2005/06/24

Batman Begins


バットマン ビギンズ 特別版

映画「バットマン・ビギンズ」の良かった点。俳優陣の重厚な演技。アクの強い俳優ばかりなので誰が本当の悪役かわからない。ゴシックな佇まいのゴッサム・シティ。CGを感じさせない実写とセットを多用した美術。装甲タンク化したバットモービルを始め、デザインの健闘。悪かった点。後半のアクションがカット割りが早すぎてキレや冴えがまったく見られないこと。

現実のニューヨークを思わせるゴッサム・シティ、主人公と幼なじみの女性との関係、重要なアクションが高架式の電車で行われるなど、「スパイダーマン2」との類似点も多いが、「スパイダーマン2」の監督サム・ライミの方がアメコミへの造詣とエモーショナルな演出に長けてるのは明らか。監督のクリストファー・ノーランは淡白で器用な職人という印象が強い(僕は「メメント」を観ていない)。

同様に、サム・ライミの傑作「ダークマン」で主人公を演じたリーアム・ニーソンが出演しているのもおそらく偶然ではないだろう。彼は「スター・ウォーズ エピソード1」でジェダイ・マスターも演じているので、善と悪の両義性を持ったトリックスター的な人間を体現している。「ブレードランナー」でレプリカントを演じたルトガー・ハウアーの起用にも、同じ意図を感じる。

ブルース・ウェインの恐怖の根源である忌まわしい洞窟のコウモリの記憶からの自身の回復、彼がバットマンになること=幼少時のトラウマと結合することで恐怖を征服するという過程は精緻に描かれている。ガジェットやスーツやバットモービルを発注し、少しづつバットマンとしてのペルソナをを手に入れていく様子は男の子心をくすぐる。その一方で、億万長者のダークヒーローという荒唐無稽なウソが、リアルな演出を与えられることで逆に失速してしまった気もしないでもない。

リアルとアンリアルの匙加減は難しい。そのバランスの難しさが、後半のアクションの消化不良にもつながっていてカタルシスは乏しい。「バットマン・ビギンズ」には有無を言わさないバカバカしいエネルギーが欠如している。お行儀がいいのだ。ティム・バートン版の残酷な書き割りファンタジー「バットマン・リターンズ」にはそれがあった。ミッシェル・ファイファーのキャット・ウーマンやダニー・デビートのペンギン男には、フリークスの悲哀、負の心性を持った者の禍々しいエネルギーが注ぎ込まれていた。

とはいえ、「バットマン・ビギンズ」は悪い作品ではないと思う。タイトルから想像される、バットマンという影のあるキャラクターの行動原理の探求という意味では少し食い足りないけれど、混沌としたゴシックなムードに浸ってしまえば、最後まで気持ちよく観られる作品だ。

2005/06/18

サイバーパンクという墓標

ウィリアム・ギブソンが1989年にリリースした「モナリザ・オーヴァドライヴ」を再読する。「恍惚、恍惚がやってくる」(文中ではゴシックの強調体)。スピードの生む恍惚。それがこの時代の美徳だったのだろう。SF的な大仕掛けよりは、魅力的なキャラとガジェットを軽快な筆致で猥雑な近未来の中に投げ入れ活写するというのがギブソンの持ち味だから、それはこの本でも十二分に発揮されている。一時期の西海岸にいたようなサイバー・グルやコンピュータ・ナードたちがアンビエントやテクノが流れるカフェの暗がりで吐く雑言をその雑音=ノイズごと小説化したような楽しさ。2005年の今ではかなり風化してしまっているけれど、それを作者の責任にするのはお門違いだろう。

だが、その奥にある深遠なテーマや作者の内なる声を聴こうとすると、途端に本書は電気仕掛けの紙芝居のように目の前から消失してしまう。最高に面白い素材と語り口で出来た通俗小説以上の何かが見えてこない。モリィ(サリィ)、アンジェラ、久美子、モナと4人の女性キャラによる4つのプロットの同時進行も、エモーションのドライブ感がそれほど伴わない。彼女らは自らの意思というより舞台の中で操られている感が強く、そこが「自意識」を捨てたポストモダンでクールな質感を与えている。ギブソンがよく比喩に使うクローム・メタルの手触り。

男性キャラでは、「AKIRA」から抜け出したようなジェントリィとスリック・ヘンリィが印象に残るが、彼らはあくまで女性陣を際立たせる脇役に徹している。ヤクザの親分、谷中が「ゴッド・ファーザー」のように物語の中で揺るぎない保護者=父親として存在しているのが微笑ましい。とにかくキャラ設定はまんまジャパニメーションでくすぐったい。

サイバースペース上に新たに誕生した人工生命体=知性=人格がお互いを求め合い、ひとつに結合する。本書を含むギブソン初期三部作の骨子を一言で言うとそうなるのだけれど、「外部」に目覚めた人工知能という興味深い認知科学的なテーマを扱いながらも、最後にその「外部」は「アルファ・ケンタウリ」だったとネタバレするのでシラけてしまう。ギブソンはあえてその中身には踏み込まない。思索的で思弁的なスペキュレーションSFではないのだから、それはないものねだりなのかもしれない。

ギブソンは、その物足りなさをヴードゥーの神々がデータの平面上に誕生するというアイディアで逃げ切っている。サイエンスと宗教や神話体系との合体はあまりに素朴に無批判になされているので(その根拠や理由は小説の中では説明されない)、その割り切った楽天的な振る舞いに僕らはそこに「乗るか、反るか」という二者択一でしか対応できない。ジェットコースター・ムーヴィーみたいに。

ディスプレイの内側と外側でリアリティはどういう様相を呈するのか。テクノロジーがライフスタイルにまで浸透していく中で、どんな価値観や生き方やメンタリティが生まれるのか。この小説はそういう古くて新しいテーマを扱いながら、そこをあえて深くは追求しない。80年代を謳歌したサイバーパンクは90年代にみるみる失速してしまう。サイバーパンク的な「クール」なあり方は今ではそこら中に溢れてフツーになった(携帯電話やラップトップやブルートゥース製品は多かれ少なかれ、サイバーパンクを模倣しているとも言える)。

読み物としての面白さは言うまでもないし、ギブソンの文体とそれを独自のルビと当て字を多用する日本語に翻訳した黒丸尚氏の功績は今でも光り輝いていて色褪せてない。この15年間で色褪せたのは、たぶん、僕らの側の「クール」という評価軸の方なのだ。疑問形の「?」がこの本では「・・・」と訳されている。その文章にぶち当たるたびに僕はそこで立ち止まって(ポーズして)、「・・・」の行間を読み取ろうという脳のふるまいと戦うハメになる。それがこの小説を再読して最も新鮮な(?)体験だった。

モナリザ・オーヴァドライヴ (ハヤカワ文庫SF): 黒丸 尚, ウィリアム・ギブスン