2008/10/25

批評チャンプルー

10.19に行われた早稲田文学十時間連続公開シンポジウムがニコニコ動画にアップされていた(「早稲田文学」で検索するとすぐ見つかる、映像はなく音声のみ)。ヒマを持て余していたせいか、始めから通して全部聞いてしまった(笑)。メンツが豪華。文芸方面に疎い僕にもそれぞれの立ち位置や問題意識が垣間見えて、勉強になった。

まぁ、対談とかこの手のシンポジウムというのは、どうやったってパフォーマティヴにならざるを得ないので、そうした「場」というか「磁場」の形成も含めて、活字では伺い知れない生々しさを感じ取れたのは面白かった。活躍してる人は声に力があるんだなーという素朴な感想を持ったし。大森望、中森明夫、福田和也、御三方の声を聞いたのは初めて。

福田和也が丹田に力が入ったドッシリとした存在感を感じさせる声なのに対し、東浩紀や阿部和重はキンキンしていて金属質の声だ。これは世代的なものもあると思う。大澤真幸は思っていたより柔らかいソフトな話し方で、シャープな批評家然とした東浩紀と対照的。

以下、個人的に一番面白かったポッド2のテキトーなメモ+自分の感想。後半はうとうと寝ちゃったりしたので。


新城カズマ。ライトノベルはカラオケの普及に似ている。数年前は三人称が主流だったのが、最近は一人称のライトノベルが増えている。

ライトノベルを一冊も読んでなくてケータイ小説を一冊流し読みしただけの僕が言う権利もないのだが、ケータイや日記サイトやブログやカラオケやニコ動やユーチューブといった新しいツールによって、スーパー読者やスーパーユーザーが誕生し、受け手と作り手の間、二次創作と一次創作との線引きがどんどん消えていってるのは、今更ながら当たり前の光景としてあるということ。

東浩紀。空想系男子とリアル系女子という分け方が可能(男子が好むのがライトノベルやミステリー、女子が好むのがケータイ小説)。すごくウソとすごくホントの両極になっている。

昔からこの住み分けはあると思う。

渡部直己。彼は夏目漱石やヌーボーロマンを引き合いに出して近代小説イコール「描写」なのだと言い(ここでいう「描写」は東の「自然主義的リアリズム」とほぼ同じことだと渡辺は補足している)、最近の小説には「描写」がなくなって「語り」しかないと言う。近代小説が見出した「描写」の困難や可能性を今の小説に見出せない。(小説を読んで感動して小説を書きたいとかではなく)小説を読んで何らかのアクションを起こすという、その人の人生を変えうるような事件性が小説の可能性なのではないか。東浩紀は、それに対して、当時は前衛だった「描写」(や小説中の人称の変化)が今では普通になっていると指摘。

ここで話がズレるのだけれど、最近、僕はあるカルチャー雑誌で、蓮實重彦と黒沢清と青山真治の対談を興味深く読んだ。

蓮實重彦はそこで「ショット」という言葉を何度も使い、最近の映画は「ショット」が失われつつある傾向にあり、黒沢清の最新作「トウキョウソナタ」は、「ショット」の映画を作る力のある(あるいは、作ってきた)黒沢が「ショット」を抑制して作った映画だと指摘している。蓮實重彦や彼の門下生である黒沢と青山の間では「ショット」を巡る映画の言説に対する共通認識があるが、彼らはその共通認識が世界的にも理解者の少ない、狭い仲間内の言葉=ジャーゴンであることを認めている。

映画における「ショット」と小説における「描写」というのは、ほとんど同じことを指していると思う(僕の誤解や曲解でなければ・・)。渡部直己の言う「描写」は視覚的なものに由来すると、シンポジウムでも誰かが指摘していたし、渡部は蓮實重彦に影響を受けているから当然といえば当然か。

で、僕は僕なりに彼らの言う「ショット」や「描写」のコダワリはすごくよくワカる気がする。音楽の話に持っていくと、メロディやリズムやハーモニーといったストラクチャーの部分ではなく、テクスチャーとか質感とかアトモスフィアとか細部のディティールで楽しむことにも通じると思う。

音楽をメロディやリズムやハーモニーに分解してしまえば、ほとんどすべての音楽が類型的でありきたりの記号的な貧しいものになってしまうだろう(そういえば、J-POPのコード進行はひとつだという話がこのところブログ界隈で盛り上がっている、ちゃんと読んでないけど)。例えば、ブレイクビーツひとつとっても、ジェイ・ディーやマッドリブの作るブレイクビーツは明らかに他のトラックメイカーとは雲泥の差がある。ストラクチャーに回収されない豊かさがある。

「ショット」や「描写」のない映画や小説は貧しくてやせ細ったものに映るかもしれない。しかし、こうした見方も結局は、ある時代のカルチャーが要請したパースペクティヴ=視点に過ぎないのかもしれない。蓮實重彦らが対談で言っていたように、「ショット」を巡る言説はある種のフィクションであり、そのフィクションを共有しない人々からすれば、何の意味もない。「ショット」や「描写」のない映画や小説が増えているという現実をどう受け止めるかということが問題であって、その現実を否定してしまっては話が始まらない。

抽象的な話はともかく、渡辺直己が舞城王太郎や佐藤友哉の「1000の小説とバックベアード」や高橋源一郎を認めないというのはよくわかった。「高橋源一郎を殺すために批評をやっている」という剣呑な発言もあり、それに対して、池田雄一が「高橋源一郎はもはや作家はキャラクターとしてしか成り立たないことをわかっていて、(あえて戦略的に)作家というキャラクターを演じている」などと言っていた。だから、高橋が中原昌也に賞をあげたのは筋が通っていると。権威をもたらす装置として作家を演じることが作家を生き延びさせるというか、単純に作家の市場価値ってナニ?という問題設定でもある。

大森望は舞城の最新長編「ディスコ探偵水曜日」を「どうでもいいウソを突き詰めたドンキホーテ的な壮大さ」と高く評価していたので、「書いてて上機嫌なんでしょう」と舞城を批判する渡辺と、もう少し突っ込んだ対決を聞きたかった。渡辺は、苦しんで呻吟しながら「描写」の困難に立ち向かう昔ながらの小説家のイメージにこだわっているのだろう。文体の表面的な明るさや暗さが与える印象はともかく、ごくごく一般的な話として、小説を書くという仕事の困難さや大変さ、物理的な作業量のハードさは昔も今も同じだと思うのだが。東浩紀と渡辺直己がそれぞれ擁護するものが対立構造になっていて、そうした状況を客観的に語る大森望という構図だったような。

この後のポッド3で、豊崎由美が「批評と書評の違いは書評がネタばらしをしないことにある」と言っていたのも興味深かった。書評というかレビューは出版産業のベルトコンベアに組み込まれているので、基本はホメるしかない(ネタばらしは厳禁)。読者の興を殺ぐようなことができない仕組みになっている。ポッド2で、福田和也が日本の文芸批評は後進国ならではの発展の仕方をしていて、欧米のようなレビューのテクスチャーとしての厚みはない(どっちが良い悪いという問題ではない)と言っていた。これからは古典芸能としてのプロのレビューか、東浩紀の言うアマゾンのレビューすら必要じゃなくなって友達同士のレコメンドがネット上で趨勢になるという状況か、どちらかに二極化するのだろう。

大森望が言っていたように、こうしたシンポジウムで交わされる批評的な言葉と東野圭吾や「あたし彼女」のようなポピュラーな作品との解離はやはり大きな問題で、インテリあるいは文芸誌や批評と大衆小説との断絶という昔ながらの構図に収まってしまいがち。それはどちらにとっても不幸だなぁと思う。だから、東浩紀が批評のマーケットは小さいから、自分の本より何十倍も売れる作家や作品を相手にすべきだと言うのはよくわかるし、彼の抱く危機感が批評を書くことだけではなく、別のパフォーマンスに向かわせているのも理解できるのだが。

全部聴いてみてとても面白かったけれど、批評をやることの困難さも改めて感じた。どんなジャンルでも、生の現場につきあわないことには何もわからないなと思う。

2008/10/17

Dokaka

Dokakaが遂にアルバムをリリースするようだ。タイトルは「Human Interface」。詳細はHuman Interface特設ページで。

地道にライブ活動をしているという風の噂は聞いていたが、喜ばしいニュースだ。Dokakaと言えば、ビョークが「メダラ」で起用したヒューマンビートボクサーという肩書きがどうしてもついて回る。熱するのも冷めるのも早い流行り廃りの激しい音楽の世界でそのアドバンテージが有効な内にアルバムを作ってほしいと当時ヤキモキしたものだが、本人は至ってマイペースで我関せずなのが結果的によかったのではないかと思う(と同時に、一過性の現象面しか見えてない自分の了見の狭さを改めて感じる)。

ヒューマンビートボックスというのは、ライブ感のある「芸」、パフォーマンスとしては滅法面白い。しかし、それを録音物としてパッケージングするのはなかなか難しいのではないか。例えば、大きくヒップホップというジャンルに括られるだろうアフラ(Afura)にしても、プレフューズ73や石野卓球やタッカーといった外野のアーティストとコラボることで、芸風に幅を持たせている。つまり、そうしないと、一枚のアルバムとして持たないのでは?と思う。

Dokakaはヒップホップ寄りのアフラとは違い、キング・クリムゾンの「21世紀の精神異常者」を口だけで完コピするロック青年で、多重録音愛好家である。まぁ、正直、ルックスもBボーイではなくAボーイである。ハイプでヒップでオサレな流行音楽とは元より出自が違う。だからか、ゲームとは親和性が高い(実際、ゲーム関係の仕事もいくつかやっている)。その特異なオリジナリティの料理の仕方を間違えれば、ワケわからん企画モノになる可能性が高い。

ここからはタダのつまらない思い出話なので興味のない人は読み飛ばしてほしい。

4年前の年末、元Demode Recordsの立花さんとの共同企画で「NakedWildChild」というイベントをやった。約3ヶ月間、かなりのエネルギーを注いで準備したが、当日フタを開けてみると、集客は芳しくなかった。カウントダウン以外の年末イベントはお客さんの財布のヒモが締まるというジンクスがあり、追い打ちをかけるように雪が降ったのが決定的だった。DJ Kensei、竹村ノブカズと大御所を含めた出演者のパフォーマンスは素晴らしかったので、今でも胸が痛む。

Dokakaはウッドベース+ギター+ターンテーブルというバンド編成だった(実は、このイベント以前にもDokakaが出演したイベントに僕は携わっている。その時はハードディスクレコーダーとマイクによる多重録音ソロライブだった)。事前にリハを重ねたにも関わらず、今だから言えるが、出来は悪くはないがもうひとつ突き抜けられなかった。ジャズをルーツに持つ吉田兄弟のソフィスティケイトされた音楽性とDokakaの個性がうまく噛み合わなかったのが理由だと思う。噛み合わないなりのズレた面白さが出ればよかったが、そういう感じでもなかった。

たかが一回のライブでエラそうな言い方になってしまうが、これから世に出るべき新しいアーティストの個性をうまく引き出してプロデュースするって難しいんだなと身にしみて思ったのだった。告知用に作ったNakedWildChildのブログが残っていたので一応リンクを貼っておく。

思い出話、終わり。

特設ページの音源をチラ聴きする限り、他人の手が加わっている様子はない。自宅で作ったデモをそのまま音源化したような感じだ。88曲(!)+DVDという仕様は、素のDokakaとほぼイコールだろう。下手にオーバープロデュースして失敗するより、ずっと堅実で誠実なパッケージングではないだろうか。「マウス・ミュージック(Dokakaは自分の音楽を口音楽と言っていた、ヒップホップ由来のヒューマンビートボックスより、この言い方の方がシックリ来る)」の面白さやユーモアが、より幅広い層に受け入れられるといいなと思う。当時から思ってるんだけど、Dokakaがポンキッキのような幼児番組に出演するとウケるんじゃないかな。

2008/10/15

重厚長大なアップルのノート



アップルがノートブックを刷新した。今回のメジャーアップデートで、iPodを含むほぼ全てのラインアップがアルミとガラス、シルバーの筐体とディスプレイ周りの黒ブチのツートーンで統一され、アップルと言えば白、という時代が終わりを告げる(白いMacBookは販売継続)。これは大きな変化だと思う。

フロッグ・デザイン時代のアップルはベージュ色だった。僕が最初に買ったMac、LC475という平べったいハンペンみたいなマシンもベージュというかクリーム色。クリーム色に虹色のアップルロゴは、カリフォルニアの青い空から運ばれてきたアカルイミライだった。この頃の知育玩具のように微笑ましく可愛いデザインの痕跡が残っているのは、今ではDock上のファインダーアイコンの顔マークぐらいか。当時の雰囲気を伝える「MacBoy」はいまだに捨てられない。

スティーブ・ジョブズがアップルに復帰して、フロッグ・デザインからジョナサン・アイブ率いる社内デザインチームに交代し、カラフルなキャンディバーみたいなiMacがデビューした。後で知ったことだけど、当時のアップルは業績も社内事情もガタガタだったから、デザイン言語の劇的なシフトは、実は四面楚歌の崖っぷちで瀕死の人間が繰り出した捨て身の起死回生策だった。

ポリカーボネイトを採用したトランスルーセント時代のMacは異形の生き物みたいで、なんというか、アールデコやマシンエイジのデザインに匹敵するパンチの効いたツラをしていると思う。アメ車のテールフィンみたいな(笑) 例えば、日本には正規輸入されなかったeMate 300は、アグレッシブな外骨格を得た初代iBook+PowerBook G3÷2(心臓はニュートンOS)といった特異なデザインだ。フロッグ・デザインが優等生的なよい子ちゃんだとすると、この頃のMacはマッシブな不良=ワルの匂いがする。

2001年から、アルミニウム&シルバーはプロフェッショナル向けのPowerBookやタワー型Mac、ポリカーボネイト&白はコンシューマー向けのiBookやiMacという住み分けができた。トランスルーセントから一転してミニマリズム一直線なデザインで、不良が更生して背広を着るキチンとしたオトナになった風。よく白物家電という言い方をするが、家電=白という信仰はいまだに根強い。代わり映えのしない電化製品における白のイメージをアップルはリファインした。


hey | by tofslie » Blog Archive » Apple Evolution Poster
アップルのデザインの歴史をコンパクトに一枚にまとめた画像。

アップルのハードの外見はOSの進化とも連動している。アクア(Aqua)のジェリービーンズ風ボタン、ブラッシュメタルとプラスティックメタル=ザラザラとツルツルのウィンドウ。OSのヴァージョンアップのたびにアップルが提案してきたトレンドが混在するインターフェイスは、DESIGN HUB:Leopardの登場で、アピアランスの統一叶うで指摘されているように、最新OSのLeopardで一応決着を見たようだ。「ようだ」と自信のない語尾になるのは、僕がいまだにひとつ前のTigerを使っているから。

OSのアピアランスと言えば今も昔もグレーが主体で、そこにアクアブルーとグラファイトでアクセントをつけたアップルが次に取り入れたのが黒。たしかに黒は画面を引き締める。ディスプレイの黒ブチは、OSのアピアランスを外在化しようという意志の現れだと思う。MacがiPhoneのインターフェイスに近づいているというか、ハードとOSの境界にあるディスプレイの縁を黒くすることで、両者を限りなくシームレスにしたいのだろう。

今回の発表の感想としては、TKYSSTD: 節目のNew MacBook & MacBook Proに書かれた「せめてもっとアノニマスなデザインならいいんだけど。アメリカンな大味なデザインだよ、やっぱり」という意見にほぼ同意。iPhone 3Gの黒い方を実際に見た時に、黒いiPodや黒いMacBookには感じなかったような違和感があった。うまく言葉にできないけれど、白物アップルに対するカウンターだったハズの黒がトゥーマッチに思えて、なぜかミッドセンチュリーなアメリカンを感じてしまった(たぶん、黒のプラスチックボディとシルバーのリブの配分に由来すると思われる)。

ベージュ(プラスチック)>トランスルーセント(ポリカーボネイト)>シルバーと白と黒(アルミニウムとポリカーボネイト)>シルバーと黒ブチ(アルミニウム)。大まかにアップルのデザインを時代ごとに並べると、ツンとデレが交互に来ているのでは?(笑) 2000年代を引っ張ったプレーンなスタイルから、よりアクの強い男性的なスタイルへ? 一枚板のアルミを削り出すというエンスー(死語)な打ち出し方がとても男の子的でプラモデルな原理なわけで。

新型『MacBook』:アナリストの意見は「価格が高すぎる」 | WIRED VISIONで指摘されてるように、金融崩壊で資本主義が是正を余儀なくされる時代において、すべてのコンシューマーに剛性感あるアルミで覆われたハイスペックなノートブックを、というのは果たして正解なのだろうか? もはやコンピュータをハードの魅力でどうこう語る時代ではないのは了解しているが、アップルにThinkPadのような金太郎飴的なデザインを求めてはいないというか(ThinkPadはリチャード・サパーによる珠玉のプロダクトで好きだけど)。

重量級のベンツやボルボやプリウスではない、ミニやゴルフやフィアット・パンダ(まぁこれは僕の趣味)みたいな選択肢があってもいいと思う。プラスチッキーでいいからチープシックな革命を!とつぶやいてみる。

*追記

新発売の「MacBook」と「MacBook Pro」を、旧モデルと比べてみました(写真ギャラリーあり) : Gizmodo Japan(ギズモード・ジャパン), ガジェット情報満載ブログ
MacBookは旧モデルより若干軽くなり、MacBook Proは若干重く大きく。うーむ。ノートは持ち歩かずiPhoneや(来年には出る?)NetBookでモバイル、ということなのか・・。

2008/10/11

ハルキ的グローカル

東浩紀が村上春樹を例に出して、日本の文学の主流はコミットメントではなくデタッチメント(関わらないこと、距離を置くこと、超然としていること)であると言っていて、なるほどなと思った。

死者からのメッセージをただしく受信することこそが人間の本務であるという信念は世界中のすべての社会集団に共有されている。村上春樹が世界中で読まれているのは、その前衛性によってでも、先端性によってでもない。おそらくはその太古性においてである。(内田樹の研究室)

ノーベル賞はル・クレジオがとったわけだけど。村上春樹が大衆に受け入れられて批評家に受けないのは、内田樹が「蓮實重彦は村上文学を単なる高度消費社会のファッショナブルな商品文学にすぎず、これを読んでいい気分になっている読者は詐欺にかかっているというきびしい評価を下してきた」と書いている理由が大きいのだろう。内田は村上を認めない日本の批評家の「ローカリティ」を上のエントリーで非難している。

僕はその昔、村上龍派でアンチ村上春樹派だった。今はどちらでもない。しかし、村上春樹がなぜ世界で流通するのかは、おぼろげながらわかる気がする。村上春樹の文体は翻訳文体だとよく言われるが、各国語に翻訳しやすい(日本語独自の強度やクセに頼らない)プレーンで「透明」な文体である。

村上の描く物語も日本独自の風土やカルチャーに依拠しないプレーンな物語だから、どんな国(正確にはある程度豊かな先進諸国に限定される)の誰が読んでも、スッと入っていける。終生、熊野のローカリティにこだわって物語を紡いだ中上健次みたいな存在とは対照的だ。乱暴に言えば、中上は地方語=方言(dialect)で物語り、村上は標準語で物語る。どちらが優れているかはともかく、流通しやすいのは標準語である。

これは英語が標準語である世界市場で作品がどのような経路でどのような流通するかというグローバリズムに行き着く話で、ここここで映画やアニメーションについて拙いテキストに起こしたように、日本から生まれた表現が世界でどのように受け入れられているのか、僕はどうにも気になって仕方がない。

ここ最近の金融恐慌を論じる時に、「過剰流動性」という言葉がよく取り沙汰されている。何がどう過剰に金融市場に満ちあふれ、はたまた滞っているのかは経済オンチの僕にはチンプンカンプンなのだが、アングロサクソンが作り上げた流動性のシステムが強固に存在していて、そこにコミットできるかどうかで作品がふるいにかけられるというのは、厳然たる事実だろう。

ある表現が翻訳可能かどうかという話は、「村上春樹が世界中で読まれているのは、その前衛性によってでも、先端性によってでもない。おそらくはその太古性においてである」と内田が断言する話につながる。宮崎駿が世界中で支持される理由もその「太古性」にあるのであって、ぶっちゃけ、そういうものがポピュラリティを得るという構造は昔から変わってはいないと思う。

80年代、村上春樹という人がどういうところに位置していたのかは、「おまえにハートブレイク☆オーバードライブ」でラッセンをネタに間接的に語られている。

一口にその他のマス(80年代文化として回顧されない部分のマスのこと)とはいうものの、何しろ広大だから、やはりここですべて網羅することはできないが(それ以前に整理できていないのだが)、本誌20号ブルーハーツ特集で取り上げた、銀色夏生や相田みつをのようなものがひとつ大きなエリアを占めていたことは間違いない。オフコース的なるものも相当な領域を覆っていた。一群としてすぐに浮かぶのは、わたせせいぞう『ハートカクテル』、ヒロ・ヤマガタに代表されるインテリア・アートあたりか。村上春樹や、もっとさかのぼって片岡義男の小説などもこの群に数えてもいいかも。(おまえにハートブレイク☆オーバードライブ)

音楽で言えば、オフコースもその支流のひとつである70年代から80年代にかけて隆盛したニューミュージックというジャンル、アメリカの洗練されたポップミュージックを日本の風土に翻訳した一群の人々、もっと言えば、八王子出身という都市生活者としてのビミョーな距離感やコンプレックスを持っていたユーミンに代表される感受性(僕は「感性」という言葉に欺瞞を覚える育ち方をしてしまったので、いまだに「感性」という言葉を使えないのでこう書くが、言葉の意味するところは同じ)が、村上春樹にダイレクトにつながる。

“無味無臭”が、小田和正ひいてはオフコースの特徴だと先に書いたが、これらの80年代カルチャーに通底しているのは、そういう生活感のなさ、リアリティの欠如だ(おまえにハートブレイク☆オーバードライブ)

デオドラント文化というのは、80年代に育った人特有の、ある種の「呪い」なのではないだろうか。漫画家の江口寿史が当時描いた漫画でわたせせいぞうの秀逸なパロディがあって、わたせせいぞうなデオドラントな世界に「ねじ式」の少年が迷い込むと、そこはペラペラの広告看板のような舞台装置だったことが判明するという内容だった。

じゃあ、「なーんだ、田舎の古臭いフォークロアじゃなくて、都会的なアーバンシティライフ(笑)が世界でウケるってハナシじゃん!」と言われれば、まぁその通りだよね、と言うしかない。フォークナーよりもサリンジャーが好まれる、みたいな? 内田樹の言う「太古性」と矛盾する? つまり、新しいぶどう酒を古い革袋に入れるってことで、ローカルでいながらグローバルというスタンスを表すグローカル(glocal)という言葉が少し前に流行ったけど、そういうことなのかな?

阿修羅ガールのレビューでも書いたように、村上春樹的なナニカは人口に膾炙する巨大なマーケットであり、影響力というか繁殖力が大きい。村上春樹を取り巻く今の状況はあまり興味がないし、オウムの事件&「アンダーグラウンド」以降、村上が変節したとかいう話も確認したわけではないけれど、デタッチメントや死者との交信うんぬんについては、また考えてみよう。

2008/10/10

iPhoneと音楽の可能性

iPhoneについて長々とエントリーを書いてみたが、どうもイマイチ面白くない。まぁ理由は自分がiPhoneを持ってないので著しく当事者性に欠けるからだろう(笑)。気分を変えて、iPhone関連の音楽アプリについて。

iPhone用の音楽アプリはデベロッパーやソフトウェアカンパニーから続々とリリースされている。MPCライクなBeatMaker、Roland TR-909にインスパイアされたドラムマシンIR-90、iPhone版テノリオンのPaklSound1は、どれもシーケンサーとタッチパネル・インターフェイスの相性の良さを示すようなアプリだ。



BeatMakerは自分もちょっとだけ触らせてもらったが、美麗な画面とハイクオリティのサンプリング音が揃っていて、「2千円台の音の出るオモチャ」ぐらいに思っていたこちらの予想を超えたレベルにワクワクさせられた。何よりビックリしたのは、サウンドライブラリーにリチャード・ディヴァイン(Richard Divine)とマン・パリッシュ(Man Parish)の名前があったこと! MIDI Exportもサポートしてるし、ガチで本気で次世代のミュージック・インストゥルメントを目指していることがわかる。

これらのアプリは、すでにある楽器をシミュレートしたりエミュレートしたりといったアプローチの商品で、これまでに存在しなかった全く新しい概念の音楽アプリではない。パーソナル・コンピュータのパーソナルという言葉に一度夢を見てしまった人間としては、ウォークマンやiPodが個人のライフスタイルを一変させたような、ある種の発明に近いようなアイディアを具現化する環境としてもiPhoneに期待したいところ。

ということで、デベロッパーではなく個人のクリエイターが発表したiPhone用の音楽アプリを紹介。ひとつはブライアン・イーノがPeter Chilversと共同制作した自動音楽生成ソフトBloom



CloseBox and OpenPod ; ブライアン・イーノとわたしがiPhoneで奏でるアンビエント : ITmedia オルタナティブ・ブログ

デモの動画を見ると、ただ曲を流すのではなく、ユーザーによるプログラミングの融通が利く作りみたい。聴くことに集中させないような、飽きるか飽きないかの微妙なセッティングの匙加減がアンビエントのキモだったりするので、その辺もうまく出来ている。Peter Chilversのサイトにある現代音楽寄りのアンビエント作品の内、Flashで作られたdropletsは、そのままiPhoneに移植されてもおかしくない内容だ。

もうひとつは、徳井直生さんのAudible Realitiesによる3番目のiPhoneアプリ。



かつて音楽と呼ばれたもの » Blog Archive » 10 seconds ago - 今、ここを感じる音楽

これまでの2つのアプリはお遊び的な要素が大きかったが、「10 seconds ago」は10秒前の音を流すという単純な時間操作で「視覚的なコンテクストから聞こえてくる音を切り離す」、「いま、ここ」にある存在への気づきを与えるコンセプトが素晴らしいと思う。

これってアンドゥ(undo)がパソコンによって初めて可能になったことや、Wayback Machine、MacOS X Leopardで採用されたバックアップツール、Time Mashineなど、不可逆でリニアな現実時間をテクノロジーが歪ませたり逆戻りさせることにもつながる。

癒し系なコンセプトが仲間から「ぬるい」と評されたようだけれど、プロダクトとして入念にパッケージングされたアプリの傍らで、「Bloom」や「10 seconds ago」のような、シンプルなアイディアをシンプルにアウトプットした自由な発想のアプリがApp Storeに溢れてほしいと妄想している(願わくば、悪評高いアップルのアプリ登録&審査の敷居が低くなればいいなと)。

2008/10/09

Tilt Shiftの箱庭世界

前景がハッキリして後景がボンヤリした、ボケ味のある写真があるシズル感をもった「気持ちいい」イメージとして定着したのはいつ頃からだろうか。LOMOやHOLGAといったトイカメラが流行ったり、ポラロイドがリバイバルしたり。記憶は定かじゃないけれど、ボケ味のある写真は、90年代からこっちのライフスタイルというか生活意識というか風景を確実に変えたように思う。

今年の春に「チャールズ・イームズ写真展 100 images × 100 words」を観に行った。「いまさらイームズ?」という声もあるだろうけれど、そこはそれ、ムーブメントの宿命ということで。とっくにインテリアブームが過ぎた3年前に目黒美術館で観たイームズ展もギュッと凝縮された中身の濃い展覧会で、ミッドセンチュリーなポップなインテリアには興味を持てない自分でも、イームズが体現したアメリカが一番エネルギーに満ちていた時代の空気に何かしら鼓舞されたりアテられたりしたのだった。

「100 images × 100 words」は、チャールズ・イームズが終世に渡り撮りためたポラロイド写真と彼の言葉と一緒に展示した、こじんまりとしていながら芯のある展覧会で、そこで上映されていたポラロイドにまつわる映画も、身の回りのものを嬉々として写真に納めて再構築・再発見するという、その能天気なまでにポジティブな振る舞いがゼロ年代にはまぶし過ぎて新鮮だった。ポラロイドのフィルムが生産終了になったのは、時代の流れとはいえ残念。

前置きが長くなったが、最近、TILT SHIFTと呼ばれる疑似ミニチュア写真をよく見かけるようになった。本来はティルト・レンズという高価なレンズを使った手法で(TILTとSHIFTという2つのレンズ効果を使うのでこの名前がついた)、それをパソコンでシミュレートしたフェイク写真が、例えば、FlickrのThe Tilt-shift miniature fakes Poolなんかにいっぱいアップされている。TILT SHIFT写真に特化した日本人のブログ、lilliput*project:the bitter*girlsもあるほどだ。

英語版Wikipedia、Tilt-shift miniature fakingに掲載された写真を拝借すると、こんなカンジ。


オリジナル


オリジナルにTILT SHIFT効果をかけた写真

意図的にコントラストが強く、ディティールが飛んだ、被写体深度の浅い写真にすることで、太陽光ではなく人工照明に照らされたミニチュア感を醸し出す。ミニチュア感を増幅させるため、俯瞰写真が使われることが多い。実際にどうやるのかは以下のサイトを参照のこと(3つ目の英語サイトはカメラによる効果、他2つはPhotoshopのようなレタッチソフトによる効果の説明)。

Photoshop Tips - 風景写真をミニチュア写真に加工するには - by StudioGraphics

stone::tamaki: Tilt-shift miniature fakes

Build a Tilt-Shift Camera Lens for Peanuts | CreativePro.com

日本だと本城直季が第一人者で、僕も何年か前に彼の写真でこんなことができるんだ!と知ったクチ。

僕たちはすでに誰かに作られた世の中に住んでいて、何の疑問も持たずに、それを前提として当たり前のように暮らしている。たぶん、自分が写真をやっていなかったら、そうした事に気づかなかったと思うんです。「写真」という表現によって、初めて客観的に認識できる。(本城直季 - Tokyo Source)

彼の言う通り、日常で感じる自己不全感とか、アーキテクチャーの中に組み込まれている自分(普段はそれを意識しないように巧妙に管理されている)というのはとても今っぽいテーマで、ファンシーで可愛いTILT SHILT写真を「気持ちいい!」と感じる裏にはそういうコワモテな現実があるってのが面白い。

難しい話はともかく、こういう技法って広まると薄まるの法則で、しばらく大量のTILT SHILT写真を見続けてると飽きてくるのも事実(やはりプロが撮ったのは一味違う)。次なる野望じゃないけど、この写真が動いたらスゴいんだろうなと思っていたら、人間の欲望は必ずどこかで誰かが実現するもので、ISO50で発見。


Bathtub III from Keith Loutit on Vimeo.

リンク先に3つ、映像がアップされている。

BGMに使われているSonido Lasser Drakarの音楽がいかにも80年代風のニューウェイヴ・エレクトロで、映像のキッチュな箱庭テイストとの相性がイイ。あと、写真も映像もどこかに人間が入ってる方が断然面白い。俯瞰ショットと人物のバストショットを自由に行き来するようなTILT SHILTモーション・グラフィックが、「マトリックス」がブレットタイムを活用したように商業映画に取り入れられるのはそう遠くないと思う。

*10.11追記

個人的に気に入っているのが、Flickrで見つけた東京タワーからの都市景観のTILT SHILT写真。ビフォーアフター。崇高さや不気味さを感じさせる壮大な夕景がミニチュア化されると印象がガラリと変わる。大きい画像じゃないと面白さが伝わらないので、画像上部の「ALL SIZES」ボタンを押して見てほしい。オリジナル画像はHDR(ハイ・ダイナミック・レンジ)で作られていて、すでに非現実感があり、さらにTILT SHILTで非現実感が二重になっている。リアルなのにアンリアルという現実と虚構の皮膜のようなイメージにはどうしても吸い寄せられてしまう。

*10.17追記

上で紹介した動画、アチコチで話題になってるみたいで、ジオラマのコマ撮りのような映像を「逆ティルト」で撮影する(動画) : Gizmodo Japan(ギズモード・ジャパン)という記事を発見。TILT SHILTが「逆ティルト」って訳されてる。トム・ヨークのPVにすでに使われていたのは知らなかった。2006年だから早いね。さすが。

ブログはツブヤキ

一週間ぶりくらいにエントリーします。しばらく体調を崩してました。

ブログで文章を書く時に、「です・ます」調がいいのか、「である」調がいいのか、いまだに悩みます。Bloggerに移った当初は「です・ます」調で、最近は「である」調でした。

「です・ます」調の方が読み手を意識する上で適度な距離感があって、特に初めてブログを訪れた人に失礼になりにくいと思います。「である」調は断定の度合いが高いので、「エラそうだなぁ」「上から目線で物言うな」と思われやすいんでしょう。

自分の場合、「です・ます」調だとビジネスモードでよそよそしく感じるのと、まずは「自分のために書く」「気楽に言いたい放題に書く」というのが先にあって、その上で誰かが読んでくれたり共感してくれれば、というスタンスなので、ことさら読み手を意識すると変に気負ってしまい書けなくなるのではないか、という恐れが大きいです。

僕にとってブログは書くというリハビリでもあるし、気楽に書けなくなったら、ブログをやる意味もないと思うし。逆に言うと、そういった書くことへの障壁や心理的規制を「です・ます」調というクッションを間に置くことでクリアするという活用法もあるかと思います。

誰かに何かを伝えたい場合に、中身を丸裸のまま送りつけるんじゃなくて、封筒やのし袋や風呂敷や包装紙で気持ちを柔らかく包んで送るというのが日本人らしい繊細なコミュニケーション手法であって、欧米式のディベートで培った自己主張、イコール、英語には「です・ます」調がないということにもつながります。

あと、僕の言語能力の貧しさは棚上げするとして、日本語って語尾の選択肢がホントに少ないですよね。イヤになるくらい。「だ」「である」「〜だと思う」が大半で、あとは疑問形や否定形で変化球をつけるか、「と感じる」「と考える」「という気がする」「〜だろう」「〜かもしれない」ぐらいしかバリエーションがないです。

よく考えてみると、英語には「考える」とか「思う」という意味の言葉がたくさんある。“think, view, intend, expect, judge, imagine, regard, be prudent, consider, think over, reconsider, be ready for...”や“think, believe, feel, regard, expect, imagine, take for, recall, wish, love, wonder, suspect...”などである。日本語で表現しようとすると、いつも「考える」「思う」ばかりで文章が単純になってしまうのも、そのせいだ。(自分で考えることについて〜自主性なんてクソ食らえだ!)

「思う」が並びすぎたら「感じる」や「気がする」を入れようとか、無意識にやってる姑息な文章整形、文章の目鼻立ちを整える作業って空しいなーと思う時がよくあります。その代わり、英語では「i」しかない主語が、日本語では「僕」「私」「俺」「自分」・・とバリエーションがあります。相手との関係をまず意識することで始まる日本語と、関係を意識しない英語のチガイというか、日本語って相手との関わりやコンテキストをとっぱらって自分の意見を述べるということがとても不自由な言語なんだなぁと思います。

「ネット上での「頭のよさ」は、知識や思考力ではなく、構えと作法に表れる。」というTwitterで拾った言葉には頷きます(関係ないけれど、このbokuenさんという人のツブヤキ、ツボです)。ネットのリテラシーって、ほぼ8割方、「構えと作法」、文脈=コンテキストに傾いてるところがあるんじゃないかと。重要視されるのは、内容そのものより、表現の仕方、立ち位置の表明です。ネットで間接的に「つながる」ことがそもそも広大なコンテキスト空間への介入だし、2ちゃんねるの祭りとかブログ炎上ってこともそうです。

ポストモダンがこんな風に日常になるんだなぁというある種の感慨もあったりなかったりしますが。ロラン・バルトが「表徴の帝国」で「東京の中心は空虚だぁ!」(空虚は皇居と韻を踏みましょう)と言ったのも今は昔というかダイナソーのツブヤキです。「表徴の帝国」はちゃんとは読んだことないです。「明るい部屋」は学生時代に読んで感銘を受けました。いま読んだらどうだろうか。

「です・ます」調はどうなんだろう?という話から激しく脱線しましたが、次回からは「である」に戻そうかなと。そういえば、「スカイ・クロラ」のエントリーで一部の表現がキツいと指摘されたので修正しました。やっぱり、「である」だと調子に乗っちゃうんでしょうか・・。

今後もブログで(時に毒にも薬にもならない)ツブヤキやボヤキをしたためたいと思います。よろしくお願いします。

2008/10/03

Greatest Movies of All Time



イギリスの映画雑誌「エンパイア(Empire)」がThe 500 Greatest Movies of All Timeという特集を組んでいる(それぞれレビューへのリンクあり)。ベスト10はこちら

ちょうど2004年のアニメの立ち位置というエントリーで、日本のアニメーションが海外でどう評価されているのか?について触れたので、日本映画をリストから抜き出してみた(点数はレビュアーによる)。

050位:Seven Samurai「七人の侍」5点
067位:Tokyo Story「東京物語」5点
095位:Yojimbo「用心棒」5点
230位:Howl’s Moving Castle「ハウルの動く城」3点
235位:Battle Royale「バトル・ロワイヤル」4点
275位:My Neighbour Totoro「となりのトトロ」
283位:Ran「乱」5点
290位:Rashomon「羅生門」4点
339位:Spirited Away「千と千尋の神隠し」5点
340位:High And Low「天国と地獄」4点
440位:Akira「AKIRA」4点
459位:Ikiru「生きる」5点
488位:Princess Mononoke「もののけ姫」4点

黒澤明、強し。ランク入りした作品数の多さで次が宮崎、小津と深作と大友が一点づつ。「バトル・ロワイヤル」ってイギリスでこんなに認知されてたのか。「千と千尋の神隠し」より「ハウルの動く城」が人気がある結果になっているが、レビューでは逆の評価。

アメリカのレビューポータル、ROTTEN TOMATOESのオールタイムベスト100はこちら。「トイ・ストーリー2」が一位というのは謎・・。ここでも黒澤は「七人の侍」と「羅生門」がランクイン。米英でのキューブリックは、「2001年宇宙の旅」でも「時計仕掛けのオレンジ」でもなく、「博士の異常な愛情」が一番評価が高いというのも初めて知った。

ランキングは相対的評価で絶対的なものではないので、あくまで目安として。

「コッポラの胡蝶の夢」を早く観に行かなくちゃ。

2008/10/02

スカイ・クロラ



「スカイ・クロラ」にかこつけて、4年前のことを書いたら長くなったので別のエントリーで。

「スカイ・クロラ」は、最愛の伴侶である犬を喪い、体を鍛えた押井守が「犬じゃなくて人間を愛すぜ!」と肉体派宣言した映画かと思いきや、思いっきりいつもの押井映画だった。この人のペシミズム=厭世主義はやはりキモ入りだ。

たとえ、恋愛(「私を殺して!」と拳銃を突き出すのが求愛行動でもある女性を受け入れること)や仕事(戦闘機に乗り空中で這うように戦いながら人を殺すこと)、そんなこんながあっても生きるってことはアパシーなんだよ!空虚なんだよ!生きてる実感なんかマヤカシでマボロシなんだよ!と横っ面を叩くのが押井流。

この映画における恋愛も仕事も観客の我々からすれば十二分に非日常だが、一貫して気怠い日常として描かれる。キルドレは、同じようにタバコを吸い、同じようにミートパイを食べ、同じように新聞に折り目をつけて畳む仕草を繰り返す。

押井の映画に出てくる食べ物は不味そうで(実際、草薙は不味いと言う)、宮崎駿の映画に出てくる食べ物は、ハムの乗ったカップラーメンであっても美味しそう。なんと対照的なことか。

目の表情がまったくないコワモテの草薙が、函南との食事シーンで「泊まっていったら?」といきなり上着を脱ぎ始める強引マイウェイぶり。「あいつはヤバイぜ」というエクスキューズも劇中であるから、そういう演出意図なんだろうけれど。んー。これって恋愛と言えるのかな。

普段は静かで抑制された演技なのに、感情が高ぶると泣きわめくという演出手法は悪い意味で邦画っぽいというか演劇っぽい。クールにつぶやくか、大声を上げて泣くか、そのどちらかの振れ幅しかないというのは貧しい気がする。

「イノセンス」で辟易した衒学的なケムを巻く台詞は一掃されて、全編、平易な台詞回しになってるのはとても好感が持てた。脚本家を立てたのが大きいのだろう。ゲームとしての戦争が必要な理由を草薙が訥々と語る得意の長回しショットも、必要不可欠な説明で冗長ではない。

函南たち日本人パイロットが属する企業が何者で戦争をしている相手の企業が何者なのか。なぜキルドレはティーチャーに勝てない仕組みになっているのか。背景や謎は明らかにはならないが、ほめのかされている。不条理。カフカ?と思うが、冒頭で草薙はカミュとつぶやく。

キルドレは永遠のアドレッセンス=思春期を生きる。そのループの悪夢から逃げようともがく「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」とよく似ているが、こっちは悪夢を受け入れる決意があるところが違う。

それが希望か絶望かは観る人の判断に委ねられているが、作劇上エンディングはこうなるんだろうなと納得しつつも、その予定調和を破るところを僕は見てみたかった。「あなたを待っていたわ」という最後の草薙の台詞は変化の兆しなのか、そうでないのか。表向きは何も変わらず、希望は封じられているように見える。

アニメーションで大人を描くことは可能なのだろうか。

「スカイ・クロラ」には、大人を模倣するキルドレの保護者としての大人(女性エンジニアやバーのマスター)がいる。唯一、「大人の男」と称されるのがティーチャーで、函南は「父(=ティーチャー)を殺す」と言う。「ポニョ」には、主人公を見守る老人たちと強い母親と影の薄い父親がいる。いづれも、家族や代理家族や保護者としての大人である。「エヴァンゲリオン」もそうだった。

そうではない大人、子供や青年の補完ではない、大人びる、大人らしく振る舞うという形ではない、まっさらな大人はなぜ描かれないのか?

答:アニメーションには俳優という肉体が存在しないから。

学生運動に乗り遅れた世代である押井は、革命の挫折を映画で描くことが多い。「パトレイバー2」や「人狼」(監督じゃないが)しかり。押井の描く大人は、大抵、ルサンチマンの塊だ。

「スカイ・クロラ」原作者の森博嗣さんがブログで「少ない方が価値がある」と発言している。

しかし、創作は多数決ではない。シェアをより多く取る意味は何だろうか? むしろ、そういった「非効率な多数」を背負わない方が、将来の自由度は高い、とも予測できるのである。

マイノリティを貫く原作者とマイノリティを貫く映画作家。若者に向けて今までより開かれて作られたこの作品が、閉じているように見えるとしたら、二人のブレのないスタンスによる。

スカイウォーカー・サウンドで録った音響が図抜けて素晴らしい。特に、屋外のフィールド音やアンビエンスが凄かった。音楽は叙情的すぎてトゥーマッチに思えた。空のシーンに被さるシンセパッドの曲はよかった。個人的にはもう少し乾いた音の方が内容に合っているように思う。

「スカイ・クロラ」に、サン=テグジュペリのような飛行機乗りのロマンを期待してはダメ。

上映終了間近で選択肢がなく、新宿歌舞伎町の映画館で観たんだけど、館内の殺伐とした荒廃ぶりがすごかった(軽く15年くらいタイムスリップしてそうなゲームセンターとか、2005年のポスターが貼られたままのラテンダンススクールの看板とか・・)。ある意味、この映画を観るにはふさわしい環境だったかも。

野良犬の塒 : 『スカイ・クロラ』『攻殻機動隊』監督・押井守の最新情報

老舗の押井守ファンサイト。情報量が多い。押井のインタビューや「スカイ・クロラ」のレビューも辿れる。

西尾鉄也が語る『スカイ・クロラ』あれこれ

作画監督の西尾鉄也のインタビュー。モニターではなくプリントアウトでチェックしないとダメという話が面白い。引いた絵が多かった理由がそこにあったのか。井上俊之のこともちらっと。

2004年のアニメの立ち位置

「スカイ・クロラ」を観た。思い起こせば、2004年。「ハウルの動く城」と「イノセンス」と「スチームボーイ」が同じ年に公開され、僕は3本とも映画館で観ている。以下、「スカイ・クロラ」とはまったく関係のない妄言をつらつらと書いてみる。

まったくベクトルも作風も異なるこの3作が、表現と内容との著しい解離において驚くほど似ていたことに、僕は当時ある種の感慨を覚えた。まぁ平たく言うと、失望しちゃったわけである。それなりに宮崎・押井・大友を追いかけてきた者としては、こりゃマズイんじゃないかと(「じゃあ、お前がやれるの?」と言われれば、返す言葉もないが)。これは、作品が面白いかつまんないかというのとは別次元の話だ(個人的な面白さで言えば、「ハウル」>>>「イノセンス」>>>>>>>>>>「スチームボーイ」)。

監督自身が脚本を書いた「ハウル」と「イノセンス」、監督の書いた脚本に後から脚本家がテコ入れした「スチームボーイ」。非凡なアニメーターであり絵描きが作った右脳派の「ハウル」と「スチームボーイ」、絵を描けない演出家が作った左脳派の「イノセンス」。細かな違いはあるが、どれも映像表現の精度が際立って高いために、観客に訴求するためのストーリーや脚本といった物語の骨格、土台がおざなりにされていて、両者のバランスの悪さが気になった。肝心のお話がスッポ抜けていて、映像が空回りしている気がしたのだ。

商品として流通させるために精緻なリアリズム表現を突き詰めていった結果、万人が楽しめるという意味での通俗的なアニメーションとしてはもはや破綻してしまっているというか。これは作家の力量の問題もあるが、それよりも、爛熟期を迎えた日本のアニメーションが巨大産業となったことの弊害であり、そのイビツな進化がポストモダンと呼ばれるような状況に対応しているという好意的な見方もできると思う。

日本の携帯産業が国内の需要に最適化されたために特殊な進化を遂げ、挙げ句、海外の動向に乗り遅れてしまい、「日本のケータイはガラパゴスだ」と揶揄される話に一脈通じる。これはコインの表裏でもあって、閉鎖的な島国だからイビツで偏った面白いカルチャーが生まれたのも事実であり、唐突かもしれないが、ジャマイカというカリブの小国で生まれたレゲエがポピュラー音楽の世界でいまだに強い影響力を持ち、特異なポジションを占めていることも参考になるかも。

ダンスホールはゼロ年代の音楽市場において最も繁殖力のあるウイルスであり、今のヒットチャートを占めるヒップホップやR&Bはソレなしには語れない。ダンスホール=レゲエとアニメーション=オタクカルチャーは一見、水と油の関係のようだが、「動物化」という一点において重なり合うと思う。

カルトな押井や大友はともかく、より人口に膾炙する作品を連打してきた宮崎駿は普遍的な物語の担い手として世界的に評価が高いという意見もあるだろう(何年か前の「Time」誌がトヨタ社長と宮崎を「世界で最も影響力のある100人」に選んでいたのも記憶に新しい)。しかし、僕が知る限り、ベルリン国際映画祭で金熊賞を取り、アカデミー賞の長編アニメーション部門で受賞した「千と千尋の神隠し」は別格として、「ハウル」も「ポニョ」も海外で手放しに大絶賛されているわけではない気がするのだけど(参考までに)。

この国のアニメーション作家は、ヨーロッパへの憧憬やコンプレックスをバネに作品世界を構築してきた節がある。宮崎の原点のひとつはフランスのアニメ映画「王と鳥(旧題:やぶにらみの暴君)」だし、押井は「ブレードランナー」と共にゴダールの影響を公言しているし、宮崎と大友はバンド・デシネを代表するメビウスからのインスピレーションを隠さない。つまり、もともと地勢図的にはハリウッド・システムにはアンチを唱える出自を持ち、ハリウッドが量産してきた安っぽい物語や話法には与しない立場である。

だから、ヨーロッパへの憧憬を完全に消化し、日本に由来する様々なリソースをすくい上げてオリジナルの物語に抽出した「千と千尋の神隠し」が高く評価されるのはよくわかる(個人的にも「ポニョ」より傑作だと思う)。逆に、汎ヨーロッパ世界を描く「ハウル」にしろ、東欧と中国がミックスされたようなチャイニーズ・ゴシックな無国籍都市を舞台に設定した「イノセンス」にしろ、19世紀の万博博覧会をモチーフにした「スチームボーイ」にしろ、作り手がヨーロッパ人ではないのだから精緻なリアリズムにこだわるほどヨーロッパ的意匠はどこか借り物で地に足が着いていないように見えてしまうのではないだろうか。

これもアニメーションが世界市場に流通し、大人が鑑賞するゲージツ作品となったことで引き受けざるを得ないハードルや課題だ。今後、日本のアニメーションがもっと国際競争力をつけて世界市場でサバイヴしていくためには、映像表現だけがイビツに突出するのではなく、表現に拮抗するだけの説得力ある脚本やプロットやストーリーが必要になってくると思う。アニメに限らず、日本という土壌に生まれた表現が抱える問題の根深さもその辺に潜んでいる気がする。

日本のアニメーションはカルトとメインストリームの間にあるという意味で「閉じている」と思う。「このまま閉じたままやっていけばいいじゃん!」でもいいだろうし(それは決して間違いじゃない)、「開いていって、で、そこからどうするの?」ということでもある。半世紀も前に作られた黒澤明や小津の映画は、なぜあんなに閉じていながら同時に世界に開かれていたのだろう。たぶん、経済や社会状況が大きく絡んでいるのだが、今の僕に明快な答えはない。(以上、書きっぱなしの失言、多々あり)