2008/10/25

批評チャンプルー

10.19に行われた早稲田文学十時間連続公開シンポジウムがニコニコ動画にアップされていた(「早稲田文学」で検索するとすぐ見つかる、映像はなく音声のみ)。ヒマを持て余していたせいか、始めから通して全部聞いてしまった(笑)。メンツが豪華。文芸方面に疎い僕にもそれぞれの立ち位置や問題意識が垣間見えて、勉強になった。

まぁ、対談とかこの手のシンポジウムというのは、どうやったってパフォーマティヴにならざるを得ないので、そうした「場」というか「磁場」の形成も含めて、活字では伺い知れない生々しさを感じ取れたのは面白かった。活躍してる人は声に力があるんだなーという素朴な感想を持ったし。大森望、中森明夫、福田和也、御三方の声を聞いたのは初めて。

福田和也が丹田に力が入ったドッシリとした存在感を感じさせる声なのに対し、東浩紀や阿部和重はキンキンしていて金属質の声だ。これは世代的なものもあると思う。大澤真幸は思っていたより柔らかいソフトな話し方で、シャープな批評家然とした東浩紀と対照的。

以下、個人的に一番面白かったポッド2のテキトーなメモ+自分の感想。後半はうとうと寝ちゃったりしたので。


新城カズマ。ライトノベルはカラオケの普及に似ている。数年前は三人称が主流だったのが、最近は一人称のライトノベルが増えている。

ライトノベルを一冊も読んでなくてケータイ小説を一冊流し読みしただけの僕が言う権利もないのだが、ケータイや日記サイトやブログやカラオケやニコ動やユーチューブといった新しいツールによって、スーパー読者やスーパーユーザーが誕生し、受け手と作り手の間、二次創作と一次創作との線引きがどんどん消えていってるのは、今更ながら当たり前の光景としてあるということ。

東浩紀。空想系男子とリアル系女子という分け方が可能(男子が好むのがライトノベルやミステリー、女子が好むのがケータイ小説)。すごくウソとすごくホントの両極になっている。

昔からこの住み分けはあると思う。

渡部直己。彼は夏目漱石やヌーボーロマンを引き合いに出して近代小説イコール「描写」なのだと言い(ここでいう「描写」は東の「自然主義的リアリズム」とほぼ同じことだと渡辺は補足している)、最近の小説には「描写」がなくなって「語り」しかないと言う。近代小説が見出した「描写」の困難や可能性を今の小説に見出せない。(小説を読んで感動して小説を書きたいとかではなく)小説を読んで何らかのアクションを起こすという、その人の人生を変えうるような事件性が小説の可能性なのではないか。東浩紀は、それに対して、当時は前衛だった「描写」(や小説中の人称の変化)が今では普通になっていると指摘。

ここで話がズレるのだけれど、最近、僕はあるカルチャー雑誌で、蓮實重彦と黒沢清と青山真治の対談を興味深く読んだ。

蓮實重彦はそこで「ショット」という言葉を何度も使い、最近の映画は「ショット」が失われつつある傾向にあり、黒沢清の最新作「トウキョウソナタ」は、「ショット」の映画を作る力のある(あるいは、作ってきた)黒沢が「ショット」を抑制して作った映画だと指摘している。蓮實重彦や彼の門下生である黒沢と青山の間では「ショット」を巡る映画の言説に対する共通認識があるが、彼らはその共通認識が世界的にも理解者の少ない、狭い仲間内の言葉=ジャーゴンであることを認めている。

映画における「ショット」と小説における「描写」というのは、ほとんど同じことを指していると思う(僕の誤解や曲解でなければ・・)。渡部直己の言う「描写」は視覚的なものに由来すると、シンポジウムでも誰かが指摘していたし、渡部は蓮實重彦に影響を受けているから当然といえば当然か。

で、僕は僕なりに彼らの言う「ショット」や「描写」のコダワリはすごくよくワカる気がする。音楽の話に持っていくと、メロディやリズムやハーモニーといったストラクチャーの部分ではなく、テクスチャーとか質感とかアトモスフィアとか細部のディティールで楽しむことにも通じると思う。

音楽をメロディやリズムやハーモニーに分解してしまえば、ほとんどすべての音楽が類型的でありきたりの記号的な貧しいものになってしまうだろう(そういえば、J-POPのコード進行はひとつだという話がこのところブログ界隈で盛り上がっている、ちゃんと読んでないけど)。例えば、ブレイクビーツひとつとっても、ジェイ・ディーやマッドリブの作るブレイクビーツは明らかに他のトラックメイカーとは雲泥の差がある。ストラクチャーに回収されない豊かさがある。

「ショット」や「描写」のない映画や小説は貧しくてやせ細ったものに映るかもしれない。しかし、こうした見方も結局は、ある時代のカルチャーが要請したパースペクティヴ=視点に過ぎないのかもしれない。蓮實重彦らが対談で言っていたように、「ショット」を巡る言説はある種のフィクションであり、そのフィクションを共有しない人々からすれば、何の意味もない。「ショット」や「描写」のない映画や小説が増えているという現実をどう受け止めるかということが問題であって、その現実を否定してしまっては話が始まらない。

抽象的な話はともかく、渡辺直己が舞城王太郎や佐藤友哉の「1000の小説とバックベアード」や高橋源一郎を認めないというのはよくわかった。「高橋源一郎を殺すために批評をやっている」という剣呑な発言もあり、それに対して、池田雄一が「高橋源一郎はもはや作家はキャラクターとしてしか成り立たないことをわかっていて、(あえて戦略的に)作家というキャラクターを演じている」などと言っていた。だから、高橋が中原昌也に賞をあげたのは筋が通っていると。権威をもたらす装置として作家を演じることが作家を生き延びさせるというか、単純に作家の市場価値ってナニ?という問題設定でもある。

大森望は舞城の最新長編「ディスコ探偵水曜日」を「どうでもいいウソを突き詰めたドンキホーテ的な壮大さ」と高く評価していたので、「書いてて上機嫌なんでしょう」と舞城を批判する渡辺と、もう少し突っ込んだ対決を聞きたかった。渡辺は、苦しんで呻吟しながら「描写」の困難に立ち向かう昔ながらの小説家のイメージにこだわっているのだろう。文体の表面的な明るさや暗さが与える印象はともかく、ごくごく一般的な話として、小説を書くという仕事の困難さや大変さ、物理的な作業量のハードさは昔も今も同じだと思うのだが。東浩紀と渡辺直己がそれぞれ擁護するものが対立構造になっていて、そうした状況を客観的に語る大森望という構図だったような。

この後のポッド3で、豊崎由美が「批評と書評の違いは書評がネタばらしをしないことにある」と言っていたのも興味深かった。書評というかレビューは出版産業のベルトコンベアに組み込まれているので、基本はホメるしかない(ネタばらしは厳禁)。読者の興を殺ぐようなことができない仕組みになっている。ポッド2で、福田和也が日本の文芸批評は後進国ならではの発展の仕方をしていて、欧米のようなレビューのテクスチャーとしての厚みはない(どっちが良い悪いという問題ではない)と言っていた。これからは古典芸能としてのプロのレビューか、東浩紀の言うアマゾンのレビューすら必要じゃなくなって友達同士のレコメンドがネット上で趨勢になるという状況か、どちらかに二極化するのだろう。

大森望が言っていたように、こうしたシンポジウムで交わされる批評的な言葉と東野圭吾や「あたし彼女」のようなポピュラーな作品との解離はやはり大きな問題で、インテリあるいは文芸誌や批評と大衆小説との断絶という昔ながらの構図に収まってしまいがち。それはどちらにとっても不幸だなぁと思う。だから、東浩紀が批評のマーケットは小さいから、自分の本より何十倍も売れる作家や作品を相手にすべきだと言うのはよくわかるし、彼の抱く危機感が批評を書くことだけではなく、別のパフォーマンスに向かわせているのも理解できるのだが。

全部聴いてみてとても面白かったけれど、批評をやることの困難さも改めて感じた。どんなジャンルでも、生の現場につきあわないことには何もわからないなと思う。

2008/10/17

Dokaka

Dokakaが遂にアルバムをリリースするようだ。タイトルは「Human Interface」。詳細はHuman Interface特設ページで。

地道にライブ活動をしているという風の噂は聞いていたが、喜ばしいニュースだ。Dokakaと言えば、ビョークが「メダラ」で起用したヒューマンビートボクサーという肩書きがどうしてもついて回る。熱するのも冷めるのも早い流行り廃りの激しい音楽の世界でそのアドバンテージが有効な内にアルバムを作ってほしいと当時ヤキモキしたものだが、本人は至ってマイペースで我関せずなのが結果的によかったのではないかと思う(と同時に、一過性の現象面しか見えてない自分の了見の狭さを改めて感じる)。

ヒューマンビートボックスというのは、ライブ感のある「芸」、パフォーマンスとしては滅法面白い。しかし、それを録音物としてパッケージングするのはなかなか難しいのではないか。例えば、大きくヒップホップというジャンルに括られるだろうアフラ(Afura)にしても、プレフューズ73や石野卓球やタッカーといった外野のアーティストとコラボることで、芸風に幅を持たせている。つまり、そうしないと、一枚のアルバムとして持たないのでは?と思う。

Dokakaはヒップホップ寄りのアフラとは違い、キング・クリムゾンの「21世紀の精神異常者」を口だけで完コピするロック青年で、多重録音愛好家である。まぁ、正直、ルックスもBボーイではなくAボーイである。ハイプでヒップでオサレな流行音楽とは元より出自が違う。だからか、ゲームとは親和性が高い(実際、ゲーム関係の仕事もいくつかやっている)。その特異なオリジナリティの料理の仕方を間違えれば、ワケわからん企画モノになる可能性が高い。

ここからはタダのつまらない思い出話なので興味のない人は読み飛ばしてほしい。

4年前の年末、元Demode Recordsの立花さんとの共同企画で「NakedWildChild」というイベントをやった。約3ヶ月間、かなりのエネルギーを注いで準備したが、当日フタを開けてみると、集客は芳しくなかった。カウントダウン以外の年末イベントはお客さんの財布のヒモが締まるというジンクスがあり、追い打ちをかけるように雪が降ったのが決定的だった。DJ Kensei、竹村ノブカズと大御所を含めた出演者のパフォーマンスは素晴らしかったので、今でも胸が痛む。

Dokakaはウッドベース+ギター+ターンテーブルというバンド編成だった(実は、このイベント以前にもDokakaが出演したイベントに僕は携わっている。その時はハードディスクレコーダーとマイクによる多重録音ソロライブだった)。事前にリハを重ねたにも関わらず、今だから言えるが、出来は悪くはないがもうひとつ突き抜けられなかった。ジャズをルーツに持つ吉田兄弟のソフィスティケイトされた音楽性とDokakaの個性がうまく噛み合わなかったのが理由だと思う。噛み合わないなりのズレた面白さが出ればよかったが、そういう感じでもなかった。

たかが一回のライブでエラそうな言い方になってしまうが、これから世に出るべき新しいアーティストの個性をうまく引き出してプロデュースするって難しいんだなと身にしみて思ったのだった。告知用に作ったNakedWildChildのブログが残っていたので一応リンクを貼っておく。

思い出話、終わり。

特設ページの音源をチラ聴きする限り、他人の手が加わっている様子はない。自宅で作ったデモをそのまま音源化したような感じだ。88曲(!)+DVDという仕様は、素のDokakaとほぼイコールだろう。下手にオーバープロデュースして失敗するより、ずっと堅実で誠実なパッケージングではないだろうか。「マウス・ミュージック(Dokakaは自分の音楽を口音楽と言っていた、ヒップホップ由来のヒューマンビートボックスより、この言い方の方がシックリ来る)」の面白さやユーモアが、より幅広い層に受け入れられるといいなと思う。当時から思ってるんだけど、Dokakaがポンキッキのような幼児番組に出演するとウケるんじゃないかな。

2008/10/15

重厚長大なアップルのノート



アップルがノートブックを刷新した。今回のメジャーアップデートで、iPodを含むほぼ全てのラインアップがアルミとガラス、シルバーの筐体とディスプレイ周りの黒ブチのツートーンで統一され、アップルと言えば白、という時代が終わりを告げる(白いMacBookは販売継続)。これは大きな変化だと思う。

フロッグ・デザイン時代のアップルはベージュ色だった。僕が最初に買ったMac、LC475という平べったいハンペンみたいなマシンもベージュというかクリーム色。クリーム色に虹色のアップルロゴは、カリフォルニアの青い空から運ばれてきたアカルイミライだった。この頃の知育玩具のように微笑ましく可愛いデザインの痕跡が残っているのは、今ではDock上のファインダーアイコンの顔マークぐらいか。当時の雰囲気を伝える「MacBoy」はいまだに捨てられない。

スティーブ・ジョブズがアップルに復帰して、フロッグ・デザインからジョナサン・アイブ率いる社内デザインチームに交代し、カラフルなキャンディバーみたいなiMacがデビューした。後で知ったことだけど、当時のアップルは業績も社内事情もガタガタだったから、デザイン言語の劇的なシフトは、実は四面楚歌の崖っぷちで瀕死の人間が繰り出した捨て身の起死回生策だった。

ポリカーボネイトを採用したトランスルーセント時代のMacは異形の生き物みたいで、なんというか、アールデコやマシンエイジのデザインに匹敵するパンチの効いたツラをしていると思う。アメ車のテールフィンみたいな(笑) 例えば、日本には正規輸入されなかったeMate 300は、アグレッシブな外骨格を得た初代iBook+PowerBook G3÷2(心臓はニュートンOS)といった特異なデザインだ。フロッグ・デザインが優等生的なよい子ちゃんだとすると、この頃のMacはマッシブな不良=ワルの匂いがする。

2001年から、アルミニウム&シルバーはプロフェッショナル向けのPowerBookやタワー型Mac、ポリカーボネイト&白はコンシューマー向けのiBookやiMacという住み分けができた。トランスルーセントから一転してミニマリズム一直線なデザインで、不良が更生して背広を着るキチンとしたオトナになった風。よく白物家電という言い方をするが、家電=白という信仰はいまだに根強い。代わり映えのしない電化製品における白のイメージをアップルはリファインした。


hey | by tofslie » Blog Archive » Apple Evolution Poster
アップルのデザインの歴史をコンパクトに一枚にまとめた画像。

アップルのハードの外見はOSの進化とも連動している。アクア(Aqua)のジェリービーンズ風ボタン、ブラッシュメタルとプラスティックメタル=ザラザラとツルツルのウィンドウ。OSのヴァージョンアップのたびにアップルが提案してきたトレンドが混在するインターフェイスは、DESIGN HUB:Leopardの登場で、アピアランスの統一叶うで指摘されているように、最新OSのLeopardで一応決着を見たようだ。「ようだ」と自信のない語尾になるのは、僕がいまだにひとつ前のTigerを使っているから。

OSのアピアランスと言えば今も昔もグレーが主体で、そこにアクアブルーとグラファイトでアクセントをつけたアップルが次に取り入れたのが黒。たしかに黒は画面を引き締める。ディスプレイの黒ブチは、OSのアピアランスを外在化しようという意志の現れだと思う。MacがiPhoneのインターフェイスに近づいているというか、ハードとOSの境界にあるディスプレイの縁を黒くすることで、両者を限りなくシームレスにしたいのだろう。

今回の発表の感想としては、TKYSSTD: 節目のNew MacBook & MacBook Proに書かれた「せめてもっとアノニマスなデザインならいいんだけど。アメリカンな大味なデザインだよ、やっぱり」という意見にほぼ同意。iPhone 3Gの黒い方を実際に見た時に、黒いiPodや黒いMacBookには感じなかったような違和感があった。うまく言葉にできないけれど、白物アップルに対するカウンターだったハズの黒がトゥーマッチに思えて、なぜかミッドセンチュリーなアメリカンを感じてしまった(たぶん、黒のプラスチックボディとシルバーのリブの配分に由来すると思われる)。

ベージュ(プラスチック)>トランスルーセント(ポリカーボネイト)>シルバーと白と黒(アルミニウムとポリカーボネイト)>シルバーと黒ブチ(アルミニウム)。大まかにアップルのデザインを時代ごとに並べると、ツンとデレが交互に来ているのでは?(笑) 2000年代を引っ張ったプレーンなスタイルから、よりアクの強い男性的なスタイルへ? 一枚板のアルミを削り出すというエンスー(死語)な打ち出し方がとても男の子的でプラモデルな原理なわけで。

新型『MacBook』:アナリストの意見は「価格が高すぎる」 | WIRED VISIONで指摘されてるように、金融崩壊で資本主義が是正を余儀なくされる時代において、すべてのコンシューマーに剛性感あるアルミで覆われたハイスペックなノートブックを、というのは果たして正解なのだろうか? もはやコンピュータをハードの魅力でどうこう語る時代ではないのは了解しているが、アップルにThinkPadのような金太郎飴的なデザインを求めてはいないというか(ThinkPadはリチャード・サパーによる珠玉のプロダクトで好きだけど)。

重量級のベンツやボルボやプリウスではない、ミニやゴルフやフィアット・パンダ(まぁこれは僕の趣味)みたいな選択肢があってもいいと思う。プラスチッキーでいいからチープシックな革命を!とつぶやいてみる。

*追記

新発売の「MacBook」と「MacBook Pro」を、旧モデルと比べてみました(写真ギャラリーあり) : Gizmodo Japan(ギズモード・ジャパン), ガジェット情報満載ブログ
MacBookは旧モデルより若干軽くなり、MacBook Proは若干重く大きく。うーむ。ノートは持ち歩かずiPhoneや(来年には出る?)NetBookでモバイル、ということなのか・・。

2008/10/11

ハルキ的グローカル

東浩紀が村上春樹を例に出して、日本の文学の主流はコミットメントではなくデタッチメント(関わらないこと、距離を置くこと、超然としていること)であると言っていて、なるほどなと思った。

死者からのメッセージをただしく受信することこそが人間の本務であるという信念は世界中のすべての社会集団に共有されている。村上春樹が世界中で読まれているのは、その前衛性によってでも、先端性によってでもない。おそらくはその太古性においてである。(内田樹の研究室)

ノーベル賞はル・クレジオがとったわけだけど。村上春樹が大衆に受け入れられて批評家に受けないのは、内田樹が「蓮實重彦は村上文学を単なる高度消費社会のファッショナブルな商品文学にすぎず、これを読んでいい気分になっている読者は詐欺にかかっているというきびしい評価を下してきた」と書いている理由が大きいのだろう。内田は村上を認めない日本の批評家の「ローカリティ」を上のエントリーで非難している。

僕はその昔、村上龍派でアンチ村上春樹派だった。今はどちらでもない。しかし、村上春樹がなぜ世界で流通するのかは、おぼろげながらわかる気がする。村上春樹の文体は翻訳文体だとよく言われるが、各国語に翻訳しやすい(日本語独自の強度やクセに頼らない)プレーンで「透明」な文体である。

村上の描く物語も日本独自の風土やカルチャーに依拠しないプレーンな物語だから、どんな国(正確にはある程度豊かな先進諸国に限定される)の誰が読んでも、スッと入っていける。終生、熊野のローカリティにこだわって物語を紡いだ中上健次みたいな存在とは対照的だ。乱暴に言えば、中上は地方語=方言(dialect)で物語り、村上は標準語で物語る。どちらが優れているかはともかく、流通しやすいのは標準語である。

これは英語が標準語である世界市場で作品がどのような経路でどのような流通するかというグローバリズムに行き着く話で、ここここで映画やアニメーションについて拙いテキストに起こしたように、日本から生まれた表現が世界でどのように受け入れられているのか、僕はどうにも気になって仕方がない。

ここ最近の金融恐慌を論じる時に、「過剰流動性」という言葉がよく取り沙汰されている。何がどう過剰に金融市場に満ちあふれ、はたまた滞っているのかは経済オンチの僕にはチンプンカンプンなのだが、アングロサクソンが作り上げた流動性のシステムが強固に存在していて、そこにコミットできるかどうかで作品がふるいにかけられるというのは、厳然たる事実だろう。

ある表現が翻訳可能かどうかという話は、「村上春樹が世界中で読まれているのは、その前衛性によってでも、先端性によってでもない。おそらくはその太古性においてである」と内田が断言する話につながる。宮崎駿が世界中で支持される理由もその「太古性」にあるのであって、ぶっちゃけ、そういうものがポピュラリティを得るという構造は昔から変わってはいないと思う。

80年代、村上春樹という人がどういうところに位置していたのかは、「おまえにハートブレイク☆オーバードライブ」でラッセンをネタに間接的に語られている。

一口にその他のマス(80年代文化として回顧されない部分のマスのこと)とはいうものの、何しろ広大だから、やはりここですべて網羅することはできないが(それ以前に整理できていないのだが)、本誌20号ブルーハーツ特集で取り上げた、銀色夏生や相田みつをのようなものがひとつ大きなエリアを占めていたことは間違いない。オフコース的なるものも相当な領域を覆っていた。一群としてすぐに浮かぶのは、わたせせいぞう『ハートカクテル』、ヒロ・ヤマガタに代表されるインテリア・アートあたりか。村上春樹や、もっとさかのぼって片岡義男の小説などもこの群に数えてもいいかも。(おまえにハートブレイク☆オーバードライブ)

音楽で言えば、オフコースもその支流のひとつである70年代から80年代にかけて隆盛したニューミュージックというジャンル、アメリカの洗練されたポップミュージックを日本の風土に翻訳した一群の人々、もっと言えば、八王子出身という都市生活者としてのビミョーな距離感やコンプレックスを持っていたユーミンに代表される感受性(僕は「感性」という言葉に欺瞞を覚える育ち方をしてしまったので、いまだに「感性」という言葉を使えないのでこう書くが、言葉の意味するところは同じ)が、村上春樹にダイレクトにつながる。

“無味無臭”が、小田和正ひいてはオフコースの特徴だと先に書いたが、これらの80年代カルチャーに通底しているのは、そういう生活感のなさ、リアリティの欠如だ(おまえにハートブレイク☆オーバードライブ)

デオドラント文化というのは、80年代に育った人特有の、ある種の「呪い」なのではないだろうか。漫画家の江口寿史が当時描いた漫画でわたせせいぞうの秀逸なパロディがあって、わたせせいぞうなデオドラントな世界に「ねじ式」の少年が迷い込むと、そこはペラペラの広告看板のような舞台装置だったことが判明するという内容だった。

じゃあ、「なーんだ、田舎の古臭いフォークロアじゃなくて、都会的なアーバンシティライフ(笑)が世界でウケるってハナシじゃん!」と言われれば、まぁその通りだよね、と言うしかない。フォークナーよりもサリンジャーが好まれる、みたいな? 内田樹の言う「太古性」と矛盾する? つまり、新しいぶどう酒を古い革袋に入れるってことで、ローカルでいながらグローバルというスタンスを表すグローカル(glocal)という言葉が少し前に流行ったけど、そういうことなのかな?

阿修羅ガールのレビューでも書いたように、村上春樹的なナニカは人口に膾炙する巨大なマーケットであり、影響力というか繁殖力が大きい。村上春樹を取り巻く今の状況はあまり興味がないし、オウムの事件&「アンダーグラウンド」以降、村上が変節したとかいう話も確認したわけではないけれど、デタッチメントや死者との交信うんぬんについては、また考えてみよう。

2008/10/10

iPhoneと音楽の可能性

iPhoneについて長々とエントリーを書いてみたが、どうもイマイチ面白くない。まぁ理由は自分がiPhoneを持ってないので著しく当事者性に欠けるからだろう(笑)。気分を変えて、iPhone関連の音楽アプリについて。

iPhone用の音楽アプリはデベロッパーやソフトウェアカンパニーから続々とリリースされている。MPCライクなBeatMaker、Roland TR-909にインスパイアされたドラムマシンIR-90、iPhone版テノリオンのPaklSound1は、どれもシーケンサーとタッチパネル・インターフェイスの相性の良さを示すようなアプリだ。



BeatMakerは自分もちょっとだけ触らせてもらったが、美麗な画面とハイクオリティのサンプリング音が揃っていて、「2千円台の音の出るオモチャ」ぐらいに思っていたこちらの予想を超えたレベルにワクワクさせられた。何よりビックリしたのは、サウンドライブラリーにリチャード・ディヴァイン(Richard Divine)とマン・パリッシュ(Man Parish)の名前があったこと! MIDI Exportもサポートしてるし、ガチで本気で次世代のミュージック・インストゥルメントを目指していることがわかる。

これらのアプリは、すでにある楽器をシミュレートしたりエミュレートしたりといったアプローチの商品で、これまでに存在しなかった全く新しい概念の音楽アプリではない。パーソナル・コンピュータのパーソナルという言葉に一度夢を見てしまった人間としては、ウォークマンやiPodが個人のライフスタイルを一変させたような、ある種の発明に近いようなアイディアを具現化する環境としてもiPhoneに期待したいところ。

ということで、デベロッパーではなく個人のクリエイターが発表したiPhone用の音楽アプリを紹介。ひとつはブライアン・イーノがPeter Chilversと共同制作した自動音楽生成ソフトBloom



CloseBox and OpenPod ; ブライアン・イーノとわたしがiPhoneで奏でるアンビエント : ITmedia オルタナティブ・ブログ

デモの動画を見ると、ただ曲を流すのではなく、ユーザーによるプログラミングの融通が利く作りみたい。聴くことに集中させないような、飽きるか飽きないかの微妙なセッティングの匙加減がアンビエントのキモだったりするので、その辺もうまく出来ている。Peter Chilversのサイトにある現代音楽寄りのアンビエント作品の内、Flashで作られたdropletsは、そのままiPhoneに移植されてもおかしくない内容だ。

もうひとつは、徳井直生さんのAudible Realitiesによる3番目のiPhoneアプリ。



かつて音楽と呼ばれたもの » Blog Archive » 10 seconds ago - 今、ここを感じる音楽

これまでの2つのアプリはお遊び的な要素が大きかったが、「10 seconds ago」は10秒前の音を流すという単純な時間操作で「視覚的なコンテクストから聞こえてくる音を切り離す」、「いま、ここ」にある存在への気づきを与えるコンセプトが素晴らしいと思う。

これってアンドゥ(undo)がパソコンによって初めて可能になったことや、Wayback Machine、MacOS X Leopardで採用されたバックアップツール、Time Mashineなど、不可逆でリニアな現実時間をテクノロジーが歪ませたり逆戻りさせることにもつながる。

癒し系なコンセプトが仲間から「ぬるい」と評されたようだけれど、プロダクトとして入念にパッケージングされたアプリの傍らで、「Bloom」や「10 seconds ago」のような、シンプルなアイディアをシンプルにアウトプットした自由な発想のアプリがApp Storeに溢れてほしいと妄想している(願わくば、悪評高いアップルのアプリ登録&審査の敷居が低くなればいいなと)。

2008/10/09

Tilt Shiftの箱庭世界

前景がハッキリして後景がボンヤリした、ボケ味のある写真があるシズル感をもった「気持ちいい」イメージとして定着したのはいつ頃からだろうか。LOMOやHOLGAといったトイカメラが流行ったり、ポラロイドがリバイバルしたり。記憶は定かじゃないけれど、ボケ味のある写真は、90年代からこっちのライフスタイルというか生活意識というか風景を確実に変えたように思う。

今年の春に「チャールズ・イームズ写真展 100 images × 100 words」を観に行った。「いまさらイームズ?」という声もあるだろうけれど、そこはそれ、ムーブメントの宿命ということで。とっくにインテリアブームが過ぎた3年前に目黒美術館で観たイームズ展もギュッと凝縮された中身の濃い展覧会で、ミッドセンチュリーなポップなインテリアには興味を持てない自分でも、イームズが体現したアメリカが一番エネルギーに満ちていた時代の空気に何かしら鼓舞されたりアテられたりしたのだった。

「100 images × 100 words」は、チャールズ・イームズが終世に渡り撮りためたポラロイド写真と彼の言葉と一緒に展示した、こじんまりとしていながら芯のある展覧会で、そこで上映されていたポラロイドにまつわる映画も、身の回りのものを嬉々として写真に納めて再構築・再発見するという、その能天気なまでにポジティブな振る舞いがゼロ年代にはまぶし過ぎて新鮮だった。ポラロイドのフィルムが生産終了になったのは、時代の流れとはいえ残念。

前置きが長くなったが、最近、TILT SHIFTと呼ばれる疑似ミニチュア写真をよく見かけるようになった。本来はティルト・レンズという高価なレンズを使った手法で(TILTとSHIFTという2つのレンズ効果を使うのでこの名前がついた)、それをパソコンでシミュレートしたフェイク写真が、例えば、FlickrのThe Tilt-shift miniature fakes Poolなんかにいっぱいアップされている。TILT SHIFT写真に特化した日本人のブログ、lilliput*project:the bitter*girlsもあるほどだ。

英語版Wikipedia、Tilt-shift miniature fakingに掲載された写真を拝借すると、こんなカンジ。


オリジナル


オリジナルにTILT SHIFT効果をかけた写真

意図的にコントラストが強く、ディティールが飛んだ、被写体深度の浅い写真にすることで、太陽光ではなく人工照明に照らされたミニチュア感を醸し出す。ミニチュア感を増幅させるため、俯瞰写真が使われることが多い。実際にどうやるのかは以下のサイトを参照のこと(3つ目の英語サイトはカメラによる効果、他2つはPhotoshopのようなレタッチソフトによる効果の説明)。

Photoshop Tips - 風景写真をミニチュア写真に加工するには - by StudioGraphics

stone::tamaki: Tilt-shift miniature fakes

Build a Tilt-Shift Camera Lens for Peanuts | CreativePro.com

日本だと本城直季が第一人者で、僕も何年か前に彼の写真でこんなことができるんだ!と知ったクチ。

僕たちはすでに誰かに作られた世の中に住んでいて、何の疑問も持たずに、それを前提として当たり前のように暮らしている。たぶん、自分が写真をやっていなかったら、そうした事に気づかなかったと思うんです。「写真」という表現によって、初めて客観的に認識できる。(本城直季 - Tokyo Source)

彼の言う通り、日常で感じる自己不全感とか、アーキテクチャーの中に組み込まれている自分(普段はそれを意識しないように巧妙に管理されている)というのはとても今っぽいテーマで、ファンシーで可愛いTILT SHILT写真を「気持ちいい!」と感じる裏にはそういうコワモテな現実があるってのが面白い。

難しい話はともかく、こういう技法って広まると薄まるの法則で、しばらく大量のTILT SHILT写真を見続けてると飽きてくるのも事実(やはりプロが撮ったのは一味違う)。次なる野望じゃないけど、この写真が動いたらスゴいんだろうなと思っていたら、人間の欲望は必ずどこかで誰かが実現するもので、ISO50で発見。


Bathtub III from Keith Loutit on Vimeo.

リンク先に3つ、映像がアップされている。

BGMに使われているSonido Lasser Drakarの音楽がいかにも80年代風のニューウェイヴ・エレクトロで、映像のキッチュな箱庭テイストとの相性がイイ。あと、写真も映像もどこかに人間が入ってる方が断然面白い。俯瞰ショットと人物のバストショットを自由に行き来するようなTILT SHILTモーション・グラフィックが、「マトリックス」がブレットタイムを活用したように商業映画に取り入れられるのはそう遠くないと思う。

*10.11追記

個人的に気に入っているのが、Flickrで見つけた東京タワーからの都市景観のTILT SHILT写真。ビフォーアフター。崇高さや不気味さを感じさせる壮大な夕景がミニチュア化されると印象がガラリと変わる。大きい画像じゃないと面白さが伝わらないので、画像上部の「ALL SIZES」ボタンを押して見てほしい。オリジナル画像はHDR(ハイ・ダイナミック・レンジ)で作られていて、すでに非現実感があり、さらにTILT SHILTで非現実感が二重になっている。リアルなのにアンリアルという現実と虚構の皮膜のようなイメージにはどうしても吸い寄せられてしまう。

*10.17追記

上で紹介した動画、アチコチで話題になってるみたいで、ジオラマのコマ撮りのような映像を「逆ティルト」で撮影する(動画) : Gizmodo Japan(ギズモード・ジャパン)という記事を発見。TILT SHILTが「逆ティルト」って訳されてる。トム・ヨークのPVにすでに使われていたのは知らなかった。2006年だから早いね。さすが。

ブログはツブヤキ

一週間ぶりくらいにエントリーします。しばらく体調を崩してました。

ブログで文章を書く時に、「です・ます」調がいいのか、「である」調がいいのか、いまだに悩みます。Bloggerに移った当初は「です・ます」調で、最近は「である」調でした。

「です・ます」調の方が読み手を意識する上で適度な距離感があって、特に初めてブログを訪れた人に失礼になりにくいと思います。「である」調は断定の度合いが高いので、「エラそうだなぁ」「上から目線で物言うな」と思われやすいんでしょう。

自分の場合、「です・ます」調だとビジネスモードでよそよそしく感じるのと、まずは「自分のために書く」「気楽に言いたい放題に書く」というのが先にあって、その上で誰かが読んでくれたり共感してくれれば、というスタンスなので、ことさら読み手を意識すると変に気負ってしまい書けなくなるのではないか、という恐れが大きいです。

僕にとってブログは書くというリハビリでもあるし、気楽に書けなくなったら、ブログをやる意味もないと思うし。逆に言うと、そういった書くことへの障壁や心理的規制を「です・ます」調というクッションを間に置くことでクリアするという活用法もあるかと思います。

誰かに何かを伝えたい場合に、中身を丸裸のまま送りつけるんじゃなくて、封筒やのし袋や風呂敷や包装紙で気持ちを柔らかく包んで送るというのが日本人らしい繊細なコミュニケーション手法であって、欧米式のディベートで培った自己主張、イコール、英語には「です・ます」調がないということにもつながります。

あと、僕の言語能力の貧しさは棚上げするとして、日本語って語尾の選択肢がホントに少ないですよね。イヤになるくらい。「だ」「である」「〜だと思う」が大半で、あとは疑問形や否定形で変化球をつけるか、「と感じる」「と考える」「という気がする」「〜だろう」「〜かもしれない」ぐらいしかバリエーションがないです。

よく考えてみると、英語には「考える」とか「思う」という意味の言葉がたくさんある。“think, view, intend, expect, judge, imagine, regard, be prudent, consider, think over, reconsider, be ready for...”や“think, believe, feel, regard, expect, imagine, take for, recall, wish, love, wonder, suspect...”などである。日本語で表現しようとすると、いつも「考える」「思う」ばかりで文章が単純になってしまうのも、そのせいだ。(自分で考えることについて〜自主性なんてクソ食らえだ!)

「思う」が並びすぎたら「感じる」や「気がする」を入れようとか、無意識にやってる姑息な文章整形、文章の目鼻立ちを整える作業って空しいなーと思う時がよくあります。その代わり、英語では「i」しかない主語が、日本語では「僕」「私」「俺」「自分」・・とバリエーションがあります。相手との関係をまず意識することで始まる日本語と、関係を意識しない英語のチガイというか、日本語って相手との関わりやコンテキストをとっぱらって自分の意見を述べるということがとても不自由な言語なんだなぁと思います。

「ネット上での「頭のよさ」は、知識や思考力ではなく、構えと作法に表れる。」というTwitterで拾った言葉には頷きます(関係ないけれど、このbokuenさんという人のツブヤキ、ツボです)。ネットのリテラシーって、ほぼ8割方、「構えと作法」、文脈=コンテキストに傾いてるところがあるんじゃないかと。重要視されるのは、内容そのものより、表現の仕方、立ち位置の表明です。ネットで間接的に「つながる」ことがそもそも広大なコンテキスト空間への介入だし、2ちゃんねるの祭りとかブログ炎上ってこともそうです。

ポストモダンがこんな風に日常になるんだなぁというある種の感慨もあったりなかったりしますが。ロラン・バルトが「表徴の帝国」で「東京の中心は空虚だぁ!」(空虚は皇居と韻を踏みましょう)と言ったのも今は昔というかダイナソーのツブヤキです。「表徴の帝国」はちゃんとは読んだことないです。「明るい部屋」は学生時代に読んで感銘を受けました。いま読んだらどうだろうか。

「です・ます」調はどうなんだろう?という話から激しく脱線しましたが、次回からは「である」に戻そうかなと。そういえば、「スカイ・クロラ」のエントリーで一部の表現がキツいと指摘されたので修正しました。やっぱり、「である」だと調子に乗っちゃうんでしょうか・・。

今後もブログで(時に毒にも薬にもならない)ツブヤキやボヤキをしたためたいと思います。よろしくお願いします。

2008/10/03

Greatest Movies of All Time



イギリスの映画雑誌「エンパイア(Empire)」がThe 500 Greatest Movies of All Timeという特集を組んでいる(それぞれレビューへのリンクあり)。ベスト10はこちら

ちょうど2004年のアニメの立ち位置というエントリーで、日本のアニメーションが海外でどう評価されているのか?について触れたので、日本映画をリストから抜き出してみた(点数はレビュアーによる)。

050位:Seven Samurai「七人の侍」5点
067位:Tokyo Story「東京物語」5点
095位:Yojimbo「用心棒」5点
230位:Howl’s Moving Castle「ハウルの動く城」3点
235位:Battle Royale「バトル・ロワイヤル」4点
275位:My Neighbour Totoro「となりのトトロ」
283位:Ran「乱」5点
290位:Rashomon「羅生門」4点
339位:Spirited Away「千と千尋の神隠し」5点
340位:High And Low「天国と地獄」4点
440位:Akira「AKIRA」4点
459位:Ikiru「生きる」5点
488位:Princess Mononoke「もののけ姫」4点

黒澤明、強し。ランク入りした作品数の多さで次が宮崎、小津と深作と大友が一点づつ。「バトル・ロワイヤル」ってイギリスでこんなに認知されてたのか。「千と千尋の神隠し」より「ハウルの動く城」が人気がある結果になっているが、レビューでは逆の評価。

アメリカのレビューポータル、ROTTEN TOMATOESのオールタイムベスト100はこちら。「トイ・ストーリー2」が一位というのは謎・・。ここでも黒澤は「七人の侍」と「羅生門」がランクイン。米英でのキューブリックは、「2001年宇宙の旅」でも「時計仕掛けのオレンジ」でもなく、「博士の異常な愛情」が一番評価が高いというのも初めて知った。

ランキングは相対的評価で絶対的なものではないので、あくまで目安として。

「コッポラの胡蝶の夢」を早く観に行かなくちゃ。

2008/10/02

スカイ・クロラ



「スカイ・クロラ」にかこつけて、4年前のことを書いたら長くなったので別のエントリーで。

「スカイ・クロラ」は、最愛の伴侶である犬を喪い、体を鍛えた押井守が「犬じゃなくて人間を愛すぜ!」と肉体派宣言した映画かと思いきや、思いっきりいつもの押井映画だった。この人のペシミズム=厭世主義はやはりキモ入りだ。

たとえ、恋愛(「私を殺して!」と拳銃を突き出すのが求愛行動でもある女性を受け入れること)や仕事(戦闘機に乗り空中で這うように戦いながら人を殺すこと)、そんなこんながあっても生きるってことはアパシーなんだよ!空虚なんだよ!生きてる実感なんかマヤカシでマボロシなんだよ!と横っ面を叩くのが押井流。

この映画における恋愛も仕事も観客の我々からすれば十二分に非日常だが、一貫して気怠い日常として描かれる。キルドレは、同じようにタバコを吸い、同じようにミートパイを食べ、同じように新聞に折り目をつけて畳む仕草を繰り返す。

押井の映画に出てくる食べ物は不味そうで(実際、草薙は不味いと言う)、宮崎駿の映画に出てくる食べ物は、ハムの乗ったカップラーメンであっても美味しそう。なんと対照的なことか。

目の表情がまったくないコワモテの草薙が、函南との食事シーンで「泊まっていったら?」といきなり上着を脱ぎ始める強引マイウェイぶり。「あいつはヤバイぜ」というエクスキューズも劇中であるから、そういう演出意図なんだろうけれど。んー。これって恋愛と言えるのかな。

普段は静かで抑制された演技なのに、感情が高ぶると泣きわめくという演出手法は悪い意味で邦画っぽいというか演劇っぽい。クールにつぶやくか、大声を上げて泣くか、そのどちらかの振れ幅しかないというのは貧しい気がする。

「イノセンス」で辟易した衒学的なケムを巻く台詞は一掃されて、全編、平易な台詞回しになってるのはとても好感が持てた。脚本家を立てたのが大きいのだろう。ゲームとしての戦争が必要な理由を草薙が訥々と語る得意の長回しショットも、必要不可欠な説明で冗長ではない。

函南たち日本人パイロットが属する企業が何者で戦争をしている相手の企業が何者なのか。なぜキルドレはティーチャーに勝てない仕組みになっているのか。背景や謎は明らかにはならないが、ほめのかされている。不条理。カフカ?と思うが、冒頭で草薙はカミュとつぶやく。

キルドレは永遠のアドレッセンス=思春期を生きる。そのループの悪夢から逃げようともがく「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」とよく似ているが、こっちは悪夢を受け入れる決意があるところが違う。

それが希望か絶望かは観る人の判断に委ねられているが、作劇上エンディングはこうなるんだろうなと納得しつつも、その予定調和を破るところを僕は見てみたかった。「あなたを待っていたわ」という最後の草薙の台詞は変化の兆しなのか、そうでないのか。表向きは何も変わらず、希望は封じられているように見える。

アニメーションで大人を描くことは可能なのだろうか。

「スカイ・クロラ」には、大人を模倣するキルドレの保護者としての大人(女性エンジニアやバーのマスター)がいる。唯一、「大人の男」と称されるのがティーチャーで、函南は「父(=ティーチャー)を殺す」と言う。「ポニョ」には、主人公を見守る老人たちと強い母親と影の薄い父親がいる。いづれも、家族や代理家族や保護者としての大人である。「エヴァンゲリオン」もそうだった。

そうではない大人、子供や青年の補完ではない、大人びる、大人らしく振る舞うという形ではない、まっさらな大人はなぜ描かれないのか?

答:アニメーションには俳優という肉体が存在しないから。

学生運動に乗り遅れた世代である押井は、革命の挫折を映画で描くことが多い。「パトレイバー2」や「人狼」(監督じゃないが)しかり。押井の描く大人は、大抵、ルサンチマンの塊だ。

「スカイ・クロラ」原作者の森博嗣さんがブログで「少ない方が価値がある」と発言している。

しかし、創作は多数決ではない。シェアをより多く取る意味は何だろうか? むしろ、そういった「非効率な多数」を背負わない方が、将来の自由度は高い、とも予測できるのである。

マイノリティを貫く原作者とマイノリティを貫く映画作家。若者に向けて今までより開かれて作られたこの作品が、閉じているように見えるとしたら、二人のブレのないスタンスによる。

スカイウォーカー・サウンドで録った音響が図抜けて素晴らしい。特に、屋外のフィールド音やアンビエンスが凄かった。音楽は叙情的すぎてトゥーマッチに思えた。空のシーンに被さるシンセパッドの曲はよかった。個人的にはもう少し乾いた音の方が内容に合っているように思う。

「スカイ・クロラ」に、サン=テグジュペリのような飛行機乗りのロマンを期待してはダメ。

上映終了間近で選択肢がなく、新宿歌舞伎町の映画館で観たんだけど、館内の殺伐とした荒廃ぶりがすごかった(軽く15年くらいタイムスリップしてそうなゲームセンターとか、2005年のポスターが貼られたままのラテンダンススクールの看板とか・・)。ある意味、この映画を観るにはふさわしい環境だったかも。

野良犬の塒 : 『スカイ・クロラ』『攻殻機動隊』監督・押井守の最新情報

老舗の押井守ファンサイト。情報量が多い。押井のインタビューや「スカイ・クロラ」のレビューも辿れる。

西尾鉄也が語る『スカイ・クロラ』あれこれ

作画監督の西尾鉄也のインタビュー。モニターではなくプリントアウトでチェックしないとダメという話が面白い。引いた絵が多かった理由がそこにあったのか。井上俊之のこともちらっと。

2004年のアニメの立ち位置

「スカイ・クロラ」を観た。思い起こせば、2004年。「ハウルの動く城」と「イノセンス」と「スチームボーイ」が同じ年に公開され、僕は3本とも映画館で観ている。以下、「スカイ・クロラ」とはまったく関係のない妄言をつらつらと書いてみる。

まったくベクトルも作風も異なるこの3作が、表現と内容との著しい解離において驚くほど似ていたことに、僕は当時ある種の感慨を覚えた。まぁ平たく言うと、失望しちゃったわけである。それなりに宮崎・押井・大友を追いかけてきた者としては、こりゃマズイんじゃないかと(「じゃあ、お前がやれるの?」と言われれば、返す言葉もないが)。これは、作品が面白いかつまんないかというのとは別次元の話だ(個人的な面白さで言えば、「ハウル」>>>「イノセンス」>>>>>>>>>>「スチームボーイ」)。

監督自身が脚本を書いた「ハウル」と「イノセンス」、監督の書いた脚本に後から脚本家がテコ入れした「スチームボーイ」。非凡なアニメーターであり絵描きが作った右脳派の「ハウル」と「スチームボーイ」、絵を描けない演出家が作った左脳派の「イノセンス」。細かな違いはあるが、どれも映像表現の精度が際立って高いために、観客に訴求するためのストーリーや脚本といった物語の骨格、土台がおざなりにされていて、両者のバランスの悪さが気になった。肝心のお話がスッポ抜けていて、映像が空回りしている気がしたのだ。

商品として流通させるために精緻なリアリズム表現を突き詰めていった結果、万人が楽しめるという意味での通俗的なアニメーションとしてはもはや破綻してしまっているというか。これは作家の力量の問題もあるが、それよりも、爛熟期を迎えた日本のアニメーションが巨大産業となったことの弊害であり、そのイビツな進化がポストモダンと呼ばれるような状況に対応しているという好意的な見方もできると思う。

日本の携帯産業が国内の需要に最適化されたために特殊な進化を遂げ、挙げ句、海外の動向に乗り遅れてしまい、「日本のケータイはガラパゴスだ」と揶揄される話に一脈通じる。これはコインの表裏でもあって、閉鎖的な島国だからイビツで偏った面白いカルチャーが生まれたのも事実であり、唐突かもしれないが、ジャマイカというカリブの小国で生まれたレゲエがポピュラー音楽の世界でいまだに強い影響力を持ち、特異なポジションを占めていることも参考になるかも。

ダンスホールはゼロ年代の音楽市場において最も繁殖力のあるウイルスであり、今のヒットチャートを占めるヒップホップやR&Bはソレなしには語れない。ダンスホール=レゲエとアニメーション=オタクカルチャーは一見、水と油の関係のようだが、「動物化」という一点において重なり合うと思う。

カルトな押井や大友はともかく、より人口に膾炙する作品を連打してきた宮崎駿は普遍的な物語の担い手として世界的に評価が高いという意見もあるだろう(何年か前の「Time」誌がトヨタ社長と宮崎を「世界で最も影響力のある100人」に選んでいたのも記憶に新しい)。しかし、僕が知る限り、ベルリン国際映画祭で金熊賞を取り、アカデミー賞の長編アニメーション部門で受賞した「千と千尋の神隠し」は別格として、「ハウル」も「ポニョ」も海外で手放しに大絶賛されているわけではない気がするのだけど(参考までに)。

この国のアニメーション作家は、ヨーロッパへの憧憬やコンプレックスをバネに作品世界を構築してきた節がある。宮崎の原点のひとつはフランスのアニメ映画「王と鳥(旧題:やぶにらみの暴君)」だし、押井は「ブレードランナー」と共にゴダールの影響を公言しているし、宮崎と大友はバンド・デシネを代表するメビウスからのインスピレーションを隠さない。つまり、もともと地勢図的にはハリウッド・システムにはアンチを唱える出自を持ち、ハリウッドが量産してきた安っぽい物語や話法には与しない立場である。

だから、ヨーロッパへの憧憬を完全に消化し、日本に由来する様々なリソースをすくい上げてオリジナルの物語に抽出した「千と千尋の神隠し」が高く評価されるのはよくわかる(個人的にも「ポニョ」より傑作だと思う)。逆に、汎ヨーロッパ世界を描く「ハウル」にしろ、東欧と中国がミックスされたようなチャイニーズ・ゴシックな無国籍都市を舞台に設定した「イノセンス」にしろ、19世紀の万博博覧会をモチーフにした「スチームボーイ」にしろ、作り手がヨーロッパ人ではないのだから精緻なリアリズムにこだわるほどヨーロッパ的意匠はどこか借り物で地に足が着いていないように見えてしまうのではないだろうか。

これもアニメーションが世界市場に流通し、大人が鑑賞するゲージツ作品となったことで引き受けざるを得ないハードルや課題だ。今後、日本のアニメーションがもっと国際競争力をつけて世界市場でサバイヴしていくためには、映像表現だけがイビツに突出するのではなく、表現に拮抗するだけの説得力ある脚本やプロットやストーリーが必要になってくると思う。アニメに限らず、日本という土壌に生まれた表現が抱える問題の根深さもその辺に潜んでいる気がする。

日本のアニメーションはカルトとメインストリームの間にあるという意味で「閉じている」と思う。「このまま閉じたままやっていけばいいじゃん!」でもいいだろうし(それは決して間違いじゃない)、「開いていって、で、そこからどうするの?」ということでもある。半世紀も前に作られた黒澤明や小津の映画は、なぜあんなに閉じていながら同時に世界に開かれていたのだろう。たぶん、経済や社会状況が大きく絡んでいるのだが、今の僕に明快な答えはない。(以上、書きっぱなしの失言、多々あり)

2008/09/30

DAGODA DE DADA



このブログではほとんどそういう部分を出してないけど、僕はデザイン・ウォッチャーでありデザオタである。

よくデザインとアートは対置される。パブリックなデザインと、パーソナルなアート。社会のために役立つ真面目なデザインと、社会のために役立たないかもしれない不真面目なアート(ここで言う不真面目さとは、あくまで、一般社会に対するカウンターやオルタナティヴというぐらいの意味で、アーティストの姿勢や態度のことを指してはいない)。普段はパーソナルな表現としての広義のアート(含む音楽)に惹かれることが多いが、その対称物としてのデザインを摂取することでアウフヘーベンしてるというか(笑)。

何より、デザインは未来とつながっている。「未来」を「デザイン」するコトやモノにとても興味がある。ご多分に漏れず、アップルは好きだし、スティーヴ・ジョブズのスタンフォード大学の演説には否応なく感動してしまう。そんな単純な人間である。

前置きが長くなったけれど、以前からずっと愛読しているデザイン系ブログ、ココカラハジマルの藤崎圭一郎さんが学生と一緒に作り上げたフリーペーパー、「DAGODA」の制作プロセスを展示する展覧会に行ってきた。会場風景はコチラ

雑誌を作るというのは試行錯誤と紆余曲折の連続であり、Aを選ぶ代わりにBを捨てる果てのない作業である。それがそのまま会場に展示されている。「DAGODA」のロゴデザイン案を見る。個人的に現行案より好みなものもあった。第一次世界大戦前後にヨーロッパで花開いたダダのマニフェスト文の日本語版を読む。その難解で晦渋でユーモアのある文章にこもった熱量は今の僕なんかには歯が立たない代物だ。こうしたテキストというか「文物」を今の世の中にそのままの形で流通させることは難しい。だから、咀嚼力が必要だ。

そのダダからネーミングを頂いた「DAGODA」は、当たり前だが自然に今の空気を吸っている。藤崎さんが書かれているように、「いまさら展覧会に便器を置いても何のインパクトもないですから」。ザッと読んだ限り、「DAGODA」は、デザインと工学、デザイン・エンジニアリングの可能性を多面的に探っている。

期待していたtakramのインタビューはもう少し突っ込んで欲しかったけれど、「ボディストーミング」「動くもの」「プロトタイプ」「発明」というキーワードに刺激される。100年前の20世紀の帳(とばり)には、エジソンやニコラ・テスラがいたわけで。彼らが一番作りたいのは「こいでいる人がいて、その姿を含めて美しく見える自転車」だそうだ。是非、プルーヴェの自転車よりカッコイイ未来のヴィークルを作ってほしい。

プロダクションI.Gで「攻殻機動隊 S.A.C.」などを手がける脚本家の櫻井圭記氏。彼の話が面白かった。

「(AIBOやASIMOや「攻殻機動隊 S.A.C.」のタチコマの人気は)ヒト型じゃないという点がかなり大きかった」

AIBOもASIMOも目がないのが意外とポイントじゃないかと思う。ギーガーがデザインしたエイリアンがなんでいまだに恐怖のアイコンとして屹立しているのか考えた時があって、「あ、目がないからだ」と気づいてハッとしたことがある。もしエイリアンに目がついていたら、未知の異星人という得体の知れなさ、空恐ろしさはスポイルされただろう。目は感情を生み出す装置だから、目がないことで感情の読めない冷酷さや残忍さが強調される。ロボットの愛くるしさはそれを反転させたものだ。

「(森首相がIT革命をit(イット)革命と読んで笑われたという話を受けて)だって明らかにITはit(イット)と読まれようとしているじゃないですか。つまり何だか分からないけど、何となく時代の“ソレ”という意味合いでね」

例えば、最近、AR(Argumented Reality、拡張現実)という言葉がにわかに注目されている。僕は最初、早合点して、VR(Virtual Reality、仮想現実)って根強いんだなぁと疑問符だったのだが、似て非なるものらしい。iPhoneの革新的アプリとして期待されているセカイカメラなんかもそうで、電脳世界にジャックイン!みたいな古臭いアプローチではなく、その逆で、現実に情報技術の方をスリ合わせる、アジャストするというアプローチ。

「攻殻機動隊 S.A.C.」のSTAND ALONE COMPLEXという副題について。

「他者とつながっていないSTAND ALONEに対して心理的なコンプレックスを抱いている。つまり情報から離脱していることにどことなく引け目を感じているという意味にもなる。そのダブルミーニングがいいじゃないかなということで、そのタイトルになったんです」

ベタな例だけど、YMOのアルバム「SOLID STATE SURVIVOR」が、SOLID STATE=半導体と、硬い状態のSOLID STATEな生存者のダブルミーミングになってる、みたいな。

ヴィトゲンシュタインを引用して人間とロボットの間に線を引くことへの疑わしさを語る櫻井さんの本、「フィロソフィア・ロボティカ ~人間に近づくロボットに近づく人間~」はちょっと読んでみたい。

櫻井さんの記事の隣に、ロボットやサイボーグをサービスの観点から見つめ直すという記事、その隣に「ドラえもんのおもてなし」という記事が来て、その次に神楽坂にあるアグネスホテルをレポートする「おもてなしの現場で」という記事が来るという構成。

あるいは、2020年の世界がどうなっているかを様々なデータの数字で見せていく特集では、男が目をむき出して驚いた顔の写真が増殖していくヴィジュアルで表現。こういった思い切ったアイデアやページネーションは、現在のデザイン誌やサブカルチャー誌ではナカナカできないと思う。

既存のメディアとはまったく関係のない場所で生まれた「DAGODA」。デザイン・オリエンテッドな商業誌に比べるとアートディレクションの洗練度は少々足りないと思うけれど、ガワだけ洗練されていて中身がスカスカよりは全然いい。物腰柔らかな後ろには、ゴツゴツした気骨を感じる。「何だか分からないけど、何となく時代の“ソレ”」を読み取り、真っ直ぐに未来を見つめ一石を投じようとする志の高さが瑞々しい。


*展覧会は終了しており、フリーペーパーも現在のところ再配布の予定はないようです。

あたしとアタシと彼女

第3回日本ケータイ小説大賞を受賞して話題になっている 「あたし彼女」を流し読み&現代語訳でダイジェスト読みした。流し読みって読書家にはケーベツされそうだが、ケータイ小説的には正しい読み方かも。みたいな。現代語訳ってそれって「源氏物語」? みたいな。

内容は予想された通りの展開でどーってことないのだが、第一章と最終章では文体がまるで違うところに、kikiという23歳の作者の意図と巧みさを感じた。「てか」と「みたいな」がミミダコのように頻出する第一章のアタシ=アキは、いくらビッチで強ぶってはみても、社会から十全に承認される自己像を結べない、不安定でモラトリアムで未成熟な人間であることが明らかなのだが、最終章では打って変わって、しっとりした情緒をにじませる落ち着いた散文的な文体が、恋人トモとの関係を通じてアキが精神的に成長したことを伺わせる。

これは、「マジ恋 なぁんて ある訳ないじゃん」と思っていた主人公が、「ただ 変わらず 愛する事の 意味 愛される事の 意味 忘れたくない」と思うに至る物語だ。世間を敵対視していたアキは、最後には「おかん」や病院の「白髪オヤジ」に感謝の気持ちを覚えるまでに変貌する。文体はずっと口語体、アキのモノローグなのだが、第一章と最終章では上記のように文体のベクトルや湿度がかなり違う。また、「トモ」という章をその間に挟み、アキの物語をトモの側から補完している。

物語自体は陳腐でありがちでご都合主義、である。最終的に恋愛が成就することで、愛すべき/愛されるべき存在としての自己保存プログラムを強固に完成させるアキは、ありていに言って保守的で抜け目がないキャラクターのようにも見える。「ねぇ キスしてよ」という冒頭のコトバは、最後に用意周到に繰り返され、ページの真ん中にポツンと置かれた「いいよ」という恋人からの絶対的な承認のコトバで物語は閉じられる。

「あたし彼女」というこれ以上はない簡潔で見事なタイトルがすべてを物語る。「あたしは(トモの)彼女」となるべきところが、「あたし」と「彼女」は有無を言わさず直結する。「あたし、彼女」でも「あたしは彼女」でもない。「あたし」と「彼女」の間にまだるっこしい文学的修辞を含む余地なく「あたし彼女」なのだ。

「あたし」は「彼女」というポジショニングによって存在を保証される。それ以外に「あたし」は存在しえないし「あたし」たりえないのだから。アタシはずっとこの先このままのアタシでいいのだ、という自己肯定、自己同一性(本文では「アタシ」なのに、タイトルだけ「あたし」となっている)。まるで山田詠美だが、この完膚なき肯定を嗤うことはできない。どんな人でも誰かに肯定されてはじめて生かされるという命題から逃れられないから。

誰かがケータイ小説と中絶というファクターの親和性について書いていたが、「あたし彼女」にも中絶は登場する。中絶は、ケータイ小説を好む女性層に最もアピールする「リアル」な物語を補完するアイテムなのだろうか。

ここで僕はなぜか、「ハリー・ポッター」の作者J・K・ローリングが、「ゲド戦記」のアーシュラ・K・ル=グウィンのようなインテリの家系に生まれた文学的素養に恵まれた女性作家ではなく、元は生活保護を受けるシングルマザーだったことを思い出す(成功したローリングが医者、つまり実業家と再婚するというのもとても頷ける話ではある)。

ケータイ小説の書き手がその通商手形である「リアル」を手放して、恋愛という自己実現の物語に頼らないファンタジーを描くことはありうるだろうか、とも思う。

なお、「あたし彼女」に関しては、萩上チキさんの批評が的確だ。

「稚拙なケータイ小説」だけが描ける「リアル」――『あたし彼女』の場合:荻上式!電網テレビ批評 | みんなのテレビ:So-net blog
 

2008/09/24

コダワルことの難しさ

このブログのエントリーをいくつか読んでもらえれば分かる通り、僕は一般的に見てコダワリが強い人間である。趣味性の強いオタクと言われれば否定できないし(いわゆるオタク第一世代に入ってしまう年代)、今のオタクカルチャーには正直、溶け込めないところも多い。

音楽で言うと、今の若い人の音楽趣味は、かつて僕らの世代が音楽誌やミュージシャンのインタビューで必死に学習したような歴史を線で結んでいくリニアで系統樹的な音楽地図ではなく、iPodやiTunesのプレイリスト(をメタファーとするような音楽観)がすでにデフォルトになっていると思う。

フラットな水平思考というか、ヘンなコダワリがなく、音楽の海に浮かぶ点をスクロールしてスイスイと泳いでいく感じ。系統樹的な知識のアーカイヴは外部記憶としてネットにあるから、それを参照すればいい。古い価値観からすればリテラシーが足りないということになるが、僕はそれをとても自由で羨ましく思う時がある。

「明日の広告」でも書いたが、1994年から2004年までの10年で世の中に流れる情報量は410倍になった(総務省情報流通センサス報告書より)。 たとえば街を歩いていて10個の情報、看板とか人の顔とか音楽とかに接していたのが、たった10年で4100個に増えたということである。それに比してヒトが処理できる情報量は10年でほとんど変わっていない。つまり我々は9割9分以上の情報を処理できずスルーしている

www.さとなお.com(さなメモ): ぼくたちは何だかあっという間に消費しちゃうね

410倍。そりゃみんな一個の情報に費やすエネルギーが減るワケだ。TwitterやTumblrのようなライフログ的なブログも、情報をスルーすることと情報にピン=フラグを立てることの間のグレーゾーン、誰もが役に立つように加工する前段階の生のRAWな情報をいかにつかまえるかという仕組みになっている。両者ともひたすらロギングするためにあり、フラットな水平思考(もっとうまいわかりやすい言い方がないかな)の産物だ。

そして、大友さんのようにそうした潮流にアンチを唱える人もいる。

過去30年、本来皆でやるものだった音楽が、ラップトップの中で作れるようになり、皆で聴くものであった音楽が、鼓膜を直接振動させるイヤホンで、個人だけの所有物になってしまったのを間の当たりに見てきて、そうした流れに、無駄かもしれないけどはっきりと杭を打ちたいという思いもあります。音楽はそういうもんじゃないだろ・・・って素朴に思ってますから。

SHIFT | PEOPLE | 大友良英



「without records」という大友さんによるインスタレーションは、鼓膜ではなく空気を振動させるポータブルプレイヤーを並べた20世紀的な聴取へのレクイエムのようだ。たくさんのレコードプレイヤーを並べて同時にレコードをプレイしたクリスチャン・マークレイ(Christian Marclay)にとても似ているが(当然、大友さんも意識はしているだろうが)、いにしえのアヴァンギャルドな実験やコンセプチュアル・アート云々というより、こういう音を出したいという欲求の素直な具現化に見える。

こだわりがもたらす苦しみ - Zopeジャンキー日記を読んで、脊髄反射的にこのエントリーを書いた。「自分がこだわっているものに、世の中のたいていの人は、こだわっていないのだ」という事実は、他者とつながる場合、決して忘れてはならないだろう。コダワリが強いがために痛い目にあった古傷も多く、「コワダリが強いよね」と言われることもよくあるので、自戒のためにクリップしておこう。

2008/09/23

A Scanner Darkly



最近のエントリーでフィリップ・K・ディックの名前がよく出てきたので、今更のレビューを。

信頼するリチャード・リンクレイター監督とフィリップ・K・ディックの「暗闇のスキャナー」が原作という組み合わせで公開のかなり前から楽しみにしていた「スキャナー・ダークリー(A Scanner Darkly)」。観たのは2006年、渋谷の映画館で公開最終日に駆けつけた。夕方だったせいか観客は少なかった。その次の最終上映には人が並んでいたが。

暗いディストピアSFばかりを描くディックにキャッチーな大衆性はないし、そのディックの長編の中で特異な位置を占める「暗闇のスキャナー」はSF色が薄く、彼自身のドラッグ生活を元にした実体験に根差している。SF的なガジェットは主人公が着る光学迷彩を思わせなくもないスクランブルスーツくらいで、ヴィジュアルとしては弱い。ドラッグディーラーが誰かを突き止めるために自らドラッグ常用者になってオトリとなる麻薬捜査官という設定もまぁ地味と言えば地味である。どうもこれは最初から分の悪い戦いだったのかもしれない。

何はともあれ、リンクレイターの原作や原作者への愛が深過ぎたのだろう。公式サイトのプロダクション・ノートで彼は原作にあえて忠実に作ることがチャレンジであることを表明している。また、この作品が未来SF的なプロットではなくキャラクターに依拠した映画だということも。

小説の終わりに用意された世界観や視点の転覆=ツイスト、そして、麻薬を栽培する農場における静かで抑制の効いた描写の中に絶望と一片の希望が混じり合うというウルトラ・ビターな読後感。僕は以前にも書いたように、このラストを読んで泣いたことがある。後書きで、ディックはドラッグで死んだ友人達へ献辞を捧げていて(映画でも忠実に再現されている)、センチメンタルなムードは一貫している。

映画と小説はやはり別物。自分の読むスピードで自分の歩幅で読者が物語に浸ってじっくり味わうという小説ならではのタイム感があっての感動であり、映画的なスペクタクルが起きるわけではなく、ドラッグ中毒者の弛緩しきったダラダラした日常が多くを占める原作をかなり忠実に描いたこの映画は、最後の転回部分も淡々としていて緩急に乏しい。

「ブレードランナー」を監督したリドリー・スコットがディックの原作を読んでいなかったように、ブライアン・イーノとデヴィッド・バーンが「ブッシュ・オブ・ザ・ゴースト」を読まずに本のタイトルからイマジネーションを膨らませて音楽を作ったように、小説から映画へ、あるメディアからあるメディアへの置換は、オリジナルを大胆に脚色し、換骨奪胎し、または、そこから限りなく離脱するというアプローチの方がうまくいく場合があると思う。

過去のディック原作の映画の中では、おそらく一番原作に近づいた「スキャナー・ダークリー」はそういう意味でのハッタリが足りない。だから、ダメだということではなく、こちらの期待が大き過ぎただけで全然悪くはない佳品である。

この映画の最大のハッタリというかヴィジュアルにおける貢献は、リンクレイターが「ウェイキング・ライフ」で採用した、俳優の演技をトレースしてアニメーションに起こすロトスコープにある。エンライトメントの絵があの密度のまま動くと考えると話が早い。

キアヌ・リーブス新作「A Scanner Darkly」--アニメと実写を融合した技法「ロトスコープ」とは - CNET Japan

リンクレイターがアニメーションの出来を気に入らず最初のスタッフを解雇したことなど、製作が難航した様子が伺える。

Imitating A Scanner Darkly in Adobe Illustrator | Illustrator, Tutorials | Layers Magazine: For Everything Adobe

イラストレーターを使って「スキャナー・ダークリー」風のデジタル・ペインティングを作るTips。

ロトスコープと言うのは古い手法で、スターログ世代なら(と言っても若い人にどこまで通じるかわからないが)、ラルフ・バクシの長編アニメーション「指輪物語」(1978年)ですでに使われていたと言えばピンと来るハズ。

「指輪物語」を僕は劇場で観ている。最初はリアルな動きに目を奪われ、馬に乗った黒騎士の襲撃など子供には本気で怖かった。が、「え?ここで終わるの?」という尻切れの幕切れで、当時、ガッカリしたことを覚えている。また、実写に基づく手法がアニメーションならではの自由な飛翔を奪っていると生意気にも思ったのだった。

「ウェイキング・ライフ」はシーンやカットごとにアニメーターとタッチを変え、観客を飽きさせない。グニャグニャした不定形で浮遊感を持ったヴィジュアルと主題がうまく合致していた。それに比べると、「スキャナー・ダークリー」は絵ヅラにあまり変化がなく(ドラッグによる幻覚シーンやスクランブルスーツなど、アニメであることが活かされた場面もあるが)、「指輪物語」同様に最初は新鮮でも観てる内に飽きてくる。

とにかく、ディックをディックたらしめているアイデンティティの喪失とそれに伴う不安や孤独という古臭くも現代的で文学的な主題がなぜかそれほどこっちに響いて来なかった。なぜだろう。最後にディックへの言及もある「ウェイキング・ライフ」の方がそういったメランコリーが濃厚だった。たぶん、「まんま」過ぎたのと、主役はキアヌ・リーブスではなくて、もっと泥臭い人、例えば共演のロバート・ダウニー・ Jrが合ってたんじゃないかなという気もする。キアヌのどこかリアリティを欠いた存在感がさらにアニメーションによって二重に希薄になってしまったような。  

映画は基本、小説のように内面を描けないので、それをどう映像に変換するかというのがポイントであり監督の手腕なんだけれど、ロトスコープというアイディアで押し切った以外はあまり演出面のヒラメキを感じられず、わりと平板に見えてしまったのが残念(実写であれば、また違った感想を持ったと思う)。結果的に、ディックの小説はプロットを借用することは出来ても、本質的に映画向きではないことを証明してしまっている?

リンクレイターは「スクール・オブ・ロック」のようなコメディや「恋人までの距離(ディスタンス)」とその続編「ビフォア・サンセット」のような会話の妙を活かした恋愛モノも撮れる人だし(恋愛モノがあまり得意でない僕もこの2作は好きだ)、ある主題にどんな話法や技法や創意工夫が必要か、素材をどう肉付けして削ぎ落としていくべきかを的確に分析できる人だと思う。「スキャナー・ダークリー」にはそうした彼の映画作家としての本分が良くも悪くもストイックに表出している。ちなみに、アメリカの映画批評ポータル、Rotten Tomatoesでは67点。微妙だなぁ。いや、決して悪い(以下略)。



「暗闇のスキャナー」のペイパーバックのジャケット。このイラストは味があっていい。いかにも70年代。ロバート・シルヴァーバーグの「悪夢的な強度に満ちた傑作」という言葉が添えられている。



もう一個は「暗闇のスキャナー」じゃなくて、「シミュラクラ(Simulacra)」の表紙。子供の頃に見たらトラウマになりそう。どちらもB級パルプフィクションの匂いがする。

「『暗闇のスキャナー』はシステムという怪物に個人が食い尽くされる「人間やめますか?」なコールドチリンなドラッグ小説。ディックは人類という墓標に捧げる悲しきレクイエム、極北で極生のエクストリーム体験だ。」

これはリニューアルする前のカルチャー雑誌「TOKION」の何号だったか、編集のNさんに依頼されて「極北」という特集に寄せた短いテキスト。この小説はシステムと個人の残酷で無慈悲な関係(リンクレイターは赤狩りを例に出していたが、小説が生まれた当時の冷戦体制も背景にある)としても読めると思う。

「スキャナー・ダークリー」についてはついつい厳しい見方になってしまったが、DVDで近々もう一度観直したいと思っている。

First Nation & Slow Life

「100円ショップが出来てから日本はダメになった」と、先日、知人が漏らしていた。Wikipediaによると、100円ショップの歴史は1991年にダイソーが最初の店舗を開設して始まった。バブルが弾けるのと同じタイミングというのは象徴的かも。100円ショップですぐ連想するのはブックオフの存在。ブックオフの直営1号店は1990年だから、100円ショップと同時期だ。

書店における新刊書のサイクルが速くなって、ちょっと前にリリースされた本を書店で見つけるのが難しくなったと言われる。本の中身にまったく拘らず買い取りを行うブックオフがそうした新刊書を古書として救済し、再び手に入れやすい状況を作っているという皮肉。高級アパレルとユニクロやH&Mといったファストファッションを同じひとりの人間が活用するという光景もいまでは当たり前になったし、むしろ、賢い消費者像として一般に認められてる節もある。ところで、先日のカタカナ外来語の話につながるけれど、なんで「ファーストファッション」じゃなくて「ファストファッション」なんだろう!? 

便利だから、というバリュー志向の「ファーストネイション」が街を覆い尽くす。それに対するアンチテーゼやカウンターとしての消費動向がスローフードやスローライフだったりするのだろう。スローライフの主張は正論だけれど、感度が高い消費者を煽るマーケティングに成り下がってるところがいただけない。僕はどちらも諸手を挙げて賛成するという立場ではないので、どっちつかずで中途半端、それぞれをイイとこ取りして、100円ショップもコンビニもファーストフードもブックオフもユニクロも使う、自堕落な一生活者に過ぎない。

そういえば、リチャード・リンクレイターの「ファーストフード・ネイション(Fast Food Nation)」のプロデューサーがマルコム・マクラレンだというのを今頃になって知った。自分は最近流行ってるグローバリズムや新自由主義を斬る!的なこの手の映画にあまり食指が動かないのだけれど、マイケル・ムーアが先鞭をつけたこの流れ、柳の下のドジョウを狙うジャーナリスティックな告発映画が多過ぎて、観る前にお腹いっぱいになっているのかも(「ダーウィンの悪夢」は面白かった)。この2人の組み合わせなら観たいなと思う。

麻生太郎が自民党総裁になった。この人は祖父である吉田茂をリスペクトしてるらしいが、端から見ても人としての器量がまったく違うと思うのだがいかがなものか。吉田茂は癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストだった。「日本としては、なるべく早く主権を回復して、占領軍に引き上げてもらいたい。彼らのことをGHQ (General Head Quarters) というが、実は “Go Home Quickly” の略語だというものもあるくらいだ」と冗談を言った逸話など、昭和の愛すべきカッコイイ頑固親父であり、作家・吉田健一を生んだ人となりをよく伝えている。

翻って、麻生太郎はこういう人物である。

要するにアキバの若者たちが、喝采しているローゼン閣下とは、口のひん曲がった「封建領主」のことなのだ。少なくとも、麻生が言っている「ニートはニートらしく」というメッセージと野中広務を指して「部落出身者を日本の総理にできないわなあ」と貶めた差別発言とは、ポジとネガ、コインの裏表のような関係にあることを知っておく必要があるだろう。そして、「○○らしく生きる」とは、部落に生まれ、「自助努力」こそが、差別を撲滅する唯一の道と信じ、差別に甘んじる同じ部落の人々とも激しく闘ってきた野中広務が最も憎んだ、奴隷の思想に他ならない。(カトラー:katolerのマーケティング言論)

国家の宰相が優れた倫理観とヒューマニズムを持ち人々に尊敬され愛される父のようなヒーローのような存在である必要はまったくないと思う。いや、むしろ、危険ですらある。「ザ・ワールド・イズ・マイン」で清濁合わせ飲む大器として描かれる由利首相はマンガだからありえる存在であって、現実だったら各所から非難ゴウゴウ、日本がいま以上に悪い方に傾くのは目に見えている。一国の宰相となるべき人が妙に若者に媚びたり「スローライフ」といった口当たりのいい言葉を威勢よく吐き出す時は、額面通りに受け取らない方がいいと思う。ダブルスタンダードの可能性が高いからだ。吉田茂のように、国を背負うことが必然的に抱え込む矛盾の大きさを苦渋に満ちたユーモアで表現するというのならまた話は別だが。

追記。

僕は麻生太郎も吉田茂も直接知っているわけではないので、この比較は恣意的でバイアスがかかっている可能性はある。

2008/09/20

棒がいっぽん

僕の悪い癖のひとつに、文章を生半可な状態でアップしてしまう(よくよくチェックしない)というのがある。悪文ここに極まれり、であるが、それ以上に竹を割ったような即断や決断が下せない優柔不断な性格によるものと自己分析している。

一回アップしたテキストを「この言い回しは違和感あるなー」「このてにをははおかしいよ」と自問自答しながらこねくり回す時間があるのなら、もうひとつエントリーを書いた方がいいんじゃないかと思ったりもする。

しかし、たかがブログとはいえ、人様の目に半永久的に晒されるものであるから、ちょっとでもヘンだなと思ったら修正したりリライトする、後から新しい知見を発見したら追加する、くらいの労力は最低限必要だと思う。

ということで、間違っていた文章を後から判別させる棒線のHTMLタグを今日覚えた。

例:僕はウソをつかない 否、ウソをつくこともある

こんなカンタンなことを今まで知らなかった。こうしてブログで恥を忍んで自分の無知をさらけ出すのもまた一興である。「俺はこんなに物知りだぜベイベー」と裸の王様でいることの方が何倍も恐ろしい。

タイトルは高野文子さんからいただいた。「奥村さんのお茄子」ほど驚かされた漫画はそうそうない(と書いたら今すぐ読みたくなってしまった)。この漫画で描かれた「記憶」と「記録」の興味深い関係は、拙ブログ「ニモーニック・メモ」のタイトルが意味するところでもありマス。

2008/09/19

「ー(音引き)」のナゾ

マイクロソフト、「ブラウザ」を「ブラウザー」にするなど300語以上の表記を変更へ - GIGAZINEという記事を読んで、時代に逆行してないか?とほんのり思った。

以前は自分も「コンピューター」と語尾を伸ばしていた。イメージとしては、大昔の磁気テープがガチャコン回っていて「計算機」とか「演算処理」という言葉が似合いそう。それが「コンピュータ」になったのはいつ頃だろう。一極集中型のメインフレームから分散型コンピューティングへ、スパコンからパソコンへという変化のどこかの地点?

いつの頃からか、「ブラウザー」は「ブラウザ」、「フォルダー」は「フォルダ」、「プリンター」は「プリンタ」、「プロバイダー」は「プロバイダ」、「コントローラー」は「コントローラ」と表記するようになっていた。音引きナシの方が字面や語感的にシャープでキリッとしたモダンな印象だ。

でも、「スキャナ」や「カスタマ」や「サーバ」はなんだか落ち着かない。「スキャナー」は「暗闇のスキャナー」や「スキャナーズ」で刷り込まれてしまってるし、「サーバー」は「アイスクリームサーバー」などIT以外の場面で使われるからか。「カスタマ」は語感的に「カス玉」を思い浮かべてしまう。「ユーザ」や「スピーカ」もしかりで違和感がぬぐえない。

・・・と思ったら、作家の森博嗣さん(「スカイ・クロラ」の原作者)は、「クーラ」「モータ」「ファクタ」「スーパ」「ホームセンタ」「オファ」と、自身のブログで音引き省略を駆使していて、ちょっと、というか、かなり驚く。いや、そもそもタイトルから「クロラ」だし。これに関しては個人差が激しそうだ(森さんは理工系出身と知って納得する)。

「工学系の学術用語では、3音以上のカタカナ用語の末尾の音引きを省略するのが原則。これは戦前に全日本科学技術団体連合会という団体が決めたもので、その元には英語発音への誤解がありますが、工学系学術用語やJIS用語の多くはこのルールをそのまま踏襲しているんです」([雑学] IT用語とかJIS規格etc.音引きの秘密に迫った | RxR | R25.jp)

今回のマイクロソフトの決定は1991年に国語審議会が定めた外来語表記ルールに従ってるらしい。音引きを省略するのは戦前のルールだから、歴史的にはずっと古い。

違和感のあるなしは個々の言葉がどのように社会と接点を持ってきたかによって変わってくるわけで。IT専門用語としては音引きナシ、一般語としては音引きアリという使い分けがニュートラルな実感としてあり、コンピュータやインターネットが普及したいまとなっては、音引きナシの方が今後、趨勢になっていくのでは?と勝手に予測してみる。もしくは、書く時は音引きナシ、口に出して読む時は音引きアリ? 単純に、一字減るだけで入力の手間が省けるというのはデカイ。

ちなみに、昔から「パーティー」は「パーティ」と音引きナシで書くようにしている。だからナンダと言われると困るが。カタカナ表記って奥が深い。

経済もまたフィクションだ

リーマン・ブラザーズの破綻に関して、内田樹の研究室経由で、リーマンの破産、擬制の終焉。 - カフェ・ヒラカワ店主軽薄というエントリーをクリップ。

この度の米国経済の破綻は、
信用の収縮と呼ぶべきものではなく、行き過ぎたお金への信仰が、
欲望が再生産を繰り返して作り上げた幻影に対するものでしかなかった
ということが露呈したに過ぎない。
最初から信用というようなものは無かった。
信仰は、幻影には実体がないと分かった瞬間に一気に萎む。


たけくまメモにも書いてあるように、1971年のニクソン・ショックを契機に金本位制が廃止されたことで、お金をリアルワールドで価値があるとされるモノ(この場合は金)と交換する仕組みがなくなり、お金は完全にヴァーチャルな幻影の中で取引されるものになった(*)。

いわばお金はオリジナルの存在しないコピーで(メインバンクによって原理的にいくらでも複製することができる)、価値を担保してあるはずのオリジナルを参照できず、コピー自体で価値を生み出し、経済というシステムを回し続けなくてはならない。ウソから出たマコト? そして、その価値は国家間のパワーゲームによって決定される。経済にうとい僕もこの辺は理解できる。

無理な戦争を仕掛けようが、
世界の富を簒奪するシステムを遂行しようが、
政治的・経済的覇権を正当化し、維持するためには
ひとつの擬制(フィクション)が必要だったということかもしれない。
アメリカの正義は、世界の正義であり、人類の利益に資するものだという
擬制がそれである。
彼らがその擬制を補完するために掲げた、自由も、チャンスも、平和も
まさにその社会の根本に、原理的に欠けているがゆえに、
その欠落を隠蔽するために設えられた「正義」のように見える。


グルジア紛争も大統領選挙に焦点を合わせたアメリカとロシアの代理戦争だと言われている。その真偽はともかくとして、国内の経済的・社会的混乱を隠蔽し人々の関心を反らすために、国の外に敵を作るという擬制(フィクション)をアメリカは常に採用してきた。

フィクションで経済が動き、現実に戦争が起こるというのは、改めて考えると恐ろしいことだと思う。人間は動物ではないので本能のみでは行動できない。そこにフィクション(思想でも大義でも哲学でも理念でも入れ替え可能)を補完する必要がある。

「お金が行使できるパワーは極めて限定的なものであり、それを万能だと思うことは恥ずかしいことなのだという認識」はどうやったら社会に広く敷衍(ふえん)できるのだろうか。倫理観としてはわかっているつもりでもそれだけでは実効力が弱い。今回のようにフィクションそのものが崩壊・破綻することでしか認識できないのかもしれない。フィクションと現実のフリクション=衝突は常に避けられない。

とまれ、このまま資本主義で行く限り、よりベターな経済システムが発明されない限り(まさか、原始共産制に素朴に戻ることはできないだろうし)、拝金主義がもたらすディザスターは今後も避けられない気がする。


追記。

いとうせいこうさんがブログで引用していた宇宙物理学者フリーマン・ダイソンの言葉。この人の予想が当たるかどうかは置いといて、こういう大きなスケールで歴史を俯瞰する見方は忘れがちなのでメモ。

「国家という概念が1450年頃、西ヨーロッパで発明されて以来、スペイン、フランス、英国、そしてアメリカの四カ国が順次150年の周期で覇権を握ってきた。アメリカが世界の主導国となったのは、第一次世界大戦後1920年頃のことであり、したがってアメリカ主導の時代は2070年に終わることになる。21世紀の大問題のひとつに、いかに円滑にアメリカから次の主導国へ権力を委譲するかという問題がある。次の最有力候補は中国である。他候補はインドとヨーロッパ連邦。主導国たる条件は軍事力の行使を最小限に押さえつつ、その軍事的優位を保つことにある」

カトラー:katolerのマーケティング言論でも、上記のフィクション云々について指摘している。

現在の世界経済で問題になっている過剰流動性とは、「金余り」というような言葉で表現されるリアルマネーのことをさすのではない。そのリアルマネーをレバレッジ(梃子)にして膨れ上がる信用創造のプロセスそのもののことをさす。とすれば、現在、われわれが立ち会っているのは、過剰流動性=信用創造システムそのものの崩壊に他ならないと考えるべきだろう。

2008/09/17

聖☆おじさんはかく語りき



YouTube - dan le sac Vs Scroobius Pip - Thou Shalt Always Kill

dan le sac Vs Scroobius Pip - Angels(日本版サイト)

ちょっと前に話題になったダン・ル・サック Vs スクルービアス・ピップ(dan le sac Vs Scroobius Pip)の「Thou Shalt Always Kill(汝、つねにキメるべし)」のPVが面白い。ポップ・ミュージックの世界における度を超えた偶像崇拝(「どんなに素晴らしいとしても、ミュージシャンやアーティストをバカみたいに崇めたてまつるなかれ」)、トラックメイカーの怠惰とやっつけ仕事(「反復的属性の音楽を作るなかれ」)、リスナーの飽きっぽい浮気性(「人気になったからと言ってバンドを愛するのをやめるなかれ」)、ライブでの決まりきったコール&レスポンス(「俺がヘイと言ってもホーと言うなかれ」「メイク・サム・ノイズと言ったらキメろと言え」)などなど、音楽の世界にはこびる慣習やルールを舌鋒鋭く批判しながら、名盤とされるレコードを「ビートルズもツェッペリンもピクシーズもただのバンドだ」と放り投げていく。パンクな批評精神が痛快だ。



YouTube - LCD Soundsystem - Losing My Edge

で、こういうのってあったよなーと思い出したのが、LCDサウンドシステムの初期のシングル、「Losing My Edge(俺は日に日にエッジーじゃなくなっていく)」。生ドラムと生シンセの反復によるラフでソリッドなエレクトロ・パンクなサウンドも、LCDサウンドシステム=ジェームズ・マーフィーが音楽バカでオタクな自分を老いぼれていく元ヒップスターに重ね合わせる自嘲気味なリリックもよく似ていて、たぶん、「Thou Shalt Always Kill」を作る際にインスピレーションになったんじゃないかな。


1968年、ケルンでカンが最初のショーをやった時、俺はそこにいた
1974年、ニューヨークのロフトでスーサイドのリハに立ち会い、
俺はオルガンを辛抱強く鳴らしていた
キャプテン・ビーフハートが初めてバンドを作った時、
俺は「一銭にもならないからやめた方がいい」と忠告した
パラダイス・ガラージでラリー・レヴァンがDJしていた時、俺はそこにいた
ジャマイカで偉大なサウンド・クラッシュが行われていた間、俺はそこにた
1988年、イビザのビーチで俺は裸で目覚めた

俺は老いぼれていく
62年から72年までの名バンドのメンバーをインターネットで検索して言える奴ら
俺は老いぼれていく
記憶にない80年代を借り物のノスタルジーで懐かしむブルックリンのアートスクール連中
俺は老いぼれていく
より良いアイディアとファッションと才能に溢れた人々はとんでもなくイカしてる

(LCD Soundsystem - Losing My Edge、リリック全文はこちら)。


「Losing My Edge」で語られるヒップスター(彼は「Thou Shalt Always Kill」よりずっと内省的で自己言及的ではある)は、ポップ・ミュージックの歴史的事件にすべて立ち会ってきたとウソぶく名うての「聖☆おじさん」(by 電気グルーヴ×スチャダラパー)だ。最高の音楽を知っている俺は最高にクールだと思っているインディーキッズは、彼のことを笑えない。すでに価値が定まったモノに仮託して自分は価値があると思っているのだから。

「Thou Shalt Always Kill」でたくさんの名盤が取り沙汰されるところは、エリカ・バドゥの「Honey」のPVを連想させる。



YouTube - Erykah Badu - Honey

エリック・B&ラキム、NAS、ファンカデリック、ミニー・リパートン、デ・ラ・ソウル、オハイオ・プレイヤーズ(「Honey」のタイトルはここから)、グレース・ジョーンズ、ビートルズ、ジョン・レノン&オノ・ヨーコ(ローリング・ストーン誌)。それらのジャケットがモノクロの画面でカラーに色づく。こちらはより穏当でノスタルジックな雰囲気だが、最後に「ローカルのレコード屋をサポートしよう」というテロップが流れて、ピリリと空気を引き締める。こうしたメッセージ性の強いレコードやPVが同時多発的に出てくるのは偶然ではないし、音楽を取り巻くいまの状況と密接につながっている。ところで、エリカ・バドゥは恥ずかしながら今年になってちゃんと聴き始めた。黒人音楽の定型をトレースしながらそこからハミ出していくしなやかさが魅力で、最新作「New Amerykah, part 1: 4th World War」は傑作だと思う。



YouTube - dan le sac Vs Scroobius Pip  - Letter From God to Man

最後は、ダン・ル・サック Vs スクルービアス・ピップに戻って、「Letter From God to Man」。レディオヘッドのサンプリングがブレイクコアのドラミングとミックスされる高揚感はナカナカのもの。PVの途中で、アンディ・ウォーホルとバスキアがボクシングの格好をした有名なポスターのパロディがチラッと映る。同曲のリリックを使ったPVはこちら

今回紹介したヴィデオは、どれも低予算のワンアイディア勝負というところがいい。LCDサウンドシステムのPVなんてずっと顔を引っぱたかれてるだけだし・・。

ググる>ククる情報整理

ここ数ヶ月で自分のパソコン/ネット環境をやっとナットクする形で整理することができた。

ブログ

Blogger

ソーシャル・ブックマーク

Delicious
Tumblr(本当はミニブログだけど、自分の用途としてはココに入る)

RSSリーダー

NetNewsWire

オフライン

Journler
ScrapBook


インプットとしてのブックマークはGoogle Notebookをやめて、オンラインはDeliciousとTumblr(通常のブックマークはDeliciousで、写真と動画とテキストに特化したブックマークはTumblrという使い分け)、オフラインはJournlerとScrapBookに集約。アウトプットはBloggerのみ。mixiはIDは残しているけれど、もう活用していない。RSSリーダーは愛用していたGoogle Readerをほぼ使わなくなって、NetNewsWire一本に絞った。DeliciousとScrapBookは2005年から、Bloggerは去年から、JournlerとTumblrとNetNewsWireは今年の春から使っている。気分屋だから数ヶ月後にどうなってるかわからないけれど、今まで蓄積したリソースは有効に使いたいので大きな変動はないと思う。たぶん。



Delicious

リニューアルでDel.icio.usからDeliciousに名前が変わり、グッと使いやすくなった。特にタグまわりの柔軟性に優れている。タグ以外のワード検索はできないが(タイトルは検索できることに今更気づいた・・但し、固有名詞によってはできない時があるみたい)、インクリメンタル・サーチはFirefoxの拡張機能、del.icio.us IncSearchで可能(Safariでも出来なくはないが、手続きが少々面倒)。

NetworkやSubscriptionで、自分のブックマーク以外の記事をすくい上げることが出来る。Tumblrもそうだけど、自分の情報収集能力なんてタカが知れているので、関心があるトピックをサルベージするソーシャルなストリームの仕組みって大事。黒のグラデを使ったツルテカなOS Xモドキのインターフェイスデザインに食傷気味なので、シンプルなピクトグラムには好感が持てる。リニューアル前は事務用品のような色気のないインターフェイスだった(いまも人によってそう見えるかも)。

先日、ブックマーク数が千個以上になったので、FRESH DEL.ICIO.USを使ってデッドリンクを掃除した。ニュース系記事のブックマークが少ないというのもあるけど、リンク切れは40個程度と少なくて驚いた(一昔前に比べるとインターネットの生態系が成熟してきているということかも)。


Tumblr

Tumblrはコレがいい!と人に胸を張って勧めにくいサーヴィスだと思う。普通のブログと違って、ダッシュボードで他のTumblrユーザーとつながっているというのも、パッと見、わかりにくいし、リブログという仕組みがトラックバックより簡単なのも説明しづらい。感覚的につかめばまったく難しくない。自分のように興味があっちこっちにとっ散らかっていて、それらを記録するちょっとした手間も億劫だと思うような人に最適化されている。ただ、Tumblrで文章を書こうとは思わないので(最初はやってみたけど、何かシックリこなかった)、写真と動画とテキスト引用に特化したスクラップブックという使い方。Firefoxの拡張機能、tomblooを使うとポストが飛躍的にラクになる。


Journler

インターフェイスに色気がなくて最小限の機能しかないGoogle Notebookよりも機能豊富で使えるスタンドアローンのメモ/ノートブック。その代わり、やや重いのが難点。Google NotebookよりもJournlerの方がタグやスマートフォルダが充実していて記事を括りやすい。ググるんじゃなくてククる=グルーピングするってのが、僕の情報整理術(ってほどでもないが)には必須なので。もはや、ククるためにククるという有り様で、記事を分類せずに放り込んでおいて後は検索に任せるという今っぽいやり方には懐疑的な古い人間みたい。


ScrapBook

サイトをページごと保存したい時、資料性の高いページを保存する時は、ウェブクリップやPDFではなく、Firefoxの拡張機能であるScrapBookを使っている。昔から使っていて慣れてるのもあるが、キャプチャー前後の編集加工がカンタンにできて、サイトの再現性が高く(一部のJavaScriptは効かない)、ブラウザに組み込まれているので元の記事へのアクセスも素早く、ツリー状のフォルダ形式で閲覧もしやすい(ただ検索はMacのSpotlightのように優秀じゃないので時間がかかる)。PDFはブラウザから保存した場合、フォントの再現性がもうひとつでキレイじゃないのであまり活用していない。


NetNewsWire

ニュース・リーダー/RSSリーダーは過去いろいろ試したが、NetNewsWireに落ち着いた。何より安定しているし、記事をNetNewsWire単体で読ませるブラウザとしての機能が充実している。更新が止まったブログを発見するDinosaursという機能も便利。個人的にはDeliciousにポストするボタンが手放せない。オンラインのNewsGatorとシンクできるので、もし何かがあっても安心。但し、NewsGatorのインターフェイスはイマイチで使う気にならない。NetNewsWireがGoogle Readerとシンクできれば完璧なんだけれど・・。

1988年のモラトリアム



ナイーブでイタそうだなと直感した作品を敬遠する傾向が自分にはあるのだが、2001年に作られた「ドニー・ダーコ」もそうやって当時スルーしてしまっていた映画だ。もっと早く観ておけばよかったと思う。

NHK少年ドラマシリーズ」を思わせるところが多々あり、観ていてデジャヴを感じた。ジュブナイルSFであること。学園モノとタイムトラベルの掛け合わせは、まさに「タイム・トラベラー」=「時をかける少女」。特撮もしくは特殊効果(VFXでもCGIでもなくこう呼びたい)が低予算なりのチープな魅力があること。

例えば、ラスト近くの世界が終わる瞬間に現れるとぐろを巻く不吉な雲だったり、ジェームズ・キャメロンの「ターミネイター2」や「アビス」を彷彿とさせる人間の胸からヒモ状に伸びるエネルギー体(?)だったり。生まれた時代も場所も異なる「ドニー・ダーコ」と「NHK少年ドラマシリーズ」を比較するのは強引だけれど、ジュブナイルSFに通底する思春期特有の暗さや危うさや脆さや傷つきやすさは、時代や国に関わらず、いつでもどこにでも転がっている普遍的なテーマなのだろう。

主人公のドニー・ダーコ=ジェイク・ギレンホールは、たまたま彼が主演する「ゾディアック」と「ドニー・ダーコ」を同じ日に続けて観たので、その偶然の一致と共に忘れられない俳優として刷り込まれてしまった。「ドニー・ダーコ」のキャラクターは、わかりやすく書き割り的に役割分担されていて、そこが物足りなくもある(しかし、思春期の人間観察とはそんなものだとも思う)。セラピスト役のキャサリン・ロス、お母さん役のメアリ・マクドネル、先生役のドリュー・バリモアがジェイクを陰ながらサポートする慈愛と母性の象徴であり、自己啓発セミナーの代表で悪玉のパトリック・スウェイジや彼に心酔する女教師はマッチョで虚像としての胡散臭い大人社会を体現する。

ジェイクが世界の破滅に対して起こした行動は、一見すると、自己犠牲であり利他主義のように見えるけれど、自分が犠牲になって周囲の愛する家族や恋人を救うことで、おのれのカッコつきの正義は守られ、現実の醜さやシンドさを生きることから永遠に背を向けるという、虫のいい自己完結したナルシシズムじゃないか。それじゃあ、現実世界で承認されない可哀想な自分が妄想世界でヒーローになることで、不都合で理不尽な現実に向き合わないというよくある話と結果的に同じじゃないか。思春期をとうに過ぎてしまったオトナの僕は意地悪くそう思ったりもする。こうした物語がドラマツルギーとして要請する矛盾や心理的葛藤を自身の問題として引き受ける「ダーク・ナイト」の登場人物たちとは違うのだ(ウサギのクリーチャーはジョーカー的な位置づけかもしれないが)。

タイムトラベルやリバース・ムーヴィーという設定も、ジェイクが自分を周りに承認させるための手の込んだ恣意的な仕掛けに見えなくはない。タイムトラベルはそもそも矛盾が矛盾を呼ぶようなところがあるので、そこは突っ込まないけれど。冒頭の見晴らしのいい山道(世界が終わる瞬間と同じ場所)で笑うジェイクと、ラストでベッドの中で笑うジェイクはメビウスの輪のようにつながっている。ジェイクは最終的に何から解放されたのだろうか?

アニメ版「時をかける少女」でも主人公は自分にとって都合のいい未来をもたらすために、タイムトラベル(劇中ではタイムリープ)を繰り返す。同様にジュブナイルSFの「バタフライ・エフェクト」ではタイムトラベルを繰り返すたびに現在は改悪され、破滅へとひた走る。どれも奇妙に似ている。「こうだったらいいのに」という願望充足や、「こうじゃなかったらいいのに」という後悔=リグレットを消すために、タイムトラベルが利用される。いづれもうまく行かない現実を否定し改変しようとするが、それは人間が人間であるための所与の条件、死は不可避であり、すでに生きた時間は巻き戻せないという条件を超越する行為なので、当然、その報いを受けることになる。ちなみに「バタフライ・エフェクト」は好きになれない映画だった。

じゃあ、ナルシシズムに満ちた青春映画である「ドニー・ダーコ」に現実と真っ向から戦うゼロ年代的な「決断主義」を持ち込めばいいかと言うと、それはまた別問題。そうすれば、この映画の持つ青白くせつないモラトリアムな気分は消えてしまうだろう。この映画の欠点は同時にアドバンテージでもある。

音楽の使い方はとてもよかった。学校で主要な登場人物を次々と紹介するシークエンスではティアーズ・フォー・フィアーズの「Head Over Heels」、主人公の妹が学園祭でダンスを披露するシーンではデュラン・デュランの「Notorious」、悲劇が起こる直前に主人公の家で行われるホームパーティのBGMはジョイ・ディヴィジョンの「Love Will Tear Us Apart」、エンディングはティアーズ・フォー・フィアーズの「Mad World」のカバー。曲調も(たぶん歌詞の内容も)パズルのピースのように1988年という映画の設定を支えている。

80年代末を思い返すと、たしかに世紀末の終末観というのはあったと思う。すでにアシッドハウスやテクノが聴こえてきていたし、それらは暗い未来を映し出すサウンドトラックとして、あるいは世紀末をやり過ごすための享楽的ドラッグとして十分な説得力を持っていて、ティアーズ・フォー・フィアーズのような歌は忘却されつつあった(少なくとも僕のような人はそうだった)。でも、そういういかにも音楽ジャーナリズムっぽい言い方ではなくて、もっと生活の内側にあるヒダのような感情を思い出そうとするとよく思い出せない。

なお、フィリップ・K・ディック好きらしいリチャード・ケリー監督の次回作「Southland Tales」は酷評だったらしく、日本公開されていない。トレイラーはこちら

2008/09/16

Graffiti Rock 2008

ヒップホップ、ターンテーブリズム、グラフィティがテクノロジーと交錯する現在。そんなネタが溜まってきたのでまとめてエントリー。



YouTube - DJ Ruthless Ramsey Scratch Tape Decks

2台のラジカセとカセットテープでコスりまくる映像。ラジカセがいかにもオールドスクールなヤツじゃなくて、カセットを上からセットするちょっとダサめなタイプ(コレじゃないと、たぶんスクラッチできない)。音だけ聴くとターンテーブルとの違いがあまりわからない。ヴィデオの最後の方でラジカセDJに飽きたのかタンテに移動しちゃうところがご愛嬌。



YouTube - Mike Relm Live!

Mike RelmはDVDJを使うターンテーブリストでサンフランシスコ出身。Qバートとも共演歴があるらしい。音と映像をターンテーブルとコンピュータでシンクさせるというのは、たぶんコールドカットが最初で、そこから10年は経ってるから手法的に新しくはないが、音と映像がピッタリと寄り添う面白さは普遍的だ(老若男女が楽しめるキャッチーなネタを選んでるというのもデカイが)。上のヴィデオでは「スクール・オブ・ロック」から始まり、スヌーピーのザ・ピーナッツやビョークの「Human Behavior」や「ファイト・クラブ」やジョン・レノンの「イマジン」をスクラッチン。「パルプ・フィクション」のツイストを踊るシーンに、チャック・ベリーとブロンディとキュアとジョー・ジャクソンを素直に合わせたYouTube - Mike Relm's Pulp Fiction 'The Twist' Remixが好き。この底抜けのユルさと明るさ、オープンマインドは西海岸由来のもの。

関係ないけど、ザ・ピーナッツのTVアニメの劇伴を手がけてたのは、やはり西海岸出身のヴィンス・ガラルディ(Vince Guaraldi)。日なたぼっこをしてるような、やさぐれたところが全くない快活なウエストコースト・ジャズでもう耳に馴染んでしまっている。

Amazon.co.jp: A Boy Named Charlie Brown: The Original Sound Track Recording Of The CBS Television Special: Vince Guaraldi



YouTube - AZ "The Hardest" Featuring Styles P

映画「マトリックス」で有名になったブレットタイム/タイムスライスを使ったラッパーのAZのPV(ラージ・プロフェッサーが参加)。制作方法はHow to Enter the Ghetto Matrix (DIY Bullet Time)に詳しく、高解像度の映像はこちら。ブレットタイムについてはWikipediaを参照されたし。



ネタ元はGraffiti Research Labで、レーザー光線で光学的グラフィティを壁に投影させたり、都市ゲリラ活動に勤しむギークな連中だ。メンバーのひとりは北京オリンピックで「Free Tibet」の文字をレーザー投射しようとして逮捕された(記事はココココ)。Graffiti Research Labはついこないだ東京に来ていたらしい。知っていたら行きたかったな。

visual scratch :: turntablism visualizedはその名の通りで、max/mspやprocessingといったソフトウェアを使って、各種スクラッチを可視化する実験的なプロジェクト。オリジナルの映像の方が初めて見た時に「おお!?」とクルものがあって、個人的には好み。同じ作者によるThe History of Samplingは、サンプリングされたアルバムとサンプリングしたアルバム、両者の関係を時系列のグラフとしてヴィジュアライズしていて秀逸(データは2004年で止まっている)。

2008/09/14

よく読まれた記事トップ8

アクセス分析の結果。トップページと月毎のアーカイヴページ以外でよく閲覧された記事のトップ8が以下。対象の知名度からするとまぁそうなんだろうなぁという感じで、キーワードも「Perfume」「David Byrne」関連が一番多かった。この過疎ブログのひとつの傾向を示すデータということで・・。

mnemonic memo: Perfume
mnemonic memo: David Byrne
mnemonic memo: シブヤとレコヤの回顧録
mnemonic memo: 「崖の上のポニョ」その2
mnemonic memo: 火の番をする女
mnemonic memo: 赤塚不二夫、すべてを肯定する哲学
mnemonic memo: Becoming a Cliché
mnemonic memo: Genius Party

SF回帰?



前々回のエントリーで(そういえば、「エスクァイア」がクラークとディックをメインにSF特集を組んでいた)と書いた。SFってすっかりメインストリームの檜舞台から消えて本来のサブカルチャーに戻った印象が勝手にあって、いわゆるSF映画というかスター・ウォーズのようなスペース・オペラの終焉みたいなことだったり、以前はSFの専売特許だった設定がどんどん普通の小説や映画に入り込んできていて(「エスクァイア」にはそのへんを受けて「ストレンジ・フィクションという新潮流」というページもある)、だからこそ、古典としてのSFが見直されている? かつてSFに熱狂した世代へのマーケティング商法だったりして?(*)


オレとサイエンス・フィクション!(全5回・その1) - メモリの藻屑 、記憶領域のゴミ

勝手にSFだけでハヤカワ文庫100冊 その1 非英語圏強襲(1〜4) - 万来堂日記2nd

リドリー・スコット監督が、新作SF「すばらしき新世界」に着手? - eiga.com

BBtv - Syd Mead with Joel Johnson, part 3: BLADE RUNNER. - Boing Boing


そういえば、元々リドリー・スコットのプロダクションで働いていて、エイフェックス・ツインやビョークのPVで一世を風靡した映像作家クリス・カニンガム(Chris Cunningham)がサイバーパンクの金字塔「ニューロマンサー」の映画化に着手したというニュースがだいぶ昔にあった。音沙汰がないところを見ると、おそらく企画がポシャったんだろう。William Gibson's Neuromancer Finally Coming to the Big Screen! によると、どうやら、別の監督で映画化が進行中らしい。なお、クリスはハーモニー・コリンの「ミスター・ロンリー」の一部を映像監修してるとか。

*=閑話休題。ギズモード経由でNYタイムスの統計によると、日本は娯楽にかけるお金が洋服+生活必需品+電力のトータルを上回っているそうだ(What Your Global Neighbors Are Buying - Interactive Graphic - NYTimes.comの「RECREATION」をクリック)。単純に日本は娯楽の単価が高いということかも。これだけではなんとも言えないが。なお、記事によると、ギリシア人は他の国に比べファッションの比重が大きく、アメリカは(依然として)すべての部門にお金をかけている世界一の消費大国。関係ないが、NYタイムスのサイトはレイアウトの組み方が絶妙にキレイで見やすく(白い地と文字とのバランスによる可読性、新聞らしさとウェブらしさとの掛け合わせなど)、ユーザーにストレスを与えない好例だと思う。

2008/09/11

ちがうより、おなじがいい

Blog Action Dayと「共感のグローバル」 - Tech Mom from Silicon Valleyという記事を読んで、ああそうなんだとずっとモヤモヤしていたことがスッキリした。この記事は「若者は海外旅行をしなくなった」という現象の考察で、昔のように違いやエキゾチシズムを求めて(人生に揺さぶりをかける強烈な強度を求めて)、目的を持たずにあてどなく旅するということが、インターネット時代のいまは難しいというハナシである。

あなたとわたしは違う、ことよりも、あなたとわたしは同じ(似ている)、ことの方が選ばれる時代。異質なものを求める指向から、同質なものを求める指向へ。知らないことを前提とした未知数の可能性よりも、知っていることを前提とした可能性へ。大雑把に括るとこういう大きな流れがあって、それがカルチャーのタコツボ化・島宇宙化の進行、同質のコミュニティ内で充足し(いわゆる、マッタリ)、異質なコミュニティの衝突によるダイナミズムが失われてしまうということにつながる。

「エキゾチシズム」はいわば「出会い頭」のショックであって、「旅行」としては楽しいけれど、それが何か生産的な活動につながるためには、そのショックを消化するための長い時間がかかる。何かを感じても、自分は何からアクションを起こすべきなのか、方向性がはっきりわからない。

昔の旅は費用対効果がハッキリしてなくて、手続きやプロセスが面倒で無駄が多くハードルも高くて、プロセス自体に意味や価値があってその結果はブラックボックスだった。旅とはかつてそういうものだった。もちろん、その傍らにショッピングやビジネスやツアーコンダクターによるパッケージングされた観光など、あらかじめ目的が定まった予定調和的な旅があって、両者は同じ旅でもベクトルが真逆。

いまのインターネットやグローバリズムの時代は、プロセスよりも結果重視で生産性重視、成果主義である。無駄を回避して、できるだけ正確に素早く目的にアクセスすることが求められている(グーグルが検索を武器に世界の覇者となったように)。世界遺産とかファスト風土化とかも、全部つながっている。

異質なコミュニティの衝突によるダイナミズムが本来のカルチャーの醍醐味であるという問題設定、「ヒップホップでもポストパンクでもコンピュータでもなんでもいいけど、あるムーブメントが生まれた時の混沌としたエネルギーや初期衝動や野蛮なダイナミズムってやっぱりサイコーにクールじゃん」的な価値観が、最近何を観たり聴いたり体験しても「つまらない」と思ったり、なんとなく停滞感を感じるということにつながる。

でもどうなのかな。(僕のような人間がヘンにこだわっている)そういう問題設定や価値観を一度取っ払ってみて世界を見ることは大事かもしれない。おもしろいことは実はいつでもどこでも転がっているし、おもしろいこと自体の質、クオリティは昔から変わってはいないのだけれど、それを取り巻く世界の様相やアプローチの仕方は変わってきている。

異質から同質へ。ちがうことより、おなじことへ。うーむ。そうか。そういうことか(いまさらだけど)。

2008/09/10

VOCALOIDと人間の不在

政治のことはよくわからないし、閉塞している状況に対して「閉塞感」をことさら叫ぶことは現実をただ補完するだけだと思うが、福田首相の辞任からおぼろげながらにソーゾーできるのは、表面上は代わり映えのない日常が続いているのだけれど、とてつもなくカタストロフでデストロイな状況が水面下でじわじわと地盤を揺るがして、もう固い地面はどこにも残っていないという、それこそ宮崎駿が「神経症の時代」と名づけたソレの一部に自分もなってしまったかのようなイメージだ(ええと、頭の悪い僕にはいまが「神経症の時代」なのかにわかには判断できないのだけれど。というか、分裂症の時代はどこに行ったの?)。

ここから話は飛ぶのだが、ミシェル・フーコーは「言葉と物」でそれまでの歴史が形作ってきた人間という概念が死につつあることを40年以上前に指摘した。こう書いて自分も驚いてしまうのだけれど、半世紀近い時間がそこから流れているのだ。人間はもう死んでいる。だからこそ、映画や音楽やアートの世界では、人間はもう死んでいるという表徴をトリガーとしてさまざまな表現を手に入れてきた。

平たく乱暴に言えば、ゾンビをはじめとするホラー映画はすべからくそうだと言えるし、エレクトロニカやクリック・ハウスが人間のいないノーマンズランドの風景を描くのも同じことである。その反動や反作用として、人間は称揚され、供養され、再発見され、新たな息吹を吹き込まれ、懐かしがられた。どちらもコインの表裏。

VOCALOIDを使った人工的に合成された実在しない声をフィーチャーした楽曲がオリコンに入る、いま、ここにある日本。肉声をヴォコーダーでコンピュータライズする昔ながらの手法とは真逆だし、その延長線上で中田ヤスタカがPerfumeの肉声をコンピュータで加工するのとも違う。パソコンの普及がもたらしたロボ声を使ったエレクトロでキッチュに気高く遊んでいた90年代ももう遠い昔。それらは、言ってしまえば、とても「人間的」でノスタルジックで安全なのだ。すでにファンクやテクノのアレンジ手法として耳に馴染んでいるのだし。

VOCALOIDを聴いて「気持ち悪い」と生理的に感じてしまうのは、その声音というか声質のせいであって(アレンジ手法はむしろオーソドックスなためにその異質さが強調される)、死んでいる者というか物(?)が生きている者を正確に忠実に模倣しようとする、そのベクトル自体に理由がある。おそらく。だから、それが人間ソックリであるかどうかという完成度とは関係ない。人間ソックリなアンドロイドが現実化した時の気持ち悪さは、これに近いのではないだろうか(未体験だからわからないけれど)。

もうすでに人間は死んでいる、という気づきが現象や事象として実在化されることへの根源的な恐怖がそこにあると思う。死んでるものと生きてるものとの区別がつかないことへの恐怖。お前はもう死んでいる。シミュラークルから逃れることはできない。80年代にはトッポイ先端的な思想やディストピアSFに描かれる未来でしかなかったことが、ゼロ年代末になってリアルに実感させられることがここ最近多いように思う。

ということで、フィリップ・K・ディック的なハナシで、政治とはまったく関係がなかったのでした。(そういえば、エスクァイア誌がクラークとディックをメインにSF特集を組んでいた)

地唄舞はおもしろい


前回のエントリーで紹介した俵野枝さんの公演「火の番をする女」を観に行った。(9.16追記)

谷中の大雄寺(だいおうじと読む)は大きなお寺ではないが、お堂の天井からぶら下がってる灯りが唐草文様でどことなくハイカラだったりと、居心地がいい。庭から鈴虫の声が聞こえ、二日間共、舞の最中に雷まで鳴って、幽玄な空間を生み出す舞台装置としてはほぼ完璧だった。

目と鼻の先で観る舞はゾクゾクするほど素晴らしかった。野枝さんの舞は地唄舞というそうだ。自分は日本の古典芸能についてまったくと言っていいほど無知なので、ググった生半可な情報で復習してみる。

以下、メモ。


地唄舞は上方舞と呼ばれることが多く、その名の通り、関西で生まれた舞の総称で、関東で生まれた日本舞踊とは成り立ちが違う。

地唄舞は能の影響が強く(さらに人形浄瑠璃や歌舞伎からも影響を受けている)、日本舞踊は歌舞伎の影響が強い。前者は静的で後者は動的。

舞と踊り(日本舞踊)の違いは、「舞は旋回する静かな動きから“舞”」、「踊りは歌舞伎芝居の大きな舞台で発達したもので、動きが大きく飛び跳ねることから“踊り”」と呼ばれる。

近世・江戸時代に始まった舞は、関西という土地柄、船場の商人がお座敷の酒宴に持ち込んだものであり、屏風を立てた一畳ほどの狭い空間でも踊れるように、ホコリが立たないように静かに舞ったのだという。

このように上方舞は座敷舞とも呼ばれ、土地ごとの流行り唄「地唄」に振りをつけたので地唄舞とも呼ばれている。そのルーツは室町時代まで遡り、その当時の組歌(長唄)や民謡や流行歌が洗練されたものだという。

上方舞で最も古い流儀とされる山村流の舞は商家の子女の習い事にもなり、大阪の花柳界や一般家庭にも浸透し、その様子は谷崎潤一郎の「細雪」にも描かれている。

上方舞の代表的な演目(曲?)は、「雪」(「細雪」に登場)「黒髪」(今回の野枝さんも舞った曲)「こすのと」などが有名。しっとりした風情とワビ・サビを感じさせる趣がある。


ここからは実際に公演を見た僕の勝手な感想である。

地唄舞は限られたミニマルな空間を縦横無尽に使いこなす。お寺の(僕ら一般客も出入りした)入り口を含め、本堂には3方向の出入り口があり、野枝さんはそれらを行ったり来たりする。歌舞伎の舞台のようなハッキリした区別はなく、同じ空間を舞う人と客人が共有する。お寺の入り口やその反対側にある仏像が納められた正面には移動式の屏風が置かれ、空間を開く/閉じるという役割を果たす。

道具も最小限で、衣装以外では、ロウソク(燭台)、傘、衣装の一部としての扇子のみ。傘や頬かむり(一枚布でケープというかマントというかなんと言えばいいのか?)は半透明=トランスパレントで見られることを意識している。傘は舞台の袖からスタッフによって投げ出される(帯のような道具を使って床をローリングさせる)という演出にビックリする。また、舞台の袖(出入り口)から帯を少しづつ引っ張りだして腰に巻いていくという演出もあった。

本堂の中心を二方から客席がはさむようになっていて、舞う人は360度から見られることになる。おそらくお座敷で発展した芸事なので、そもそも大舞台のように一方向から眺めるという作りではないと思われる。自分は左右の席でそれぞれ鑑賞したが、実際、まったく違うものを観ている気がした。左右のどちらかに比重が傾く体のクセがあると野枝さんは言っていたが、なんとなくわかる気がする。

能や人形浄瑠璃の影響はシロート目で見ても顕著だと思う。それぞれの動きと止めが生む緊張感がものすごく、舞う人は人形に成り切っていると思わせる瞬間がある。押井守が「イノセンス」で探求したメタファー(暗喩)としての人形ではなく(あれはどっちかというと西欧における人形観ではないだろうか?)、肉体そのものを魂が空っぽの人形と化すことではじめて、物語の魂を封じ込めるというか。

つまり、個性やアイデンティティやエゴを離脱することではじめてアートとして成立するという普遍的なルールを、あくまで観念的にではなく肉体の鍛錬として、それぞれの舞のパーツを無心にからだで即物的に会得するという行為によって我がものにするという感じがする。舞がはじまる前には、胡蝶さんという人形作家の人形(とてもゴスな雰囲気)が飾られていた。

地唄舞の成り立ちでわかるように、元々は酒宴の場で洗練されてきた艶やかさがある。初日は、赤坂で芸者さんをやっているという野枝さんの妹さんが舞台上で着物の着替えを手伝う場面があり(「後見」というそうだ)、明かりが消えた中で着物が少しづつ抜き取られ、また身にまとわれる姿がとてもエロティックだった。狭い空間、舞う人がひとり、衣装や道具も最小限、それらのミニマルな要素が、そこでしか生まれない生々しいテンションになっているのだろう。もちろん、基本となる舞が優れていることが前提ではある。

・・・ということで、谷崎の「陰翳礼賛」や九鬼周造の「いきの構造」を読み直してみたくなった。この二冊は学生時代に読んで感銘を受けたものだが、いま読むとまた違った見方ができるかもしれない。ありがちな日本回帰ではないが、自分が生まれた国にこのようなアートが綿々と続いていまも更新されているサマを目の当たりにできた貴重な機会だった。野枝さんの舞はかなりオリジナルで古典から離れていくヤンチャな要素もあると思うので、今回の演目がどこまで古典でどこまで野枝さんのオリジナルなのか判然としないまま、このエントリーを書いている。

9.16追記。

後日、野枝さんに会って、今回披露された3つの舞の内、「黒髪」はほぼ古典に忠実、「葵の上」は能と歌舞伎をミックス、「ゆき」はオリジナルに近いことを確認。僕は「ゆき」が衣装も含めて一番モダンに感じたのだけど、その直感は間違ってはいなかったみたい。もちろん、古典だから古臭く見えるとかそういう次元の話ではなく、伝統と現在が一人の人間の中に渾然一体となって表現されていることが重要なのだと思う。彼女の場合、舞はその時その時で即興性がかなり高いそうだ。

僕を含め古典芸能に明るくないお客さんも多いと思うので、次回やる時は、誰かが解説してくれたり、ペラの紙切れでもいいので意図を伝えるテキストを渡したりすると、もっと理解が深まるのではないかと伝えた。おせっかいかもしれないが、あの場所でしか成立しない一回性のイベントなので、そういうフォローがあってもいいなと思ったからだ。

イベントの写真がnoe_tawara Photo Gallery by xavi comas at pbase.comにアップされたので興味ある方はご覧ください。

2008/09/05

火の番をする女



友人でもある俵野枝さんが谷中のお寺で行うショーケース・イベントをお手伝いした。ProToolsを使って、と言うのはウソで、実際は、Audacityというフリーソフトで彼女が用意した音源(効果音やお経など)をコンピュータで編集した(フェイドイン/アウトのエンベロープが描けるエフェクトを使う必要があって、Sound Studioを一部で使用)。Audacityはエフェクトが豊富でタイムストレッチなんかもあって僕には必要にして十分。ラジオ編集もこれでこなしていたぐらい。

今回の野枝さんの演目は、人間の業や欲望としての火がテーマのひとつ。その肝心の効果音、パチパチというほだ火が乾いたイイ音なんだけど、それとお経をミックスするとなにか物足りない。野枝さんには「2つの音が分離して聴こえる」と言われる。たしかにスカスカなのだ。音を足すしかないだろうということで、方々で効果音CDをチェック。自然音でも水や雷のライブラリーはあるのに、火が全然ない(汗)。

結局、唯一見つけた火を収録したCDは野枝さんが提供してくれた「ほだ火」が入ってるビクターから出ている効果音集だった(これを堂々巡りと言う)。その中の楼閣が燃え落ちる、時代劇に使われそうな音が調子よかったので(ホォーッという火の変化が一番顕著でほだ火とシンクロしやすかった)、これを細かく切り刻んでつなげてハイを削り(そのままだと、建物が壊れる音が所々に入ってしまうので)、ほだ火とお経とミックスしてみたら、スカスカした空間がちょうどよく埋まった。野枝さんからも一発でOKをもらってホッとする。

ということで、明日・明後日の2日間限りのイベントです。もし興味があれば足を運んでみて下さい。詳細は以下とコチラで(Showcase>Presentationで僕が撮った写真も一部見れます。ボケてる写真ばかりで恥ずかしい・・)。


2008年 東京公演
(源氏物語1000年祭によせて)

「火の番をする女」 〜葵の上と地唄を紡ぐ尼の物語〜
出演 俵 野枝
照明 小関 英男
音響 今井沙也可
音楽編集 富樫 信也
制作 五藤 皓久

日時 9月6/7日
18時開演(*開場は開演の30分前) 
@大雄寺 東京都台東区谷中6−1−26
入場料 2000円

予約/問い合わせ spectacle0809@yahoo.co.jp
緊急の問い合わせ 090-1707-4457
*access
メトロ千代田線:「根津」一番出口or JR:「上野」公園口、「日暮里」、「鶯谷」
(言問通りの上野桜木交差点を目指してください)
http://www.k5.dion.ne.jp/~noe/

special thanks
大雄寺/UPS http://www.upsnews.co.jp/index.html Xavi Comas(フライヤー)http://www.pbase.com/jookyaku/photos

*European public performance 17th.Sep~2nd Dec.
http://noetawara.canalblog.com/

Genius Party



「Genius Party Beyond」の予習もかねて、スタジオ4℃によるオムニバス映画「Genius Party(ジーニアス・パーティ)」を観た。

オープニング

監督は福島敦子。改めてこの人のキャリアを調べると、マッドハウスに始まり「迷宮物語」「ロボットカーニバル」「AKIRA」と、リアル系オルタナティヴなジャパニメーションの系譜(ものすごく大雑把な括りで申し訳ない)の真ん中にいた人なんだとわかる。大友克洋の影響があるのはだから当然で、そこに女性らしいファンタジスタの要素も。「Genius Party」の中では、湯浅政明と同じく、最もアニメーションの快楽を感じさせる出来映えで好き。音楽は井上薫。マニュエル・ゲッチング風味の躍動感あるトライバル・ダンス・ミュージック。

上海大竜

監督は河森正治。「ダークナイト」を通過してしまった自分には、ヒーロー物の解釈がとても幼稚に見えてしまって。(ごめんなさい)

デスティック・フォー

監督は木村真二。「鉄コン筋クリート」の凄まじい美術の描き込みに驚いて、名前を覚えた人。これも期待に違わず、大友や松本大洋の意匠をフルに使い倒した、とはいえ、森本晃司とはまた違う解釈でブラックな異世界をフルCGで堪能できる。作風としてはもはや新しくはないが、動きも美術も緻密で完成度が高い。音楽はスタジオ4℃の「マインドゲーム」に続いて、山本精一。独自の諧謔感あふれるスラップスティックな音楽が画面にピッタリと寄り添う。この路線で、木村真二に長編を作ってもらいたい。

ドアチャイム

監督は福島庸治。懐かしい名前だなぁ。福島庸治の漫画は大友克洋チルドレンがわんさかいた時代にそれなりに読んでいた。不条理な漫画が得意で、本作もその系統。美術は山本七郎で、冒頭の踏切のシーンも含め、彼が美術を手がけた「時をかける少女」を思い出す。水彩画のように空気感を濃淡にしのばせる彼の絵は、日本のアニメーション美術の至宝だと思う。キャラクターデザインがイマイチで、この中では一番洗練されていない。音楽はコンボピアノ。言われないとわからない、控えめな劇伴という印象。

LIMIT CYCLE

監督は二村秀樹。唯一知らない名前。ペヨトル工房とか工作社なんて名前を思い出す、難解で形而上学的なエイティーズ・サブカル一直線な作風が個人的にはむずがゆく、ちょっと気恥ずかしかった。パロールとか表徴とかナレーションで言われても・・・。イコノロジーを映像化するというのはわかるが、今ならもっと違うやり方があるのではないか。20分は長い。せめて10分にまとめていたら印象は違ったかも。主人公のキャラデザは、ジェームズ・ディーンの写真をトレースしていると思う。音楽はフェネス(Fennesz)。後でクレジットで知ってビックリ。

夢みるキカイ

監督は湯山政明。この並びで文句なく一番好きな作品。「マインドゲーム」で湯山政明はとてつもない才能だなと認識した。メルヴィルの「白鯨」や「ピノキオ」を思わせないでもないクジラ内部でのサバイバルゲームも面白かったし、何よりもクルクルと絵柄が変わる神様の描写で「アサー」の谷岡ヤスジを引用していたのに舌を巻いた。なんて自由な表現なんだろうと思った。本作も「マインドゲーム」に続いて、生と死を真っ向から描いている。主人公の子供が旅で出会う異生物はことごとく食物連鎖のサイクルの一部として死んでしまう。食虫植物のような生命体に分け入って、友達になった異生物をなんとか助けようとする場面のエモーションはウソがない。旅の最後で、主人公は機械人間のような成れの果てになって、その生命の連関の一部として自らの命を差し出す。音楽は竹村ノブカズで、湯山の才気とがっぷり4つを組んでいる。竹村の作風はこのようなアニメーションにとてもフィットする。この作品のキビしいがホノボノとした世界観やゆったりとしたタイム感は「ファンタスティック・プラネット」のルネ・ラルーに似ていて、おそらく多少なりとも意識しているのではないか。

BABY BLUE

監督は渡辺信一郎。この中では一番安心して見られるごくフツーの青春モノだが、ディティールの追求に余念がない。新宿駅から京王線で明大前を経由して井の頭線で下北沢、そこから小田急線で江ノ島に至るまでの風景を忠実にロケハンしていて、同じコースを辿ったことがある人は二倍楽しめるだろう。電車の吊り広告でスタジオボイス(小山田君が表紙の90年代サブカル特集)やWARPマガジンも確認できる。最後の花火のシーンはベタながら感動を誘う。音楽は菅野ゆう子で、主人公の声を最近自殺未遂を犯した柳楽優弥が演じている(いきなり10代でカンヌで注目される人生とはどれだけ本人を痛めつけるものだろうかと思う。復活を陰ながら応援したい)。


若い人がこの作品をどう観るかはわからないけれど、かつて大友に熱狂し、最近の大友の失速ぶりにガッカリしている自分のような人間には、溜飲を下げさせてくれる作品群だった。こうした実験的な試みは(売れるかどうかは別として)もっとあってしかるべきとも思う。音楽のキャスティングも適材適所でツボだった(皆ベテランで安心して聴けるというのも大きいかもしれないが)。大友好きには「デスティック・フォー」か「オープニング」、アニメーションに関心があるすべての人に「夢みるキカイ」を。

STUDIO 4℃
GENIUS PARTY OFFICIAL WEB SITE

Dark Knight



「ダークナイト」は、「ポニョ」や「ゾディアック」みたいな善悪二元論が成立しない複雑で曖昧なイマドキのゼロ年代をリアルに切り取った映画と違って、昔ながらの単純明快な勧善懲悪をひたすら突き詰めて突き抜けてみせた映画で、そして、こうしたアプローチでもちゃんと今の時代の空気を吸ったリアルなものは作れるんだという証明にもなっている。

まず、この映画にはタイトル・シークエンスがない。プリンスの軽快なポップソングももちろんなく、ハンス・ジマーとジェームズ・ニュートン・ハワードによる重苦しく大仰なオーケストラのリフがずっと鳴っている。アクションがもうひとつで大味だった前作の課題もクリアしていて、シカゴで撮影されたゴッサム・シティを舞台に繰り広げられるカーチェイスは見応えがある。

冒頭で、バットマンのコピーキャットたち、ジョーカーの覆面をした銀行強盗グループ、ドン・コルレオーネのような威光をまったく感じさせない小物感あふれるマフィア幹部や彼らと共謀する香港の企業CIOが矢継ぎ早に紹介される(彼らの収入源はマネーロンダリング)。神秘的なアウラ(オーラ)は昔日のまぼろしで、シミュラークルやデッドコピーが世界を覆っていて、そこから誰も逃れられない。この辺がいかにも今っぽい。

狂言回し=トリックスターを地で行くヒース・レジャー扮するジョーカーもまたオーラをまとった悪のカリスマというにはほど遠く、傍目からはオサレな気狂いピエロでゴスなチンピラにしか見えない。あのメーキャップのまま看護婦の格好をした、マンガ的と言うしかないありえないヴィジュアルのジョーカーがリモコンで病院を爆破するという絵ヅラのおかしみは、そこに肉体が宿り、CGではない本物のビルを爆破させることで、有無を言わせない起爆力を持つ。

ジョーカーは誰かを守りたいという利他主義と自分を守りたいという利己主義を天秤にかける。生死を賭けた場面では誰もが後者を絶望的に選択するしかないというのが、彼のゲームの法則である。ジョーカーは快楽殺人者でも猟奇的殺人者でもない。殺人は目的ではなく手段であり、アルカイダのように確固たる意志で、人々の心を蹂躙しその善意やヒューマニズムを前提に機能している社会を粉々に打ち砕きたいのだ。彼はあらゆる価値は無価値であると信じるニヒリストであり哲学者のようにも見える。

バットマンは、誰も頼んでいないのに正義を執行する自警市民で、ジョーカーの無差別テロの元凶であり、ゴッサム・シティの市民から疎まれている。アメコミのヒーローは客観的に見ればコスプレ趣味のイカれたフリークスでアウトサイダーでしかないという設定が効いている。ブルース・ウェイン=バットマン、ジョーカー、検事ハービー・デント=トゥーフェイス。善を体現する者、悪を体現する者、善から悪へと堕ちる者、この3つどもえの力学が物語を貫通する太いパイプラインだ。

ハービー・デントが裁判でスタンドプレイ的な活躍を見せるシーンでは、善を頑なに信じる者が時に見せる鼻につく傲慢さを表現していて(アーロン・エッカートという俳優はこういう役がよく似合う)、彼が後にトゥーフェイスという怪物になることを予感させる。そのきっかけがアナキン・スカイウォーカーがダークサイドに堕ちるのと同じく最愛の人を喪うことにあるというのが、いかにもアメリカっぽい。

前作「バットマン・ビギンズ」のレビューでも引き合いに出したサム・ライミの「スパイダーマン2」は珍しく映画館で二回観て、不覚にも泣いてしまった映画だ。ヒーローである主人公のアイデンティティ・クライシスとアクションがくんずほぐれつしながら相互補完する「スパイダーマン2」には市民はヒーローを応援するという大前提は守られていたが、「ダークナイト」にはその前提はない。

ジョーカーが仕掛けた最後のゲームを人々は善意でクリアするが、バットマンはトゥーフェイスの罪を自らかぶり忌み嫌われるヒーローを全うするから、より救いはない。この作品の密度と強度は「スパイダーマン2」と肩を並べるかそれ以上で、ダークヒーロー物でクライマックスの舞台が建設中の高層ビルであるという共通項から、同じライミの「ダークマン」とも重ね合わせたくなる。

東浩紀的に言うなら、この映画は現実ではなく虚構を模倣する「まんが・アニメ的リアリズム」と、現実を写生する「自然主義的リアリズム」(というより「映画的リアリズム」?)をミックスし、そこに必然的に生じる齟齬や矛盾を内包しながらいかに魅力的な物語を作るかという命題に果敢に挑み、かなりの精度でそれに成功していると思う。

映画の内容と矛盾するようだが、ゲイリー・オールドマンやマイケル・ケインが見せる紳士的な身振りのように、娯楽映画としては過剰ではあるのだが節度と抑制が保たれていて、グロな表現がないのも好ましい。下品ではなく高潔なのだ。ハリウッドというマーケットの市場原理が今の時代に「ダークナイト」を要請したことがとても興味深く、僕は都市そのものが主人公の映画としてもオススメしたい。

2008/08/26

「崖の上のポニョ」その2


前回のエントリーに続き、「ポニョ」についてまとまらないまま書いてみる(ネタバレ)。*8.28加筆。

悪役の不在。

ポニョの父親であるフジモトが本来はその役目のハズだが、コミック・リリーフ的なポジションで悪人に見えないし、また、フジモトとポニョの母親である海の女神(名前は作中では触れられない、フジモトは「あの人」と呼ぶ)との相克というようなありがちなドラマは描かれない。「パンダコパンダ」では両親がいないことを主人公の女の子が明るく話す場面がある(ホントだったら、悲惨な家庭のハズなのに)。

ノー・クライマックス。

宮崎の映画は昔から脚本や構成が弱いと言われていて、その弱点を類いまれなアニメーションとエモーションのコントロールで「エイヤッ!」とうっちゃらかるという特徴がある。オープニングでフジモトのもとから逃げてきたポニョはソウスケと出会い、ソウスケは幼稚園にポニョを連れていき、ポニョはフジモトに連れ去られる。これだけで前半30分。ポニョの力で嵐が起こり街が海に沈み、本編最大の山場であるポニョが波に乗ってソウスケを追いかけるところまで30分(オープニングから1時間)。そこからラストまで、前半を超えるクライマックスがずっと来ないまま40分。

後半で力尽きたのか、意図的なものなのかはわからない(たぶんその両方)。アニメーションという集団作業は個々のアニメーターの力量に負う部分が大きく、宮崎はインタビューでこのアニメーターならこの場面を描けるからと絵コンテを膨らませたり場面を追加すると言っている。そうした力のあるアニメーターを後半で確保できなかったのではないかと邪推してみたり。僕はこの映画の最大の短所であり、もしかしたら最大の長所は、クライマックスがないことに尽きると思う。そして、それは映画は盛り上がりがあってしかるべきというドグマに僕が陥っているということでもあるのだが。

後半のナゾ。

「千と千尋」の最後の方で、それまでの湯屋を舞台にした動的な展開(湯屋の内部をジェットコースター的に激しく上下する垂直運動)から、千尋が海上を走る電車で銭ババの家に向かう旅という静的な展開(水平運動)へと切り替わる。死を思わせるシュールレアルな絵画的な静けさが、それまでのダイナミックで映画的な展開と対比される。「ポニョ」では、嵐を境にした前半と後半で似たようなトーンの変化があるが、劇的な変化というより、どこか平坦でなだらかなカーブを描くような変化であり、物語が収束していく(回収されていく)という実感を伴わない。むしろ、時間が区切られていないでずっと続いていくような、時間が引き延ばされていくような、子供の頃に感じていた感覚。これをページをめくっていく絵本のようだと言い換えることもできるかもしれない。

古代魚が泳ぐ海を眺めながら、ポニョとソウスケの運命を巡って、フジモトや女神や異形の者たちによる一大カタストロフな展開を今か今かと待っていたら、「世界はこのままでは滅んでしまう」というフジモトのセリフが唐突にやって来て、ソウスケは世界を救済するという重すぎる運命を(なんの抵抗もなく)受け入れる。ポニョとソウスケの恋愛が成就するというシンプルなお話がなぜかセカイ系になってしまっている。

この運命の受諾と婚姻の誓いの最中ずっと眠っているポニョも、フジモトや女神の言うことにまったく疑いを持たずに従うソウスケも主体性がまるでなく、生きてる感じがしない。ポニョを好きになるソウスケ/ソウスケを好きになるポニョ(宮崎アニメではお決まりの一目惚れのパターン)、そして、ソウスケに会うために嵐を起こすポニョと、前半では、感情の赴くままに激烈に行動し、そこにナゼ?というエクスキューズを入れる余地がないという「コナン」から続く宮崎キャラの典型である2人が、最後は虚勢されたようにおとなしく、大人たちの思うがままなのだ。ここに至って、ソウスケとポニョは自分たちの力で物語を更新していく力強さを失ってしまっている。

表面的には自分たちの意志で運命を選んだと言えるし、子供の成長には親の庇護が必要だとも読めるのだけれど、このラストの不可解さは人間世界から神話世界へと物語が受け渡されたと考えた方がいいのかもしれない。後半の展開をロジカルに考えるとワケわからなくなるが、あの世や夢の世界、神話世界への道行きと考えればまったく不思議ではない。水木しげるや楳図かずおの漫画がそうであるように。

ポニョとソウスケがトンネルをくぐるという意味深なシーンについて、mixiの「ポニョ」コミュに、トンネルが産道を指し、ポニョが人間として生まれ変わることを示唆しているという意見があった。ヒッチコックの「北北西に進路を取れ」で、トンネルに列車が突っ込むシーンがセックス(主役の2人に男女関係が成立したこと)を表しているという解釈を昔読んだが、それを思い出してしまった。このようなフロイト的解釈、あるいは俗流心理学の援用もアリなのだろうけれど、このシーンに限らず、宮崎が「ポニョ」に散りばめた謎はそういうロジカルな解釈を拒むような、「わからない」ことの豊かさの方を選び取るような態度が見受けられる(それを承知で、この文章もああだこうだと書いてるわけだけど)。

ポニョとソウスケの旅は、途中でボートに乗った母子に出会う、陸地に揚がって母親のリサの車を見つけた後トンネルをくぐる、と言葉にすると拍子抜けするほどシンプルで、事件らしい事件もサスペンスフルな展開も起きない。これをイニシエーションのための試練と見るには、(ファンタジーの約束事としても)ヒネリやツイストが足りないと思う。しかし、ここでわかりやすく試練としての事件やスペクタクルな戦いを挿入すれば、後半の独特なムードは失われてしまうだろう。

「ハウル」や「千と千尋」と同じく、あっけない幕切れは、奔放なイマジネーションによって紡がれる物語をロジックでスパッと中断して無理矢理終わらせるという感じがする。ゼロ年代の宮崎は、前回のエントリーでも書いたように大団円やハッピーエンドによる余韻を避ける傾向がある。


その他気づいたこと。

古代魚が泳ぐ海から陸に揚がったソウスケとポニョが手をつないで坂をのぼっていくカットで、ユージン・スミスの「The Walk to Paradise Garden」という有名な写真を思い出した。宮崎が実際にこの写真をイメージしたかはわからないが、「楽園への歩み」というこの写真の持つふくよかで満ち足りたムードはたしかに「ポニョ」の後半とつながっていくように思える。このシーンでは、ポニョが眠ると魔法が解けてしまい、船はもとのオモチャに戻ってしまい用済みになる。楽園に入るには武器や道具はいらないという寓意だろうか?

「パンダコパンダ 雨降りサーカス」では、主人公の家にあったベッドが船の代わりになる。「ポニョ」では、最初にソウスケが登場した時に持っていたオモチャの船をポニョが魔法で大きくして船の代わりにする。「雨降りサーカス」では、航海に携えていく食べ物は、洪水で水に閉じ込められたサーカスの動物たちに与えられる。「ポニョ」では、航海に携えていく食べ物は(本来の目的である、洪水で閉じ込められた老人たちへではなく)、ポニョによって途中で出会ったボートに乗った赤ん坊のお母さんに惜しみなく与えられる(リュックは空になる)。

「パンダコパンダ」では、最初から最後まで観客を脅かすような描写はなく、すべてが子供向け映画の一部として安全に機能している。「ポニョ」では、このような歪みやズレや誤配が各所にあり、観客はどう解釈していいのか途方にくれる。この撹乱や混乱が、「こうなるだろう」という観客のベタな期待に対する気持ちのいい裏切りになっている。このエピソードに限って言えば、無垢な赤ん坊に未来を託すという寓意だろうと容易に想像できるのだが、実際の画面におけるポニョと赤ん坊はそうした寓意や作意を超えて、いともたやすく互いに感応し合いキスをするのだった。

フジモトが魔法の源泉として取り扱う生命の水について、カンブリア紀の爆発という言葉が彼の口から出る。女神はポニョが引き起こした嵐による海の変容を「デボン紀のようだ」と話す。古代魚の海を船で進んでいくポニョとソウスケは古代魚の学名を次々に言い当てる。

人面魚、両生類、人間とメタモルフォーゼしていくポニョ。変身は「千と千尋」以降の宮崎作品に欠かせない要素である。「ハウル」では、ハウルやソフィーや荒地の魔女など、主要キャラが魔法の力で姿を変えていく。人面魚ポニョのルックスは、奈良美智を思わせる(オープニングでポニョが妹たちと一緒にいる場面で、ポニョの顔が一瞬、奈良美智的なツリ目になる)。両生類ポニョは「千と千尋」の湯屋の使用人に似ている。

フジモトと女神の造形は手塚治虫そのもの。Wikipediaに書いてある通り、漫画雑誌上で組まれた手塚の死去直後の特集で、宮崎は手塚が日本のアニメーションに起こした弊害について歯に衣着せず手厳しく批判している。当時それを読んだ僕は、亡くなった人物に対して容赦ない攻撃を加える宮崎にちょっと怖いものを感じた。表現者の業というか、宮崎にとって手塚はあらゆる意味で乗り越えるべき存在だったのだろう。その宮崎が「ポニョ」では手塚を引用する。漫画の表現にメタモルフォーゼを積極的に持ち込んだのも手塚の功績である。もともと人間で女神と結婚することで生命の秘儀を得たフジモトは手塚が何度か漫画化した悪魔メフィストフェレスに魂を売るファウストとも言えそう。

「ポニョ」制作時、宮崎はワーグナーを聴いていた。ポニョが波に乗ってソウスケを追うシークエンスで、ワルキューレの騎行のようなメロディがちょっとだけ聴こえる。どこの場面か忘れてしまったが(たしか老人介護センターの場面?)、ワーグナーとニーベルンゲンの歌に関連するように「ヴァルハラ(Valhalla)」(ヴァルハラとは北欧神話で「戦死者の家」を指す)という文字が背景に書かれていた。この手の作者の隠れた意図を画面に散りばめるお遊びは、「千と千尋」で湯屋の背景に「回春」とデカデカと書いてあったのに通じる。「ヴァルハラ(Valhalla)」と、後半の濃厚な死の匂いはつながっている。


たぶん、宮崎はこちらが求めているようなリニアな求心力のある物語を作る気はさらさらないのだろう。前半は、ソウスケとポニョの物語であり、後半は、その物語を解体した後の残滓のようだ。ラストを器用にまとめず、その残滓のイメージ(イマージュ)がはらむ豊かさを中盤並みにカンブリア紀ばりに爆発させてほしかったというのは無いものねだりだろうか。仮にそうしてしまえば、子供向けの娯楽映画として破綻するのは目に見えている。ソウスケとポニョ(と観客)は一緒に旅をすることで、その丹念なアニメーションによって形成される(映画であると同時に、小説や絵本のようでもある)不可思議なリアリズムの時空を共有するのだ。

こんな奇妙な映画に客が殺到するという不可解さも含め、「ポニョ」は宮崎駿という予定調和を拒む67歳のアニメーション作家がさらに未踏の地へ突き進んだ作品であることは間違いないと思う。