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2009/04/03

とりかへばや物語、カウガール編

一個前のエントリーで『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』について書いたが、実は映画の日に『チェンジリング』と『ベンジャミン・バトン』を立て続けに観たのだった。両方とも2時間以上の長尺で20世紀初頭に遡るハリウッド大作ということで共通するが、まったく違う映画だった(当たり前)。ちなみに、今年はじめて劇場で観た映画がコレ。

『ベンジャミン・バトン』は1920年代にスコット・フィッツジェラルドが書いたフィクション、『チェンジリング』は1920年代に実際に起きたノンフィクションが元になっている。蛇足ながら、デヴィッド・フィンチャーの前作『ゾディアック』では、ゾディアック事件の犯人をモデルにしたクリント・イーストウッドの『ダーティハリー』公開をエサに犯人を捕獲しようとするシーンがある。虚実の入れ子状態。さらに蛇足だが、ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーというハリウッドを代表するおしどり夫婦がそれぞれ主演。『ウォッチメン』をあきらめてこの2本を選んだのは、たぶん偶然ではなく必然だったかと。

ベルエポックだったりミッドセンチュリーだったり、ノスタルジックに古き良き時代を回顧する懐古主義と来れば、ハリウッドのお家芸というか常套手段で、現代と地続きではないことでさまざまなリアリティを棚上げした安全な圏内で物語を走らせるのはズルいよなぁと思ったりするのだけど、この2本はそんな下衆(げす)の勘ぐりを遠く離れたところで、いま作るべき作品としてキチンと成立していた。

僕はクリント・イーストウッドの近作を観てないので比較はできないが、『チェンジリング』には「悪には正義の鉄槌を下す!」というイーストウッドの完膚なきまでのカウボーイ魂が横溢していて(この場合、カウガールか?)、そのブレのない竹を割ったような終始一貫した態度にドキドキした。イマドキの複雑系な時代にこんなにシンプルでいいのか?と思うくらい、憎まれ役は憎まれ役としての役割を全うし制裁を受けるのだ。イーストウッドが全員の俳優の顔を選んでるワケじゃないんだろうけど、ちゃんとみんな憎らしい顔をしていて(特に、ニセ息子役の男の子は最後まで憎たらしい、史実では彼の供述が事件解決のきっかけになったらしい)、アンジェリーナ・ジョリーの味方になる人はみんな善良で思慮深い市民の顔つきをしている。

当初は「警察と戦いたいわけではなくて、息子を見つけたいだけ」と言ってたアンジェリーナ・ジョリーは、数々の受難のあとで敢然と毅然と戦う女になっていく。精神病院では院長に「Fuck」と捨て台詞を吐き(それまでは権力に従順な女を演じていたのに、この瞬間、彼女は変貌するのだ)、刑務所の面会で犯人の胸ぐらをつかんで「地獄に堕ちろ!」と叫ぶ(この場面は言うまでもなく事実ではなく脚色だろう)。

犯人の死刑執行はこれでもか!と言うくらいネチっこく丹念に描かれ、それをガン見するジョリーは阿修羅のごとく仁王立ち。パネェ、イーストウッド(笑)。そういえば、昔のイーストウッド映画には必ずソンドラ・ロックという痩せぎすの伴侶が付き添っていたが、なぜか彼女を思い出してしまった。ソンドラ・ロック、名前にも凄みが効いてる。

途中までは息子の誘拐に関する情報が観客には完全にシャットアウトされているので話がどう転んでいくのかわからない(フィンチャーであれば、最後までこの五里霧中なムードを引っ張るだろう)。ある場面でそれが猟奇的な殺人事件と接続されると、映画は真実の探求というゴールを見つけて走り始める。警察署の待合室で少年(=犯人の弟)がリズミカルに膝を叩く男の身振りに注力すると、犯人が斧を下ろすカットがインサートされる。なんという古典的なモンタージュの破壊力。ヒッチコックかと思ったよ。

ハスミン(この言い方って岡崎京子のマンガでもあったな)がアメリカ映画の正統的な継承者としてイーストウッドを擁護したがる気持ちもちょっとだけわかった気がした(ちょっとだけね)。ゆがんだ超広角で街と行き交う車がビシッとフレームに収まっていたり、モガな格好で電話局内をローラースケートするジョリーなど、1920年代を再現した映像や風俗が気持ちよかった。

カメラの外側から物語をながめてる風な傍観者的なフィンチャーに対し、イーストウッドは観客をグイグイとキャラクターに引きつけエモーションの手綱をたぐりよせ感情移入の美酒で酔わせる。映像/特殊効果出身と俳優出身という違いも大きいだろうし、世代の違いもあるだろうが、似たようなノスタルジックな素材を扱いながら、両者のヴェクトルは真逆でそこが面白いと思った。ただ、フィンチャーもイーストウッドも監督として手渡された物語をとことん妥協せず可視化し尽くすという点では似ている。だから、この2本のフィルムには不完全燃焼感がない。

不景気でショボくれたくなることが多い昨今だが、(素朴な感想になるが)お金をかけた圧倒的なエンタメで世界を支配するアメリカの底ヂカラは大したものだと思うし、ハーシー・チョコレートを進駐軍にねだった頃から日本人はどれだけ跳躍できたのだろうか、といぶかしむのだった(なんじゃそりゃ)。こうした一方的な文化的享受の豊かさやゼイタクさ、翻って、それを享受するだけの貧しさや空しさってなんなんだろうね。平たく言うと、やっぱりクヤシイなと。

アップル - Trailers - チェンジリング
 

2009/04/02

ベンジャミン・バトン 数奇な人生

やっと『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』を観れました。以下、感想。


この映画はデヴィッド・フィンチャー監督が前作『ゾディアック』で発見した語り口、いたずらにエモーションを喚起させない平坦なドキュメンタリータッチで数十年にまたがる大きなタイムスケールの物語を描くという手法をメロドラマに活用した作品、と言えるのではないかと。

フィンチャー監督は、平凡な人間の平凡なありようを描くことに意識的な人だと思う。『ファイト・クラブ』は凡人が非凡な超人というオルター・エゴを構築する話だったし、『ゾディアック』は世間を震撼させたシリアル・キラーの実像が平凡な男だったことを粛々と突き止めていく話だった。大抵の映画では、平凡さは感情移入や共感のトリガーとしてあるのだろうけど、フィンチャーの扱う平凡さはそうではない。フィンチャーには「ありふれた」感を「ありふれてない」手法でツイストして撮る才能がある。

人生を逆回ししていく「逆しまの世界」を生きるベンジャミン。年齢と共に若返っていくという設定こそトリッキーだが、ベンジャミンが経験する人生はありふれた出会いと別れの連続で、気の利いた警句やアフォリズムをそこから取り出すことは簡単にできそうだ。

ベンジャミンが誕生してタグボートの船員となり旅先でエリザベスと出会い第二次世界大戦が終わって帰国するまでの前半は、軽妙で楽しい。何度か挿入される稲妻に打たれる老人のエピソードはクリスピーで笑えるし、海上の潜水艦との銃撃戦は、終始静かなこの映画で最もスペクタクルなシーンでその視覚効果と臨場感には度肝を抜かれる。

後半はベンジャミンとデイジーの恋愛が中心で、どちらかというとデイジーにウエイトが置かれている印象(全編の語り部がデイジーだから、これはデイジーから見たベンジャミンの物語でもある)。美貌と才能があるがゆえに傲慢さも持ち合わせ、勝ち組人生を送っていたが交通事故をきっかけに自己を回復していくデイジーをベンジャミンが見守るという構図で、そこに60〜70年代の風俗が絡む。20世紀の血気盛んな壮年期時代と、ふたりの壮年期を重ねているのがうまいなぁと思う(『太陽がいっぱい』まんまなヨットのシーンとか出てくるし)。

ベンジャミンとデイジーが浜辺で陽が昇るのを眺め、「これからは(老いていく)自分を可哀想とは決して思わないわ」とデイジーが言うシーンでは、ベンジャミンと死を予感した父親のシーンが反復される。朝焼けがターナーの風景画のように美しい。また、年老いたデイジーがホテルで見せる身体のラインの崩れは、老いた身体を恥じらい隠そうとする彼女の仕草も相まってなんとも切ない(若い頃のスレンダーな体型を観客がすでに知ってるだけに)。

ブラッド・ピットもケイト・ブランシェットもイイが、個人的に贔屓(ひいき)にしているティルダ・スウィントンが素晴らしい。彼女の身のこなし、演技、表情、怒り肩でやたら面積の広い豊満な背中(笑)、身体の均整は取れているのにどこかイビツでビザールな存在感、それらに目が奪われてしまう。最近では『サムサッカー』の母親役、『コンスタンティン』の天使ガブリエル役も印象に残る(ティルダに興味があれば、ぜひ『オルランド』という逸品があるのでチェックしていただきたい)。

醜いアヒルの子として祝福されずにこの世に誕生したベンジャミンは差別や拒絶やいじめを受けそうだが、この映画ではそうした否定的な感情はほとんど描かれない。捨て子のベンジャミンを育てる黒人女性のクイニー、養老院の老人たち、タグボートの船長、幼なじみのデイジー、彼らは皆、一様にベンジャミンを受け入れ、あたたかい愛情を惜しみなく注ぐ。赤ん坊のベンジャミンを捨てた父親も、最後には彼と和解しボタン製造業で築いた財産を譲り渡す。ラストのカーテンコールで、ベンジャミンに関わった人々が矢継ぎ早のカットバックで登場し、カメラ=ベンジャミンに向かって微笑みかける。これはユーフォリアでありお伽話なのだ。

また、周囲の人間との出会いと別れを逆しまに経験していけば、本来ならPTSDになりそうだが、ベンジャミンの場合、心理的葛藤や人格障害とは無縁で、自分の運命を心穏やかに受け入れていく。はじめから老成してるというか、幼少の頃から悟りや諦めのフラットな精神状態にいるわけで、逆境で培われるメンタルな成長がないということでもある。通常の人生であれば、点と点が次第に線となり面となり、記憶がカラダに累積され脳のシワに刻まれていく。自分が年を取ることで自分以外の大人たちが辿ってきた時間を身をもって反芻していくというプロセスがあるが、ベンジャミンにはそれができない。

だから、ベンジャミンは常に傍観者でオブザーバーだ。点という現在を生きることしかできない、点という現在形でしか人々の傍らに居てあげることができないから(しかし、寄り添うこと=愛であるということを、この映画は物語っていないだろうか)。『ゾディアック』でもこの傍観者的態度は貫かれていた。フィンチャーのこういう醒めた視点が僕にはとても心地よいのだが、Rotten Tomatoesによると、『ベンジャミン・バトン』に否定的な人の多くは「映像技術はスゴいが人物に感情移入できずエモーションを映画にもたらすことに失敗している」(もしくは「ハリウッド式の安全なメロドラマにセルアウトしている」)と思っているようだ。

フィンチャー組で照明を担当していたクラウディオ・ミランダの撮影、映像と音響(環境音がスーッと後景に退いていったり)はいまの時代でしか作れないクオリティ。あとアレキサンドラ・デプラのオリジナル・スコアがよかった。ウェット過ぎずアブストラクト過ぎず、ちょうどいい案配の繊細なオーケストレーション(この人の名前は覚えておこう)。






老人のような子供のVFXで思い出したのは、クリス・カニンガムが手がけたエイフェックス・ツインの『Come To Daddy』のPV。極悪なエイフェックス顔をしたオトナコドモの暴徒集団が廃墟で老婆を襲うという悪意のカタマリのような映像は、当時あまりに斬新だった(デヴィッド・クローネンバーグ『ヴィデオドローム』のオマージュ・シーンもある)。『Come To Daddy』は1997年のリリースで、時代的には1995年の『セブン』と1999年の『ファイト・クラブ』の間に製作されており、寒色系に傾いたカラー設計を含め、ほぼ同時代の空気、反逆精神を体現していたと言えるだろう。なお、シミュラークルとしての増殖する人間のVFXと言えば、1999年の『マルコヴィッチの穴』がある。


mnemonic memo: ゾディアック
 

2008/10/03

Greatest Movies of All Time



イギリスの映画雑誌「エンパイア(Empire)」がThe 500 Greatest Movies of All Timeという特集を組んでいる(それぞれレビューへのリンクあり)。ベスト10はこちら

ちょうど2004年のアニメの立ち位置というエントリーで、日本のアニメーションが海外でどう評価されているのか?について触れたので、日本映画をリストから抜き出してみた(点数はレビュアーによる)。

050位:Seven Samurai「七人の侍」5点
067位:Tokyo Story「東京物語」5点
095位:Yojimbo「用心棒」5点
230位:Howl’s Moving Castle「ハウルの動く城」3点
235位:Battle Royale「バトル・ロワイヤル」4点
275位:My Neighbour Totoro「となりのトトロ」
283位:Ran「乱」5点
290位:Rashomon「羅生門」4点
339位:Spirited Away「千と千尋の神隠し」5点
340位:High And Low「天国と地獄」4点
440位:Akira「AKIRA」4点
459位:Ikiru「生きる」5点
488位:Princess Mononoke「もののけ姫」4点

黒澤明、強し。ランク入りした作品数の多さで次が宮崎、小津と深作と大友が一点づつ。「バトル・ロワイヤル」ってイギリスでこんなに認知されてたのか。「千と千尋の神隠し」より「ハウルの動く城」が人気がある結果になっているが、レビューでは逆の評価。

アメリカのレビューポータル、ROTTEN TOMATOESのオールタイムベスト100はこちら。「トイ・ストーリー2」が一位というのは謎・・。ここでも黒澤は「七人の侍」と「羅生門」がランクイン。米英でのキューブリックは、「2001年宇宙の旅」でも「時計仕掛けのオレンジ」でもなく、「博士の異常な愛情」が一番評価が高いというのも初めて知った。

ランキングは相対的評価で絶対的なものではないので、あくまで目安として。

「コッポラの胡蝶の夢」を早く観に行かなくちゃ。

2008/10/02

スカイ・クロラ



「スカイ・クロラ」にかこつけて、4年前のことを書いたら長くなったので別のエントリーで。

「スカイ・クロラ」は、最愛の伴侶である犬を喪い、体を鍛えた押井守が「犬じゃなくて人間を愛すぜ!」と肉体派宣言した映画かと思いきや、思いっきりいつもの押井映画だった。この人のペシミズム=厭世主義はやはりキモ入りだ。

たとえ、恋愛(「私を殺して!」と拳銃を突き出すのが求愛行動でもある女性を受け入れること)や仕事(戦闘機に乗り空中で這うように戦いながら人を殺すこと)、そんなこんながあっても生きるってことはアパシーなんだよ!空虚なんだよ!生きてる実感なんかマヤカシでマボロシなんだよ!と横っ面を叩くのが押井流。

この映画における恋愛も仕事も観客の我々からすれば十二分に非日常だが、一貫して気怠い日常として描かれる。キルドレは、同じようにタバコを吸い、同じようにミートパイを食べ、同じように新聞に折り目をつけて畳む仕草を繰り返す。

押井の映画に出てくる食べ物は不味そうで(実際、草薙は不味いと言う)、宮崎駿の映画に出てくる食べ物は、ハムの乗ったカップラーメンであっても美味しそう。なんと対照的なことか。

目の表情がまったくないコワモテの草薙が、函南との食事シーンで「泊まっていったら?」といきなり上着を脱ぎ始める強引マイウェイぶり。「あいつはヤバイぜ」というエクスキューズも劇中であるから、そういう演出意図なんだろうけれど。んー。これって恋愛と言えるのかな。

普段は静かで抑制された演技なのに、感情が高ぶると泣きわめくという演出手法は悪い意味で邦画っぽいというか演劇っぽい。クールにつぶやくか、大声を上げて泣くか、そのどちらかの振れ幅しかないというのは貧しい気がする。

「イノセンス」で辟易した衒学的なケムを巻く台詞は一掃されて、全編、平易な台詞回しになってるのはとても好感が持てた。脚本家を立てたのが大きいのだろう。ゲームとしての戦争が必要な理由を草薙が訥々と語る得意の長回しショットも、必要不可欠な説明で冗長ではない。

函南たち日本人パイロットが属する企業が何者で戦争をしている相手の企業が何者なのか。なぜキルドレはティーチャーに勝てない仕組みになっているのか。背景や謎は明らかにはならないが、ほめのかされている。不条理。カフカ?と思うが、冒頭で草薙はカミュとつぶやく。

キルドレは永遠のアドレッセンス=思春期を生きる。そのループの悪夢から逃げようともがく「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」とよく似ているが、こっちは悪夢を受け入れる決意があるところが違う。

それが希望か絶望かは観る人の判断に委ねられているが、作劇上エンディングはこうなるんだろうなと納得しつつも、その予定調和を破るところを僕は見てみたかった。「あなたを待っていたわ」という最後の草薙の台詞は変化の兆しなのか、そうでないのか。表向きは何も変わらず、希望は封じられているように見える。

アニメーションで大人を描くことは可能なのだろうか。

「スカイ・クロラ」には、大人を模倣するキルドレの保護者としての大人(女性エンジニアやバーのマスター)がいる。唯一、「大人の男」と称されるのがティーチャーで、函南は「父(=ティーチャー)を殺す」と言う。「ポニョ」には、主人公を見守る老人たちと強い母親と影の薄い父親がいる。いづれも、家族や代理家族や保護者としての大人である。「エヴァンゲリオン」もそうだった。

そうではない大人、子供や青年の補完ではない、大人びる、大人らしく振る舞うという形ではない、まっさらな大人はなぜ描かれないのか?

答:アニメーションには俳優という肉体が存在しないから。

学生運動に乗り遅れた世代である押井は、革命の挫折を映画で描くことが多い。「パトレイバー2」や「人狼」(監督じゃないが)しかり。押井の描く大人は、大抵、ルサンチマンの塊だ。

「スカイ・クロラ」原作者の森博嗣さんがブログで「少ない方が価値がある」と発言している。

しかし、創作は多数決ではない。シェアをより多く取る意味は何だろうか? むしろ、そういった「非効率な多数」を背負わない方が、将来の自由度は高い、とも予測できるのである。

マイノリティを貫く原作者とマイノリティを貫く映画作家。若者に向けて今までより開かれて作られたこの作品が、閉じているように見えるとしたら、二人のブレのないスタンスによる。

スカイウォーカー・サウンドで録った音響が図抜けて素晴らしい。特に、屋外のフィールド音やアンビエンスが凄かった。音楽は叙情的すぎてトゥーマッチに思えた。空のシーンに被さるシンセパッドの曲はよかった。個人的にはもう少し乾いた音の方が内容に合っているように思う。

「スカイ・クロラ」に、サン=テグジュペリのような飛行機乗りのロマンを期待してはダメ。

上映終了間近で選択肢がなく、新宿歌舞伎町の映画館で観たんだけど、館内の殺伐とした荒廃ぶりがすごかった(軽く15年くらいタイムスリップしてそうなゲームセンターとか、2005年のポスターが貼られたままのラテンダンススクールの看板とか・・)。ある意味、この映画を観るにはふさわしい環境だったかも。

野良犬の塒 : 『スカイ・クロラ』『攻殻機動隊』監督・押井守の最新情報

老舗の押井守ファンサイト。情報量が多い。押井のインタビューや「スカイ・クロラ」のレビューも辿れる。

西尾鉄也が語る『スカイ・クロラ』あれこれ

作画監督の西尾鉄也のインタビュー。モニターではなくプリントアウトでチェックしないとダメという話が面白い。引いた絵が多かった理由がそこにあったのか。井上俊之のこともちらっと。

2004年のアニメの立ち位置

「スカイ・クロラ」を観た。思い起こせば、2004年。「ハウルの動く城」と「イノセンス」と「スチームボーイ」が同じ年に公開され、僕は3本とも映画館で観ている。以下、「スカイ・クロラ」とはまったく関係のない妄言をつらつらと書いてみる。

まったくベクトルも作風も異なるこの3作が、表現と内容との著しい解離において驚くほど似ていたことに、僕は当時ある種の感慨を覚えた。まぁ平たく言うと、失望しちゃったわけである。それなりに宮崎・押井・大友を追いかけてきた者としては、こりゃマズイんじゃないかと(「じゃあ、お前がやれるの?」と言われれば、返す言葉もないが)。これは、作品が面白いかつまんないかというのとは別次元の話だ(個人的な面白さで言えば、「ハウル」>>>「イノセンス」>>>>>>>>>>「スチームボーイ」)。

監督自身が脚本を書いた「ハウル」と「イノセンス」、監督の書いた脚本に後から脚本家がテコ入れした「スチームボーイ」。非凡なアニメーターであり絵描きが作った右脳派の「ハウル」と「スチームボーイ」、絵を描けない演出家が作った左脳派の「イノセンス」。細かな違いはあるが、どれも映像表現の精度が際立って高いために、観客に訴求するためのストーリーや脚本といった物語の骨格、土台がおざなりにされていて、両者のバランスの悪さが気になった。肝心のお話がスッポ抜けていて、映像が空回りしている気がしたのだ。

商品として流通させるために精緻なリアリズム表現を突き詰めていった結果、万人が楽しめるという意味での通俗的なアニメーションとしてはもはや破綻してしまっているというか。これは作家の力量の問題もあるが、それよりも、爛熟期を迎えた日本のアニメーションが巨大産業となったことの弊害であり、そのイビツな進化がポストモダンと呼ばれるような状況に対応しているという好意的な見方もできると思う。

日本の携帯産業が国内の需要に最適化されたために特殊な進化を遂げ、挙げ句、海外の動向に乗り遅れてしまい、「日本のケータイはガラパゴスだ」と揶揄される話に一脈通じる。これはコインの表裏でもあって、閉鎖的な島国だからイビツで偏った面白いカルチャーが生まれたのも事実であり、唐突かもしれないが、ジャマイカというカリブの小国で生まれたレゲエがポピュラー音楽の世界でいまだに強い影響力を持ち、特異なポジションを占めていることも参考になるかも。

ダンスホールはゼロ年代の音楽市場において最も繁殖力のあるウイルスであり、今のヒットチャートを占めるヒップホップやR&Bはソレなしには語れない。ダンスホール=レゲエとアニメーション=オタクカルチャーは一見、水と油の関係のようだが、「動物化」という一点において重なり合うと思う。

カルトな押井や大友はともかく、より人口に膾炙する作品を連打してきた宮崎駿は普遍的な物語の担い手として世界的に評価が高いという意見もあるだろう(何年か前の「Time」誌がトヨタ社長と宮崎を「世界で最も影響力のある100人」に選んでいたのも記憶に新しい)。しかし、僕が知る限り、ベルリン国際映画祭で金熊賞を取り、アカデミー賞の長編アニメーション部門で受賞した「千と千尋の神隠し」は別格として、「ハウル」も「ポニョ」も海外で手放しに大絶賛されているわけではない気がするのだけど(参考までに)。

この国のアニメーション作家は、ヨーロッパへの憧憬やコンプレックスをバネに作品世界を構築してきた節がある。宮崎の原点のひとつはフランスのアニメ映画「王と鳥(旧題:やぶにらみの暴君)」だし、押井は「ブレードランナー」と共にゴダールの影響を公言しているし、宮崎と大友はバンド・デシネを代表するメビウスからのインスピレーションを隠さない。つまり、もともと地勢図的にはハリウッド・システムにはアンチを唱える出自を持ち、ハリウッドが量産してきた安っぽい物語や話法には与しない立場である。

だから、ヨーロッパへの憧憬を完全に消化し、日本に由来する様々なリソースをすくい上げてオリジナルの物語に抽出した「千と千尋の神隠し」が高く評価されるのはよくわかる(個人的にも「ポニョ」より傑作だと思う)。逆に、汎ヨーロッパ世界を描く「ハウル」にしろ、東欧と中国がミックスされたようなチャイニーズ・ゴシックな無国籍都市を舞台に設定した「イノセンス」にしろ、19世紀の万博博覧会をモチーフにした「スチームボーイ」にしろ、作り手がヨーロッパ人ではないのだから精緻なリアリズムにこだわるほどヨーロッパ的意匠はどこか借り物で地に足が着いていないように見えてしまうのではないだろうか。

これもアニメーションが世界市場に流通し、大人が鑑賞するゲージツ作品となったことで引き受けざるを得ないハードルや課題だ。今後、日本のアニメーションがもっと国際競争力をつけて世界市場でサバイヴしていくためには、映像表現だけがイビツに突出するのではなく、表現に拮抗するだけの説得力ある脚本やプロットやストーリーが必要になってくると思う。アニメに限らず、日本という土壌に生まれた表現が抱える問題の根深さもその辺に潜んでいる気がする。

日本のアニメーションはカルトとメインストリームの間にあるという意味で「閉じている」と思う。「このまま閉じたままやっていけばいいじゃん!」でもいいだろうし(それは決して間違いじゃない)、「開いていって、で、そこからどうするの?」ということでもある。半世紀も前に作られた黒澤明や小津の映画は、なぜあんなに閉じていながら同時に世界に開かれていたのだろう。たぶん、経済や社会状況が大きく絡んでいるのだが、今の僕に明快な答えはない。(以上、書きっぱなしの失言、多々あり)

2008/09/23

A Scanner Darkly



最近のエントリーでフィリップ・K・ディックの名前がよく出てきたので、今更のレビューを。

信頼するリチャード・リンクレイター監督とフィリップ・K・ディックの「暗闇のスキャナー」が原作という組み合わせで公開のかなり前から楽しみにしていた「スキャナー・ダークリー(A Scanner Darkly)」。観たのは2006年、渋谷の映画館で公開最終日に駆けつけた。夕方だったせいか観客は少なかった。その次の最終上映には人が並んでいたが。

暗いディストピアSFばかりを描くディックにキャッチーな大衆性はないし、そのディックの長編の中で特異な位置を占める「暗闇のスキャナー」はSF色が薄く、彼自身のドラッグ生活を元にした実体験に根差している。SF的なガジェットは主人公が着る光学迷彩を思わせなくもないスクランブルスーツくらいで、ヴィジュアルとしては弱い。ドラッグディーラーが誰かを突き止めるために自らドラッグ常用者になってオトリとなる麻薬捜査官という設定もまぁ地味と言えば地味である。どうもこれは最初から分の悪い戦いだったのかもしれない。

何はともあれ、リンクレイターの原作や原作者への愛が深過ぎたのだろう。公式サイトのプロダクション・ノートで彼は原作にあえて忠実に作ることがチャレンジであることを表明している。また、この作品が未来SF的なプロットではなくキャラクターに依拠した映画だということも。

小説の終わりに用意された世界観や視点の転覆=ツイスト、そして、麻薬を栽培する農場における静かで抑制の効いた描写の中に絶望と一片の希望が混じり合うというウルトラ・ビターな読後感。僕は以前にも書いたように、このラストを読んで泣いたことがある。後書きで、ディックはドラッグで死んだ友人達へ献辞を捧げていて(映画でも忠実に再現されている)、センチメンタルなムードは一貫している。

映画と小説はやはり別物。自分の読むスピードで自分の歩幅で読者が物語に浸ってじっくり味わうという小説ならではのタイム感があっての感動であり、映画的なスペクタクルが起きるわけではなく、ドラッグ中毒者の弛緩しきったダラダラした日常が多くを占める原作をかなり忠実に描いたこの映画は、最後の転回部分も淡々としていて緩急に乏しい。

「ブレードランナー」を監督したリドリー・スコットがディックの原作を読んでいなかったように、ブライアン・イーノとデヴィッド・バーンが「ブッシュ・オブ・ザ・ゴースト」を読まずに本のタイトルからイマジネーションを膨らませて音楽を作ったように、小説から映画へ、あるメディアからあるメディアへの置換は、オリジナルを大胆に脚色し、換骨奪胎し、または、そこから限りなく離脱するというアプローチの方がうまくいく場合があると思う。

過去のディック原作の映画の中では、おそらく一番原作に近づいた「スキャナー・ダークリー」はそういう意味でのハッタリが足りない。だから、ダメだということではなく、こちらの期待が大き過ぎただけで全然悪くはない佳品である。

この映画の最大のハッタリというかヴィジュアルにおける貢献は、リンクレイターが「ウェイキング・ライフ」で採用した、俳優の演技をトレースしてアニメーションに起こすロトスコープにある。エンライトメントの絵があの密度のまま動くと考えると話が早い。

キアヌ・リーブス新作「A Scanner Darkly」--アニメと実写を融合した技法「ロトスコープ」とは - CNET Japan

リンクレイターがアニメーションの出来を気に入らず最初のスタッフを解雇したことなど、製作が難航した様子が伺える。

Imitating A Scanner Darkly in Adobe Illustrator | Illustrator, Tutorials | Layers Magazine: For Everything Adobe

イラストレーターを使って「スキャナー・ダークリー」風のデジタル・ペインティングを作るTips。

ロトスコープと言うのは古い手法で、スターログ世代なら(と言っても若い人にどこまで通じるかわからないが)、ラルフ・バクシの長編アニメーション「指輪物語」(1978年)ですでに使われていたと言えばピンと来るハズ。

「指輪物語」を僕は劇場で観ている。最初はリアルな動きに目を奪われ、馬に乗った黒騎士の襲撃など子供には本気で怖かった。が、「え?ここで終わるの?」という尻切れの幕切れで、当時、ガッカリしたことを覚えている。また、実写に基づく手法がアニメーションならではの自由な飛翔を奪っていると生意気にも思ったのだった。

「ウェイキング・ライフ」はシーンやカットごとにアニメーターとタッチを変え、観客を飽きさせない。グニャグニャした不定形で浮遊感を持ったヴィジュアルと主題がうまく合致していた。それに比べると、「スキャナー・ダークリー」は絵ヅラにあまり変化がなく(ドラッグによる幻覚シーンやスクランブルスーツなど、アニメであることが活かされた場面もあるが)、「指輪物語」同様に最初は新鮮でも観てる内に飽きてくる。

とにかく、ディックをディックたらしめているアイデンティティの喪失とそれに伴う不安や孤独という古臭くも現代的で文学的な主題がなぜかそれほどこっちに響いて来なかった。なぜだろう。最後にディックへの言及もある「ウェイキング・ライフ」の方がそういったメランコリーが濃厚だった。たぶん、「まんま」過ぎたのと、主役はキアヌ・リーブスではなくて、もっと泥臭い人、例えば共演のロバート・ダウニー・ Jrが合ってたんじゃないかなという気もする。キアヌのどこかリアリティを欠いた存在感がさらにアニメーションによって二重に希薄になってしまったような。  

映画は基本、小説のように内面を描けないので、それをどう映像に変換するかというのがポイントであり監督の手腕なんだけれど、ロトスコープというアイディアで押し切った以外はあまり演出面のヒラメキを感じられず、わりと平板に見えてしまったのが残念(実写であれば、また違った感想を持ったと思う)。結果的に、ディックの小説はプロットを借用することは出来ても、本質的に映画向きではないことを証明してしまっている?

リンクレイターは「スクール・オブ・ロック」のようなコメディや「恋人までの距離(ディスタンス)」とその続編「ビフォア・サンセット」のような会話の妙を活かした恋愛モノも撮れる人だし(恋愛モノがあまり得意でない僕もこの2作は好きだ)、ある主題にどんな話法や技法や創意工夫が必要か、素材をどう肉付けして削ぎ落としていくべきかを的確に分析できる人だと思う。「スキャナー・ダークリー」にはそうした彼の映画作家としての本分が良くも悪くもストイックに表出している。ちなみに、アメリカの映画批評ポータル、Rotten Tomatoesでは67点。微妙だなぁ。いや、決して悪い(以下略)。



「暗闇のスキャナー」のペイパーバックのジャケット。このイラストは味があっていい。いかにも70年代。ロバート・シルヴァーバーグの「悪夢的な強度に満ちた傑作」という言葉が添えられている。



もう一個は「暗闇のスキャナー」じゃなくて、「シミュラクラ(Simulacra)」の表紙。子供の頃に見たらトラウマになりそう。どちらもB級パルプフィクションの匂いがする。

「『暗闇のスキャナー』はシステムという怪物に個人が食い尽くされる「人間やめますか?」なコールドチリンなドラッグ小説。ディックは人類という墓標に捧げる悲しきレクイエム、極北で極生のエクストリーム体験だ。」

これはリニューアルする前のカルチャー雑誌「TOKION」の何号だったか、編集のNさんに依頼されて「極北」という特集に寄せた短いテキスト。この小説はシステムと個人の残酷で無慈悲な関係(リンクレイターは赤狩りを例に出していたが、小説が生まれた当時の冷戦体制も背景にある)としても読めると思う。

「スキャナー・ダークリー」についてはついつい厳しい見方になってしまったが、DVDで近々もう一度観直したいと思っている。

2008/09/17

1988年のモラトリアム



ナイーブでイタそうだなと直感した作品を敬遠する傾向が自分にはあるのだが、2001年に作られた「ドニー・ダーコ」もそうやって当時スルーしてしまっていた映画だ。もっと早く観ておけばよかったと思う。

NHK少年ドラマシリーズ」を思わせるところが多々あり、観ていてデジャヴを感じた。ジュブナイルSFであること。学園モノとタイムトラベルの掛け合わせは、まさに「タイム・トラベラー」=「時をかける少女」。特撮もしくは特殊効果(VFXでもCGIでもなくこう呼びたい)が低予算なりのチープな魅力があること。

例えば、ラスト近くの世界が終わる瞬間に現れるとぐろを巻く不吉な雲だったり、ジェームズ・キャメロンの「ターミネイター2」や「アビス」を彷彿とさせる人間の胸からヒモ状に伸びるエネルギー体(?)だったり。生まれた時代も場所も異なる「ドニー・ダーコ」と「NHK少年ドラマシリーズ」を比較するのは強引だけれど、ジュブナイルSFに通底する思春期特有の暗さや危うさや脆さや傷つきやすさは、時代や国に関わらず、いつでもどこにでも転がっている普遍的なテーマなのだろう。

主人公のドニー・ダーコ=ジェイク・ギレンホールは、たまたま彼が主演する「ゾディアック」と「ドニー・ダーコ」を同じ日に続けて観たので、その偶然の一致と共に忘れられない俳優として刷り込まれてしまった。「ドニー・ダーコ」のキャラクターは、わかりやすく書き割り的に役割分担されていて、そこが物足りなくもある(しかし、思春期の人間観察とはそんなものだとも思う)。セラピスト役のキャサリン・ロス、お母さん役のメアリ・マクドネル、先生役のドリュー・バリモアがジェイクを陰ながらサポートする慈愛と母性の象徴であり、自己啓発セミナーの代表で悪玉のパトリック・スウェイジや彼に心酔する女教師はマッチョで虚像としての胡散臭い大人社会を体現する。

ジェイクが世界の破滅に対して起こした行動は、一見すると、自己犠牲であり利他主義のように見えるけれど、自分が犠牲になって周囲の愛する家族や恋人を救うことで、おのれのカッコつきの正義は守られ、現実の醜さやシンドさを生きることから永遠に背を向けるという、虫のいい自己完結したナルシシズムじゃないか。それじゃあ、現実世界で承認されない可哀想な自分が妄想世界でヒーローになることで、不都合で理不尽な現実に向き合わないというよくある話と結果的に同じじゃないか。思春期をとうに過ぎてしまったオトナの僕は意地悪くそう思ったりもする。こうした物語がドラマツルギーとして要請する矛盾や心理的葛藤を自身の問題として引き受ける「ダーク・ナイト」の登場人物たちとは違うのだ(ウサギのクリーチャーはジョーカー的な位置づけかもしれないが)。

タイムトラベルやリバース・ムーヴィーという設定も、ジェイクが自分を周りに承認させるための手の込んだ恣意的な仕掛けに見えなくはない。タイムトラベルはそもそも矛盾が矛盾を呼ぶようなところがあるので、そこは突っ込まないけれど。冒頭の見晴らしのいい山道(世界が終わる瞬間と同じ場所)で笑うジェイクと、ラストでベッドの中で笑うジェイクはメビウスの輪のようにつながっている。ジェイクは最終的に何から解放されたのだろうか?

アニメ版「時をかける少女」でも主人公は自分にとって都合のいい未来をもたらすために、タイムトラベル(劇中ではタイムリープ)を繰り返す。同様にジュブナイルSFの「バタフライ・エフェクト」ではタイムトラベルを繰り返すたびに現在は改悪され、破滅へとひた走る。どれも奇妙に似ている。「こうだったらいいのに」という願望充足や、「こうじゃなかったらいいのに」という後悔=リグレットを消すために、タイムトラベルが利用される。いづれもうまく行かない現実を否定し改変しようとするが、それは人間が人間であるための所与の条件、死は不可避であり、すでに生きた時間は巻き戻せないという条件を超越する行為なので、当然、その報いを受けることになる。ちなみに「バタフライ・エフェクト」は好きになれない映画だった。

じゃあ、ナルシシズムに満ちた青春映画である「ドニー・ダーコ」に現実と真っ向から戦うゼロ年代的な「決断主義」を持ち込めばいいかと言うと、それはまた別問題。そうすれば、この映画の持つ青白くせつないモラトリアムな気分は消えてしまうだろう。この映画の欠点は同時にアドバンテージでもある。

音楽の使い方はとてもよかった。学校で主要な登場人物を次々と紹介するシークエンスではティアーズ・フォー・フィアーズの「Head Over Heels」、主人公の妹が学園祭でダンスを披露するシーンではデュラン・デュランの「Notorious」、悲劇が起こる直前に主人公の家で行われるホームパーティのBGMはジョイ・ディヴィジョンの「Love Will Tear Us Apart」、エンディングはティアーズ・フォー・フィアーズの「Mad World」のカバー。曲調も(たぶん歌詞の内容も)パズルのピースのように1988年という映画の設定を支えている。

80年代末を思い返すと、たしかに世紀末の終末観というのはあったと思う。すでにアシッドハウスやテクノが聴こえてきていたし、それらは暗い未来を映し出すサウンドトラックとして、あるいは世紀末をやり過ごすための享楽的ドラッグとして十分な説得力を持っていて、ティアーズ・フォー・フィアーズのような歌は忘却されつつあった(少なくとも僕のような人はそうだった)。でも、そういういかにも音楽ジャーナリズムっぽい言い方ではなくて、もっと生活の内側にあるヒダのような感情を思い出そうとするとよく思い出せない。

なお、フィリップ・K・ディック好きらしいリチャード・ケリー監督の次回作「Southland Tales」は酷評だったらしく、日本公開されていない。トレイラーはこちら

2008/09/14

SF回帰?



前々回のエントリーで(そういえば、「エスクァイア」がクラークとディックをメインにSF特集を組んでいた)と書いた。SFってすっかりメインストリームの檜舞台から消えて本来のサブカルチャーに戻った印象が勝手にあって、いわゆるSF映画というかスター・ウォーズのようなスペース・オペラの終焉みたいなことだったり、以前はSFの専売特許だった設定がどんどん普通の小説や映画に入り込んできていて(「エスクァイア」にはそのへんを受けて「ストレンジ・フィクションという新潮流」というページもある)、だからこそ、古典としてのSFが見直されている? かつてSFに熱狂した世代へのマーケティング商法だったりして?(*)


オレとサイエンス・フィクション!(全5回・その1) - メモリの藻屑 、記憶領域のゴミ

勝手にSFだけでハヤカワ文庫100冊 その1 非英語圏強襲(1〜4) - 万来堂日記2nd

リドリー・スコット監督が、新作SF「すばらしき新世界」に着手? - eiga.com

BBtv - Syd Mead with Joel Johnson, part 3: BLADE RUNNER. - Boing Boing


そういえば、元々リドリー・スコットのプロダクションで働いていて、エイフェックス・ツインやビョークのPVで一世を風靡した映像作家クリス・カニンガム(Chris Cunningham)がサイバーパンクの金字塔「ニューロマンサー」の映画化に着手したというニュースがだいぶ昔にあった。音沙汰がないところを見ると、おそらく企画がポシャったんだろう。William Gibson's Neuromancer Finally Coming to the Big Screen! によると、どうやら、別の監督で映画化が進行中らしい。なお、クリスはハーモニー・コリンの「ミスター・ロンリー」の一部を映像監修してるとか。

*=閑話休題。ギズモード経由でNYタイムスの統計によると、日本は娯楽にかけるお金が洋服+生活必需品+電力のトータルを上回っているそうだ(What Your Global Neighbors Are Buying - Interactive Graphic - NYTimes.comの「RECREATION」をクリック)。単純に日本は娯楽の単価が高いということかも。これだけではなんとも言えないが。なお、記事によると、ギリシア人は他の国に比べファッションの比重が大きく、アメリカは(依然として)すべての部門にお金をかけている世界一の消費大国。関係ないが、NYタイムスのサイトはレイアウトの組み方が絶妙にキレイで見やすく(白い地と文字とのバランスによる可読性、新聞らしさとウェブらしさとの掛け合わせなど)、ユーザーにストレスを与えない好例だと思う。

2008/09/05

Genius Party



「Genius Party Beyond」の予習もかねて、スタジオ4℃によるオムニバス映画「Genius Party(ジーニアス・パーティ)」を観た。

オープニング

監督は福島敦子。改めてこの人のキャリアを調べると、マッドハウスに始まり「迷宮物語」「ロボットカーニバル」「AKIRA」と、リアル系オルタナティヴなジャパニメーションの系譜(ものすごく大雑把な括りで申し訳ない)の真ん中にいた人なんだとわかる。大友克洋の影響があるのはだから当然で、そこに女性らしいファンタジスタの要素も。「Genius Party」の中では、湯浅政明と同じく、最もアニメーションの快楽を感じさせる出来映えで好き。音楽は井上薫。マニュエル・ゲッチング風味の躍動感あるトライバル・ダンス・ミュージック。

上海大竜

監督は河森正治。「ダークナイト」を通過してしまった自分には、ヒーロー物の解釈がとても幼稚に見えてしまって。(ごめんなさい)

デスティック・フォー

監督は木村真二。「鉄コン筋クリート」の凄まじい美術の描き込みに驚いて、名前を覚えた人。これも期待に違わず、大友や松本大洋の意匠をフルに使い倒した、とはいえ、森本晃司とはまた違う解釈でブラックな異世界をフルCGで堪能できる。作風としてはもはや新しくはないが、動きも美術も緻密で完成度が高い。音楽はスタジオ4℃の「マインドゲーム」に続いて、山本精一。独自の諧謔感あふれるスラップスティックな音楽が画面にピッタリと寄り添う。この路線で、木村真二に長編を作ってもらいたい。

ドアチャイム

監督は福島庸治。懐かしい名前だなぁ。福島庸治の漫画は大友克洋チルドレンがわんさかいた時代にそれなりに読んでいた。不条理な漫画が得意で、本作もその系統。美術は山本七郎で、冒頭の踏切のシーンも含め、彼が美術を手がけた「時をかける少女」を思い出す。水彩画のように空気感を濃淡にしのばせる彼の絵は、日本のアニメーション美術の至宝だと思う。キャラクターデザインがイマイチで、この中では一番洗練されていない。音楽はコンボピアノ。言われないとわからない、控えめな劇伴という印象。

LIMIT CYCLE

監督は二村秀樹。唯一知らない名前。ペヨトル工房とか工作社なんて名前を思い出す、難解で形而上学的なエイティーズ・サブカル一直線な作風が個人的にはむずがゆく、ちょっと気恥ずかしかった。パロールとか表徴とかナレーションで言われても・・・。イコノロジーを映像化するというのはわかるが、今ならもっと違うやり方があるのではないか。20分は長い。せめて10分にまとめていたら印象は違ったかも。主人公のキャラデザは、ジェームズ・ディーンの写真をトレースしていると思う。音楽はフェネス(Fennesz)。後でクレジットで知ってビックリ。

夢みるキカイ

監督は湯山政明。この並びで文句なく一番好きな作品。「マインドゲーム」で湯山政明はとてつもない才能だなと認識した。メルヴィルの「白鯨」や「ピノキオ」を思わせないでもないクジラ内部でのサバイバルゲームも面白かったし、何よりもクルクルと絵柄が変わる神様の描写で「アサー」の谷岡ヤスジを引用していたのに舌を巻いた。なんて自由な表現なんだろうと思った。本作も「マインドゲーム」に続いて、生と死を真っ向から描いている。主人公の子供が旅で出会う異生物はことごとく食物連鎖のサイクルの一部として死んでしまう。食虫植物のような生命体に分け入って、友達になった異生物をなんとか助けようとする場面のエモーションはウソがない。旅の最後で、主人公は機械人間のような成れの果てになって、その生命の連関の一部として自らの命を差し出す。音楽は竹村ノブカズで、湯山の才気とがっぷり4つを組んでいる。竹村の作風はこのようなアニメーションにとてもフィットする。この作品のキビしいがホノボノとした世界観やゆったりとしたタイム感は「ファンタスティック・プラネット」のルネ・ラルーに似ていて、おそらく多少なりとも意識しているのではないか。

BABY BLUE

監督は渡辺信一郎。この中では一番安心して見られるごくフツーの青春モノだが、ディティールの追求に余念がない。新宿駅から京王線で明大前を経由して井の頭線で下北沢、そこから小田急線で江ノ島に至るまでの風景を忠実にロケハンしていて、同じコースを辿ったことがある人は二倍楽しめるだろう。電車の吊り広告でスタジオボイス(小山田君が表紙の90年代サブカル特集)やWARPマガジンも確認できる。最後の花火のシーンはベタながら感動を誘う。音楽は菅野ゆう子で、主人公の声を最近自殺未遂を犯した柳楽優弥が演じている(いきなり10代でカンヌで注目される人生とはどれだけ本人を痛めつけるものだろうかと思う。復活を陰ながら応援したい)。


若い人がこの作品をどう観るかはわからないけれど、かつて大友に熱狂し、最近の大友の失速ぶりにガッカリしている自分のような人間には、溜飲を下げさせてくれる作品群だった。こうした実験的な試みは(売れるかどうかは別として)もっとあってしかるべきとも思う。音楽のキャスティングも適材適所でツボだった(皆ベテランで安心して聴けるというのも大きいかもしれないが)。大友好きには「デスティック・フォー」か「オープニング」、アニメーションに関心があるすべての人に「夢みるキカイ」を。

STUDIO 4℃
GENIUS PARTY OFFICIAL WEB SITE

Dark Knight



「ダークナイト」は、「ポニョ」や「ゾディアック」みたいな善悪二元論が成立しない複雑で曖昧なイマドキのゼロ年代をリアルに切り取った映画と違って、昔ながらの単純明快な勧善懲悪をひたすら突き詰めて突き抜けてみせた映画で、そして、こうしたアプローチでもちゃんと今の時代の空気を吸ったリアルなものは作れるんだという証明にもなっている。

まず、この映画にはタイトル・シークエンスがない。プリンスの軽快なポップソングももちろんなく、ハンス・ジマーとジェームズ・ニュートン・ハワードによる重苦しく大仰なオーケストラのリフがずっと鳴っている。アクションがもうひとつで大味だった前作の課題もクリアしていて、シカゴで撮影されたゴッサム・シティを舞台に繰り広げられるカーチェイスは見応えがある。

冒頭で、バットマンのコピーキャットたち、ジョーカーの覆面をした銀行強盗グループ、ドン・コルレオーネのような威光をまったく感じさせない小物感あふれるマフィア幹部や彼らと共謀する香港の企業CIOが矢継ぎ早に紹介される(彼らの収入源はマネーロンダリング)。神秘的なアウラ(オーラ)は昔日のまぼろしで、シミュラークルやデッドコピーが世界を覆っていて、そこから誰も逃れられない。この辺がいかにも今っぽい。

狂言回し=トリックスターを地で行くヒース・レジャー扮するジョーカーもまたオーラをまとった悪のカリスマというにはほど遠く、傍目からはオサレな気狂いピエロでゴスなチンピラにしか見えない。あのメーキャップのまま看護婦の格好をした、マンガ的と言うしかないありえないヴィジュアルのジョーカーがリモコンで病院を爆破するという絵ヅラのおかしみは、そこに肉体が宿り、CGではない本物のビルを爆破させることで、有無を言わせない起爆力を持つ。

ジョーカーは誰かを守りたいという利他主義と自分を守りたいという利己主義を天秤にかける。生死を賭けた場面では誰もが後者を絶望的に選択するしかないというのが、彼のゲームの法則である。ジョーカーは快楽殺人者でも猟奇的殺人者でもない。殺人は目的ではなく手段であり、アルカイダのように確固たる意志で、人々の心を蹂躙しその善意やヒューマニズムを前提に機能している社会を粉々に打ち砕きたいのだ。彼はあらゆる価値は無価値であると信じるニヒリストであり哲学者のようにも見える。

バットマンは、誰も頼んでいないのに正義を執行する自警市民で、ジョーカーの無差別テロの元凶であり、ゴッサム・シティの市民から疎まれている。アメコミのヒーローは客観的に見ればコスプレ趣味のイカれたフリークスでアウトサイダーでしかないという設定が効いている。ブルース・ウェイン=バットマン、ジョーカー、検事ハービー・デント=トゥーフェイス。善を体現する者、悪を体現する者、善から悪へと堕ちる者、この3つどもえの力学が物語を貫通する太いパイプラインだ。

ハービー・デントが裁判でスタンドプレイ的な活躍を見せるシーンでは、善を頑なに信じる者が時に見せる鼻につく傲慢さを表現していて(アーロン・エッカートという俳優はこういう役がよく似合う)、彼が後にトゥーフェイスという怪物になることを予感させる。そのきっかけがアナキン・スカイウォーカーがダークサイドに堕ちるのと同じく最愛の人を喪うことにあるというのが、いかにもアメリカっぽい。

前作「バットマン・ビギンズ」のレビューでも引き合いに出したサム・ライミの「スパイダーマン2」は珍しく映画館で二回観て、不覚にも泣いてしまった映画だ。ヒーローである主人公のアイデンティティ・クライシスとアクションがくんずほぐれつしながら相互補完する「スパイダーマン2」には市民はヒーローを応援するという大前提は守られていたが、「ダークナイト」にはその前提はない。

ジョーカーが仕掛けた最後のゲームを人々は善意でクリアするが、バットマンはトゥーフェイスの罪を自らかぶり忌み嫌われるヒーローを全うするから、より救いはない。この作品の密度と強度は「スパイダーマン2」と肩を並べるかそれ以上で、ダークヒーロー物でクライマックスの舞台が建設中の高層ビルであるという共通項から、同じライミの「ダークマン」とも重ね合わせたくなる。

東浩紀的に言うなら、この映画は現実ではなく虚構を模倣する「まんが・アニメ的リアリズム」と、現実を写生する「自然主義的リアリズム」(というより「映画的リアリズム」?)をミックスし、そこに必然的に生じる齟齬や矛盾を内包しながらいかに魅力的な物語を作るかという命題に果敢に挑み、かなりの精度でそれに成功していると思う。

映画の内容と矛盾するようだが、ゲイリー・オールドマンやマイケル・ケインが見せる紳士的な身振りのように、娯楽映画としては過剰ではあるのだが節度と抑制が保たれていて、グロな表現がないのも好ましい。下品ではなく高潔なのだ。ハリウッドというマーケットの市場原理が今の時代に「ダークナイト」を要請したことがとても興味深く、僕は都市そのものが主人公の映画としてもオススメしたい。

2008/08/26

「崖の上のポニョ」その2


前回のエントリーに続き、「ポニョ」についてまとまらないまま書いてみる(ネタバレ)。*8.28加筆。

悪役の不在。

ポニョの父親であるフジモトが本来はその役目のハズだが、コミック・リリーフ的なポジションで悪人に見えないし、また、フジモトとポニョの母親である海の女神(名前は作中では触れられない、フジモトは「あの人」と呼ぶ)との相克というようなありがちなドラマは描かれない。「パンダコパンダ」では両親がいないことを主人公の女の子が明るく話す場面がある(ホントだったら、悲惨な家庭のハズなのに)。

ノー・クライマックス。

宮崎の映画は昔から脚本や構成が弱いと言われていて、その弱点を類いまれなアニメーションとエモーションのコントロールで「エイヤッ!」とうっちゃらかるという特徴がある。オープニングでフジモトのもとから逃げてきたポニョはソウスケと出会い、ソウスケは幼稚園にポニョを連れていき、ポニョはフジモトに連れ去られる。これだけで前半30分。ポニョの力で嵐が起こり街が海に沈み、本編最大の山場であるポニョが波に乗ってソウスケを追いかけるところまで30分(オープニングから1時間)。そこからラストまで、前半を超えるクライマックスがずっと来ないまま40分。

後半で力尽きたのか、意図的なものなのかはわからない(たぶんその両方)。アニメーションという集団作業は個々のアニメーターの力量に負う部分が大きく、宮崎はインタビューでこのアニメーターならこの場面を描けるからと絵コンテを膨らませたり場面を追加すると言っている。そうした力のあるアニメーターを後半で確保できなかったのではないかと邪推してみたり。僕はこの映画の最大の短所であり、もしかしたら最大の長所は、クライマックスがないことに尽きると思う。そして、それは映画は盛り上がりがあってしかるべきというドグマに僕が陥っているということでもあるのだが。

後半のナゾ。

「千と千尋」の最後の方で、それまでの湯屋を舞台にした動的な展開(湯屋の内部をジェットコースター的に激しく上下する垂直運動)から、千尋が海上を走る電車で銭ババの家に向かう旅という静的な展開(水平運動)へと切り替わる。死を思わせるシュールレアルな絵画的な静けさが、それまでのダイナミックで映画的な展開と対比される。「ポニョ」では、嵐を境にした前半と後半で似たようなトーンの変化があるが、劇的な変化というより、どこか平坦でなだらかなカーブを描くような変化であり、物語が収束していく(回収されていく)という実感を伴わない。むしろ、時間が区切られていないでずっと続いていくような、時間が引き延ばされていくような、子供の頃に感じていた感覚。これをページをめくっていく絵本のようだと言い換えることもできるかもしれない。

古代魚が泳ぐ海を眺めながら、ポニョとソウスケの運命を巡って、フジモトや女神や異形の者たちによる一大カタストロフな展開を今か今かと待っていたら、「世界はこのままでは滅んでしまう」というフジモトのセリフが唐突にやって来て、ソウスケは世界を救済するという重すぎる運命を(なんの抵抗もなく)受け入れる。ポニョとソウスケの恋愛が成就するというシンプルなお話がなぜかセカイ系になってしまっている。

この運命の受諾と婚姻の誓いの最中ずっと眠っているポニョも、フジモトや女神の言うことにまったく疑いを持たずに従うソウスケも主体性がまるでなく、生きてる感じがしない。ポニョを好きになるソウスケ/ソウスケを好きになるポニョ(宮崎アニメではお決まりの一目惚れのパターン)、そして、ソウスケに会うために嵐を起こすポニョと、前半では、感情の赴くままに激烈に行動し、そこにナゼ?というエクスキューズを入れる余地がないという「コナン」から続く宮崎キャラの典型である2人が、最後は虚勢されたようにおとなしく、大人たちの思うがままなのだ。ここに至って、ソウスケとポニョは自分たちの力で物語を更新していく力強さを失ってしまっている。

表面的には自分たちの意志で運命を選んだと言えるし、子供の成長には親の庇護が必要だとも読めるのだけれど、このラストの不可解さは人間世界から神話世界へと物語が受け渡されたと考えた方がいいのかもしれない。後半の展開をロジカルに考えるとワケわからなくなるが、あの世や夢の世界、神話世界への道行きと考えればまったく不思議ではない。水木しげるや楳図かずおの漫画がそうであるように。

ポニョとソウスケがトンネルをくぐるという意味深なシーンについて、mixiの「ポニョ」コミュに、トンネルが産道を指し、ポニョが人間として生まれ変わることを示唆しているという意見があった。ヒッチコックの「北北西に進路を取れ」で、トンネルに列車が突っ込むシーンがセックス(主役の2人に男女関係が成立したこと)を表しているという解釈を昔読んだが、それを思い出してしまった。このようなフロイト的解釈、あるいは俗流心理学の援用もアリなのだろうけれど、このシーンに限らず、宮崎が「ポニョ」に散りばめた謎はそういうロジカルな解釈を拒むような、「わからない」ことの豊かさの方を選び取るような態度が見受けられる(それを承知で、この文章もああだこうだと書いてるわけだけど)。

ポニョとソウスケの旅は、途中でボートに乗った母子に出会う、陸地に揚がって母親のリサの車を見つけた後トンネルをくぐる、と言葉にすると拍子抜けするほどシンプルで、事件らしい事件もサスペンスフルな展開も起きない。これをイニシエーションのための試練と見るには、(ファンタジーの約束事としても)ヒネリやツイストが足りないと思う。しかし、ここでわかりやすく試練としての事件やスペクタクルな戦いを挿入すれば、後半の独特なムードは失われてしまうだろう。

「ハウル」や「千と千尋」と同じく、あっけない幕切れは、奔放なイマジネーションによって紡がれる物語をロジックでスパッと中断して無理矢理終わらせるという感じがする。ゼロ年代の宮崎は、前回のエントリーでも書いたように大団円やハッピーエンドによる余韻を避ける傾向がある。


その他気づいたこと。

古代魚が泳ぐ海から陸に揚がったソウスケとポニョが手をつないで坂をのぼっていくカットで、ユージン・スミスの「The Walk to Paradise Garden」という有名な写真を思い出した。宮崎が実際にこの写真をイメージしたかはわからないが、「楽園への歩み」というこの写真の持つふくよかで満ち足りたムードはたしかに「ポニョ」の後半とつながっていくように思える。このシーンでは、ポニョが眠ると魔法が解けてしまい、船はもとのオモチャに戻ってしまい用済みになる。楽園に入るには武器や道具はいらないという寓意だろうか?

「パンダコパンダ 雨降りサーカス」では、主人公の家にあったベッドが船の代わりになる。「ポニョ」では、最初にソウスケが登場した時に持っていたオモチャの船をポニョが魔法で大きくして船の代わりにする。「雨降りサーカス」では、航海に携えていく食べ物は、洪水で水に閉じ込められたサーカスの動物たちに与えられる。「ポニョ」では、航海に携えていく食べ物は(本来の目的である、洪水で閉じ込められた老人たちへではなく)、ポニョによって途中で出会ったボートに乗った赤ん坊のお母さんに惜しみなく与えられる(リュックは空になる)。

「パンダコパンダ」では、最初から最後まで観客を脅かすような描写はなく、すべてが子供向け映画の一部として安全に機能している。「ポニョ」では、このような歪みやズレや誤配が各所にあり、観客はどう解釈していいのか途方にくれる。この撹乱や混乱が、「こうなるだろう」という観客のベタな期待に対する気持ちのいい裏切りになっている。このエピソードに限って言えば、無垢な赤ん坊に未来を託すという寓意だろうと容易に想像できるのだが、実際の画面におけるポニョと赤ん坊はそうした寓意や作意を超えて、いともたやすく互いに感応し合いキスをするのだった。

フジモトが魔法の源泉として取り扱う生命の水について、カンブリア紀の爆発という言葉が彼の口から出る。女神はポニョが引き起こした嵐による海の変容を「デボン紀のようだ」と話す。古代魚の海を船で進んでいくポニョとソウスケは古代魚の学名を次々に言い当てる。

人面魚、両生類、人間とメタモルフォーゼしていくポニョ。変身は「千と千尋」以降の宮崎作品に欠かせない要素である。「ハウル」では、ハウルやソフィーや荒地の魔女など、主要キャラが魔法の力で姿を変えていく。人面魚ポニョのルックスは、奈良美智を思わせる(オープニングでポニョが妹たちと一緒にいる場面で、ポニョの顔が一瞬、奈良美智的なツリ目になる)。両生類ポニョは「千と千尋」の湯屋の使用人に似ている。

フジモトと女神の造形は手塚治虫そのもの。Wikipediaに書いてある通り、漫画雑誌上で組まれた手塚の死去直後の特集で、宮崎は手塚が日本のアニメーションに起こした弊害について歯に衣着せず手厳しく批判している。当時それを読んだ僕は、亡くなった人物に対して容赦ない攻撃を加える宮崎にちょっと怖いものを感じた。表現者の業というか、宮崎にとって手塚はあらゆる意味で乗り越えるべき存在だったのだろう。その宮崎が「ポニョ」では手塚を引用する。漫画の表現にメタモルフォーゼを積極的に持ち込んだのも手塚の功績である。もともと人間で女神と結婚することで生命の秘儀を得たフジモトは手塚が何度か漫画化した悪魔メフィストフェレスに魂を売るファウストとも言えそう。

「ポニョ」制作時、宮崎はワーグナーを聴いていた。ポニョが波に乗ってソウスケを追うシークエンスで、ワルキューレの騎行のようなメロディがちょっとだけ聴こえる。どこの場面か忘れてしまったが(たしか老人介護センターの場面?)、ワーグナーとニーベルンゲンの歌に関連するように「ヴァルハラ(Valhalla)」(ヴァルハラとは北欧神話で「戦死者の家」を指す)という文字が背景に書かれていた。この手の作者の隠れた意図を画面に散りばめるお遊びは、「千と千尋」で湯屋の背景に「回春」とデカデカと書いてあったのに通じる。「ヴァルハラ(Valhalla)」と、後半の濃厚な死の匂いはつながっている。


たぶん、宮崎はこちらが求めているようなリニアな求心力のある物語を作る気はさらさらないのだろう。前半は、ソウスケとポニョの物語であり、後半は、その物語を解体した後の残滓のようだ。ラストを器用にまとめず、その残滓のイメージ(イマージュ)がはらむ豊かさを中盤並みにカンブリア紀ばりに爆発させてほしかったというのは無いものねだりだろうか。仮にそうしてしまえば、子供向けの娯楽映画として破綻するのは目に見えている。ソウスケとポニョ(と観客)は一緒に旅をすることで、その丹念なアニメーションによって形成される(映画であると同時に、小説や絵本のようでもある)不可思議なリアリズムの時空を共有するのだ。

こんな奇妙な映画に客が殺到するという不可解さも含め、「ポニョ」は宮崎駿という予定調和を拒む67歳のアニメーション作家がさらに未踏の地へ突き進んだ作品であることは間違いないと思う。

「崖の上のポニョ」その1

やっと「崖の上のポニョ」を観ることができた。評判通り子供向けのアニメーションとしては異様な代物だったが(ラヴクラフトのクトゥルー神話と「ポニョ」を結びつけたり、この映画のイビツな違和感をさまざまに解釈したレビューがネット上にはあふれている)、ゼロ年代の宮崎駿を評価している自分としては、ごく自然な帰結として受け止めることができた。その分、「ナンダコレハ!?」的な衝撃はあまり受けることができなかったのだが。

宮崎なりのリアリズムを突き詰めた(アニメーションならではの自由や想像力を自ら封じたように見えた)「もののけ姫」以降の宮崎アニメは、その特異なリアリズム(キャラが実際に生きて存在しているかのようなリアリティを画面に漲らせる力)を活かしつつ、原初の体験としてのアニメーションにいかに戻って(遡行して)いくか、という首尾一貫した流れを持つように思える。原作がある「ハウルの動く城」、オリジナルの「千と千尋の神隠し」「崖の上のポニョ」という違いは瑣末な違いにしか過ぎず、強靭で揺るぎない作家性は保たれている。(興行収入を期待される立場にも関わらず)物語や既成概念の束縛からアニメーションの自由を奪回する、というのが、ゼロ年代の宮崎駿が自ら課した命題なのではないだろうか。

「もののけ姫」以降の3作品は、魔法が世界を統べるファンタジーという点で一致する(というか、「もののけ姫」以前の劇場作品も「紅の豚」と「カリオストロ」以外は純然たるファンタジーと言って差し支えないと思う)。「千と千尋」は現代の日本を舞台にした、バブル期の名残りのようなテーマパークの廃墟が異界に通じていたという「行きて帰りし物語」の優れたヴァージョンであり、「ハウル」はヨーロッパ世界を雛型にした王道のファンタジーで、主人公は(「千と千尋」と同様に)魔法使いと共に生活することで異界(非日常)は日常と一体化して描かれる。「ポニョ」は現代の日本を再び舞台として取り上げ、現実界と異界はせめぎあいながら、もはや線引きできないほど、どちらがどちらなのか判別できないほどに混ざり合っている。

この3作品を時系列に観ていくと、宮崎のファンタジーの描き方がどんどん大胆になり、既成の約束事から自由になっているのがわかる。「千と千尋」ではファンタジーをファンタジーとして成立させる数々の約束事(千尋が魔女と契約を結ぶことで名前を失う、千尋もハクも本当の名前を奪われることで異界に捕われの身になる、などなど)に満ちていた。それらは、観客をファンタジーの世界に入り込ませるための暗黙の了解事項、ロジック、ルール、コード、プロトコルである。「千と千尋」のカオナシの存在や、「ハウル」後半における一切の説明を欠いた展開は、こうしたロジックやコードを打ち破るものであり、コードを守る(良心的国民的作家としての)宮崎とコード・ブレイカーとしての(自らのリビドーを自由奔放に表現する)宮崎との戦いとしても見ることができる。「ポニョ」ではコード・ブレイカーとしての宮崎が前面に押し出されている。

物語の定型パターンからの逸脱という点で、宮崎は「ナウシカ」「ラピュタ」以降、明確な敵、悪役、ヴィランを作らないことで徹底している(これが古くからの宮崎ファンの一部で最近の作品が不評となる原因のひとつではないだろうか)。善と悪というわかりやすい二項対立のドラマツルギーによるカタルシスの代わりに、より複雑な人物配置と設定による新しい物語を指向する。近作でも明確なヴィランはいないものの、2つ以上の異なる勢力がぶつかりあうことで物語をドライブさせていくというところは共通している。「千と千尋」では銭ババと湯ババという容姿がソックリな魔女、「ハウル」では国家権力に奉仕する魔法使いたち(頂点にいるのはハウルの元師匠サリマン)とハウル。それらは単純な善と悪ではなく、どちらも場合によっては代替可能で、物語のデータベースを補完し合う存在である。「ハウル」のラストには、サリマンが「ハッピーエンドってわけね」と訳知り顔でつぶやく場面がある。とってつけたハッピーエンドを「あえて」了解済みでやってるんだという宮崎の苦しまぎれの独白にも思える。

「ポニョ」は、子供向けとしては先行する2つの劇場映画、「トトロ」と「パンダコパンダ 雨降りサーカス」に似ている。人間の女の子に変身=メタモルフォーゼしたポニョは「トトロ」のメイにソックリだし、街が嵐で水没するのはまんま「雨降りサーカス」。悪役もいなければ、対象年齢が高く設定されている「千と千尋」や「ハウル」にはあった異なる勢力による対立構造がないところも、「トトロ」や「パンダコパンダ」と同じ。「パンダコパンダ」は純粋に子供向けに徹した、宮崎の作家性が開花する前の作品であり、開花した後の作品である「トトロ」にはエコロジーや日本の原風景へのノスタルジーといった思想性やメッセージ性が透けて見えた。今回の「ポニョ」はどうかというと、「パンダコパンダ」ほど素朴なワケはなく、「トトロ」のようなわかりやすいメッセージ性も含まれているのだけれど、もっと混沌とした未整理の無意識がムキダシになっていて(そこがゼロ年代の宮崎の共通項である)、しかし、物語は子供向けなだけにこの上もなくシンプル、というイビツな作品になっている。

(つづく)

2008/08/14

ゾディアック


ゾディアック 特別版: デビッド・フィンチャー

作品に現れた兆候を作者本人にも重ねるという愚を犯すなら、デビッド・フィンチャーはナイン・インチ・ネイルズやピクシーズを聴きながら不健康でアンモラルなことを四六時中考えている青臭いルーザー気質の健康優良不良青年という感じだろうか(実際は、ILMを経てMTVディレクター、初監督が大作「エイリアン3」というキャリアの持ち主)。と言っても、僕はフィンチャーの映画をこれまで「セブン」と「ファイト・クラブ」しか観ていないので、あくまでその2本から類推するしかないのだが。

ひたすら後味の悪さが後を引いた「セブン」のデモーニッシュな(露)悪趣味には諸手を挙げて賛成はできないが、暴力が個人をスポイルする消費社会に対する最大のカウンターになりうるという単純明快なロジックでボンクラ男子の夢をブラッド・ピットというキャラクターに託した「ファイト・クラブ」は、ロック由来のサブカルチャーの若々しいエネルギーを感じる痛快エンタメだった(「ドラッグストア・カウボーイ」でも「キッズ」でも「バッファロー66」でもなんでもいい、そうした青春映画がとらえたルーザー/社会的弱者であるがゆえに確保されたオルタナティヴな視点というのは諸刃の刃なのだ、と今の僕は思っているが、それについてここで書く余裕はない)。

フィンチャーの「ゾディアック」は、1969年を起点とするゾディアック事件を基にしている。多くの人が書いているようにこの映画にはカタルシスがない。観客はずっと宙吊りにされたままクライマックスはやってこない。「セブン」のようなシリアルキラー・サスペンスでも「ファイト・クラブ」のような叙述トリック・ミステリーでもない。わかりやすい落とし所はどこにもなく、史実を忠実に描こうとするシンプルなわかりやすさが、真実が秘める複雑なわかりにくさとコインの表裏にある。謎解きや真犯人を知る決定的瞬間は訪れない。正確にはラストに訪れるのだが、そこに至る150分を経験した観客にはそれすらもとりあえずのオチにしか受け取れない。エンドロールで事件の顛末が語られ、DNA鑑定でシロと判定された容疑者がすでにこの世にはいないということが観客に知らされる時、ラストの決定的瞬間も歴史の闇の中へと漂泊する点のひとつになり、線を結ばない。

当初はフィンチャーが監督するはずだったというブライアン・デ・パルマの「ブラック・ダリア」は、未解決の猟奇事件という似た題材を扱いながら(そして、ジェイムズ・エルロイというカリスマ作家の原作でありながら)個人的には退屈な映画だったように思う(「ゾディアック」が退屈だと思う人も少なくないだろうし、結局は好みなのだろうけれど)。「ブラック・ダリア」は映画的記憶としてのフィルム・ノワールを再現しようとするだけでそこに新味はなく、事件そのものよりも主人公たちの三角関係という横道のドラマに関心が逸れていく。

点と線ということで言えば、「ゾディアック」を特徴づけるのは、60年代から現代まで刻々と移り変わっていく時間の流れのスピーディーさだ。映画の主要な舞台である新聞社、サンフランシスコ・クロニクルではないが、新聞やニュース報道の持つ素っ気なく機械的で情緒を排した叙述形式をなぞるようでもあり、まるで、この不確かなドラマに句読点やピリオドを打つのは、日付という確かさだけだと言いたいかのようだ。本編中唯一(時間の経過を示す技法として)ハイスピード撮影が使われるのは、サンフランシスコのランドマークであるトランスアメリカ・ピラミッドの尖塔がみるみる建設されていくカットで、そこにマーヴィン・ゲイの「Inner City Blues」のイントロがカブるところは映像と音楽の美しい交差にハッとさせられた(よくある手法なのに)。

事件を追う漫画家の主人公がブラッド・ピットやエドワード・ノートンやジョディ・フォスターのようなスターではなく、アングラ・コミックから抜け出してきたかのような冴えない風貌の(だが存在感はある)ジェイク・ギレンホールであり、90年代のアイコンとなったクロエ・セヴィニーが眼鏡をかけた化粧っ気のない地味で平凡なその妻を演じる。こんなところに、フィンチャーの時代との距離の取り方を感じ取ってしまう(時代の寵児がその後どのように生き延びるのか、というのが僕のこのところの関心事だったりする)。ロバート・ダウニー・Jr演ずる主人公の同僚は、「ゾディアック」のひとつ前の出演作「スキャナー・ダークリィ」同様に私生活そのままのヤク中で身を持ち崩してボートハウスで余生を送る人物として描かれる。リー・アレン容疑者もトレーラーハウスの住人であり、連続殺人が車と深い関わりを持っていて、下層社会に属する人々がアメリカという車社会を「移動」していくというのがこの映画のモチーフのひとつにあると思う。

DVDについてくるメイキング・ムーヴィーには、主人公のモデルとなった漫画家であり原作者、事件に関わった警察官が実名で登場する。ベイエリア生まれのフィンチャーは、幼い頃、ゾディアックがスクールバスを襲うと予告した(実際には起きなかった)事件を自ら経験している。事件を恐れた父親がスクールバスではなく車で子供のフィンチャーを送ってくれた時、「親は自分の身を守れるのだろうか」という一抹の不安を覚えたという。それだけ当時は社会的インパクトのある劇場型犯罪だったのだろう。この事件とポップカルチャーとの関連で言えば、ゾディアックはSF映画から犯行のアイディアを頂いてるし、劇中にはゾディアックをモデルにした「ダーティ・ハリー」が映画館で上映されるシーンもある。フィンチャーのリサーチは凄まじい。第二の殺人現場である湖畔を当時そのままに再現するために木を植えたりもしている。ここまでやると立派なパラノイアだ。

フィンチャーはゾディアックを「ハッタリ野郎で頭の切れるヤツじゃない」「つまらない男だとわかればオーラも人々の不安も消える」と言う。犯人は数々の足跡やヒントやミスを残していて、警察はそれらをひとつにつなげることが出来なかっただけなのだ。リー・アレンが警察と最初に対面するアップを多用した緊迫感のあるシーンは、本編でも見所のひとつだ。映像は雄弁に彼がゾディアックだと、黒に限りなく近い灰色だと観客に語っている(リーは愉快犯らしい警察を挑発するセリフを吐き、後半に複数による犯行だったのでは?と思わせる描写もある)。

ゾディアックを執拗に追いかける主人公がリー・アレンと対面するのは80年代に入ってからで、そこでも何かが起こるわけではなく、2人は視線を交わすだけ。なんともじれったく歯がゆく、しかし、それぞれの場面は関連し合いながら個々の独立した魅力を放っている。ヒーローも悪漢もこの映画では成立しない。追う者も追われる者も平凡な人々であり、そして、彼らの内面にフィンチャーは踏み込まない(そこがこの映画の優れたところでもある)。レクター博士や「セブン」のシリアルキラーのような非凡で特殊な人間の狂気というカッコは外され、観客はどこまでもうつろな表面を覗いてるかのような気分を味わう。

ジョンベネでもサカキバラでも古今東西の猟奇事件の舞台裏を一度は追ってみたことがある人(自分もそのひとりなのだが)が感じる目眩のようなもの、真実を知りたいという行為に必ずつきまとう決定不可能性というか、真実に近づくほど真実は遠ざかっていく(当事者以外には知り得ない)という不気味さ、もどかしさ、煮え切らない気持ち。この映画はそれらを真っ向から衒いなく描いている。フィンチャーはとても倫理的な作家だと思う。

2008/08/12

映画熱

覚え書き。今年の元旦に「パンズ・ラビリンス」を観て以来(映画の内容が良過ぎてショックだったのか、疲れが溜まっていたのか、それから大風邪を引いて散々な正月だった)、後は「コントロール」を観たくらいで今年前半は映画から遠ざかっていた。コーエン兄弟の「ノー・カントリー」もウェス・アンダーソンの「ダージリン急行」もクローネンバーグの「イースタン・プロミス」もウォン・カーウァイの「マイ・ブルーベリー・ナイツ」も「クローバーフィールド」も「ミスト」も観てない。

最近になって急に映画熱が復活し、レビューに書いた「ハプニング」以外に劇場で「ホット・ファズ」、DVDで「ゾディアック」「ドニー・ダーコ」「サスペリア」「アズールとアスマール」を観た(最後の作品以外はどれも期待以上に面白かった)。どうも波があるみたい。これから観る予定の「ポニョ」と「スカイクロラ」と「ダークナイト」が楽しみ。「8 1/2」と「赤い風船」の再映、あと「ビューティフル・ルーザー」も観たいが手が回らなそう。観た映画のレビューはおいおいアップする予定。

最近痛感するのは、映画は設備の整った映画館で観るべきだということ。と同時に映画も音楽もその他もタイミングがあるから見逃してもジタバタしないようになった(あきらめが簡単につくようになった)。若い時のように無制限にそれらを鑑賞する時間も体力もないし。本当に必要なら遅かれ早かれ出会うハズだから。

オマケ。海外の映画レビューを確認したい時はROTTEN TOMATOES: Movies - New Movie Reviews and Previews!を利用している。大まかな世評がわかるしデータベースとして信頼できる。

2008/07/28

屈託のないシャマラン



M・ナイト・シャマランの「ザ・ハプニング」を観ました。以下、シャマランの全作品を観ているシャマランに好意的なひとりの人間のレビューとして読んでください(ネタバレあり)。

シャマランは、市井の人々による小さな物語を限定された場所で描く、どこまでもミニマルな作家だと思う。「シックス・センス」のヒットで大いに誤解されることとなったが、この人は大向こうを唸らせるような大きな物語は作ら(れ)ない。スーパーナチュラルな超常現象を取り上げることが大好きでも、その小さなフレームからは絶対にハミ出さない(だから、つまらないという批判も浴びやすい)。テロや地球温暖化やエコロジーといった今っぽいテーマを盛り込んだ「ザ・ハプニング」は、同じようなディザスター・ムーヴィーである「宇宙戦争」や「トゥモロー・ワールド」に比べると、その小品としての佇まいに潔さすら覚える。

モンスターも宇宙人も出てこない、CGはゼロ、襲いかかる脅威は風にそよぐ木々や草原の描写のみと、いかにも低予算映画を地でいく作り。後半は登場人物がひとり、またひとりと消えていき、(そこに演出上の意図はあるとしても)あれよあれよという間にスケールダウン、尻すぼみになっていく。かといって、「クローバーフィールド」のような最近流行りのPOV(ポイント・オブ・ビュー)映画であるハズもなく、撮り方は極めてクラシカル。

謎の集団自殺現象からの逃避行とオーバーラップして語られる、関係が冷めた主人公夫婦(+友人の娘の3人)が事件を通じて愛情を取り戻すというお決まりの展開は屈託やヒネリがなく、そこに感情の軋みによるサスペンスの相乗効果は生まれない。「シックス・センス」であれば、まさか誰も幽霊とは思わない肉体という実体を持ったブルース・ウィルス、「アンブレイカブル」であれば、不死身の肉体を持つブルース・ウィルス(見てくれそのまま)、という仕掛けがあったし、「サイン」のメル・ギブソンには元牧師という信仰に関するトラウマがあったのだけれど、今回の肉体派で粗野なイメージのマーク・ウォルバーグの起用に何ら特別なエクスキューズはない。マーク・ウォルバーグは「決してあきらめない」タイプの平凡で朴訥なタフガイであり続けるだけだ。関係ないが、「サマー・オブ・サム」「ランド・オブ・ザ・デッド」で記憶に残ったジョン・レグイザモが今回も味のある演技と存在感を見せてくれる。

たぶん、酷評された前作「レディ・イン・ザ・ウォーター」で、シャマランは商業映画が要請する拘束から自由になって、良くも悪くも吹っ切れたのではないかと思う。ことさら広げた大風呂敷を畳まなくても、観客をだます仕掛けを作らなくても、自分らしい映画は作れると開き直ったのではないか。「レディ・イン・ザ・ウォーター」は、「絵空事の(ひとりよがりな)ファンタジーがあってもいいじゃん」と堂々とヌケヌケと宣言しちゃった困った映画である。なにも「ロード・オブ・ザ・リング」の地平を目指さなくても、ファンタジーのベースとなる神話の設定がショボくて大人げなくても、世界観を成立させる「もっともらしさ」を切り捨てても、綻びまみれの「レディ・イン・ザ・ウォーター」にはファンタジー映画を作ろうと思えば作れるんだという向こう見ずさ、一本気の清々しさが感じられた。
 
今回も、そういう意味で、伏線をキッチリ回収したり謎を解明する作業は放棄しちゃっているし、そもそも伏線が生まれようがないほどシンプルなプロットなのだ。展開は早いし、思わせぶりなところもなく、今までになく人がバタバタと死んで、サクサクと進行し、後味もアッサリ。「宇宙戦争」のスピルバーグと同じように屈託がなくて残酷でもある。ありがちな物語は、それを物語る語り口、細部への目配せ、個々のショットのシーケンスとして微積分され、そこには純粋にサスペンスがある(あたかも、劇中で携帯電話から何ものかに襲われた声が「微積分!微積分!」と繰り返すように)。小道具としては携帯電話が多用され、そんなところでiPhoneのタッチスクリーンを使うか・・と苦笑せざるを得ないシーンもある。

ユーモアはそれなりにある。逃避行の後半で立ち寄る無人の家では、主人公が話しかける植物もテーブルの上の食べ物もTVもすべて作り物で、何かの伏線かと思えば、そこはモデルハウスだったというオチがつく(あえて深読みすれば、平均的なアメリカ人のライフスタイルの空虚さへの批判?)。クライマックスの舞台となる世間を拒絶して生きる老婆の家で主人公たちはディナーに招かれるのだが、娘がテーブルの上のクッキーを取ろうとすると、老婆が鬼のような形相でピシャっと彼女の手を叩くシーンには(笑うところじゃないのだが)笑ってしまう。その食事の後、妻が「あの女の人はエクソシストに出てくる人みたいで嫌いだわ」と夫に言うと、本当にそのイヤな予感が的中する。翌朝、夫が遭遇するのは(わざわざ書くのも野暮だが)ヒッチコックの「サイコ」を思わせる場面だ。

事件が解決し、妻が自分の部屋でそわそわした様子で何かを不安気に待っている。その直後のカットで、自分が妊娠したかどうかを調べていたことがわかるのだが、それを前もって知らされていない観客は、「危険が去ったかに見えて、彼女の体に異変が起きているのではないか(もしくは、夫婦仲が戻ったように見えて、浮気相手からの電話を待っているのではないか)」と思ってしまう。さらに、妊娠=主人公夫婦の関係回復という幸福の裏側では新たな脅威が・・というラストもB級ホラー映画の定石ながらキレイにまとまっている。

週末のドライブ・イン・シアターでポップコーンを齧りながら観る、ハリウッドの黄金時代に大量に作られたプログラム・ピクチャーそのものと言えばそう。ことさらトリッキーな映像表現を用いなくても、スピルバーグとヒッチコックが好きでたまらないことが手に取るようにわかるサスペンスの持続のみで映画を成立させる手腕は、とても好感が持てる。願わくば、シャマランには(世間から酷評を浴び続けられようとも)ミニマルな小品映画を作り続けてほしいと思う。

The Happening (2008 film) - Wikipedia

2008/01/22

Anton Corbijn, Control

 ジョイ・ディヴィジョンのイアン・カーティスを描いたアントン・コービンの映画「コントロール」の試写を見に行きました。このタイトルは皮肉が効いていて、そして、映画の核心をついたタイトルです。イアンは私生活も音楽の仕事も自分の心も身体もコントロール=制御できなくなる。その結果としての自殺という終止符。痛ましいですが、映画はそれをひとつの必然として描きます。僕はMTV世代でニュー・オーダーの「Bizarre Love Triangle」のPVでときめいていたようなヤツなんで、ジョイ・ディヴィジョンは当時、少し遠い存在でした。改めて当時の息吹を忠実に再現してるかのようなこの映画で観ると、物事がシンプルだった時代がすごく羨ましくもあり、いまとの断絶を感じたりします。みんなバカをやめて賢くなって、ある種の抑止力のようなものが働いている現在。音楽もその他のカルチャーもカジュアルに生産・消費されるアイテムに成って、それは一面から見るととてもいいことだと思います。ファクトリーとマッドチェスターを描いた「24 アワー・パーティ・ピープル」はだいぶ前に見たので印象も薄れてますが、映画としての水準はそれほどでもなかった気がします(監督のマイケル・ウィンターボトムは「CODE46」も観ましたが、こちらもイマイチだった。相性が悪いのか?)。

「コントロール」は70年代末の時代の空気をひとりのミュージシャンに的を絞って描き出すことに成功していると思います。アントン・コービンは、変にアート志向に陥ることなく、また、写真家としてのキャリアをこれ見よがしにすることなく(時折、ハッとする美しい構図が現れますが、さりげなく映画に溶け込んでいます)、あくまで直球でストレートに音楽映画、青春映画、恋愛映画、その総体を作り上げていることに好感を持ちました。ギミック的な遊びもほとんどなく、催眠術をかけられたイアンの周りをカメラがグルグル回る中、台詞が音楽とシンクロするシーンにソレを感じた程度。街を歩くイアンを遠目からとらえたファーストカットから、「あ、この映画に身を任せても大丈夫だ」という思いは最後まで裏切られませんでした。対象との距離の取り方が好ましく、謙虚な姿勢を感じ取りました。

音楽の使い方は本当によくて、しつこすぎず、あっさりしすぎず、映像とのバランスやリンクの仕方もちょうどいい加減でした。セックス・ピストルズやデヴィッド・ボウイのライブでは、あえて彼らの姿を見せず演奏シーンを省略するというのも潔い。ジョイ・ディヴィジョン自身のライブのシーンは素晴らしい。彼ららしい直情的でミニマルな音が鳴りはじめた「Transmission」が演奏されるところでは浮き足立ちました(サントラには、イアンを演じたサム・ライリーらが演奏したヴァージョンが収録されています)。「Love Will Tear Us Apart」と「Isolation」が続いて流れるシーンではバンドと恋愛双方でアウェイになっていく主人公の心の動きとうまくシンクロした使われ方がされています。あとマネージャーのキャラが秀逸。こんな人いるよなぁ。トニー・ウィルソンは、ただのいかがわしい業界オヤジではなく、愛すべき人。サマンサ・モートンは美人とは思えないんだけれど演技は上手い、全体を締めています。

時代から逃れることは誰もできない(それは死から逃れられないということと同一であり)という不問律。モノクロームの贅肉を削ぎ落とした映像の中で、青臭い「若さ」がもんどりうっている。その「若さ」の様態は笑っちゃうほどノスタルジーの領域にありながら、こんな風にメディアによる回顧が可能であり、いまを生きる人にも訴求できる力がある。これはひとつの希望だなと思うのです。表面的には悲しい映画ですが、僕はとてもポジティブに受け止ることができました。

電脳コイルを見終えて

「電脳コイル」を全話観終わったのは昨年末の話なので、いまさら感想を書くのはどうかと思いつつ、前回のエントリーでかなり褒めちぎってしまった手前、やはり、落とし前として(?)書いておかないとと思います。

中盤まで僕は本当にドキドキワクワクしながら観ていたのですが、クライマックスに至る数話で熱が冷めてしまったのが正直なところです。最後の方は、散りばめられた伏線を回収するのに精一杯で、生真面目すぎるというか、中盤までの遊び心がなくなってしまったというか。異常なテンションは持続しているのですが、観てるこちらが自由に楽しめなくなるような息苦しさがありました。

アッチの世界=「古い空間」と呼ばれるサイバースペースと、それに付随するヌルやイリーガルという電脳生物、都市伝説として語られるミチコさんという存在がどのようにして生まれたのか、その謎を解くことが後半の大きなお題目なのですが、その謎解きの多くが登場人物の長台詞で語られてしまうというので、白けてしまったのです。そこはやはり、カットの積み重ねで想像力を鼓舞するアニメ本来の力を示してほしかったと思うのです。最終話ひとつ手前のエピソードでは、宮崎アニメの模範解答のような素晴らしい空中戦がクライマックスとして描かれるので(「電脳コイル」に集結したアニメーターの技術力の高さについては、改めて僕なんかが言うまでもなく)、なおさら口惜しい気がします。子供向けアニメにしては難解な設定を敷いてしまった以上、ある程度説明的になってしまうのは仕方ないのかもしれないけれど、「謎を解く」「物語の核心に迫る」という部分をもう少しエンターテイメントとして魅せてほしかったなと。

もうひとつ、重要な点として、物語はヤサコとイサコのふたりの子供に収束していくので、集団ドラマの基底としての社会を描くという部分が曖昧になってしまった気がします。これは僕が「友情」や「恋愛」をメインにしたストーリーにあまり萌えない種類の人間だというのも大きいですが、意図的な演出であることは承知の上で、最後まで子供たちの周りの大人(電脳世界を生み、世界をこのように変えてしまった原因を作った大人)の存在が希薄なまま、悪役は猫目という青年ひとりに押しつけて終わり、ではちょっと説明不足かなと思いました(これも「セカイ系」の影響下にあるのだろうか?)。その代わり、ヤサコとイサコのメンタルな変化については繊細に緻密に十全に描かれていて、特に主人公のヤサコについては、いじめっ子だった過去やイサコとイサコの兄=4423を仮想空間で取り合う(それが予期せぬ闇を作る要因になってしまった)という過去も暴露され、決して優等生の良い子ちゃんではなくリアルな子供として描かれていて、そこはとてもいいなと思いました。たぶん、「電脳コイル」を見る子供は、主人公の心の痛みと自分の心の痛みをスムーズに重ね合わせることができるのでしょう。

広げた大風呂敷を畳む、というのは「電脳コイル」に限らず難儀な問題だと思います。それは「ご都合主義」という言葉と裏表だったりするし、作家が全力を尽くして「解」を示しても、あらゆる物語に慣れ親しみ飽きてしまった現代人を納得させるのは至難の技です。一般的に見てこの作品が力作であることは疑いなく、アニメーションのクオリティも非常に高く、バーチャルとリアルの古くて新しいテーマに肉迫した意欲的な作品だっただけに、あえて苦言を呈してみました。僕のオススメのエピソードは全体のストーリーの中では外伝っぽい位置づけだった11話・12話・13話です。どれもどこか藤子不二雄を思わせる内容で(藤子不二雄のSF短編集が好きならハマるハズ)、特に12話「ダイチ、発毛ス」はある生態系の誕生から破滅までを顔に生えた毛にたとえるというユーモラスな発想の傑作。この3話のエッセンスが本編後半にも反映されていたら・・・と無いものねだりは承知で妄想したくなります。やっぱりユーモアって大事だなと。

「電脳コイル」が「エヴァ」のような90年代的なオタク・カルチャーを苗床にしながら、そこから一歩踏み出していること。つまり、否定から肯定へという転換。作者の意図は明らかで、だから、ラストもこれで正解なのです。そこは汲み取らないといけないと思います。

2007/10/09

Evangelion

映画「エヴァンゲリオン」を観た感想です。


映画「エヴァンゲリオン」を観た。テレビも最初の劇場版も見てないので初見である。当時、サブカル雑誌を中心に「エヴァ」がもてはやされ、庵野秀明のインタビューを読んだり、周辺情報にはそれなりに接していたけれど、作品そのものにはコミットしなかった。たまたま、なのかもしれないが、実は積極的に拒んだというのが本当のところ。その頃は音楽に夢中だったし、カッコよく言えば、日本という風土に内向していって得られる強度よりも、音楽の持つ開かれたコミュニケーションの強度に夢中だった(それもまたタダの幻想なのだろうけれど)。強度の種類や方向性がチガウ。これは、少なくとも当時の自分にはとても大事なことで、必要な「選択」だった。それ以前に、貞本義行のキャラデザインに馴染めなかった。

庵野に関しては、ダイコン・フィルム時代の「愛國戰隊大日本」「帰ってきたウルトラマン」をはじめ、「マクロス」「オネアミスの翼」「ナウシカ」と、特殊アニメーターとしてメキメキ腕を上げていった姿をリアルタイムで追っていたのだった。その前後からアニメに興味がなくなってしまい、「ナディア」や「トップをねらえ」は見ていない。「ナウシカ」のおぞましくも魅力的な巨人兵の描写は、パブリックな劇場映画で無意識の具現化を行った「明るい80年代」における負の表現としてのマイルストーンだと思う。だから、「エヴァ」における生理的に気持ち悪いとされる描写の数々も、既視感と共に庵野らしさとして素直に受け入れることができた。

エヴァ初号機は、私見ではギーガーの「エイリアン」の造形、 尖った頭部、猫背、痩せているという現代的な異形の悪魔の最もポピュラーなフォルムに、あるいは「デビルマン」も忍ばせつつ、ロボットアニメの文脈にデモーニッシュな強度を落とし込んでいる。また、使徒のアブストラクトな造形も特撮からの影響が強い。もっと言えば、「ウルトラマン」で成田了がヨーロッパのシュールレアリスムを参照しながら作り出した怪獣のエッセンスそのものだと思う。彼らが子供向け番組で子供に媚びることなく第一級の仕事をしたことに対して、庵野はオタク第一世代らしい自己を形成してきたアニメ・特撮史のサンプリングでオマージュを捧げている。こうした指摘はいまさらなんだろうけど、パンフを読むと、庵野は特撮のイビツなリアリティに自覚的で、今回の映像表現でもそこにこだわっていたことがわかる。その反面、死海文書やキリスト教など設定に散りばめられた謎掛けは衒学的=ペダンティックなお遊び以上ではなく、意味ありげなだけで浅薄な印象はぬぐえない(「スター・ウォーズ」に通じる類型的神話の商業作品への転用)。

第三新東京市という使徒を迎え撃つために作られた要塞都市に使徒がどこからともなくやってくるという設定のご都合主義そのものの閉鎖性、虚構性、ゲーム性。「エヴァ」がロボットアニメの系譜の中に確信犯的に準備された鬼っ子であることを考えるとこの設定もうなづけるが、オトナになってしまった僕にはこの世界がどこまでも閉じているという閉塞感にいらだちを覚える。登場人物の多くが、(中学生が主人公だから仕方ないにしても)保護者・被保護者という一種の血縁関係にあるのも息苦しい。そこでは、少年の成長というビルディングス・ロマンの要素もとってつけたようで、つまりは本当の「他者」はどこにも存在せず、「他者」というべき使徒も最初から仕組まれていてお膳立てされていたということでは、やはりゲームの世界から現実には飛び立てない。「エヴァ」を形づくる世界観や心理描写の幼稚さ、世界を構成する関数のあっけないほどの少なさ、全体に表出するサブカルチャーを苗床にする幼児性については、自分自身の鏡を見せられているようでなんとも痛し痒しではある。

一方で、第三新東京市のうらさびれた空虚な風景には胸がしめつけられた。僕はこの映画を渋谷で観たのだけれど、その後、渋谷の風景がしばらく第三新東京市とオーバーラップしてしまった。まったく美しくない(がゆえにある種の美しさを持った)現実の似姿である都市景観は、宮崎駿の牧歌的で理想主義をにじませた田園風景や、押井守のブレラン譲りのディストピアな近未来のいずれとも違う。このリアリティは、重厚長大な作家主義ではなく、もともと生粋のアマチュアリズムのサーヴィス精神から出発した庵野の立ち位置から生まれたものだろう。

映画「エヴァンゲリオン」から、僕は現代日本のオタク的表現の貧しさと豊かさ、サブカルチャーに依存することの限界と可能性を改めて感じ取った。何かを期待していたわけではないが、それだけでも僕はこの映画を観てよかったと思った。オタクという言葉が一般的になってしまったいま、こんなことを書くこと自体が陳腐なのだけれど。友人が「トランスフォーマー」を観た後で「エヴァ」を観たら、前者のあまりの浅さゆえに「エヴァ」のリアルが身に沁みたとのこと。「エヴァ」が深いかどうかはともかく、この映画を根幹で支えているリバイバリズム=懐古主義はとても今っぽい気がする。過去の作品や記憶が新しいテクノロジーと共にいとも簡単になし崩し的に再生・再現され、アレンジされ、共有されていく。作り手がそこに自覚的であること、そして、それを商品として流通させていること。それは音楽の問題とも深くつながっている。

10年前は「エヴァ」を避けていた僕はやっと作品としての「エヴァ」にたどり着いたのだった。というか、旧劇場版の量産型エヴァと弐号機の量感とダイナミズムにあふれた戦いのシーンを「電脳コイル」の磯光雄が担当していることを知って、ようやく現在と過去がつながったというべきか。

Dennou Coil

「電脳コイル」を数話見た段階で書いたテキストを加筆修正してアップします。


サイバーパンクを世に知らしめたウィリアム・ギブソンには「ヴァーチャル・ライト」という、メガネを通して電脳世界を体感するという作品がある。ギブソンは文学的想像力を駆使して、コンピュータがガジェットとなって日常に溶け込んでいる未来を幻視した。彼の作品は数を重ねるごとにSF小説としてのインパクトを失っていき、未来を舞台に移し替えただけのピカレスク・ロマンや犯罪小説の様相を呈していった(それは小説として面白くなくなっていった、ということを意味してはいないのだが)。壮大なアイディアでうならせるタイプのSFではなく、未来社会のディティールをかつてなかったリアリティと筆力で活写するのがギブソンらしさ。いま読むと多分にマンガやアニメっぽくもあり、一方で日本をことさらエキゾチックに描き出したその世界を、子供向けアニメーションとして見事に再生・変換させたのが、磯光雄監督の「電脳コイル」だと思う。

「電脳コイル」は、欧米生まれのバタくさいサイバーパンクをドラえもんやサザエさんの住む身の丈の日常と直結させてしまう。その発想がまず斬新だ。等身大のキャラクターと、塀や電柱や路地や神社が迷路のようにうずまく昭和ノスタルジーな町。まっくろくろすけやもののけを思わせる電脳ペットやイリーガルと呼ばれる古い電脳空間に生息する怪物、あるいは主人公が姉妹という設定は「トトロ」そのもの。ジブリが看板にする安全で共同体的なイメージ群が、ここでは最先端のユビキタス社会と違和感なく接合される。ファッションやアートと共に語られることが多かったサイバーパンクは、それゆえに風化も早かったが、こんな形で嫌みなくローカライズされて再現されるとは予想もしなかった。

電柱やブロック塀やトタン屋根のある空間というのは、日本人の脳内にサブリミナルに存在する原風景だと言えるだろう。デザイナーズマンションに住んでも、ケータイを使っても、そのヴァーチャルな空間は記憶に消しがたくそこにある。過去も現在も未来も個人の記憶すらもユビキタスに偏在し、接続可能で代替可能。ネットワーク上ではアップデートもデリートも瞬時で、そこでは存在そのものが耐えられない軽さになり、一枚の写真に特別なオーラを感じるといったことが不可能になってしまう。セカイ系うんぬんを取り沙汰しなくても、大文字の世界と個の世界、マクロとミクロ、アッチとコッチがダイレクトにつながっているという感覚はもはや当たり前のものであり、「電脳コイル」はそうした時代背景を踏まえ、20数年前のサイバーパンクが先送りして見せた未来社会をリデザインしている。

そういえば、サイバーパンク隆盛の頃、「電脳」という言葉はちょっとダサくて気恥ずかしい気がしたが、あえてこの言葉を正面から使うところに、「電脳コイル」を制作する側のスタンスが感じられる。講釈はともかく、第一話の「フォーマットしてます」という巨大な壁からデンスケやオヤジといった電脳ペットが逃げるという絵ヅラが素晴らしい。未来からやってきたロボットがまったくスタイリッシュさを欠いた扁平足のネコ型だったという、ドラえもんが作り出した未来に対するお茶の間感覚。その親しみやすいルックの裏には、今さらながら優れた批評性と普遍性があったのだと改めて思う。

「電脳コイル」の描く電脳世界は、回を追うごとに都市伝説やホラーと絡めた「異界」として主人公たちと僕たち見る者に認識されていく。その皮膚感覚はとても原始的かつ生理的で抗いがたく、意識と無意識、こころとからだの間にあるグレーゾーンに真っ向から踏み込んでいる。最後に、磯光雄監督の公式サイトにあった彼の言葉を引用しよう。


子供の遊び場とフィクションの世界には通づる部分があって、親の、あるいは整合性の目の行き届かない薄暗がりにワクワクする何かが宿るような気がします。いずれも存続しにくいものになりつつあります。その意味で、「電脳コイル」は失われた風景、失われたジャンルを扱っているのだと自分では考えています。これは企画の一番初めから変わっていない気持ちです。ちょっとだけささやかな抵抗を続けていこうと思います。(磯光雄)

2005/12/12

誰も知らない


誰も知らない: 是枝裕和

「誰も知らない」をいまさらながらようやく観た。

良かった点は、子供の演技が自然であること。柳楽優弥が各所で見せるたぶんテレから来る微笑みは、彼自身が「映画を撮られている」という無意識の意識から出ているのだろう。これは誰かがカメラの前で誰かを演じているということを真摯に伝えるドキュメントでもある。次男のしげる役の男の子がもっとも天衣無縫でコントロールされない子供を地で演じている。ラストの交差点で子供らが立ち止まり、彼がオノマトペのように言葉にならない言葉を発する。あそこはよく撮れたなぁ。前もって台本を渡さず現場で指示していくヌーベルヴァーグ的手法はほとんどの場面で成功しているが、同時にそれは諸刃の刃。後半、どうしてもドラマを盛り上げなくてはいけない下りで、台詞の棒読みというか「しゃべらせられてる」感が浮き上がってしまう。

この映画のモデルとなった西巣鴨子供置き去り事件は映画よりずっと陰惨で悲しい事件だ。これをそのまま映画化すればよりハードコアなテイストになっただろうけど、是枝監督はそうしなかった。子供を置き去りにした母親や母親を捨てた父親を悪人として描かない、子供らに待ち構える運命も示唆するだけで明示しない。映画の中では社会的に罰せられるべき人は誰もいない。この小さな共同体は最悪最低の状況なのかもしれないが、そこにすら小さな幸福があり日常がある。一般常識や道徳観念や社会通念をすべて取っ払い、意味性やメッセージがないクリーンなスクリーンを通してそこで何が起こるかをじっと見つめる。

結果、この映画は一種のロスト・パラダイスを延々と映し出す。一歩足を踏み出せば、ツライ現実が待ち構えている。登場人物の誰もそこから出ようとしない。甘美で閉ざされたマンションの半径何メートルの生活圏から。完全に閉じた世界は現実には成立しない。そこには、大人たち、柳楽優弥が家に連れてくる友達、登校拒否の女の子と、外界から侵入者が次々現れる。いつかは破られる閉じたコミュニティの危うさは通奏低音としてずっと鳴っているけれど、それをサスペンスとして是枝監督は用いない。彼の視線は、この歓迎されない小さなコミュニティを糾弾したり告発したり問題提起をすることには向けられてないからだ。ただただ、その甘美な時間が永遠に続くことを願うかのように、淡々とフィルムを回し続ける。

だから、この映画を観る人が感じる一種独特な気まずさや居心地悪さは、もろく儚い小さな生命体のようなモラトリアム空間をひたすら見つけ続けることそれ自体から来ているのだろう。

是枝監督の映画は小津とよく比較されるようだ。僕はこの映画は小津とはまったく似てないと思った。小津の映画は、もっと構築的でコンストラクティブ、淡々としてるようで、繰り返しやパターンは意図的に用いられ、少しづつ変奏しながら、太いドラマツルギーを編んでいく。「誰も知らない」には、このような厳格なクラシック音楽のような構築性をほとんど感じない。それは、ドキュメンタリーのような作り方のせいでもあるだろう。この映画は「意図すべからざる瞬間」をとらえようとする開放系の映画なので、ガチガチした構成は似合わない。例えば、羽田空港対岸に行くこの映画の重要な場面、小津であれば、モノレールで現地に向う場面と現地から戻る場面をしつこく同じ構図で同じショットで入れると思う。是枝監督はそうはしない。

映画館ではなくDVDで観たせいもあるだろうが、2時間半はやや冗長な感じがした。これを2時間に凝縮したら、もっとエッセンシャルな映画になった気がする。ただ、それは是枝監督の意図ではなかったのだろう。ここに消し難く刻印された日本の現実、日本的な微細な感情表現、それらはあまりに「素」でそのままなので、肯定も否定もできない。日本の普通の街(早稲田や高田馬場あたり?)、コンビニや公園を中心に出来上がる子供の生態系、羽田空港を向こう岸に見据える空き地(僕は半年前に城南島を実際に訪れたので「あ」と思った)、現実そのものの、特に美しくもない、むしろ薄汚く物悲しい表情。

僕はこの映画に流れる叙情性を肯定も否定もしない。ああ、これは日本の「素」なのだと思う。そこにグローバリズムが生む世界とは真逆の、翻訳不可能の地域性、ローカルな特質が表象されていると思う。グローバリズムに圧しつぶされていく世界のそこかしこに、こんな空間がいっぱい残されているハズなのだ。

ゴンチチのテーマ音楽、コンビニ店員として出演しているタテタカコの挿入歌「宝石」が素晴らしい。