2008/07/31

Bjork Volta Tour


タイミングが悪いエントリーで恐縮ですが、今年2月にビョークのライヴ(東京公演の2日目)を観た時の覚え書きをアップします。


初・武道館だった。音が悪いと散々聞かされていた武道館は、天井が高く音のヌケも思ったより悪くなかったように思った。メジャー級のアーティストのライヴというのはいったい何年ぶりか。たぶん、ジョアン・ジルベルト@パシフィコ横浜以来(調べたところ、2003年9月15日だった。アンコールでの本人フリーズには本当に唖然とさせられた)。開演前は沖縄民謡がかかっていたが、ビョークのセレクトだったのだろうか。

アイスランドの女性ホーン隊はアマゾネス軍団かスリッツのジャケットアートのようで(例えが古すぎるが路線としては一脈通じる)、ビョークが着るベルンハルト・ウィルヘルムの星の子のような衣装も相まってトライバルな部族集会に招かれたような気分。ヴォーカルとホーンの絡みは「Debut」の「The Anchor Song」を彷彿とさせ、実際、同曲はアンコールでやってくれた。reactableとテノリオン(TENORI-ON)は何曲かで演奏されたが、本物もスクリーンも小さすぎて何をやってるかがよくわからず、メディアアート寄りではない今回のような普通のライヴ会場(音の解像度がそんなに高くないところ)では持て余してしまう気がした。

序盤の「All Is Full Of Love」から「Unison」という流れで、ちょっと涙腺が緩んだ(「ホモジェニック」と「ヴェスタパイン」でそれぞれ一番好きな曲だから)。「Cover Me」はキーボーディストの弾き語りの伴奏。教会オルガンっぽい音色を使ったバロッキーかつアヴァン・ジャズなアレンジで、ヴォーカルの主旋律にキーボードが安易に寄り添わずカッコよかった。このパートがあと2、3曲あっても個人的にはよかった。今回のツアーのハイライト、「Hyperballad」の後半にLFOの「Freak」がインサートされて「Plute」、アンコールの「Declare Independence」というビョークによるマーク・ベル賛歌のような流れは(この日はマーク・ベルの誕生日でもあった)、出来ればクラブで体感したかった。イマイチ地味な印象だった「ヴォルタ」で一発で気に入ったハジけたパンク・チューン「Declare Independence」はやはりライブ映えする曲だ。

ビョークの最後までよく声が伸びるヴォーカル・パフォーマンス、アレンジを含めたサウンドのクオリティにはプロフェッショナルの矜持を感じた。ステージの右の方に行く傾向があるというのもしっかり確認。ジーナ・パーキンス、マトモス、グリーンランドの女性コーラス隊&オーケストラと贅を尽くしたヴェスタパイン・ツアーを見れなかったのはつくづく後悔。

閑話休題。改めて思うが、大箱のコンサートというのはオトしどころが難しい表現形態なのではないだろうか。じっくり聴こうと思ってる間に曲はどんどん流れていくし、小箱のライヴハウスのようにミュージシャンの息遣いを感じるような親密な一体感はなく、クラブのように踊ったりボディソニックを感じるわけにもいかず、なんとなく取り残されてしまうというか不完全燃焼感が残るというか、音に没入したいのだけれどうまくシンクロできないというか(自分だけかも・・)。音響設備のいい最近のシネコンではこういう風には感じない(しかも映画の方が料金は安い)。一回性の祝祭としてのライヴというのはこれからも揺るがない価値を持つだろうけれど、リスニングとライヴの溝を埋めるような視聴スタイルというか体験型エンターテイメント(を可能にするハード/ソフト)が出てこないのかな。出てきてほしい。いやきっとそのうち出る気がする。そんな希望とも妄想ともつかない感想も残ったのだった。

bjork.com : gigOgraphy
当日のセットリスト。
Volta: Bjork
Bjorkもお気に入り、透明ブロックを操作する電子楽器『reactable』(1) | WIRED VISION
Bjorkもお気に入り、透明ブロックを操作する電子楽器『reactable』(2) | WIRED VISION

2008/07/30

David Byrne

最近のデヴィッド・バーン(元トーキング・ヘッズ)の活動を熱心に追いかけていたわけではない不真面目なファンだが、数年前にスリル・ジョッキーからリリースされたサントラ「Lead Us Not Into Temptation: David Byrne」はなかなか素敵な出来だったし(一番新しいソロはまだ聴いていない)、ここに来てまた彼の名前をチラホラと見かけることが多くなったので、溜まったブックマークを一度整理しておきます。


David Byrne and Brian Eno - Everything That Happens Will Happen Today

2006年にノンサッチからリイシューされた「ブッシュ・イン・ザ・ゴースト」がきっかけとなって、今回のイーノとのプロジェクトが始まったらしい。この2人だから同窓会的なヌルいものにはならないハズと期待したい。ベースとなる楽曲はイーノが作り、そこにバーンが歌を加えたアルバムで、「ブッシュ・イン・ザ・ゴースト」のようなカットアップ/コラージュを求めると違うみたい。このタイトルは示唆に富んでいて響きもとてもいいと思う。デジタル・ダウンロードによるリリース。


My Life in the Bush of Ghosts: Brian Eno, David Byrne

「Everything That Happens Will Happen Today」について、「リリックや音楽の不吉な屈折にも関わらず、ほとんどの楽曲には高揚感があり、全体のトーンは希望に満ちている」とバーンは自身の日記に書いている。この言葉はそのまま30年前の「ブッシュ・イン・ザ・ゴースト」にも当てはまると思う。ダニー・クリヴィットもリエディットしたクラムジーな(ぎこちない)ニューウェイヴ・ファンク「The Jezebel Spirit」をはじめ(ご存知のようにトーキング・ヘッズはガラージ・クラシックでもある)、今聴いても他では味わうことのできない高揚感、イッちゃってる感があり、異文化ドロボーと揶揄された神をも恐れぬ(?)オプティミスティックでヒプノティックな初期サンプリング・ミュージックの可能性が詰まっている。上に挙げたジャケットはオリジナル(リイシュー版よりこっちの方が断然カッコイイと思うのだけれど)。



MySpace.com - THE BPA

デヴィッド・バーンの特徴のある声はX-PRESS 2がフックアップしてクラブ界隈でも知られることになった(この手のコラボは昔からジョン・ライドンとレフトフィールドとか珍しくはないけれど)。新しいところではノーマン・クックのユニット、THE BPA(マイスペの肩書きはサイコビリー/パワーポップ)の「Toe Jam」にディジー・ラスカルと共に参加している。バーンの声がキッチュな表情を加え、サイコビリーというかヒルビリーというかカントリー調にも聴こえるのがおかしい。



'playing the building' by david byrne

デヴィッド・バーンによる「playing the building」というサウンド・インスタレーション(ニューヨークで2008年8月まで開催)。ビルを楽器に見立て、オルガンから伸びたワイアーがビルの柱や梁(はり)や冷却器に取り付けられた装置とつながっていて、キーを押すと信号が伝わり音が出るという仕組みらしい。ローテク、歴史へのレファレンス(参照)を持たない、アイディアを子供のように直球で具現化する態度。そういうところがとても彼らしい。



David Byrne's Survival Strategies for Emerging Artists — and Megastars

ワイアード・マガジンがデヴィッド・バーンをフィーチャーした特集。「新しいアーティストやメガ・スターがひしめく中でサバイヴするための戦略」とあるように、ベテランのアーティストがいかに生き馬の目を抜く音楽業界でやっていくかが最新の音楽動向と共に分析されている。(未読)



David Byrne and Thom Yorke on the Real Value of Music

同じくワイアード・マガジンによるデヴィッド・バーンとトム・ヨークの対談。(未読)


David Byrne Journal

デヴィッド・バーンの個人サイト。

2008/07/29

2005

2005年に旧ブログに書いた映画と本のレビューをアップしました。なんだか読みづらい箇所が多かったのでかなり書き直してしまいました。3年前ってものすごい昔のように感じますね。

mnemonic memo: 誰も知らない
mnemonic memo: ゼロ年代のゾンビ
mnemonic memo: スター・ウォーズとの長いお別れ
mnemonic memo: Lost In Translation
mnemonic memo: スピルバーグの宇宙戦争
mnemonic memo: Batman Begins
mnemonic memo: サイバーパンクという墓標

2008/07/28

屈託のないシャマラン



M・ナイト・シャマランの「ザ・ハプニング」を観ました。以下、シャマランの全作品を観ているシャマランに好意的なひとりの人間のレビューとして読んでください(ネタバレあり)。

シャマランは、市井の人々による小さな物語を限定された場所で描く、どこまでもミニマルな作家だと思う。「シックス・センス」のヒットで大いに誤解されることとなったが、この人は大向こうを唸らせるような大きな物語は作ら(れ)ない。スーパーナチュラルな超常現象を取り上げることが大好きでも、その小さなフレームからは絶対にハミ出さない(だから、つまらないという批判も浴びやすい)。テロや地球温暖化やエコロジーといった今っぽいテーマを盛り込んだ「ザ・ハプニング」は、同じようなディザスター・ムーヴィーである「宇宙戦争」や「トゥモロー・ワールド」に比べると、その小品としての佇まいに潔さすら覚える。

モンスターも宇宙人も出てこない、CGはゼロ、襲いかかる脅威は風にそよぐ木々や草原の描写のみと、いかにも低予算映画を地でいく作り。後半は登場人物がひとり、またひとりと消えていき、(そこに演出上の意図はあるとしても)あれよあれよという間にスケールダウン、尻すぼみになっていく。かといって、「クローバーフィールド」のような最近流行りのPOV(ポイント・オブ・ビュー)映画であるハズもなく、撮り方は極めてクラシカル。

謎の集団自殺現象からの逃避行とオーバーラップして語られる、関係が冷めた主人公夫婦(+友人の娘の3人)が事件を通じて愛情を取り戻すというお決まりの展開は屈託やヒネリがなく、そこに感情の軋みによるサスペンスの相乗効果は生まれない。「シックス・センス」であれば、まさか誰も幽霊とは思わない肉体という実体を持ったブルース・ウィルス、「アンブレイカブル」であれば、不死身の肉体を持つブルース・ウィルス(見てくれそのまま)、という仕掛けがあったし、「サイン」のメル・ギブソンには元牧師という信仰に関するトラウマがあったのだけれど、今回の肉体派で粗野なイメージのマーク・ウォルバーグの起用に何ら特別なエクスキューズはない。マーク・ウォルバーグは「決してあきらめない」タイプの平凡で朴訥なタフガイであり続けるだけだ。関係ないが、「サマー・オブ・サム」「ランド・オブ・ザ・デッド」で記憶に残ったジョン・レグイザモが今回も味のある演技と存在感を見せてくれる。

たぶん、酷評された前作「レディ・イン・ザ・ウォーター」で、シャマランは商業映画が要請する拘束から自由になって、良くも悪くも吹っ切れたのではないかと思う。ことさら広げた大風呂敷を畳まなくても、観客をだます仕掛けを作らなくても、自分らしい映画は作れると開き直ったのではないか。「レディ・イン・ザ・ウォーター」は、「絵空事の(ひとりよがりな)ファンタジーがあってもいいじゃん」と堂々とヌケヌケと宣言しちゃった困った映画である。なにも「ロード・オブ・ザ・リング」の地平を目指さなくても、ファンタジーのベースとなる神話の設定がショボくて大人げなくても、世界観を成立させる「もっともらしさ」を切り捨てても、綻びまみれの「レディ・イン・ザ・ウォーター」にはファンタジー映画を作ろうと思えば作れるんだという向こう見ずさ、一本気の清々しさが感じられた。
 
今回も、そういう意味で、伏線をキッチリ回収したり謎を解明する作業は放棄しちゃっているし、そもそも伏線が生まれようがないほどシンプルなプロットなのだ。展開は早いし、思わせぶりなところもなく、今までになく人がバタバタと死んで、サクサクと進行し、後味もアッサリ。「宇宙戦争」のスピルバーグと同じように屈託がなくて残酷でもある。ありがちな物語は、それを物語る語り口、細部への目配せ、個々のショットのシーケンスとして微積分され、そこには純粋にサスペンスがある(あたかも、劇中で携帯電話から何ものかに襲われた声が「微積分!微積分!」と繰り返すように)。小道具としては携帯電話が多用され、そんなところでiPhoneのタッチスクリーンを使うか・・と苦笑せざるを得ないシーンもある。

ユーモアはそれなりにある。逃避行の後半で立ち寄る無人の家では、主人公が話しかける植物もテーブルの上の食べ物もTVもすべて作り物で、何かの伏線かと思えば、そこはモデルハウスだったというオチがつく(あえて深読みすれば、平均的なアメリカ人のライフスタイルの空虚さへの批判?)。クライマックスの舞台となる世間を拒絶して生きる老婆の家で主人公たちはディナーに招かれるのだが、娘がテーブルの上のクッキーを取ろうとすると、老婆が鬼のような形相でピシャっと彼女の手を叩くシーンには(笑うところじゃないのだが)笑ってしまう。その食事の後、妻が「あの女の人はエクソシストに出てくる人みたいで嫌いだわ」と夫に言うと、本当にそのイヤな予感が的中する。翌朝、夫が遭遇するのは(わざわざ書くのも野暮だが)ヒッチコックの「サイコ」を思わせる場面だ。

事件が解決し、妻が自分の部屋でそわそわした様子で何かを不安気に待っている。その直後のカットで、自分が妊娠したかどうかを調べていたことがわかるのだが、それを前もって知らされていない観客は、「危険が去ったかに見えて、彼女の体に異変が起きているのではないか(もしくは、夫婦仲が戻ったように見えて、浮気相手からの電話を待っているのではないか)」と思ってしまう。さらに、妊娠=主人公夫婦の関係回復という幸福の裏側では新たな脅威が・・というラストもB級ホラー映画の定石ながらキレイにまとまっている。

週末のドライブ・イン・シアターでポップコーンを齧りながら観る、ハリウッドの黄金時代に大量に作られたプログラム・ピクチャーそのものと言えばそう。ことさらトリッキーな映像表現を用いなくても、スピルバーグとヒッチコックが好きでたまらないことが手に取るようにわかるサスペンスの持続のみで映画を成立させる手腕は、とても好感が持てる。願わくば、シャマランには(世間から酷評を浴び続けられようとも)ミニマルな小品映画を作り続けてほしいと思う。

The Happening (2008 film) - Wikipedia

Roy Haynes



ウィ・スリー: ロイ・ヘインズ, フィニアス・ニューボーン, ポール・チェンバース

現役のジャズのドラマーさんと話す機会があった。

トニー・ウィリアムスとエルヴィン・ジョーンズによって完成されたモダン・ジャズのドラミングの源流を訪ねると、40年代末ぐらいにロイ・ヘインズがやっていたことに行き着くのではないかという(あくまで私見ですが、と彼は断っていたが)。ロイ・ヘインズは、レスター・ヤング、その後は、チャーリー・パーカーというビバップの巨匠とパーマネントに組んでいて、同時期のアート・ブレイキーはアフロ・キューバンなビートを取り入れて明快なスタイルを作り出したが、ロイ・ヘインズはおそらく誰の影響というわけでもなく、独自のドラミングを自ら作り出したのではないかということだ。が、ロイ・ヘインズのドラミングを一言で表すような言葉は浮かばないという。

僕は、ビバップの良さが最初わからなかった人である(アート・ブレイキーはワールド・ミュージック/ダンス・ミュージックの耳でもすんなり聴けて、昔から好きだった)。チャーリー・パーカーの超絶なテクニックと凄まじいエネルギーはマンマシンのようで人間を超越してるかのように聴こえてしまい(いったい、人間という言葉が何を指して何を支持するのかはともかくとして)、たしかにスゴい!と思ったが、アメリカが最も豊かだったミッドセンチュリーの時代からとっくに遅れて生まれた自分には、とっかかりがなくて距離が遠かった。単純に調性感が薄かったのもデカいと思う。チェット・ベイカーとかスタン・ゲッツとか西海岸の(コアなジャズ・ファンからは軟弱と思われてるような)ジャズの方が、ポップで全然とっつきやすかった。これは、ヒップホップの時代にも思ったことだ。東海岸の音はおしなべてシャープでアトーナルで(調性感がなく)アバンギャルドでオプレッシブ、西海岸の音はユルくてメロウで人懐っこく解放的。大変アバウトな比較で申し訳ないが、そういうことは言えたと思う。どっちが優れているかというような論議はいまさら無意味だろう。

ジャズを聴き始めた僕が自然に共感できたのは、やはり60年代以降のものであり、それ以前のジャズはどこか別世界でよそよそしく鳴っていたり、レトロ、クラシック、エバーグリーン、オールドタイム、アウト・オブ・デイト、そんな言葉といっしょにホコリをかぶったレコード棚に埋蔵されていて、仮構されたノスタルジー、その時代をリアルに体験していないがヴァーチャルに追体験できるという意味で、こちらが能動的に再発見していくべき音楽だった。だから、90年代にモンドというムーブメントが現れたのは必然だったのだろうけれど、そうしたカテゴライズの弊害が(以下略)。

また、話がとっちらかってしまった。ロイ・ヘインズ、聴いてみようかな。そして、Jackson Contiをまだまだ聴いている。

2008/07/25

Jackson Conti


Sujinho: Jackson Conti

前作「Yesterdays Universe」で感じた手応えは間違いではなかった。そのアルバムに収録された2曲を含むマッドリブとアジムスのドラマー、イヴァン・コンティによるJackson Conti名義によるブラジル音楽カバー集は、低刺激で、聞き手を脅かすことのない、芳醇な音楽がただただ当たり前のように鳴っている。よく聴けば、相当にネジれてもいるのだが、それを下品にあからさまにはしない。ヒップホップが大人の音楽に脱皮する可能性はこういうところにあるのだろう。もはや革新的な目を剥くような要素はないが、だからこそ、世界的なデフレ、低成長時代であるゼロ年代にジャストフィットしていると言いたくなる同時代性がある。誤解を恐れずに言えば、本作は極上のリラクゼーションを約束するイージーリスニング・アルバムであり、70年代のA&MやCTIレコーズの密室的で控えめなスタジオ録音がストリートワイズに還元されたかのような風合いを持っている。ドラムやパーカッションが常に前景でドタバタと鳴っていて、そこにはまぎれもなくヒップホップの刻印が認められるのだ。

長尺の曲である「Papaia」(まるでプログレかトータスの曲のように聴こえる)や「Segura esta Onda」をはじめ、ジョージ・デューク(本作でもカバーされている)のエントリーで書いたヨコ軸の運動性がどの曲でも遺憾なく発揮されている(だから、僕は先の苦言を喜んで撤回しよう)。例えば、ボサノヴァの定型(リムショットがクラーベのリズムを刻む有名なアレ)を崩したリズムに聴こえる「Waiting On The Cordner」も延々と同じビートが刻まれることはない。オーバーダビングされたウワモノのキーボードと互いに干渉し合いシナジーを起こしながら、刻々とパターンを変えていく。この曲だけではなく、一筋縄ではいかないリズムのコンビネーションがそこかしこに見られる。「ユルいのにドープ」というマッドリブのいつもの流儀で、見事に全体と細部が揺らいでいるのだ。生のミュージシャンとの共同作業だから当たり前じゃないかと思われるかもしれないが、ベストのテイクを1、2小節単位のブレイクビーツとしてループしていくだけのヒップホップをはじめとするプログラミング・ダンス・ミュージックのルーティンからすると、かなりとんでもないことをやっている。そして、実はそれらは綿密に設計されたものというよりは、いい意味で適当にその場のノリでツギハギされている、という気もしてくる。

前にも書いたけれど、ミュージシャンをフィーチャーしたほとんどのクラブ・ミュージックは、生演奏とプログラミングのどちらかに傾き、完全にがっぷり四つを組んだガチンコ勝負というのは、なかなか成立しづらいように思う。これはちょっと考えてみればわかることだ。ミュージシャンにはミュージシャンのプライドがあり、トラックメイカーにはトラックメイカーのプライドがある(そして、いつでも恵まれた十全な制作環境が用意されているわけではない)。どちらも近くて遠い関係なだけに齟齬を生みやすく、また、その齟齬による整理されていない面白さは最終工程のミックスダウンではキレイにのぞかれていることも多い。結局、レコードにしろ、スタジオで録られたものにしろ、生演奏をあくまで素材としてサンプリングして組み立てた曲の方が楽曲的にも音響的にもグルーヴ的にも何倍も面白かったりする。

このように、水と油のような生演奏とプログラミングの関係が、マッドリブの多重人格ソロユニットであるイエスタデイズ・ニュー・クインテットにおいては有機的に絡み合い、なおかつ、出来上がった音は生演奏だけでもプログラミングだけでも得られない質感になっている。これは、やはり(何度でも強調したいが)希有なことだと思う。「Sunset at Sujinho」のアウトロでは、それまでずっと後ろで鳴っていたパンデイロが他の打楽器が退くことにより(もしくはミュートされて)、ソロのように前面に出てフェイドアウトする。ただそれだけのさりげなさだが、ブレイクビーツという概念をミックスで再現してるかのようで、ちょっと感動してしまった(こんなところで感動する自分がおかしいのか?)。

よく、ナントカ音楽とナントカ音楽の融合というキャッチフレーズが使われるけれど、これはもう融解というか、お互いが解け合って何か別のものにトランスフォームしちゃっている。結果として、ヒップホップでもブラジル音楽でもない、パン・アメリカン、汎カリブな謎の仮想音楽のようにも聴こえるし、ヒップホップが時間を巻き戻して(遡行して)民族音楽になってしまったようにも聴こえるところがユニークだ。ハードディスク・レコーディング以降のエディットの魔術であり、マッドリブとはポスト・ヒップホップ時代のテオ・マセロか?(笑)と思わず愚にもつかないことを言いたくなってしまう。スティーヴィー・ワンダー、ウェルドン・アーヴィン、ブルーノート、「Yesterdays Universe」と、過去の音楽(家)を手中に収めてきたマッドリブのひとつの到達点ではないかと思う。機会があれば、イヴァン・コンティの歌も聴こえる「Segura esta Onda」にあふれる至福のムードに一度は浸ってみることをお勧めします。

カットアップ・ダンスの憂鬱

あくまで噂のレベルでしかないのだが、アクフェンも砂原良徳も現在、鬱状態だという。どの程度の鬱なのか、創作もできないほどひどいものなのかは憶測するしかないのだが、両者とも新作がリリースされていないところを見ると、噂は本当かもしれないと思う。カットアップ/コラージュをダンス・ビートに乗せるという手法を洗練された高みにまでブラッシュアップさせた二人だが、カットアップという濃密に圧縮されたタイム感覚を操るというのは、想像以上にタフな作業ではないかと思う。さまざまな音を同じ土俵に上げて並べる、音の序列を無効化するという行為は、圧倒的な解放感を(ある嗜好性/指向性を持った)聞き手に与えてくれるドラッグのような快楽であるのは確かであり、知覚への刺激が多すぎる分、破壊力も大きい。同じく偏執狂的なカットアップを得意とするマトモス(ときどきダンス・ミュージック、基本はエクスペリメンタル)がそういったスランプに陥らないように見えるのは、彼らがひとりではなくふたりのユニットだからか?

カットアップ・ダンスの異様なテンションは、ぷつっとある瞬間、ヒモが切れるように途切れる。音が即時的に現れては消える、そうしたモーメントをカオスもろとも引き受け一定のビートでひたすらキープするのだから、そのハイなテンションを持続させる方がムズかしいのは火を見るより明らかだろう。聞き手は曲やアーティストを気分に合わせて切り替えられるが、作り手はそうも行かないという、身も蓋もない事実だってあるわけで。いま、MADムーヴィとかその手のマッシュアップには事欠かないし、ホラー/サスペンス映画を筆頭にめまぐるしいスピードでカットアップ/コラージュを挿入する手法は巷にあふれかえっている。もはや食傷気味と言っていいし、脊髄反射的な刺激をあおりすぎていて感覚が麻痺している状況が一方にある。そして、それらが優れているかどうかという価値判断は別にして、情報空間をスクイーズ=絞って、スクランブル=かき混ぜるカットアップ/コラージュには、「虚無」というか「虚構」そのものが孕む怖さがある気がする。誰もが常にそれに耐えられるわけではない。

Brazilian Love Affair


A Brazilian Love Affair: George Duke

なにをいまさら、な一枚。ジョージ・デュークという人は、時にダサさギリギリのB級ファンク/ディスコを量産していて、その辺もニクめない。「Brazilian Love Affair」は3分ちょっとと5分ちょっとから聴こえるブレイクにカラフルな音色のオカズや鳴りものや楽器のソロが畳み掛けるように入っていて楽しめる。YMOのファーストにも接続される、79年当時のお気楽なフュージョン・ディスコらしい喧噪を伝えている。最近のYMO/HASYMOには、こういうブレイクの愉しみ、それまで流れていた音が突然切断されて、次にどういう音が来るのか予測できないといったダブと言ってもいいブレイクのスリルが失われてしまい(空間ではなく時間、タテ軸ではなくヨコ軸の運動性というか)、高品質だけど退屈なBGMを再生産している節がある。ジョージ・デュークの場合、この曲を作るためにアメリカからブラジルに現実に移動しているわけで、その物理的で肉体的で心理的でもあるトランジションが曲の運動性にまんま息づいていることは想像に難くない。

YMOのような大御所に限らず、ラップトップ上であらゆるコンポジションとシミュレーションが可能な現在ではあるのに、ヨコ軸の運動性が意外に重要視されてない気がするのは気のせいだろうか。コンピュータによる編集がない時代に作られた退屈なフュージョンに見られがちな「Brazilian Love Affair」の方がヨコ軸の展開が豊かに聴こえるという皮肉。もしかしたら、この豊かさや饒舌さは80年代特有のものなのかもしれず。見知らぬ路地を歩くことが脳をリフレッシュさせるように、景色が次々に変わっていく喜びを音楽で知った僕にとっては、ちょっと由々しき問題。それは20世紀的な未来像が次第にぼやけていき、リニアな時間軸が消えていき、タコツボ化というパラレル・ワールドが現前した現在ならではのトピックなのかもしれないのだが、特に検証したわけでもないので、この手のヨタ話はこのへんで。

ところで、リンドストロームが自身のミックスCD「LateNightTales: Lindstrøm」で、トッド・ラングレンのボイスとジョージ・デュークのキーボード、双方の彼岸の彼方へ連れ去るフリーキーなインプロをミックスしていたのには驚いた。まったく異なる文脈で聴かれている本来出会うハズのない音同士を結びつけたこのアイディアは、音による批評としても秀逸だと思う。関係ないけど、このCDの一曲目、Alf Emil Eikの「To You」はオープニングにふさわしい夜明けを感じさせる美しい楽曲でラジオでも使わせてもらった。

YouTube - Brazilian Love Affair - George Duke (Vinyl 12") 1980

Natural Blaze

今回から今の季節に合うアルバムをいくつか紹介します。(いきなり前回とトーンが変わりますが・・汗)


Natural Blaze: Blaze Presents the James Toney Jr. Project

一点の曇りもない晴天の霹靂のようなハウス・アルバム。とにかくスムーズの一言。もちろん、ブラックネスの憂いや躍動は通奏低音としてあるのだが、臭みや濁りはまったくない。それらは濾過されてミネラル・ウォーターのように澄み切っている。優れたハウス・プロデューサーであるヘンリク・シュワルツがドイツ人の視点でベルリンの硬質な音響を武器にブラック・ミュージックへの憧憬を再構築する時、その「ディープ」というジャンルというより指向、ベクトルの中に滲み出るのは、いびつな風景であったり黒々した暗い感情の濁流だったりするのだが、アメリカ人でも黒人でもないアーティストが必死に手に入れようとする強度みたいなものはブレイズの音の表面からはとりあえずは聴こえてはこない。アフリカン・アメリカンである彼らにはもともと備わったもの、だから「Natural Blaze」なのか?

爽やかなブラジリアンのメロディを持つ「Elevation」はこのアルバムの代表曲だが、個人的に好きなのは「Afro Groove」だ。ラスト・ポエツ譲りの耳障りのよいポエトリー・ラップと、オルガンやエレピや後半はムーグのようなシンセも飛び出すキーボードのレイヤー。アフロ・パーカッションのうねるポリリズムと一小節をイーブンに4つに割るリムショットのメトロノームのような直線的リズムが並走するというのがこの曲のリズム構成でその対比が気持ちがいい。ギル・スコット・ヘロンの「The Bottle」も同様にリムショットがイーブンに刻む曲で、2つをつないでみても違和感はほとんどない。同じくポエトリーをフィーチャーした「Revolution Poem」は、つんのめるような(マーチのようでもあり、微妙にニューオーリンズっぽくもある?)ハネるリズムが特徴。そこに、ブラス・シンセとサイケデリックな水滴のようなリキッド状のキーボードが重なる。フェラ・クティを連想させたりもする。サラリと聴かせるが、なかなか手強い曲だ。

「Natural Blaze」の発売当時、2001年というとハウスよりはテクノが好きだった時期で、というか、単純にトガった音が好きだったため(笑)、聴くまでには至らず。もったいないことをしたと思うが、今だから素直に聴けるという気もする。1999年にドイツのプレイハウス(Playhouse)がブレイズのコンピレーション「Blaze - Blaze Productions」を編纂していて、こちらは当時すぐに購入した。問答無用の名曲「Fantasy」のハーバートによるリミックスも同時期にプレイハウスから出ている。このコンピで一番耳に引っかかったのはやはりアフロなリズムの「Our Spirit」。実は、ブレイズのキーボードとリズム・プロダクションのセンス、軽すぎず重すぎないプログラミングの押し引きの妙味は昔から気になっているのだった。

ダンス・ミュージックは匿名性に近づくほど個性的になるというのは、誰の言葉だったか。類型と典型の間のグラデーションを往復するというのは、どんなジャンルのどんなステージにもあること。AORじゃなくてMOR(ミドル・オブ・ザ・ロード)という言葉も出てくるが、エクストリームに走らず、中道を行くというのは案外困難な道であり安易な道ではない。ブレイズはまさにそれをやろうとしているのだろうと思う。

Speak No Evil

佐々木敦さんがブログに書かれていた文章を引用します。


90年代に日本の音楽ジャーナリズムに何が起きたのかというと、これはもちろん12インチベースのクラブ・ミュージックの隆盛が大きく寄与しているのだが、レコード店バイヤーにディスク・レビューを書かせる音楽雑誌が急増したということが挙げられるだろう(それは輸入レコ屋チェーンの台頭ともパラレルな出来事だが)。この話は「LIFE」の「教養」の回の番外編で水越真希さんとも少ししたのだが、仕事柄、常に最新のリリース情報に触れているのは当然バイヤーであるわけで、それはすなわちマーケットにおける最新動向ということだが、速報性と目端の効かせ方を最大の目標とする限り、それは当然の成り行きであったのだと思う。そこで当時の僕が考えたのは、ならば自分はバイヤーに影響を与えたり、バイヤーのネタ元になるようなライターにならなくては、ということだったのだが(そして率直に言ってそれは結構成功したと思っている)、それはともかくとして、レコード・ショッピング・カタログとしてのディスク・レビューの隆盛は、情報の過飽和と商品の過剰供給とがもたらした必然ではあったのだが、たとえばクラブ系音楽が、ある時代と世代に枠取られたジャンルであったということがほぼ明らかになってしまったゼロ年代以降、それでも同じやり方しか出来ない音楽誌の多くは、これは自戒も込めて言うのだが、非常に苦しくなってしまったのではないかと思える。それは簡単に言うと、レコ屋で最新盤を買い求めるようなひとが刻々と減少してしまっているからだ。自分なりの現実認識として、僕はもはや音楽において「最新情報」の提示はほぼ意味を成さなくなっていると思う。そしてだからこそ、実は今こそ「音楽批評」と呼ばれるものが(それがどういうものなのか?という問いも含めて)重要になってきているとも思うのだ。かつては「こんなの出ましたよ」と「コレがオススメですよ」だけでも価値があった。しかし確実に状況は悪化しているのであって、それゆえに「レビュー」ではなく「批評」ということの必要性が、逆接的に生じている、というのが、今の僕の考えだ。

How It Is : レビュワーの時代なのだ(…)


多かれ少なかれ、誰もがここで指摘されたことを感じているのではないでしょうか。僕の場合、ラジオで試みていたことのひとつに、音そのものを便りに(頼りに)、ある曲とある曲に関連性を見い出すということ(DJ的なつなぎ、という意味ではなく)、カッコつけて言えば、音の肌理そのものにフォーカスするというのがありました。その時々で、音の記憶=「music meme」、音を巡る風景=「surround sound」というタイトルをつけてコーナー展開したりしました。しかし、端的に言えば、こういう試みはとてもパーソナルなもので、オタクが遊んでいるだけとも言えます。

僕の中で音楽を媒介にして社会と渡り合うというモチベーションが下がってしまったのは、上で佐々木さんが述べられているような時代認識があるからだと思います。いまネット上にはブログやSNSをはじめ、かつてないほど音楽に関する言説があふれています。レビュワーやガイドやジャーナリストや批評家の需要が相対的に下がっているのかどうかはわかりませんが、ちょっとアクセスすれば、それなりに潤沢な情報にすぐ触れられるわけですから、そうした中でマニアックな情報の引き出しの有無を競い合う(そこにプレステージを置く)のは今となってはあまり効率のいい戦い方ではないように思えます。もちろん、そうしたリテラシーを高める競争の中で何かが生まれる可能性はどんな状況下でもあるとは思いますが。

とはいえ、こう書いたからと言って、自分の中に音楽についてなにがしか語りたいという欲求がなくなったわけではないので、ここでは覚え書きとしてなんでもアップしていくつもりです。

近況報告

しばらくエントリーしてませんでした。一応、このブログにも告知しておこうと思いますが、渋谷FM「Radio Sound Painting」を今年春でお休みすることになりました。3年間レギュラーでやらせてもらいましたが(それまでのゲスト期間も含めると5年?・・よく覚えていません)、色々と思うところがあり、また、個人的にちょっと疲れてしまったということもあります(単にネタ切れ?)。ラジオに限らず、選曲や音楽について語ることはなんらかの形で続けていきたいと思っています(毎月第3日曜にやっているFEED@外苑前Signは継続してやっています)。このブログを見て興味を持った、という奇特な方がいましたら、torntone@hotmail.com 富樫宛てにご連絡ください。