2005/07/02

スピルバーグの宇宙戦争


宇宙戦争: スティーブン・スピルバーグ

「宇宙戦争(War Of The World)」は、スピルバーグが「追う/追われる」というサスペンスのエッセンス、「いつどこで襲われるかわからない」という恐怖をストレートに描いて「激突」や「ジョーズ」の頃に立ち返ったような快作。911以降のパニック・ムーヴィーの模範解答のようでもある。

スピルバーグは映画中盤まで平穏な日常をダラダラ描いて、観客の眠気を誘うようなまだるっこしいことはしない。冒頭からすぐに異変が発生し、家族思いで正義感にあふれたいつも通りのアメリカン・ヒーローを演じるトム・クルーズは、娘と息子と共に残虐な殺戮マシーンからひたすら逃げる。この簡潔でムダのないプロットが生むサスペンスは映画のほぼ全ての場面で成功している。唯一の不満があるとしたら、トム・クルーズがどんな危機に陥っても不死身だということを観客全員があらかじめ了解していることくらいだろう。

「A.I.」はスピルバーグ18番の母性愛が注入され、キューブリックが映像化していたらこんな甘さは微塵も感じさせなかっただろうと思う内容だったし、「マイノリティ・リポート」はフィリップ・K・ディックとスピルバーグという食い合わせの悪さに加え、アイデンティティ・クライシスを主軸とするディック的世界から最も遠い俳優=絶対的に自我が揺るがないトム・クルーズの起用が生んだ炭酸の抜けたソーダ水だった。

贅肉タップリだったこの2作の轍を踏むことなく、異星人との出会いという古典的な素材を使って何を描くべきか、何を描かないでおくべきかを吟味した結果、スピルバーグは「未知との遭遇」や「E.T.」を思い出させる血中SF濃度が低いゆえにSFオタクな映画作家には不可能なリアリティを「宇宙戦争」でモノにしている。

トムが苛立たしさを隠すように一瞬冷蔵庫を開けて閉める仕草、トムとスケーターをドリーで横にナメていくカメラといった些細なディティールから、地下室の中での少々くどすぎるサスペンスの展開まで、「動く絵」としての映像的快楽がリアリティを呼び込む。そのリアリティに大きく貢献しているヤヌス・カミンスキーのときおり彩度を落とした絶妙な色彩処理を施された撮影は今回も素晴らしい。

典型的なブルーワーカーの父親であるトム・クルーズと、トムを食うほどの達者な演技力で離婚した母に引き取られたホワイトカラーの娘を演じるダコタ・ファニング。ふたりの間のミゾがホットロッドの歌とブラームスの子守唄の対比で象徴的に描かれる。ラストでダコタを母親に届けてトムは立ち去り、宇宙人の敗退の原因もナレーションで説明されてアッサリと終わり。この味気なさは、スピルバーグが家族愛やもっともらしいSF設定にいかに興味がないかを物語る。古き良きSFのプロファイルに新しいルックを与えることだけに専念した今回のスピルバーグはスマートだと思う。

80年代は空が友愛に満ちていたから「E.T.」を、今は空が敵意に満ちているから「宇宙戦争」を。そのわかりやすすぎる論理的な一貫性は、スピルバーグの職業作家としての健全な思考に支えられている。その証拠に、終始シリアスでリアルな描写に徹するこの映画の中で、最後に姿を現す宇宙人の造形だけが妙にマンガちっくでパルプ・フィクションから抜け出したかのように現実離れしている。「実はこの映画はすべて作り物なんだよ」と暗黙のメッセージを伝えるように。

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