2011/03/14

ブンミおじさんの森で

アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の「ブンミおじさんの森」を観た。

冒頭、夜の森、牛が映し出される。よくあるワンカットの点景的な描写かと思いきや、モンタージュで牛の動きを延々追いかけていき、そのあと、3人の男女(ブンミ、ブンミの妻の妹のジェン、トン)が車で田園地帯を移動する真昼のシーンになり、ジェンの横顔がクローズアップされ、彼女の微笑む表情が柔らかく光に反射する。

この一連のシークエンスで「ああ、なんだかワケわかんないことが起こってるんだけど、ずっと画面を眺めてればいいんだな」と思った。話というかストーリーラインは箇条書きで何行かで終わってしまいそうなほどシンプル。

「ブンミおじさんの森」のひとつ前に、たまたまイーストウッドの「ヒア アフター」を観た。どちらの作品も死生観、この世とあの世の往還を描いている。「ヒア アフター」では、あちらの世界が本当に存在するかどうかは現実世界では証明できない、実際にマット・デイモンにそういう台詞を吐かせる場面があり、主人公たちもそこで葛藤することでドラマが生まれる。手堅く地に足をつけたディセンシーな演出で、イーストウッドはあの世の不確かさよりこの世の確かさを浮き彫りにする。

「ブンミおじさんの森」では、こちらとあちらの境界をスルリと通り抜けて、人と精霊がなんなく交流する。監督がインタビューで語ってる通り、(ザックリ言ってしまうと汎アジア的な)アニミズムが横溢している。「もののけ姫」を思わせるような描写もあり、タイのカルチャーをよく知らない僕にも馴染みのある絵作りだ。

田舎で農場を営むブンミと都会で暮らすジェン。精霊が住むアニミズムの世界とアニミズムが通用しなくなった世界。農場を継いで欲しいというブンミの申し出を断る一方で、ジェンは精霊の存在をあるがままに受け入れる。また、かつての妻フエイの霊にブンミは「あの世でも一緒にいられるか?」と聞くのだが、フエイはそれが不可能であることを暗に示すようにその問いに答えない。

監督は、あの世とこの世を混交させ、そこにある存在の不確かさに寄り添う。人と人の関係性をロジカルな方程式で解こうとする西洋人に対し、そのあいまいで不整合な「縁」や「綾」を解かないでおこうとする東洋人。同じ東洋人として僕は後者に組しつつ、前者から後者へと足を踏み入れるイーストウッドにも惹かれる。

この映画は一体どこに向かうのだろう? あちら側に突き抜けるのかというこちらの期待をスリ抜け、最後は電飾がギラギラしたカラオケ喫茶でジェンとトンが無言で座っている場面で終わり、エモなロックが流れる(このバンド、Penguin Villaのドラマーは漫画家のウィスット・ポンニミットであることを、あとで知った)。最後のカットはジェンの顔の大写しなのだが、これがまたなんともいえない複雑玄妙なイイ表情をしていて、冒頭の彼女のカットとつながるのだった。

ゆるやかな時間の流れ、異界に導かれるという設定に、タルコフスキー(「ストーカー」)やビクトル・エリセ(「ミツバチのささやき」)を想像したり。森のアンビエンスで始まり終わる、観る者に解釈を委ねるアンビエントな映画であり、催眠効果は高いとは言えるかも(笑)。

事前に誰かのレビューで「2001年宇宙の旅」を挙げていたので、「タイ映画でキューブリック?」と興味津々だったが、精霊が登場するシーンや後半の道行きで不協和音による瞑想的なサウンド・デザインが静かな高揚を生むところは、たしかに「2001年〜」を思わせる。

予想していた以上にアート志向の映画でもあり(エンドロールで幾つかのファンドがクレジットされる)、笑いの要素も控えめで、観客に親切な作りとは言えないが、むずかしい映画ではない。ドヤ顔でワカルぜと言いたくなるような論理的整合性で切る映画でもない。昔、共産党員を戦争で殺したというブンミの述懐が後半の未来のシーンで接続されるところはサッパリわからないし(無粋を承知で言えば、ブンミの脳内フラッシュバックとも言えそう)、途中で挿入される王女のエピソードでは寓話めいた世界が展開され、王女とナマズとの艶かしい交流(笑)のあと、素晴らしい水の高速度撮影のショットが続くのだけど、ブンミの物語とは直接には交わらない(最後の方でそれを匂わせるカットは出てくる)。

韓国映画のように血なまぐさくドギツく濃厚な人間模様とは対照的に、ブンミもジェンもトンもそれぞれの生を淡々と慎み深く生きている。彼らの声のトーンは一様に柔らかくジェントルで(精霊までもが)、この映画のトーンを決定している。そして、彼らはそれぞれのカルマによって現実に楔(くさび)を打たれている。ブンミは妻や息子を喪い人を殺した過去を持ち死を間近に控え、ジェンは娘はいるものの伴侶はおらず足が悪く、トンは(一時的に?)出家する。

精霊は人間の隠された欲望、人間が現実世界でかなえられない想い、果たせなかった願いを苗床にして人を異界に引き入れる存在=媒介者であり、彼らのナビゲートで、文字通り、人は人でなくなっていく。そこには無意識をトリガーにした気づきがあり、自然を自分たちの半身や鏡像ととらえ、精霊と触れ合うことで意識(肉体)を変容させ、現実界でこわばった生の有り様を活性化させるという古来の知恵がある。そうした物語のチカラをあっけらかんと信じてるように見せつつ、監督はエンドロールで撮影隊の音をちゃっかり入れる。これはオハナシに過ぎないんですよ、と。

最近、映画や小説で描かれる「食べる」という行為にいたく関心を持ってしまうのだけれど、この映画の「食べる」も印象に残った。精霊たちが現れる夜の食卓、ブンミが蜂の蜜をジェンに食べさせる場面(タマリンドの酸味がミックスされてて、とてもおいしそう!)、お葬式のお膳、シャワーを浴びたトンに「レモングラスみたいに臭いから近寄らないで」とからかうジェンの娘、ブンミに雇われたラオス人のことが話題に上ったときに引き合いに出るイサーン地方はタイ料理で知られている。

上映の前に地震に関するアナウンスがあった。未曾有の大地震と原発事故の影響でメンタルはズタボロだったが、この映画を観ることで、少しだけ穏やかなあたたかな気持ちになれた。こう書くとキレイゴト過ぎるかもしれないけど。そこに映し出された現実をひとまずあるがままに受け入れる。わからないことはわからないままで。その無防備がもたらす豊かさと慈しみと困難と理不尽ごと。