2008/09/17

1988年のモラトリアム



ナイーブでイタそうだなと直感した作品を敬遠する傾向が自分にはあるのだが、2001年に作られた「ドニー・ダーコ」もそうやって当時スルーしてしまっていた映画だ。もっと早く観ておけばよかったと思う。

NHK少年ドラマシリーズ」を思わせるところが多々あり、観ていてデジャヴを感じた。ジュブナイルSFであること。学園モノとタイムトラベルの掛け合わせは、まさに「タイム・トラベラー」=「時をかける少女」。特撮もしくは特殊効果(VFXでもCGIでもなくこう呼びたい)が低予算なりのチープな魅力があること。

例えば、ラスト近くの世界が終わる瞬間に現れるとぐろを巻く不吉な雲だったり、ジェームズ・キャメロンの「ターミネイター2」や「アビス」を彷彿とさせる人間の胸からヒモ状に伸びるエネルギー体(?)だったり。生まれた時代も場所も異なる「ドニー・ダーコ」と「NHK少年ドラマシリーズ」を比較するのは強引だけれど、ジュブナイルSFに通底する思春期特有の暗さや危うさや脆さや傷つきやすさは、時代や国に関わらず、いつでもどこにでも転がっている普遍的なテーマなのだろう。

主人公のドニー・ダーコ=ジェイク・ギレンホールは、たまたま彼が主演する「ゾディアック」と「ドニー・ダーコ」を同じ日に続けて観たので、その偶然の一致と共に忘れられない俳優として刷り込まれてしまった。「ドニー・ダーコ」のキャラクターは、わかりやすく書き割り的に役割分担されていて、そこが物足りなくもある(しかし、思春期の人間観察とはそんなものだとも思う)。セラピスト役のキャサリン・ロス、お母さん役のメアリ・マクドネル、先生役のドリュー・バリモアがジェイクを陰ながらサポートする慈愛と母性の象徴であり、自己啓発セミナーの代表で悪玉のパトリック・スウェイジや彼に心酔する女教師はマッチョで虚像としての胡散臭い大人社会を体現する。

ジェイクが世界の破滅に対して起こした行動は、一見すると、自己犠牲であり利他主義のように見えるけれど、自分が犠牲になって周囲の愛する家族や恋人を救うことで、おのれのカッコつきの正義は守られ、現実の醜さやシンドさを生きることから永遠に背を向けるという、虫のいい自己完結したナルシシズムじゃないか。それじゃあ、現実世界で承認されない可哀想な自分が妄想世界でヒーローになることで、不都合で理不尽な現実に向き合わないというよくある話と結果的に同じじゃないか。思春期をとうに過ぎてしまったオトナの僕は意地悪くそう思ったりもする。こうした物語がドラマツルギーとして要請する矛盾や心理的葛藤を自身の問題として引き受ける「ダーク・ナイト」の登場人物たちとは違うのだ(ウサギのクリーチャーはジョーカー的な位置づけかもしれないが)。

タイムトラベルやリバース・ムーヴィーという設定も、ジェイクが自分を周りに承認させるための手の込んだ恣意的な仕掛けに見えなくはない。タイムトラベルはそもそも矛盾が矛盾を呼ぶようなところがあるので、そこは突っ込まないけれど。冒頭の見晴らしのいい山道(世界が終わる瞬間と同じ場所)で笑うジェイクと、ラストでベッドの中で笑うジェイクはメビウスの輪のようにつながっている。ジェイクは最終的に何から解放されたのだろうか?

アニメ版「時をかける少女」でも主人公は自分にとって都合のいい未来をもたらすために、タイムトラベル(劇中ではタイムリープ)を繰り返す。同様にジュブナイルSFの「バタフライ・エフェクト」ではタイムトラベルを繰り返すたびに現在は改悪され、破滅へとひた走る。どれも奇妙に似ている。「こうだったらいいのに」という願望充足や、「こうじゃなかったらいいのに」という後悔=リグレットを消すために、タイムトラベルが利用される。いづれもうまく行かない現実を否定し改変しようとするが、それは人間が人間であるための所与の条件、死は不可避であり、すでに生きた時間は巻き戻せないという条件を超越する行為なので、当然、その報いを受けることになる。ちなみに「バタフライ・エフェクト」は好きになれない映画だった。

じゃあ、ナルシシズムに満ちた青春映画である「ドニー・ダーコ」に現実と真っ向から戦うゼロ年代的な「決断主義」を持ち込めばいいかと言うと、それはまた別問題。そうすれば、この映画の持つ青白くせつないモラトリアムな気分は消えてしまうだろう。この映画の欠点は同時にアドバンテージでもある。

音楽の使い方はとてもよかった。学校で主要な登場人物を次々と紹介するシークエンスではティアーズ・フォー・フィアーズの「Head Over Heels」、主人公の妹が学園祭でダンスを披露するシーンではデュラン・デュランの「Notorious」、悲劇が起こる直前に主人公の家で行われるホームパーティのBGMはジョイ・ディヴィジョンの「Love Will Tear Us Apart」、エンディングはティアーズ・フォー・フィアーズの「Mad World」のカバー。曲調も(たぶん歌詞の内容も)パズルのピースのように1988年という映画の設定を支えている。

80年代末を思い返すと、たしかに世紀末の終末観というのはあったと思う。すでにアシッドハウスやテクノが聴こえてきていたし、それらは暗い未来を映し出すサウンドトラックとして、あるいは世紀末をやり過ごすための享楽的ドラッグとして十分な説得力を持っていて、ティアーズ・フォー・フィアーズのような歌は忘却されつつあった(少なくとも僕のような人はそうだった)。でも、そういういかにも音楽ジャーナリズムっぽい言い方ではなくて、もっと生活の内側にあるヒダのような感情を思い出そうとするとよく思い出せない。

なお、フィリップ・K・ディック好きらしいリチャード・ケリー監督の次回作「Southland Tales」は酷評だったらしく、日本公開されていない。トレイラーはこちら

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