映画『ウォーリー(Wall・E)』を観ました。
たまたま、速水健朗さんのレクチャー、「ケータイ小説的郊外」@横浜に参加したあとに観たのですが、このレクチャー前半のハイライトだったハーレクイン・ロマンスの話が頭の片隅にあったせいか、『ウォーリー』をハーレクイン・ロマンスの男性主人公&ロボット・ヴァージョンとして観てしまいました。
速水さんは、ハーレクイン・ロマンスのポイントとして、
・階級上昇を巡る物語(シンデレラ・パターンで、主人公は庶民、もしくは上流階級に近い庶民という設定)
・旅行とワンセット(ハーレクイン・ロマンスは、駅や空港で販売されている)
・主人公の相手役は外国人であることが多い(アラブ系、ラテン系が人気)
この3つがあると指摘しています。特に3番目の相手役に関して、もはや人間ですらない宇宙人や吸血鬼をフィーチャーしたパラノーマルと呼ばれるジャンルが現在人気が高く、パラノーマルはそのまま『ウォーリー』に適用できるように思いました。
『ウォーリー』のストーリーを一言で言い表すと、「ゴミ処理を生業とする無骨なブルーカラーの男の子が、高度で洗練されたテクノロジーの申し子であるホワイトカラーの女の子に恋する話」です。
相手役のロボット、イヴが宇宙船に乗って地球にやってくるところは、「空から女の子が落ちてくる」パターンの変型とも言えるし、主人公のウォーリーがイヴを連れ去る宇宙船にくっついて宇宙旅行することも含め、上に書いたハーレクイン・ロマンスのポイントにピタリと当てはまります。
ハーレクイン・ロマンスの核には、オリエンタリズムやポスト・コロニアルな世界認識、文明の衝突がある、と言う速水さんの指摘に添うと、『ウォーリー』にも一見、そのような文明の衝突があるように見えます。草木の生えない砂漠とゴミで埋もれた廃墟と化した地球、そこから逃亡した人類が巨大宇宙船内に作り上げたコクーンのようなハイテク都市、その都市で暮らす内に肥満化した怠惰な人類。
ネタバレすると、地球をスクラップにしたのも、宇宙船を建造して人類のゆりかご状態を作ったのも、BnL社(Buy n Large社)という国家を超越したグローバル企業であり、対立してるかに見えた2つの文明は元を正すと同じものであることが、物語が進むにつれ、わかります。エンド・クレジットの後にBnL社のロゴが映るので、この映画をスポンサードしてるのもBnL社だった、というオチ。
この設定は、子供向けのファミリー・ピクチャーとして物語を単純化するという側面も当然ありつつ(なぜ地球がゴミ屋敷になったのか?BnL社とは?ウォーリーはどうして一人だけ生き残ったのか?というような説明は一切なく)、エコロジー礼賛、テクノロジー批判、グローバリズムへの皮肉というこの映画の割と安直と言えなくもない、わかりやすいメッセージの称揚につながっています。
ハーレクイン・ロマンスでは、西洋から見た東洋(アラブ含む)やニューワールドが美化され、ここにはないどこか遠くへの憧れがロマンスの駆動力になります。『ウォーリー』ではこの図式が反転し、ニューワールドにたどり着くと、そこはグローバル市場主義が行き詰まった西洋社会そのもので、テクノロジーと医療システムで生き長らえる人類は退屈な毎日を無為な消費と享楽で過ごすばかり。伊藤計劃の『ハーモニー』の世界観を思い出しました。
ロマンスの舞台となるべき場所が絵に描いたようなディストピア未来社会なので(実際、人類同士のロマンスが芽生えにくいという描写もあり)、東洋に行ったハズが西洋だったという同じ穴のムジナ状態で、文明の衝突もほとんど起きない。このままではロマンスとして面白くならないところを、ピクサーらしいドタバタ・アクションでカバーし、ドタバタの中で仲間ができたり次第に恋が芽生える過程をソツなく描いています。
個人的には、この後半より、前半の地球編の方が面白かったです。最近のVFXでドーピングしたハリウッド映画にありがちな目まぐるしい視点移動ではなく、冒頭の俯瞰ショットをはじめ廃墟や瓦礫の山を移動する米粒のようなウォーリーをとらえたロングショットを多用していて、古典的なフィルムの作法を精密なCGの絵でシミュレートしたような静かな高揚がありました。ほぼ会話のないサイレント映画で、廃墟にサッチモの「ラ・ヴィアン・ローズ」が響いたりする前半を1時間半の映画に引き延ばしたらよかったのに。そうするとディズニー的なエンタメとしては成立しなくなるか。
ウォーリーはE.T.にソックリで、『E.T.』は地球人の子供が宇宙人と友達になる話、こちらは地球人のロボットが宇宙人のロボットと恋に落ちる話、なぜ、友愛じゃなくて恋愛なのだろう?と考えると、ウォーリーが階級差にも関わらず、一目惚れの片思い状態でイヴに猪突猛進のアプローチをかけるという無茶ぶりがあるから物語が進むので、友愛ベースだと旅の途中で友達を作って聖杯探求に出かけるという王道パターンにしないと、たぶん転がっていかない。シンプルなボーイ・ミーツ・ガールでハーレクイン・ロマンス路線で正解だったと。あと、『E.T.』は地球人の子供がE.T.の保護者的存在だったのが、こちらはウォーリーより高性能で高知能のイヴがウォーリーの保護者的存在になっていて、そこも主客が逆転しているように思います。
気になったのは、ウォーリーと人間の質感の違い。ウォーリーは細密でリアリスティックなCGなのに、人間はいつものピクサー風のデフォルメされたツルンとした絵。BnL社のメッセージヴィデオに実写の人間が登場するのも違和感。あえて質感の統一を避けたのかもしれないけど、アンドリュー・スタントン監督の前作『ファインディング・ニモ 』では、人間は魚視点からしか描かれず、画面に映るのは首から下までという演出だったので、今回はリアリズムとしては後退してるような・・。
宇宙で安寧に暮らしていた人類が荒廃した地球に戻ってきてメデタシという終わり方も、エコロジーの解釈としてやや弱く、ピクサーの盟友である宮崎駿には及ばないというのが正直な感想です。ウォーリーと人間の触れ合いもさほど深くは描かれず、人間側でキャラが立ってるのは艦長くらいなので、ここはいっそのこと、宇宙船には人間の痕跡はあるもののロボットだけが生き残って独自の社会を形成していた、という設定にした方が、SF好きとしてもより興味深い話になった気がします。
このように大人目線でとらえると、色々と疑問が浮かんできて物語に没入できないのですが、ラストでウォーリーとイヴがはじめて手をつなぐシーンは素直に感情移入できました(「手をつなぐ」というのが、この映画の主題のひとつ。そういえば、『エヴァ』もそうだった)。その直前、機能不全に陥ったウォーリーがCPU基盤を入れ換えることで生き返る描写がアッサリし過ぎてる嫌いはあるものの、パラノーマルな異種交流ロマンスの子供向けヴァージョンとしては、この落としどころで腑に落ちました。
2009/11/27
2009/11/15
FEED@SIGN GAIENMAE 2009.11.15.
初めて(?)ちゃんとブログで告知してみます。
FEED@SIGN GAIENMAE
日時:2009.11.15. 日曜日 19:00 - 23:00
場所:サイン外苑前
地下鉄銀座線外苑前駅から徒歩1分
料金:フリー(*カフェの通常営業時間内なので飲食費は必要となります)
SOUND:♪, Iwalsky, NobuyaTogashi
かれこれ足掛け5年くらい、SIGNの通常営業時間内に店内のDJブースをお借りして音楽を流しています。
最近気に入ってる言葉は「壁紙音楽」です。古き良き環境音楽。ミューザックの垂れ流し。スーパーフラットなスーパーマーケット・ミュージック。ウォール・ペーパー・ジャーナルならぬウォール・ペーパー・ミュージック。狭間にある、行間にある、「In Between」な、あいだの、あまたの、あしたの、音楽。いつでもそこに壁がある限り壁によりかかる人も壁に窓を作る人も壁に落書きする人も壁に卵をぶつける人も壁紙音楽を流す人もいるのだと思います。
FEED@SIGN GAIENMAE
日時:2009.11.15. 日曜日 19:00 - 23:00
場所:サイン外苑前
地下鉄銀座線外苑前駅から徒歩1分
料金:フリー(*カフェの通常営業時間内なので飲食費は必要となります)
SOUND:♪, Iwalsky, NobuyaTogashi
かれこれ足掛け5年くらい、SIGNの通常営業時間内に店内のDJブースをお借りして音楽を流しています。
最近気に入ってる言葉は「壁紙音楽」です。古き良き環境音楽。ミューザックの垂れ流し。スーパーフラットなスーパーマーケット・ミュージック。ウォール・ペーパー・ジャーナルならぬウォール・ペーパー・ミュージック。狭間にある、行間にある、「In Between」な、あいだの、あまたの、あしたの、音楽。いつでもそこに壁がある限り壁によりかかる人も壁に窓を作る人も壁に落書きする人も壁に卵をぶつける人も壁紙音楽を流す人もいるのだと思います。
2009/07/12
東のエデン
『東のエデン』を観た。
昨年から、iPhone界隈でセカイカメラというAR(拡張現実)アプリが話題になっていて、そのセカイカメラにインスパイアされたような画像認識技術がこの作品に登場する(劇中では、東のエデン/エデンシステムと呼ばれ、この技術を使ってIT起業しようとする学生サークルの名称でもある)。現実世界をエアタグでクリッカブルにしてソーシャルメディア化しようというのは、とてもテクノロジー・ドリブンな楽天的な発想で、そこには言うまでもなく落とし穴があり、『東のエデン』でもエデンシステムが出会い系の巣となった結果、スキャンダル事件が起きて成功できなかったという経緯が遠回しに描かれている。
『東のエデン』は、ARだけではなくニートの就業問題や格差社会、さらにはミサイル・テロといったいまっぽい要素がテンコ盛りで、そんな「閉塞した日本の空気」を変えるために100億円の電子マネーを持たされ『デス・ノート』的な生死のゲームに他の11人のセレソンと呼ばれるメンバーと共に強制参加させられる滝沢朗と、彼を空から降ってきた(実際は裸でホワイトハウス前に出現した)王子様と思いたいが実はテロリストかもしれないし何者なの?と逡巡する森美咲とのボーイミーツガールの物語である。
ニュースやはてなブックマークの人気エントリーに上がりそうな社会的で下世話な素材をアニメに取り入れた着眼点は新鮮だが、素材の挿入で止まっていて、シリアスな社会派ドラマにも、お気楽なラブコメにも振り切れず、かといって、『デス・ノート』の荒唐無稽なハッタリを効かせた知能戦にもなりきれてないという、なんともバランスの悪い煮え切らない作品になっていると思う(その後を描く映画が控えているので評価は保留したいが、2クールの連続TVドラマとして完結した方が美しかったと思う)。
日本に11発もミサイルが落とされているのに、特別警戒態勢や戒厳令が敷かれておらず、平穏な日常が続いているのにまず拍子抜けする(好意的に解釈すれば、平和ボケしてる日本と言いたいのだろう)。また、2万人の裸のニートがドバイにコンテナ船で運び込まれるという設定に確固たる説明がなく(なぜ裸?なぜドバイ?)、ラストの11話で滝沢が「もまいら!」と2ch用語でニートたちを先導すると、滝沢に騙させて怒りを覚えているハズの彼らがロボトミー手術を施した軍隊のようにあっさり素直に従い、滝沢に言われるがままに文殊の知恵ならぬ「直列につながれ」て、一斉に携帯で間近に迫るミサイル攻撃へのアンサーをメールで打つという下りは、ハーメルンの笛吹きを模してるにしても引いてしまう。
監督の神山健治はココで、「僕らの世代がもし『ナウシカ』やったら、必ず、風の谷にもナウシカに不満をもってる奴がいるというのを描いちゃうんですよ」と語っているのだが。ナウシカや滝沢というカリスマを包含する世界観を構築するには、それを観る者に納得させるウソが必要で、滝沢はひょうひょうとした屈託のない明るい青年で人々の耳目を集める内面性やカリスマ性が欠落している。そういうミスマッチを狙ったのかもしれないが、少なくとも、こっちにはミスマッチならではのツイストが伝わってこない。内面が欠落した男がいかにカリスマになったかを瞠目すべき筆力で描き切った『ワールド・イズ・マイン』とは対照的だ。
逆に、神山健治の師匠でもある押井守ならば、転向した元左翼か『パトレイバー2』の柘植(つげ)のようなテロリストか、いづれにしても屈託のありすぎるキャラクターになってしまうところだろう。この作品の主要舞台は、六本木や豊洲などセキュリティ的に整備されたシミュラークル化した街であり(森美咲は森美術館から取ったのかな?)、押井が『パトレイバー2』で描いたような時代に取り残された薄汚れた市井の風景はほとんど出てこない。強いて言えば、ヒキコモリの天才プログラマー、板津が住んでいる京都のアパートと、最も押井的なキャラクターと言えるセレソンの近藤が殺される新宿歌舞伎町くらいか。
滝沢が根城にする豊洲のショッピングセンター=SCはその意味で象徴となりうる場所だ。神山は劇中で、ジョージ・ロメロの『ゾンビ』を引用しながらショッピングセンターは消費社会の縮図うんぬんとサークルのメンバーに言わせてサラリと流しているが、『ゾンビ』好きの僕としてはここも淡白すぎるように感じた。宮崎駿や磯光雄なら、クライマックスの豊洲SCにおける憤懣やるかたないニート=ゾンビと主人公たちの攻防をもっと活き活きした血肉化したアニメーションとして面白おかしく描いたんじゃないか。
この作品には、物語をもっともらしく成立させるウソや設定の破綻を吹っ飛ばして観客の生理に訴えかけるような情動、エモな高揚に決定的に欠けている。エモーションを形成するためのキャラクターの行動原理が不明なのだ。なんでも願い事を叶えてくれる魔法の携帯を持つ滝沢は安全で完全無欠のヒーローで、『ゾンビ』が描いたような、消費にうつつを抜かす一般人が自分たちの鏡としてのゾンビに襲われるという物語構造から生まれるリアリティには程遠い。
他にも、セレソンのほとんどが猟奇殺人とテロで日本を建て直そうとする(鼻っから建て直すことを諦めている)頭がおかしくて単細胞な人ばっかりだったり、セレソンの命令を実行するにはお金やスパコンだけではなく、実際にそれを動かす人的資源という野暮ったく七面倒臭いものが現実に横たわってるハズなのだが、それらの存在がまったく描かれなかったり、突っ込みどころが多すぎる。広告代理店とテレビ局の要請で「ハチクロのキャラでトレンディでオサレなヤングに受けるアニメを」(笑)という大人の事情でこうなったのかなとは予想できるのだが、異なる素材をもう少しうまく活かせてたら、と思うと残念。
というか、OPのオアシスの起用から拒否反応が出ていたのになぜかスルーできず、1話が期待感を持たせる出来だったので、AR(拡張現実)を扱ったSFアニメとして先行する『電脳コイル』をどのように超えるのか、または迂回してやり過ごすのかという個人的興味もあって全部観てしまったのだった。結局、ARは物語の根幹にほとんど関わらないまま終わってしまったが。(高品質なアニメーションであるのは承知の上で批判ばかりになってしまい、ファンの方はごめんなさい。特に、グラデーションではなくベタの塗り分けで精緻に描かれた背景は、グラフィカルで素晴らしかったと思う。)
あと、伏線が回収されないのは、アニメに限らず、もはや一個の作品の成立事情を超えた文化的パラダイムの問題だというのがわかったので、そういう意味でも観てよかった。神山健治が好きだというタイトルのネタ元でもある、故・杉浦日向子の「東のエデン」は読んでみたい。
昨年から、iPhone界隈でセカイカメラというAR(拡張現実)アプリが話題になっていて、そのセカイカメラにインスパイアされたような画像認識技術がこの作品に登場する(劇中では、東のエデン/エデンシステムと呼ばれ、この技術を使ってIT起業しようとする学生サークルの名称でもある)。現実世界をエアタグでクリッカブルにしてソーシャルメディア化しようというのは、とてもテクノロジー・ドリブンな楽天的な発想で、そこには言うまでもなく落とし穴があり、『東のエデン』でもエデンシステムが出会い系の巣となった結果、スキャンダル事件が起きて成功できなかったという経緯が遠回しに描かれている。
『東のエデン』は、ARだけではなくニートの就業問題や格差社会、さらにはミサイル・テロといったいまっぽい要素がテンコ盛りで、そんな「閉塞した日本の空気」を変えるために100億円の電子マネーを持たされ『デス・ノート』的な生死のゲームに他の11人のセレソンと呼ばれるメンバーと共に強制参加させられる滝沢朗と、彼を空から降ってきた(実際は裸でホワイトハウス前に出現した)王子様と思いたいが実はテロリストかもしれないし何者なの?と逡巡する森美咲とのボーイミーツガールの物語である。
ニュースやはてなブックマークの人気エントリーに上がりそうな社会的で下世話な素材をアニメに取り入れた着眼点は新鮮だが、素材の挿入で止まっていて、シリアスな社会派ドラマにも、お気楽なラブコメにも振り切れず、かといって、『デス・ノート』の荒唐無稽なハッタリを効かせた知能戦にもなりきれてないという、なんともバランスの悪い煮え切らない作品になっていると思う(その後を描く映画が控えているので評価は保留したいが、2クールの連続TVドラマとして完結した方が美しかったと思う)。
日本に11発もミサイルが落とされているのに、特別警戒態勢や戒厳令が敷かれておらず、平穏な日常が続いているのにまず拍子抜けする(好意的に解釈すれば、平和ボケしてる日本と言いたいのだろう)。また、2万人の裸のニートがドバイにコンテナ船で運び込まれるという設定に確固たる説明がなく(なぜ裸?なぜドバイ?)、ラストの11話で滝沢が「もまいら!」と2ch用語でニートたちを先導すると、滝沢に騙させて怒りを覚えているハズの彼らがロボトミー手術を施した軍隊のようにあっさり素直に従い、滝沢に言われるがままに文殊の知恵ならぬ「直列につながれ」て、一斉に携帯で間近に迫るミサイル攻撃へのアンサーをメールで打つという下りは、ハーメルンの笛吹きを模してるにしても引いてしまう。
監督の神山健治はココで、「僕らの世代がもし『ナウシカ』やったら、必ず、風の谷にもナウシカに不満をもってる奴がいるというのを描いちゃうんですよ」と語っているのだが。ナウシカや滝沢というカリスマを包含する世界観を構築するには、それを観る者に納得させるウソが必要で、滝沢はひょうひょうとした屈託のない明るい青年で人々の耳目を集める内面性やカリスマ性が欠落している。そういうミスマッチを狙ったのかもしれないが、少なくとも、こっちにはミスマッチならではのツイストが伝わってこない。内面が欠落した男がいかにカリスマになったかを瞠目すべき筆力で描き切った『ワールド・イズ・マイン』とは対照的だ。
逆に、神山健治の師匠でもある押井守ならば、転向した元左翼か『パトレイバー2』の柘植(つげ)のようなテロリストか、いづれにしても屈託のありすぎるキャラクターになってしまうところだろう。この作品の主要舞台は、六本木や豊洲などセキュリティ的に整備されたシミュラークル化した街であり(森美咲は森美術館から取ったのかな?)、押井が『パトレイバー2』で描いたような時代に取り残された薄汚れた市井の風景はほとんど出てこない。強いて言えば、ヒキコモリの天才プログラマー、板津が住んでいる京都のアパートと、最も押井的なキャラクターと言えるセレソンの近藤が殺される新宿歌舞伎町くらいか。
滝沢が根城にする豊洲のショッピングセンター=SCはその意味で象徴となりうる場所だ。神山は劇中で、ジョージ・ロメロの『ゾンビ』を引用しながらショッピングセンターは消費社会の縮図うんぬんとサークルのメンバーに言わせてサラリと流しているが、『ゾンビ』好きの僕としてはここも淡白すぎるように感じた。宮崎駿や磯光雄なら、クライマックスの豊洲SCにおける憤懣やるかたないニート=ゾンビと主人公たちの攻防をもっと活き活きした血肉化したアニメーションとして面白おかしく描いたんじゃないか。
この作品には、物語をもっともらしく成立させるウソや設定の破綻を吹っ飛ばして観客の生理に訴えかけるような情動、エモな高揚に決定的に欠けている。エモーションを形成するためのキャラクターの行動原理が不明なのだ。なんでも願い事を叶えてくれる魔法の携帯を持つ滝沢は安全で完全無欠のヒーローで、『ゾンビ』が描いたような、消費にうつつを抜かす一般人が自分たちの鏡としてのゾンビに襲われるという物語構造から生まれるリアリティには程遠い。
他にも、セレソンのほとんどが猟奇殺人とテロで日本を建て直そうとする(鼻っから建て直すことを諦めている)頭がおかしくて単細胞な人ばっかりだったり、セレソンの命令を実行するにはお金やスパコンだけではなく、実際にそれを動かす人的資源という野暮ったく七面倒臭いものが現実に横たわってるハズなのだが、それらの存在がまったく描かれなかったり、突っ込みどころが多すぎる。広告代理店とテレビ局の要請で「ハチクロのキャラでトレンディでオサレなヤングに受けるアニメを」(笑)という大人の事情でこうなったのかなとは予想できるのだが、異なる素材をもう少しうまく活かせてたら、と思うと残念。
というか、OPのオアシスの起用から拒否反応が出ていたのになぜかスルーできず、1話が期待感を持たせる出来だったので、AR(拡張現実)を扱ったSFアニメとして先行する『電脳コイル』をどのように超えるのか、または迂回してやり過ごすのかという個人的興味もあって全部観てしまったのだった。結局、ARは物語の根幹にほとんど関わらないまま終わってしまったが。(高品質なアニメーションであるのは承知の上で批判ばかりになってしまい、ファンの方はごめんなさい。特に、グラデーションではなくベタの塗り分けで精緻に描かれた背景は、グラフィカルで素晴らしかったと思う。)
あと、伏線が回収されないのは、アニメに限らず、もはや一個の作品の成立事情を超えた文化的パラダイムの問題だというのがわかったので、そういう意味でも観てよかった。神山健治が好きだというタイトルのネタ元でもある、故・杉浦日向子の「東のエデン」は読んでみたい。
2009/06/16
Sweet Dreams Of Magazines

以前も告知した『Sweet Dreams』が発売中です(ブログでのお知らせが遅くなってすいません・・)。全180頁の力作です。本屋や輸入盤屋で見かけたら、手に取ってみてください。僕も末席を汚しています。
福田さんは「単なる音楽雑誌にはしたくない」と言ってましたが、新聞やTVのような超メジャー級のメディアでもなく、急速に力を失っていく総合誌でもなく、かといって旧来のスタンスにおける音楽専門誌やサブカル誌でもなく(大きな括りで言えば、『Sweet Dreams』もサブカルチャーに入るのでしょうが・・)、中間ジャンルとしての読み物雑誌、ライフスタイル・マガジンを目指してるのかな?と僕は勝手に受け取りました。とにかく活字がビッシリと端正なレイアウトの中に収まっていて、内容はインディ・ロックを中心にした音楽がメインですが、舞踏家の旅行記やオバマの選挙レポートや32歳で亡くなったウィキペディア・ピープルの記事や小説やイラストやコラムがアトランダムに並んでいて、個人的に専門誌に感じるような息苦しさは感じません。
出版カルチャー華やかりし頃にデビューした総合誌やライフスタイル・マガジンの多くはマジョリティを相手にしていて、それゆえにそれらを享受できた世代以降との断絶がいま大きくなっているのは言わずもがなな現象です。週刊文春や週刊プレイボーイやエスクワイアや暮らしの手帖や花椿を熱心に読む若者というのが想定しにくいというか(実際に統計を取ってみたわけではないのであくまで仮定ですが)、人間が興味あることを全部扱っちゃう!という総合誌的なものがそっくりそのまま形を変えてインターネットで体現してしまったわけで、マイノリティというかサイレント・マジョリティな人々に届けるパーソナルな視点に立脚したライフスタイル・マガジンというのがこれから模索されていくとしたら、そのひとつの回答がこういう形になるのかなと漠然とですが思いました。
あと、コラムやエッセイって日本の雑誌だと有名人や文化人、功成り名を遂げた人気者が書くというのが慣例になってる気がしますが、僕のイメージでは有名無名は関係なく、そもそもは肩書きや名前とは別のところで(文字通り、肩の力を抜いて)、個人が文章で綴るステートメントというか、中身の面白さや視点の独自性うんぬんで読ませるというか、そういうものだと解釈しています。勝間和代や梅田望夫といったビッグネームと名もない個人が同じようにブログやソーシャルメディアを使って発した意見を均一に一望できるのが、インターネットの本来の良さですが、現実はAmebaの成功に顕著なように、すでにリアルでプロップを得た有名人のブログにアクセスが集まるのが世の常であり、そこにネットの言説特有のパフォーマティヴな特性が絡んできて、脊髄反射しやすいメッセージばかりが飛び交ってるような印象もあります。それを衆愚社会と一方的に決めつけるのは簡単ですが、新しいものって必ずそういう清濁合わせ飲む中から生まれるので、やっぱり目が離せません。とはいえ、じっくり腰を据えて何かを読んだりするには、インターネットってまだまだ発展途上のメディアだなというのが正直な感想です。
先月、今更ですがTwitterを始めました。飽きっぽい自分ですが、今のところは飽きてないです。Twitterで140文字の制限に慣れてしまうと、ブログでまとまった文章を書くのがいきおい難しくなるというのがあり、TwitterとTumblrで動物化が目下進行中の自分にとっては、ブログすら敷居が高くなるというトホホな状況。比較的好き勝手にのびのび書けるTwitterに比べると、ひさびさということもあり、滅法カタい文章になっちゃいました。お粗末。
*追記です。明日はライヴ・イベント&25日までユトレヒトで展示もやってる模様です。
スウィート・ドリームスのスウィート・ワールド展
2009.6.16 (Tue)~6.25(Thu)
NOW IDeA by UTRECHT (03-5468-9657)
www.utrecht.jp/aoyama
〒107-0062 東京都港区南青山5-3-8 パレスみゆき201
定休日:月曜日 12:00pm~8:00pm
*6月19日はライヴ・イベント準備のため、開店時間が12:00pm~4:00pmになります。
ライヴ・イベント
6.19 (Fri) open 7:00pm / start 7:30pm
出演:M.A.G.O., OPQ, shibata & hatano
Admission: 1,000円 (incl. 1drink)
M.A.G.O.: www.myspace.com/mago3
OPQ: www.myspace.com/opq
shibata: d.hatena.ne.jp/aotoao
hatano: www.tamtam-highhat.com
音楽と、そのそばにある文化や冒険を集めたムック『スウィート・ドリームス』第3号の刊行を記念して、ささやかな展示を行ないます。
今回は、その第3号にも掲載している俵谷哲典とセス・ハイによる作品の展示。そして『Kathy』や『Carson』という名前のジンをつくってきたチーム・キャシーの面々と共同で、過去、お互いの発行物上で紹介してきたり、お互いの制作に大きな示唆を与えてくれた音楽や書籍、ジンなどを集めてみました。それらが、テーブルの上に並べてありますので、自由に手に取っていただき、CDやレコードを聴いたり、ページをめくったりしながら壁に掛けられた作品を眺め、のんびりと時間を過ごしてもらえたら、と、思っています。
また、この展示を記念して、チーム・キャシーとスウィート・ドリームスの共同で新作ジンを発行・販売します。今回、ギャラリーに集めたレコードやCD、ジンや書籍の記録と紹介を兼ね、そのひとつひとつを皆でレビューしてみました。言うなれば、スウィート・ドリームスの素、チーム・キャシーの素、とでもいうような1冊です。ぜひ読んでみてください。また、今回、作品を展示していただく俵谷哲典の新作コミックも発行・販売予定。こちらもどうぞお楽しみに!
さらに、会期中の6月19日(金)には、ライヴ・イベントも開催します。『スウィート・ドリームス』第2号にも掲載した「the teachers」という名前で布小物雑貨をつくっている冨岡映里がメンバーのフィメール・デュオ、M.A.G.O.や、玩具や日用品、さらには自作楽器から、愛らしい音の連なりを取り出していくOPQ。さらに、ボルゾイというバンドもやっているshibata(「星新一のショート・ショートのような音楽……」/shibata & asuna「pocket park」評より)が、友人である波田野州平の映像を伴った新ユニットとしてライヴ・デビューします。ぜひ皆様お誘いあわせの上、いらっしゃってください。
俵谷哲典 www.freewebs.com/tetsunori
セス・ハイ www.sethhigh.com
Team Kathy (Popdrome Service) www.popdrome.com
2009/04/16
ボディ・ランゲージの時代
某月某日。
ブログにはタイトルと本文がある。TwitterにもTumblrにもタイトルはなくボディ=本文しかない。タイトルとサブタイトルと本文の重層関係による三段論法で読者をうならせる、みたいな旧来のメディアの編集技法って、ゼロ年代末にはまだるっこしいのかも。時代はタイトルレス、ボディが同時にタイトルでありキャッチコピーである時代。
旧来のメディアのトップダウン式ロジックがある種の特権性や権力意識と結びついていることを、あたらしいメディアが気づかせてくれるというか。でも、これはインターネット黎明期に、ハイパーリンクだハイパーテキストだって散々言われてきたことのヴァージョンでしかないのかも。
外国映画の邦題に名コピー(迷コピー)がいっぱいあった時代がすっかり遠のいたこととも関係あると思う。
上に書いたようなことがなんで気になったかというと、Twitterのリンクって短縮URLなのでリンク先がどんなサイトかわからない&リンク先の説明がていねいに書いてあるなんてことは当然のごとく少なくて、「ここ」とか「これ」とか指示代名詞が添えられてる程度で、中身がわかんないから確認するという意味でもリンクに飛んじゃうことがよくあって(自分もブログの文中で「コレ」ってリンクを張るから同じことなんだけど)、実はかなり暴力的で恣意的=その場限りのコミュニケーションの作法なんじゃないの?という。
どちらが良い悪いじゃなくて、情報社会に最適化された野蛮な(かつ洗練された)ネットのコミュニケーション作法と、昔ながらの「おもてなし」に近いまだるっこしいコミュニケーション作法とでは、やはり依拠するカルチャーが自ずと違ってくる。
たぶん、リアルでは面倒くさい手続きを踏んだ生け花や茶の湯のようなコミュニケーションが、ネットではまったく逆のベクトルのコミュニケーションが、これからそれぞれ先鋭化していくのだろうなぁとぼんやり思う(なんだか、音楽がダウンロードとライヴに両極化するみたいな話だ)。
某月某日。
トレードオフという言葉がなぜか最近目につく。トレードオフ=二律背反の状態=背に腹は代えられない=エネルギー保存の法則? 人生を表象するような言葉だなぁとひとりごちる。
「エントロピーとは、覆水盆に返らず」というフレーズを今日起き抜けに思いつくが、そのあとググるとエントロピーの説明で「覆水盆に返らず」を例に上げている記事がいっぱい出てきた(笑)。
トレードオフ - Wikipedia
ブログにはタイトルと本文がある。TwitterにもTumblrにもタイトルはなくボディ=本文しかない。タイトルとサブタイトルと本文の重層関係による三段論法で読者をうならせる、みたいな旧来のメディアの編集技法って、ゼロ年代末にはまだるっこしいのかも。時代はタイトルレス、ボディが同時にタイトルでありキャッチコピーである時代。
旧来のメディアのトップダウン式ロジックがある種の特権性や権力意識と結びついていることを、あたらしいメディアが気づかせてくれるというか。でも、これはインターネット黎明期に、ハイパーリンクだハイパーテキストだって散々言われてきたことのヴァージョンでしかないのかも。
外国映画の邦題に名コピー(迷コピー)がいっぱいあった時代がすっかり遠のいたこととも関係あると思う。
上に書いたようなことがなんで気になったかというと、Twitterのリンクって短縮URLなのでリンク先がどんなサイトかわからない&リンク先の説明がていねいに書いてあるなんてことは当然のごとく少なくて、「ここ」とか「これ」とか指示代名詞が添えられてる程度で、中身がわかんないから確認するという意味でもリンクに飛んじゃうことがよくあって(自分もブログの文中で「コレ」ってリンクを張るから同じことなんだけど)、実はかなり暴力的で恣意的=その場限りのコミュニケーションの作法なんじゃないの?という。
どちらが良い悪いじゃなくて、情報社会に最適化された野蛮な(かつ洗練された)ネットのコミュニケーション作法と、昔ながらの「おもてなし」に近いまだるっこしいコミュニケーション作法とでは、やはり依拠するカルチャーが自ずと違ってくる。
たぶん、リアルでは面倒くさい手続きを踏んだ生け花や茶の湯のようなコミュニケーションが、ネットではまったく逆のベクトルのコミュニケーションが、これからそれぞれ先鋭化していくのだろうなぁとぼんやり思う(なんだか、音楽がダウンロードとライヴに両極化するみたいな話だ)。
某月某日。
トレードオフという言葉がなぜか最近目につく。トレードオフ=二律背反の状態=背に腹は代えられない=エネルギー保存の法則? 人生を表象するような言葉だなぁとひとりごちる。
「エントロピーとは、覆水盆に返らず」というフレーズを今日起き抜けに思いつくが、そのあとググるとエントロピーの説明で「覆水盆に返らず」を例に上げている記事がいっぱい出てきた(笑)。
トレードオフ - Wikipedia
2009/04/11
Stray Sheep, Straight Edge
某月某日。
代々木公園で花見だというので重い腰を上げて行ったら、こちらの勘違いで場所を間違えていたというオチ。ニコラ・テスラの呪いが春たけなわの東京を襲ったのか、代々木公園の電磁波の一極集中はすさまじく、ケータイはウンともスンとも動作せず、途方にくれてヨヨコーをさまよい歩く。花や語らいを楽しむよりケータイでベシャるのが今っぽいのか? それとも桜の写真が大量にTwitterやFrickrやモブログにアップされてるのかジャストナウ? だとしたら、これは一種の集団ヒステリー、テクノロジーの没入による没我状態、みんなで共有すれば恐くないアハ体験の集いとは言えないか? なんとか別のグループと落ち合い、知人がDJブースの横でライヴペインティングしてるというので行くと、滅法かっこよいミニマルが鳴っていて、ある者は楽しそうに、ある者はストイックに、桜の樹の下には死体があるやも知れないのに昏々と踊り続ける若者たちに、刹那の快楽に興じるということの何たるかを教えられた気がして、気がつけば自分も一心不乱に踊ってしまっていた。A-HA! そのあと、トイレに行ったら迷ってしまい、どこを見ても桜と人と生ゴミの山でチガイがわからず、一生この鏡の迷宮めいたデジャヴュー魔界ヨヨコーから出られないかもという恐怖に陥った矢先、移動中の先のグループと遭遇(なんともいえない間の悪さに、一瞬の沈黙が訪れたのだった)。教訓。花見の時期の公園は生体エネルギーを無駄に吸い取られるので注意されたし。
某月某日。
『Sweet Dreams』を独りで編集・発行している福田さんと会ってお話する。音楽・出版業界のことから、サブライム・フリーケンシーズのアラン・ビショップが数ある宗教の中でヒンズー教に一番惹かれてるらしい(彼はレバノン人なので本来であればイスラム教だろうけど)という話からジャイナ教やゾロアスター教やブッディズムについて、ワシントンDCのパンク・シーンではいま重いリフのヘヴィな音がキてる、なぜDCで興ったGO-GOはなんでもリバイバルされる時代なのにいまだにリバイバルしないのか(NYラテンとは切断された独自のストイシズムの美学を感じる)、ストレート・エッジ、黒人と白人のミクスチャー・パンクはいまいづこ(DEATHというP-VINEからリイシューされた黒人のパンクバンドがイイとのこと)、ライオット・ガールズとジン・カルチャーと婦人公論と暮らしの手帖、インターネット上のコミュニティでは未知とは出会わないという例の話、リチャード・パワーズ、フィッツジェラルド、トマス・ピンチョン、古川日出男、舞城王太郎、夏目漱石、ラフカディオ・ハーン、『日本語が亡びるとき』と教養主義、高千穂、出雲、鳥取と水木しげる、スサノオノミコトとアマテラスオオミカミと中央集権化、古来より「い」が言霊的にパワフル、松岡正剛と『遊』と『エピステーメー』、大野一雄、あたらしい舞踊の兆候&演劇に疎いという話、マクロビオティック(アンチコンのホワイ=Why?のツアー中、ビーガンであるホワイの影響で某氏がベジタリアンに目覚めたという話はとても興味深かった、そんなこともあるんだなぁ)などなど。文字に起こすと一端(いっぱし)の文化人気取りだが、端から見ればビールを飲んだくれてるオヤジにしか見えなかったと思う・・。それ以前に、僕は「あれ」とか「あれあれ」とか「あれってあれ?ですよね?」とか「☆■●△*」とか会話で固有名詞が出てこないアルツな人なのでアレだが。
代々木公園で花見だというので重い腰を上げて行ったら、こちらの勘違いで場所を間違えていたというオチ。ニコラ・テスラの呪いが春たけなわの東京を襲ったのか、代々木公園の電磁波の一極集中はすさまじく、ケータイはウンともスンとも動作せず、途方にくれてヨヨコーをさまよい歩く。花や語らいを楽しむよりケータイでベシャるのが今っぽいのか? それとも桜の写真が大量にTwitterやFrickrやモブログにアップされてるのかジャストナウ? だとしたら、これは一種の集団ヒステリー、テクノロジーの没入による没我状態、みんなで共有すれば恐くないアハ体験の集いとは言えないか? なんとか別のグループと落ち合い、知人がDJブースの横でライヴペインティングしてるというので行くと、滅法かっこよいミニマルが鳴っていて、ある者は楽しそうに、ある者はストイックに、桜の樹の下には死体があるやも知れないのに昏々と踊り続ける若者たちに、刹那の快楽に興じるということの何たるかを教えられた気がして、気がつけば自分も一心不乱に踊ってしまっていた。A-HA! そのあと、トイレに行ったら迷ってしまい、どこを見ても桜と人と生ゴミの山でチガイがわからず、一生この鏡の迷宮めいたデジャヴュー魔界ヨヨコーから出られないかもという恐怖に陥った矢先、移動中の先のグループと遭遇(なんともいえない間の悪さに、一瞬の沈黙が訪れたのだった)。教訓。花見の時期の公園は生体エネルギーを無駄に吸い取られるので注意されたし。
某月某日。
『Sweet Dreams』を独りで編集・発行している福田さんと会ってお話する。音楽・出版業界のことから、サブライム・フリーケンシーズのアラン・ビショップが数ある宗教の中でヒンズー教に一番惹かれてるらしい(彼はレバノン人なので本来であればイスラム教だろうけど)という話からジャイナ教やゾロアスター教やブッディズムについて、ワシントンDCのパンク・シーンではいま重いリフのヘヴィな音がキてる、なぜDCで興ったGO-GOはなんでもリバイバルされる時代なのにいまだにリバイバルしないのか(NYラテンとは切断された独自のストイシズムの美学を感じる)、ストレート・エッジ、黒人と白人のミクスチャー・パンクはいまいづこ(DEATHというP-VINEからリイシューされた黒人のパンクバンドがイイとのこと)、ライオット・ガールズとジン・カルチャーと婦人公論と暮らしの手帖、インターネット上のコミュニティでは未知とは出会わないという例の話、リチャード・パワーズ、フィッツジェラルド、トマス・ピンチョン、古川日出男、舞城王太郎、夏目漱石、ラフカディオ・ハーン、『日本語が亡びるとき』と教養主義、高千穂、出雲、鳥取と水木しげる、スサノオノミコトとアマテラスオオミカミと中央集権化、古来より「い」が言霊的にパワフル、松岡正剛と『遊』と『エピステーメー』、大野一雄、あたらしい舞踊の兆候&演劇に疎いという話、マクロビオティック(アンチコンのホワイ=Why?のツアー中、ビーガンであるホワイの影響で某氏がベジタリアンに目覚めたという話はとても興味深かった、そんなこともあるんだなぁ)などなど。文字に起こすと一端(いっぱし)の文化人気取りだが、端から見ればビールを飲んだくれてるオヤジにしか見えなかったと思う・・。それ以前に、僕は「あれ」とか「あれあれ」とか「あれってあれ?ですよね?」とか「☆■●△*」とか会話で固有名詞が出てこないアルツな人なのでアレだが。
2009/04/03
とりかへばや物語、カウガール編
一個前のエントリーで『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』について書いたが、実は映画の日に『チェンジリング』と『ベンジャミン・バトン』を立て続けに観たのだった。両方とも2時間以上の長尺で20世紀初頭に遡るハリウッド大作ということで共通するが、まったく違う映画だった(当たり前)。ちなみに、今年はじめて劇場で観た映画がコレ。
『ベンジャミン・バトン』は1920年代にスコット・フィッツジェラルドが書いたフィクション、『チェンジリング』は1920年代に実際に起きたノンフィクションが元になっている。蛇足ながら、デヴィッド・フィンチャーの前作『ゾディアック』では、ゾディアック事件の犯人をモデルにしたクリント・イーストウッドの『ダーティハリー』公開をエサに犯人を捕獲しようとするシーンがある。虚実の入れ子状態。さらに蛇足だが、ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーというハリウッドを代表するおしどり夫婦がそれぞれ主演。『ウォッチメン』をあきらめてこの2本を選んだのは、たぶん偶然ではなく必然だったかと。
ベルエポックだったりミッドセンチュリーだったり、ノスタルジックに古き良き時代を回顧する懐古主義と来れば、ハリウッドのお家芸というか常套手段で、現代と地続きではないことでさまざまなリアリティを棚上げした安全な圏内で物語を走らせるのはズルいよなぁと思ったりするのだけど、この2本はそんな下衆(げす)の勘ぐりを遠く離れたところで、いま作るべき作品としてキチンと成立していた。
僕はクリント・イーストウッドの近作を観てないので比較はできないが、『チェンジリング』には「悪には正義の鉄槌を下す!」というイーストウッドの完膚なきまでのカウボーイ魂が横溢していて(この場合、カウガールか?)、そのブレのない竹を割ったような終始一貫した態度にドキドキした。イマドキの複雑系な時代にこんなにシンプルでいいのか?と思うくらい、憎まれ役は憎まれ役としての役割を全うし制裁を受けるのだ。イーストウッドが全員の俳優の顔を選んでるワケじゃないんだろうけど、ちゃんとみんな憎らしい顔をしていて(特に、ニセ息子役の男の子は最後まで憎たらしい、史実では彼の供述が事件解決のきっかけになったらしい)、アンジェリーナ・ジョリーの味方になる人はみんな善良で思慮深い市民の顔つきをしている。
当初は「警察と戦いたいわけではなくて、息子を見つけたいだけ」と言ってたアンジェリーナ・ジョリーは、数々の受難のあとで敢然と毅然と戦う女になっていく。精神病院では院長に「Fuck」と捨て台詞を吐き(それまでは権力に従順な女を演じていたのに、この瞬間、彼女は変貌するのだ)、刑務所の面会で犯人の胸ぐらをつかんで「地獄に堕ちろ!」と叫ぶ(この場面は言うまでもなく事実ではなく脚色だろう)。
犯人の死刑執行はこれでもか!と言うくらいネチっこく丹念に描かれ、それをガン見するジョリーは阿修羅のごとく仁王立ち。パネェ、イーストウッド(笑)。そういえば、昔のイーストウッド映画には必ずソンドラ・ロックという痩せぎすの伴侶が付き添っていたが、なぜか彼女を思い出してしまった。ソンドラ・ロック、名前にも凄みが効いてる。
途中までは息子の誘拐に関する情報が観客には完全にシャットアウトされているので話がどう転んでいくのかわからない(フィンチャーであれば、最後までこの五里霧中なムードを引っ張るだろう)。ある場面でそれが猟奇的な殺人事件と接続されると、映画は真実の探求というゴールを見つけて走り始める。警察署の待合室で少年(=犯人の弟)がリズミカルに膝を叩く男の身振りに注力すると、犯人が斧を下ろすカットがインサートされる。なんという古典的なモンタージュの破壊力。ヒッチコックかと思ったよ。
ハスミン(この言い方って岡崎京子のマンガでもあったな)がアメリカ映画の正統的な継承者としてイーストウッドを擁護したがる気持ちもちょっとだけわかった気がした(ちょっとだけね)。ゆがんだ超広角で街と行き交う車がビシッとフレームに収まっていたり、モガな格好で電話局内をローラースケートするジョリーなど、1920年代を再現した映像や風俗が気持ちよかった。
カメラの外側から物語をながめてる風な傍観者的なフィンチャーに対し、イーストウッドは観客をグイグイとキャラクターに引きつけエモーションの手綱をたぐりよせ感情移入の美酒で酔わせる。映像/特殊効果出身と俳優出身という違いも大きいだろうし、世代の違いもあるだろうが、似たようなノスタルジックな素材を扱いながら、両者のヴェクトルは真逆でそこが面白いと思った。ただ、フィンチャーもイーストウッドも監督として手渡された物語をとことん妥協せず可視化し尽くすという点では似ている。だから、この2本のフィルムには不完全燃焼感がない。
不景気でショボくれたくなることが多い昨今だが、(素朴な感想になるが)お金をかけた圧倒的なエンタメで世界を支配するアメリカの底ヂカラは大したものだと思うし、ハーシー・チョコレートを進駐軍にねだった頃から日本人はどれだけ跳躍できたのだろうか、といぶかしむのだった(なんじゃそりゃ)。こうした一方的な文化的享受の豊かさやゼイタクさ、翻って、それを享受するだけの貧しさや空しさってなんなんだろうね。平たく言うと、やっぱりクヤシイなと。
アップル - Trailers - チェンジリング
『ベンジャミン・バトン』は1920年代にスコット・フィッツジェラルドが書いたフィクション、『チェンジリング』は1920年代に実際に起きたノンフィクションが元になっている。蛇足ながら、デヴィッド・フィンチャーの前作『ゾディアック』では、ゾディアック事件の犯人をモデルにしたクリント・イーストウッドの『ダーティハリー』公開をエサに犯人を捕獲しようとするシーンがある。虚実の入れ子状態。さらに蛇足だが、ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーというハリウッドを代表するおしどり夫婦がそれぞれ主演。『ウォッチメン』をあきらめてこの2本を選んだのは、たぶん偶然ではなく必然だったかと。
ベルエポックだったりミッドセンチュリーだったり、ノスタルジックに古き良き時代を回顧する懐古主義と来れば、ハリウッドのお家芸というか常套手段で、現代と地続きではないことでさまざまなリアリティを棚上げした安全な圏内で物語を走らせるのはズルいよなぁと思ったりするのだけど、この2本はそんな下衆(げす)の勘ぐりを遠く離れたところで、いま作るべき作品としてキチンと成立していた。
僕はクリント・イーストウッドの近作を観てないので比較はできないが、『チェンジリング』には「悪には正義の鉄槌を下す!」というイーストウッドの完膚なきまでのカウボーイ魂が横溢していて(この場合、カウガールか?)、そのブレのない竹を割ったような終始一貫した態度にドキドキした。イマドキの複雑系な時代にこんなにシンプルでいいのか?と思うくらい、憎まれ役は憎まれ役としての役割を全うし制裁を受けるのだ。イーストウッドが全員の俳優の顔を選んでるワケじゃないんだろうけど、ちゃんとみんな憎らしい顔をしていて(特に、ニセ息子役の男の子は最後まで憎たらしい、史実では彼の供述が事件解決のきっかけになったらしい)、アンジェリーナ・ジョリーの味方になる人はみんな善良で思慮深い市民の顔つきをしている。
当初は「警察と戦いたいわけではなくて、息子を見つけたいだけ」と言ってたアンジェリーナ・ジョリーは、数々の受難のあとで敢然と毅然と戦う女になっていく。精神病院では院長に「Fuck」と捨て台詞を吐き(それまでは権力に従順な女を演じていたのに、この瞬間、彼女は変貌するのだ)、刑務所の面会で犯人の胸ぐらをつかんで「地獄に堕ちろ!」と叫ぶ(この場面は言うまでもなく事実ではなく脚色だろう)。
犯人の死刑執行はこれでもか!と言うくらいネチっこく丹念に描かれ、それをガン見するジョリーは阿修羅のごとく仁王立ち。パネェ、イーストウッド(笑)。そういえば、昔のイーストウッド映画には必ずソンドラ・ロックという痩せぎすの伴侶が付き添っていたが、なぜか彼女を思い出してしまった。ソンドラ・ロック、名前にも凄みが効いてる。
途中までは息子の誘拐に関する情報が観客には完全にシャットアウトされているので話がどう転んでいくのかわからない(フィンチャーであれば、最後までこの五里霧中なムードを引っ張るだろう)。ある場面でそれが猟奇的な殺人事件と接続されると、映画は真実の探求というゴールを見つけて走り始める。警察署の待合室で少年(=犯人の弟)がリズミカルに膝を叩く男の身振りに注力すると、犯人が斧を下ろすカットがインサートされる。なんという古典的なモンタージュの破壊力。ヒッチコックかと思ったよ。
ハスミン(この言い方って岡崎京子のマンガでもあったな)がアメリカ映画の正統的な継承者としてイーストウッドを擁護したがる気持ちもちょっとだけわかった気がした(ちょっとだけね)。ゆがんだ超広角で街と行き交う車がビシッとフレームに収まっていたり、モガな格好で電話局内をローラースケートするジョリーなど、1920年代を再現した映像や風俗が気持ちよかった。
カメラの外側から物語をながめてる風な傍観者的なフィンチャーに対し、イーストウッドは観客をグイグイとキャラクターに引きつけエモーションの手綱をたぐりよせ感情移入の美酒で酔わせる。映像/特殊効果出身と俳優出身という違いも大きいだろうし、世代の違いもあるだろうが、似たようなノスタルジックな素材を扱いながら、両者のヴェクトルは真逆でそこが面白いと思った。ただ、フィンチャーもイーストウッドも監督として手渡された物語をとことん妥協せず可視化し尽くすという点では似ている。だから、この2本のフィルムには不完全燃焼感がない。
不景気でショボくれたくなることが多い昨今だが、(素朴な感想になるが)お金をかけた圧倒的なエンタメで世界を支配するアメリカの底ヂカラは大したものだと思うし、ハーシー・チョコレートを進駐軍にねだった頃から日本人はどれだけ跳躍できたのだろうか、といぶかしむのだった(なんじゃそりゃ)。こうした一方的な文化的享受の豊かさやゼイタクさ、翻って、それを享受するだけの貧しさや空しさってなんなんだろうね。平たく言うと、やっぱりクヤシイなと。
アップル - Trailers - チェンジリング
2009/04/02
ベンジャミン・バトン 数奇な人生
やっと『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』を観れました。以下、感想。
この映画はデヴィッド・フィンチャー監督が前作『ゾディアック』で発見した語り口、いたずらにエモーションを喚起させない平坦なドキュメンタリータッチで数十年にまたがる大きなタイムスケールの物語を描くという手法をメロドラマに活用した作品、と言えるのではないかと。
フィンチャー監督は、平凡な人間の平凡なありようを描くことに意識的な人だと思う。『ファイト・クラブ』は凡人が非凡な超人というオルター・エゴを構築する話だったし、『ゾディアック』は世間を震撼させたシリアル・キラーの実像が平凡な男だったことを粛々と突き止めていく話だった。大抵の映画では、平凡さは感情移入や共感のトリガーとしてあるのだろうけど、フィンチャーの扱う平凡さはそうではない。フィンチャーには「ありふれた」感を「ありふれてない」手法でツイストして撮る才能がある。
人生を逆回ししていく「逆しまの世界」を生きるベンジャミン。年齢と共に若返っていくという設定こそトリッキーだが、ベンジャミンが経験する人生はありふれた出会いと別れの連続で、気の利いた警句やアフォリズムをそこから取り出すことは簡単にできそうだ。
ベンジャミンが誕生してタグボートの船員となり旅先でエリザベスと出会い第二次世界大戦が終わって帰国するまでの前半は、軽妙で楽しい。何度か挿入される稲妻に打たれる老人のエピソードはクリスピーで笑えるし、海上の潜水艦との銃撃戦は、終始静かなこの映画で最もスペクタクルなシーンでその視覚効果と臨場感には度肝を抜かれる。
後半はベンジャミンとデイジーの恋愛が中心で、どちらかというとデイジーにウエイトが置かれている印象(全編の語り部がデイジーだから、これはデイジーから見たベンジャミンの物語でもある)。美貌と才能があるがゆえに傲慢さも持ち合わせ、勝ち組人生を送っていたが交通事故をきっかけに自己を回復していくデイジーをベンジャミンが見守るという構図で、そこに60〜70年代の風俗が絡む。20世紀の血気盛んな壮年期時代と、ふたりの壮年期を重ねているのがうまいなぁと思う(『太陽がいっぱい』まんまなヨットのシーンとか出てくるし)。
ベンジャミンとデイジーが浜辺で陽が昇るのを眺め、「これからは(老いていく)自分を可哀想とは決して思わないわ」とデイジーが言うシーンでは、ベンジャミンと死を予感した父親のシーンが反復される。朝焼けがターナーの風景画のように美しい。また、年老いたデイジーがホテルで見せる身体のラインの崩れは、老いた身体を恥じらい隠そうとする彼女の仕草も相まってなんとも切ない(若い頃のスレンダーな体型を観客がすでに知ってるだけに)。
ブラッド・ピットもケイト・ブランシェットもイイが、個人的に贔屓(ひいき)にしているティルダ・スウィントンが素晴らしい。彼女の身のこなし、演技、表情、怒り肩でやたら面積の広い豊満な背中(笑)、身体の均整は取れているのにどこかイビツでビザールな存在感、それらに目が奪われてしまう。最近では『サムサッカー』の母親役、『コンスタンティン』の天使ガブリエル役も印象に残る(ティルダに興味があれば、ぜひ『オルランド』という逸品があるのでチェックしていただきたい)。
醜いアヒルの子として祝福されずにこの世に誕生したベンジャミンは差別や拒絶やいじめを受けそうだが、この映画ではそうした否定的な感情はほとんど描かれない。捨て子のベンジャミンを育てる黒人女性のクイニー、養老院の老人たち、タグボートの船長、幼なじみのデイジー、彼らは皆、一様にベンジャミンを受け入れ、あたたかい愛情を惜しみなく注ぐ。赤ん坊のベンジャミンを捨てた父親も、最後には彼と和解しボタン製造業で築いた財産を譲り渡す。ラストのカーテンコールで、ベンジャミンに関わった人々が矢継ぎ早のカットバックで登場し、カメラ=ベンジャミンに向かって微笑みかける。これはユーフォリアでありお伽話なのだ。
また、周囲の人間との出会いと別れを逆しまに経験していけば、本来ならPTSDになりそうだが、ベンジャミンの場合、心理的葛藤や人格障害とは無縁で、自分の運命を心穏やかに受け入れていく。はじめから老成してるというか、幼少の頃から悟りや諦めのフラットな精神状態にいるわけで、逆境で培われるメンタルな成長がないということでもある。通常の人生であれば、点と点が次第に線となり面となり、記憶がカラダに累積され脳のシワに刻まれていく。自分が年を取ることで自分以外の大人たちが辿ってきた時間を身をもって反芻していくというプロセスがあるが、ベンジャミンにはそれができない。
だから、ベンジャミンは常に傍観者でオブザーバーだ。点という現在を生きることしかできない、点という現在形でしか人々の傍らに居てあげることができないから(しかし、寄り添うこと=愛であるということを、この映画は物語っていないだろうか)。『ゾディアック』でもこの傍観者的態度は貫かれていた。フィンチャーのこういう醒めた視点が僕にはとても心地よいのだが、Rotten Tomatoesによると、『ベンジャミン・バトン』に否定的な人の多くは「映像技術はスゴいが人物に感情移入できずエモーションを映画にもたらすことに失敗している」(もしくは「ハリウッド式の安全なメロドラマにセルアウトしている」)と思っているようだ。
フィンチャー組で照明を担当していたクラウディオ・ミランダの撮影、映像と音響(環境音がスーッと後景に退いていったり)はいまの時代でしか作れないクオリティ。あとアレキサンドラ・デプラのオリジナル・スコアがよかった。ウェット過ぎずアブストラクト過ぎず、ちょうどいい案配の繊細なオーケストレーション(この人の名前は覚えておこう)。
老人のような子供のVFXで思い出したのは、クリス・カニンガムが手がけたエイフェックス・ツインの『Come To Daddy』のPV。極悪なエイフェックス顔をしたオトナコドモの暴徒集団が廃墟で老婆を襲うという悪意のカタマリのような映像は、当時あまりに斬新だった(デヴィッド・クローネンバーグ『ヴィデオドローム』のオマージュ・シーンもある)。『Come To Daddy』は1997年のリリースで、時代的には1995年の『セブン』と1999年の『ファイト・クラブ』の間に製作されており、寒色系に傾いたカラー設計を含め、ほぼ同時代の空気、反逆精神を体現していたと言えるだろう。なお、シミュラークルとしての増殖する人間のVFXと言えば、1999年の『マルコヴィッチの穴』がある。
mnemonic memo: ゾディアック
この映画はデヴィッド・フィンチャー監督が前作『ゾディアック』で発見した語り口、いたずらにエモーションを喚起させない平坦なドキュメンタリータッチで数十年にまたがる大きなタイムスケールの物語を描くという手法をメロドラマに活用した作品、と言えるのではないかと。
フィンチャー監督は、平凡な人間の平凡なありようを描くことに意識的な人だと思う。『ファイト・クラブ』は凡人が非凡な超人というオルター・エゴを構築する話だったし、『ゾディアック』は世間を震撼させたシリアル・キラーの実像が平凡な男だったことを粛々と突き止めていく話だった。大抵の映画では、平凡さは感情移入や共感のトリガーとしてあるのだろうけど、フィンチャーの扱う平凡さはそうではない。フィンチャーには「ありふれた」感を「ありふれてない」手法でツイストして撮る才能がある。
人生を逆回ししていく「逆しまの世界」を生きるベンジャミン。年齢と共に若返っていくという設定こそトリッキーだが、ベンジャミンが経験する人生はありふれた出会いと別れの連続で、気の利いた警句やアフォリズムをそこから取り出すことは簡単にできそうだ。
ベンジャミンが誕生してタグボートの船員となり旅先でエリザベスと出会い第二次世界大戦が終わって帰国するまでの前半は、軽妙で楽しい。何度か挿入される稲妻に打たれる老人のエピソードはクリスピーで笑えるし、海上の潜水艦との銃撃戦は、終始静かなこの映画で最もスペクタクルなシーンでその視覚効果と臨場感には度肝を抜かれる。
後半はベンジャミンとデイジーの恋愛が中心で、どちらかというとデイジーにウエイトが置かれている印象(全編の語り部がデイジーだから、これはデイジーから見たベンジャミンの物語でもある)。美貌と才能があるがゆえに傲慢さも持ち合わせ、勝ち組人生を送っていたが交通事故をきっかけに自己を回復していくデイジーをベンジャミンが見守るという構図で、そこに60〜70年代の風俗が絡む。20世紀の血気盛んな壮年期時代と、ふたりの壮年期を重ねているのがうまいなぁと思う(『太陽がいっぱい』まんまなヨットのシーンとか出てくるし)。
ベンジャミンとデイジーが浜辺で陽が昇るのを眺め、「これからは(老いていく)自分を可哀想とは決して思わないわ」とデイジーが言うシーンでは、ベンジャミンと死を予感した父親のシーンが反復される。朝焼けがターナーの風景画のように美しい。また、年老いたデイジーがホテルで見せる身体のラインの崩れは、老いた身体を恥じらい隠そうとする彼女の仕草も相まってなんとも切ない(若い頃のスレンダーな体型を観客がすでに知ってるだけに)。
ブラッド・ピットもケイト・ブランシェットもイイが、個人的に贔屓(ひいき)にしているティルダ・スウィントンが素晴らしい。彼女の身のこなし、演技、表情、怒り肩でやたら面積の広い豊満な背中(笑)、身体の均整は取れているのにどこかイビツでビザールな存在感、それらに目が奪われてしまう。最近では『サムサッカー』の母親役、『コンスタンティン』の天使ガブリエル役も印象に残る(ティルダに興味があれば、ぜひ『オルランド』という逸品があるのでチェックしていただきたい)。
醜いアヒルの子として祝福されずにこの世に誕生したベンジャミンは差別や拒絶やいじめを受けそうだが、この映画ではそうした否定的な感情はほとんど描かれない。捨て子のベンジャミンを育てる黒人女性のクイニー、養老院の老人たち、タグボートの船長、幼なじみのデイジー、彼らは皆、一様にベンジャミンを受け入れ、あたたかい愛情を惜しみなく注ぐ。赤ん坊のベンジャミンを捨てた父親も、最後には彼と和解しボタン製造業で築いた財産を譲り渡す。ラストのカーテンコールで、ベンジャミンに関わった人々が矢継ぎ早のカットバックで登場し、カメラ=ベンジャミンに向かって微笑みかける。これはユーフォリアでありお伽話なのだ。
また、周囲の人間との出会いと別れを逆しまに経験していけば、本来ならPTSDになりそうだが、ベンジャミンの場合、心理的葛藤や人格障害とは無縁で、自分の運命を心穏やかに受け入れていく。はじめから老成してるというか、幼少の頃から悟りや諦めのフラットな精神状態にいるわけで、逆境で培われるメンタルな成長がないということでもある。通常の人生であれば、点と点が次第に線となり面となり、記憶がカラダに累積され脳のシワに刻まれていく。自分が年を取ることで自分以外の大人たちが辿ってきた時間を身をもって反芻していくというプロセスがあるが、ベンジャミンにはそれができない。
だから、ベンジャミンは常に傍観者でオブザーバーだ。点という現在を生きることしかできない、点という現在形でしか人々の傍らに居てあげることができないから(しかし、寄り添うこと=愛であるということを、この映画は物語っていないだろうか)。『ゾディアック』でもこの傍観者的態度は貫かれていた。フィンチャーのこういう醒めた視点が僕にはとても心地よいのだが、Rotten Tomatoesによると、『ベンジャミン・バトン』に否定的な人の多くは「映像技術はスゴいが人物に感情移入できずエモーションを映画にもたらすことに失敗している」(もしくは「ハリウッド式の安全なメロドラマにセルアウトしている」)と思っているようだ。
フィンチャー組で照明を担当していたクラウディオ・ミランダの撮影、映像と音響(環境音がスーッと後景に退いていったり)はいまの時代でしか作れないクオリティ。あとアレキサンドラ・デプラのオリジナル・スコアがよかった。ウェット過ぎずアブストラクト過ぎず、ちょうどいい案配の繊細なオーケストレーション(この人の名前は覚えておこう)。
老人のような子供のVFXで思い出したのは、クリス・カニンガムが手がけたエイフェックス・ツインの『Come To Daddy』のPV。極悪なエイフェックス顔をしたオトナコドモの暴徒集団が廃墟で老婆を襲うという悪意のカタマリのような映像は、当時あまりに斬新だった(デヴィッド・クローネンバーグ『ヴィデオドローム』のオマージュ・シーンもある)。『Come To Daddy』は1997年のリリースで、時代的には1995年の『セブン』と1999年の『ファイト・クラブ』の間に製作されており、寒色系に傾いたカラー設計を含め、ほぼ同時代の空気、反逆精神を体現していたと言えるだろう。なお、シミュラークルとしての増殖する人間のVFXと言えば、1999年の『マルコヴィッチの穴』がある。
mnemonic memo: ゾディアック
2009/03/29
The Secret Life Of Plants
- Cabaret Songs Ver.2 -
Cafe De Flore (Trio Reprise) - Matthew Herbert
India Song (Edit) - Kip Hanrahan
Quiet Dawn (Edit) - Archie Shepp
Brother Where Are You (Matthew Herbert Remix) - Oscar Brown Jr
Talk To Me (Edit) - Jill Scott
Quinton's On The Way (Skit) (Edit) - The Pharcyde
Poetry feat. Q-Tip, Erykah Badu & Meshell Ndegeocello - RH Factor
Distant Land (Hip Hop Drum Mix) - Madlib
Oblighetto (Brother Jack McDuff) - J Dilla
Mtume's Song - The Eddie Prince Fusion Band
Trouble Child - Joni Mitchell
Green Eyes (Edit) - Erykah Badu
Daylight - Ramp
Love In Outer Space - Sun Ra
Crepuscule With Nellie - Thelonious Monk Quartet
Outro - Madlib
ジャズドラマーの若い友人用に作ったコンピ。僕はNervyという美容室に通っているのだが(ありがたいことに今時ワンコインで坊主にしてくれる)、そこのオーナー(Lady Kさん)と先日話しをしていて、彼女がQ-Tipのライヴがアットホームな雰囲気でとてもよかった(とはいえ、懐古的というよりQ-Tip自身が上手に年を重ねてきてエンターテイナーとして成長していた)と話していて、ああやはり行っておくべきだったと思った。もう何年前になるだろう、90年代半ばにア・トライヴ・コールド・クエストとファーサイドが渋谷On AIr Eastでやったライヴ、僕もLady Kさんも同じ場所に居合わせたのだった(そのときは知り合いでもなんでもなかったのだが)。雪の日で、だからかとても鮮明に覚えている。ネイティヴ・タンが台頭して元気がよかった頃。
いとうせいこうさんのブログを読んで、スティーヴィー・ワンダーがサントラを手がけた植物を主題にした幻のドキュメンタリー映画『Journey Through The Secret Life Of Plants』がYouTubeにアップされてるのを知る。まだ全部観れてないがこれはスゴイ代物。70年代でなければ作れなかったであろうアウラに満ちている(タイム・ラプスも使われている!)。『Journey Through The Secret Life Of Plants』は僕も愛聴盤で、収録曲の「Come Back As A Flower」を妹の結婚式のBGMに使わせてもらったこともある(笑)。おそらくスティーヴィーの脂が最も乗っていた時期で、なおかつ黒人音楽のフォーマットから最も遠く離れた作品で、そのアウェイぶりは「愛の園 (AI NO SONO)」という西城秀樹もカヴァーした珍曲の存在でもわかるというもの。
アレンジは坂本龍一。メロディだけ聴いてもスティーヴィーとはにわかにわからないのでは。
2009/3/26|readymade by いとうせいこう
Cafe De Flore (Trio Reprise) - Matthew Herbert
India Song (Edit) - Kip Hanrahan
Quiet Dawn (Edit) - Archie Shepp
Brother Where Are You (Matthew Herbert Remix) - Oscar Brown Jr
Talk To Me (Edit) - Jill Scott
Quinton's On The Way (Skit) (Edit) - The Pharcyde
Poetry feat. Q-Tip, Erykah Badu & Meshell Ndegeocello - RH Factor
Distant Land (Hip Hop Drum Mix) - Madlib
Oblighetto (Brother Jack McDuff) - J Dilla
Mtume's Song - The Eddie Prince Fusion Band
Trouble Child - Joni Mitchell
Green Eyes (Edit) - Erykah Badu
Daylight - Ramp
Love In Outer Space - Sun Ra
Crepuscule With Nellie - Thelonious Monk Quartet
Outro - Madlib
ジャズドラマーの若い友人用に作ったコンピ。僕はNervyという美容室に通っているのだが(ありがたいことに今時ワンコインで坊主にしてくれる)、そこのオーナー(Lady Kさん)と先日話しをしていて、彼女がQ-Tipのライヴがアットホームな雰囲気でとてもよかった(とはいえ、懐古的というよりQ-Tip自身が上手に年を重ねてきてエンターテイナーとして成長していた)と話していて、ああやはり行っておくべきだったと思った。もう何年前になるだろう、90年代半ばにア・トライヴ・コールド・クエストとファーサイドが渋谷On AIr Eastでやったライヴ、僕もLady Kさんも同じ場所に居合わせたのだった(そのときは知り合いでもなんでもなかったのだが)。雪の日で、だからかとても鮮明に覚えている。ネイティヴ・タンが台頭して元気がよかった頃。
いとうせいこうさんのブログを読んで、スティーヴィー・ワンダーがサントラを手がけた植物を主題にした幻のドキュメンタリー映画『Journey Through The Secret Life Of Plants』がYouTubeにアップされてるのを知る。まだ全部観れてないがこれはスゴイ代物。70年代でなければ作れなかったであろうアウラに満ちている(タイム・ラプスも使われている!)。『Journey Through The Secret Life Of Plants』は僕も愛聴盤で、収録曲の「Come Back As A Flower」を妹の結婚式のBGMに使わせてもらったこともある(笑)。おそらくスティーヴィーの脂が最も乗っていた時期で、なおかつ黒人音楽のフォーマットから最も遠く離れた作品で、そのアウェイぶりは「愛の園 (AI NO SONO)」という西城秀樹もカヴァーした珍曲の存在でもわかるというもの。
アレンジは坂本龍一。メロディだけ聴いてもスティーヴィーとはにわかにわからないのでは。
2009/3/26|readymade by いとうせいこう
2009/03/28
ブックマーク中毒者の戯れ言
日々ノートブックに向かってる時間の結構な割合をブックマークをつけることに割いている。ブクマ猿かよ俺は、と思うが仕方がないのだ。
Netscapeというブラウザのブックマーク機能をコツコツ単独に使うしかなかった原始時代からすると(まだその時のブックマーク群はHTMLで保存してある、もう見ることもないだろうし大半はリンク切れだろう)、ソーシャルブックマークやRSSリーダーなどFlashやJavascriptやAjaxが実装されたウェブサーヴィス百花繚乱時代のいまは隔世の感がある。
閑話休題。NetscapeにしろInternet Explorerにしろ、初期のブラウザの名前にはネットサーフィン(死語)=ネットという大海原を航海するというメタファーが込められていたと思う。Netscapeのアイコンは灯台でIEのアイコンはグルグル回る地球。インターネットが物珍しかった時代はそれでよくて、ブラウザがなにをする道具かをユーザに一発でわからせる必要があった。最近のブラウザはそういう第一世代のミッションから解放されて、Firefox、Safari、Opera、Chromeとより自由なネーミングで身軽になってるなぁと思う(MacだとiCabやShiiraも一時期使用していた。いまはFirefoxがメインでSafariがサブ)。
効率よく情報をたぐり寄せるという意味ではブックマーク環境は昔よりはるかに便利になった。とはいえ、ブクマにかける時間的コストは昔から変わってないというか、むしろ増えてる? 扱う情報量が10年前にくらべ数百倍になってるのに、人間の脳は大して進化してないというジレンマ(参考)。
そんなわけで、時間は増えませんから、下記のものはほぼ完全にやめてしまいました。
* 企業などのメールマガジンの購読
* 各種ブログの定期巡回
* ニュースサイトの定期巡回
* RSSリーダーでニュースを読む
* mixiで日記を書く
* 新聞の購読とスクラップ
* Podcastで音楽番組を購読
一方で下記のものを積極的にはじめました。
* ブログを書く
* tumblrでreblog
* twitterでぼやく
keep looking – don’t settle.: 情報摂取の変化のヒミツ。と、新世代ウェブプロモーション。
ここまでザックリと割り切れないが、やめてしまった項目は「RSSリーダーでニュースを読む」以外はほぼ同意。「各種ブログの定期巡回」はしていないが、気になったブログを過去記事に遡って集中的に読むというのは、いまでもたまにやる。積極的にはじめました項目は「twitterでぼやく」以外は同じ(現状、Twitterは閲覧オンリー)。いつまでも過度的で未完成な僕の情報収集法はこんな感じ。
*RSSリーダーは、ウェブはGoogle Reader、iPhoneはGazette。
*RSSリーダーで気になった記事には☆マークをつける。
*RSSリーダーで☆マークをつけた記事、その他気になったサイトやページを、
Dericious(公開)
Tumblr(公開)
Google Bookmark(非公開)
Scrapbook(非公開)
・・・この4種類に振り分けて整理。
*あとで読みたい記事は、Instapaper/Read It Laterに保存。
昨年9月のエントリー時点ではNetNewsWire>Google Readerだったが、いまは逆転。NetNewsWireはウェブとMacとiPhone、それぞれのアプリの未読数が一致しないという致命的な欠陥があり、Google Readerの方が関連するアプリの選択肢も多くカスタマイズしやすいということで、出戻り。色々と試してGoogle Reader+Gazetteの組み合わせに落ち着いたのは、同期は素早いし未読数が合わないというストレスがないから。Gazetteは未読数が数百を超えると不安定になってたまに落ちるが、機能的には必要にして十分(UIはiPhone版NetNewsWireの方が好み)。
Google Readerを使いやすくするために入れてるもの。
*Firefoxのアドオン
Feedly(Google Readerを雑誌的なUIで閲覧)
Better GReader(Google Reader内で元のページをプレビューしたり色々)
Read It Later(Google ReaderにRead It Laterへの保存ボタンを埋め込む)
*Greasemonkey
Google Reader Subscriber Count
Tumblr on Google Reader
Google Reader Full Feed
Helvetireader
ReWriteGR
ブクマ依存症をそろそろ本気でどうにかしないとヤバいと思いつつ、ときどき「うぇっぷ」と吐きそうになりながら眼精疲労とドライアイでめまいを感じながら日々ブクマを続けるわたし(なにもそこまでしなくても・・)。
Netscapeというブラウザのブックマーク機能をコツコツ単独に使うしかなかった原始時代からすると(まだその時のブックマーク群はHTMLで保存してある、もう見ることもないだろうし大半はリンク切れだろう)、ソーシャルブックマークやRSSリーダーなどFlashやJavascriptやAjaxが実装されたウェブサーヴィス百花繚乱時代のいまは隔世の感がある。
閑話休題。NetscapeにしろInternet Explorerにしろ、初期のブラウザの名前にはネットサーフィン(死語)=ネットという大海原を航海するというメタファーが込められていたと思う。Netscapeのアイコンは灯台でIEのアイコンはグルグル回る地球。インターネットが物珍しかった時代はそれでよくて、ブラウザがなにをする道具かをユーザに一発でわからせる必要があった。最近のブラウザはそういう第一世代のミッションから解放されて、Firefox、Safari、Opera、Chromeとより自由なネーミングで身軽になってるなぁと思う(MacだとiCabやShiiraも一時期使用していた。いまはFirefoxがメインでSafariがサブ)。
効率よく情報をたぐり寄せるという意味ではブックマーク環境は昔よりはるかに便利になった。とはいえ、ブクマにかける時間的コストは昔から変わってないというか、むしろ増えてる? 扱う情報量が10年前にくらべ数百倍になってるのに、人間の脳は大して進化してないというジレンマ(参考)。
そんなわけで、時間は増えませんから、下記のものはほぼ完全にやめてしまいました。
* 企業などのメールマガジンの購読
* 各種ブログの定期巡回
* ニュースサイトの定期巡回
* RSSリーダーでニュースを読む
* mixiで日記を書く
* 新聞の購読とスクラップ
* Podcastで音楽番組を購読
一方で下記のものを積極的にはじめました。
* ブログを書く
* tumblrでreblog
* twitterでぼやく
keep looking – don’t settle.: 情報摂取の変化のヒミツ。と、新世代ウェブプロモーション。
ここまでザックリと割り切れないが、やめてしまった項目は「RSSリーダーでニュースを読む」以外はほぼ同意。「各種ブログの定期巡回」はしていないが、気になったブログを過去記事に遡って集中的に読むというのは、いまでもたまにやる。積極的にはじめました項目は「twitterでぼやく」以外は同じ(現状、Twitterは閲覧オンリー)。いつまでも過度的で未完成な僕の情報収集法はこんな感じ。
*RSSリーダーは、ウェブはGoogle Reader、iPhoneはGazette。
*RSSリーダーで気になった記事には☆マークをつける。
*RSSリーダーで☆マークをつけた記事、その他気になったサイトやページを、
Dericious(公開)
Tumblr(公開)
Google Bookmark(非公開)
Scrapbook(非公開)
・・・この4種類に振り分けて整理。
*あとで読みたい記事は、Instapaper/Read It Laterに保存。
昨年9月のエントリー時点ではNetNewsWire>Google Readerだったが、いまは逆転。NetNewsWireはウェブとMacとiPhone、それぞれのアプリの未読数が一致しないという致命的な欠陥があり、Google Readerの方が関連するアプリの選択肢も多くカスタマイズしやすいということで、出戻り。色々と試してGoogle Reader+Gazetteの組み合わせに落ち着いたのは、同期は素早いし未読数が合わないというストレスがないから。Gazetteは未読数が数百を超えると不安定になってたまに落ちるが、機能的には必要にして十分(UIはiPhone版NetNewsWireの方が好み)。
Google Readerを使いやすくするために入れてるもの。
*Firefoxのアドオン
Feedly(Google Readerを雑誌的なUIで閲覧)
Better GReader(Google Reader内で元のページをプレビューしたり色々)
Read It Later(Google ReaderにRead It Laterへの保存ボタンを埋め込む)
*Greasemonkey
Google Reader Subscriber Count
Tumblr on Google Reader
Google Reader Full Feed
Helvetireader
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ブクマ依存症をそろそろ本気でどうにかしないとヤバいと思いつつ、ときどき「うぇっぷ」と吐きそうになりながら眼精疲労とドライアイでめまいを感じながら日々ブクマを続けるわたし(なにもそこまでしなくても・・)。
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