2009/07/12

東のエデン

『東のエデン』を観た。

昨年から、iPhone界隈でセカイカメラというAR(拡張現実)アプリが話題になっていて、そのセカイカメラにインスパイアされたような画像認識技術がこの作品に登場する(劇中では、東のエデン/エデンシステムと呼ばれ、この技術を使ってIT起業しようとする学生サークルの名称でもある)。現実世界をエアタグでクリッカブルにしてソーシャルメディア化しようというのは、とてもテクノロジー・ドリブンな楽天的な発想で、そこには言うまでもなく落とし穴があり、『東のエデン』でもエデンシステムが出会い系の巣となった結果、スキャンダル事件が起きて成功できなかったという経緯が遠回しに描かれている。

『東のエデン』は、ARだけではなくニートの就業問題や格差社会、さらにはミサイル・テロといったいまっぽい要素がテンコ盛りで、そんな「閉塞した日本の空気」を変えるために100億円の電子マネーを持たされ『デス・ノート』的な生死のゲームに他の11人のセレソンと呼ばれるメンバーと共に強制参加させられる滝沢朗と、彼を空から降ってきた(実際は裸でホワイトハウス前に出現した)王子様と思いたいが実はテロリストかもしれないし何者なの?と逡巡する森美咲とのボーイミーツガールの物語である。

ニュースやはてなブックマークの人気エントリーに上がりそうな社会的で下世話な素材をアニメに取り入れた着眼点は新鮮だが、素材の挿入で止まっていて、シリアスな社会派ドラマにも、お気楽なラブコメにも振り切れず、かといって、『デス・ノート』の荒唐無稽なハッタリを効かせた知能戦にもなりきれてないという、なんともバランスの悪い煮え切らない作品になっていると思う(その後を描く映画が控えているので評価は保留したいが、2クールの連続TVドラマとして完結した方が美しかったと思う)。

日本に11発もミサイルが落とされているのに、特別警戒態勢や戒厳令が敷かれておらず、平穏な日常が続いているのにまず拍子抜けする(好意的に解釈すれば、平和ボケしてる日本と言いたいのだろう)。また、2万人の裸のニートがドバイにコンテナ船で運び込まれるという設定に確固たる説明がなく(なぜ裸?なぜドバイ?)、ラストの11話で滝沢が「もまいら!」と2ch用語でニートたちを先導すると、滝沢に騙させて怒りを覚えているハズの彼らがロボトミー手術を施した軍隊のようにあっさり素直に従い、滝沢に言われるがままに文殊の知恵ならぬ「直列につながれ」て、一斉に携帯で間近に迫るミサイル攻撃へのアンサーをメールで打つという下りは、ハーメルンの笛吹きを模してるにしても引いてしまう。

監督の神山健治はココで、「僕らの世代がもし『ナウシカ』やったら、必ず、風の谷にもナウシカに不満をもってる奴がいるというのを描いちゃうんですよ」と語っているのだが。ナウシカや滝沢というカリスマを包含する世界観を構築するには、それを観る者に納得させるウソが必要で、滝沢はひょうひょうとした屈託のない明るい青年で人々の耳目を集める内面性やカリスマ性が欠落している。そういうミスマッチを狙ったのかもしれないが、少なくとも、こっちにはミスマッチならではのツイストが伝わってこない。内面が欠落した男がいかにカリスマになったかを瞠目すべき筆力で描き切った『ワールド・イズ・マイン』とは対照的だ。

逆に、神山健治の師匠でもある押井守ならば、転向した元左翼か『パトレイバー2』の柘植(つげ)のようなテロリストか、いづれにしても屈託のありすぎるキャラクターになってしまうところだろう。この作品の主要舞台は、六本木や豊洲などセキュリティ的に整備されたシミュラークル化した街であり(森美咲は森美術館から取ったのかな?)、押井が『パトレイバー2』で描いたような時代に取り残された薄汚れた市井の風景はほとんど出てこない。強いて言えば、ヒキコモリの天才プログラマー、板津が住んでいる京都のアパートと、最も押井的なキャラクターと言えるセレソンの近藤が殺される新宿歌舞伎町くらいか。

滝沢が根城にする豊洲のショッピングセンター=SCはその意味で象徴となりうる場所だ。神山は劇中で、ジョージ・ロメロの『ゾンビ』を引用しながらショッピングセンターは消費社会の縮図うんぬんとサークルのメンバーに言わせてサラリと流しているが、『ゾンビ』好きの僕としてはここも淡白すぎるように感じた。宮崎駿や磯光雄なら、クライマックスの豊洲SCにおける憤懣やるかたないニート=ゾンビと主人公たちの攻防をもっと活き活きした血肉化したアニメーションとして面白おかしく描いたんじゃないか。

この作品には、物語をもっともらしく成立させるウソや設定の破綻を吹っ飛ばして観客の生理に訴えかけるような情動、エモな高揚に決定的に欠けている。エモーションを形成するためのキャラクターの行動原理が不明なのだ。なんでも願い事を叶えてくれる魔法の携帯を持つ滝沢は安全で完全無欠のヒーローで、『ゾンビ』が描いたような、消費にうつつを抜かす一般人が自分たちの鏡としてのゾンビに襲われるという物語構造から生まれるリアリティには程遠い。

他にも、セレソンのほとんどが猟奇殺人とテロで日本を建て直そうとする(鼻っから建て直すことを諦めている)頭がおかしくて単細胞な人ばっかりだったり、セレソンの命令を実行するにはお金やスパコンだけではなく、実際にそれを動かす人的資源という野暮ったく七面倒臭いものが現実に横たわってるハズなのだが、それらの存在がまったく描かれなかったり、突っ込みどころが多すぎる。広告代理店とテレビ局の要請で「ハチクロのキャラでトレンディでオサレなヤングに受けるアニメを」(笑)という大人の事情でこうなったのかなとは予想できるのだが、異なる素材をもう少しうまく活かせてたら、と思うと残念。

というか、OPのオアシスの起用から拒否反応が出ていたのになぜかスルーできず、1話が期待感を持たせる出来だったので、AR(拡張現実)を扱ったSFアニメとして先行する『電脳コイル』をどのように超えるのか、または迂回してやり過ごすのかという個人的興味もあって全部観てしまったのだった。結局、ARは物語の根幹にほとんど関わらないまま終わってしまったが。(高品質なアニメーションであるのは承知の上で批判ばかりになってしまい、ファンの方はごめんなさい。特に、グラデーションではなくベタの塗り分けで精緻に描かれた背景は、グラフィカルで素晴らしかったと思う。)

あと、伏線が回収されないのは、アニメに限らず、もはや一個の作品の成立事情を超えた文化的パラダイムの問題だというのがわかったので、そういう意味でも観てよかった。神山健治が好きだというタイトルのネタ元でもある、故・杉浦日向子の「東のエデン」は読んでみたい。