2010/01/30
渋谷百軒店でteaParty
当日の告知ですいません。
GAOS、PINKMANなど複数の名前でゼロ年代前半からグラフィティ・ライターとして活動を行う、さいとうりょうた君に誘われまして、渋谷ホテル街の奥まったところ、百軒店(ひゃっけんだな)にある12月に出来たばかりのレストランでスタートするラウンジ・パーティに参加します。百軒店は関東大震災直後に再開発されたとのことで、1920年代にオープンした喫茶店ライオンがあったり、稲荷神社とラブホテルが隣り合ったり、映画のロケに使われそうな昭和の色濃い摩訶不思議な路地裏空間です。力を抜いて楽しめるオープンなパーティになるといいな。
渋谷の隠れ家|百軒店商店街|道玄坂
以下、告知テキスト。
スパイスキッチン魚THEユニバースという渋谷の穴場のような新しいお店で心地よい音楽と壁のない交流の場/サロン/ラウンジ/お茶会(お酒もありますよ)を目指すパーティ、teaParty~オフ・ザ・ウォール~の幕開けです。入場無料なので(*1ドリンクオーダーいただきます)、気楽に遊びに来ていただけたらと思います。飲み物はずっとワンコイン。おいしい食べ物も頼めます。ご興味ございましたらぜひ。
teaParty~オフ・ザ・ウォール~ vol.0
2010/1/30/SAT
*入場無料(1drink order)
OPEN 23:30- All Night
@スパイスキッチン-魚THEユニバース-(渋谷)
http://sakana-spice.jp
03-5456-0308
東京都渋谷区道玄坂2-20-9-1F
・DJ:サダメ, くわまん, softcream, Nobuya Togashi
・ライブペイント:さいとうりょうた
・作品展示: さいとうりょうた
・撮影:青木勝紀
*今回が初回、これから定期的に開催する予定で、参加&協力していただける方を募集しています。
FEEDという限りなくニッチな居場所の話
「FEED」というカフェの通常営業時間内にやってるイベントについて、とりとめもなく過去を振り返るエントリーです。とても個人的でつまらない話ですが、よろしければ、おつきあいください。
その昔、IDEEが経営していたスプートニック・パッドというカフェで不定期にやらせてもらったり、学芸大学にあったOFFICEで月一でやらせてもらうようになったのが、カフェとの最初の接点です。その2店舗がクローズした後は、ピンクのネオンサインがいかにも夜の止まり木的なバーっぽかった改装前の外苑前SIGNで月一でやるようになります。このへんの記憶がアイマイで、しかも、何年に始めたかとか時系列的なことを見事に忘れてますが・・。
その後、同じビルにある1階のSIGNと5階のOFFICE、2つのカフェを掛け持ちして月2回やることになります。余程ヒマだったんでしょうか・・汗。さすがにこの時期は体力的にしんどかったので、どちらか一個に絞ろうということになり、自分の音はOFFICEの方が合ってると近しい友人に言われたり自分でもそうだよなと思いつつ、色々考えた末に、5階まで階段で上がることでフィルターがかかるという意味でもややスノッヴで大人の遊び場めいたOFFICEではなく、SIGNで続けることにしました。なぜ、SIGNにしたのかと言うと、身も蓋もない理由ですが、単純にお客さんが多かった、からです、笑。
いまはもうそんな対抗意識はないですが、SIGNで始めた頃はまだゼロ年代初頭のカフェ・ブームの残り香があり、いわゆるカフェ・ミュージック、お洒落なボサノヴァやフリー・ソウルみたいな音楽は意地でもかけないゾ!というよくわからない自負心があり、また、そういうわかりやすいカテゴリーじゃない音を持ち込むことに存在意義を勝手に感じていました。一度、SIGNでラップトップを持ち込んでアシッド・ハウス・セットを一時間以上流すという無茶をやったこともあります。その時はさすがにお店から五月蝿いとお叱りを受けました。なぜそこまで暴走してたんでしょうか・・よく覚えていません・・・。
そんなこんなで月日が経ち、カフェ・ブームはあっという間に過ぎ去り、夜遊び族や怪しげなクリエイターなどのトッポイ人種ではなく、青山界隈のビジネスマンやOLがメインの客層になっていき、SIGNが改装されて、夜っぽい内装が昼っぽいクリーンな内装になり、どんどんフラットな状況になっていくのを実感するようになります。改装でDJブースが2階に上がりスペースに余裕ができた分、お客さんとブースとの距離ができて一体感がなくなり、「この曲、なんですか?」と聴きに来るお客さんがいなくなったのは、ちょっと寂しい変化です。単なるBGMとはいえ、公共空間で音を流しているのだから、お客さんに届いてナンボだと、おこがましくも思ってますから。
音楽を巡る時代状況としては、著作権のせいでいつまでもブレイクできないインターネット・ラジオを一足飛びに飛び越えて、音楽をかける場所・空間の持つヒエラルキーを無効化する最終兵器USTREAMが昨年出現し、いつでもどこでもプロでもアマでも自由に音楽を流して享受するという風通しのいいカルチャーが産声を上げ、従来からあるクラブやライヴハウスの現場とストリーミングやポッドキャスティングの現場に二極分化しつつあるのは、ご存知の通りです。この不況下で商業空間と音楽とのマッチングが難しくなっていることも確かでしょう。
クラブの血で血を洗う政治社会(やや大げさ)に入り込めない自分のようなノンポリで付き合い下手な人間が、オタクDJよろしくカフェというニッチな場所でお気楽に音楽をかけるという行為にもはや意味って見い出せるのかな?と思ったりもします(実際は、ノルマはないけどやるからにはお客さんを呼ばなくちゃとか、ブッキングとか、お気楽なりに苦労はあるわけですが、それはさておき)。いつでも止めていいミニマムな居場所としての「FEED」を、これからどう続けていけばいいのか、けっこう正念場な気もしています。
ちなみに、「FEED」という名前は、カフェという飲食店で食べたり飲んだりしながら聴く音楽、そこで音を供給するということ、地域のラジオやテレビの放送、ウェブ・サイトやブログが概要を吐き出すフィード、という即物的な意味合いやシンプルな響きが気に入ってつけました。「FEED」でかかる音楽についてうまく言い表せる言葉を思いつかず、クラブ・フライヤーのようにジャンル名を書き連ねていく紹介の仕方を避けたいんだがどうしたものだろうと思っていたところ、昨年、Twitter経由で「壁紙音楽」という便利な言葉を思いつき、頭がスッキリしました。当分は、この名称を掲げていくと思います(!?)。
最後に、その時々でレギュラーやゲストでDJしてもらったりサポートしてもらってる仲間や友人、お店のスタッフの皆さんには感謝です(こうしてエントリーに起こすと、自分にとってのゼロ年代の少なくとも何パーセントかは「FEED」だったんだなぁ・・)。
もし、このエントリーの続きを書くとしたら、お洒落な記号としての音楽の風化について、ですが、また、それは機会があればということで。
SIGN GAIENMAE|TRANSIT GENERAL OFFICE INC.
FEED告知、または壁紙音楽宣言
その昔、IDEEが経営していたスプートニック・パッドというカフェで不定期にやらせてもらったり、学芸大学にあったOFFICEで月一でやらせてもらうようになったのが、カフェとの最初の接点です。その2店舗がクローズした後は、ピンクのネオンサインがいかにも夜の止まり木的なバーっぽかった改装前の外苑前SIGNで月一でやるようになります。このへんの記憶がアイマイで、しかも、何年に始めたかとか時系列的なことを見事に忘れてますが・・。
その後、同じビルにある1階のSIGNと5階のOFFICE、2つのカフェを掛け持ちして月2回やることになります。余程ヒマだったんでしょうか・・汗。さすがにこの時期は体力的にしんどかったので、どちらか一個に絞ろうということになり、自分の音はOFFICEの方が合ってると近しい友人に言われたり自分でもそうだよなと思いつつ、色々考えた末に、5階まで階段で上がることでフィルターがかかるという意味でもややスノッヴで大人の遊び場めいたOFFICEではなく、SIGNで続けることにしました。なぜ、SIGNにしたのかと言うと、身も蓋もない理由ですが、単純にお客さんが多かった、からです、笑。
いまはもうそんな対抗意識はないですが、SIGNで始めた頃はまだゼロ年代初頭のカフェ・ブームの残り香があり、いわゆるカフェ・ミュージック、お洒落なボサノヴァやフリー・ソウルみたいな音楽は意地でもかけないゾ!というよくわからない自負心があり、また、そういうわかりやすいカテゴリーじゃない音を持ち込むことに存在意義を勝手に感じていました。一度、SIGNでラップトップを持ち込んでアシッド・ハウス・セットを一時間以上流すという無茶をやったこともあります。その時はさすがにお店から五月蝿いとお叱りを受けました。なぜそこまで暴走してたんでしょうか・・よく覚えていません・・・。
そんなこんなで月日が経ち、カフェ・ブームはあっという間に過ぎ去り、夜遊び族や怪しげなクリエイターなどのトッポイ人種ではなく、青山界隈のビジネスマンやOLがメインの客層になっていき、SIGNが改装されて、夜っぽい内装が昼っぽいクリーンな内装になり、どんどんフラットな状況になっていくのを実感するようになります。改装でDJブースが2階に上がりスペースに余裕ができた分、お客さんとブースとの距離ができて一体感がなくなり、「この曲、なんですか?」と聴きに来るお客さんがいなくなったのは、ちょっと寂しい変化です。単なるBGMとはいえ、公共空間で音を流しているのだから、お客さんに届いてナンボだと、おこがましくも思ってますから。
音楽を巡る時代状況としては、著作権のせいでいつまでもブレイクできないインターネット・ラジオを一足飛びに飛び越えて、音楽をかける場所・空間の持つヒエラルキーを無効化する最終兵器USTREAMが昨年出現し、いつでもどこでもプロでもアマでも自由に音楽を流して享受するという風通しのいいカルチャーが産声を上げ、従来からあるクラブやライヴハウスの現場とストリーミングやポッドキャスティングの現場に二極分化しつつあるのは、ご存知の通りです。この不況下で商業空間と音楽とのマッチングが難しくなっていることも確かでしょう。
クラブの血で血を洗う政治社会(やや大げさ)に入り込めない自分のようなノンポリで付き合い下手な人間が、オタクDJよろしくカフェというニッチな場所でお気楽に音楽をかけるという行為にもはや意味って見い出せるのかな?と思ったりもします(実際は、ノルマはないけどやるからにはお客さんを呼ばなくちゃとか、ブッキングとか、お気楽なりに苦労はあるわけですが、それはさておき)。いつでも止めていいミニマムな居場所としての「FEED」を、これからどう続けていけばいいのか、けっこう正念場な気もしています。
ちなみに、「FEED」という名前は、カフェという飲食店で食べたり飲んだりしながら聴く音楽、そこで音を供給するということ、地域のラジオやテレビの放送、ウェブ・サイトやブログが概要を吐き出すフィード、という即物的な意味合いやシンプルな響きが気に入ってつけました。「FEED」でかかる音楽についてうまく言い表せる言葉を思いつかず、クラブ・フライヤーのようにジャンル名を書き連ねていく紹介の仕方を避けたいんだがどうしたものだろうと思っていたところ、昨年、Twitter経由で「壁紙音楽」という便利な言葉を思いつき、頭がスッキリしました。当分は、この名称を掲げていくと思います(!?)。
最後に、その時々でレギュラーやゲストでDJしてもらったりサポートしてもらってる仲間や友人、お店のスタッフの皆さんには感謝です(こうしてエントリーに起こすと、自分にとってのゼロ年代の少なくとも何パーセントかは「FEED」だったんだなぁ・・)。
もし、このエントリーの続きを書くとしたら、お洒落な記号としての音楽の風化について、ですが、また、それは機会があればということで。
SIGN GAIENMAE|TRANSIT GENERAL OFFICE INC.
FEED告知、または壁紙音楽宣言
2010/01/27
2009年・個人的にお世話になった音楽BEST 1
'Who Is It' by Michael Jackson
昨秋、しばらく実家のある熊本に戻っていました。東京に戻る前日、阿蘇の西原村にあるオーディオ道場というところに遊びに行き、元・剣道場の建物内に所狭しとオーディオ製品が立ち並ぶ中で、50年以上昔のJBLのスピーカーやオーナー自作のカスタムメイドのスピーカー&真空管アンプで音を聴かせていただくという至福の時間を過ごすことが出来ました。
iPhoneに入ってた音源で唯一AIFFで高音質だった坂本龍一の「Out Of Noise」から「2 hwit」、オーナー私物のジャズCDから選んだマイルスの「死刑台のエレベーター」やケニー・ドーハムの「Afrodisia」、カサンドラ・ウィルソンの「New Moon Daughter」からホーギー・カーマイケルの「Skylark」とニール・ヤングの「Harvest Moon」、電気グルーヴの「虹」、道場に寄贈されたLPからキング・タビーやKLFの「Chill Out」など。LPはオーナーの若い友人の形見だそうで、WAVE六本木のシールが貼ってありました。僕とちょうど同じくらいの年齢だったということで不思議な縁を感じました。
帰る間際、道場のオーナーが前置きなしにいきなりマイケルの「Who Is It」をCDでかけたのですが、正直、それまで特に思い入れのない曲だったので、ニュー・ジャック・スイングな打ち込みリズム+分厚いシンセ・ストリングス+マイケルの声というシンプルなアレンジで構成された、ポップ・ソングとしてスムーズで完璧すぎて普段なら聴き流してしまうこの曲が、高密度で高解像度の音の塊として不意打ちのように目の前に立ち上がり、度肝を抜かれました。凶暴なアンビエントの暴風雨のような、鉄壁のウォール・オブ・サウンドに気圧された数分間でした。
オーナーに車で送っていただいて少し話をしたのですが、MP3用のアンプも開発中とのことで、ハイ・オーディオ信仰に釘を刺すように、音楽を聴くのにソースは関係ないとおっしゃっていたのが印象に残っています。もちろん、物見遊山で高揚したエゴトリップだったことを差し引くとしても、あの場所で聴かせてもらったマイケルが去年の音楽体験としてはベストでした(客がほとんどいなかったのをいいことに長居してしまい、きっと迷惑だったろうと思いますが、オーナーと娘さんの温かいホスピタリティには本当に感謝します。濃厚なチョコレートケーキも美味しかったです)。
ちなみに、西原村は全国から若いアーティストが集まり独自のコミュニティが出来てるそうです。この日も革のアクセサリー職人さんが西原村に移り住むための視察で神奈川から訪れていました。
オーディオ道場公式ページ
昨秋、しばらく実家のある熊本に戻っていました。東京に戻る前日、阿蘇の西原村にあるオーディオ道場というところに遊びに行き、元・剣道場の建物内に所狭しとオーディオ製品が立ち並ぶ中で、50年以上昔のJBLのスピーカーやオーナー自作のカスタムメイドのスピーカー&真空管アンプで音を聴かせていただくという至福の時間を過ごすことが出来ました。
iPhoneに入ってた音源で唯一AIFFで高音質だった坂本龍一の「Out Of Noise」から「2 hwit」、オーナー私物のジャズCDから選んだマイルスの「死刑台のエレベーター」やケニー・ドーハムの「Afrodisia」、カサンドラ・ウィルソンの「New Moon Daughter」からホーギー・カーマイケルの「Skylark」とニール・ヤングの「Harvest Moon」、電気グルーヴの「虹」、道場に寄贈されたLPからキング・タビーやKLFの「Chill Out」など。LPはオーナーの若い友人の形見だそうで、WAVE六本木のシールが貼ってありました。僕とちょうど同じくらいの年齢だったということで不思議な縁を感じました。
帰る間際、道場のオーナーが前置きなしにいきなりマイケルの「Who Is It」をCDでかけたのですが、正直、それまで特に思い入れのない曲だったので、ニュー・ジャック・スイングな打ち込みリズム+分厚いシンセ・ストリングス+マイケルの声というシンプルなアレンジで構成された、ポップ・ソングとしてスムーズで完璧すぎて普段なら聴き流してしまうこの曲が、高密度で高解像度の音の塊として不意打ちのように目の前に立ち上がり、度肝を抜かれました。凶暴なアンビエントの暴風雨のような、鉄壁のウォール・オブ・サウンドに気圧された数分間でした。
オーナーに車で送っていただいて少し話をしたのですが、MP3用のアンプも開発中とのことで、ハイ・オーディオ信仰に釘を刺すように、音楽を聴くのにソースは関係ないとおっしゃっていたのが印象に残っています。もちろん、物見遊山で高揚したエゴトリップだったことを差し引くとしても、あの場所で聴かせてもらったマイケルが去年の音楽体験としてはベストでした(客がほとんどいなかったのをいいことに長居してしまい、きっと迷惑だったろうと思いますが、オーナーと娘さんの温かいホスピタリティには本当に感謝します。濃厚なチョコレートケーキも美味しかったです)。
ちなみに、西原村は全国から若いアーティストが集まり独自のコミュニティが出来てるそうです。この日も革のアクセサリー職人さんが西原村に移り住むための視察で神奈川から訪れていました。
オーディオ道場公式ページ
2009年・個人的にお世話になった音楽BEST 2-5
すいません。ココから長くてクドいです。
'Adepressive Cannot Goto Theceremony' by Imoutoid
昨年亡くなった後に彼のことを知りました。萌えカルチャーに疎くサンプリングされたアニメの原曲も知らないんですが、Maltineからリリースされた3曲、特に「Part3」のソフィスティケイトされた音にノックアウトされました。切り刻まれたヴォイスがポップにせめぎあう空間(=「桜雪の舞う」という歌詞とサウンドの一致)が、曲のコーダで挿入される不穏なパッド・サウンドによってねじ曲げられ、日本人的な湿った情念が浮かび上がるというアレンジの巧みさは、タダモノじゃないです。90年代的な渋谷系な「サバービア」ではなく、ゼロ年代的な「郊外」で鳴ってる音。殺風景なロードサイドの虚無に覆われた空間を音で埋め尽くすような強迫神経症+10代にしか出せない刹那感。いくつか聴いた中では、この曲と、Tomad氏がゼロ年代を代表する曲として選んでいた「ファインダー (imoutoid's Finder Is Not Desktop Experience Remix)」が突出してるように思いました。
http://maltinerecords.cs8.biz/14.html
'Ambivalence Avenue' by Bibio
アーティスト単体の新作として去年一番よく聴いたBibioを挙げます。ずっとビートレスだったBibioが、この作品ではブレイクビーツを導入し、トレードマークだったボーズ・オブ・カナダ的なトリートメントを曲から取り除くことでより霧が晴れたように輪郭がクリアになり、内向的な音が外に開いていくようなポジティヴさを感じます。
ジェイ・ディー仕込みの骨太なビーツに甘酸っぱいヴォイス・サンプルをチョップしてトッピングした「Fire Ant」と「S'Vive」(この2曲は双生児のような関係)は、ゼロ年代に大量生産されたメロウでジャジーなヒップホップとは一味も二味も違うし、Warp直系のエソテリックなメロディを被せた「Sugarette」と「Dwrcan」は、Bibioの友人でもあるクラークに感じるタテノリのリズムの物足りなさをヨコに組み替えるだけで、こんなに腰を落ち着けて聴けるのかと驚きます。スライを思わせるソウル・マナーの「Jealous Of Roses」は、この中ではやや異色。
これらブレイクビーツ主体の曲と対照的に、「Ambivalence Avenue」「Haikuesque」「Lovers' Carvings」、クラップが軽やかに打ち鳴らされブラジル音楽とイギリスの田園が思い浮かぶフォークが溶け合った3曲は、Bibioの歌モノとしては現時点で最高の出来映えだと思います。Bibioつながりで高橋健太郎さんにTwitter経由でArthur Verocaiのことを教えていただいたのも、2009年っぽい出来事として印象に残っています。
http://www.myspace.com/musicabibio
'Moscow Dub' & 'Sick House 2' by Killer Bong
たぶん、ブレイクビーツに関してはそれなりに聴いてきた方だと思います。良くも悪くも酒や煙草のように嗜好品として体に染みついてしまってるのかもしれません(煙草は吸いませんが・・)。マッドリブやジェイ・ディー以降、ご他聞にもれずフライング・ロータスやハドソン・モホーク(新作でDam Funkとコラボしたのはうれしい誤算)なんかを追いつつ、それらともまた違うKiller Bongのロウキーな辺境系ブレイクビーツに、遅ればせながらハマりました。紛れもなくアンダーグラウンドな音ですが、狭いサークルで聴かれるのがもったいない気もします。特に、ハウスを取り入れたこの2作品がお気に入りで、「Moscow Dub」はビル・ラズウェルのような先行世代のヘヴィさを程よく中和し、「Sick House 2」はクリック・ハウスやポールのようなベルリン・ダブを完全にモノにしています。去年の正月は、「Sweet Dreams」の原稿のためにSublime Frequenciesレーベルのマージナルな民俗音楽を集中的に聴くという貴重な体験をしたんですが、後半にKiller Bongを聴いて、自分の中で一本の線がつながった気がします。
http://www.powershovelaudio.com/album/xqbp1016/
'Balance' by 砂原良徳
ここ数年、鬱だと噂されていた沈黙期間を経て、昨年復活を遂げたこと自体がとてもうれしいニュースでした。これはその復活を告げるサントラではなく、2002年の「Lovebeat」に入っている曲。波のようなシークエンス、マントラのように唱えたくなる(笑)「Balance, Difference, Flat, Oneself」と繰り返す無機質なヴォイス、5分あたりから聴こえるエアリーで温かいシンセにギュッと鷲掴みされます。クラフトワーキアン砂原による鎮痛剤サウンドには、個人が20世紀的なエゴの重力から解き放たれ、フラットな時空に浮いている、そんなイメージもあり、2010年代/並行世界/Twitter時代を先読みしているようです。外に出かける時、iPhoneでたぶん去年一番よく聴いた、自分にとっての精神安定剤でした。YouTubeで砂原良徳を検索すると真っ先に出てくる、庵野秀明「ラブ&ポップ」とのマッシュアップ、音と映像のミスマッチぶりが妙にツボに入る出来だったので貼っておきます(イントロ部分は原曲に付け足したもの)。
'Adepressive Cannot Goto Theceremony' by Imoutoid
昨年亡くなった後に彼のことを知りました。萌えカルチャーに疎くサンプリングされたアニメの原曲も知らないんですが、Maltineからリリースされた3曲、特に「Part3」のソフィスティケイトされた音にノックアウトされました。切り刻まれたヴォイスがポップにせめぎあう空間(=「桜雪の舞う」という歌詞とサウンドの一致)が、曲のコーダで挿入される不穏なパッド・サウンドによってねじ曲げられ、日本人的な湿った情念が浮かび上がるというアレンジの巧みさは、タダモノじゃないです。90年代的な渋谷系な「サバービア」ではなく、ゼロ年代的な「郊外」で鳴ってる音。殺風景なロードサイドの虚無に覆われた空間を音で埋め尽くすような強迫神経症+10代にしか出せない刹那感。いくつか聴いた中では、この曲と、Tomad氏がゼロ年代を代表する曲として選んでいた「ファインダー (imoutoid's Finder Is Not Desktop Experience Remix)」が突出してるように思いました。
http://maltinerecords.cs8.biz/14.html
'Ambivalence Avenue' by Bibio
アーティスト単体の新作として去年一番よく聴いたBibioを挙げます。ずっとビートレスだったBibioが、この作品ではブレイクビーツを導入し、トレードマークだったボーズ・オブ・カナダ的なトリートメントを曲から取り除くことでより霧が晴れたように輪郭がクリアになり、内向的な音が外に開いていくようなポジティヴさを感じます。
ジェイ・ディー仕込みの骨太なビーツに甘酸っぱいヴォイス・サンプルをチョップしてトッピングした「Fire Ant」と「S'Vive」(この2曲は双生児のような関係)は、ゼロ年代に大量生産されたメロウでジャジーなヒップホップとは一味も二味も違うし、Warp直系のエソテリックなメロディを被せた「Sugarette」と「Dwrcan」は、Bibioの友人でもあるクラークに感じるタテノリのリズムの物足りなさをヨコに組み替えるだけで、こんなに腰を落ち着けて聴けるのかと驚きます。スライを思わせるソウル・マナーの「Jealous Of Roses」は、この中ではやや異色。
これらブレイクビーツ主体の曲と対照的に、「Ambivalence Avenue」「Haikuesque」「Lovers' Carvings」、クラップが軽やかに打ち鳴らされブラジル音楽とイギリスの田園が思い浮かぶフォークが溶け合った3曲は、Bibioの歌モノとしては現時点で最高の出来映えだと思います。Bibioつながりで高橋健太郎さんにTwitter経由でArthur Verocaiのことを教えていただいたのも、2009年っぽい出来事として印象に残っています。
http://www.myspace.com/musicabibio
'Moscow Dub' & 'Sick House 2' by Killer Bong
たぶん、ブレイクビーツに関してはそれなりに聴いてきた方だと思います。良くも悪くも酒や煙草のように嗜好品として体に染みついてしまってるのかもしれません(煙草は吸いませんが・・)。マッドリブやジェイ・ディー以降、ご他聞にもれずフライング・ロータスやハドソン・モホーク(新作でDam Funkとコラボしたのはうれしい誤算)なんかを追いつつ、それらともまた違うKiller Bongのロウキーな辺境系ブレイクビーツに、遅ればせながらハマりました。紛れもなくアンダーグラウンドな音ですが、狭いサークルで聴かれるのがもったいない気もします。特に、ハウスを取り入れたこの2作品がお気に入りで、「Moscow Dub」はビル・ラズウェルのような先行世代のヘヴィさを程よく中和し、「Sick House 2」はクリック・ハウスやポールのようなベルリン・ダブを完全にモノにしています。去年の正月は、「Sweet Dreams」の原稿のためにSublime Frequenciesレーベルのマージナルな民俗音楽を集中的に聴くという貴重な体験をしたんですが、後半にKiller Bongを聴いて、自分の中で一本の線がつながった気がします。
http://www.powershovelaudio.com/album/xqbp1016/
'Balance' by 砂原良徳
ここ数年、鬱だと噂されていた沈黙期間を経て、昨年復活を遂げたこと自体がとてもうれしいニュースでした。これはその復活を告げるサントラではなく、2002年の「Lovebeat」に入っている曲。波のようなシークエンス、マントラのように唱えたくなる(笑)「Balance, Difference, Flat, Oneself」と繰り返す無機質なヴォイス、5分あたりから聴こえるエアリーで温かいシンセにギュッと鷲掴みされます。クラフトワーキアン砂原による鎮痛剤サウンドには、個人が20世紀的なエゴの重力から解き放たれ、フラットな時空に浮いている、そんなイメージもあり、2010年代/並行世界/Twitter時代を先読みしているようです。外に出かける時、iPhoneでたぶん去年一番よく聴いた、自分にとっての精神安定剤でした。YouTubeで砂原良徳を検索すると真っ先に出てくる、庵野秀明「ラブ&ポップ」とのマッシュアップ、音と映像のミスマッチぶりが妙にツボに入る出来だったので貼っておきます(イントロ部分は原曲に付け足したもの)。
2009年・個人的にお世話になった音楽BEST 6-11
2009年・個人的にお世話になった音楽BEST 10+1
年間ベストみたいなまとめが苦手な移ろいやすい人間で、ゼロ年代総括なんて現時点ではとてもムリなので(ゼロ年代ってこんなのもあったんだ!と今頃発見してる最中でもあり)、2009年、ヘヴィロテだったり心に残った音楽、未来を感じた音楽を書いてみます。日に日にクラブ・ミュージック的なものからは遠ざかりつつありますが、こうして並べると、基本はジャンクでポップな変態音楽が好きなんだなと改めて再認識。ホントは固有名詞ではなくて、TwitterとUstreamで形成されるプロもアマもごった煮状態になった公共圏の盛り上がりが2009年一番ホットだった、と掛け値なしに思います。
BEST 6 - 11(*順不同)
'Ensembles '09' by 大友良英 at 旧フランス大使館/「No Man's Land」展 2009.12.27
Twitter的な非同期ライヴ。モダニズムな建築空間との対話。2009年最後にやっと観れました。
http://www.ima.fa.geidai.ac.jp/memento/event.htm
http://www.ensembles.jp/
'Nobody (River Of Tin)' by Scott Tuma
こんな声を聴いたことはない気がします。ノーマンズランドに佇むノーバディの音楽。
http://www.myspace.com/scotttuma
'High With A Little Help From' by Carlos Niño & Friends
羊水の中に浸るような不定形のアモルファスなアンビエンス。とにかく良い音、良い響きが詰まっています。
http://bls-act.co.jp/music/1809
'アワーミュージック' by 相対性理論 × 渋谷慶一郎
リリースは今年1月だけど、12月に先行配信されたので無理矢理入れました。たとえそれが並行世界の地獄巡りだとしても未来に進むしかない、という決意表明、もしくは「時かけ」の音楽版のようにも聞こえます。
'People' by Radiq
デトロイト・ハウスそのままじゃないかという見方もあるでしょうが、なるべく遠くに直球を投げることの方がハードルが高いと思います。半野喜弘の黒人音楽サイドの集大成。「Movements (Live In 1978)」「Life On The Ghetto Street」が好きです。
http://www.myspace.com/radiq
'ロックとロール (Yasterize MIX)' by やけのはら
熱いです。真っすぐです。清々しいです。等身大のカッコつけないヒップホップ。曽我部恵一のROSE RECORDSのコンピ「Perfect! -Tokyo Independent Music-」収録曲。下記リンクのライヴ・ヴァージョンも熱い。
http://www.dax.tv/?item=2849
年間ベストみたいなまとめが苦手な移ろいやすい人間で、ゼロ年代総括なんて現時点ではとてもムリなので(ゼロ年代ってこんなのもあったんだ!と今頃発見してる最中でもあり)、2009年、ヘヴィロテだったり心に残った音楽、未来を感じた音楽を書いてみます。日に日にクラブ・ミュージック的なものからは遠ざかりつつありますが、こうして並べると、基本はジャンクでポップな変態音楽が好きなんだなと改めて再認識。ホントは固有名詞ではなくて、TwitterとUstreamで形成されるプロもアマもごった煮状態になった公共圏の盛り上がりが2009年一番ホットだった、と掛け値なしに思います。
BEST 6 - 11(*順不同)
'Ensembles '09' by 大友良英 at 旧フランス大使館/「No Man's Land」展 2009.12.27
Twitter的な非同期ライヴ。モダニズムな建築空間との対話。2009年最後にやっと観れました。
http://www.ima.fa.geidai.ac.jp/memento/event.htm
http://www.ensembles.jp/
'Nobody (River Of Tin)' by Scott Tuma
こんな声を聴いたことはない気がします。ノーマンズランドに佇むノーバディの音楽。
http://www.myspace.com/scotttuma
'High With A Little Help From' by Carlos Niño & Friends
羊水の中に浸るような不定形のアモルファスなアンビエンス。とにかく良い音、良い響きが詰まっています。
http://bls-act.co.jp/music/1809
'アワーミュージック' by 相対性理論 × 渋谷慶一郎
リリースは今年1月だけど、12月に先行配信されたので無理矢理入れました。たとえそれが並行世界の地獄巡りだとしても未来に進むしかない、という決意表明、もしくは「時かけ」の音楽版のようにも聞こえます。
'People' by Radiq
デトロイト・ハウスそのままじゃないかという見方もあるでしょうが、なるべく遠くに直球を投げることの方がハードルが高いと思います。半野喜弘の黒人音楽サイドの集大成。「Movements (Live In 1978)」「Life On The Ghetto Street」が好きです。
http://www.myspace.com/radiq
'ロックとロール (Yasterize MIX)' by やけのはら
熱いです。真っすぐです。清々しいです。等身大のカッコつけないヒップホップ。曽我部恵一のROSE RECORDSのコンピ「Perfect! -Tokyo Independent Music-」収録曲。下記リンクのライヴ・ヴァージョンも熱い。
http://www.dax.tv/?item=2849
2010/01/25
B級の一流キャメロンによる異世界観光映画
ジェームズ・キャメロン監督の「アバター」を川崎のIMAXシアターで観ました。(以下、全面ネタバレ)
前後に、ぼんやりした記憶しか残ってない「ターミネーター」と「ターミネーター2」、初見の「エイリアン2」を観て、処女作と未だに観る気が起きない「タイタニック」を除き、おおよそキャメロンの過去作を観た素朴な感想としては、この人は「B級の一流」なんだな、です。
Bムーヴィーの帝王、ロジャー・コーマンの下でキャリアをスタートという出自もそうだし、レイ・ハリーハウゼンばりの安っぽいストップモーション・アニメでロボットがしつこく襲ってくる「ターミネーター」ラストのチェイスは、低予算ならではの限定された条件・状況下において、ショックとカタルシスを観客からいかに絞り出すかという、エンタメの極意が過不足なく駆動したシーンとして脳裏に刻まれています。
多くのB級映画の傾向がそうであるように、キャメロンもブルーカラーの労働者を描くことを好み、ホワイトカラーには無頓着というか冷たく、また、白人至上主義の無自覚な露呈も見受けられます。「ターミネーター」の主要人物は白人のみだし、サラ・コナーはダイナーでウェイトレスとして働く承認欲求を抱えた女の子、「テクノアール」という80年代ニューウェイヴな混血音楽の匂いを漂わせる名前のクラブでかかってる音楽は黒人ディスコやジャングルビートなどではなく、ビルボードチャート系の軽めのダンスロック。ちなみに、サラ・コナーの女友達が持つウォークマンが当時の世相を表す享楽主義、物質主義のアイコンとしてうまく機能しています(いかにもホラー/サスペンスの定石っぽい小道具使いですが)。
「ターミネーター2」では、暗澹たる未来社会を支配するスカイネットを生み出す直接の因子であるダイソンは、富裕層に属する黒人のコンピュータ技術者でした。彼とその家族は物語のキーを握る重要な存在でありながら、かなり邪険に扱われていて、ダイソンはサラ・コナーから頭脳労働者であることを罵られさえします。家族想いの善人の技術者が自身の研究に没頭するあまり、人類の最悪の未来を意図せず作り出したというアイロニーを描きたいのだろうと脳内補完できますが、ダイソンは影の薄い脇役としてあっけない最期を遂げ、物語内でサルベージされることはありません。
「エイリアン2」においても、海兵隊の中で唯一の黒人は葉巻を吸う単細胞なリーダーとしてステレオタイプ的に描かれ、真っ先にエイリアンに殺されてしまいます。シガニー・ウィーバー演じるリプリーは、前作と異なり、サラ・コナーやマザーエイリアンと同じく、生存本能と母性原理により行動するマッチョで力強い女性として書き換えられています。パワーローダーに乗ったリプリーとマザーエイリアンがプロレスするという一見して間抜けな絵ヅラは、1/4スケールと実物大ショットのモンタージュによるアナログな力技によって、いま観ても映像的快楽をはらんでいます。マザーエイリアンに足をつかまれたリプリーという危機一髪の場面でリプリーのブーツが脱げて(!)エイリアンが宇宙に放下されるというのもB級の味わい。
まぁ細かいツッコミはいくらでも出来ますが、キレイに刈り込まれ整理された人物設定とプロット、お約束の物語を長丁場でキッチリ盛り上げまとめ上げるオーソドックスな演出手腕こそが、キャメロンの真骨頂なんだと思います(監督の趣味である海洋世界にアプローチした「アビス」は冗長でしたが)。
「アバター」は3D技術を新たなドル箱たらしめるためにハリウッドが資金投入したデモンストレーション映画でもあるので、ぶどう酒を新しい皮袋に入れるために、ぶどう酒自体は昔ながらのストーリーテリングに準じていて、冒険はしていません。キャメロンがスマートかつ狡猾だなぁと思うのは、異世界=ニューワールドの資源を略奪しようとする企業や海兵隊の存在など、出世作である「エイリアン2」の設定をソックリそのまま「アバター」に持ってきて、白人が主導権を握る人類側ではなく、アフリカンとインディアンを足して2で割ったようなルックで有色人種のメタファーであるナヴィ側に観客が共感できるように、エイリアンと人類の配置を反転させ、自身の過去作が持っていたマーケティング的にマズいであろう白人至上主義を払拭し、グローバリズム/マルチ・エスニシティな社会に対応したところだと思います(2010年代の現在であっても、超国家・超法規的存在を体現するのが一企業であるというのはちょっと短絡的で想像力が足りない気はしますよね・・)。
それは、近代兵器を持った人類が近代兵器を持たないエイリアンに駆逐される「エイリアン2」から、近代兵器を持った人類が近代兵器を持たないナヴィを駆逐する「アバター」へ、という転換も意味します。また、ホワイトカラーを貶めるという愚を犯さず、アバターの技術を持つ科学者チームを物語の中心に据え、そのトップであるグレイス博士にリプリーまんまの容姿と性格を持つシガニー・ウィーバーを持ってくるという用意周到さ。海兵隊出身の主人公ジェイクはブルーカラーであると同時に下半身不随の身体障害者で、冒頭でアバター使いの優秀な科学者だった兄が死に、その身代わりとして彼が惑星パンドラに派遣されることがわかります。彼は二重の意味でアバター=分身なのです(兄の遺体が入った棺のショットと、ジェイクがアバターと接続するマシンのショットが 同じ構図であることからも、それは伺えます)。「エイリアン2」でも、地球に残してきたリプリーの娘はすでに死んでいて、リプリーはエイリアンの惑星で生き残った少女ニュートに娘の不在を埋めるように感情同調していく過程がストーリーの要になっていました。違うのは、ジェイクは兄が使っていたアバターと即座に何の齟齬もなく同期することで、兄より劣っているというトラウマ克服は工学的にいとも簡単に成し遂げられてしまいます。
町山智浩は「アバター」の人物造形を「浅い」「子供っぽい」と評してます。たしかに類型的でゲーム的なキャラクターばかりなのですが、上記で挙げたように、「アバター」では「エイリアン2」のモチーフやキャラクター設定が反復され反転して、商品として時代の要請にフィットするために巧妙な操作が仕組まれています。ジェイクと兄のエピソードが示すように、キャメロンは、キャラクター同士の関係性の変化をプロセスとしてじっくり描くことに今回ほとんど注力していないと思います。ジェイクとネイティリの恋愛も、ジェイクが二転三転しつつもナヴィに受け入れられる下りも、他者とのコミュニケーションの困難とその超克といった方向には行かず、アッサリと成立してしまう(それぞれの理由づけは物語内でちゃんと説明されています)。
敵としてのターミネーターやエイリアンがコミュニケーション自体を拒否する圧倒的な他者だったのに対し、ナヴィはアバターで簡単にアクセスできるコミュニケーション容易な亜人類であり、越境や超克という厳しいドラマはここでは主題ではなくなります。キャラクターの関係性として例外的なのは、グレイス博士がジェイクのために作る食事の皿が何度も登場することで、ジェイクがナヴィの世界に没入していく過程と、彼の代理母的存在であるグレイス博士との間に次第に家族愛が芽生える過程が、同時進行で描かれます。ジェイクとナヴィとの関係では食事をすることで絆を深めるというシーンがほとんどないので、これはキャメロンによる母性愛信仰の告白のようにも見えてしまいます。グレイスの死によって人類側の保護者を失ったジェイクは、ナヴィとして生きることを選択します。
観客にストレスフリーに感情移入できるようキャラクターを単純化/様式化する代わりに、キャメロンは異世界のヴィジュアライゼーションに膨大なリソースを割いています。森や空に浮かぶ島々を移動する、歩く、走る、上る、下る、飛ぶといったアクションと共に風景が3DCGとして刻々と展開されていく稠密な情報量は、量がある水準を超えると質に転換するということを実感させます。CGを全面的に取り入れたSF映画として先行する「スター・ウォーズ エピソード1/2/3」でも、風景がメインに映る俯瞰のパンショットはほんの数秒、残りの大半のパートは人物+セットにCGがハメこまれるという平面的で書き割り的なレイアウトだったので、ここまで異世界の中に「いる」ことを体感させる映画は初めてかもしれません。「WETAってILM超えちゃったなー」って思ったりも。
あとは、宮崎駿のエレメントの咀嚼も目立ちます。ジェイクがナヴィの通過儀礼としてパンドラの鳥類イクランの巣を訪ねる一連のシーンに顕著ですが、キャメロンの過去作ではあまりなかった、高さを意識したタテの空間設計に特に宮崎を感じました(どうでもいいですが、最後の方でデイダラボッチを出してくるかなと思いましたが、さすがに出ませんでしたね・・)。パワードスーツは「エイリアン2」に続き今回も登場してますが、「SFマガジン」のインタビューで、キャメロンがSF作家の中ではロバート・A・ハインラインが一番好きだ!と言ってたので、なるほど。とはいえ、ハインラインの「宇宙の戦士」を下世話な悪夢としてリファインしたポール・バーホーベンの「スターシップ・トゥルーパーズ」と違い、キャメロンはバーホーベンほどバカに振り切れない優等生っぷりで、しかし、ウェルメイドなファンタジーに魅力的な記号を整然と散りばめ、伏線を回収していく手つきは大したものだと思います。
ジェイクがアバターとして生きることを選ぶという、「行きて帰りし物語」ではなく行きっぱなしで終わるというラストは、ハッピーエンドのようでそうではないというか、半身不随で生きる現実を捨てて、自由に幸福に生きられるもうひとつの現実、我々観客からすればゲーム内仮想現実にも見える世界に没入することを選択するわけで、夢から醒めないことをあえて選ぶというバッドエンドにも感じました。これがインテリのコッポラなら、ジャングルの「闇の奥」で自分探しに奮闘した挙げ句、自分が何者でもないこと、越境して自分の王国を構築するという高踏的で審美主義的なふるまいがいかに醜い自己欺瞞に過ぎないのかということを3時間かけて発見するわけですが、B級出身で大衆映画の権化であるキャメロンはそんな優雅なエリートの自分探しなんてコストかかるしキツくてやってらんないよと。だったら安全で洗練された居心地いい虚構空間を作って自由を満喫したり自己実現すればいいのであって、でもその没入にもそれなりに危険は伴うし、帰ってこれないこともあるからアットユアオウンリスクでよろしく。「そんなのヌルいじゃん!SF映画の本格を目指すならキツくても他者を描けよ!」って思う人は、春公開の「ディストリクト9(邦題:第9地区)」を観るべきかもしれませんね。
・・・ということで、4千字超えちゃって「何やってんだろ俺」状態になってますが、「B級の一流」キャメロンによる異世界観光映画としての濃度はたしかにあった、というのが今回の結論です。
前後に、ぼんやりした記憶しか残ってない「ターミネーター」と「ターミネーター2」、初見の「エイリアン2」を観て、処女作と未だに観る気が起きない「タイタニック」を除き、おおよそキャメロンの過去作を観た素朴な感想としては、この人は「B級の一流」なんだな、です。
Bムーヴィーの帝王、ロジャー・コーマンの下でキャリアをスタートという出自もそうだし、レイ・ハリーハウゼンばりの安っぽいストップモーション・アニメでロボットがしつこく襲ってくる「ターミネーター」ラストのチェイスは、低予算ならではの限定された条件・状況下において、ショックとカタルシスを観客からいかに絞り出すかという、エンタメの極意が過不足なく駆動したシーンとして脳裏に刻まれています。
多くのB級映画の傾向がそうであるように、キャメロンもブルーカラーの労働者を描くことを好み、ホワイトカラーには無頓着というか冷たく、また、白人至上主義の無自覚な露呈も見受けられます。「ターミネーター」の主要人物は白人のみだし、サラ・コナーはダイナーでウェイトレスとして働く承認欲求を抱えた女の子、「テクノアール」という80年代ニューウェイヴな混血音楽の匂いを漂わせる名前のクラブでかかってる音楽は黒人ディスコやジャングルビートなどではなく、ビルボードチャート系の軽めのダンスロック。ちなみに、サラ・コナーの女友達が持つウォークマンが当時の世相を表す享楽主義、物質主義のアイコンとしてうまく機能しています(いかにもホラー/サスペンスの定石っぽい小道具使いですが)。
「ターミネーター2」では、暗澹たる未来社会を支配するスカイネットを生み出す直接の因子であるダイソンは、富裕層に属する黒人のコンピュータ技術者でした。彼とその家族は物語のキーを握る重要な存在でありながら、かなり邪険に扱われていて、ダイソンはサラ・コナーから頭脳労働者であることを罵られさえします。家族想いの善人の技術者が自身の研究に没頭するあまり、人類の最悪の未来を意図せず作り出したというアイロニーを描きたいのだろうと脳内補完できますが、ダイソンは影の薄い脇役としてあっけない最期を遂げ、物語内でサルベージされることはありません。
「エイリアン2」においても、海兵隊の中で唯一の黒人は葉巻を吸う単細胞なリーダーとしてステレオタイプ的に描かれ、真っ先にエイリアンに殺されてしまいます。シガニー・ウィーバー演じるリプリーは、前作と異なり、サラ・コナーやマザーエイリアンと同じく、生存本能と母性原理により行動するマッチョで力強い女性として書き換えられています。パワーローダーに乗ったリプリーとマザーエイリアンがプロレスするという一見して間抜けな絵ヅラは、1/4スケールと実物大ショットのモンタージュによるアナログな力技によって、いま観ても映像的快楽をはらんでいます。マザーエイリアンに足をつかまれたリプリーという危機一髪の場面でリプリーのブーツが脱げて(!)エイリアンが宇宙に放下されるというのもB級の味わい。
まぁ細かいツッコミはいくらでも出来ますが、キレイに刈り込まれ整理された人物設定とプロット、お約束の物語を長丁場でキッチリ盛り上げまとめ上げるオーソドックスな演出手腕こそが、キャメロンの真骨頂なんだと思います(監督の趣味である海洋世界にアプローチした「アビス」は冗長でしたが)。
「アバター」は3D技術を新たなドル箱たらしめるためにハリウッドが資金投入したデモンストレーション映画でもあるので、ぶどう酒を新しい皮袋に入れるために、ぶどう酒自体は昔ながらのストーリーテリングに準じていて、冒険はしていません。キャメロンがスマートかつ狡猾だなぁと思うのは、異世界=ニューワールドの資源を略奪しようとする企業や海兵隊の存在など、出世作である「エイリアン2」の設定をソックリそのまま「アバター」に持ってきて、白人が主導権を握る人類側ではなく、アフリカンとインディアンを足して2で割ったようなルックで有色人種のメタファーであるナヴィ側に観客が共感できるように、エイリアンと人類の配置を反転させ、自身の過去作が持っていたマーケティング的にマズいであろう白人至上主義を払拭し、グローバリズム/マルチ・エスニシティな社会に対応したところだと思います(2010年代の現在であっても、超国家・超法規的存在を体現するのが一企業であるというのはちょっと短絡的で想像力が足りない気はしますよね・・)。
それは、近代兵器を持った人類が近代兵器を持たないエイリアンに駆逐される「エイリアン2」から、近代兵器を持った人類が近代兵器を持たないナヴィを駆逐する「アバター」へ、という転換も意味します。また、ホワイトカラーを貶めるという愚を犯さず、アバターの技術を持つ科学者チームを物語の中心に据え、そのトップであるグレイス博士にリプリーまんまの容姿と性格を持つシガニー・ウィーバーを持ってくるという用意周到さ。海兵隊出身の主人公ジェイクはブルーカラーであると同時に下半身不随の身体障害者で、冒頭でアバター使いの優秀な科学者だった兄が死に、その身代わりとして彼が惑星パンドラに派遣されることがわかります。彼は二重の意味でアバター=分身なのです(兄の遺体が入った棺のショットと、ジェイクがアバターと接続するマシンのショットが 同じ構図であることからも、それは伺えます)。「エイリアン2」でも、地球に残してきたリプリーの娘はすでに死んでいて、リプリーはエイリアンの惑星で生き残った少女ニュートに娘の不在を埋めるように感情同調していく過程がストーリーの要になっていました。違うのは、ジェイクは兄が使っていたアバターと即座に何の齟齬もなく同期することで、兄より劣っているというトラウマ克服は工学的にいとも簡単に成し遂げられてしまいます。
町山智浩は「アバター」の人物造形を「浅い」「子供っぽい」と評してます。たしかに類型的でゲーム的なキャラクターばかりなのですが、上記で挙げたように、「アバター」では「エイリアン2」のモチーフやキャラクター設定が反復され反転して、商品として時代の要請にフィットするために巧妙な操作が仕組まれています。ジェイクと兄のエピソードが示すように、キャメロンは、キャラクター同士の関係性の変化をプロセスとしてじっくり描くことに今回ほとんど注力していないと思います。ジェイクとネイティリの恋愛も、ジェイクが二転三転しつつもナヴィに受け入れられる下りも、他者とのコミュニケーションの困難とその超克といった方向には行かず、アッサリと成立してしまう(それぞれの理由づけは物語内でちゃんと説明されています)。
敵としてのターミネーターやエイリアンがコミュニケーション自体を拒否する圧倒的な他者だったのに対し、ナヴィはアバターで簡単にアクセスできるコミュニケーション容易な亜人類であり、越境や超克という厳しいドラマはここでは主題ではなくなります。キャラクターの関係性として例外的なのは、グレイス博士がジェイクのために作る食事の皿が何度も登場することで、ジェイクがナヴィの世界に没入していく過程と、彼の代理母的存在であるグレイス博士との間に次第に家族愛が芽生える過程が、同時進行で描かれます。ジェイクとナヴィとの関係では食事をすることで絆を深めるというシーンがほとんどないので、これはキャメロンによる母性愛信仰の告白のようにも見えてしまいます。グレイスの死によって人類側の保護者を失ったジェイクは、ナヴィとして生きることを選択します。
観客にストレスフリーに感情移入できるようキャラクターを単純化/様式化する代わりに、キャメロンは異世界のヴィジュアライゼーションに膨大なリソースを割いています。森や空に浮かぶ島々を移動する、歩く、走る、上る、下る、飛ぶといったアクションと共に風景が3DCGとして刻々と展開されていく稠密な情報量は、量がある水準を超えると質に転換するということを実感させます。CGを全面的に取り入れたSF映画として先行する「スター・ウォーズ エピソード1/2/3」でも、風景がメインに映る俯瞰のパンショットはほんの数秒、残りの大半のパートは人物+セットにCGがハメこまれるという平面的で書き割り的なレイアウトだったので、ここまで異世界の中に「いる」ことを体感させる映画は初めてかもしれません。「WETAってILM超えちゃったなー」って思ったりも。
あとは、宮崎駿のエレメントの咀嚼も目立ちます。ジェイクがナヴィの通過儀礼としてパンドラの鳥類イクランの巣を訪ねる一連のシーンに顕著ですが、キャメロンの過去作ではあまりなかった、高さを意識したタテの空間設計に特に宮崎を感じました(どうでもいいですが、最後の方でデイダラボッチを出してくるかなと思いましたが、さすがに出ませんでしたね・・)。パワードスーツは「エイリアン2」に続き今回も登場してますが、「SFマガジン」のインタビューで、キャメロンがSF作家の中ではロバート・A・ハインラインが一番好きだ!と言ってたので、なるほど。とはいえ、ハインラインの「宇宙の戦士」を下世話な悪夢としてリファインしたポール・バーホーベンの「スターシップ・トゥルーパーズ」と違い、キャメロンはバーホーベンほどバカに振り切れない優等生っぷりで、しかし、ウェルメイドなファンタジーに魅力的な記号を整然と散りばめ、伏線を回収していく手つきは大したものだと思います。
ジェイクがアバターとして生きることを選ぶという、「行きて帰りし物語」ではなく行きっぱなしで終わるというラストは、ハッピーエンドのようでそうではないというか、半身不随で生きる現実を捨てて、自由に幸福に生きられるもうひとつの現実、我々観客からすればゲーム内仮想現実にも見える世界に没入することを選択するわけで、夢から醒めないことをあえて選ぶというバッドエンドにも感じました。これがインテリのコッポラなら、ジャングルの「闇の奥」で自分探しに奮闘した挙げ句、自分が何者でもないこと、越境して自分の王国を構築するという高踏的で審美主義的なふるまいがいかに醜い自己欺瞞に過ぎないのかということを3時間かけて発見するわけですが、B級出身で大衆映画の権化であるキャメロンはそんな優雅なエリートの自分探しなんてコストかかるしキツくてやってらんないよと。だったら安全で洗練された居心地いい虚構空間を作って自由を満喫したり自己実現すればいいのであって、でもその没入にもそれなりに危険は伴うし、帰ってこれないこともあるからアットユアオウンリスクでよろしく。「そんなのヌルいじゃん!SF映画の本格を目指すならキツくても他者を描けよ!」って思う人は、春公開の「ディストリクト9(邦題:第9地区)」を観るべきかもしれませんね。
・・・ということで、4千字超えちゃって「何やってんだろ俺」状態になってますが、「B級の一流」キャメロンによる異世界観光映画としての濃度はたしかにあった、というのが今回の結論です。
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