2005/07/31

スター・ウォーズとの長いお別れ


スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐: ジョージ・ルーカス

「スター・ウォーズ」が完結した。前2作がこちらの期待を裏切る内容だったので、最終作「エピソード3 シスの復讐(The Revenge Of The Sith)」が思いの他よく出来ていたのに驚いた。SWファンの間でベストと言われる「エピソード5 帝国の逆襲」は監督のアーヴィン・カーシュナー、脚本のリー・ブラケットの尽力の賜物だから、ほぼ独力で脚本・演出・監督した本作はジョージ・ルーカスのベストワークになるかもしれない。とは言っても、監督作品は「THX-1138」「アメリカン・グラフィティ」「スター・ウォーズ エピソード4」とSW新三部作の合計6作品しかないのだが。

SWという、それ自体が作品を超えて神話になってしまった映画をもう一度監督するというのはルーカスにとって相当なプレッシャーだったのではないか。お子様向けの旧三部作から大人向けの新三部作へ、単純明快な勧善懲悪モノだったスペースオペラから複雑な政治史劇へシフトする時に、ルーカスが作品の傾向を完全に振り切れなかったというサジ加減には賛否両論あるだろう。前2作にはそれゆえの迷いが見られた。「エピソード3」で「アナキン・スカイウォーカー=ダース・ヴェイダーの物語」本来のダークなトーンがようやく形になった。生意気で自分の才能を過信する傲慢な若者ゆえにダークサイドに堕ちるというルーカスの設定は「なるほど」と腑には落ちるが、悪に染まる魅力的なカリスマが活躍するピカレスク・ロマンの方が一般受けはよかったかもしれないし、パルパティーン議長=皇帝の陰謀と帝国の誕生も、シスとジェダイを巡る善と悪のバックストーリーや共和国が帝政に至るプロセスとしての政治腐敗が十分に描かれたとは思えない。

しかし、「エピソード3」でルーカスはアナキンが議長の計略に少しづつハマっていく様子を、前2作に比べ、ずっと的を得たペース配分で丁寧に描き出している。ルーカスが多くのヒントを得ただろうトールキンの「指輪物語」では、指輪=力を得たいという暗い欲望に多くの登場人物が突き動かされる。主人公である善の体現者=ホビット族もその欲望から無縁ではない。ダークサイドの誘惑はファンタジーを成立させる基本的な要件のひとつだ。超人的な能力を持ったジェダイであるアナキンが、瀕死の状態から鉄仮面のサイボーグになることで、本来の優れた資質と恋人や師を含む人生のすべてを失ってしまうという結末はとてもシニカルだ。「ヒーローやカリスマは存在しないし、もし、存在したとしても実のところ権力の操り人形に過ぎず、すでに力は奪われている」というメッセージにも読める。また、「エピソード3」では帝国をグローバリズムを行使するアメリカのメタファーとして描こうとしているのも明らかだ。楽天主義のカタマリのような第1作からここまで様変わりしたというのは感慨深い。かくして、アナキンはシリーズ最終作となる「エピソード6」で息子であるルーク・スカイウォーカーの呼びかけで魂の奥に眠っていた善性を復活させ、物語の円環は閉じられる。

ナチスと黒澤明の時代劇から発想を得たダース・ヴェイダーという人物は、当初の血も涙もない悪漢から、「帝国の逆襲」の「私はお前の父だ」という有名な台詞で、複雑な過去を持つ両義的なキャラに変更される。東洋思想から抜け出したようなヨーダと黒人のランド・カルリシアン伯爵を配したこの作品が新三部作の発想の原点であり、大げさに言えば、この両義性・多義性がSWを今日まで生き延びさせたレゾン・デートル(存在理由)だと思う。一神教/理性/アポロン的思考ではなく、多神教/感性/デュオニュソス的思考は、多種多様な宇宙人が渾然一体となったカオスのような世界観や、「考えるのではなく感じろ」と唱えられるフォースのあり方にも現れている。ニーチェの「善悪の彼岸」じゃないけれど、単純な二元論で割り切れない仏教的とも言えるような世界観を、はるか銀河宇宙のおとぎ話として創出したことが、ルーカスの一番のクリエイティビティなのではないかと思う。

なお、ルーカスはDVDやテレビの影響で湯水のように製作費を使う大作映画の終焉を予想している。SWのような贅沢なスケールの映画はこれからは見られなくなるかもしれない。カメラが異世界の情景を優雅にパンニングする俯瞰ショットとクローズアップのショットが固有のリズムでつながっていく贅沢なヴィジュアル構成は、本作でほとんどルネサンスの画家がCGという絵筆を手にしたような完成度に達している。SWは画面の隅々にまでジョージ・ルーカスという個人の刻印を反映させた世界最大級のインディペンデント映画であり、ルーカスは稚拙だ幼稚だと批判されながらも、それを最後まで頑固に貫き通した。アップル・コンピュータと同様、70年代のアメリカ西海岸が生んだアイコンで、「パーソナルな発想が世界を変える」という理念を忠実に実践して成功したのだ。最早、万人が納得する物語は失われてしまい、マーケティングがよりセグメント化された個へと向かう時代において、SWは巨大な恐竜のように見えなくもない。

「将来も人々は必ず映画館に足を運ぶが、それは、人がいつの時代も社会体験を好むからだ」(ジョージ・ルーカス)

僕らがSWに学ぶことがあるとすれば、それは華麗なVFX技術でもエンターテイメント・ビジネスの成功談でもなく、この一点に尽きるのでは?と思う。(とにもかくにも、10代からの長い付き合いだったサブカルチャーが終了したことは意外なほど自分の中では大きかったようだ。)

Lost In Translation


ロスト・イン・トランスレーション: ソフィア・コッポラ

ソフィア・コッポラは食わず嫌いだった。前作も見てなかった。90年代を謳歌したスタイル・カルチャーの中で影響力を持つ人物という程度の認識だった。ビースティー・ボーイズは大好きだけどミルク・フェッドやガーリーは隣の出来事だった。そんな僕が彼女に関するいろんな評価を反古(ほご)にしてこの映画を見たら、意外にも瑞々しい佳作だった。

お互いを理解し合うのは困難だということ、ディスコミュニケーションのカタチをうまく描いていると思う。スカーレットは最終的に恋に落ちるわけではないから(それをも拒絶してるから)、これはラブストーリーですらない。何かが始まったり収束したりというわかりやすいドラマはない。ほのかに甘く切ないトーンに騙されてはいけない。

異郷での出会いと別れという点で、上海を未来都市のように描いたマイケル・ウィンターボトムの「CODE 46」に近い感触があるけれど、あちらは人間ドラマとしてとりこぼしてるものが多かったように思う。同じウィンターボトムの「24パーティ・ピープル」も好きになれない作品だったから、この監督とは相性が悪いのだろう。さらに遡ると、同種の傾向を持つ作品にベルトリッチの「シェルタリング・スカイ」がある。夫婦のデタッチメントを描くこの作品は、モロッコのネットリと肌にまとわりつく退廃的な空気と迷路のような街並みが今でも記憶に蘇る。ベルトリッチらしい重い郷愁が異郷で自分を見失うという設定とうまくハマっていた。

スカーレット・ヨハンソンの存在感がこの映画をグッと引き締めている。ベッドの上で横たわるお尻、口の片方を歪ませて微笑む仕草。男の監督の視点からはとらえられない女性の何でもないような魅力を引き出している。エリック・ロメールの映画を思い出したりもした。ビル・マーレイも立ってるだけで「そこにいるんだけど所在ない人」を演じられる俳優だから、2人の相性はいい。このキャスティングは成功している。

スカーレットもビルも日本人の誰とも深く交流しない(できない)。周りに霧のようなフィルターがかかってて、東京は背景に沈んでいる。彼らは東京とのリアルなコミュニケーションを拒絶している。彼らを取り巻く環境に自ら積極的に足を踏み入れることはないし、外から眺めているだけ。ゴルフ場の向こうにそびえるウスっぺらい一枚の絵のような富士山も京都も新宿の夜景もエキゾチックな観光の視点で表面をサッとなぞって終わり。ソフィア・コッポラの東京での交友録を反映したかのような東京のサブカルチャーは、誰もが指摘してるように、かなり皮肉っぽく描かれているように見える。エンドロールの後に、ヒロミックスが一瞬映るのは蛇足以外の何者でもない。

こうした冷笑的な態度に「バカにされた」と日本人が怒りを感じるのも無理はない。タランティーノが「キル・ビル」で愛すべき日本映画の記憶からどこにもない東京を捏造した熱さとは真逆だから。スカーレットはアメリカ人女優(キャメロン・ディアスがモデル)を同じように皮肉るので、特に日本人を蔑視してるというわけでもなさそうだ。そこがこの映画のとても厄介なところ。この映画には笑える箇所がいくつかあるのだけれど、自分を落として笑うのではなく、他者とのギャップを嗤うそれだから、お互いの距離を埋めて共感を生むことにつながらない。

生の希薄さ、寄りどころのなさ、傷つきやすさ(ヴァルネラビリティ)がこの映画の根底にあるライトモチーフではないだろうか。ソフィアは確信犯的にそこを突いたのではなく、自分の感じるままに撮ったら、こうなったということなのだろう。そこが多分に女性的でもある。結果的に理論武装しない生理がそのままの純度で映像になっているので、観る人によっては拒否反応を生みやすいのは理解できる。

先端的なサブカルチャーの中で浮き草のように漂い、その外側にあるものは景色として無視したり蔑視すればラクに生きられる。そんな文化エリート的な価値観は今に始まったことじゃないし、これからも続くだろう。僕にもそれは(苦い想いとして)覚えがあるけれど、個人的にはそれではもうダメだと思う。そうしたライフスタイルの貧しさや愛のなさ(まさにマイ・ブラディ・ヴァレンタイン/ケヴィン・シールズの「Loveless」?)すらも容赦なく描き出すことで、この映画はメタな文明批評になりえていると思う。反面教師的にこの映画を見ることは、僕にとってはひとつのスタディだった。

音楽はケヴィン・シールズが全面的にバックアップしている。ホテルの年増の女性シンガーが鼻歌で「ミッドナイト・オアシス」を歌うのもよかった。はっぴいえんどの「風をあつめて」をソフィアがどんな理由で選んだのかはわからない。当時、日本人にもアメリカ人にもなれない浮き草のような自分たちを「さよなら日本、さよならアメリカ」と表現した彼らの立ち位置を彼女が理解してのことだろうか? たぶんそれは深読みしすぎで、たまたま気に入っただけだろう。

ソフィア・コッポラ、ソフィアの元旦那のスパイク・ジョーンズ、ウェス・アンダーソン、ポール・トーマス・アンダーソン、トッド・ソロンズ、ハーモニー・コリン。作風は違うけど、ブラックなユーモア、醒めた態度、ミニマルな作り、体温の低さ、カタルシスに傾かない不快指数の高さ、などなど新しいジェネレーションに共通する匂いを感じる。メンタリティ的に諸手を上げて賛同するわけじゃないが、こっちは「映画」でこっちは「映画」じゃないと切り捨てるのもとてもつまらない。自分の「面白い」という価値判断や尺度をいったん保留するという態度は大事かもしれない。

2005/07/02

スピルバーグの宇宙戦争


宇宙戦争: スティーブン・スピルバーグ

「宇宙戦争(War Of The World)」は、スピルバーグが「追う/追われる」というサスペンスのエッセンス、「いつどこで襲われるかわからない」という恐怖をストレートに描いて「激突」や「ジョーズ」の頃に立ち返ったような快作。911以降のパニック・ムーヴィーの模範解答のようでもある。

スピルバーグは映画中盤まで平穏な日常をダラダラ描いて、観客の眠気を誘うようなまだるっこしいことはしない。冒頭からすぐに異変が発生し、家族思いで正義感にあふれたいつも通りのアメリカン・ヒーローを演じるトム・クルーズは、娘と息子と共に残虐な殺戮マシーンからひたすら逃げる。この簡潔でムダのないプロットが生むサスペンスは映画のほぼ全ての場面で成功している。唯一の不満があるとしたら、トム・クルーズがどんな危機に陥っても不死身だということを観客全員があらかじめ了解していることくらいだろう。

「A.I.」はスピルバーグ18番の母性愛が注入され、キューブリックが映像化していたらこんな甘さは微塵も感じさせなかっただろうと思う内容だったし、「マイノリティ・リポート」はフィリップ・K・ディックとスピルバーグという食い合わせの悪さに加え、アイデンティティ・クライシスを主軸とするディック的世界から最も遠い俳優=絶対的に自我が揺るがないトム・クルーズの起用が生んだ炭酸の抜けたソーダ水だった。

贅肉タップリだったこの2作の轍を踏むことなく、異星人との出会いという古典的な素材を使って何を描くべきか、何を描かないでおくべきかを吟味した結果、スピルバーグは「未知との遭遇」や「E.T.」を思い出させる血中SF濃度が低いゆえにSFオタクな映画作家には不可能なリアリティを「宇宙戦争」でモノにしている。

トムが苛立たしさを隠すように一瞬冷蔵庫を開けて閉める仕草、トムとスケーターをドリーで横にナメていくカメラといった些細なディティールから、地下室の中での少々くどすぎるサスペンスの展開まで、「動く絵」としての映像的快楽がリアリティを呼び込む。そのリアリティに大きく貢献しているヤヌス・カミンスキーのときおり彩度を落とした絶妙な色彩処理を施された撮影は今回も素晴らしい。

典型的なブルーワーカーの父親であるトム・クルーズと、トムを食うほどの達者な演技力で離婚した母に引き取られたホワイトカラーの娘を演じるダコタ・ファニング。ふたりの間のミゾがホットロッドの歌とブラームスの子守唄の対比で象徴的に描かれる。ラストでダコタを母親に届けてトムは立ち去り、宇宙人の敗退の原因もナレーションで説明されてアッサリと終わり。この味気なさは、スピルバーグが家族愛やもっともらしいSF設定にいかに興味がないかを物語る。古き良きSFのプロファイルに新しいルックを与えることだけに専念した今回のスピルバーグはスマートだと思う。

80年代は空が友愛に満ちていたから「E.T.」を、今は空が敵意に満ちているから「宇宙戦争」を。そのわかりやすすぎる論理的な一貫性は、スピルバーグの職業作家としての健全な思考に支えられている。その証拠に、終始シリアスでリアルな描写に徹するこの映画の中で、最後に姿を現す宇宙人の造形だけが妙にマンガちっくでパルプ・フィクションから抜け出したかのように現実離れしている。「実はこの映画はすべて作り物なんだよ」と暗黙のメッセージを伝えるように。