2008/02/07

威張るな!

「人生を<半分>降りる」という本をナナメ読みしていたら(ナナメ読みなので、この本については感想は書けない。悲壮な決意を感じさせるタイトル&ネガティブな内容と、壮健で精気にあふれた野心家な風貌の著者写真を見比べて、その落差に驚いたことは書いておこう)、高橋源一郎が太宰治について書いた文章が引用されていた。「ものを書く人はそれだけで不正義である」。この一言にズキンと来る。ライターという職業についてザックリとあけすけに語っていて、ハンパ者のもの書きである自分の内にわだかまっていたものが氷解。またまた孫引きで恐縮だが、ネットに全文掲載されたページを見つけたのでクリップしておく。ココにも引用文アリ。


「威張るな!」      高橋源一郎  

太宰治の名作数多くあるなかで、ぼくがもっとも好むものは、「斜陽」でも「おさん」でも「トカトントン」でも「女生徒」でも「お伽草紙」でも「右大臣実朝」でも「桜桃」でもなく「親友交歓」というあまり知られぬ作品である。

≪昭和二十一年の九月のはじめに、私は、或る男の訪問を受けた。この事件は、ほとん.ど全く、ロマンチツクではないし、また、いつかうに、ジヤアナリスチックでも無いのであるが、しかし、私の胸に於いて、私の死ぬるまで消し難い痕跡を残すのではあるまいか、と思はれる、そのやうな妙に、やりきれない事件なのである。事件。しかし、やつぱり、事件といつては大袈裟かも知れない。私は或る男と二人で酒を飲み、別段、喧嘩も何も無く、さうして少くとも外見に於いては和気藹々裡に別れたといふだけの出来事なのである。それでも、私にはどうしても、ゆるがせに出来ぬ重大事のやうな気がしてならぬのである≫

戦火で罹災し、津軽の生家に転がりこんでいた太宰の下を訪れたのは、小学校時代の同級生で「親友」と称するひとりの農民であった。確かにその顔に見覚えがなくはないが、印象などほとんどなく、どこが「親友」なのか太宰にはさっぱりわからない。だが、とにかく男が「親友」であると主張しているのだからそうなのだろうと家に上げたら、さあたいへん。酒を呑ませろ、お前の嬶に酌をさせろ、配給の毛布をおれによこせ、と無礼のかぎりを尽くし、文学者おまえの作品はつまらねえぞと悪口雑言あびせかけ、酔つばらったあげく太宰秘蔵のウイスキーを強奪して、男は堂々帰ってゆく。

≪けれども、まだまだこれでおしまひでは無かつたのである。さらに有終の美一点が附加せられた。まことに痛快とも、小気味よしとも言はんかた無い男であつた。玄関まで彼を送つて行き、いよいよわかれる時に、彼は私の耳元で烈しく、かう囁いた。 「威張るな!」≫

この「威張るな!」のひとことには、太宰治という作家が文学に要求していたモラルのすべて凝縮している。だが、どのようなモラルなのか。いったい、この「威張るな!」はだれが、なんのために、だれに向かっていったことばなのか。太宰の書いたものを素直に読むなら、これは、或る作家の下を訪れた傍若無人な男が調子に乗って吐いた暴言である。太宰に悪いところは少しもない。因縁をつけ、ゆすりめいたことをしたあげく、捨てぜりふまで残す。むちゃくちゃだ。だが、太宰はそうは思わなかったことは冒頭の引用にある通り。それどころか、太宰は自分に向かって吐きだされた「威張るな!」を甘んじて受けているようにみえる。いや、それが絶対に正しいと信じてさえいるようにみえる。だが、それは富農出身のインテリたる太宰の貧農への原罪めいた感情の故ではない。

ものを書く人はそれだけで不正義である——作家太宰治のモラルはこのことにつきている。ものを書く。恋愛小説を書く。難解な詩を書く。だれそれの作品について壮大な論を書く。政治的社会的主張を書く。記事を書く。エッセーを書く。そして、文芸時評を書く。どれもみな、その内実はいっしょである。見よう見まねで、ものを読みものを書くことにたずさわるようになって数十年、ちんぴらのごとき作家のはしくれであるぼくがいやでも気づかざるをえなかったのはそのことだけである。もの書くということは、きれいごとをいうということである。あったかもしれないしなかったかもしれないようなことを、あったと強弁することである。自分はこんなにいいやつである、もの知りであると喧伝(けんでん)することである。いや、もっと正確にいうなら、自分は正しい、自分だけが正しいと主張することである。「私は間違っている」と書くことさ.え、そう書く自分の「正義」を主張することによって、きれいごとなのである。もの書く人はそのことから決して逃れられぬのだ。

太宰を訪れた「親友」は、もの書かぬ人の代表であった。それは読者ということさえ意味していない。もの読む人はすでに半ば、もの書く人の共犯であるからだ。もの書かぬ人は、もの書く人によって一方的に書かれるだけである。おまけにそれを読まないものだから、どんな風に書かれているのか知らぬ人である。もの書かぬ人はそのことを本能で知っているものだから、ひどく悲しくて、もの書く人の前に来て悪さをするのである。もの書く人である太宰は、もの書かぬ人の全身を使っての抗議に、ただ頭を下げるだけである。もの書く人太宰は、もの書くことの「正義」という名の不正義を知る数少ない作家である。だから、もの書かぬ人の乱暴狼籍(ろうぜき)にも文句をいわない。文句をいわれないから、もの書かぬ人はいっそう惨めな気持ちになる。「馬鹿帰れ!」とか、「お前は親友でもなんでもない!」とか、「ふざけるな!」とかいわれたなら、そのもの書かぬ人は救われる.のである。もの書く人が、単なるカッコつけの、正義面した、インチキくさい野郎であることが暴露され、そのことによってもの書かぬ人は安堵することができるからだ。だが、太宰はもの書かぬ人のいうことに唯唯諾諾と従うばかりである。そして、そのすべてを太宰が書くであろうことをもの書かぬ人も太宰も知っているのである。

では、なにも書かねばいいのか。それでは、もの書かぬ人を拒んだことになる。では、書けばどうなるのか。それでは、もの書く人がもの書かぬ人に対して作家個人の「正義」を押しつけたことになる。どちらを選んでも、救いはないのか。いや、ひとつだけあるのだ。それが、「威張るな!」のひとことである。もの書く人ともの書かぬ人は不倶戴天の敵同士である。そして、ふだんはそのことに気づかぬふりをしているのである。だが、「親友交歓」の中で、もの書く人ともの書かぬ人はそのことに徹底的に気づくのである。馬鹿なのはもの書く人の方である。なにをしていいのかわからぬのである。だからもの書かぬ人は先に「威張るな!」といったのである。それは「わかった」ということなのだ。「お前の立場を理解した」ということなのだ。「この溝は超えらぬ。だから、お前はいつでもその不正義を行使するがいい。おれは死ぬまで、お前のやることを見ているぞ」といっているのである。そのことをもの書く人にいえるのは、もの書く人の敵だけである。敵だけが「親友」になれるのだ。

ぼくたちは、その「敵」のことを「他者」ということばで表現している。そして、その敵に寄せる思いを、「他者への想像力」と呼んでいる。おのれの「正義」しか主張できぬ不遜なもの書きの唯一のモラルは「他者への想像力」である。だが、そのいいかたはすでにきれいごとであろう。必要なのは「威張るな!」のひとことである。最低のもの書きのひとりとして、ぼくはそのことを烈しく願うのである。文芸時評を読んでくださったみなさん、ありがとう。今回で終わりです。また、どこかでお会いしましょう。さよなら。 (「文学じゃないかもしれない症候群」所載 [朝日新聞社 1992年])


何かを書くということはこういうことで、こういう怖さを認識してないと書けない。僕がこのブログでエラそうにキレイゴトを垂れ流して、それをたまたま読んだ誰かを傷つけてしまうという可能性だってそうなのだ。言葉って厄介だ。それを重々胆に命じよう。

雑記

「真説 ザ・ワールド・イズ・マイン」付記。

絵について。新井英樹の絵は個人的には苦手である。ぶっちゃけ、スタイリッシュではなく泥臭いから。同じように「へうげもの」の山田芳裕の絵も好みが分かれるだろう。僕には、山田の絵はすんなり受け入れやすく、新井の絵は受け入れにくい。山田は、ある強弱を持ったペンによる描線がそのまま感情移入にダイレクトにつながるという、テヅカとオオトモの描線をミックスした浦沢直樹を筆頭にした日本の漫画の伝統的なラインからはややハズれるかもしれない。描線そのものは禁欲的でセクシーではないが、デザインとしてカッチリと整理されていて収まりがよく(生硬だとも言えるか?)、自分はそれを気持ちよいと感じる。新井の描線は、デザインとしてまとまるような性質のものではなく、スプラッターな殺人の描写も、あくまで目を反らせたくなるような不快な内臓感覚そのものを線に宿らせていて、その整理されてない描線が生理的に気持ち悪いということにつながるのだろう。新井はデュオニソス的、山田はアポロン的というか(そんな、オオゲサな話かどうかはともかく)。

リンク:漫棚通信ブログ版: 『ザ・ワールド・イズ・マイン』と『度胸星』

ユリイカの「荒木飛呂彦」特集と、スタジオ・ボイスの「少年ジャンプ」特集を読む。スタンスは違うとはいえ、かつての難解系サブカルの旗手だった両雑誌がほぼ同時に「少年ジャンプ」を取り上げるところがいまの時代だなぁと思う(ユリイカは以前から大友克洋や高野文子の特集をやっているが、それらはサブカルをアカデミックに語るといういつもの視点だった)。「少年ジャンプ」からも「荒木飛呂彦」からも遠いところに住む僕だが、個人的にはスタジオ・ボイスが面白かった。たしかに、90年代までは「少年ジャンプ」を仮想敵にするというのは、メジャー対マイナー/インディーという構図でインディーの方が作家にとって理想的な居場所であり単純にカッコイイ生き方なのだ云々という言説にとって、都合のいいものだったのだろうと想像する。しかし、いまではどうなのだろうか。そうした幻想はインターネットを始めとする情報の流通によってすっかり払拭されてしまい、そうした二項対立の問題設定自体が意味を為さないような世の中になってきている。いや、メジャーとインディーの線引きは資本やビジネスの規模からいっても可視化できるほどにハッキリあるのだが、話はそんなに単純じゃないことに誰もが気づいていて、その副作用として、どメジャーの存在にスポットライトが当てられるということなのだろう。

だいぶ前に読んだ「デスノート」では、「友情・努力・勝利」というジャンプが掲げる少年誌としてのテーゼが青年誌的なテコ入れによって反転していて、「友情・努力・勝利」がすでに動脈硬化に陥っている事実をおぼろげながら僕も感じたのだった。カウンターとしてのマイナーがメジャーに取り込まれる、あるいは相互補完/共生することによって両者が生き延びる。ルイ・ヴィトンがグラフィティのモノグラムを採用し、村上隆やリチャード・プリンスとコラボする。コレはどっちかというと特殊事例で、マーク・ジェイコブスが切れ者だというだけかもしれないが。マークとリチャード・プリンスとの共同作業は「ありえなさ」がちゃっかりヌケヌケと実現してしまっていることが単純に面白い。アーティなスノッブ趣味のかけらもないことが逆説的にファッションの「これをいいと思う」という成立基盤の虚実を浮かび上がらせていて、いいのだ。漫画の話からズレてきたのでこのへんで。

世界は僕のもの、と叫ぶこと

昨年読んで最もインパクトを受けた漫画が、新井英樹の「真説 ザ・ワールド・イズ・マイン」だった。

この漫画は、「デビルマン・コンプレックス(または、デビルマン症候群と勝手に名付けてみる)から派生した、カタストロフ=世界の崩壊を90年代的リアルの視点で描いた漫画」という風に読めると思う。そして、こうわかりやすく書いてしまうことで多くの事物を取りこぼしてしまう漫画でもある。この漫画に込められた甚大なエネルギーを文章で置換することは不可能なので、思いつくままにメモをしてみようと思う。

主人公は、モンとトシという大量無差別殺人者コンビ、彼らと行動を共にするマリア(と怪物ヒグマドン)。

モンは人間界からハズれた獣人である。モンが人間の住む世界から超越しているのは、内面描写がほとんどないことや、銃弾が当たらないということでもわかる。人間の(卑小な)価値観、道徳観、倫理観とはかけ離れた畏怖の対象であり、それゆえに「美しい」存在でもあるという描かれ方をされるアンチ・ヒーローのモンは、世界や人間を救う代わりに、世界や人間を破壊し尽くす。

「異能な者がその作品世界で不可侵領域にある(ので、決して死なない)」というのはヒーローものの約束事で、この漫画はそのルールをヒロイック・ファンタジーになりえない現実世界、東北の田舎に適用し、そこから生まれる矛盾をも作品のエネルギーに変換する。登場人物がみな地方語の東北弁でしゃべることが強力なフックになっている。

トシはモンとは対照的に卑小で卑屈な弱い人間であることを自覚し、だから、怪物然として人間の住む世界、つまり社会を軽々と踏み越えていくモンに憧れる。トシはどう頑張ってもモンにはなれないから、モンと友達になり、共同戦線を張る。どこまでも社会を逸脱していくモンに対し、トシは社会の圏内にからめとられたままで変わる(=超越する)ことができないために、最期はトシモンに愛する者を殺された人々の「正義」によって裁かれる。

マリアは正義感と友愛の情が深く、その情の深さゆえに(大人たちとは別に)人間の善なる部分を代表し、トシモンと接触する。マリアはモンに淡い恋心を抱くが、モンはマリアが寄って立つところの人間界の掟とは決して相容れない道義的に許されざる存在だから、その矛盾に引き裂かれる。その矛盾を引き受けることでマリアは(どちらの立場も肯定も否定もできずに)狂ってしまう。

最終巻(第5巻)の半ばで、マリアは死ぬ。マリアが死ぬことは、モンを抑止する力がなくなったこと、人を愛することで社会とつながるわずかな可能性をモンが失ってしまったことを意味する。マリアの死は、モン、モンと共振する怪物ヒグマドン、人間世界の三者が和解し、そこに調和がもたらされるチャンスが失われただけではなく(読者も作者もそんな生ぬるい大団円な結末を期待してないだろうが)、物語がバランスを崩して破綻してしまう危惧を抱かせる。ここで物語は一度、中断し、モンとヒグマドンは姿を消してしまう。

大量無差別殺人に対して社会が要請するのは殺人者に罪を認めさせ罰を与えること、つまりは「死」である。罪と罰が明示されることで、読者の住む現実世界の安全は保障され、反社会的でアンモラルな作品に身を委ねたという身も蓋もない快楽を棚上げすることができる。しかし、新井英樹はそういうありがちな選択をしなかった。最終巻の後半で、新井はこの作品が「現実に起こりうるカタストロフとそこで展開される人間模様を徹底的に無慈悲にリアリスティックに描いた作品」ではなく、「ホラ話」だと明かしている。

最終巻の後半、舞台は日本から世界へと移る。作品のスケールが大きくなるにつれ、作品の綻びは増す。ある特定の限定された場所で物語るがゆえに確保されたリアリティはなくなってしまう。そんなことは百も承知で作者は行けるところまで行く、のである。

再登場したモンは新興宗教の教祖さながら世界中のテロリストたちのカリスマになっている。そこに至るプロセスは十分に描かれているとは言えない。現実に大量無差別殺人者がカリスマとして崇められる可能性はほぼゼロだろうし、モンに対社会を相手に自分のカリスマ性を構築する知性はないと思う(その代わり、内面のない空っぽな人ほどカリスマとして祭り上げられる側面の方を採用しているのだろう)。野暮を言うなと、これは漫画であり、フィクションであり、その作品世界の内部で辻褄があっていれば、いや、多少辻褄があってなくても面白ければOKなのだ、ホラ話なんだからさ、という作者の声がする。

一方、ヒグマドンは捕らえられ、研究対象にされて、果ては太平洋に浮かぶ巨大な球体になって生命活動を停止する。なんだコリャ、と思うが、ヒグマドンとモンの道行きはシンクロしているので、このように類推できる。ここに至って、現実世界を極めてアンモラルなやり方で超克しようとした殺人者が、どこかリアルさを欠いた非現実、TVスクリーンの向こう側のカリスマになってしまうことで去勢されてしまう。同様に、超自然的な未知のモンスターだったヒグマドンも、白日の元にさらされ、「生きもの」から「もの」へと化すことで去勢されてしまう。

どちらも、人間世界から屹立する強靭な「個」(=ヒーローとしての属性であり絶対条件)であることをやめ、凶暴な野性と神秘性を失い(テロリストのリーダーとなったモンを取り巻く神秘性は、新興宗教の教祖のソレに似て、絵空事のようだ)、キャラとしての救心力を失い、機能不全に陥ってしまう。そして、ラストでは、「2001年宇宙の旅」よろしく、大量無差別殺人者のモンは人類を進化させる苗床となるのだ。これはアイロニーのようにも読めるが、アイロニーを感じる前に、どう解釈していいのかわからないから、最後までたどり着いた読者(含む自分)は突き放される。

新井は、モンを罰する=殺すことで作品を道徳的・倫理的に回収する愚を犯さない。漫画が作者によるメッセージの解説本でしかないなら、わざわざ漫画にする必要はないからだ。最初に読み終わった時、この最終巻後半が納得できなかったのだが、いまでは腑に落ちるようになった。最終巻における一見、飛躍とも取れる展開は、作品世界のロジックの暴走と拡張を作者が忠実にシミュレートした帰結であると思うし、大風呂敷を広げるだけ広げて、その限界の先を見つめたいという表現者(及び、それを享受する読者)の業を感じる。

この漫画の連載時(1997年から2001年にかけて)、僕は音楽一辺倒でその存在すら知らなかった。同時体験できたらよかったのにとも思うが、「ザ・ワールド・イズ・マイン」があの頃の空気から醸成されたものであろうことは、僕にもわかる。たとえば、わかりやすく言うと、ヒップホップを日本独自の土壌で培ったザ・ブルー・ハーブの音楽なんかがそうだ。現実の痛みを受肉することでしか立ち上がらないある種の表現。世界標準語ではなく方言(Dialect)であることで(それはヒップホップのビートに乗せて日本語でラップするということにも通じる)、自分の拠り所を手に入れる表現。

「ザ・ワールド・イズ・マイン」は叙情詩ではなく叙事詩であり、複数の異なる価値観がせめぎあうこの現実の世界を図式的にではなく、なまなましい実感を持って描く。このことがどんなにハードルが高い作業かは、単一の価値観で出来上がった作品がいかに多いか、でわかるだろう。結局は、作品は作者の思い描いた範疇から出ることはない、ほとんどの場合は。最終巻が示すように、現実とフィクションの間に横たわる偏差をも飲み込み、閉じた系であることに準じず、作品の内部に外部を取り入れようとする懐の深さ、そういうところに、この漫画の優れた批評性があると思う。

阿修羅ガール

「私は一応この世界でこんな風にこの私として生きてくの」(「阿修羅ガール」)。

舞城王太郎の「阿修羅ガール」を読む。面白かったっす。と、「っす」をつけたくなる読後感。

「つーか」とかケーハクさとバカっぽさを文体で全面に押し出しながらも、コーエン兄弟や「パルプ・フィクション」を引用する作者の賢さ(ある文化圏を享受するスノッブとしての表明のようなもの)が透けて見えるし、キャラを借りて自分の屈託を語る系かなという第一印象もありつつ、気づいたら、あっという間に読み終わってしまった。

描かれてる物語自体にはそんなに面白さを感じなかった。最初は「女子高校生を主人公にした、いまっぽい口語で描かれたジュブナイルかぁ」と思ったら、ミステリの要素が出てきて、「ん、このへんから新本格?」と思ったらソッチには行かず。佐野の誘拐の話は最後まで解決されないし、綾辻行人という固有名詞がいきなり文脈なく出てきたりする。さらに、「ヘンゼルとグレーテル」ちっくな残酷メルヘン(勝手に諸星大二郎の絵で脳内変換して読んでいた)、ルパン三世の替え歌を歌うヒキコモリの猟奇殺人鬼の荒みまくったサイコ描写、とグルグルと叙述形式を変えながらも、これらが主人公アイコの臨死体験&幽体離脱体験としてつながることはわかるし、第三部でその辺はキッチリ説明されるから物語のオトし方としてはキレイにまとまっていて、見かけよりオーソドックスな構成である。すましたようにマジメにブンガクする第三部がPTA(文壇?)への釈明っぽくもあり、最後にもっとブチ切れてもよかったんではないか?という感想が出てくるのもわかる。

全部が一人称で語られるので、ユルい「叙述ミステリ」として読めなくはない。ジュブナイル、メルヘン、ミステリ・・・など、それぞれの要素を単品で見ると「弱い」。それらのミクスチャーの仕方が独特で、あえて陳腐極まりない安っぽくウスっぺらい物語を使いながら、やせた土地で突貫工事をしてるような感じが、同じ三島由紀夫賞を取ったからではないが、中原昌也を思わせる。アンチ・ロマンというか、シミュレーショニズムというか(物語の操作という点で)、「いま小説を書くとすればこういう前提でやるしかないんだぜ」という方法論を選びとってるというか。

中原に比べると、舞城の「阿修羅ガール」にはそれなりにロマンもあるし、カタルシスもある。アイコは徹頭徹尾、自分と自分に起こっている状況を観察してマトモに考えることができる人間として描かれていて、そこにブレはない。大好きな男の子にはフラれ、傍らにいるのはオタクっぽい風体で同人誌の作者のような名前の男で、決して女の子としてはシアワセではないのだが、臨死体験の後ではその状況を静かに受け入れているし、「そんなに悪くはない」とどこかで思っている。「私は一応この世界でこんな風にこの私として生きてくの」。そして、誰かを好きになって一緒に楽しく生きよう、と切に願う。この揺るぎない自己肯定、どんなに凄惨でブラックな物語をくぐり抜けても微塵もブレない「私」。そのありようが2000年代? というか、エンターテイメントである限り、このブレない「私」は過去も未来も存在し続ける。この小説はやはりカッコつきのジュブナイル、青春小説なのかもしれない。 

文体は精緻で練られていて、そこがこの小説を小説たらしめている(というか、そこだけかもしれない)。「ピンポンダッシュ」のような文体のスピード感とは裏腹に、読むにはそれなりに時間がかかる。文章の密度が濃いからだ。改行のない文体はノッてる時の村上龍みたいでもあり(ちょっとアーパーな女の子の一人称ってのがそもそもそうか)、全体に漂う寂寥感やシニシズムの焼け野原をバックに元気な女の子が快活に走り回るというのは村上春樹チルドレンの証? 解釈はどうにでもできる。

小説も基本的には「こういうものを描きたい」欲望のメディアである。すこやかな表現衝動と、巧みなセルフ・コントロール(そこに物足りなさを覚えるかどうかで、この小説の評価も変わるのだろう)。「阿修羅ガール」にはその欲望がみなぎっていて、閉塞した状況を突き抜けようとする意志を感じる。

2008/01/25

雑記

「モーニング」に隔週連載されている山田芳裕「へうげもの」第66話を読む。第65話で真の侘び数寄の道を共に歩もうと千利休と誓った弟子がこの回で秀吉に殺される。それを石田三成から知らされた千利休が見せた苦悶と怒りの表情の見開き。凄い。大げさだが内臓からワナワナと震えがこみ上げてくる感覚があった。この漫画はぶっちぎりでエモだ。最後のコマに「ロング・グッドバイ」の文字。チャンドラー/アルトマン。雑誌掲載時は最初と最後のコマにこういうシャレた言葉が挿入されている(単行本ではなくなってしまうのが残念だ)。隔週のライブ感覚。山田が考えてるのか編集の人が考えてるのか(たぶん後者?)。それにしても時代物なんてまるでアウトオブ眼中だった自分がこんなにハマってしまうとは・・。

楽器屋に行く。最近の機材事情にまったく疎くなってるので新鮮。スタントンのデザインが全体的に垢抜けていていいと思った。あとベスタックスのGUBERというプレイヤー。ハイファイ志向なのに玩具っぽいキュートなアールを起用していて、コワモテの高級オーディオのイメージをくつがえしている。ハードからソフトへ移行しているからこそ、ヒューマン・インターフェイスとしての楽器の重要度は増していくだろうし(monomeのような商品はこれから増えるだろう)、旧態依然のオーディオとデザインの関係が払拭されて、アップルがiPodを生み出したような革命が起こるのを期待したい。明るくない話題が多い音楽周辺だけれど、かつてのターンテーブルのように機材から音楽の新しい作法や流儀が生まれるのは間違いないだろうから。

昨年、自分の凝り固まった守備範囲をほぐしてくれたPerfumeの新曲「Baby cruising Love/マカロニ」を聴く。予想はしていたが、先鋭性は後退。中田ヤスタカのリリックも特にヒネったところがなく、初の(?)素直なラブソングに。アイドル歌謡としては正攻法で、ブレイク直後の第一弾としてはこれでいいのだろう。 個人的に聴き込むことはなさそうだが、街で流れてきたら素直にいい曲だと感じられるようチューニングされている模様。いっぱい稼いでまた「Polyrhythm」のようなトンガッた面白い曲を作ってください。

次回の「Radio Sound Painting」のテーマを及川氏と話し合って、「未来」で行こうということになった。特に音楽と結びつけず、身近な未来を語ろうというもの。とはいえ、あまりに漠然としているので悩む。コンビニで立ち読みした「クーリエ・ジャポン」最新号(ヴァージンのリチャード・ブランソンが宇宙飛行士の格好をしている表紙)がちょうどよく未来の特集。100年後には、地球上の生物の種は半減、言語も半分に減るだろうという記事。こういう環境の話って、自分は何もできないと偽善者面をするか、関係ないと居直るか、手数の少ないカードを渡されているもどかしさがある。映画「マイノリティ・リポート」にも協力したという未来学者ピーター・シュワルツは興味深い人物だ。「可能性を信じる者は生き残る」。アウシュビッツの収容所で生まれ、アメリカン・ドリームを体現した人に言われれば説得力がありすぎる。

「いま、ここ」の自由と不自由

孫引きになってしまうけど、引っかかったのでクリップ。紙屋研究所より。

くり返しこのサイトでも引用している、ジャーナリストの吉岡忍の指摘を思い出す。

「サブカルチャーはメインの、あるいはトータルな文化が硬直し、形式化して人々の生活実感や感受性からずれてくると、あちらこちらで噴きだし、広がっていく。メインのつまらなさ、退屈さ、権威性に気づき、そこからの疎外感を感じとった人間は、みずからの生理や感覚をたよりに動きはじめる」(吉岡『M/世界の、憂鬱な先端』p.197)

「いま、ここで生きているという生理的リアリティーは大切だが、それを背後から励ますものがない。歴史の強靭な精神につなぐものがない。ここから先へ一歩を踏みだすための楽観の根拠がない。/いまここだけの関心。スライスされた現在にしか広がっていかない意識。それは過去から解き放たれて自由だろうが、どこに向かっても、どんな速度でもはじけ飛んでいけるという意味で、やっかいなものでもある。ときとして危険でもあるだろう」(吉岡前掲書p.28)

大塚英志・大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』


引用元は宮崎勤についての本なので、その文脈の中でこの引用文がどう使われているかはわからない。しかし、サブカルチャーとは一般的にこのように定義されるのだろう。「いま、ここ」と歴史意識をどのようにつないでいくか。

高丘親王航海記

澁澤龍彦の「高丘親王航海記」を偶然手に取り読んだ。澁澤の遺作。読んでいて「アレ?こんなに読みやすい文章だっけ?」とビックリした。とても平明で透明な日本語で、難解な感じはまったくない。そのせいか、久しぶりに小説というものを読んだのだが、スッとその世界に入っていくことができた。

高丘親王という平安時代に実在した人物が仏僧となって幼少から憧れつづけた天竺=インドへと向かう話。同じ天竺への旅といっても、多民族国家ならではの血なまぐさいダイナミズムを感じる西遊記とはまったく違う。飄々としていて、南方憧憬を色濃く漂わせながら、バタ臭くなく淡白(それが意外だなと思った大きな要因なのだった)。経験による立体物ではなく、極東に住み、机の上で文物を頼りに西欧の深奥にある摩訶不思議を訪ね歩いた澁澤龍彦の書いた、書き割りのような絵画のような幻想世界。ああ、これは日本人の書いた小説なのだと思う。

エキゾティシズムとアナクロニズムという言葉が出て来て、登場人物たちもそのことについて語り自覚している。しかし、そこに作為が透けるいやらしさはなく、なんともいえない上質なユーモアがある。エキゾティシズムとは、決してたどり着けない彼岸の夢のような、うっすらとヴェールの向こうに見え隠れするもので、実体が現れた途端、消失してしまう類いのものだ。だから、この小説はインターネット時代には成立不可能だろう(僕はいまインターネットと書いて、それがとても馴染みのない言葉のように感じたのだが、これも澁澤効果?)。高丘親王が天竺を目指しながら、そこにたどり着けないのもエキゾティシズムの夢の中にいるからで、彼はマレー半島であっけなく虎に食べられて死んでしまう。パタリア・パタタ姫の予言の通り、虎が一心同体となった彼を天竺まで運んだかどうかは定かではない。

ブックデザインが菊池信義。もうこの表紙以外はありえないだろう?というくらいのドンピシャなジャストなデザイン。鈴木成一が一世風靡する前はブックデザイナーと言えば菊池さんの独壇場の時代があった。僕は23エンヴェロープやラッセル・ミルズのような英国のデザイナーが端正で美麗なジャケットを量産していたのと同じ時代に菊池信義がいたことが誇らしく思える。

解説を書いた高橋克彦のように泣くことはできなかったが、清々しい読後感が残った。澁澤の西欧から日本へという興味の変遷については、「松岡正剛の千夜千冊『うつろ舟』澁澤龍彦」に詳しい。

2008/01/22

Anton Corbijn, Control

 ジョイ・ディヴィジョンのイアン・カーティスを描いたアントン・コービンの映画「コントロール」の試写を見に行きました。このタイトルは皮肉が効いていて、そして、映画の核心をついたタイトルです。イアンは私生活も音楽の仕事も自分の心も身体もコントロール=制御できなくなる。その結果としての自殺という終止符。痛ましいですが、映画はそれをひとつの必然として描きます。僕はMTV世代でニュー・オーダーの「Bizarre Love Triangle」のPVでときめいていたようなヤツなんで、ジョイ・ディヴィジョンは当時、少し遠い存在でした。改めて当時の息吹を忠実に再現してるかのようなこの映画で観ると、物事がシンプルだった時代がすごく羨ましくもあり、いまとの断絶を感じたりします。みんなバカをやめて賢くなって、ある種の抑止力のようなものが働いている現在。音楽もその他のカルチャーもカジュアルに生産・消費されるアイテムに成って、それは一面から見るととてもいいことだと思います。ファクトリーとマッドチェスターを描いた「24 アワー・パーティ・ピープル」はだいぶ前に見たので印象も薄れてますが、映画としての水準はそれほどでもなかった気がします(監督のマイケル・ウィンターボトムは「CODE46」も観ましたが、こちらもイマイチだった。相性が悪いのか?)。

「コントロール」は70年代末の時代の空気をひとりのミュージシャンに的を絞って描き出すことに成功していると思います。アントン・コービンは、変にアート志向に陥ることなく、また、写真家としてのキャリアをこれ見よがしにすることなく(時折、ハッとする美しい構図が現れますが、さりげなく映画に溶け込んでいます)、あくまで直球でストレートに音楽映画、青春映画、恋愛映画、その総体を作り上げていることに好感を持ちました。ギミック的な遊びもほとんどなく、催眠術をかけられたイアンの周りをカメラがグルグル回る中、台詞が音楽とシンクロするシーンにソレを感じた程度。街を歩くイアンを遠目からとらえたファーストカットから、「あ、この映画に身を任せても大丈夫だ」という思いは最後まで裏切られませんでした。対象との距離の取り方が好ましく、謙虚な姿勢を感じ取りました。

音楽の使い方は本当によくて、しつこすぎず、あっさりしすぎず、映像とのバランスやリンクの仕方もちょうどいい加減でした。セックス・ピストルズやデヴィッド・ボウイのライブでは、あえて彼らの姿を見せず演奏シーンを省略するというのも潔い。ジョイ・ディヴィジョン自身のライブのシーンは素晴らしい。彼ららしい直情的でミニマルな音が鳴りはじめた「Transmission」が演奏されるところでは浮き足立ちました(サントラには、イアンを演じたサム・ライリーらが演奏したヴァージョンが収録されています)。「Love Will Tear Us Apart」と「Isolation」が続いて流れるシーンではバンドと恋愛双方でアウェイになっていく主人公の心の動きとうまくシンクロした使われ方がされています。あとマネージャーのキャラが秀逸。こんな人いるよなぁ。トニー・ウィルソンは、ただのいかがわしい業界オヤジではなく、愛すべき人。サマンサ・モートンは美人とは思えないんだけれど演技は上手い、全体を締めています。

時代から逃れることは誰もできない(それは死から逃れられないということと同一であり)という不問律。モノクロームの贅肉を削ぎ落とした映像の中で、青臭い「若さ」がもんどりうっている。その「若さ」の様態は笑っちゃうほどノスタルジーの領域にありながら、こんな風にメディアによる回顧が可能であり、いまを生きる人にも訴求できる力がある。これはひとつの希望だなと思うのです。表面的には悲しい映画ですが、僕はとてもポジティブに受け止ることができました。

電脳コイルを見終えて

「電脳コイル」を全話観終わったのは昨年末の話なので、いまさら感想を書くのはどうかと思いつつ、前回のエントリーでかなり褒めちぎってしまった手前、やはり、落とし前として(?)書いておかないとと思います。

中盤まで僕は本当にドキドキワクワクしながら観ていたのですが、クライマックスに至る数話で熱が冷めてしまったのが正直なところです。最後の方は、散りばめられた伏線を回収するのに精一杯で、生真面目すぎるというか、中盤までの遊び心がなくなってしまったというか。異常なテンションは持続しているのですが、観てるこちらが自由に楽しめなくなるような息苦しさがありました。

アッチの世界=「古い空間」と呼ばれるサイバースペースと、それに付随するヌルやイリーガルという電脳生物、都市伝説として語られるミチコさんという存在がどのようにして生まれたのか、その謎を解くことが後半の大きなお題目なのですが、その謎解きの多くが登場人物の長台詞で語られてしまうというので、白けてしまったのです。そこはやはり、カットの積み重ねで想像力を鼓舞するアニメ本来の力を示してほしかったと思うのです。最終話ひとつ手前のエピソードでは、宮崎アニメの模範解答のような素晴らしい空中戦がクライマックスとして描かれるので(「電脳コイル」に集結したアニメーターの技術力の高さについては、改めて僕なんかが言うまでもなく)、なおさら口惜しい気がします。子供向けアニメにしては難解な設定を敷いてしまった以上、ある程度説明的になってしまうのは仕方ないのかもしれないけれど、「謎を解く」「物語の核心に迫る」という部分をもう少しエンターテイメントとして魅せてほしかったなと。

もうひとつ、重要な点として、物語はヤサコとイサコのふたりの子供に収束していくので、集団ドラマの基底としての社会を描くという部分が曖昧になってしまった気がします。これは僕が「友情」や「恋愛」をメインにしたストーリーにあまり萌えない種類の人間だというのも大きいですが、意図的な演出であることは承知の上で、最後まで子供たちの周りの大人(電脳世界を生み、世界をこのように変えてしまった原因を作った大人)の存在が希薄なまま、悪役は猫目という青年ひとりに押しつけて終わり、ではちょっと説明不足かなと思いました(これも「セカイ系」の影響下にあるのだろうか?)。その代わり、ヤサコとイサコのメンタルな変化については繊細に緻密に十全に描かれていて、特に主人公のヤサコについては、いじめっ子だった過去やイサコとイサコの兄=4423を仮想空間で取り合う(それが予期せぬ闇を作る要因になってしまった)という過去も暴露され、決して優等生の良い子ちゃんではなくリアルな子供として描かれていて、そこはとてもいいなと思いました。たぶん、「電脳コイル」を見る子供は、主人公の心の痛みと自分の心の痛みをスムーズに重ね合わせることができるのでしょう。

広げた大風呂敷を畳む、というのは「電脳コイル」に限らず難儀な問題だと思います。それは「ご都合主義」という言葉と裏表だったりするし、作家が全力を尽くして「解」を示しても、あらゆる物語に慣れ親しみ飽きてしまった現代人を納得させるのは至難の技です。一般的に見てこの作品が力作であることは疑いなく、アニメーションのクオリティも非常に高く、バーチャルとリアルの古くて新しいテーマに肉迫した意欲的な作品だっただけに、あえて苦言を呈してみました。僕のオススメのエピソードは全体のストーリーの中では外伝っぽい位置づけだった11話・12話・13話です。どれもどこか藤子不二雄を思わせる内容で(藤子不二雄のSF短編集が好きならハマるハズ)、特に12話「ダイチ、発毛ス」はある生態系の誕生から破滅までを顔に生えた毛にたとえるというユーモラスな発想の傑作。この3話のエッセンスが本編後半にも反映されていたら・・・と無いものねだりは承知で妄想したくなります。やっぱりユーモアって大事だなと。

「電脳コイル」が「エヴァ」のような90年代的なオタク・カルチャーを苗床にしながら、そこから一歩踏み出していること。つまり、否定から肯定へという転換。作者の意図は明らかで、だから、ラストもこれで正解なのです。そこは汲み取らないといけないと思います。

へうげもの

山田芳裕の「へうげもの」(現在は5巻まで刊行)を読みました。面白い漫画です。

「文武両道」とはよく言ったもので、主人公の古田織部(佐助)は、文人(茶人)と武人の間で引き裂かれている存在(古田重然 - Wikipediaを読むと、興味深い人物であることがわかります)。武が勝る群雄割拠の戦国の世なれど、趣味人=数寄者としての自分も貫きたい、そこに生まれる軋轢や葛藤、その振り子のような人生を山田芳裕は漫画の文法を駆使して深くえぐるように描いています。文人のトップである千利休、武人のトップである信長や秀吉、その間に居る古田織部。物語はこのトライアングルを中心にドライブしていく。キャラの立て方はこの漫画ならではで、過剰にデフォルメされた人物(数寄に傾く、まさにカブキ者としての信長、そこまでやるか!と思わせる業の深い権力志向の千利休は、過去に描かれた時代物のキャラの中でも出色の出来ではないかと)、そして、バロッキーな躍動感あふれる構図(得意の見開きも折々で遺憾なく発揮されている)は、山田の筆力の確かさを示しています。

僕はこの漫画の漫画ならではの漫画でしかありえない存在理由のひとつは、多用されるキャラの顔アップにあると思います。セコくて狡賢く小心者ででもどこか真っ直ぐで素直で一所懸命に生きる古田織部が見せる、「名物」の器に出会った時の喜びの顔、天下人の権謀術数の数々に直面した時の驚きの顔、謀(はかりごと)や企みを心に潜ませ口を歪ませてニヤニヤする顔。それとは対照的な、千利休の無表情。どれもが、パターン化され記号としての役割を全うしながら、その時その時で微妙なニュアンスを含み、豊かなバリエーションを生んでいます。往年の「劇画」に追随する井上雅彦のようなスタイリッシュなカッコよさとは違い、山田芳裕は時代物のど真ん中のメジャーな題材を手中にしても、どこかハズシの美学、その中心からどこまでもズレていく面白さがあり、それが「へうげもの」というタイトルを始め(各話のタイトルも存分に遊んでいて楽しい、「Just A Tea Of Us」とか「黒く塗れ」とか・・)、キャラ、ストーリー、テーマ、あらゆる細部にその美学が活きているのです。この中心からズレながらその重力圏内で独自の軌道を描く、オーソドキシーとの丁々発止が山田芳裕なのかなぁという気がします。

なんとなくでしか理解してなかった利休の「わびさび」(「渋い」という概念の誕生を描いたページにはシビれました)と信長や秀吉の派手好みな成金趣味との対立、数寄者の古田織部と無粋な野人としての家康との相容れなさ。この漫画を読むとそれらは生きていく上で避けられない戦いなのかもしれず、平たく言えばアートとビジネスやエコノミーとの相克なのでは?と思います。そういえば、原研哉の「なぜデザインなのか。」を読むと、古今東西の器や建築物の多くには細密な文様がデザインされていて、それはその時々の最先端の技術と才能と財を投入した権力を生むための装置だったワケで、階級社会から市民社会に移行してはじめて、シンプルな己を誇示しないデザインが生まれたとあります(青磁や白磁はどうなのだろう?という素朴な疑問もありますが)。原はそれを「感覚の平和」という言葉で表現しています。ある特定の階級が占有する美ではなく、あまねく人々が共有する美。安土桃山時代に限らず、この種の話は普遍的なことなのだと思います。