2007/10/09

Evangelion

映画「エヴァンゲリオン」を観た感想です。


映画「エヴァンゲリオン」を観た。テレビも最初の劇場版も見てないので初見である。当時、サブカル雑誌を中心に「エヴァ」がもてはやされ、庵野秀明のインタビューを読んだり、周辺情報にはそれなりに接していたけれど、作品そのものにはコミットしなかった。たまたま、なのかもしれないが、実は積極的に拒んだというのが本当のところ。その頃は音楽に夢中だったし、カッコよく言えば、日本という風土に内向していって得られる強度よりも、音楽の持つ開かれたコミュニケーションの強度に夢中だった(それもまたタダの幻想なのだろうけれど)。強度の種類や方向性がチガウ。これは、少なくとも当時の自分にはとても大事なことで、必要な「選択」だった。それ以前に、貞本義行のキャラデザインに馴染めなかった。

庵野に関しては、ダイコン・フィルム時代の「愛國戰隊大日本」「帰ってきたウルトラマン」をはじめ、「マクロス」「オネアミスの翼」「ナウシカ」と、特殊アニメーターとしてメキメキ腕を上げていった姿をリアルタイムで追っていたのだった。その前後からアニメに興味がなくなってしまい、「ナディア」や「トップをねらえ」は見ていない。「ナウシカ」のおぞましくも魅力的な巨人兵の描写は、パブリックな劇場映画で無意識の具現化を行った「明るい80年代」における負の表現としてのマイルストーンだと思う。だから、「エヴァ」における生理的に気持ち悪いとされる描写の数々も、既視感と共に庵野らしさとして素直に受け入れることができた。

エヴァ初号機は、私見ではギーガーの「エイリアン」の造形、 尖った頭部、猫背、痩せているという現代的な異形の悪魔の最もポピュラーなフォルムに、あるいは「デビルマン」も忍ばせつつ、ロボットアニメの文脈にデモーニッシュな強度を落とし込んでいる。また、使徒のアブストラクトな造形も特撮からの影響が強い。もっと言えば、「ウルトラマン」で成田了がヨーロッパのシュールレアリスムを参照しながら作り出した怪獣のエッセンスそのものだと思う。彼らが子供向け番組で子供に媚びることなく第一級の仕事をしたことに対して、庵野はオタク第一世代らしい自己を形成してきたアニメ・特撮史のサンプリングでオマージュを捧げている。こうした指摘はいまさらなんだろうけど、パンフを読むと、庵野は特撮のイビツなリアリティに自覚的で、今回の映像表現でもそこにこだわっていたことがわかる。その反面、死海文書やキリスト教など設定に散りばめられた謎掛けは衒学的=ペダンティックなお遊び以上ではなく、意味ありげなだけで浅薄な印象はぬぐえない(「スター・ウォーズ」に通じる類型的神話の商業作品への転用)。

第三新東京市という使徒を迎え撃つために作られた要塞都市に使徒がどこからともなくやってくるという設定のご都合主義そのものの閉鎖性、虚構性、ゲーム性。「エヴァ」がロボットアニメの系譜の中に確信犯的に準備された鬼っ子であることを考えるとこの設定もうなづけるが、オトナになってしまった僕にはこの世界がどこまでも閉じているという閉塞感にいらだちを覚える。登場人物の多くが、(中学生が主人公だから仕方ないにしても)保護者・被保護者という一種の血縁関係にあるのも息苦しい。そこでは、少年の成長というビルディングス・ロマンの要素もとってつけたようで、つまりは本当の「他者」はどこにも存在せず、「他者」というべき使徒も最初から仕組まれていてお膳立てされていたということでは、やはりゲームの世界から現実には飛び立てない。「エヴァ」を形づくる世界観や心理描写の幼稚さ、世界を構成する関数のあっけないほどの少なさ、全体に表出するサブカルチャーを苗床にする幼児性については、自分自身の鏡を見せられているようでなんとも痛し痒しではある。

一方で、第三新東京市のうらさびれた空虚な風景には胸がしめつけられた。僕はこの映画を渋谷で観たのだけれど、その後、渋谷の風景がしばらく第三新東京市とオーバーラップしてしまった。まったく美しくない(がゆえにある種の美しさを持った)現実の似姿である都市景観は、宮崎駿の牧歌的で理想主義をにじませた田園風景や、押井守のブレラン譲りのディストピアな近未来のいずれとも違う。このリアリティは、重厚長大な作家主義ではなく、もともと生粋のアマチュアリズムのサーヴィス精神から出発した庵野の立ち位置から生まれたものだろう。

映画「エヴァンゲリオン」から、僕は現代日本のオタク的表現の貧しさと豊かさ、サブカルチャーに依存することの限界と可能性を改めて感じ取った。何かを期待していたわけではないが、それだけでも僕はこの映画を観てよかったと思った。オタクという言葉が一般的になってしまったいま、こんなことを書くこと自体が陳腐なのだけれど。友人が「トランスフォーマー」を観た後で「エヴァ」を観たら、前者のあまりの浅さゆえに「エヴァ」のリアルが身に沁みたとのこと。「エヴァ」が深いかどうかはともかく、この映画を根幹で支えているリバイバリズム=懐古主義はとても今っぽい気がする。過去の作品や記憶が新しいテクノロジーと共にいとも簡単になし崩し的に再生・再現され、アレンジされ、共有されていく。作り手がそこに自覚的であること、そして、それを商品として流通させていること。それは音楽の問題とも深くつながっている。

10年前は「エヴァ」を避けていた僕はやっと作品としての「エヴァ」にたどり着いたのだった。というか、旧劇場版の量産型エヴァと弐号機の量感とダイナミズムにあふれた戦いのシーンを「電脳コイル」の磯光雄が担当していることを知って、ようやく現在と過去がつながったというべきか。

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