2005/12/12

誰も知らない


誰も知らない: 是枝裕和

「誰も知らない」をいまさらながらようやく観た。

良かった点は、子供の演技が自然であること。柳楽優弥が各所で見せるたぶんテレから来る微笑みは、彼自身が「映画を撮られている」という無意識の意識から出ているのだろう。これは誰かがカメラの前で誰かを演じているということを真摯に伝えるドキュメントでもある。次男のしげる役の男の子がもっとも天衣無縫でコントロールされない子供を地で演じている。ラストの交差点で子供らが立ち止まり、彼がオノマトペのように言葉にならない言葉を発する。あそこはよく撮れたなぁ。前もって台本を渡さず現場で指示していくヌーベルヴァーグ的手法はほとんどの場面で成功しているが、同時にそれは諸刃の刃。後半、どうしてもドラマを盛り上げなくてはいけない下りで、台詞の棒読みというか「しゃべらせられてる」感が浮き上がってしまう。

この映画のモデルとなった西巣鴨子供置き去り事件は映画よりずっと陰惨で悲しい事件だ。これをそのまま映画化すればよりハードコアなテイストになっただろうけど、是枝監督はそうしなかった。子供を置き去りにした母親や母親を捨てた父親を悪人として描かない、子供らに待ち構える運命も示唆するだけで明示しない。映画の中では社会的に罰せられるべき人は誰もいない。この小さな共同体は最悪最低の状況なのかもしれないが、そこにすら小さな幸福があり日常がある。一般常識や道徳観念や社会通念をすべて取っ払い、意味性やメッセージがないクリーンなスクリーンを通してそこで何が起こるかをじっと見つめる。

結果、この映画は一種のロスト・パラダイスを延々と映し出す。一歩足を踏み出せば、ツライ現実が待ち構えている。登場人物の誰もそこから出ようとしない。甘美で閉ざされたマンションの半径何メートルの生活圏から。完全に閉じた世界は現実には成立しない。そこには、大人たち、柳楽優弥が家に連れてくる友達、登校拒否の女の子と、外界から侵入者が次々現れる。いつかは破られる閉じたコミュニティの危うさは通奏低音としてずっと鳴っているけれど、それをサスペンスとして是枝監督は用いない。彼の視線は、この歓迎されない小さなコミュニティを糾弾したり告発したり問題提起をすることには向けられてないからだ。ただただ、その甘美な時間が永遠に続くことを願うかのように、淡々とフィルムを回し続ける。

だから、この映画を観る人が感じる一種独特な気まずさや居心地悪さは、もろく儚い小さな生命体のようなモラトリアム空間をひたすら見つけ続けることそれ自体から来ているのだろう。

是枝監督の映画は小津とよく比較されるようだ。僕はこの映画は小津とはまったく似てないと思った。小津の映画は、もっと構築的でコンストラクティブ、淡々としてるようで、繰り返しやパターンは意図的に用いられ、少しづつ変奏しながら、太いドラマツルギーを編んでいく。「誰も知らない」には、このような厳格なクラシック音楽のような構築性をほとんど感じない。それは、ドキュメンタリーのような作り方のせいでもあるだろう。この映画は「意図すべからざる瞬間」をとらえようとする開放系の映画なので、ガチガチした構成は似合わない。例えば、羽田空港対岸に行くこの映画の重要な場面、小津であれば、モノレールで現地に向う場面と現地から戻る場面をしつこく同じ構図で同じショットで入れると思う。是枝監督はそうはしない。

映画館ではなくDVDで観たせいもあるだろうが、2時間半はやや冗長な感じがした。これを2時間に凝縮したら、もっとエッセンシャルな映画になった気がする。ただ、それは是枝監督の意図ではなかったのだろう。ここに消し難く刻印された日本の現実、日本的な微細な感情表現、それらはあまりに「素」でそのままなので、肯定も否定もできない。日本の普通の街(早稲田や高田馬場あたり?)、コンビニや公園を中心に出来上がる子供の生態系、羽田空港を向こう岸に見据える空き地(僕は半年前に城南島を実際に訪れたので「あ」と思った)、現実そのものの、特に美しくもない、むしろ薄汚く物悲しい表情。

僕はこの映画に流れる叙情性を肯定も否定もしない。ああ、これは日本の「素」なのだと思う。そこにグローバリズムが生む世界とは真逆の、翻訳不可能の地域性、ローカルな特質が表象されていると思う。グローバリズムに圧しつぶされていく世界のそこかしこに、こんな空間がいっぱい残されているハズなのだ。

ゴンチチのテーマ音楽、コンビニ店員として出演しているタテタカコの挿入歌「宝石」が素晴らしい。

2005/09/04

ゼロ年代のゾンビ


ランド・オブ・ザ・デッド ディレクターズ・カット: ジョージ・A・ロメロ

「ランド・オブ・ザ・デッド(Land Of The Dead)」は、ゾンビ映画の本家、ジョージ・A・ロメロによるゾンビ・シリーズ第4作。

冒頭、廃墟の中で歩き回り、ぎこちなく音楽を奏でる物悲しくどことなくユーモラスなゾンビたちをカメラがとらえる。このティム・バートン的寓話世界を思わせる秀逸なイントロダクションが、「ゾンビから逃れる恐怖を描いたホラー映画」というこちらの先入観を翻す。彼らを人間たちは容赦なく殺戮していく。弱者は人間ではなくゾンビであり、ゾンビ狩りと資源の略奪を行う人間たちもごく一部の富を占有する支配者層の下で働く弱者という点では同じ。物語は、この三者の相克という形で描かれていく。ロメロは、人間側にもゾンビ側にも組みせず、双方を同じ目線で語っている。むしろ、ゾンビに肩を持っているのでは?という印象が強い。

ホラーのセオリーである主人公たちが襲われるというシチュエーションはほとんどない。ダリオ・アルジェントの娘、アーシア・アルジェントがゾンビとの公開デスマッチの生け贄として登場し、その後の展開を期待させるものの、その魅力を最後まで活かし切れてないのはもったいない。ホラー映画としては何かが物足りない。しかし、この抑制が作品に品格を与えている。これはジャンル映画としてのホラーの皮をかぶった社会派映画であり、その基本ラインは「本当に怖いのは人間だ」というロメロのブレない視点にある。

インタビューで911やブッシュ政権に言及してるように、彼のスタンスはシンプルで明快だ。共和党支持のデニス・ホッパーを支配階級のトップに起用しているのもわかりやすい。ゾンビ側の首領はアフリカンで、虐げられた下層階級のひとりがスパニッシュのジョン・レグイザモ。スパイク・リーの「サマー・オブ・サム」も印象的だったレグイザモのルーザーな存在感が素晴らしい。知性を持ち始め、組織化し、銃の扱い方を覚えていくゾンビたちは、西欧のテクノロジーを換骨奪胎してテロを仕掛けるアラブ世界をなぞらえているのだろう。食糧が不足し、ゾンビが生きた人間を襲って食うというカニバリズムの恐怖。これは、人間が食糧となってしまう未来社会を描いた映画「ソイレント・グリーン」を思わせる。

デニス・ホッパーら富裕層が自分らを囲い込むのが高層ビルで、そのハイタワーの中で虚栄の日々を過ごすのは大時代的で、アレゴリーとしては古めかしい。高層ビルの上部に住むというのは退路を断たれるわけで、「ゾンビ」とは違ってヘリコプターも登場しないこの映画の設定では、うまく機能してないように思う。そのわりに、高層ビルという場所を活かしたサスペンスもまったく描かれていない。デニス・ホッパーは最後に札束を持って逃げようとするのだけれど、ゾンビが徘徊する世界ではお金=貨幣経済は有効なのか?という疑問も残る。力と恐怖が支配する原始共同体的な世界では、おそらく貨幣は意味を持たないだろう。

このように、全体的な基本設定がイイカゲンなので説得力には欠ける。が、こうした誰の目にもわかる欠点も味として許せてしまう魅力がこの映画にはある。一番最初にゾンビに殺される犠牲者が屈強そうな若者だったり、スケーター少年が簡単に殺されてしまったりと、お約束だけどシニカルな描き方はうまいし、グロテスクの分量も腹にもたれない。スプラッターな描写はこの映画の本筋ではない。ジョン・カーペンターにも通じる職人芸を忍ばせる手腕はたしかだ。

この映画の後、ロメロが監督した1978年の「ゾンビ(ドーン・オブ・ザ・デッド)」をDVDで観た。子供の時に映画館で観たハズだけれど、とにかく怖かった印象だけで内容はまったく覚えていない。

ホラーだと思っていたら、スーパーマーケットで終わりのないヴァカントな消費生活を続ける人間たちをひたすらじっくりと舐め回すように描いていくという裏切り方。当時の最新モードを羽織ったハレークリシュナみたいな坊主ゾンビ、全身をアクセサリーで飾ったリッチな黒人女性ゾンビ。生きていた頃の習慣を忘れられない彼らは、スーパーに集まり、消費というスタイルをなぞる。ユラユラ揺れるゾンビと共に、スローなタイム感が確実に観ている者の心に深く浸食していく。ダークかと思えば時に理不尽なほど明るく、アフリカ音楽やミューザック(まさしくスーパーマーケット・ミュージック)も飛び出すゴブリンによる見事なスコアに補完された、この白昼夢のようなブラック・コメディの鮮度はいまもって薄れていない。

30年前の「ゾンビ」に比べると、「ランド・オブ・ザ・デッド」ではアヴァンギャルドな批評精神がやや後退しているように見える。60年代、70年代、80年代、00年代とロメロはゾンビ映画を世に問うてきた(彼は65歳で「ランド・オブ・ザ・デッド」を撮った)。かつて人間だった生きた屍が人間の敵になるというゾンビのオリジナル・アイディアは(映画史に与えた影響力だけを鑑みても)本当にストロングだと思う。一言で言えば、ロメロは倫理的でヒューマニスティックな作家なのだろう。そのスタンスはいまのハリウッド・システムの中においては希少で頑固でありマイノリティに属する。

この映画を観た後では、雑踏がゾンビの行列に見えてくる。「お前は生きているのか?死んでいるのか?」。ロメロにそう言われているようだ。

2005/07/31

スター・ウォーズとの長いお別れ


スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐: ジョージ・ルーカス

「スター・ウォーズ」が完結した。前2作がこちらの期待を裏切る内容だったので、最終作「エピソード3 シスの復讐(The Revenge Of The Sith)」が思いの他よく出来ていたのに驚いた。SWファンの間でベストと言われる「エピソード5 帝国の逆襲」は監督のアーヴィン・カーシュナー、脚本のリー・ブラケットの尽力の賜物だから、ほぼ独力で脚本・演出・監督した本作はジョージ・ルーカスのベストワークになるかもしれない。とは言っても、監督作品は「THX-1138」「アメリカン・グラフィティ」「スター・ウォーズ エピソード4」とSW新三部作の合計6作品しかないのだが。

SWという、それ自体が作品を超えて神話になってしまった映画をもう一度監督するというのはルーカスにとって相当なプレッシャーだったのではないか。お子様向けの旧三部作から大人向けの新三部作へ、単純明快な勧善懲悪モノだったスペースオペラから複雑な政治史劇へシフトする時に、ルーカスが作品の傾向を完全に振り切れなかったというサジ加減には賛否両論あるだろう。前2作にはそれゆえの迷いが見られた。「エピソード3」で「アナキン・スカイウォーカー=ダース・ヴェイダーの物語」本来のダークなトーンがようやく形になった。生意気で自分の才能を過信する傲慢な若者ゆえにダークサイドに堕ちるというルーカスの設定は「なるほど」と腑には落ちるが、悪に染まる魅力的なカリスマが活躍するピカレスク・ロマンの方が一般受けはよかったかもしれないし、パルパティーン議長=皇帝の陰謀と帝国の誕生も、シスとジェダイを巡る善と悪のバックストーリーや共和国が帝政に至るプロセスとしての政治腐敗が十分に描かれたとは思えない。

しかし、「エピソード3」でルーカスはアナキンが議長の計略に少しづつハマっていく様子を、前2作に比べ、ずっと的を得たペース配分で丁寧に描き出している。ルーカスが多くのヒントを得ただろうトールキンの「指輪物語」では、指輪=力を得たいという暗い欲望に多くの登場人物が突き動かされる。主人公である善の体現者=ホビット族もその欲望から無縁ではない。ダークサイドの誘惑はファンタジーを成立させる基本的な要件のひとつだ。超人的な能力を持ったジェダイであるアナキンが、瀕死の状態から鉄仮面のサイボーグになることで、本来の優れた資質と恋人や師を含む人生のすべてを失ってしまうという結末はとてもシニカルだ。「ヒーローやカリスマは存在しないし、もし、存在したとしても実のところ権力の操り人形に過ぎず、すでに力は奪われている」というメッセージにも読める。また、「エピソード3」では帝国をグローバリズムを行使するアメリカのメタファーとして描こうとしているのも明らかだ。楽天主義のカタマリのような第1作からここまで様変わりしたというのは感慨深い。かくして、アナキンはシリーズ最終作となる「エピソード6」で息子であるルーク・スカイウォーカーの呼びかけで魂の奥に眠っていた善性を復活させ、物語の円環は閉じられる。

ナチスと黒澤明の時代劇から発想を得たダース・ヴェイダーという人物は、当初の血も涙もない悪漢から、「帝国の逆襲」の「私はお前の父だ」という有名な台詞で、複雑な過去を持つ両義的なキャラに変更される。東洋思想から抜け出したようなヨーダと黒人のランド・カルリシアン伯爵を配したこの作品が新三部作の発想の原点であり、大げさに言えば、この両義性・多義性がSWを今日まで生き延びさせたレゾン・デートル(存在理由)だと思う。一神教/理性/アポロン的思考ではなく、多神教/感性/デュオニュソス的思考は、多種多様な宇宙人が渾然一体となったカオスのような世界観や、「考えるのではなく感じろ」と唱えられるフォースのあり方にも現れている。ニーチェの「善悪の彼岸」じゃないけれど、単純な二元論で割り切れない仏教的とも言えるような世界観を、はるか銀河宇宙のおとぎ話として創出したことが、ルーカスの一番のクリエイティビティなのではないかと思う。

なお、ルーカスはDVDやテレビの影響で湯水のように製作費を使う大作映画の終焉を予想している。SWのような贅沢なスケールの映画はこれからは見られなくなるかもしれない。カメラが異世界の情景を優雅にパンニングする俯瞰ショットとクローズアップのショットが固有のリズムでつながっていく贅沢なヴィジュアル構成は、本作でほとんどルネサンスの画家がCGという絵筆を手にしたような完成度に達している。SWは画面の隅々にまでジョージ・ルーカスという個人の刻印を反映させた世界最大級のインディペンデント映画であり、ルーカスは稚拙だ幼稚だと批判されながらも、それを最後まで頑固に貫き通した。アップル・コンピュータと同様、70年代のアメリカ西海岸が生んだアイコンで、「パーソナルな発想が世界を変える」という理念を忠実に実践して成功したのだ。最早、万人が納得する物語は失われてしまい、マーケティングがよりセグメント化された個へと向かう時代において、SWは巨大な恐竜のように見えなくもない。

「将来も人々は必ず映画館に足を運ぶが、それは、人がいつの時代も社会体験を好むからだ」(ジョージ・ルーカス)

僕らがSWに学ぶことがあるとすれば、それは華麗なVFX技術でもエンターテイメント・ビジネスの成功談でもなく、この一点に尽きるのでは?と思う。(とにもかくにも、10代からの長い付き合いだったサブカルチャーが終了したことは意外なほど自分の中では大きかったようだ。)

Lost In Translation


ロスト・イン・トランスレーション: ソフィア・コッポラ

ソフィア・コッポラは食わず嫌いだった。前作も見てなかった。90年代を謳歌したスタイル・カルチャーの中で影響力を持つ人物という程度の認識だった。ビースティー・ボーイズは大好きだけどミルク・フェッドやガーリーは隣の出来事だった。そんな僕が彼女に関するいろんな評価を反古(ほご)にしてこの映画を見たら、意外にも瑞々しい佳作だった。

お互いを理解し合うのは困難だということ、ディスコミュニケーションのカタチをうまく描いていると思う。スカーレットは最終的に恋に落ちるわけではないから(それをも拒絶してるから)、これはラブストーリーですらない。何かが始まったり収束したりというわかりやすいドラマはない。ほのかに甘く切ないトーンに騙されてはいけない。

異郷での出会いと別れという点で、上海を未来都市のように描いたマイケル・ウィンターボトムの「CODE 46」に近い感触があるけれど、あちらは人間ドラマとしてとりこぼしてるものが多かったように思う。同じウィンターボトムの「24パーティ・ピープル」も好きになれない作品だったから、この監督とは相性が悪いのだろう。さらに遡ると、同種の傾向を持つ作品にベルトリッチの「シェルタリング・スカイ」がある。夫婦のデタッチメントを描くこの作品は、モロッコのネットリと肌にまとわりつく退廃的な空気と迷路のような街並みが今でも記憶に蘇る。ベルトリッチらしい重い郷愁が異郷で自分を見失うという設定とうまくハマっていた。

スカーレット・ヨハンソンの存在感がこの映画をグッと引き締めている。ベッドの上で横たわるお尻、口の片方を歪ませて微笑む仕草。男の監督の視点からはとらえられない女性の何でもないような魅力を引き出している。エリック・ロメールの映画を思い出したりもした。ビル・マーレイも立ってるだけで「そこにいるんだけど所在ない人」を演じられる俳優だから、2人の相性はいい。このキャスティングは成功している。

スカーレットもビルも日本人の誰とも深く交流しない(できない)。周りに霧のようなフィルターがかかってて、東京は背景に沈んでいる。彼らは東京とのリアルなコミュニケーションを拒絶している。彼らを取り巻く環境に自ら積極的に足を踏み入れることはないし、外から眺めているだけ。ゴルフ場の向こうにそびえるウスっぺらい一枚の絵のような富士山も京都も新宿の夜景もエキゾチックな観光の視点で表面をサッとなぞって終わり。ソフィア・コッポラの東京での交友録を反映したかのような東京のサブカルチャーは、誰もが指摘してるように、かなり皮肉っぽく描かれているように見える。エンドロールの後に、ヒロミックスが一瞬映るのは蛇足以外の何者でもない。

こうした冷笑的な態度に「バカにされた」と日本人が怒りを感じるのも無理はない。タランティーノが「キル・ビル」で愛すべき日本映画の記憶からどこにもない東京を捏造した熱さとは真逆だから。スカーレットはアメリカ人女優(キャメロン・ディアスがモデル)を同じように皮肉るので、特に日本人を蔑視してるというわけでもなさそうだ。そこがこの映画のとても厄介なところ。この映画には笑える箇所がいくつかあるのだけれど、自分を落として笑うのではなく、他者とのギャップを嗤うそれだから、お互いの距離を埋めて共感を生むことにつながらない。

生の希薄さ、寄りどころのなさ、傷つきやすさ(ヴァルネラビリティ)がこの映画の根底にあるライトモチーフではないだろうか。ソフィアは確信犯的にそこを突いたのではなく、自分の感じるままに撮ったら、こうなったということなのだろう。そこが多分に女性的でもある。結果的に理論武装しない生理がそのままの純度で映像になっているので、観る人によっては拒否反応を生みやすいのは理解できる。

先端的なサブカルチャーの中で浮き草のように漂い、その外側にあるものは景色として無視したり蔑視すればラクに生きられる。そんな文化エリート的な価値観は今に始まったことじゃないし、これからも続くだろう。僕にもそれは(苦い想いとして)覚えがあるけれど、個人的にはそれではもうダメだと思う。そうしたライフスタイルの貧しさや愛のなさ(まさにマイ・ブラディ・ヴァレンタイン/ケヴィン・シールズの「Loveless」?)すらも容赦なく描き出すことで、この映画はメタな文明批評になりえていると思う。反面教師的にこの映画を見ることは、僕にとってはひとつのスタディだった。

音楽はケヴィン・シールズが全面的にバックアップしている。ホテルの年増の女性シンガーが鼻歌で「ミッドナイト・オアシス」を歌うのもよかった。はっぴいえんどの「風をあつめて」をソフィアがどんな理由で選んだのかはわからない。当時、日本人にもアメリカ人にもなれない浮き草のような自分たちを「さよなら日本、さよならアメリカ」と表現した彼らの立ち位置を彼女が理解してのことだろうか? たぶんそれは深読みしすぎで、たまたま気に入っただけだろう。

ソフィア・コッポラ、ソフィアの元旦那のスパイク・ジョーンズ、ウェス・アンダーソン、ポール・トーマス・アンダーソン、トッド・ソロンズ、ハーモニー・コリン。作風は違うけど、ブラックなユーモア、醒めた態度、ミニマルな作り、体温の低さ、カタルシスに傾かない不快指数の高さ、などなど新しいジェネレーションに共通する匂いを感じる。メンタリティ的に諸手を上げて賛同するわけじゃないが、こっちは「映画」でこっちは「映画」じゃないと切り捨てるのもとてもつまらない。自分の「面白い」という価値判断や尺度をいったん保留するという態度は大事かもしれない。

2005/07/02

スピルバーグの宇宙戦争


宇宙戦争: スティーブン・スピルバーグ

「宇宙戦争(War Of The World)」は、スピルバーグが「追う/追われる」というサスペンスのエッセンス、「いつどこで襲われるかわからない」という恐怖をストレートに描いて「激突」や「ジョーズ」の頃に立ち返ったような快作。911以降のパニック・ムーヴィーの模範解答のようでもある。

スピルバーグは映画中盤まで平穏な日常をダラダラ描いて、観客の眠気を誘うようなまだるっこしいことはしない。冒頭からすぐに異変が発生し、家族思いで正義感にあふれたいつも通りのアメリカン・ヒーローを演じるトム・クルーズは、娘と息子と共に残虐な殺戮マシーンからひたすら逃げる。この簡潔でムダのないプロットが生むサスペンスは映画のほぼ全ての場面で成功している。唯一の不満があるとしたら、トム・クルーズがどんな危機に陥っても不死身だということを観客全員があらかじめ了解していることくらいだろう。

「A.I.」はスピルバーグ18番の母性愛が注入され、キューブリックが映像化していたらこんな甘さは微塵も感じさせなかっただろうと思う内容だったし、「マイノリティ・リポート」はフィリップ・K・ディックとスピルバーグという食い合わせの悪さに加え、アイデンティティ・クライシスを主軸とするディック的世界から最も遠い俳優=絶対的に自我が揺るがないトム・クルーズの起用が生んだ炭酸の抜けたソーダ水だった。

贅肉タップリだったこの2作の轍を踏むことなく、異星人との出会いという古典的な素材を使って何を描くべきか、何を描かないでおくべきかを吟味した結果、スピルバーグは「未知との遭遇」や「E.T.」を思い出させる血中SF濃度が低いゆえにSFオタクな映画作家には不可能なリアリティを「宇宙戦争」でモノにしている。

トムが苛立たしさを隠すように一瞬冷蔵庫を開けて閉める仕草、トムとスケーターをドリーで横にナメていくカメラといった些細なディティールから、地下室の中での少々くどすぎるサスペンスの展開まで、「動く絵」としての映像的快楽がリアリティを呼び込む。そのリアリティに大きく貢献しているヤヌス・カミンスキーのときおり彩度を落とした絶妙な色彩処理を施された撮影は今回も素晴らしい。

典型的なブルーワーカーの父親であるトム・クルーズと、トムを食うほどの達者な演技力で離婚した母に引き取られたホワイトカラーの娘を演じるダコタ・ファニング。ふたりの間のミゾがホットロッドの歌とブラームスの子守唄の対比で象徴的に描かれる。ラストでダコタを母親に届けてトムは立ち去り、宇宙人の敗退の原因もナレーションで説明されてアッサリと終わり。この味気なさは、スピルバーグが家族愛やもっともらしいSF設定にいかに興味がないかを物語る。古き良きSFのプロファイルに新しいルックを与えることだけに専念した今回のスピルバーグはスマートだと思う。

80年代は空が友愛に満ちていたから「E.T.」を、今は空が敵意に満ちているから「宇宙戦争」を。そのわかりやすすぎる論理的な一貫性は、スピルバーグの職業作家としての健全な思考に支えられている。その証拠に、終始シリアスでリアルな描写に徹するこの映画の中で、最後に姿を現す宇宙人の造形だけが妙にマンガちっくでパルプ・フィクションから抜け出したかのように現実離れしている。「実はこの映画はすべて作り物なんだよ」と暗黙のメッセージを伝えるように。

2005/06/24

Batman Begins


バットマン ビギンズ 特別版

映画「バットマン・ビギンズ」の良かった点。俳優陣の重厚な演技。アクの強い俳優ばかりなので誰が本当の悪役かわからない。ゴシックな佇まいのゴッサム・シティ。CGを感じさせない実写とセットを多用した美術。装甲タンク化したバットモービルを始め、デザインの健闘。悪かった点。後半のアクションがカット割りが早すぎてキレや冴えがまったく見られないこと。

現実のニューヨークを思わせるゴッサム・シティ、主人公と幼なじみの女性との関係、重要なアクションが高架式の電車で行われるなど、「スパイダーマン2」との類似点も多いが、「スパイダーマン2」の監督サム・ライミの方がアメコミへの造詣とエモーショナルな演出に長けてるのは明らか。監督のクリストファー・ノーランは淡白で器用な職人という印象が強い(僕は「メメント」を観ていない)。

同様に、サム・ライミの傑作「ダークマン」で主人公を演じたリーアム・ニーソンが出演しているのもおそらく偶然ではないだろう。彼は「スター・ウォーズ エピソード1」でジェダイ・マスターも演じているので、善と悪の両義性を持ったトリックスター的な人間を体現している。「ブレードランナー」でレプリカントを演じたルトガー・ハウアーの起用にも、同じ意図を感じる。

ブルース・ウェインの恐怖の根源である忌まわしい洞窟のコウモリの記憶からの自身の回復、彼がバットマンになること=幼少時のトラウマと結合することで恐怖を征服するという過程は精緻に描かれている。ガジェットやスーツやバットモービルを発注し、少しづつバットマンとしてのペルソナをを手に入れていく様子は男の子心をくすぐる。その一方で、億万長者のダークヒーローという荒唐無稽なウソが、リアルな演出を与えられることで逆に失速してしまった気もしないでもない。

リアルとアンリアルの匙加減は難しい。そのバランスの難しさが、後半のアクションの消化不良にもつながっていてカタルシスは乏しい。「バットマン・ビギンズ」には有無を言わさないバカバカしいエネルギーが欠如している。お行儀がいいのだ。ティム・バートン版の残酷な書き割りファンタジー「バットマン・リターンズ」にはそれがあった。ミッシェル・ファイファーのキャット・ウーマンやダニー・デビートのペンギン男には、フリークスの悲哀、負の心性を持った者の禍々しいエネルギーが注ぎ込まれていた。

とはいえ、「バットマン・ビギンズ」は悪い作品ではないと思う。タイトルから想像される、バットマンという影のあるキャラクターの行動原理の探求という意味では少し食い足りないけれど、混沌としたゴシックなムードに浸ってしまえば、最後まで気持ちよく観られる作品だ。

2005/06/18

サイバーパンクという墓標

ウィリアム・ギブソンが1989年にリリースした「モナリザ・オーヴァドライヴ」を再読する。「恍惚、恍惚がやってくる」(文中ではゴシックの強調体)。スピードの生む恍惚。それがこの時代の美徳だったのだろう。SF的な大仕掛けよりは、魅力的なキャラとガジェットを軽快な筆致で猥雑な近未来の中に投げ入れ活写するというのがギブソンの持ち味だから、それはこの本でも十二分に発揮されている。一時期の西海岸にいたようなサイバー・グルやコンピュータ・ナードたちがアンビエントやテクノが流れるカフェの暗がりで吐く雑言をその雑音=ノイズごと小説化したような楽しさ。2005年の今ではかなり風化してしまっているけれど、それを作者の責任にするのはお門違いだろう。

だが、その奥にある深遠なテーマや作者の内なる声を聴こうとすると、途端に本書は電気仕掛けの紙芝居のように目の前から消失してしまう。最高に面白い素材と語り口で出来た通俗小説以上の何かが見えてこない。モリィ(サリィ)、アンジェラ、久美子、モナと4人の女性キャラによる4つのプロットの同時進行も、エモーションのドライブ感がそれほど伴わない。彼女らは自らの意思というより舞台の中で操られている感が強く、そこが「自意識」を捨てたポストモダンでクールな質感を与えている。ギブソンがよく比喩に使うクローム・メタルの手触り。

男性キャラでは、「AKIRA」から抜け出したようなジェントリィとスリック・ヘンリィが印象に残るが、彼らはあくまで女性陣を際立たせる脇役に徹している。ヤクザの親分、谷中が「ゴッド・ファーザー」のように物語の中で揺るぎない保護者=父親として存在しているのが微笑ましい。とにかくキャラ設定はまんまジャパニメーションでくすぐったい。

サイバースペース上に新たに誕生した人工生命体=知性=人格がお互いを求め合い、ひとつに結合する。本書を含むギブソン初期三部作の骨子を一言で言うとそうなるのだけれど、「外部」に目覚めた人工知能という興味深い認知科学的なテーマを扱いながらも、最後にその「外部」は「アルファ・ケンタウリ」だったとネタバレするのでシラけてしまう。ギブソンはあえてその中身には踏み込まない。思索的で思弁的なスペキュレーションSFではないのだから、それはないものねだりなのかもしれない。

ギブソンは、その物足りなさをヴードゥーの神々がデータの平面上に誕生するというアイディアで逃げ切っている。サイエンスと宗教や神話体系との合体はあまりに素朴に無批判になされているので(その根拠や理由は小説の中では説明されない)、その割り切った楽天的な振る舞いに僕らはそこに「乗るか、反るか」という二者択一でしか対応できない。ジェットコースター・ムーヴィーみたいに。

ディスプレイの内側と外側でリアリティはどういう様相を呈するのか。テクノロジーがライフスタイルにまで浸透していく中で、どんな価値観や生き方やメンタリティが生まれるのか。この小説はそういう古くて新しいテーマを扱いながら、そこをあえて深くは追求しない。80年代を謳歌したサイバーパンクは90年代にみるみる失速してしまう。サイバーパンク的な「クール」なあり方は今ではそこら中に溢れてフツーになった(携帯電話やラップトップやブルートゥース製品は多かれ少なかれ、サイバーパンクを模倣しているとも言える)。

読み物としての面白さは言うまでもないし、ギブソンの文体とそれを独自のルビと当て字を多用する日本語に翻訳した黒丸尚氏の功績は今でも光り輝いていて色褪せてない。この15年間で色褪せたのは、たぶん、僕らの側の「クール」という評価軸の方なのだ。疑問形の「?」がこの本では「・・・」と訳されている。その文章にぶち当たるたびに僕はそこで立ち止まって(ポーズして)、「・・・」の行間を読み取ろうという脳のふるまいと戦うハメになる。それがこの小説を再読して最も新鮮な(?)体験だった。

モナリザ・オーヴァドライヴ (ハヤカワ文庫SF): 黒丸 尚, ウィリアム・ギブスン