2008/02/20

Warm White Winter

"Warm White Winter 2008"

01 Usual Morning Sun - DJ Amagumo
02 Smile - Super Smoky Soul
03 Dilla Says Go - J Dilla Jay Dee
04 Walkinonit - J Dilla Jay Dee
05 Massage Situation - Flying Lotus
06 Gravity - Da Bush Babees
07 Fancy Clown - Madvillain Feat. Viktor Vaughn
08 Make The Music With Your Mouth, Biz - Biz Markie
09 DJ Premier In Deep Concentration - Gang Starr
10 Levels - Anomaly
11 End Of The Night - Spencer Doran
12 After The Rain - Mute Beat
13 Living In A Town - Shots
14 Could It Be I'm Falling In Love - Home T-4
15 New Love - 曽我部恵一
16 Love Has Come Around [12" Version] - Donald Byrd And The 125Th Streeet, Nyc
17 Daylight - Ramp
18 From The Darkness To The Light - Sa-Ra

ネタ感の強いヴォーカル・サンプリングの哀愁系ヒップホップから、ミュート・ビートの名曲をはさんで、レゲエ、ソウルへとメロウ一辺倒。今年の寒い冬にも心を折らずに温かく過ごす、というのがテーマ。東京から大阪に転居する若い友人のために作ったコンピ。

たぶん忘れ去られているだろう藤井悟と松岡徹のThe Shotsは部屋を掃除したら出てきた。いま聴くと、日本のクラブ・ミュージック創世記ならではの、真っ直ぐで衒いのない表現にグッとくる。この曲は甘酸っぱいフィーリングのポップ・レゲエで隠れた名曲。スライ&ロビーによるスピナーズのカバー「Could It Be I'm Falling In Love」も爽やかなラヴァーズ。曽我部恵一は遠い存在だったのだが、昨年、ソロ・アルバムを何枚か聴いて、そのソング・ライティング力に舌を巻いた。「Radio Sound Painting」でもかけたこの曲は、「さまよっている まよっている 大事なものをなくした 大事なことを忘れた ぼくはそれを見つけよう ぼくはそれを隠そう」と、失ったものを求めてさまよう魂の彷徨をシンプルな歌詞で言い当てる「文芸レアグルーヴ」。ドナルド・バードは「Journey Into Paradise: The Larry Levan Story」収録曲。このCDで改めてChangeの素晴らしさ&ヴォーカルのヌケの良さに気づいた。Rampは言うまでもなくトライブ・コールド・ウエストの元ネタ。Sa-Raは昨年リリースされたデビュー・アルバムより、それまでの仕事と既成曲をギュウギュウに詰め込んだ「Dark Matter & Pornography Mixtape Vol.30」が好きだ。Sa-Ra、Flying Lotus、Eliot Lippなど、Jay Dee以降のクォンタイズしないビーツとシンセ・ファンクだけを一度まとめてみたいと思っている。

シブヤとレコヤの回顧録

昨年末、シスコが実店舗を閉鎖して通販オンリーになり、イエローが今年前半に閉店する。東京のレコード屋とクラブを代表する2つが消えてしまうわけで、クラブ・ミュージックやダンス・ミュージックを享受してきた誰もがある種の感慨にとらわれるように、僕も「90年代は終わったのだ」とゼロ年代末にようやくハッキリと認識させられたのだった。もちろん、ゼロ年代に入ってから、その兆候はあった。10年単位で時代を括ることはもともとナンセンスな識別法だし、少しづつ変化していたことに、ある日突然「そうだったのだ」と気づかされるということなのだろう。

渋谷では、自分が知る限りでも、ここ数年で、「バナナ・レコーズ」(公園通り沿い、今のGAPの向かい側)、「スタイラス(STYRUS)」(東急本店と井の頭通りを結ぶ通り、プロダクト・デザイナーの吉岡徳仁が内装を手がけた、ガラス張りの小ギレイな店)、「マンハッタン・レコーズ・ハウス」(同ヒップホップ店の隣、自分は足を踏み入れたことがない)、「スパイス・レコーズ」(クアトロの何軒か先)、映画音楽専門店の「すみや」(青山通りと六本木通りが交差するところ)が閉店している。豊富な中古を中心に扱う「ディスク・ユニオン」が、結果的に新譜中心の輸入レコード屋に比べて安泰で息が長いという印象もある。

僕にとって、デトロイト・ハウスをいち早く紹介した「バロン・レコーズ」(タワーの近く、昔ビームスが入っていたビルのそば)、エレクトロニカ中心に、ハウス、ブレイクビーツ、アブストラクトとオールラウンドに渋く揃えていた「デモデ・レコーズ(Demode Records)」(センター街の端、同ビルにMUROの「SAVAGE」がある)、マンハッタン系列の「HOT WAX」(「シスコ・テクノ」の上、隣の「マンハッタン3」も同時期に閉店)がなくなったあたりで、渋谷宇田川町レコ村から少しづつ足が遠のいていった。この3店は個人的にも思い出が深い。レコ屋の店員さんと仲良くなって会話を楽しみながら情報交換する、ということが生活の中心だったのもこのあたりまでだった。すでにそこから10年近く経つのだと思うと時の流れは恐ろしい。そういえば、「ラフ・トレード(Rough Trade)」(西新宿の店を畳んで、レコ屋村から離れたキャット・ストリート沿いに店を構えた、いつ行っても閑散としていた)もあった。

さかのぼると、「タワー・レコーズ(Tower Records)」(最初は宇田川町の一番ひっこんだところ、現サイゼリアがある場所にあった)、「WAVE」(クアトロがビル丸ごとWAVEで、さらに公園通りに面した「WAVE渋谷ロフト館」もあった)、「HMV」(現在のセンター街入り口に移転する前は、同じ通りの奥、旧ブック・ファーストの隣のパチンコ屋の場所にあった)、ハウスとヒップホップとテクノに分裂する前の「シスコ(CISCO)」(ヒップホップ店があった場所、クボタタケシがバイヤーをやっていた)、「シスコ・ロック・オルタナティブ店」(センター街のABCマートの斜向かい、正式な名称は忘れた、「ONSA」の庄内さんがバイヤーをやっていた)、「DMR」(現在地の近く、今は漫画喫茶が入っている角のビルの地下にハウス、ヒップホップ、ジャズの3店舗)、「HOT WAX」(センター街の突き当たり、古くからある喫茶店が一階にあるビルの地下)、それら大手の輸入レコード屋とは別に、イギリス人のジェームズ・P・ヴァイナーが作ったセレクト・ショップ系レコード屋の走りだった「Mr.BONGO」(井の頭通り、派出所の近く)。「渋谷系」と一括りにされてしまいそうな、90年代中期の渋谷レコ村の地勢図は、大まかに言うとこんな感じだった。

僕がテクノ専門誌「エレキング」で渋谷特集のライターをやらせてもらったのもこの頃で、DMR社長の岡本さん、まだ代官山にスタジオがあった渋谷FMの能登さん、Mr.BONGOの栗原大さんらに取材した。DMRがインテンショナリーズの内装デザインでお洒落にリニューアルし、「エサ箱」(と呼ばれるレコードが詰まった箱)がなくなって面出しオンリーになった頃、「ボンジュール・レコーズ」や「スパイラル・レコーズ」といったセレクト・ショップが頭角を現した頃から、何かが変質していったのだと思う。渋谷の風景はあの頃から大きく変わったかというと一見そうでもない。でも、平板な商業主義が跋扈(ばっこ)するストリートを抜け、ケモノ道のように点在するレコ屋を攻めていく、レイヤーとしてのシブヤはもうあまり可視化できない自分がいる。若い音楽ファンにはまた別のレイヤーが見えているのだろう。

今では信じられないかもしれないが、クラブと同様、レコード屋も一種の通過儀礼の場所だった。店員の態度はコワモテで、概ねフレンドリーとは言いがたく、馴染みのDJや客とパンピーの客ではあからさまに対応が違い、自分も随分と痛い目にあったものだった。普通に話せるようになるまでにはそれなりのエネルギーと時間とコストが必要だった。それでも、ネットショップで自分の好みが勝手に推測されて、似たような曲ばかりが無味乾燥に並ぶ便利さよりは、実店舗で買う不自由さの中に発見が潜んでいることの方が豊かだと思う。

ジャンルは違うが、裏原系のストリート・ファッションと独立系レコード屋は時期的にシンクロしている。どちらもアンダーグラウンドでローカルな情報発信基地で、裏原系が今、昔日の繁栄を失って衰退してきているのとレコード屋の撤退は、どこかでシンクロしているハズだ。トンガっていてアングラで独自のリテラシーで読み解いていく90年代的「カッコイイ」が、ゼロ年代は趨勢でなくなったということだと思う。

何はともあれ、数多(あまた)の音楽を教えてくれたこれらのレコード屋には改めて感謝したいと思う。


*DJ Drez X AzzurroのミックスCD「Flying Humanoid」を聴きながらこの文章を書きました。固有名詞などなるべく正確になるよう努めましたが、間違いがあるかもしれません。

リンク:「Oto.Hito.E.Kotoba 39 アフターアワーズ」
リンク:「Oto.Hito.E.Kotoba 06 ロンリーなシブヤ」

2008/02/07

一つのことを成し遂げる

こういう言葉がこの人から語られるというのが味わい深かったのでクリップ。


バカみたいな話ですが、ドラマ、映画の主人公、羨ましい。何か一つの事に一生懸命になり、一つの目的を成し遂げる。こういう事って、もうないですね。別に一生かけて成し遂げなくても良い。小さく言えば、深夜に1人でジグソーパズルを仕上げるくらいの達成感でも良いのかもしれない。でも、きっとその達成感の喜びって5分持たない。今から勉強して警察官になれるわけでもない、FBI捜査官になれるわけでもない。でも深夜のジグソーパズルじゃ物足りない。

何か面白い変化はないか?今までしたことがない事をしようと、1年前、大学に通いました。勉強って面白かった。先生の話を聞きながらノートを取る自分が面白かった。学生時代に勉強の面白さに気がつけば良かったのにな、、。そしたら、一生かけて何かを成し遂げる仕事につけてたかもしれない。そうなってたら、今頃もっと違うグチをこぼし、もっと大きな問題を抱え、もっとつまらない人生を歩んでいただろうとというのは理解してるけどね。



仕事も人生も生きてく環境も複雑怪奇でマルチでユビキタスで多重人格な自分なんてとっくに日常な僕らを代弁してるかのようです。

威張るな!

「人生を<半分>降りる」という本をナナメ読みしていたら(ナナメ読みなので、この本については感想は書けない。悲壮な決意を感じさせるタイトル&ネガティブな内容と、壮健で精気にあふれた野心家な風貌の著者写真を見比べて、その落差に驚いたことは書いておこう)、高橋源一郎が太宰治について書いた文章が引用されていた。「ものを書く人はそれだけで不正義である」。この一言にズキンと来る。ライターという職業についてザックリとあけすけに語っていて、ハンパ者のもの書きである自分の内にわだかまっていたものが氷解。またまた孫引きで恐縮だが、ネットに全文掲載されたページを見つけたのでクリップしておく。ココにも引用文アリ。


「威張るな!」      高橋源一郎  

太宰治の名作数多くあるなかで、ぼくがもっとも好むものは、「斜陽」でも「おさん」でも「トカトントン」でも「女生徒」でも「お伽草紙」でも「右大臣実朝」でも「桜桃」でもなく「親友交歓」というあまり知られぬ作品である。

≪昭和二十一年の九月のはじめに、私は、或る男の訪問を受けた。この事件は、ほとん.ど全く、ロマンチツクではないし、また、いつかうに、ジヤアナリスチックでも無いのであるが、しかし、私の胸に於いて、私の死ぬるまで消し難い痕跡を残すのではあるまいか、と思はれる、そのやうな妙に、やりきれない事件なのである。事件。しかし、やつぱり、事件といつては大袈裟かも知れない。私は或る男と二人で酒を飲み、別段、喧嘩も何も無く、さうして少くとも外見に於いては和気藹々裡に別れたといふだけの出来事なのである。それでも、私にはどうしても、ゆるがせに出来ぬ重大事のやうな気がしてならぬのである≫

戦火で罹災し、津軽の生家に転がりこんでいた太宰の下を訪れたのは、小学校時代の同級生で「親友」と称するひとりの農民であった。確かにその顔に見覚えがなくはないが、印象などほとんどなく、どこが「親友」なのか太宰にはさっぱりわからない。だが、とにかく男が「親友」であると主張しているのだからそうなのだろうと家に上げたら、さあたいへん。酒を呑ませろ、お前の嬶に酌をさせろ、配給の毛布をおれによこせ、と無礼のかぎりを尽くし、文学者おまえの作品はつまらねえぞと悪口雑言あびせかけ、酔つばらったあげく太宰秘蔵のウイスキーを強奪して、男は堂々帰ってゆく。

≪けれども、まだまだこれでおしまひでは無かつたのである。さらに有終の美一点が附加せられた。まことに痛快とも、小気味よしとも言はんかた無い男であつた。玄関まで彼を送つて行き、いよいよわかれる時に、彼は私の耳元で烈しく、かう囁いた。 「威張るな!」≫

この「威張るな!」のひとことには、太宰治という作家が文学に要求していたモラルのすべて凝縮している。だが、どのようなモラルなのか。いったい、この「威張るな!」はだれが、なんのために、だれに向かっていったことばなのか。太宰の書いたものを素直に読むなら、これは、或る作家の下を訪れた傍若無人な男が調子に乗って吐いた暴言である。太宰に悪いところは少しもない。因縁をつけ、ゆすりめいたことをしたあげく、捨てぜりふまで残す。むちゃくちゃだ。だが、太宰はそうは思わなかったことは冒頭の引用にある通り。それどころか、太宰は自分に向かって吐きだされた「威張るな!」を甘んじて受けているようにみえる。いや、それが絶対に正しいと信じてさえいるようにみえる。だが、それは富農出身のインテリたる太宰の貧農への原罪めいた感情の故ではない。

ものを書く人はそれだけで不正義である——作家太宰治のモラルはこのことにつきている。ものを書く。恋愛小説を書く。難解な詩を書く。だれそれの作品について壮大な論を書く。政治的社会的主張を書く。記事を書く。エッセーを書く。そして、文芸時評を書く。どれもみな、その内実はいっしょである。見よう見まねで、ものを読みものを書くことにたずさわるようになって数十年、ちんぴらのごとき作家のはしくれであるぼくがいやでも気づかざるをえなかったのはそのことだけである。もの書くということは、きれいごとをいうということである。あったかもしれないしなかったかもしれないようなことを、あったと強弁することである。自分はこんなにいいやつである、もの知りであると喧伝(けんでん)することである。いや、もっと正確にいうなら、自分は正しい、自分だけが正しいと主張することである。「私は間違っている」と書くことさ.え、そう書く自分の「正義」を主張することによって、きれいごとなのである。もの書く人はそのことから決して逃れられぬのだ。

太宰を訪れた「親友」は、もの書かぬ人の代表であった。それは読者ということさえ意味していない。もの読む人はすでに半ば、もの書く人の共犯であるからだ。もの書かぬ人は、もの書く人によって一方的に書かれるだけである。おまけにそれを読まないものだから、どんな風に書かれているのか知らぬ人である。もの書かぬ人はそのことを本能で知っているものだから、ひどく悲しくて、もの書く人の前に来て悪さをするのである。もの書く人である太宰は、もの書かぬ人の全身を使っての抗議に、ただ頭を下げるだけである。もの書く人太宰は、もの書くことの「正義」という名の不正義を知る数少ない作家である。だから、もの書かぬ人の乱暴狼籍(ろうぜき)にも文句をいわない。文句をいわれないから、もの書かぬ人はいっそう惨めな気持ちになる。「馬鹿帰れ!」とか、「お前は親友でもなんでもない!」とか、「ふざけるな!」とかいわれたなら、そのもの書かぬ人は救われる.のである。もの書く人が、単なるカッコつけの、正義面した、インチキくさい野郎であることが暴露され、そのことによってもの書かぬ人は安堵することができるからだ。だが、太宰はもの書かぬ人のいうことに唯唯諾諾と従うばかりである。そして、そのすべてを太宰が書くであろうことをもの書かぬ人も太宰も知っているのである。

では、なにも書かねばいいのか。それでは、もの書かぬ人を拒んだことになる。では、書けばどうなるのか。それでは、もの書く人がもの書かぬ人に対して作家個人の「正義」を押しつけたことになる。どちらを選んでも、救いはないのか。いや、ひとつだけあるのだ。それが、「威張るな!」のひとことである。もの書く人ともの書かぬ人は不倶戴天の敵同士である。そして、ふだんはそのことに気づかぬふりをしているのである。だが、「親友交歓」の中で、もの書く人ともの書かぬ人はそのことに徹底的に気づくのである。馬鹿なのはもの書く人の方である。なにをしていいのかわからぬのである。だからもの書かぬ人は先に「威張るな!」といったのである。それは「わかった」ということなのだ。「お前の立場を理解した」ということなのだ。「この溝は超えらぬ。だから、お前はいつでもその不正義を行使するがいい。おれは死ぬまで、お前のやることを見ているぞ」といっているのである。そのことをもの書く人にいえるのは、もの書く人の敵だけである。敵だけが「親友」になれるのだ。

ぼくたちは、その「敵」のことを「他者」ということばで表現している。そして、その敵に寄せる思いを、「他者への想像力」と呼んでいる。おのれの「正義」しか主張できぬ不遜なもの書きの唯一のモラルは「他者への想像力」である。だが、そのいいかたはすでにきれいごとであろう。必要なのは「威張るな!」のひとことである。最低のもの書きのひとりとして、ぼくはそのことを烈しく願うのである。文芸時評を読んでくださったみなさん、ありがとう。今回で終わりです。また、どこかでお会いしましょう。さよなら。 (「文学じゃないかもしれない症候群」所載 [朝日新聞社 1992年])


何かを書くということはこういうことで、こういう怖さを認識してないと書けない。僕がこのブログでエラそうにキレイゴトを垂れ流して、それをたまたま読んだ誰かを傷つけてしまうという可能性だってそうなのだ。言葉って厄介だ。それを重々胆に命じよう。

雑記

「真説 ザ・ワールド・イズ・マイン」付記。

絵について。新井英樹の絵は個人的には苦手である。ぶっちゃけ、スタイリッシュではなく泥臭いから。同じように「へうげもの」の山田芳裕の絵も好みが分かれるだろう。僕には、山田の絵はすんなり受け入れやすく、新井の絵は受け入れにくい。山田は、ある強弱を持ったペンによる描線がそのまま感情移入にダイレクトにつながるという、テヅカとオオトモの描線をミックスした浦沢直樹を筆頭にした日本の漫画の伝統的なラインからはややハズれるかもしれない。描線そのものは禁欲的でセクシーではないが、デザインとしてカッチリと整理されていて収まりがよく(生硬だとも言えるか?)、自分はそれを気持ちよいと感じる。新井の描線は、デザインとしてまとまるような性質のものではなく、スプラッターな殺人の描写も、あくまで目を反らせたくなるような不快な内臓感覚そのものを線に宿らせていて、その整理されてない描線が生理的に気持ち悪いということにつながるのだろう。新井はデュオニソス的、山田はアポロン的というか(そんな、オオゲサな話かどうかはともかく)。

リンク:漫棚通信ブログ版: 『ザ・ワールド・イズ・マイン』と『度胸星』

ユリイカの「荒木飛呂彦」特集と、スタジオ・ボイスの「少年ジャンプ」特集を読む。スタンスは違うとはいえ、かつての難解系サブカルの旗手だった両雑誌がほぼ同時に「少年ジャンプ」を取り上げるところがいまの時代だなぁと思う(ユリイカは以前から大友克洋や高野文子の特集をやっているが、それらはサブカルをアカデミックに語るといういつもの視点だった)。「少年ジャンプ」からも「荒木飛呂彦」からも遠いところに住む僕だが、個人的にはスタジオ・ボイスが面白かった。たしかに、90年代までは「少年ジャンプ」を仮想敵にするというのは、メジャー対マイナー/インディーという構図でインディーの方が作家にとって理想的な居場所であり単純にカッコイイ生き方なのだ云々という言説にとって、都合のいいものだったのだろうと想像する。しかし、いまではどうなのだろうか。そうした幻想はインターネットを始めとする情報の流通によってすっかり払拭されてしまい、そうした二項対立の問題設定自体が意味を為さないような世の中になってきている。いや、メジャーとインディーの線引きは資本やビジネスの規模からいっても可視化できるほどにハッキリあるのだが、話はそんなに単純じゃないことに誰もが気づいていて、その副作用として、どメジャーの存在にスポットライトが当てられるということなのだろう。

だいぶ前に読んだ「デスノート」では、「友情・努力・勝利」というジャンプが掲げる少年誌としてのテーゼが青年誌的なテコ入れによって反転していて、「友情・努力・勝利」がすでに動脈硬化に陥っている事実をおぼろげながら僕も感じたのだった。カウンターとしてのマイナーがメジャーに取り込まれる、あるいは相互補完/共生することによって両者が生き延びる。ルイ・ヴィトンがグラフィティのモノグラムを採用し、村上隆やリチャード・プリンスとコラボする。コレはどっちかというと特殊事例で、マーク・ジェイコブスが切れ者だというだけかもしれないが。マークとリチャード・プリンスとの共同作業は「ありえなさ」がちゃっかりヌケヌケと実現してしまっていることが単純に面白い。アーティなスノッブ趣味のかけらもないことが逆説的にファッションの「これをいいと思う」という成立基盤の虚実を浮かび上がらせていて、いいのだ。漫画の話からズレてきたのでこのへんで。

世界は僕のもの、と叫ぶこと

昨年読んで最もインパクトを受けた漫画が、新井英樹の「真説 ザ・ワールド・イズ・マイン」だった。

この漫画は、「デビルマン・コンプレックス(または、デビルマン症候群と勝手に名付けてみる)から派生した、カタストロフ=世界の崩壊を90年代的リアルの視点で描いた漫画」という風に読めると思う。そして、こうわかりやすく書いてしまうことで多くの事物を取りこぼしてしまう漫画でもある。この漫画に込められた甚大なエネルギーを文章で置換することは不可能なので、思いつくままにメモをしてみようと思う。

主人公は、モンとトシという大量無差別殺人者コンビ、彼らと行動を共にするマリア(と怪物ヒグマドン)。

モンは人間界からハズれた獣人である。モンが人間の住む世界から超越しているのは、内面描写がほとんどないことや、銃弾が当たらないということでもわかる。人間の(卑小な)価値観、道徳観、倫理観とはかけ離れた畏怖の対象であり、それゆえに「美しい」存在でもあるという描かれ方をされるアンチ・ヒーローのモンは、世界や人間を救う代わりに、世界や人間を破壊し尽くす。

「異能な者がその作品世界で不可侵領域にある(ので、決して死なない)」というのはヒーローものの約束事で、この漫画はそのルールをヒロイック・ファンタジーになりえない現実世界、東北の田舎に適用し、そこから生まれる矛盾をも作品のエネルギーに変換する。登場人物がみな地方語の東北弁でしゃべることが強力なフックになっている。

トシはモンとは対照的に卑小で卑屈な弱い人間であることを自覚し、だから、怪物然として人間の住む世界、つまり社会を軽々と踏み越えていくモンに憧れる。トシはどう頑張ってもモンにはなれないから、モンと友達になり、共同戦線を張る。どこまでも社会を逸脱していくモンに対し、トシは社会の圏内にからめとられたままで変わる(=超越する)ことができないために、最期はトシモンに愛する者を殺された人々の「正義」によって裁かれる。

マリアは正義感と友愛の情が深く、その情の深さゆえに(大人たちとは別に)人間の善なる部分を代表し、トシモンと接触する。マリアはモンに淡い恋心を抱くが、モンはマリアが寄って立つところの人間界の掟とは決して相容れない道義的に許されざる存在だから、その矛盾に引き裂かれる。その矛盾を引き受けることでマリアは(どちらの立場も肯定も否定もできずに)狂ってしまう。

最終巻(第5巻)の半ばで、マリアは死ぬ。マリアが死ぬことは、モンを抑止する力がなくなったこと、人を愛することで社会とつながるわずかな可能性をモンが失ってしまったことを意味する。マリアの死は、モン、モンと共振する怪物ヒグマドン、人間世界の三者が和解し、そこに調和がもたらされるチャンスが失われただけではなく(読者も作者もそんな生ぬるい大団円な結末を期待してないだろうが)、物語がバランスを崩して破綻してしまう危惧を抱かせる。ここで物語は一度、中断し、モンとヒグマドンは姿を消してしまう。

大量無差別殺人に対して社会が要請するのは殺人者に罪を認めさせ罰を与えること、つまりは「死」である。罪と罰が明示されることで、読者の住む現実世界の安全は保障され、反社会的でアンモラルな作品に身を委ねたという身も蓋もない快楽を棚上げすることができる。しかし、新井英樹はそういうありがちな選択をしなかった。最終巻の後半で、新井はこの作品が「現実に起こりうるカタストロフとそこで展開される人間模様を徹底的に無慈悲にリアリスティックに描いた作品」ではなく、「ホラ話」だと明かしている。

最終巻の後半、舞台は日本から世界へと移る。作品のスケールが大きくなるにつれ、作品の綻びは増す。ある特定の限定された場所で物語るがゆえに確保されたリアリティはなくなってしまう。そんなことは百も承知で作者は行けるところまで行く、のである。

再登場したモンは新興宗教の教祖さながら世界中のテロリストたちのカリスマになっている。そこに至るプロセスは十分に描かれているとは言えない。現実に大量無差別殺人者がカリスマとして崇められる可能性はほぼゼロだろうし、モンに対社会を相手に自分のカリスマ性を構築する知性はないと思う(その代わり、内面のない空っぽな人ほどカリスマとして祭り上げられる側面の方を採用しているのだろう)。野暮を言うなと、これは漫画であり、フィクションであり、その作品世界の内部で辻褄があっていれば、いや、多少辻褄があってなくても面白ければOKなのだ、ホラ話なんだからさ、という作者の声がする。

一方、ヒグマドンは捕らえられ、研究対象にされて、果ては太平洋に浮かぶ巨大な球体になって生命活動を停止する。なんだコリャ、と思うが、ヒグマドンとモンの道行きはシンクロしているので、このように類推できる。ここに至って、現実世界を極めてアンモラルなやり方で超克しようとした殺人者が、どこかリアルさを欠いた非現実、TVスクリーンの向こう側のカリスマになってしまうことで去勢されてしまう。同様に、超自然的な未知のモンスターだったヒグマドンも、白日の元にさらされ、「生きもの」から「もの」へと化すことで去勢されてしまう。

どちらも、人間世界から屹立する強靭な「個」(=ヒーローとしての属性であり絶対条件)であることをやめ、凶暴な野性と神秘性を失い(テロリストのリーダーとなったモンを取り巻く神秘性は、新興宗教の教祖のソレに似て、絵空事のようだ)、キャラとしての救心力を失い、機能不全に陥ってしまう。そして、ラストでは、「2001年宇宙の旅」よろしく、大量無差別殺人者のモンは人類を進化させる苗床となるのだ。これはアイロニーのようにも読めるが、アイロニーを感じる前に、どう解釈していいのかわからないから、最後までたどり着いた読者(含む自分)は突き放される。

新井は、モンを罰する=殺すことで作品を道徳的・倫理的に回収する愚を犯さない。漫画が作者によるメッセージの解説本でしかないなら、わざわざ漫画にする必要はないからだ。最初に読み終わった時、この最終巻後半が納得できなかったのだが、いまでは腑に落ちるようになった。最終巻における一見、飛躍とも取れる展開は、作品世界のロジックの暴走と拡張を作者が忠実にシミュレートした帰結であると思うし、大風呂敷を広げるだけ広げて、その限界の先を見つめたいという表現者(及び、それを享受する読者)の業を感じる。

この漫画の連載時(1997年から2001年にかけて)、僕は音楽一辺倒でその存在すら知らなかった。同時体験できたらよかったのにとも思うが、「ザ・ワールド・イズ・マイン」があの頃の空気から醸成されたものであろうことは、僕にもわかる。たとえば、わかりやすく言うと、ヒップホップを日本独自の土壌で培ったザ・ブルー・ハーブの音楽なんかがそうだ。現実の痛みを受肉することでしか立ち上がらないある種の表現。世界標準語ではなく方言(Dialect)であることで(それはヒップホップのビートに乗せて日本語でラップするということにも通じる)、自分の拠り所を手に入れる表現。

「ザ・ワールド・イズ・マイン」は叙情詩ではなく叙事詩であり、複数の異なる価値観がせめぎあうこの現実の世界を図式的にではなく、なまなましい実感を持って描く。このことがどんなにハードルが高い作業かは、単一の価値観で出来上がった作品がいかに多いか、でわかるだろう。結局は、作品は作者の思い描いた範疇から出ることはない、ほとんどの場合は。最終巻が示すように、現実とフィクションの間に横たわる偏差をも飲み込み、閉じた系であることに準じず、作品の内部に外部を取り入れようとする懐の深さ、そういうところに、この漫画の優れた批評性があると思う。

阿修羅ガール

「私は一応この世界でこんな風にこの私として生きてくの」(「阿修羅ガール」)。

舞城王太郎の「阿修羅ガール」を読む。面白かったっす。と、「っす」をつけたくなる読後感。

「つーか」とかケーハクさとバカっぽさを文体で全面に押し出しながらも、コーエン兄弟や「パルプ・フィクション」を引用する作者の賢さ(ある文化圏を享受するスノッブとしての表明のようなもの)が透けて見えるし、キャラを借りて自分の屈託を語る系かなという第一印象もありつつ、気づいたら、あっという間に読み終わってしまった。

描かれてる物語自体にはそんなに面白さを感じなかった。最初は「女子高校生を主人公にした、いまっぽい口語で描かれたジュブナイルかぁ」と思ったら、ミステリの要素が出てきて、「ん、このへんから新本格?」と思ったらソッチには行かず。佐野の誘拐の話は最後まで解決されないし、綾辻行人という固有名詞がいきなり文脈なく出てきたりする。さらに、「ヘンゼルとグレーテル」ちっくな残酷メルヘン(勝手に諸星大二郎の絵で脳内変換して読んでいた)、ルパン三世の替え歌を歌うヒキコモリの猟奇殺人鬼の荒みまくったサイコ描写、とグルグルと叙述形式を変えながらも、これらが主人公アイコの臨死体験&幽体離脱体験としてつながることはわかるし、第三部でその辺はキッチリ説明されるから物語のオトし方としてはキレイにまとまっていて、見かけよりオーソドックスな構成である。すましたようにマジメにブンガクする第三部がPTA(文壇?)への釈明っぽくもあり、最後にもっとブチ切れてもよかったんではないか?という感想が出てくるのもわかる。

全部が一人称で語られるので、ユルい「叙述ミステリ」として読めなくはない。ジュブナイル、メルヘン、ミステリ・・・など、それぞれの要素を単品で見ると「弱い」。それらのミクスチャーの仕方が独特で、あえて陳腐極まりない安っぽくウスっぺらい物語を使いながら、やせた土地で突貫工事をしてるような感じが、同じ三島由紀夫賞を取ったからではないが、中原昌也を思わせる。アンチ・ロマンというか、シミュレーショニズムというか(物語の操作という点で)、「いま小説を書くとすればこういう前提でやるしかないんだぜ」という方法論を選びとってるというか。

中原に比べると、舞城の「阿修羅ガール」にはそれなりにロマンもあるし、カタルシスもある。アイコは徹頭徹尾、自分と自分に起こっている状況を観察してマトモに考えることができる人間として描かれていて、そこにブレはない。大好きな男の子にはフラれ、傍らにいるのはオタクっぽい風体で同人誌の作者のような名前の男で、決して女の子としてはシアワセではないのだが、臨死体験の後ではその状況を静かに受け入れているし、「そんなに悪くはない」とどこかで思っている。「私は一応この世界でこんな風にこの私として生きてくの」。そして、誰かを好きになって一緒に楽しく生きよう、と切に願う。この揺るぎない自己肯定、どんなに凄惨でブラックな物語をくぐり抜けても微塵もブレない「私」。そのありようが2000年代? というか、エンターテイメントである限り、このブレない「私」は過去も未来も存在し続ける。この小説はやはりカッコつきのジュブナイル、青春小説なのかもしれない。 

文体は精緻で練られていて、そこがこの小説を小説たらしめている(というか、そこだけかもしれない)。「ピンポンダッシュ」のような文体のスピード感とは裏腹に、読むにはそれなりに時間がかかる。文章の密度が濃いからだ。改行のない文体はノッてる時の村上龍みたいでもあり(ちょっとアーパーな女の子の一人称ってのがそもそもそうか)、全体に漂う寂寥感やシニシズムの焼け野原をバックに元気な女の子が快活に走り回るというのは村上春樹チルドレンの証? 解釈はどうにでもできる。

小説も基本的には「こういうものを描きたい」欲望のメディアである。すこやかな表現衝動と、巧みなセルフ・コントロール(そこに物足りなさを覚えるかどうかで、この小説の評価も変わるのだろう)。「阿修羅ガール」にはその欲望がみなぎっていて、閉塞した状況を突き抜けようとする意志を感じる。