いて)、個人が文章で綴るステートメントというか、中身の面白さや視点の独自性うんぬんで読ませるというか、そういうものだと解釈しています。勝間和代や梅田望夫といったビッグネームと名もない個人が同じようにブログやソーシャルメディアを使って発した意見を均一に一望できるのが、インターネットの本来の良さですが、現実はAmebaの成功に顕著なように、すでにリアルでプロップを得た有名人のブログにアクセスが集まるのが世の常であり、そこにネットの言説特有のパフォーマティヴな特性が絡んできて、脊髄反射しやすいメッセージばかりが飛び交ってるような印象もあります。それを衆愚社会と一方的に決めつけるのは簡単ですが、新しいものって必ずそういう清濁合わせ飲む中から生まれるので、やっぱり目が離せません。とはいえ、じっくり腰を据えて何かを読んだりするには、インターネットってまだまだ発展途上のメディアだなというのが正直な感想です。

先月、今更ですがTwitterを始めました。飽きっぽい自分ですが、今のところは飽きてないです。Twitterで140文字の制限に慣れてしまうと、ブログでまとまった文章を書くのがいきおい難しくなるというのがあり、TwitterとTumblrで動物化が目下進行中の自分にとっては、ブログすら敷居が高くなるというトホホな状況。比較的好き勝手にのびのび書けるTwitterに比べると、ひさびさということもあり、滅法カタい文章になっちゃいました。お粗末。


*追記です。明日はライヴ・イベント&25日までユトレヒトで展示もやってる模様です。


スウィート・ドリームスのスウィート・ワールド展

2009.6.16 (Tue)~6.25(Thu)
NOW IDeA by UTRECHT (03-5468-9657)
www.utrecht.jp/aoyama
〒107-0062 東京都港区南青山5-3-8 パレスみゆき201
定休日:月曜日 12:00pm~8:00pm
*6月19日はライヴ・イベント準備のため、開店時間が12:00pm~4:00pmになります。

ライヴ・イベント
6.19 (Fri) open 7:00pm / start 7:30pm
出演:M.A.G.O., OPQ, shibata & hatano
Admission: 1,000円 (incl. 1drink)

M.A.G.O.: www.myspace.com/mago3
OPQ: www.myspace.com/opq
shibata: d.hatena.ne.jp/aotoao
hatano: www.tamtam-highhat.com

音楽と、そのそばにある文化や冒険を集めたムック『スウィート・ドリームス』第3号の刊行を記念して、ささやかな展示を行ないます。

今回は、その第3号にも掲載している俵谷哲典とセス・ハイによる作品の展示。そして『Kathy』や『Carson』という名前のジンをつくってきたチーム・キャシーの面々と共同で、過去、お互いの発行物上で紹介してきたり、お互いの制作に大きな示唆を与えてくれた音楽や書籍、ジンなどを集めてみました。それらが、テーブルの上に並べてありますので、自由に手に取っていただき、CDやレコードを聴いたり、ページをめくったりしながら壁に掛けられた作品を眺め、のんびりと時間を過ごしてもらえたら、と、思っています。

また、この展示を記念して、チーム・キャシーとスウィート・ドリームスの共同で新作ジンを発行・販売します。今回、ギャラリーに集めたレコードやCD、ジンや書籍の記録と紹介を兼ね、そのひとつひとつを皆でレビューしてみました。言うなれば、スウィート・ドリームスの素、チーム・キャシーの素、とでもいうような1冊です。ぜひ読んでみてください。また、今回、作品を展示していただく俵谷哲典の新作コミックも発行・販売予定。こちらもどうぞお楽しみに!

さらに、会期中の6月19日(金)には、ライヴ・イベントも開催します。『スウィート・ドリームス』第2号にも掲載した「the teachers」という名前で布小物雑貨をつくっている冨岡映里がメンバーのフィメール・デュオ、M.A.G.O.や、玩具や日用品、さらには自作楽器から、愛らしい音の連なりを取り出していくOPQ。さらに、ボルゾイというバンドもやっているshibata(「星新一のショート・ショートのような音楽……」/shibata & asuna「pocket park」評より)が、友人である波田野州平の映像を伴った新ユニットとしてライヴ・デビューします。ぜひ皆様お誘いあわせの上、いらっしゃってください。

俵谷哲典 www.freewebs.com/tetsunori
セス・ハイ www.sethhigh.com
Team Kathy (Popdrome Service) www.popdrome.com

2009/04/16

ボディ・ランゲージの時代

某月某日。

ブログにはタイトルと本文がある。TwitterにもTumblrにもタイトルはなくボディ=本文しかない。タイトルとサブタイトルと本文の重層関係による三段論法で読者をうならせる、みたいな旧来のメディアの編集技法って、ゼロ年代末にはまだるっこしいのかも。時代はタイトルレス、ボディが同時にタイトルでありキャッチコピーである時代。

旧来のメディアのトップダウン式ロジックがある種の特権性や権力意識と結びついていることを、あたらしいメディアが気づかせてくれるというか。でも、これはインターネット黎明期に、ハイパーリンクだハイパーテキストだって散々言われてきたことのヴァージョンでしかないのかも。

外国映画の邦題に名コピー(迷コピー)がいっぱいあった時代がすっかり遠のいたこととも関係あると思う。

上に書いたようなことがなんで気になったかというと、Twitterのリンクって短縮URLなのでリンク先がどんなサイトかわからない&リンク先の説明がていねいに書いてあるなんてことは当然のごとく少なくて、「ここ」とか「これ」とか指示代名詞が添えられてる程度で、中身がわかんないから確認するという意味でもリンクに飛んじゃうことがよくあって(自分もブログの文中で「コレ」ってリンクを張るから同じことなんだけど)、実はかなり暴力的で恣意的=その場限りのコミュニケーションの作法なんじゃないの?という。

どちらが良い悪いじゃなくて、情報社会に最適化された野蛮な(かつ洗練された)ネットのコミュニケーション作法と、昔ながらの「おもてなし」に近いまだるっこしいコミュニケーション作法とでは、やはり依拠するカルチャーが自ずと違ってくる。

たぶん、リアルでは面倒くさい手続きを踏んだ生け花や茶の湯のようなコミュニケーションが、ネットではまったく逆のベクトルのコミュニケーションが、これからそれぞれ先鋭化していくのだろうなぁとぼんやり思う(なんだか、音楽がダウンロードとライヴに両極化するみたいな話だ)。


某月某日。

トレードオフという言葉がなぜか最近目につく。トレードオフ=二律背反の状態=背に腹は代えられない=エネルギー保存の法則? 人生を表象するような言葉だなぁとひとりごちる。

「エントロピーとは、覆水盆に返らず」というフレーズを今日起き抜けに思いつくが、そのあとググるとエントロピーの説明で「覆水盆に返らず」を例に上げている記事がいっぱい出てきた(笑)。

トレードオフ - Wikipedia
 

2009/04/11

Stray Sheep, Straight Edge

某月某日。

代々木公園で花見だというので重い腰を上げて行ったら、こちらの勘違いで場所を間違えていたというオチ。ニコラ・テスラの呪いが春たけなわの東京を襲ったのか、代々木公園の電磁波の一極集中はすさまじく、ケータイはウンともスンとも動作せず、途方にくれてヨヨコーをさまよい歩く。花や語らいを楽しむよりケータイでベシャるのが今っぽいのか? それとも桜の写真が大量にTwitterやFrickrやモブログにアップされてるのかジャストナウ? だとしたら、これは一種の集団ヒステリー、テクノロジーの没入による没我状態、みんなで共有すれば恐くないアハ体験の集いとは言えないか? なんとか別のグループと落ち合い、知人がDJブースの横でライヴペインティングしてるというので行くと、滅法かっこよいミニマルが鳴っていて、ある者は楽しそうに、ある者はストイックに、桜の樹の下には死体があるやも知れないのに昏々と踊り続ける若者たちに、刹那の快楽に興じるということの何たるかを教えられた気がして、気がつけば自分も一心不乱に踊ってしまっていた。A-HA! そのあと、トイレに行ったら迷ってしまい、どこを見ても桜と人と生ゴミの山でチガイがわからず、一生この鏡の迷宮めいたデジャヴュー魔界ヨヨコーから出られないかもという恐怖に陥った矢先、移動中の先のグループと遭遇(なんともいえない間の悪さに、一瞬の沈黙が訪れたのだった)。教訓。花見の時期の公園は生体エネルギーを無駄に吸い取られるので注意されたし。

某月某日。

『Sweet Dreams』を独りで編集・発行している福田さんと会ってお話する。音楽・出版業界のことから、サブライム・フリーケンシーズのアラン・ビショップが数ある宗教の中でヒンズー教に一番惹かれてるらしい(彼はレバノン人なので本来であればイスラム教だろうけど)という話からジャイナ教やゾロアスター教やブッディズムについて、ワシントンDCのパンク・シーンではいま重いリフのヘヴィな音がキてる、なぜDCで興ったGO-GOはなんでもリバイバルされる時代なのにいまだにリバイバルしないのか(NYラテンとは切断された独自のストイシズムの美学を感じる)、ストレート・エッジ、黒人と白人のミクスチャー・パンクはいまいづこ(DEATHというP-VINEからリイシューされた黒人のパンクバンドがイイとのこと)、ライオット・ガールズとジン・カルチャーと婦人公論と暮らしの手帖、インターネット上のコミュニティでは未知とは出会わないという例の話、リチャード・パワーズ、フィッツジェラルド、トマス・ピンチョン、古川日出男、舞城王太郎、夏目漱石、ラフカディオ・ハーン、『日本語が亡びるとき』と教養主義、高千穂、出雲、鳥取と水木しげる、スサノオノミコトとアマテラスオオミカミと中央集権化、古来より「い」が言霊的にパワフル、松岡正剛と『遊』と『エピステーメー』、大野一雄、あたらしい舞踊の兆候&演劇に疎いという話、マクロビオティック(アンチコンのホワイ=Why?のツアー中、ビーガンであるホワイの影響で某氏がベジタリアンに目覚めたという話はとても興味深かった、そんなこともあるんだなぁ)などなど。文字に起こすと一端(いっぱし)の文化人気取りだが、端から見ればビールを飲んだくれてるオヤジにしか見えなかったと思う・・。それ以前に、僕は「あれ」とか「あれあれ」とか「あれってあれ?ですよね?」とか「☆■●△*」とか会話で固有名詞が出てこないアルツな人なのでアレだが。
 

2009/04/03

とりかへばや物語、カウガール編

一個前のエントリーで『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』について書いたが、実は映画の日に『チェンジリング』と『ベンジャミン・バトン』を立て続けに観たのだった。両方とも2時間以上の長尺で20世紀初頭に遡るハリウッド大作ということで共通するが、まったく違う映画だった(当たり前)。ちなみに、今年はじめて劇場で観た映画がコレ。

『ベンジャミン・バトン』は1920年代にスコット・フィッツジェラルドが書いたフィクション、『チェンジリング』は1920年代に実際に起きたノンフィクションが元になっている。蛇足ながら、デヴィッド・フィンチャーの前作『ゾディアック』では、ゾディアック事件の犯人をモデルにしたクリント・イーストウッドの『ダーティハリー』公開をエサに犯人を捕獲しようとするシーンがある。虚実の入れ子状態。さらに蛇足だが、ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーというハリウッドを代表するおしどり夫婦がそれぞれ主演。『ウォッチメン』をあきらめてこの2本を選んだのは、たぶん偶然ではなく必然だったかと。

ベルエポックだったりミッドセンチュリーだったり、ノスタルジックに古き良き時代を回顧する懐古主義と来れば、ハリウッドのお家芸というか常套手段で、現代と地続きではないことでさまざまなリアリティを棚上げした安全な圏内で物語を走らせるのはズルいよなぁと思ったりするのだけど、この2本はそんな下衆(げす)の勘ぐりを遠く離れたところで、いま作るべき作品としてキチンと成立していた。

僕はクリント・イーストウッドの近作を観てないので比較はできないが、『チェンジリング』には「悪には正義の鉄槌を下す!」というイーストウッドの完膚なきまでのカウボーイ魂が横溢していて(この場合、カウガールか?)、そのブレのない竹を割ったような終始一貫した態度にドキドキした。イマドキの複雑系な時代にこんなにシンプルでいいのか?と思うくらい、憎まれ役は憎まれ役としての役割を全うし制裁を受けるのだ。イーストウッドが全員の俳優の顔を選んでるワケじゃないんだろうけど、ちゃんとみんな憎らしい顔をしていて(特に、ニセ息子役の男の子は最後まで憎たらしい、史実では彼の供述が事件解決のきっかけになったらしい)、アンジェリーナ・ジョリーの味方になる人はみんな善良で思慮深い市民の顔つきをしている。

当初は「警察と戦いたいわけではなくて、息子を見つけたいだけ」と言ってたアンジェリーナ・ジョリーは、数々の受難のあとで敢然と毅然と戦う女になっていく。精神病院では院長に「Fuck」と捨て台詞を吐き(それまでは権力に従順な女を演じていたのに、この瞬間、彼女は変貌するのだ)、刑務所の面会で犯人の胸ぐらをつかんで「地獄に堕ちろ!」と叫ぶ(この場面は言うまでもなく事実ではなく脚色だろう)。

犯人の死刑執行はこれでもか!と言うくらいネチっこく丹念に描かれ、それをガン見するジョリーは阿修羅のごとく仁王立ち。パネェ、イーストウッド(笑)。そういえば、昔のイーストウッド映画には必ずソンドラ・ロックという痩せぎすの伴侶が付き添っていたが、なぜか彼女を思い出してしまった。ソンドラ・ロック、名前にも凄みが効いてる。

途中までは息子の誘拐に関する情報が観客には完全にシャットアウトされているので話がどう転んでいくのかわからない(フィンチャーであれば、最後までこの五里霧中なムードを引っ張るだろう)。ある場面でそれが猟奇的な殺人事件と接続されると、映画は真実の探求というゴールを見つけて走り始める。警察署の待合室で少年(=犯人の弟)がリズミカルに膝を叩く男の身振りに注力すると、犯人が斧を下ろすカットがインサートされる。なんという古典的なモンタージュの破壊力。ヒッチコックかと思ったよ。

ハスミン(この言い方って岡崎京子のマンガでもあったな)がアメリカ映画の正統的な継承者としてイーストウッドを擁護したがる気持ちもちょっとだけわかった気がした(ちょっとだけね)。ゆがんだ超広角で街と行き交う車がビシッとフレームに収まっていたり、モガな格好で電話局内をローラースケートするジョリーなど、1920年代を再現した映像や風俗が気持ちよかった。

カメラの外側から物語をながめてる風な傍観者的なフィンチャーに対し、イーストウッドは観客をグイグイとキャラクターに引きつけエモーションの手綱をたぐりよせ感情移入の美酒で酔わせる。映像/特殊効果出身と俳優出身という違いも大きいだろうし、世代の違いもあるだろうが、似たようなノスタルジックな素材を扱いながら、両者のヴェクトルは真逆でそこが面白いと思った。ただ、フィンチャーもイーストウッドも監督として手渡された物語をとことん妥協せず可視化し尽くすという点では似ている。だから、この2本のフィルムには不完全燃焼感がない。

不景気でショボくれたくなることが多い昨今だが、(素朴な感想になるが)お金をかけた圧倒的なエンタメで世界を支配するアメリカの底ヂカラは大したものだと思うし、ハーシー・チョコレートを進駐軍にねだった頃から日本人はどれだけ跳躍できたのだろうか、といぶかしむのだった(なんじゃそりゃ)。こうした一方的な文化的享受の豊かさやゼイタクさ、翻って、それを享受するだけの貧しさや空しさってなんなんだろうね。平たく言うと、やっぱりクヤシイなと。

アップル - Trailers - チェンジリング
 

2009/04/02

ベンジャミン・バトン 数奇な人生

やっと『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』を観れました。以下、感想。


この映画はデヴィッド・フィンチャー監督が前作『ゾディアック』で発見した語り口、いたずらにエモーションを喚起させない平坦なドキュメンタリータッチで数十年にまたがる大きなタイムスケールの物語を描くという手法をメロドラマに活用した作品、と言えるのではないかと。

フィンチャー監督は、平凡な人間の平凡なありようを描くことに意識的な人だと思う。『ファイト・クラブ』は凡人が非凡な超人というオルター・エゴを構築する話だったし、『ゾディアック』は世間を震撼させたシリアル・キラーの実像が平凡な男だったことを粛々と突き止めていく話だった。大抵の映画では、平凡さは感情移入や共感のトリガーとしてあるのだろうけど、フィンチャーの扱う平凡さはそうではない。フィンチャーには「ありふれた」感を「ありふれてない」手法でツイストして撮る才能がある。

人生を逆回ししていく「逆しまの世界」を生きるベンジャミン。年齢と共に若返っていくという設定こそトリッキーだが、ベンジャミンが経験する人生はありふれた出会いと別れの連続で、気の利いた警句やアフォリズムをそこから取り出すことは簡単にできそうだ。

ベンジャミンが誕生してタグボートの船員となり旅先でエリザベスと出会い第二次世界大戦が終わって帰国するまでの前半は、軽妙で楽しい。何度か挿入される稲妻に打たれる老人のエピソードはクリスピーで笑えるし、海上の潜水艦との銃撃戦は、終始静かなこの映画で最もスペクタクルなシーンでその視覚効果と臨場感には度肝を抜かれる。

後半はベンジャミンとデイジーの恋愛が中心で、どちらかというとデイジーにウエイトが置かれている印象(全編の語り部がデイジーだから、これはデイジーから見たベンジャミンの物語でもある)。美貌と才能があるがゆえに傲慢さも持ち合わせ、勝ち組人生を送っていたが交通事故をきっかけに自己を回復していくデイジーをベンジャミンが見守るという構図で、そこに60〜70年代の風俗が絡む。20世紀の血気盛んな壮年期時代と、ふたりの壮年期を重ねているのがうまいなぁと思う(『太陽がいっぱい』まんまなヨットのシーンとか出てくるし)。

ベンジャミンとデイジーが浜辺で陽が昇るのを眺め、「これからは(老いていく)自分を可哀想とは決して思わないわ」とデイジーが言うシーンでは、ベンジャミンと死を予感した父親のシーンが反復される。朝焼けがターナーの風景画のように美しい。また、年老いたデイジーがホテルで見せる身体のラインの崩れは、老いた身体を恥じらい隠そうとする彼女の仕草も相まってなんとも切ない(若い頃のスレンダーな体型を観客がすでに知ってるだけに)。

ブラッド・ピットもケイト・ブランシェットもイイが、個人的に贔屓(ひいき)にしているティルダ・スウィントンが素晴らしい。彼女の身のこなし、演技、表情、怒り肩でやたら面積の広い豊満な背中(笑)、身体の均整は取れているのにどこかイビツでビザールな存在感、それらに目が奪われてしまう。最近では『サムサッカー』の母親役、『コンスタンティン』の天使ガブリエル役も印象に残る(ティルダに興味があれば、ぜひ『オルランド』という逸品があるのでチェックしていただきたい)。

醜いアヒルの子として祝福されずにこの世に誕生したベンジャミンは差別や拒絶やいじめを受けそうだが、この映画ではそうした否定的な感情はほとんど描かれない。捨て子のベンジャミンを育てる黒人女性のクイニー、養老院の老人たち、タグボートの船長、幼なじみのデイジー、彼らは皆、一様にベンジャミンを受け入れ、あたたかい愛情を惜しみなく注ぐ。赤ん坊のベンジャミンを捨てた父親も、最後には彼と和解しボタン製造業で築いた財産を譲り渡す。ラストのカーテンコールで、ベンジャミンに関わった人々が矢継ぎ早のカットバックで登場し、カメラ=ベンジャミンに向かって微笑みかける。これはユーフォリアでありお伽話なのだ。

また、周囲の人間との出会いと別れを逆しまに経験していけば、本来ならPTSDになりそうだが、ベンジャミンの場合、心理的葛藤や人格障害とは無縁で、自分の運命を心穏やかに受け入れていく。はじめから老成してるというか、幼少の頃から悟りや諦めのフラットな精神状態にいるわけで、逆境で培われるメンタルな成長がないということでもある。通常の人生であれば、点と点が次第に線となり面となり、記憶がカラダに累積され脳のシワに刻まれていく。自分が年を取ることで自分以外の大人たちが辿ってきた時間を身をもって反芻していくというプロセスがあるが、ベンジャミンにはそれができない。

だから、ベンジャミンは常に傍観者でオブザーバーだ。点という現在を生きることしかできない、点という現在形でしか人々の傍らに居てあげることができないから(しかし、寄り添うこと=愛であるということを、この映画は物語っていないだろうか)。『ゾディアック』でもこの傍観者的態度は貫かれていた。フィンチャーのこういう醒めた視点が僕にはとても心地よいのだが、Rotten Tomatoesによると、『ベンジャミン・バトン』に否定的な人の多くは「映像技術はスゴいが人物に感情移入できずエモーションを映画にもたらすことに失敗している」(もしくは「ハリウッド式の安全なメロドラマにセルアウトしている」)と思っているようだ。

フィンチャー組で照明を担当していたクラウディオ・ミランダの撮影、映像と音響(環境音がスーッと後景に退いていったり)はいまの時代でしか作れないクオリティ。あとアレキサンドラ・デプラのオリジナル・スコアがよかった。ウェット過ぎずアブストラクト過ぎず、ちょうどいい案配の繊細なオーケストレーション(この人の名前は覚えておこう)。






老人のような子供のVFXで思い出したのは、クリス・カニンガムが手がけたエイフェックス・ツインの『Come To Daddy』のPV。極悪なエイフェックス顔をしたオトナコドモの暴徒集団が廃墟で老婆を襲うという悪意のカタマリのような映像は、当時あまりに斬新だった(デヴィッド・クローネンバーグ『ヴィデオドローム』のオマージュ・シーンもある)。『Come To Daddy』は1997年のリリースで、時代的には1995年の『セブン』と1999年の『ファイト・クラブ』の間に製作されており、寒色系に傾いたカラー設計を含め、ほぼ同時代の空気、反逆精神を体現していたと言えるだろう。なお、シミュラークルとしての増殖する人間のVFXと言えば、1999年の『マルコヴィッチの穴』がある。


mnemonic memo: ゾディアック
 

2009/03/29

The Secret Life Of Plants

- Cabaret Songs Ver.2 -

Cafe De Flore (Trio Reprise) - Matthew Herbert
India Song (Edit) - Kip Hanrahan
Quiet Dawn (Edit) - Archie Shepp
Brother Where Are You (Matthew Herbert Remix) - Oscar Brown Jr
Talk To Me (Edit) - Jill Scott
Quinton's On The Way (Skit) (Edit) - The Pharcyde
Poetry feat. Q-Tip, Erykah Badu & Meshell Ndegeocello - RH Factor
Distant Land (Hip Hop Drum Mix) - Madlib
Oblighetto (Brother Jack McDuff) - J Dilla
Mtume's Song - The Eddie Prince Fusion Band
Trouble Child - Joni Mitchell
Green Eyes (Edit) - Erykah Badu
Daylight - Ramp
Love In Outer Space - Sun Ra
Crepuscule With Nellie - Thelonious Monk Quartet
Outro - Madlib

ジャズドラマーの若い友人用に作ったコンピ。僕はNervyという美容室に通っているのだが(ありがたいことに今時ワンコインで坊主にしてくれる)、そこのオーナー(Lady Kさん)と先日話しをしていて、彼女がQ-Tipのライヴがアットホームな雰囲気でとてもよかった(とはいえ、懐古的というよりQ-Tip自身が上手に年を重ねてきてエンターテイナーとして成長していた)と話していて、ああやはり行っておくべきだったと思った。もう何年前になるだろう、90年代半ばにア・トライヴ・コールド・クエストとファーサイドが渋谷On AIr Eastでやったライヴ、僕もLady Kさんも同じ場所に居合わせたのだった(そのときは知り合いでもなんでもなかったのだが)。雪の日で、だからかとても鮮明に覚えている。ネイティヴ・タンが台頭して元気がよかった頃。



いとうせいこうさんのブログを読んで、スティーヴィー・ワンダーがサントラを手がけた植物を主題にした幻のドキュメンタリー映画『Journey Through The Secret Life Of Plants』がYouTubeにアップされてるのを知る。まだ全部観れてないがこれはスゴイ代物。70年代でなければ作れなかったであろうアウラに満ちている(タイム・ラプスも使われている!)。『Journey Through The Secret Life Of Plants』は僕も愛聴盤で、収録曲の「Come Back As A Flower」を妹の結婚式のBGMに使わせてもらったこともある(笑)。おそらくスティーヴィーの脂が最も乗っていた時期で、なおかつ黒人音楽のフォーマットから最も遠く離れた作品で、そのアウェイぶりは「愛の園 (AI NO SONO)」という西城秀樹もカヴァーした珍曲の存在でもわかるというもの。



アレンジは坂本龍一。メロディだけ聴いてもスティーヴィーとはにわかにわからないのでは。

2009/3/26|readymade by いとうせいこう
 

2009/03/28

ブックマーク中毒者の戯れ言

日々ノートブックに向かってる時間の結構な割合をブックマークをつけることに割いている。ブクマ猿かよ俺は、と思うが仕方がないのだ。

Netscapeというブラウザのブックマーク機能をコツコツ単独に使うしかなかった原始時代からすると(まだその時のブックマーク群はHTMLで保存してある、もう見ることもないだろうし大半はリンク切れだろう)、ソーシャルブックマークやRSSリーダーなどFlashやJavascriptやAjaxが実装されたウェブサーヴィス百花繚乱時代のいまは隔世の感がある。

閑話休題。NetscapeにしろInternet Explorerにしろ、初期のブラウザの名前にはネットサーフィン(死語)=ネットという大海原を航海するというメタファーが込められていたと思う。Netscapeのアイコンは灯台でIEのアイコンはグルグル回る地球。インターネットが物珍しかった時代はそれでよくて、ブラウザがなにをする道具かをユーザに一発でわからせる必要があった。最近のブラウザはそういう第一世代のミッションから解放されて、Firefox、Safari、Opera、Chromeとより自由なネーミングで身軽になってるなぁと思う(MacだとiCabやShiiraも一時期使用していた。いまはFirefoxがメインでSafariがサブ)。

効率よく情報をたぐり寄せるという意味ではブックマーク環境は昔よりはるかに便利になった。とはいえ、ブクマにかける時間的コストは昔から変わってないというか、むしろ増えてる? 扱う情報量が10年前にくらべ数百倍になってるのに、人間の脳は大して進化してないというジレンマ(参考)。


そんなわけで、時間は増えませんから、下記のものはほぼ完全にやめてしまいました。

* 企業などのメールマガジンの購読
* 各種ブログの定期巡回
* ニュースサイトの定期巡回
* RSSリーダーでニュースを読む
* mixiで日記を書く
* 新聞の購読とスクラップ
* Podcastで音楽番組を購読

一方で下記のものを積極的にはじめました。

* ブログを書く
* tumblrでreblog
* twitterでぼやく


keep looking – don’t settle.: 情報摂取の変化のヒミツ。と、新世代ウェブプロモーション。


ここまでザックリと割り切れないが、やめてしまった項目は「RSSリーダーでニュースを読む」以外はほぼ同意。「各種ブログの定期巡回」はしていないが、気になったブログを過去記事に遡って集中的に読むというのは、いまでもたまにやる。積極的にはじめました項目は「twitterでぼやく」以外は同じ(現状、Twitterは閲覧オンリー)。いつまでも過度的で未完成な僕の情報収集法はこんな感じ。

*RSSリーダーは、ウェブはGoogle Reader、iPhoneはGazette。
*RSSリーダーで気になった記事には☆マークをつける。
*RSSリーダーで☆マークをつけた記事、その他気になったサイトやページを、
 Dericious(公開)
 Tumblr(公開)
 Google Bookmark(非公開)
 Scrapbook(非公開)
 ・・・この4種類に振り分けて整理。
*あとで読みたい記事は、Instapaper/Read It Laterに保存。

昨年9月のエントリー時点ではNetNewsWire>Google Readerだったが、いまは逆転。NetNewsWireはウェブとMacとiPhone、それぞれのアプリの未読数が一致しないという致命的な欠陥があり、Google Readerの方が関連するアプリの選択肢も多くカスタマイズしやすいということで、出戻り。色々と試してGoogle Reader+Gazetteの組み合わせに落ち着いたのは、同期は素早いし未読数が合わないというストレスがないから。Gazetteは未読数が数百を超えると不安定になってたまに落ちるが、機能的には必要にして十分(UIはiPhone版NetNewsWireの方が好み)。

Google Readerを使いやすくするために入れてるもの。

*Firefoxのアドオン

Feedly(Google Readerを雑誌的なUIで閲覧)
Better GReader(Google Reader内で元のページをプレビューしたり色々)
Read It Later(Google ReaderにRead It Laterへの保存ボタンを埋め込む) 

*Greasemonkey

Google Reader Subscriber Count
Tumblr on Google Reader
Google Reader Full Feed
Helvetireader
ReWriteGR

ブクマ依存症をそろそろ本気でどうにかしないとヤバいと思いつつ、ときどき「うぇっぷ」と吐きそうになりながら眼精疲労とドライアイでめまいを感じながら日々ブクマを続けるわたし(なにもそこまでしなくても・・)。
 

2009/03/26

Tilt Shift Meets Time Lapse On A Sunny Day

このブログで一番ページビューが多かった記事と言えば、ダントツでティルト・シフトについて書いたエントリー。箸にも棒にも引っ掛からない小難しいことをウダウダ書くよりも(その生産性のなさに自覚はあるつもり・・)、トピックの紹介や解説に徹した方が誰かのアンテナに引っ掛かりやすいのかもしれない。平明にわかりやすく伝えることにもっと注力した方がいいのかも(たとえ、脊髄反射的に反応したトピックであってもね)。

最近、少しづつ増えてるティルト・シフト・ムーヴィがタイム・ラプスの手法をミックスしていることにいまさらながら気づいた。ティルト・シフトとタイム・ラプスの相性がいいというか、不可分というか。逆に、微速度撮影じゃないティルト・シフト・ムーヴィという反証がいまのところ見当たらない(どこかにあるんだろうか)。


Miniature City from mockmoon on Vimeo.

Time Lapseのエントリーでも紹介したmockmoonさんの新作。群馬と東京のシティスケープとアンビエント・ハウス。


the east side of Los Angeles on a sunny day (tilt-shift & time-lapse) from clark vogeler on Vimeo.

エリック・サティとロサンジェルスの気怠い陽射し・・。ロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』とマッシュアップしたいくらいのハマり具合。


Bathtub IV from Keith Loutit on Vimeo.

ティスト・シフト・ムーヴィを一躍広めた人といえば、やはりコンスタントに発表を続けるKeith Loutit。タイム・ラプス・ムーヴィは、アンビエントやミニマル・ミュージックと親和性が高いが、そうした方程式に頼らず、ティスト・シフト/タイム・ラプスのもたらす異化された日常、そこから逆照射されるオーディナリー・ライフのまばゆさを、あくまでポップな楽曲と合致させてるのがこの人の面白いところ。後半のヘリコプターの映像が白眉。



最後は番外編。アンビエントつながりということで、DJ Foodがゲリラ的に無料配信したKLFミックスを。本家はプレスリーをミックスしていたけど、こちらはビーチ・ボーイズをミックス(ヴォーカル・ヴァージョンじゃない方のラスト近くで流れる)。ユルすぎるサニーデイ・チルアウト。

DJ FoodがThe KLF「Chill Out」をリミックスしたMP3が無料配信中 : matsu & take
The KLF - The Sound of Mu(sic) (MP3) (FMusic)

3.27追記

Google Street View Time Lapse on Flickr - Photo Sharing!

グーグル・ストリート・ビューの画面をキャプチャーして編集したタイム・ラプス・ムーヴィがあったので追加。アイディアの勝利。これってグーグル・カーを運転するドライヴァーの視点を追体験しているということか・・。通常、YouTubeやVimeoのような動画共有サーヴィスにアップされる個人製作のムーヴィは、撮影者と編集者が同じである(もしくは、数人のユニットかチーム)という暗黙の前提があり、撮影者(オリジナルの著作者)と編集者が異なる場合はマッシュアップやリミックスと呼んで差し支えないと思うので、これも一種のマッシュアップと言えるが、この場合の著作権ってどうなるんだろ? この方法で無限にタイム・ラプス・ムーヴィが作れてしまうというワナ。(参考


mnemonic memo: Time Lapse
mnemonic memo: Tilt Shiftの箱庭世界
mnemonic memo: Motion Graph
 

ヴォークトとヴォイス

2回続いた「ヴ」表記問題のオマケ的エントリー(内容はぜんぜん関係ないです)。

ティム・オライリーの思考法を形作った本たち - YAMDAS現更新履歴

オライリーが影響を受けた本ということで、老子、コリン・ウィルソン、フランク・ハーバートという並びに西海岸系ギークの出自を感じつつ、ヴァン・ヴォークトの名前にハッとなる。中学生のときに読んだヴァン・ヴォークトの『非Aの世界』、とにかくハチャメチャな話で展開が読めなくてスリップストリームでスラップスティックなSFだった記憶がある。僕が「ヴ」をインプットしたのはこのあたりからかも。

オライリーの原文では、『非Aの世界』は一般意味論(General Semantics)を在野でポピュラーにした一冊と紹介されている(「a fun science-fiction book」と一言)。「非A」とは一般意味論の用語で「非アリストテレス」のこと。一般意味論はチョムスキーらに科学でもなんでもないと批判されているが、中坊の自分はそんなこととはツユ知らず、「非A(Null A)」という言葉の響きだけでご飯三杯くらいイケたのだった。

A・E・ヴァン・ヴォークトは、ウィキペディアによるとサイエントロジーに騙されたり、実人生は散々だったらしい・・。関係ないが、マクロビオティックの創始者として欧米では著名な桜沢如一がソッチ寄りの神秘主義者だったことを最近知った。マクー空間の恐怖 - 文化系ママさんダイアリーにそのトンデモぶりが余すところなく書かれている。マクロビで健康は保てない問題がニセ科学としてよく取り沙汰されるが、桜沢如一本人はマクロビをイイカゲンに実践した(=適度に守らなかった)がゆえに長生きしたとの説もある。思想的な功罪はともかくとして、何事も「過ぎたるは及ばざる・・」ということだと思う。


ヴォイスを割る (内田樹の研究室)
ひとりマス・メディア (内田樹の研究室)

「ヴォイスを割る」とはなにか? 内田先生は、町田康や小田嶋隆や佐々木倫子や幸田文を例にヴォイスについて語っているが、難解なようでとてもシンプルなことを言ってる気がする(内田先生得意の身体性と関連づけられている)。「私」の中にある複数の声に耳をそばだてろ、と。「多重人格ってデフォルトでしょ? 現実なんていつだって複数のレイヤーなんだもん。だから、現実を照応するわたしも割れてるの」という現代人の心の叫び、ていうか、Twitterの構造そのものがそうだよね。Me Myself and I。「菩薩のような一行のあとに、いきなり夜叉のような一行が出てくる」。いやはや、幸田文を読んでみたくなりました。しかし、「ヴォイスを割る」ってインパクトのあるコピーだなぁ。


mnemonic memo: ヴの表記について(その1)
mnemonic memo: ヴの表記について(その2)
mnemonic memo: あたしとアタシと彼女
 

2009/03/24

ヴの表記について(その2)

ひとつ前のエントリーの続き。

お手軽すぎて恐縮だが、Google Trendsと、その進化版、Google Insights for Searchで比較検証してみた。Google Insights for Searchの方がより詳細で、その言葉と関連づけられる検索ワードのランキングも出る。Google TrendsにあるNews Reference Volume(おそらくGoogle Newsのデータを元にしたグラフで、全体とニュースの双方を大まかに比較できる)が前者には見当たらなかった。両者のグラフを見比べるとときどき大きく食い違う部分があり、データの集計や抽出方法が異なるのではないかと思う。(以下、クリックするとGoogle Insights for Searchの検索結果が開きます)

バリエーション vs. ヴァリエーション
バケーション vs. ヴァケーション
バイオレンス vs. ヴァイオレンス
バイブレーション vs. ヴァイブレーション

このあたりは「ヴ」が弱く、(少なくともインターネット上の検索ワードに関しては)マイナーな表記であると判明。ヘヴィー、サーヴィス、ネイティヴ、ヴェクトル、ヴィークルも同様。ヴァイオレンスの関連ワードはドメスティック・ヴァイオレンスのみだった。

イベント vs. イヴェント
ライブ vs. ライヴ
ドライブ vs. ドライヴ
バラエティ vs. ヴァラエティ
バージョン vs. ヴァージョン

イヴェント、ライヴ、ドライヴ、ヴァラエティ、ヴァージョンは全体の山は低いが、News Referenceが目につく。マスコミではそれなりに使われてるということかと。ドライヴはIT関連というよりカジノドライヴという競馬関連のキーワードで底上げされてるっぽい。ライヴとイヴェントはやはり音楽関係のキーワード多し。

ビジョン vs. ヴィジョン
ビジュアル vs. ヴィジュアル
バリアス vs. ヴァリアス
ボイジャー vs. ヴォイジャー

ヴィジョンはビジョンの1割と健闘、ヴィジュアルになるとビジュアルの1/4にまで肉薄。キーワード上位に「ヴィジュアル系」「ヴィジュアルバンド」「ヴィジュアル系バンド」が並び、この界隈ではヴィジュアルというコンセンサスが取れているようだ。ヴォイジャーの関連キーワードはスタートレックで独占(笑)。

ボーカル vs. ヴォーカル
ボイス vs. ヴォイス
バイオリン vs. ヴァイオリン

ヴォーカル、ヴォイス、ヴァイオリンと、音楽関連用語は強く支持されている。ヴォイスは今年に入って異常な伸び。初音ミクやPerfumeの影響?と思ったら、どうやらドラマの影響みたい(僕はTVを見ない人なのでよく知らないが)。

バージン vs. ヴァージン
ビーナス vs. ヴィーナス
イブ vs. イヴ

今回調べた中では、ヴァージンとヴィーナスがそれぞれバージンとビーナスに数値で勝っている=それだけ広く認知されているという結果に。イヴもイブの8割で、毎年クリスマスシーズンのみ突出というわかりやすい規則性が(笑)。固有名詞ではイヴ・サン・ローラン、パラサイト・イヴ、イヴの時間が目立つ。ヴァージンは旧ヴァージンシネマズ六本木ヒルズを含むヴァージン・グループの検索ワードがほとんど。


無作為に思いついた言葉で試した結果は以上。下らないっちゃ下らないが、面白かった。これだけではなにも確信的なことは言えないし、グーグルが日本語のデータをどう解析してるのかよくわからないけれど、ある程度の目安や傾向は察知できるのではと思う。

僕自身、「ヴ」の表記の仕方はけっこう適当だし、「Viral」は「ヴァイラル」より「バイラル」の方がよく使われるから後者にしたり、なんとなく見た目の座りや収まりのよさ(+目にする頻度や刷り込み)で決めている部分も大きい。90年代的な感覚でいうところの「ヴァイナル」や「ヴァイブ」を、じゃあいま日常会話で使うかっていうとまず使わないワケで。世間的には「Vagabond」は「バガボンド」で敷衍してるから、「ヴァガボンド」だと「なにそれ?」みたいな。そういうユレやズレも含めて、言葉と付き合っていけたら面白いと思う。


mnemonic memo: ヴの表記について(その1)
mnemonic memo: 「ー(音引き)」のナゾ
 

ヴの表記について(その1)

プロの校正の方が見れば、このブログのテキストもグダグダなのは自覚しているつもりだが、文章を書くときは、最近はなるべく「ひらく」ように留意している(校正の用語で、「ひらく」=ひらがなにする、 「とじる」=漢字にすること)。

「等」は「など」、「事」は「こと」、「物」は「もの」、「時」は「とき」、「今」は「いま」、「所」は「ところ」、「全く」は「まったく」、「全て」は「すべて」、「皆」は「みんな」、「後」は「あと」、「幾つ」は「いくつ」、「一つ」は「ひとつ」、「一人」は「ひとり」、「何か」は「なにか」(*)、「何故」は「なぜ」、「比べて」は「くらべて」、「確かに」は「たしかに」、「既に」は「すでに」、「分かる」は「わかる」(*)、「出来る」は「できる」(*)

よく使う「ひらく」言葉を列挙すると、こんな感じ。*印はたまにどちらか迷うもの。最初から「ひらく」と決めていたわけではなく、だんだん「ひらく」ようになってきた。その方が読みやすく、視覚的にも軽く見えるから(自分の文章のカタさを多少なりとも和らげたいという悪あがきでもある)。このブログも、たぶん過去のエントリーに遡るほど「とじて」ってるハズ。「ひらく」方が単純に気持ちよくなってきた、というのが正解かも。どっちが正解というのはないと思う。

英語がアルファベット26文字ですべてのワードを表現(!)するのにくらべ、日本語は同音表記で平仮名、片仮名、漢字の3種類(+外来語)が入り交じるケオティックな情報空間に、数字は漢字か?アラビア数字か?さらに半角か?全角か?という選択肢が加わり、わずかな文章を書くだけでも実はかなりのストレスとカロリーを消費している気がする(笑)。数字はたいてい半角数字にしてしまうが、その方が変換の手間がかかるのがまたストレスフルだ(9や15のような全角数字がいまだに許せない人なので)。

あと、二重括弧=『』はアルバムのタイトル、一重括弧=「」は曲のタイトル、映画や本のタイトルは『』にすることが多いがこれも人によってマチマチだろう。場合により、「コト」や「ワケ」や「カタチ」など、あえて片仮名表記でポップにするという、わざわざ説明すると野暮だよなーということもよくやる。迷うということはルールが自分の中でキッチリ定まってないということでもあるが、たぶん、誰もがナットクする正解はないと思う、だからややこしい。

上記に加え、自分だけかもしれないが妙に気にするのが、「V」を含む英語の片仮名表記を「ヴ」にするかどうか。もともと外来語なんて、ネイティヴな人からすればほとんど正確さを欠いた現地に最適化された摩訶不思議なホニャララ語だろうから、こだわるなんてそもそもムダなのか。そういえば、ピーター バラカンが『猿はマンキお金はマニ―日本人のための英語発音ルール』という近著でそのへんの矛盾をつついている。こちらの特設サイトで、バラカン氏本人による発音チェックが聞ける(イギリス英語なのでアメリカ英語とは違う、念のため)。

この重箱の隅をつつくような「ヴ」問題がずっと気になっていて、「ヴ」を使うのは結局、英語に憧れてるだけのカッコつけに過ぎないんじゃ?というミもフタもない感想も出てくる。長くなったので、次のエントリーにて。


mnemonic memo: 「ー(音引き)」のナゾ
  

イヴが生まれるとき

万来堂日記2ndさんがこちらで取り上げていたアニメ『イヴの時間』を観た。まだ途中なのでなんとも言えないが、ディックかどうかはともかく(劇中で何度も引用されるのはアシモフのロボット三原則)、たぶん十数年後にアンドロイドが普及する時代が到来した時、間違いなく起きるであろうアンドロイドに人格や人間性はあるのかイシュー、またアンドロイドと人間がどのような関係を築いていけるのかイシューを重くなりすぎずにコミカルな青春モノとして描いている。そうなった時のケーススタディを無理のない近未来という現実に即した形で探ってる感じ(まぁ、僕の苦手な萌え要素も当然入ってくるんだけど。ほんの匂わせる程度だが、セクサロイドの存在にも言及)。

苦手ついでに書くと、産総研:プレス・リリース 人間に近い外観と動作性能を備えたロボットの開発に成功というニュース、あくまで個人的な感想に過ぎないが、極めて日本的オタク文脈におけるヒューマノイドの受容で(ありていに言えば有名造形師にキャラクターデザインを頼んだ、みたいな)、この造形感覚が近未来にありふれてる図を想像すると・・。ジャパンメイドの人型ロボットって昔からアトムやマクロスなどアニメやマンガへのオマージュをナイーブにヰタ・セクスアリス的に捧げたような造形が多いから(これは偏見かもしれないが、宮沢賢治あたりまで遡る母性愛と幼形成熟=ネオテニーとサブカルチャーの日本独特なミックスにもつながっている)、この展開は国民性というか頷けるものがあるけど。

『イヴの時間』は『電脳コイル』ほど設定に凝りすぎる印象もなく、カメラワークと心理描写の丁々発止が非常に巧みだと思った。吉浦康裕監督は過去作品の『水のコトバ』がなかなか斬新で、押井守『天使のたまご』の影響下にありながら、押井ほど難解・晦渋にならずに(世代の違いも大きいと思う)、ダイアローグと映像が小気味よく突っ走っていく作品だった。

white-screen.jp:Yahoo!動画で人気を呼んだ、吉浦康裕監督作品オールナイト上映「イヴの時間 act03」3月28日だそうです。
 

2009/03/23

グーグル+アマゾン共和制?

少し前に話題になったKindleしかり(*)、インターネット上に架空のアレキサンドリア=世界図書館を作っちゃおうぜ!計画にも受け取れるグーグルのブック検索しかり、出版界を揺るがすグーグルとアマゾンの動きを見ていると、アマゾンは「モノ」=物流&ハードウェアの販売、グーグルは「コト」=情報やデータベースの構築とそれぞれ立脚点や着地点は違えど、人々が行き交う最も情報量/交通量の大きいトラフィックやパイプラインを占有し(占有という言い方がよくないのはわかっているが、傍目からは最早そうとしか見えない)、そこに流れこむ「モノゴト」=平たく言えば、コンテンツ一般を一網打尽にしようという戦略においてほぼ同じじゃないかと、ふと思ったり。

不思議なことに、両者がやろうとしていることは、それほど独創的で革新的でカッティングエッジというワケではなく、むしろ、子供にもわかるような平易で直球勝負なアイディアを、あきれるほどの物量作戦とテクノロジーで無邪気に一点突破しようとしているところに特長がある(実体としての無数のサーバや物流倉庫がその子供じみたミッションを後ろで支えている・・)。グーグルとアマゾン(もしくはアップルその他のグローバル企業)の提言は人類の恒久の普遍の意思(ってナンナンダ?)によって決定されているかのようだ。

それら正論に反対する術を、いまのところ僕らは持ち合わせていない。エコロジーという正論を(正しく)論破するのがむずかしいように。「かつての富裕支配層が世界中の文物を収集し、出版や言論という叡智をコントロールし牛耳っていたのと一体全体どう違うんだい? 国家という枠組みが相対的に弱くなり、企業がそのポジションに置き替わっただけじゃないの?」という素朴な疑問は、「でも、こうすれば、あなたもわたしもみんなハッピーになれるでしょ?」という声の後ろでしぼんでしまう。誰もが等しく分かち合える、シェアできる公共の利益という免罪符的スローガンは強い、というか無敵だ。そんなお題目はいつだって理想でしかなく、現実と果てしなくズレていくのだが。

世界がこうして平準化し再編されていくという大きな流れに抗うことは誰にもできない。グーグル/アマゾンがやろうとしている一種のユニバーサルな公共事業(?)というかエコ・システムについて書いているうちに、なにを書きたいのかよくわからなくなってしまったのでここまで。お粗末。

*=個人的には電子ブックリーダーは印刷物としての本の代用となるにはまだまだ未完成のガジェットだと思う。iPhoneで「豊平文庫」という青空文庫リーダーを試したり、「クーリエ・ジャポン」を読んだりしているが(「クーリエ・ジャポン」には、ボイジャーの「T-Time」というビューア・ソフトが使われている。90年代半ばのマルチメディア全盛時代を知る人なら、ボイジャーという会社が時代をまたいで生き残っていることに感慨を覚えるだろう)、フリックやタップでページをめくるという行為と、印刷物のページをめくるという行為は、脳に与える効果が違う気がなんとなくしている(単に慣れの問題かも)。

ハーモニー

SF作家の伊藤計劃さんが亡くなられたそうだ。闘病生活を送っているというのは知っていたが、近いうちに読もう、と思っていたひとりだった。伊藤さんがブログで書かれていた映画批評には感じるところが多かった(共感、とはまた違う)。特に、昨年8月の「誰も信じるな - 伊藤計劃:第弐位相」というエントリーには自堕落な自分の頭をガツンと殴られたような気がした。「要注意ワードは「深い/浅い」です。あと「薄い」。これは、責任とか自分とか言ったものからものすごく遠い単語です」という言葉は、一見、よくある「感想文や印象批評はダメ」論に見えるけれど、「わかったような気になってるな!」というケンカ腰の崖っぷちに立った本気の構えから出てきたもので、このエントリーの下にある「余談」の文章はさらに鬼気迫るものがある。彼の強い語気にあてられて、「これとこのワードを使わないようにすればいいんだ」と教条主義的に読んでしまってはダメで、(たとえブログであっても)このくらいの覚悟を持って言葉を紡ぐ必要があるということだ。合掌。

「映画とか、絵画とか。でも、持久力という点では本がいちばん頑丈よ」
「持久力、って何の」
「孤独の持久力」
(『ハーモニー』/伊藤計劃)
 

2009/03/15

Made Me Chuckle



iPhoneの音楽アプリといえば、ギターやピアノなど楽器のシミュレーション系、宅録(って死語?)/DTM系、MidomiやShazamといった楽曲の解析系、あとはネットラジオ、大体このへんのカテゴリーに収まるのかな。表現としてはどうしても草食系男子なアプローチが多くなっちゃう。そんな中、ガールズパンクなiPhone四重奏はフレッシュ。



クボタタケシも観たというニューヨークのライヴ(1981年)。初めて観たけどエモですな。コンサート途中で音が止まったらしいし。この青春一直線なひたむきさ、生真面目さがいまとなっては微笑ましい(良い意味で)。



現代音楽ちっくなピアノを奏でる猫。



トッド・テリーでコスる猫。


Bicycle Built for Two Thousand from Aaron on Vimeo.

2000人のヒューマン・ヴォイスで歌う「Bicycle Built for Two」。上はメイキング・ヴィデオ。オリジナルは同サイトの「Listen To Computer」をクリックすると聴ける。「Bicycle Built for Two」の歌詞を一面に掲載した『2001年宇宙の旅』のポスターはこちら。Amazonによる求人情報サーヴィス、Mechanical Turkを使って人というか声を集めたらしい(関係ないが、このネーミングはグッジョブ)。ネット上でリミックスとか音源のやりとりとかライヴ・セッションとかはよくあるが、こういうアイディアはいいかも。作者のひとり、Aaron Koblinは、カメラで撮影されてないPVで昨年話題になったRadioheadの「House Of Cards」を手がけている。なるほど、つながりました。

Misc

やっぱり息切れしますね、ブログ・・。テキスト系のフリをしながら、映像関連を3本エントリーしたりと、どうにも的の定まらないブログですいません(しかしネタが続きませんでした)。今回もまとまらないままエントリーします(ってのがブログらしいのか)。


世の中を大雑把に10年単位で語るというイシュー。

ついつい80年代、90年代、ゼロ年代・・・とか安直に書いてしまいがち(自分もほんとそう)。前から薄々思っているが、10年単位でカッチリ物事が変わるわけではない(当たり前)。10進法の思考法が慣習というかテンプレートになってるだけ。「1995年以降」とか「2001年以降」うんぬんというのも同様か。エビデンスがちゃんと掘り起こされていれば問題ないかというと? 歴史を大きく変えた事件や事象、時代のピークタイム、いわゆる特異点な物事を結びつける時の所作、手つきについて(連続している時間を一定間隔で切って語るというのではない、歴史や時代の語り方について)、もっと勉強してみようと思った。


古い建造物をどう保存・再生するかイシュー。

例の下北沢問題にも通じるが、20世紀の名建築と言われる建造物が老朽化や諸々の事情によって壊されることに対するもやもやとした思い。基本的には時代の流れに合わないものは切り捨てていくしかないというドラスティックな意見に賛成するし、センチメンタルな懐古主義だけでは(それが動機づけにはなったとしても)現実的には難しいとは思う。しかし、そこを「設計主義」だけで押し切るのもなんだか違和感が残る(今頃、『東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム』を読んだので、このへんは改めて・・)。

どうやら、グランドデザインというか都市の景観についてヴィジョンを語ることが、いまの時代は難しいみたい。とはいえ、海外のデザイン系ブログでよく見かけるイマドキのコンピュータライズドされた「自由」な建築には、イマイチ心を動かされない。リジッド=固いモダニズムから遠く離れてより自由奔放な造形を獲得していってるのはよ〜くわかるが、グローバリズムのベルトコンベア式大量生産工場というか、そこになにがしかの「必然性」を感じないというか。「必然性」というのも曖昧な言い方だし、それが「作家性」とニアイコールだとすると、20世紀の亡霊に取り憑かれた観念に過ぎないのかもしれないなぁとも思う。


足を運んだイベント。

2月の話になるが、以前からブログを拝読させてもらってるプロダクト・デザイナーの秋田道夫さんの『空気のてざわり』展のトークイベントに行く。インタビュアーはライターのFORM_Story of designさん(こちらのブログも購読してます)。秋田さんは予想していた通りのヤンチャで親しみやすいオジサンというキャラクターで、やっとリアルに像を結べた感じ(残念ながら、お話はできませんでした)。

評判のよかった『ライト・[イン]サイト—拡張する光、変容する知覚』展の最終日に駆け込む。パイクとボイスで最初と最後を締めるのは教養主義的でどうかなぁと思ったりしたけど(エラそうですいません)、アンソニー・マッコールがとにかく素晴らしくて、あれだけで500円の価値はあった。あとは、初めて触ったテノリオンが面白かった。かなり前にラフォーレの展覧会に行った以来の岩井俊雄さんとの遭遇。僕はもっと単純なシーケンサー的なものを予想していたのだが、グラフィカルなインターフェイスと音との連関は想像以上に繊細でプレイフルだった。会場で流れていたヴィデオのひとつが一番楽器として使いこなしてる演奏だと思った(おそらく岩井さんご本人?)。


iPhone四方山話。

何はともあれ、TumblrやTwitterなど、ログを見る/ポストするウェブサーヴィスがiPhoneに最適化されているのを実感。ロギングするためにアジャストされたジャストなデバイスという位置づけ。なんつて。TwitterはiPhoneがなければやってなかったと思う(なぜか母艦のMacではやる気がしない。いまだクライアントでコレというのを見つけられないというのもあるが)。Palm Preがリリースされたらアーリーアダプターな人はそっちに流れそうだし、iPhone OS 3.0はどの程度、巻き返せるだろうか。コピペ実装で大喜び、な図だとしたらちょっと・・。


アメコミと映画。

映画はまったく観れてない。『ベンジャミン・バトン』と『チェンジリング』は公開中に行けるかな。『ヘルボーイ2』も見逃して唖然。一作目は先日DVDで鑑賞、『パンズ・ラビリンス』を期待するとズッコけるが、キャラクター映画だと割り切れば楽しめる出来映え。ギレルモ・デル・トロ監督のフリークスへの愛は本物だなと思った。次作はピーター・ジャクソンとの共同脚本で『ホビットの冒険』。嗜好もルックスもソックリなオタク二大巨頭によるハリウッドマネーをつぎこんだ怪獣戦争って感じになるんでしょうか(勝手な予想)。ギレルモが映画化を切望しているというラヴクラフト作品、是非、低予算でも実現してほしい。『ヘルボーイ』つながりで言うと、『ウォッチメン』原作はいまとてつもなく読みたいアメコミ。

2009/03/05

Motion Graph

映像関係のエントリーが連続してしまうが(昨日アップしたTime Lapseは昨年秋に書きかけて放置していた)、タイポグラフィ、ピクトグラム、シンボル、グラフを主題にしたモーション・グラフィックが溜まってきたのでポスト。いくつかの作品に特徴的なモーションブラー="ブレ"の効果は、After Effectsによるもの。アニメーションによる世界認識、世界図解が、ネクストレベルに入ったことを改めて実感・・・なんてカタい物言いはともかく、動くグラフィズムはとにかく楽しくてワクワクするということに尽きる。

モーション・タイポグラフィについては、white-screen.jp:モーション・タイポグラフィの歴史を振り返るで、アレックス・ゴファーの「The Child」やファンクストラングの「Grammy Winners」(どちらも懐かしい!)などの古典が紹介されている。


The Big Lebowski Typography from Koos Dekker on Vimeo.

映画『ビッグ・リボウスキ』の台詞をモーション・タイポグラフィ化。ムードと色味と質感の統一が美しい。ドラマの1シーンをフィーチャーした同様の手法による動画がいくつかVimeoにアップされていて、どれも完成度が高い。作者はロッテルダム在住の学生。



映画『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ(Lock Stock and Two Smoking Barrels)』の台詞から派生したモーション・タイポグラフィ。


Flickermood 2.0 from Sebastian Lange on Vimeo.

今回紹介した中で一番最近話題になったもの。19世紀のイギリスの詩人、パーシー・ビッシュ・シェリーの詩がテキストとして使われている。音楽は初期スクエアプッシャーを彷彿とさせるが、10年前のパソコン環境では、(音楽に比べて)ここまで精緻な動きやニュアンスを映像でコントロールできなかったよなぁと思うと感慨深い。


Know Your Human Rights!

世界人権宣言の60周年記念キャンペーン用に作られたモーション・タイポグラフィ。オリジナルのテキストはエレノア・ルーズベルトによるもの(ルーズベルト大統領夫人がアクティビストだったのをいまさらながら知った)。作者のSeth Brauはニューヨーク在住のグラフィック/アニメーション・アーティストで、自身のポートフォリオ的な映像はこちらCool Huntingの紹介記事に彼のコメントもあり。




「Why We Drink?」という問いから、意識の流れをフローチャート/グラフ化したモーション・グラフィック。ドイツ語なまりの英語のナレーションが心地よく耳に残る。いつもチェックしているswissmissで目に留まり、Tumblrにポストしたのが昨年9月。モーション・グラフ(あえてグラフィックではなくグラフと呼んでみたい)をなんとなく意識しだしたのはこの辺から。


The Crisis of Credit Visualized from Jonathan Jarvis on Vimeo.

昨年の金融恐慌を解説したモーション・グラフィック。サブプライム・ローンやレバレッジの仕組みもわかりやすく視覚化されている。作者のJonathan Jarvisはメディア・デザイナーで、Oraclesというタッチ・インターフェイスの開発者でもある。



インターネットの歴史をモーション・グラフィック化。この並びだと一番シンプルでオーソドックスな出来だが、そこが個人的にグッときたりもする。インターネットの歴史を8分のアニメーションで見る(動画) : Gizmodo Japan(ギズモード・ジャパン)に、ナレーションの翻訳が掲載されている。



ラストはロイクソップ(Royksopp)の「Remind Me」。いま見ても非常によく出来たモーション・グラフィック。一昔前のリアル過ぎないアイコンのデザインもイイ。

Time Lapse

今年1月、このブログの訪問者数が瞬間的に急増したことがあった。その時期、ティルト・シフト(Tilt Shift)のキーワードで訪れる人が多かったので、誰かがリンクでも張ってくれたのだろうか? 

そのティルト・シフト(Tilt Shift)の続編的なエントリーで、今回はタイム・ラプス(Time Lapse)。タイム・ラプスは、低速度撮影、微速度撮影、インターバル撮影などと呼ばれる。低速度で撮影してノーマルの速度で再生すると早送りになる。Wikipediaによれば、『月世界旅行』で知られる映画監督ジョルジュ・メリエス(Georges Méliès)が1897年に使ったのが最初らしいから、かなり古い。『ゾディアック』のエントリーでも触れたが、いまではいろんな所で目にするスタンダードな手法である。



Amazon.co.jp: コヤニスカッツィ: ゴッドフリー・レジオ

タイム・ラプスをメジャー映画で大々的にフィーチャーしたのが『コヤニスカッツィ』(1983年)。フィリップ・グラスのミニマル・ミュージックとタイム・ラプスのマッチングが最高に気持ちいい。露骨なまでに文明批判的なメッセージを打ち出した極めて真面目な意図で作られた壮大なミュージック・ヴィデオというかヴィデオ・ドラッグというか。初めて知ったがコッポラが製作に関わってたのか。上のトレイラーの中程に出てくるニューヨークの街、80年代の風俗がタイムカプセルを眺めてるようで新鮮。こちらでも触れたNakedWildChildというイベントでカッツィ三部作を映像で流したことも。



Timelapse Large

これはロサンゼルスの夜景のタイム・ラプス。ここここにも映像あり。上のキャプチャー画像、飛行場を映した光の玉が滑空するショットが、ロサンゼルスつながりで『ブレードランナー』を思い出させる。そんな近未来のイメージの一方で(「ブレードランナー」は2019年という設定だからたったあと10年後)、ジェームズ・エルロイじゃないがロサンゼルス=ハリウッド=虚飾と暴力と欲望の街というイメージは強い。そういう吸引力がある都市のイメージをこちらが勝手に補完して見てるから、魅力的に映るのかも。



Nature Time Lapse 2 from mockmoon on Vimeo.
continuous shatter: 微速度撮影動画まとめ第二弾

一眼レフとAfter Effectsで個人でここまで出来てしまうという好例。同じ作者がHASYMOの曲を使った動画はこちら



YouTube - Discovery Channel Planet Earth Time Lapse ft. The Album Leaf

ディスカバリー・チャンネルのドキュメンタリー番組『Planet Earth』のタイム・ラプス+アルバム・リーフ(Album Leaf)の「The Outer Banks」。



Science Machine(ショート・ヴァージョン) from Chad Pugh on Vimeo.
Science Machine on Vimeo(ロング・ヴァージョン)

Illustratorを使ったイラストが完成するまでのタイム・ラプス+ポーティスヘッド(Portishead)。作品の制作プロセスを追った微速度撮影は探せばいっぱいありそう。



- TOT OU TARD -
white-screen.jp:ミシェル・ゴンドリー最新MV「Soleil du Soir」のタイム・ラプスがスゴい

ミシェル・ゴンドリーによるクリップ。風景ではなく、ひとりの男の平凡な一日をタイム・ラプスで再現するというアイディアがユニーク。一度撮影した素材をただ時系列に沿ってそのまま並べるのではなく、同じ構図を朝昼晩のそれぞれの時間帯で撮った素材をシャッフルして、男の動きがつながるように編集している。

Songsmith

30ドルの自動伴奏ソフト、Songsmithがマイクロソフトのネガキャンかと言われるほどのひどい出来映えで話題を呼んでいる。YouTubeにはSongsmithによる有名曲のリミックスやマッシュアップが大量にアップされていて、ヴォーカルと伴奏のHorribleなギャップに笑うべきかどうか、こちらのキャパを試される。

それらを聴いて思ったのは、マイクロソフトはスーパーやコンビニといった業種にマーケットを絞ってこの製品を販売すべきじゃないかということ。これは、究極のスーパーマーケット・ミュージック=ミューザックの自動生成マシンなのだ。人件費やスタジオ代をかけずに、原曲を読み込ませればお手軽にチープで気の抜けたアレンジを吐き出してくれる。現状の完成度だと逆に人の耳をそばだたせてしまうので、退屈なスーパーのBGMとしては失格かもしれないが・・。



2007年にYouTubeを使ったバイラル・ヴィデオとして成功した「Chocolate Rain」。原曲からブルースのコード進行とのマッチングの良さは予想できるので、あまり意外性はないかも。オリジナル



この「Beat It」はファンク・ヴァージョンとしてかなりイイ線いってると思う。サビにおけるマイケルのヴォーカルとベースとエレピの絡みは予定調和的な和声の解決を断固拒否していてクール(このじらされ方がファンクだと言えなくもない)。オリジナル


 
同系統ではドゥービー・ブラザーズの「Long Train Runnin'」も違和感がない。やはりサビのコーラスで盛り上げるべきところで気の利いたコードチェンジがいつまでたっても訪れず、イヤな汗を背中にかきそうになる。それにしても、この曲ってこんなにブルーアイドソウルだったのか。オリジナル



マーヴィン・ゲイの「What's Going On」の流麗でマーベラスなコード進行をまったく解析できないSongsmithの完敗。和声の完膚無き破壊、黒人音楽への冒涜・・真面目な音楽ファンは発狂しそうになるかも。同様の作例としては、Take On Meがある。オリジナル



Songsmithはあまり複雑な和声進行の曲には向かないようだ。TLCの「No Scrubs」はまんまスティーリー・ダンなキーボード・リフがスムーズにヴォーカルに寄り添い、一本調子ながらうまくハマっている。オリジナル

かといって、単調であればいいわけでもない。同じR&Bでも、ビヨンセの「Single Ladies」は豪快に空振りしている。オリジナル 最近のR&Bやダンスホールに見られる、ほとんど調性感のないスカスカなダンス・トラックはSongsmithにとって未知の領域だ。



ビーチ・ボーイズのとろけそうなメロウ・ヴァイブの白昼夢が、牧歌的かつ神経症的な80'sテクノポップに。この解釈は斬新。ここでもサビのコーラスがしっかりシカトされてるのはご愛嬌。オリジナル



テクノに化けた系列の傑作はやはりこれかな(繰り返し聴ける、という意味で)。テンポを倍でカウントしている。単調なバックトラックが、ビートルズから連綿と続くイギリスお家芸のソングライティングの上手さを際立たせつつ、ドラマティックな強度をキープ。オリジナル



ホンキートンク・ピアノのアレンジで磨きをかけられたエミネムは、ウィットに富んだチンピラのチカーノやズートスーツに身を包んだキャブ・キャロウェイの再来のよう。ペーソスとは物悲しいおかしみであることを余すことなく伝える曲。オリジナル


優れたメロディはそれだけ取り出しても(トラックを差し替えても)、ちゃんと成立してしまうという当たり前のことをSongsmithは逆説的に教えてくれるのかもしれない・・。

2009/02/27

Bloggerの心得

このブログはGoogleのブログサーヴィス、Bloggerを使っている。至ってシンプルな使い勝手、データの遅延やアクセスできないといった不備も今まで経験したことなく、その安定性も気に入っている。Googleだから検索されやすいのでは?という淡い期待も密かにあった。たしかにエントリーしてから検索結果に出るまでは速い気はする(他と比較したわけではない)。が、当然ながら、それがアクセス数に跳ね返るわけではない・・・。

で、ここからは個人的な話。このブログを始めた当初はまだGmailを本格的に使っておらず、別のメルアドで登録したのだが、いまはGoogleの各種サーヴィスやその他のウェブサーヴィス(Delicious、Evernote、Tumblr、Dropboxなど)、YahooやOCNのメールもすべて一括してGmailで管理しているので(すっかりGoogleの思うツボ)、ブログを書くたびにGoogleアカウントを切り替えるのが結構面倒になっていた。そこで窮余の策。

GoogleアカウントAで登録したブログのデータをバックアップ(エクスポート)>ブログを削除>現在メインで使用しているGoogleアカウントB(Gmailのアカウント)で同名のブログを再登録>データをインポート

こういう手順で、ブログのアドレスと内容はそのままでアカウントのみ変更という風にしたかったのだが、意外と手こずった。途中でBloggerのヘルプを発見し、ブログを削除する必要がなかったことに気づいたが時すでに遅し。やっちまいました。Blogger初心者の備忘録として、誰に役立つかもわからない事の顛末をアップすることにする。

まず、同じBlogger同士のデータのやりとりは拍子抜けするほど簡単(同じアドレスを使わないのであれば)。

「ダッシュボード>設定>ブログをエクスポート」で、画像以外のブログの全データをxmlファイルとしてハードディスクに保存する(画像はPicasa Web Albumで管理しているので)。あとは、移行したいBloggerの「ダッシュボード>設定>ブログをインポート」でOK。下書きもちゃんと保存される。自分のxmlファイルの容量はちょうど1MBだった。

ブログの削除は、「ダッシュボード>設定>ブログを削除」で行える。ところが、ブログを削除しただけでは、別のGoogleアカウントで同じアドレスを取得できなかった。おそらく、親元のGoogleアカウントとそこにぶら下がるBloggerが1セットになっていて、親元を削除しないとダメなのだろうと思うが、検証する前に、下のヘルプに従ってアカウントをAからBに譲与して解決してしまったので、真相はわからず。

アカウント間で Blog を移動するにはどうすればよいですか。 - Blogger Help

予想外の事故、ドツボにハマったのはテンプレート(=Bloggerのテーマ)だった。

「ダッシュボード>レイアウト>HTMLの編集>テンプレートをすべてダウンロード」で保存したxmlファイルを再びアップロードすると、何度やってもエラーになる(直前まで使えていたはずなのだが・・)。結局、気に入っていた前のテンプレート(Integral | Blogger Templates)の復旧をあきらめ、あまり気に入ってない新しいテンプレート(Unqua | Blogger Templates)を導入、編集して、やっと終了。全体的に暗めになりました・・。プログラマーではないので、テンプレートの編集はエディタではなくIllustratorのように直感的にイメージを触るようにやりたいのだけれど。(追記:Firefoxのアドオン、Web Developerを復活させたりして作業続行。少しマシになって文字は以前より読みやすくなったかも?)

オマケ。Picasa Web Album上に保存してある全画像のバックアップは、Picasa Web Albums Uploaderでこちらも簡単に行えた。インテルMacな人なら、Picasa for Macという選択肢もある。自分のPicasa Web AlbumはGoogleアカウントAにぶら下がっているので、これをGoogleアカウントBに移行するには、画像のリンクを全部手で直さないといけないのだろうか(ため息)。

2009/02/25

自分の仕事をつくる

以前、渋谷FMでSOUND BUMの特番を作ったことがあります。そのSOUND BUMの主催者であり、『自分の仕事をつくる』という本の著者でもある西村佳哲さんから、ひさしぶりに近況メールをいただきました。『自分の仕事をつくる』の文庫版がちくま文庫から出版されたとのことです。

そのメールの中の言葉に感銘を受ける部分があったので、勝手ながら引用させてください(少し長いです)。昨日のエントリーで書いた村上春樹のスピーチに通じる話でもあると思います。

以下、引用文。


先日、ソダーバーグの「チェ」二部作を見ました。
とくに後編の「39歳・別れの手紙」ですか。あれは感じ入るものがあった。
闘わざるを得ない負け戦、の話。

中学生の時に萩尾望都の、というか光瀬龍の
「100億の昼・千億の夜」を読んで以来、
自分たちを上回るスケールを持つ力や意図を前にして、
どう在ればいいのか、ずっと考えています。

そのことが「自分の仕事をつくる」という本のことと重なっていて、
いったい「自分の仕事」ということが、
この世の中でどれぐらい可能なんだろう…ということを、考えてしまう自分がいる。


ゲド戦記の作者ル・グィンは、近年「西のはての年代記」という三部作を書いていた。
完結編のタイトルは「パワー(powers)」でした。
グィンはある登場人物を通じて、こんなことを語っている。

「きみをつかみ、操り、おさえつける主人の手。
 どんな力をきみが持っていても、
 それはきみを通して働く彼らの力にほかならない」

ゴアが「不都合な真実」をひっさげて再登場した時、嫌なものを感じた。
なぜみんな信じるのだろう。(みんなではないが)
いや実は信じていないけど、とりあえずその話にのる…という感じなんだろうか。

自分のまわりには、環境とか、公平性とか、持続可能な社会づくりとか、
そりゃ確かに大事だよねと思える社会的課題に、
生涯をかけて取り組んでいる人が多々いるのだが、
勝ち目のない負け戦に取り組んでいる、
ないしなんらかの力・なんらかの構造によって取り組まされている
(そのことでエネルギーを消費させられている)
ように感じられる側面はないだろうか。私見というか、極めて個人的な感覚ですけど。

一所懸命な彼らに、嫌味なんぞ言いたくないし、
どこかで仕入れた陰謀論をご披露したくもない。

しかし、勝ち目のない負け戦に人を誘う罪深さ、
というかしょうもなさは、
俺の書いている本にも、ありはしないだろうか?
あるいは、大学で学生たちと交わしている言葉の中にも。


僕らには「働いている」という側面と、「働かされている」という側面がある。
上司にとか会社に…という話ではなく、
その会社もさらになにかに「働かされ」ており、
さらに国も「働かされ」ているという構造があるように思う。

仕事というのは、自分の課題と社会の課題の間にあるものだから、
完全に純粋な主体性や、自動性だけでドライブするものではないでしょう。

けど、それにしても、
どこか不自然に、必要以上に「働かされ」ている私たちがいる感じがしていて、
本件に関しましては、まだなんのオチもないのです。


西村佳哲
2009/2/24

2009/02/24

休刊のクリップ

本当は年初にエントリーすべきところが今頃になった。しばらく購読していたマグ(今風に言えばジン?)の休刊がいくつかあったので覚え書きとしてクリップ。


PingMag - 東京発 「デザイン&ものづくり」 マガジン

外国人の視点から日本を眺めたデザイン・マグ。昨年末で終了。雑多で雑誌然とした、気取ってない卑近なアプローチ、フットワークの軽さが今時、貴重だった(日本の雑誌はセグメントされすぎているように感じるので)。地方のものづくりをレポートするのはTABlog | Tokyo Art Beatが最近始めたが、おそらく『PingMag』を参考にしていると思う。

TATAKIDAI

デザイン関係の言説というのはどうしてもおカタい感じになりがちで、時々、息が詰まりそうになるのは自分だけ? ここは街場の忌憚ない意見が聞けて面白かったが、昨年末で終了。掲示板仕様だったためか、最後の方は2ちゃんねる化して炎上が多くなっていたのが残念。(現在はトップページのみ)

Music Thing

こちらは個人サイト。海外の音楽機材系ブログとして有名、かつ、どこにも引けを取らない情報量を誇っていた。その経歴が買われ、筆者は現在はThe Timesのウェブ版の仕事をやっているそう。マニアックなブロガーの成功例か?


『エスクァイア』休刊のニュースも。

この10年でもっとも悲しいニュース:痩せたり太ったり:So-net blog
2009-02-22 - 【海難記】 Wrecked on the Sea

「アメリカではすでにほとんどフリーペーパー状態で、アマゾンで年間契約すると、年間12冊合計でわずか8ドル」という話は目からウロコ。色々事情はあるのだろうが、昔のように海外との情報格差で物を売るというのが不可能な時代だし、『エスクァイア』が体現していた、20世紀的な知的で豊かな暮らし=最大公約数的な人口に膾炙する「夢」に憧れることがもう難しくなっているのでは?と思う。

iPhone

iPhoneを使い始めて、4ヶ月が過ぎた。

今まで持っていた携帯とは比較にならないほど生活に密着したデバイスになり、その結果、自分が重度の情報ジャンキーであることを再確認、そして、どうやらインターフェイス・マニアらしいということにも気づいた。

それまでは3年くらいNokia 6630(ボーダフォンの品番はV702NK)を使っていた。ノキアの優れたインターフェイスに感激し(ディスプレイではなくてボタンの配置と操作が考え抜かれている)、国内初のスマートフォンということもあって、Symbian OSのカスタマイズとインストールに明け暮れたことも懐かしい(しばらくすると熱が冷めて、初期状態に戻してしまったが)。キャリアとユーザーの評判が共に悪い機種で「正直オススメできませんね」と言われながらショップで購入した。そんな「出来の悪い子」ぶりも、気に入っていた理由だったかもしれない。いや、実際のところ、メール周りのバグには何度も泣かされたが、ガラパゴス携帯にはないグローバル携帯の風通しの良さを体感したものだった。

iPhoneとMacという2つの情報機器を行き来するようになって、リーダビリティやユーザーインターフェイスについて、以前より意識するようになった。小さい画面で限られた情報を表示するiPhoneに慣れると、新聞の折り込み広告みたいに1ページに情報を詰め込むパソコンのモニターがトゥーマッチで五月蝿く感じてくる。ニュースサイトやブログの記事インデックスや3ペイン構造すら苦痛だ。モニターの解像度を最大にしないと気が済まない人だったのに、この逆転現象はいかがなものか(単純に老化現象かも、笑)。

近い将来、モニターのサイズから割り出される情報量の最適解が、より自由度を高めた形でOSにプリインストールされるだろう。今のMac OS Xにも文字を大きく表示するユニバーサル・アクセスが標準でついているが、昨日リリースされたばかりのSafari 4には、文字だけではなく全体のレイアウトが拡大されるズーム機能が搭載されている。パソコンとケータイの中間形態のインターフェイスがこれから模索されていくと思うと楽しみだ。

iPhoneは、出来ることと出来ないことがハッキリしている。むしろ、こんなことも出来ないのかと思うことも多い。Nokia 6630はブルートゥースのファイル送信やテキストのコピペが実装されていたが、iPhoneにはその当たり前に思っていたことが出来ない。iPhoneはMacよりも不自由で、ガッチリとセキュリティが施されていて、キレイに舗装されているけど信号や進入禁止区域が多い道路を走ってる感じ。また、表面的なタッチ・インターフェイスの新奇さを除くと、すでにある枯れた技術を慎重に組み合わせた古風なマシンだと思えてくる。当時、Newtonを手に入れることは出来なかったけれど、iPhoneはNewtonの遺伝子を引き継いでいるハズ。

要望はある。ビューアーとしては優秀なiPhoneだが、これで長文を書く気にならないので、ポメラみたいな携帯用キーボードが出てきてほしい。OSの改善点としては、Mobile Safariのポートレート・モード固定と、ボタン配置のカスタマイズ(アップルの厳格なUI基準だと難しそうだが、右手/左手で操作ボタンを変えるアプリもすでにある)が可能になれば、他は今のところ不満はない。コピペがないのにも不思議と慣れてしまった。「マクドナルドの硬い椅子」じゃないが、iPhoneって良くも悪くも環境管理型権力を体感できるデバイスだと思う(笑)。

App Storeによって世界中に開かれた流通が確保されたのも大きい。RjDjの登場で思ったのが、iPhoneに最適化された音楽レーベルがこれから出てくるだろうということ。青空文庫リーダーの充実と売れ行きを見れば、文庫や新書や雑誌のレーベルもマーケットとして確実にありそう。現実問題、そんな生易しいもんじゃないだろうけれど、参入障壁が低い分、可能性があることは否めない。本職はFlasherで個人デベロッパーのfladdictさんのブログを読むと、その可能性を感じないではいられない。

ライヴァルであるグーグルのAndroid、伏兵だったPalm Preとインターフェイスの競争は激化しているので、その動向も気になる(数年後にiPhoneが存続しているかどうかなんて誰にもわからない)。が、なぜか、Sekai Cameraにはそれほど萌えない。『マイノリティ・レポート』的な世界観はディストピアだと刷り込まれているからか。

最近読んだマンガのこと

前にエントリーした『へうげもの』でチェックするようになった『週刊モーニング』で、諸星大二郎の『西遊妖猿伝』と望月峯太郎『東京怪童』。『西遊妖猿伝』は末梢神経をチクチクと刺すようなオーバードーズ気味の今の漫画にはないゆったりとした展開、時間感覚が心地よい。「リア・ディゾン」が台詞に出てくるのにはたまげた(秋まで連載延期らしい)。『東京怪童』は、望月が真正面から現代に挑戦していて、ディティールの描写に力点を置くあまり、物語の展開がグダグダになってしまわないかとファンとしてはヤキモキ。

福島聡の『機動旅団八福神』をまとめ読み。

ガンダムやエヴァやパトレイバーのような日本のロボット・アニメの系譜を参照しつつ、自由な翻案を行っていて面白かった。未来の日本が中国の属国になっていてアメリカと戦争をしているという、いわゆる歴史改変SFだがヒネり具合が素晴らしく、人を食った描写にどうしても黒田硫黄の色濃い影響を感じる(特に、日常に非日常を挿入/接続させる手つき、女性キャラの扱いなど)。主人公の名取はのび太のパロディだし、ロボットというかパワードスーツは原爆にも耐えうるが、刃で簡単に裂けるという間抜けっぷりなど、各種アイテムはありがちなのにハズシが効いている。超能力者のラテン系の女の子が聴いているのはなぜかトオル・タケミツ。読後感はヘヴィー。

いろんな読みが可能だけれど、主人公の女の子、頭は弱いが超絶的な身体能力を持つ半井(なからい)が仲間やアメリカ軍の超能力者を圧倒してしまうところに(って書くとこれもありがちな設定みたいだが・・)、頭デッカチな思想やロジック、男性原理から跳躍しようとする・・・なんかうまく書けないな。戦闘美少女とかそういうことじゃなくて。

空間コミックビーム:漫画家に訊く! 〜ぶっちゃけそのへんどうなんスか!〜 第10回 福島聡さん part.1


素朴な疑問として、日本のSFマンガやアニメってどうして人がやたらとバタバタと死ぬのだろうか? 敗戦の記憶などない世代にも受け継がれる特異なDNAというか、戦時下の限定的サバイバル状況を召還してしまいがちなハルマゲドン指向の心性ってなんなんだろう。

『GANTZ』も『バイオメガ』も『ディエンビエンフー』も男の子が好むようなエロとグロと大量殺人を圧倒的な画力とゲーム的想像力で描いていて、それが商品としての価値に結実してるわけだからそれでOKなんだろうけど(僕からすると、『GANTZ』はまんま『幻魔大戦』だし、『バイオメガ』の後半は『ナウシカ』に見えてしまう)。そうした同時代性はともかく、「どう描くか」という表現手法がマックスまで洗練された結果、「なにを描くか」という部分が空洞化しちゃってるような気もしなくはない。

だからか、上に挙げたマンガ家に比べ、(あくまで僕自身の狭い好みや感覚で)失礼ながら相対的に表現=絵が洗練されてないように見える岩明均の『ヒストリエ』には、逆に骨太な物語の面白さが際立っているように感じる。失礼続きで言うと、諸星大二郎もこっちのカテゴリーに入ると思う。今さらだけれど、『寄生獣』も読んだ。発表当時に読んでいなかったのが悔やまれるが、時代性というのを抜きにして成立しうる傑作。デビルマン・チルドレンとしては、『ワールド・イズ・マイン』と双璧の完成度かと。あとは、『海獣の子供』を読み始める。言葉にするとロハスやニューエイジの一言で終わってしまいそうな五十嵐大介の微細で繊細な表現力はやっぱり凄いな。似たような資質を持っている松本大洋に僕が不満に思っていた部分(主に地に足をつけたリアルな生活が描かれているかどうか)がちゃんとクリアされている。

以上、感想の書き散らしでごめんなさい(ちなみに、基本的に好きな作品・作家しか取り上げていません)。

Sweet Dreams

音楽ライターの福田教雄さんが刊行する雑誌、『Sweet Dreams』の次号に寄稿しました。Sublime Frequenciesというストレンジな民俗音楽レーベルについてです。久しぶりの長文原稿(といっても、4、5千字程度ですが)、難産でした。

客観的な記述を心がけつつも、エイヤッ!と俺節になってしまったので、『Sweet Dreams』を読むようなインディ・ロック好きな方にどう読まれるのかちょっと、いや、かなり心配です。

最近、音楽について書くということが対・社会的にどれほどのもんなのか考えてしまうと腰が引けてしまうのですが、この原稿を引き受けるに当たって、ひとつの胸に秘めた野望がありました(笑)。それは、「いまコレがキテるぜ!」的に周りやトレンドを意識せず(すいません、今まで意識しまくってました、いや、今も完全にシャットアウトなんて出来ないのだけれど)、たとえズレててもいいから、言葉の連なりによって何かをリスナーや読者に喚起させるような、そんなテキストを書きたいということです。元より不器用で、大した文章力や語彙力もなく、いろんな文体を書き分ける器用さも持ち合わせてないので、結局はいつもと同じにしかならない、その中でドタバタするしかないのですが。

音楽を冷徹にジャーナリスティックに語るという意味では破綻しているかもしれませんが、小説的な(あるいは批評的な?)作法で音楽のことを書けないか、とぼんやりと思っています。「今、何が起こっているのか?」というニュース的な時事性で物事を切ることにしばらく前から興味が持てなくなってしまっているので(優れたレビューを書くブロゴスフィアの住人は数多くいます)。こうした機会をいただいた福田さんに感謝します。


Sweet Dreams' Current Topics
Sublime Frequencies produces music from Java Bali Sumatra Burma ...

村上春樹のスピーチ

しばらくブログが書けない思考停止状態だったので、リハビリを兼ねて引っ掛かった話題について何かしら書いていこうと思う。


村上春樹のスピーチについて。とても良いスピーチだと思った。以前も書いたように、僕は彼の最新刊をフォローする熱心な読者でもなんでもないが、ある政治的態度を要請されるようなバッシングされやすい公的な場所において、小説家としての誠実な言葉を吐くという行為は素直に讃えられていいと思った。

このスピーチを批判するブログも読んだ。たしかに、「卵と壁」という比喩=メタファーは一見、わかりやすい二分法で、正義(弱者)と悪(強者)があたかも対立構造にあるかのようにとらえられてしまう可能性がある。実際、スピーチが掲載されたメディアに寄せられたイスラエルの読者からのコメントは、村上のスピーチに対する強い反発や違和感を表明している。それを読んで、僕は恐くなった。紛争のただ中にいる当事者の現場感覚からすれば、白か黒かを選ぶしかない状況で、曖昧な文学的比喩のオブラートでくるんだグレーの言説にいらだちを覚えることは想像できる。村上は、そのようなバッシングを当然予想していたはずだ。

彼は壁をハッキリと「システム」だと名指ししている。

その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。

ここを読めば、卵と壁が単純な二分法ではないことは了解できるだろうし、「システム」を環境管理型権カやアーキテクチャという今風の社会学の言葉に言い換えることも可能だろう。


「私はこの言葉に遠い昔に読んだブランショの一節を思い出した。何度目の引用になるかわからないけれど、その一節をもう一度引いておこう。

神を見た者は死ぬ。言葉の中で言葉に生命を与えたものは息絶える。言葉とはこの死の生命なのだ。それは「死をもたらし、死のうちで保たれる生命」なのだ。驚嘆すべき力。何かがそこにあった。そして、今はもうない。何かが消え去った。
(Maurice Blanchot, La Part du feu, Gallimard, 1949)

ブランショが「言葉に生命を与えたもの」と名づけたもの。言葉のうちに息絶えるもの。それを村上春樹はsoulと呼んでいるのだと私は思う」(内田樹の研究室)

この内田樹のエントリーを読んで(彼は村上の良き理解者なので、逆に反対の立場からの批評も読んでみたい)、まったく関係ないが、トマス・ピンチョンの『V』を思い出した。列車のコンパートメントでスパイが人工的、あるいは工学的に身体をいじっていることが明らかになる瞬間。もしかしたら、この場面は僕の記憶間違いで、短編集『スロー・ラーナー』に収められた『秘密裏に』の方だったかもしれない。

暗黙に歴史の舞台裏で粛々と暗殺を行い「死をもたらし、死のうちで保たれる生命」、人間であることを文字通り捨てた、システム=記号=言葉に帰依する者(あるいは物?)としてのありようが、わずか数行の文章からこちらに突きつけられて、大げさに言えば、身の毛がよだつような戦慄を味わった。SFで描かれるポピュラーなガジェットとしてのアンドロイドやセクサロイドやサイボーグには、通常、こちらをガチで揺さぶるようなこんな感覚は覚えないものだ。

村上の話に戻ると、彼の抽象的な小説がなぜ広く海外で流通したのか、このスピーチを読んで初めて腑に落ちた気がした。

「グローバリーゼーションによって「文化間の多様性」がある程度「破壊」されることで、「社会内部の多様性」が「創造」される。前者の損失を補って余りある文化の「創造的破壊」が出現する」(Economics Lovers Live)

ここで書かれているような文化的多元主義の状況が、村上春樹を評価したのだと思う。「ハルキ的グローカル」というエントリーでも書いたように、昔、僕は村上龍の方が春樹よりアグレッシヴだと若さゆえの過ちで思っていたが、そんな単純なハナシじゃない(当たり前か)。

【日本語全訳】村上春樹さん「エルサレム賞」授賞式講演全文 - 47トピックス
壁と卵 (内田樹の研究室)
壁と卵(つづき) (内田樹の研究室)
文化の創造的破壊 - Economics Lovers Live

2009/01/18

へゔぃーメタる

今年一発目に読んだ小説、舞城王太郎の「九十九十九」をレビューしてみます。無駄に長いです。


小説は荒唐無稽なデタラメを書き連ねることを許された装置=媒体=メディアである。だから、作者は全能の「神」となって紙の上でどんなウソもホントのようにつくことができる。小説上ではどんなことも可能になる(どんなことも起こりえる)、というのが小説が引き受ける可能性であり同時に困難である。そこでは、平穏な家庭の慎ましい幸せも夥しい数の死体も猟奇的な殺人もスプラッターもフリークスもカニバリズムもパラレルワールドもタイムスリップもワームホールもなんでも盛り込むことができる。

作者が用意するロジック、小説を成立させているロジックはすべからく「どのようにでも説明できる」し、それがどんなにトリッキーでアンリアルでありえないように見えたとしても、筋が通るように説明=証明=究明することが可能である。但し、ここで言うロジックはあくまでその小説内でしか通用しないカッコつきのロジックである、という担保がつく。読者は現実のロジックに縛られて生きているので、「いくらなんでもそりゃ無茶じゃね?」とか「ありえないし」とか「ナイナイ」とか小説と現実を照らし合わせながらも、その小説で起こっていることが小説内で通用するカッコつきのロジックによって生み出されていることをあらかじめ了承済みなので、それをフィクションとして楽しむことができる。

読者が言葉の羅列が生むデタラメをフィクションとして受け取るのはこのようなメカニズムや手続きが必要なのだ。

舞城王太郎の「九十九十九」はこうした(この拙文でクドクド説明するまでもなく自明であるところの)小説=フィクションを巡るメカニズムやフォーマットを真正面から引き受けて、その可能性や不可能性や自由や限界や困難に挑戦した小説だと思う。僕が「九十九十九」を読む前に持っていた予備知識は、この小説が清涼院流水の作品の本家取り(パロディでもパスティーシュでもオマージュでもトリビュートでも呼び方はなんでもよくて)であり、入れ子構造の仕掛けになったメタ・フィクションであるということ、その二点だった。文庫本版の背表紙には、「聖書、創世記、ヨハネの黙示録の見立て連続殺人事件に探偵神のボクは挑む」と書いてあるので、「ああ、ダヴィンチ・コード的なアレね」と早合点してしまいそうになるが、舞城の作品を一度は読んだことがあるならば、その予想が裏切られるだろうなーというのもなんとなく予測がつく。僕は舞城王太郎の「阿修羅ガール」と「煙か土か食い物」を読んだことがあり、清涼院流水の作品はすべて未読で、ミステリー小説にはそんなに明るくない(小説全般だってそんなに明るくはないのだけれど)。

そういう前提でこの本を読んだ感想は、「やっぱこうなるんだ」と「あ〜なるほどな」と「でもでも、これってもしかして・・」が交錯したものだった。「やっぱこうなるんだ」はこちらの予想をハズさないメタメタなメタ小説な展開に対してであり、「あ〜なるほどな」は最も重要な謎解きが小説全体を通じて破綻してないというナットクに対してであり(謎そのものは舞城らしい壊れっぷりなので、その時点で既に破綻しているとも言えるが)、「でもでも、これってもしかして・・」は言葉にしにくい新しさに対してである。

実を言うと、僕は「メタのメタはメタで・・・(永久にループ)」という構造を持つ作品がちょっと苦手だったりする。分厚い「ゲーデル、エッシャー、バッハ」を買ってツン読で終わらせた苦い過去があるし、クローネンバーグの映画「イグジステンズ」でヴィデオゲームのように何度も再起動されるお話にウンザリしたこともある。大雑把に言ってしまうと、メタ・フィクションは一見、破天荒な開放系の構造を持つように見えて、ひたすらループする堂々巡りの閉鎖系であることがえてしてあり(それをメビウスの輪だとか言われても・・)、そこに僕はどうしても「空しさ」を覚えてしまう。

「九十九十九」のラストは、とてもカッコイイ一文で締め括られる。

「だからとりあえず僕は今、この一瞬を永遠のものにしてみせる。僕は神の集中力をもってして終わりまでの時間を微分する。その一瞬の永遠の中で、ぼくというアキレスは先を行く亀に追いつけない。」

この有名なアキレスと亀の話が「ゲーデル、エッシャー、バッハ」の中にも出てくる。「この一瞬」は、「ぼく」=九十九十九=主人公が脳内で作り上げた、母と妻と子供といっしょに安穏と暮らす幸福の情景めいた架空世界、ヴァーチャルワールドの時間であり、「ぼく」はその架空世界から抜け出してほんとうの過酷な現実=物語の起点である西暁に向かうことを「この一瞬を永遠のものにしてみせる」ことで半永久的に遅らせようとする。

最終章の「第六話」とそれに先んじる「第七話」で、「人は自己愛のプログラム、自ら作り上げた居心地よい架空世界から逃れて現実を受け入れ成長することができるか」というテーマを作者は持ち出してくる。なぜ、九十九十九が美し過ぎて人々を失神させるのか、彼が冒頭から神のような存在なのか、という謎も同時に解かれる。しかし、「ぼく」が西暁に向かう(本来の最終章であるべき)「第七話」を先に読者に読ませることで、物語の起点に戻って円環の輪を閉じるという行為を「ぼく」もしくは作者は避けるのだ。実際、「第七話」で「ぼく」=九十九十九とツトムが再会し、九十九十九にまつわる謎が解けたように見えるが、それすら物語を終わらせる決定的な何かではなく代替可能で、ひとつの通過点に過ぎないような書き方になっている。

僕は「ダヴィンチ・コード」を読んでないが、当時社会現象になった「ダヴィンチ・コード」に関心はあった(偶然だろうが、「ダヴィンチ・コード」も「九十九十九」も2003年に出版されている)。この手の聖書や神学をネタにしたフィクションというのは、「暗号のようにコード化されている世界の秘密を解きたい」という人々の根源的な欲求、もっと言えば下世話な欲望によって支えられている。物語の多くは(特にミステリーやSFといったジャンル小説は)、そうした欲求を苗床にしている。謎や起源やルーツを知りたい、ここではないどこか遠くのかつてあったかもしれないオリジナルの本当の自分に遡りたいというのは、人間の持つ素朴で原初的な感情であり、それが宗教やニューエイジや自分探しの旅や陰謀論にまで敷衍することになる。

舞城はミステリーや神学をモチーフにしたフィクションを参照しながらも(リスペクトしつつあくまで素材としてゾンザイに扱うという彼独自の観点で)、「オリジナルなんてないし、起源やルーツなんて真っ赤なウソだし、ボクはコピーのコピーで現在過去未来何度も繰り返され、召還されてきたヴァージョンのひとつに過ぎないし、ボクはパラレルワールドで何人も存在するし、物語はどうにでも転がるし、神が存在するかしないかはどうでもよくて、偶然性や偶有性の中で漂いつつ、かすかな真実めいたナニカ、それも唯一の単独の神聖で真正な真実なんかじゃなくて、ありがちでちっぽけでくだらなくてたまたまそこにあって出会っただけなんだけど、そういうものを一瞬一瞬感じたり信じたりして生きていくしかないんだよね」と言いたいのだろうと勝手に類推してみる。

舞城のこうしたプレゼンスというかプレゼンテーションの仕方にはとても共感する。それはたぶん「新しい」のだと思うし、例えば、フィリップ・K・ディックがネガティヴに描いたことをポジティヴに描き切ろうという意志も感じる(またディックかと思われそうだが)。と同時に、メタ・フィクション特有の「空しさ」もしっかりそこにあって、その「空しさ」=「何でもアリという自由と不自由をどう小説上のロジックで解決するのか?」という読む前に僕が抱いていた疑問には残念ながら、応えてはくれなかった。応えてくれる類の小説ではないとも思う。

僕がこの小説の読後に思い浮かべたのは、なぜか小説ではなく、望月峯太郎が「バタ足金魚」の後に連載した「COLOR」という漫画だった。不条理でグロくてトラッシュな描写とホラーSFとジュヴナイルが共存しているところや、身体の変容を重視しているところ(九十九十九が女性の死体をスイムスーツのように着てその女性が殺される場面を幻視したり、自分の顔を剥いだり、内臓感覚に訴える場面に共通するものを感じる)を表面的には指摘できると思うのだけれど、もっと指摘しにくいところに共通項がある気がする。 あと、タイムスリップで黒い雲の渦が現れるところは「ドニー・ダーコ」かな?

「見立て」の壮絶かつアクロバティックな言葉遊び(笑)については、また機会があれば・・。

僕なんかより全然簡潔で鋭くまとまっているテキストがあったのでリンク。
舞城王太郎『九十九十九』(迷宮旅行社)

No Self Control

ブログを休んでいた昨年11月からの雑感。

ちょうど熊本の実家にいる間に、オバマ政権が誕生し、コムロが逮捕された。

この2つはまったく関連しない出来事だし同じ土俵で比べるものでもないけれど、ほぼ同時期だったのとその時の自分のメンタルな状態がシンクロナイズドされたせいか、象徴的な事件として刻み込まれることになった。大げさに言うと、20世紀から21世紀へのバトンタッチくらいのインパクトがあった。コムロにはまったく思い入れはないし、TMネットワークの「セルフ・コントロール」という曲が当時好きだった程度で、全盛期はスルーしていた。結局、本人が自己制御できなかったというか。

速水健朗さんのエントリー、小室哲哉の名言「今年はレイヴが来る」を振り返る - 【B面】犬にかぶらせろ!がいろんな意味で面白かった。コムロの音楽は白いという印象は常にあったし、ユーロビートやハイネナジー(クラブではなく80's和製ディスコの文化)がコムロのルーツの1つだろう。エイベックスとの二人三脚的な関係も、90年代のトイズファクトリーにはミスチルやスピードがいたからNinja TuneやMo'WaxやMuroがリリースできたという話と同じで、洋楽と邦楽、コアとマスの関係(音楽的にも人脈的にも切断されている状況)がエイベックスにもあったと思う。そういえば、シスコもなくなってしまった(実店舗がなくなった時ほどのショックはなかった)。

先日、久しぶりに渋谷を散策した。クアトロはブックオフになり、そこから旧HMVがあったパチンコビルを抜けて、Bunkamura通り(旧・東急本店通り)に出ると、ヤマダ電機のLAVIがそびえている。渋谷の郊外化が進んでいる。そう思うと、副都心線の渋谷駅ホームがグレー一色で寒々しく見えるのも、狙ったワケじゃないだろうけど妙にシックリ来る(案内標識=サイン計画は素晴らしい、あのくらいデカいピクトグラムでちょうどいいと思う)。個人的に好きだった、あるいは馴染んでいた渋谷はもうないんだなーという実感。でも感傷ではなくフラットに受け止めている。街ってセルフ・コントロールできないもんね。

帰省している時、地元中心部のドラッグスーパー(スーパードラッグ?)の充実、その反面、下通りの紀伊国屋が閉店、下通り〜新市街にあった映画館がいくつかつぶれ、ヤマダ電機の大型店が郊外に出来たりと、ショッピングモール文化に地方都市が浸食されているのをまざまざと感じた。一方で、上通りの端っこに個人オーナーの店が増えているみたいで、そのエリアは歩いてても風通しが良くて、レゲエ専門のレコードショップを発見したりも(時間が合わず訪れることができなかったが)。ドーナツ化現象とそれに比例して地価が安くなった都市中心部で、昔からやってる老舗店とオルタナな店が肩を並べるという、アバウトで図式的な印象だけどそんな構図にちょっとだけ希望を覚える。

あと、11月からiPhoneを使い始めた。今ではなくてはならない存在になったが、また別のエントリーにて。

2009/01/17

時間を微分していく

当ブログを二ヶ月以上、放置していました。

実家の用事で長期に渡り帰省していたのが主な理由です。

昨年はどうやら本厄だったらしく、振り返ると本当にそんな年でした。
やはりどんな些細なことも無下に軽んじてはいけないようです。
大病や大事故を免れただけでも感謝しなければと思います。

「その一瞬の永遠の中で、ぼくというアキレスは先を行く亀に追いつけない。」

今年最初に読んだ小説にこう書いてありました。

このブログもノロノロ歩む亀の後背を見つつ、時間をどこまでも微分しながら
決して追いつけないけどバタバタともがきあがく、そんな真空地帯でありたいと思います(*)。

1月後半になって、なんとも間抜けな感じですが、どうぞ今年もよろしくお願い致します。

*=時間は有限で高価なので、微分という離れ業でなんとかしようという姑息な気持ちの表れ。