2008/08/26

「崖の上のポニョ」その2


前回のエントリーに続き、「ポニョ」についてまとまらないまま書いてみる(ネタバレ)。*8.28加筆。

悪役の不在。

ポニョの父親であるフジモトが本来はその役目のハズだが、コミック・リリーフ的なポジションで悪人に見えないし、また、フジモトとポニョの母親である海の女神(名前は作中では触れられない、フジモトは「あの人」と呼ぶ)との相克というようなありがちなドラマは描かれない。「パンダコパンダ」では両親がいないことを主人公の女の子が明るく話す場面がある(ホントだったら、悲惨な家庭のハズなのに)。

ノー・クライマックス。

宮崎の映画は昔から脚本や構成が弱いと言われていて、その弱点を類いまれなアニメーションとエモーションのコントロールで「エイヤッ!」とうっちゃらかるという特徴がある。オープニングでフジモトのもとから逃げてきたポニョはソウスケと出会い、ソウスケは幼稚園にポニョを連れていき、ポニョはフジモトに連れ去られる。これだけで前半30分。ポニョの力で嵐が起こり街が海に沈み、本編最大の山場であるポニョが波に乗ってソウスケを追いかけるところまで30分(オープニングから1時間)。そこからラストまで、前半を超えるクライマックスがずっと来ないまま40分。

後半で力尽きたのか、意図的なものなのかはわからない(たぶんその両方)。アニメーションという集団作業は個々のアニメーターの力量に負う部分が大きく、宮崎はインタビューでこのアニメーターならこの場面を描けるからと絵コンテを膨らませたり場面を追加すると言っている。そうした力のあるアニメーターを後半で確保できなかったのではないかと邪推してみたり。僕はこの映画の最大の短所であり、もしかしたら最大の長所は、クライマックスがないことに尽きると思う。そして、それは映画は盛り上がりがあってしかるべきというドグマに僕が陥っているということでもあるのだが。

後半のナゾ。

「千と千尋」の最後の方で、それまでの湯屋を舞台にした動的な展開(湯屋の内部をジェットコースター的に激しく上下する垂直運動)から、千尋が海上を走る電車で銭ババの家に向かう旅という静的な展開(水平運動)へと切り替わる。死を思わせるシュールレアルな絵画的な静けさが、それまでのダイナミックで映画的な展開と対比される。「ポニョ」では、嵐を境にした前半と後半で似たようなトーンの変化があるが、劇的な変化というより、どこか平坦でなだらかなカーブを描くような変化であり、物語が収束していく(回収されていく)という実感を伴わない。むしろ、時間が区切られていないでずっと続いていくような、時間が引き延ばされていくような、子供の頃に感じていた感覚。これをページをめくっていく絵本のようだと言い換えることもできるかもしれない。

古代魚が泳ぐ海を眺めながら、ポニョとソウスケの運命を巡って、フジモトや女神や異形の者たちによる一大カタストロフな展開を今か今かと待っていたら、「世界はこのままでは滅んでしまう」というフジモトのセリフが唐突にやって来て、ソウスケは世界を救済するという重すぎる運命を(なんの抵抗もなく)受け入れる。ポニョとソウスケの恋愛が成就するというシンプルなお話がなぜかセカイ系になってしまっている。

この運命の受諾と婚姻の誓いの最中ずっと眠っているポニョも、フジモトや女神の言うことにまったく疑いを持たずに従うソウスケも主体性がまるでなく、生きてる感じがしない。ポニョを好きになるソウスケ/ソウスケを好きになるポニョ(宮崎アニメではお決まりの一目惚れのパターン)、そして、ソウスケに会うために嵐を起こすポニョと、前半では、感情の赴くままに激烈に行動し、そこにナゼ?というエクスキューズを入れる余地がないという「コナン」から続く宮崎キャラの典型である2人が、最後は虚勢されたようにおとなしく、大人たちの思うがままなのだ。ここに至って、ソウスケとポニョは自分たちの力で物語を更新していく力強さを失ってしまっている。

表面的には自分たちの意志で運命を選んだと言えるし、子供の成長には親の庇護が必要だとも読めるのだけれど、このラストの不可解さは人間世界から神話世界へと物語が受け渡されたと考えた方がいいのかもしれない。後半の展開をロジカルに考えるとワケわからなくなるが、あの世や夢の世界、神話世界への道行きと考えればまったく不思議ではない。水木しげるや楳図かずおの漫画がそうであるように。

ポニョとソウスケがトンネルをくぐるという意味深なシーンについて、mixiの「ポニョ」コミュに、トンネルが産道を指し、ポニョが人間として生まれ変わることを示唆しているという意見があった。ヒッチコックの「北北西に進路を取れ」で、トンネルに列車が突っ込むシーンがセックス(主役の2人に男女関係が成立したこと)を表しているという解釈を昔読んだが、それを思い出してしまった。このようなフロイト的解釈、あるいは俗流心理学の援用もアリなのだろうけれど、このシーンに限らず、宮崎が「ポニョ」に散りばめた謎はそういうロジカルな解釈を拒むような、「わからない」ことの豊かさの方を選び取るような態度が見受けられる(それを承知で、この文章もああだこうだと書いてるわけだけど)。

ポニョとソウスケの旅は、途中でボートに乗った母子に出会う、陸地に揚がって母親のリサの車を見つけた後トンネルをくぐる、と言葉にすると拍子抜けするほどシンプルで、事件らしい事件もサスペンスフルな展開も起きない。これをイニシエーションのための試練と見るには、(ファンタジーの約束事としても)ヒネリやツイストが足りないと思う。しかし、ここでわかりやすく試練としての事件やスペクタクルな戦いを挿入すれば、後半の独特なムードは失われてしまうだろう。

「ハウル」や「千と千尋」と同じく、あっけない幕切れは、奔放なイマジネーションによって紡がれる物語をロジックでスパッと中断して無理矢理終わらせるという感じがする。ゼロ年代の宮崎は、前回のエントリーでも書いたように大団円やハッピーエンドによる余韻を避ける傾向がある。


その他気づいたこと。

古代魚が泳ぐ海から陸に揚がったソウスケとポニョが手をつないで坂をのぼっていくカットで、ユージン・スミスの「The Walk to Paradise Garden」という有名な写真を思い出した。宮崎が実際にこの写真をイメージしたかはわからないが、「楽園への歩み」というこの写真の持つふくよかで満ち足りたムードはたしかに「ポニョ」の後半とつながっていくように思える。このシーンでは、ポニョが眠ると魔法が解けてしまい、船はもとのオモチャに戻ってしまい用済みになる。楽園に入るには武器や道具はいらないという寓意だろうか?

「パンダコパンダ 雨降りサーカス」では、主人公の家にあったベッドが船の代わりになる。「ポニョ」では、最初にソウスケが登場した時に持っていたオモチャの船をポニョが魔法で大きくして船の代わりにする。「雨降りサーカス」では、航海に携えていく食べ物は、洪水で水に閉じ込められたサーカスの動物たちに与えられる。「ポニョ」では、航海に携えていく食べ物は(本来の目的である、洪水で閉じ込められた老人たちへではなく)、ポニョによって途中で出会ったボートに乗った赤ん坊のお母さんに惜しみなく与えられる(リュックは空になる)。

「パンダコパンダ」では、最初から最後まで観客を脅かすような描写はなく、すべてが子供向け映画の一部として安全に機能している。「ポニョ」では、このような歪みやズレや誤配が各所にあり、観客はどう解釈していいのか途方にくれる。この撹乱や混乱が、「こうなるだろう」という観客のベタな期待に対する気持ちのいい裏切りになっている。このエピソードに限って言えば、無垢な赤ん坊に未来を託すという寓意だろうと容易に想像できるのだが、実際の画面におけるポニョと赤ん坊はそうした寓意や作意を超えて、いともたやすく互いに感応し合いキスをするのだった。

フジモトが魔法の源泉として取り扱う生命の水について、カンブリア紀の爆発という言葉が彼の口から出る。女神はポニョが引き起こした嵐による海の変容を「デボン紀のようだ」と話す。古代魚の海を船で進んでいくポニョとソウスケは古代魚の学名を次々に言い当てる。

人面魚、両生類、人間とメタモルフォーゼしていくポニョ。変身は「千と千尋」以降の宮崎作品に欠かせない要素である。「ハウル」では、ハウルやソフィーや荒地の魔女など、主要キャラが魔法の力で姿を変えていく。人面魚ポニョのルックスは、奈良美智を思わせる(オープニングでポニョが妹たちと一緒にいる場面で、ポニョの顔が一瞬、奈良美智的なツリ目になる)。両生類ポニョは「千と千尋」の湯屋の使用人に似ている。

フジモトと女神の造形は手塚治虫そのもの。Wikipediaに書いてある通り、漫画雑誌上で組まれた手塚の死去直後の特集で、宮崎は手塚が日本のアニメーションに起こした弊害について歯に衣着せず手厳しく批判している。当時それを読んだ僕は、亡くなった人物に対して容赦ない攻撃を加える宮崎にちょっと怖いものを感じた。表現者の業というか、宮崎にとって手塚はあらゆる意味で乗り越えるべき存在だったのだろう。その宮崎が「ポニョ」では手塚を引用する。漫画の表現にメタモルフォーゼを積極的に持ち込んだのも手塚の功績である。もともと人間で女神と結婚することで生命の秘儀を得たフジモトは手塚が何度か漫画化した悪魔メフィストフェレスに魂を売るファウストとも言えそう。

「ポニョ」制作時、宮崎はワーグナーを聴いていた。ポニョが波に乗ってソウスケを追うシークエンスで、ワルキューレの騎行のようなメロディがちょっとだけ聴こえる。どこの場面か忘れてしまったが(たしか老人介護センターの場面?)、ワーグナーとニーベルンゲンの歌に関連するように「ヴァルハラ(Valhalla)」(ヴァルハラとは北欧神話で「戦死者の家」を指す)という文字が背景に書かれていた。この手の作者の隠れた意図を画面に散りばめるお遊びは、「千と千尋」で湯屋の背景に「回春」とデカデカと書いてあったのに通じる。「ヴァルハラ(Valhalla)」と、後半の濃厚な死の匂いはつながっている。


たぶん、宮崎はこちらが求めているようなリニアな求心力のある物語を作る気はさらさらないのだろう。前半は、ソウスケとポニョの物語であり、後半は、その物語を解体した後の残滓のようだ。ラストを器用にまとめず、その残滓のイメージ(イマージュ)がはらむ豊かさを中盤並みにカンブリア紀ばりに爆発させてほしかったというのは無いものねだりだろうか。仮にそうしてしまえば、子供向けの娯楽映画として破綻するのは目に見えている。ソウスケとポニョ(と観客)は一緒に旅をすることで、その丹念なアニメーションによって形成される(映画であると同時に、小説や絵本のようでもある)不可思議なリアリズムの時空を共有するのだ。

こんな奇妙な映画に客が殺到するという不可解さも含め、「ポニョ」は宮崎駿という予定調和を拒む67歳のアニメーション作家がさらに未踏の地へ突き進んだ作品であることは間違いないと思う。

「崖の上のポニョ」その1

やっと「崖の上のポニョ」を観ることができた。評判通り子供向けのアニメーションとしては異様な代物だったが(ラヴクラフトのクトゥルー神話と「ポニョ」を結びつけたり、この映画のイビツな違和感をさまざまに解釈したレビューがネット上にはあふれている)、ゼロ年代の宮崎駿を評価している自分としては、ごく自然な帰結として受け止めることができた。その分、「ナンダコレハ!?」的な衝撃はあまり受けることができなかったのだが。

宮崎なりのリアリズムを突き詰めた(アニメーションならではの自由や想像力を自ら封じたように見えた)「もののけ姫」以降の宮崎アニメは、その特異なリアリズム(キャラが実際に生きて存在しているかのようなリアリティを画面に漲らせる力)を活かしつつ、原初の体験としてのアニメーションにいかに戻って(遡行して)いくか、という首尾一貫した流れを持つように思える。原作がある「ハウルの動く城」、オリジナルの「千と千尋の神隠し」「崖の上のポニョ」という違いは瑣末な違いにしか過ぎず、強靭で揺るぎない作家性は保たれている。(興行収入を期待される立場にも関わらず)物語や既成概念の束縛からアニメーションの自由を奪回する、というのが、ゼロ年代の宮崎駿が自ら課した命題なのではないだろうか。

「もののけ姫」以降の3作品は、魔法が世界を統べるファンタジーという点で一致する(というか、「もののけ姫」以前の劇場作品も「紅の豚」と「カリオストロ」以外は純然たるファンタジーと言って差し支えないと思う)。「千と千尋」は現代の日本を舞台にした、バブル期の名残りのようなテーマパークの廃墟が異界に通じていたという「行きて帰りし物語」の優れたヴァージョンであり、「ハウル」はヨーロッパ世界を雛型にした王道のファンタジーで、主人公は(「千と千尋」と同様に)魔法使いと共に生活することで異界(非日常)は日常と一体化して描かれる。「ポニョ」は現代の日本を再び舞台として取り上げ、現実界と異界はせめぎあいながら、もはや線引きできないほど、どちらがどちらなのか判別できないほどに混ざり合っている。

この3作品を時系列に観ていくと、宮崎のファンタジーの描き方がどんどん大胆になり、既成の約束事から自由になっているのがわかる。「千と千尋」ではファンタジーをファンタジーとして成立させる数々の約束事(千尋が魔女と契約を結ぶことで名前を失う、千尋もハクも本当の名前を奪われることで異界に捕われの身になる、などなど)に満ちていた。それらは、観客をファンタジーの世界に入り込ませるための暗黙の了解事項、ロジック、ルール、コード、プロトコルである。「千と千尋」のカオナシの存在や、「ハウル」後半における一切の説明を欠いた展開は、こうしたロジックやコードを打ち破るものであり、コードを守る(良心的国民的作家としての)宮崎とコード・ブレイカーとしての(自らのリビドーを自由奔放に表現する)宮崎との戦いとしても見ることができる。「ポニョ」ではコード・ブレイカーとしての宮崎が前面に押し出されている。

物語の定型パターンからの逸脱という点で、宮崎は「ナウシカ」「ラピュタ」以降、明確な敵、悪役、ヴィランを作らないことで徹底している(これが古くからの宮崎ファンの一部で最近の作品が不評となる原因のひとつではないだろうか)。善と悪というわかりやすい二項対立のドラマツルギーによるカタルシスの代わりに、より複雑な人物配置と設定による新しい物語を指向する。近作でも明確なヴィランはいないものの、2つ以上の異なる勢力がぶつかりあうことで物語をドライブさせていくというところは共通している。「千と千尋」では銭ババと湯ババという容姿がソックリな魔女、「ハウル」では国家権力に奉仕する魔法使いたち(頂点にいるのはハウルの元師匠サリマン)とハウル。それらは単純な善と悪ではなく、どちらも場合によっては代替可能で、物語のデータベースを補完し合う存在である。「ハウル」のラストには、サリマンが「ハッピーエンドってわけね」と訳知り顔でつぶやく場面がある。とってつけたハッピーエンドを「あえて」了解済みでやってるんだという宮崎の苦しまぎれの独白にも思える。

「ポニョ」は、子供向けとしては先行する2つの劇場映画、「トトロ」と「パンダコパンダ 雨降りサーカス」に似ている。人間の女の子に変身=メタモルフォーゼしたポニョは「トトロ」のメイにソックリだし、街が嵐で水没するのはまんま「雨降りサーカス」。悪役もいなければ、対象年齢が高く設定されている「千と千尋」や「ハウル」にはあった異なる勢力による対立構造がないところも、「トトロ」や「パンダコパンダ」と同じ。「パンダコパンダ」は純粋に子供向けに徹した、宮崎の作家性が開花する前の作品であり、開花した後の作品である「トトロ」にはエコロジーや日本の原風景へのノスタルジーといった思想性やメッセージ性が透けて見えた。今回の「ポニョ」はどうかというと、「パンダコパンダ」ほど素朴なワケはなく、「トトロ」のようなわかりやすいメッセージ性も含まれているのだけれど、もっと混沌とした未整理の無意識がムキダシになっていて(そこがゼロ年代の宮崎の共通項である)、しかし、物語は子供向けなだけにこの上もなくシンプル、というイビツな作品になっている。

(つづく)

2008/08/23

Everything That Happens Will Happen Today

一ヶ月くらい前のエントリーで書いたデヴィッド・バーンとブライアン・イーノの新作「Everything That Happens Will Happen Today」を聴いている。実は聴くまでは結構不安もあったんだけれど、表面的には瞠目させられるような驚きはないが、じっくり聴くと良い作品。(後で詳しくレビューします)

Macで作業の集中力を高める

パソコンを使っていると、いつの間にかデスクトップの画面がゴチャゴチャとウィンドウで埋まってしまい、気が散ってしまいがち。Macで作業の集中力を高めるお助けアプリと言えそうなのが、Spirited AwayThink。どちらも、シンプルで使いやすく、前者はその名の通り、一定時間使ってないアプリを隠してくれ、後者はアプリの後ろに黒いバックグラウンドを敷いてくれる。個人的には一度立ち上げれば後は何もしなくていいSpirited Awayを愛用している。

同様のことは、各アプリのメニューから「他を隠す」コマンドを実行すれば可能だし、Leopardを使ってる人にはSpacesがあるし、使用頻度の高いアプリにフルスクリーンモードがついていればそれでOKなのだけれど、作業はほんのちょっとしたことでモチベーションが下がるので、1クリックさえ煩わしいという自分には使えるアプリだ。OS Xを使い始めた時は、エクスポゼやCommand+Tabでアプリを切り替えるというのがとんでもなく便利で快適だったんだけれど、どうも人間はどんどん機械に飼い馴らされて怠け者になってしまうようだ。

クリックしてサーチして秒速で目的のアプリなりファイルなりにたどり着くという情報操作の快楽は麻薬のように感じる。でも、そういうクイックな所作じゃなくて、じっくりスローに何かに向き合うという集中力を必要とする行為とパソコンのような情報機器のインターフェイスとの擦り合わせはまだまだ開拓の余地がある、ような気がする。

2008/08/14

ゾディアック


ゾディアック 特別版: デビッド・フィンチャー

作品に現れた兆候を作者本人にも重ねるという愚を犯すなら、デビッド・フィンチャーはナイン・インチ・ネイルズやピクシーズを聴きながら不健康でアンモラルなことを四六時中考えている青臭いルーザー気質の健康優良不良青年という感じだろうか(実際は、ILMを経てMTVディレクター、初監督が大作「エイリアン3」というキャリアの持ち主)。と言っても、僕はフィンチャーの映画をこれまで「セブン」と「ファイト・クラブ」しか観ていないので、あくまでその2本から類推するしかないのだが。

ひたすら後味の悪さが後を引いた「セブン」のデモーニッシュな(露)悪趣味には諸手を挙げて賛成はできないが、暴力が個人をスポイルする消費社会に対する最大のカウンターになりうるという単純明快なロジックでボンクラ男子の夢をブラッド・ピットというキャラクターに託した「ファイト・クラブ」は、ロック由来のサブカルチャーの若々しいエネルギーを感じる痛快エンタメだった(「ドラッグストア・カウボーイ」でも「キッズ」でも「バッファロー66」でもなんでもいい、そうした青春映画がとらえたルーザー/社会的弱者であるがゆえに確保されたオルタナティヴな視点というのは諸刃の刃なのだ、と今の僕は思っているが、それについてここで書く余裕はない)。

フィンチャーの「ゾディアック」は、1969年を起点とするゾディアック事件を基にしている。多くの人が書いているようにこの映画にはカタルシスがない。観客はずっと宙吊りにされたままクライマックスはやってこない。「セブン」のようなシリアルキラー・サスペンスでも「ファイト・クラブ」のような叙述トリック・ミステリーでもない。わかりやすい落とし所はどこにもなく、史実を忠実に描こうとするシンプルなわかりやすさが、真実が秘める複雑なわかりにくさとコインの表裏にある。謎解きや真犯人を知る決定的瞬間は訪れない。正確にはラストに訪れるのだが、そこに至る150分を経験した観客にはそれすらもとりあえずのオチにしか受け取れない。エンドロールで事件の顛末が語られ、DNA鑑定でシロと判定された容疑者がすでにこの世にはいないということが観客に知らされる時、ラストの決定的瞬間も歴史の闇の中へと漂泊する点のひとつになり、線を結ばない。

当初はフィンチャーが監督するはずだったというブライアン・デ・パルマの「ブラック・ダリア」は、未解決の猟奇事件という似た題材を扱いながら(そして、ジェイムズ・エルロイというカリスマ作家の原作でありながら)個人的には退屈な映画だったように思う(「ゾディアック」が退屈だと思う人も少なくないだろうし、結局は好みなのだろうけれど)。「ブラック・ダリア」は映画的記憶としてのフィルム・ノワールを再現しようとするだけでそこに新味はなく、事件そのものよりも主人公たちの三角関係という横道のドラマに関心が逸れていく。

点と線ということで言えば、「ゾディアック」を特徴づけるのは、60年代から現代まで刻々と移り変わっていく時間の流れのスピーディーさだ。映画の主要な舞台である新聞社、サンフランシスコ・クロニクルではないが、新聞やニュース報道の持つ素っ気なく機械的で情緒を排した叙述形式をなぞるようでもあり、まるで、この不確かなドラマに句読点やピリオドを打つのは、日付という確かさだけだと言いたいかのようだ。本編中唯一(時間の経過を示す技法として)ハイスピード撮影が使われるのは、サンフランシスコのランドマークであるトランスアメリカ・ピラミッドの尖塔がみるみる建設されていくカットで、そこにマーヴィン・ゲイの「Inner City Blues」のイントロがカブるところは映像と音楽の美しい交差にハッとさせられた(よくある手法なのに)。

事件を追う漫画家の主人公がブラッド・ピットやエドワード・ノートンやジョディ・フォスターのようなスターではなく、アングラ・コミックから抜け出してきたかのような冴えない風貌の(だが存在感はある)ジェイク・ギレンホールであり、90年代のアイコンとなったクロエ・セヴィニーが眼鏡をかけた化粧っ気のない地味で平凡なその妻を演じる。こんなところに、フィンチャーの時代との距離の取り方を感じ取ってしまう(時代の寵児がその後どのように生き延びるのか、というのが僕のこのところの関心事だったりする)。ロバート・ダウニー・Jr演ずる主人公の同僚は、「ゾディアック」のひとつ前の出演作「スキャナー・ダークリィ」同様に私生活そのままのヤク中で身を持ち崩してボートハウスで余生を送る人物として描かれる。リー・アレン容疑者もトレーラーハウスの住人であり、連続殺人が車と深い関わりを持っていて、下層社会に属する人々がアメリカという車社会を「移動」していくというのがこの映画のモチーフのひとつにあると思う。

DVDについてくるメイキング・ムーヴィーには、主人公のモデルとなった漫画家であり原作者、事件に関わった警察官が実名で登場する。ベイエリア生まれのフィンチャーは、幼い頃、ゾディアックがスクールバスを襲うと予告した(実際には起きなかった)事件を自ら経験している。事件を恐れた父親がスクールバスではなく車で子供のフィンチャーを送ってくれた時、「親は自分の身を守れるのだろうか」という一抹の不安を覚えたという。それだけ当時は社会的インパクトのある劇場型犯罪だったのだろう。この事件とポップカルチャーとの関連で言えば、ゾディアックはSF映画から犯行のアイディアを頂いてるし、劇中にはゾディアックをモデルにした「ダーティ・ハリー」が映画館で上映されるシーンもある。フィンチャーのリサーチは凄まじい。第二の殺人現場である湖畔を当時そのままに再現するために木を植えたりもしている。ここまでやると立派なパラノイアだ。

フィンチャーはゾディアックを「ハッタリ野郎で頭の切れるヤツじゃない」「つまらない男だとわかればオーラも人々の不安も消える」と言う。犯人は数々の足跡やヒントやミスを残していて、警察はそれらをひとつにつなげることが出来なかっただけなのだ。リー・アレンが警察と最初に対面するアップを多用した緊迫感のあるシーンは、本編でも見所のひとつだ。映像は雄弁に彼がゾディアックだと、黒に限りなく近い灰色だと観客に語っている(リーは愉快犯らしい警察を挑発するセリフを吐き、後半に複数による犯行だったのでは?と思わせる描写もある)。

ゾディアックを執拗に追いかける主人公がリー・アレンと対面するのは80年代に入ってからで、そこでも何かが起こるわけではなく、2人は視線を交わすだけ。なんともじれったく歯がゆく、しかし、それぞれの場面は関連し合いながら個々の独立した魅力を放っている。ヒーローも悪漢もこの映画では成立しない。追う者も追われる者も平凡な人々であり、そして、彼らの内面にフィンチャーは踏み込まない(そこがこの映画の優れたところでもある)。レクター博士や「セブン」のシリアルキラーのような非凡で特殊な人間の狂気というカッコは外され、観客はどこまでもうつろな表面を覗いてるかのような気分を味わう。

ジョンベネでもサカキバラでも古今東西の猟奇事件の舞台裏を一度は追ってみたことがある人(自分もそのひとりなのだが)が感じる目眩のようなもの、真実を知りたいという行為に必ずつきまとう決定不可能性というか、真実に近づくほど真実は遠ざかっていく(当事者以外には知り得ない)という不気味さ、もどかしさ、煮え切らない気持ち。この映画はそれらを真っ向から衒いなく描いている。フィンチャーはとても倫理的な作家だと思う。

2008/08/12

映画熱

覚え書き。今年の元旦に「パンズ・ラビリンス」を観て以来(映画の内容が良過ぎてショックだったのか、疲れが溜まっていたのか、それから大風邪を引いて散々な正月だった)、後は「コントロール」を観たくらいで今年前半は映画から遠ざかっていた。コーエン兄弟の「ノー・カントリー」もウェス・アンダーソンの「ダージリン急行」もクローネンバーグの「イースタン・プロミス」もウォン・カーウァイの「マイ・ブルーベリー・ナイツ」も「クローバーフィールド」も「ミスト」も観てない。

最近になって急に映画熱が復活し、レビューに書いた「ハプニング」以外に劇場で「ホット・ファズ」、DVDで「ゾディアック」「ドニー・ダーコ」「サスペリア」「アズールとアスマール」を観た(最後の作品以外はどれも期待以上に面白かった)。どうも波があるみたい。これから観る予定の「ポニョ」と「スカイクロラ」と「ダークナイト」が楽しみ。「8 1/2」と「赤い風船」の再映、あと「ビューティフル・ルーザー」も観たいが手が回らなそう。観た映画のレビューはおいおいアップする予定。

最近痛感するのは、映画は設備の整った映画館で観るべきだということ。と同時に映画も音楽もその他もタイミングがあるから見逃してもジタバタしないようになった(あきらめが簡単につくようになった)。若い時のように無制限にそれらを鑑賞する時間も体力もないし。本当に必要なら遅かれ早かれ出会うハズだから。

オマケ。海外の映画レビューを確認したい時はROTTEN TOMATOES: Movies - New Movie Reviews and Previews!を利用している。大まかな世評がわかるしデータベースとして信頼できる。

Google Streetview、覗き見る未来

今月から日本で始まったGoogleマップのストリートビューが「気持ち悪い」という反応があちこちで上がっている。

こういう生理的な反応が日本人だけのものではなく全世界共通であることは「Google Maps (Part I of "The Googling")」というコメディ・ヴィデオを見るとわかる。2人の男がパソコンに向かいストリートビューを楽しんでいる。クリックしていくと、画面は自分たちのいるアパートメントに近づいていき、遂には部屋の入り口に赤い光が・・・。



蛇足だが、この「The Googling」シリーズは全部で4編あってどれも面白い。「Google Moon (Part II of "The Googling")」では、Googleムーンで見つけた月面上のアポロの着陸地点をズームアウトするとカリフォルニアだった!という陰謀論そのままの展開だ(ちなみに「2001年宇宙の旅」の撮影カットが使われている)。



このヴィデオは世界がGoogleというテクノロジーの脅威によって書き換えられ、改竄(かいざん)されていくという不安や恐怖をうまく笑いに転化している。結局、そこであぶり出されるのは、人間の恐ろしさや滑稽さや情報を知ることの功罪であって、テクノロジーは二次的な要素に過ぎない。(カウチでテクノロジーの恩恵に預かりながら)「見る」という欲望を充足させるツケとして、僕らのプライヴァシーとやらの一部が担保にされ誰かに「見られる」ことを許可しているというワケだ。

「気持ち悪さ」の半分は「見られること」より「見てしまうこと」にあるんじゃないかな。たぶんこの2つは同じコインの両面。見ることへの後ろめたさと見られることへの気持ち悪さは一体だよね。(「住宅都市整理公団」別棟:「ストリートビュー」について都市の写真撮っている人に聞いてみたい)

「見ることへの後ろめたさ」は「覗き見(ピーピング=peeping)」に由来するものだ。衛星写真を使ったGoogleマップが登場した時にもこの手の後ろめたさはあったハズだけど、こんなにネガティブな反応はなかったと思う。

google earthの高解像度写真はOKだけどストリートビューは気持ち悪い、というのも面白いと思った。あたりまえだけど。神様から見られるのはいいけど通行人にみられるのは嫌なわけだ。考えてみれば"プライバシー"(それがなんなのかよく分からないのでカッコ付き)は立面方向に配置されてて、神様に向かっては隠されてるのね。たぶん神様って、人間の悪事とかそんなに見えてないと思う。一方、都市全体の情報は平面方向に配置されてる。(「住宅都市整理公団」別棟:「ストリートビュー」について都市の写真撮っている人に聞いてみたい)

俯瞰・鳥瞰(バーズ・アイ・ビュー)というのは「神の目」だとよく言われる。小説でも映画でも、その舞台がどんな世界なのかを表すのにバーズ・アイが使われるのは常套手段である。「神の目」ならOKだが、それがご近所の「人の目」になった途端、NOだということか。

だから撮り方しだいなんだよね、実は。ストリートビューは写真的には洗練されてないのもあって「気持ち悪い」んだと思う。ほんとは撮影者が引き受ける部分をあまり引き受けてないから。クルマの上部にパノラマカメラ付けてガーっと撮るっていう方法が大きな一因かも。(「住宅都市整理公団」別棟:「ストリートビュー」について都市の写真撮っている人に聞いてみたい)

僕も自宅付近をストリートビューで覗いてみて、ビックリはしたがそれほど不快感は持たなかった。でも、違和感はたしかに感じて、それをカンタンに言葉にすると「美しくない」ということだと思う。この「美しくない」には2種類あって、ひとつは、ストリートビューに映っている路上の風景が「美しくない」というミもフタもない感想。整然としてなくて統一感がなくゴミゴミしていて「恥ずかしい」。西欧におけるパブリックとプライヴェートの境界はハッキリしているが、日本ではその境界が曖昧でパブリックな公共空間に「私」が滲み出るような感覚がある(電車内で平気で寝たり食事したりという振る舞いなんかも含め)。

そんな一昔前から言われている文化論っぽい話はともかくとして、もうひとつは、それなりに高い解像度で撮られた、署名(記名)されていない機械による自動撮影による写真が「美しくない」と感じたこと。

Googleマップに限らずGoogleのサーヴィスにはアップルのようなデザイン・オリエンテッドな美的感覚=審美眼が欠けている(これは誰もが認めることだと思う)。ジョナサン・アイブスをはじめとするアップルのデザインチームのような存在がGoogleからは見えてこない。「こんなに便利な技術があるんだから、それを皆で共有しよう(だから皆のために法規制に触れるギリギリまでトライする権利が僕らにはある)」という技術力のアピールであって、それ以上でも以下でもなく、そこに洗練された審美眼を持ち込むことはGoogleの仕事ではない。Googleマップの吹き出し風の情報表示とかストリートビューの人型サインとかナビゲーションはそれなりに洗練されているんだろうけれど、画像そのものは洗練されようがない。

インターネット上では無敵のように見えるGoogleも、ストリートビューのようにリアルワールドと対峙する必要のあるサーヴィスでは、綻びが見えてしまう。百歩譲っても、個人情報を排除した完全無欠にコントロールされたクリーンな都市の景観を撮ることは不可能だろう(もしかしたら、それすらも将来的には可能になるのかもしれないが)。同一の条件で撮ろうとしても誤差が生じるしノイズが発生する。雨などの悪天候や夜には撮影できないし、人や表札や車のナンバープレートや生ゴミの袋や予期せぬ物体が映り込んでしまう。だから、そこに映るナマで(ほぼ)加工されていない現実空間に「気持ち悪い」と思うのは自分の姿を鏡で見るのと同じでわからなくはない。しかし、ストリートとは元々そういうノイズが生まれる場所なのだ。

僕はストリートビューのデータがどのくらいの頻度で更新されるのかに興味がある。トヨタのプリウスで全国の公道を津々浦々回るのは、たとえそのアイディアを誰かが思いついても(それが安価で枯れた技術であっても)実行するのは気が遠くなる物量作戦だ。道そのものは変わらなくても、風景は刻々と変貌する。OSやソフトウェアのアップデートならオンラインで配布すれば一発で終了するが、リアルな世界ではそうは行かない。今後、Googleの事業が下り坂になって資金が回らなくなる時が来るなら、更新は立ち後れ、5年前の古いデータを眺めるという事態に直面することもありうるだろう。日進月歩のネットの世界で墓場のようなデータ空間が発生する、というのはSF的には興味深い。「電脳コイル」の世界がすでに始まっているとも言える(あるいは、近い将来、ストリートビューと同等のサーヴィスが複数立ち上がり、車ではなく飛行ロボットカメラが定期的にデータを回収するようになっているかもしれない・・)。

行ったことのない街に想いを巡らせることや、わざわざそこに出かけていくことは、この先、どんどん無意味になっていくのかもしれない。無駄と思うことの上位に「旅行」が挙がるご時世だし、住所検索をすれば、居ながらにしてその近辺の通りの様子まで覗き見ることができる。ああ、無粋な世の中になったものだ(fab!)

検索でページランクを可視化させたGoogleは世界をあまねく可視化しようという欲望に突き動かされている。世界を平準化し標準化しようという欲望はとどまることがないだろう。僕自身、Googleは日々使っているし、ツールとして積極的に支持したい。だが、元「relax(リラックス)」編集長の岡本さんの「ああ、無粋な世の中になったものだ」という意見にもとても共感する。僕の関心は想像力のあり方がこれからどう変わっていくのだろう、というようなことにある。

ストリートビューについて、上で引用させていただいた「住宅都市整理公団」別棟以外に、参考になったブログ。オマケでグーグルをはじめとする「理想の職場」、5つの現実 - builder by ZDNet Japanも。

[を] この先、Googleストリートビュー的なものは不可避
Googleマップのストリートビューに対する苦痛感が、なぜ日本のほうが強いのか - Zopeジャンキー日記
ストリート・ビューに対する嫌悪感は、民主社会への恐れの表出でもある « IN MY ROOM…

2008/08/08

赤塚不二夫、すべてを肯定する哲学

赤塚不二夫が亡くなった。

自分が物心ついて漫画に夢中になった時には赤塚不二夫はすでに巨匠で、山上たつひこの「がきデカ」と鴨川つばめの「マカロニほうれん荘」が絶大な人気を博していて(両方とも「少年チャンピオン」の連載だった、当時の「少年チャンピオン」って影響力あったんだなと思う、意識は全くしてなかったが)、2人の破壊的なギャグの圏内から逃れることは当時のアベレージな地方在住の子供である僕には不可能な話だった。どっちかと言えば、ライトでスタイリッシュで音楽やサブカルネタに秀でた「マカロニほうれん荘」の方が性に合い、偏愛していたように思う。「がきデカ」の一種異様な笑いは好きというより異物としての何かだった。

「がきデカ」がいつの間にか視界からフェイドアウトしていき(周知の通り、山上はギャグ漫画を描かなくなる)、「マカロニほうれん荘」が終わって、その続編である「マカロニ2」のあまりのつまらなさ、つげ義春化というか(?)青春を謳歌した人が一気に老け込んでしまったような作風の変化にガッカリしたというよりも愕然としたことは今でもよく覚えている。ギャグ漫画家とはなんと短命で才能を燃え尽きさせる過酷な職業なのだろうと思春期に心に刻んだものだった。鴨川つばめの失速を受けて、彼の影響がモロだった江口寿史が単なるギャグ漫画家からニューウェイヴな絵を武器にイラストレーションも描ける漫画家へとシフトしていったのもよく覚えている(両者の関係を確認したわけではないけれど、たぶんそうなのだと思う)。

だから、当時も今も僕にとって赤塚不二夫という存在は手塚や石森や藤子と同じく巨大すぎて、影響うんぬんを語れるようなところに始めからいないというか。そんな僕も後期「天才バカボン」のアヴァンギャルドでシュールな実験はなんだかよくわからない体験として記憶に残っている。作者名を変えたり、見開きでバカボンとパパの顔がひたすらアップになってるだけだったり、もはや笑えない領域まで果敢に突き進み、ギャグ漫画という形式を使ってやることをやりつくした凄み。いくらビッグネームとはいえ、漫画全盛期とはいえ、相当に無茶なパフォーマンスだったのではないだろうか。赤塚という人はつまるところ、異端の人だったのだと思う(そして、ギャグというのも、突き詰めると異端の人からのメッセージなのだ)。

今回のエントリーを書こうと思ったのは、タモリの弔辞を聞いたからだ。実に無駄のない簡潔な言葉(と声)で、ありがちな故人を偲ぶ凡百なノスタルジーに陥らず(あるいはそれをも包含しつつ)、人物や時代を語る的確で見事な批評となりえている。「これでいいのだ」が赤塚によるすべてを肯定する哲学であること(そして、それがいかに強靭なものであるのか)が、こちらにもストレートに伝わってきてじ〜んとしてしまった。赤塚をキーワードにネットをさまよってたどり着いたのが、「京都生まれの気ままな遁世僧、今様つれづれ草」というブログの「天才バカボン」はインド哲学/仏教をルーツに持つという話。「バカボン」は「バガボンド」から来ているという説もあり、どちらが正解かはわからないが(また、正解などないのだろうが)、驚くと同時にすっと胸に入って納得できた。

赤塚不二夫さん葬儀 タモリさんの弔辞全文 (1/3ページ) - MSN産経ニュース
YouTube - タモリ 赤塚不二夫さんへ 弔辞

追記:タモリが読んだ弔辞の紙は白紙だったらしい。タモリ渾身のギャグだったんだなと。

2008/08/02

よく使う音楽データベースサイト

「このアーティスト/アルバム/曲を知りたい」という時、今のところ、なんだかんだと一番重宝しているのは、Discogs。ユーザー参加型のディスコグラフィー・データベースで音楽版ウィキペディアという位置づけになるのだろうか。メジャーからマイナーまでほぼ網羅しているし、余計なものが何もないユーザー・インターフェイスはとても見やすくて使いやすい。必要にして十分な基本情報はここでゲットしている。あと、iTunesやブログ用のジャケット画像もAmazonより高画質なものが見つかりやすい。英語版のWikipediaも有益な情報が得られることがある(常用せず、ググって引っかかった、ということが多い)。

以前よく使っていたallmusic(昔はAMG=All Music Guideという名前で音楽データベースとしては最古参)は、サイトがちょっと重いのとインディー盤に関しては必ずしも見つかるとは限らないのでDiscogsにすっかり座を奪われてしまった。レビューのクオリティは総じて高いと思う。インディー・レーベルのカタログでは随一の規模を誇るオンライン・ショップ/ディストリビューターのForced Exposureもブログやユーザー参加型のネット・コミュニティやネット・ショップが隆盛する前はよくチェックしていた。ここのレビューは、アルバム・リリース時のレーベルの資料がそのまま使われていることが多い(と思う)。

どれが確実に優れていて万人に役立つとかいうことではなくて、あくまで現時点における個人的な傾向を書いただけなのはご理解いただきたいが、こうして見ると、時代の流れを改めて感じる。集合知(クラウドソーシング)の時代である(そして、相対的に旧来のメディアが弱くなっている)という平凡な感想ではある。

「404 Blog Not Found:オレタチはオレより賢い - 書評 - クラウドソーシング」によると、クラウドソーシングの「8つのガイドライン」とは、

裏方に徹する
立ち入る時期を知る
本物のコミュニティを作る
秘密を作らない
「完璧」であることを忘れる
場をかき回す
感謝を示す
先を見据える

・・・ということらしい。これは当然のことながらリアルなコミュニティについても言えることだと思う。よくある手放しのテクノロジー礼賛やシリコンバレー的な楽天主義には注意する必要があるが(ネットの便利さや快適さが強調される時、リアルの世界においてそれらが担保されているという事実が忘れられがちになってしまう)、コミュニティやコミュニケーションの本質は基本的には変わってないのだろう。僕もこのことは肝に銘じておきたいと思う。

Adrian Sherwood

前回のエントリーの補完で、エイドリアン・シャーウッド/UKダブ/レゲエ関連のリンク集です。YouTubeはキリがないのでごく一部の目に止まったものを。


On U sound
On-Uのオフィシャル・サイト。

Beatink - top
「Becoming a Cliché」他、On-U関連の日本盤をリリースする、Beatnikのオフィシャル・サイト。

Adrian Sherwood » Artists » Real World Records
Real Worldのエイドリアンのページ。ライナーでも取り上げた「Boogaloo」のライブ・ミックスが見れる。

tackhead.com: TACK>>HEAD
タックヘッドのオフィシャル・サイト。

On-U Sound In The Area / Adrian Sherwood - Home Page
アンオフィシャルなOn-Uのトリビュート・サイト。

Riddim
フリーマガジン“Riddim”ウェブ。

レゲエ追求コラム集の Masterstroke of Reggae
0152Recordsのコラム。

第2回 ─ UKダブ - bounce.com 連載
bounce誌のUKダブ特集。

Adrian Sherwood(エイドリアン・シャーウッド) | OOPS!
OOPS!のエイドリアンのインタビュー。

Don Letts Interview Part 1 - Greg Whitfield
ドン・レッツのインタビュー。

YouTube - tracks - arte special on dub
ドイツのTVチャンネル「Arte」のダブ特集。

YouTube - Tack head studio session 2
タックヘッドのスタジオ・セッション。

YouTube - the making of bim sherman's 'miracle'
故ビム・シャーマンの「Miracle」のメイキング・ヴィデオ。

Becoming a Cliché


Becoming a Cliché: Adrian Sherwood

エイドリアン・シャーウッドのアルバム「Becoming a Cliché」のライナーノート原稿をアップします。前作「Never Trust A Hippy」日本盤と本作を合わせて執筆しました。どこかでアルバムを手に取ることがあれば、ご高覧いただければ幸いです。


『Becoming A Cliche』の背景

ここ数年のポスト・パンク/ニューウェイヴ再評価や、ニュー・ルーツやテクノ/エレクトロニカを含むダンス・カルチャーのレゲエ/ダブの浸透も含め、ありとあらゆる音源がアーカイヴとしてショーケースに並び、新しい音と古い音が渾然一体となった結果、直線的な未来への道筋が断たれ、その代わりに出現したパラレル・ワールド(もしくはタコツボ的な多元世界)が一種の停滞を感じさせなくはない現在、おそらく、エイドリアン・シャーウッドにとっては、生涯何度目かの充実した安定期にあるのではないだろうか。彼は過去形のリヴィング・レジェンドではなく、そうした古き良きアーカイヴと今の時代の気運や気分を結びつけ、今もなお、不断に前進を続けている。

エイドリアンは13、14歳位からレコード・ショップで働き始め、17歳でロンドン郊外に小さなレゲエ・ディストリビューターを仲間と興す。「最初がクリエイション・レベル、2番目がカリブ・ジェムズというレーベルで、両方とも1975年だ。他にはヒットランというレーベルもやった。4Dリズムからは(エイドリアンの評価を高めた)クリエイション・レベルの『Starship Africa』をリリースした」。1979年にはスリッツと出会いツアーを敢行し、1980年にON-Uをスタートさせる。レゲエ研究家、スティーヴ・バロウの言葉を借りれば、エイドリアンは「レゲエとポスト・パンクとブルースとインディー・ロックの垣根を難なく渡り歩く、本物のエクレクティック=折衷主義者」ということになる。

90年代後半以降、海外はドイツのMaster Recordings(オリジナル・ジャケットに「M」のロゴを重ねたON-Uファンにはおなじみのデザイン)から、日本はBeat Becordsから、国内外で継続的にON-Uの音源がリイシューされ、同時期、ON-Uレーベルのクローズという不運に見舞われながらも、多数のアーティストのプロデュースで危機を乗り越えたエイドリアンが、自身のソロ・アルバム『Never Trust A Hippy』をワールド・ミュージックの総本山であるリアル・ワールドからリリースしたのは2003年のこと。現在は精力的にいくつかのプロジェクトを手がけつつ、一方で、ON-U/タックヘッド/オーディオ・アクティヴの音源をミックスした『On-U Sound Crush』シリーズで、BPMとキックにすべてを委ねる現在主流のDJミックスとは異なる、やはりレゲエに由来するアクロバティックでいながらタイト&ルースで緩急自在なDJプレイを確認することが出来る。今でも、彼がDJする時は、カセットテープとDAT主体でそれにCD-Rが加わるのだ。また、映画『Johnny Was』(2005年)のサウンドトラックの選曲を任され、自身のソロやダブ・シンジケートを始めとするON-Uのカタログからの楽曲とアビシニアンズやイエローマンの名曲がそこでは肩を並べている。

本作『Becoming A Cliche』は、『Never Trust A Hippy』に続くエイドリアンのセカンド・ソロ・アルバムに位置づけられる。「クリシェ=お決まりのやり方で」というタイトルはいかにもエイドリアンらしい。「これは、マーク・スチュアートとの会話の中から出てきたフレーズなんだ。ギャグっぽくて面白かったんでタイトルに持ってきた。30年間のキャリアの中で同じような音を同じ人達と作ってきたから、ありきたりで陳腐になっているんじゃないかという意味でもあるけど、自分では熟したワインのようになってると思ってるよ」。

インスト主体だった『Never Trust A Hippy』に対し、『Becoming A Cliche』はヴォーカル・チューンが格段に増え、ヒネリは効いているものの、ダンスの躍動、生演奏の歯切れの良さ、円熟したまろやかな軽みが際立つ。少なくとも、1958年生まれの人間が作る枯れた音ではない。「今までの自分の歴史を振り返ると、ほとんどインストかサンプリング・ベースの音ばかりで、ヴォーカルを主体にしたアルバムを作って来なかったというのがある。3パートのホーンを入れるのもトラディショナルなレゲエへのリスペクトの表明なんだ。過去のキャリア、現在の自分のスタンス、未来の展望、それらをつなぐコンテンポラリーなアルバムになっていると思う」。


ダブというマジック

全曲のドラム・プログラミングを手がけるジャズワッド(エイドリアンとは15歳の頃からの旧知の間柄)、プロ・トゥールズ(=編集録音ソフト)のオペレーションを含むエンジニアリング担当のニック・コップロウ(元ON-Uのメンバーで、現在は音楽業界を引退しパイロットの学校に行っているとのこと)。基本はこの2人とエイドリアンの共同作業で制作された。まず、エイドリアンがサンプリングやベース・ラインといった基本のアイディアを練り、それを元にMPC3000で実際に打ち込んだデモを作り、次にミュージシャンを呼んで数曲をまとめてレコーディング、その後、トライデント75(=コンソール・デスク)やスプリング・リヴァーブなどのエフェクター、すべてアナログの古い機材を使ってオーヴァーダブ/ヴォイシングの微調整/ミックスダウンを行う。プラグインのデジタル・エフェクトは一切使わない。「ディレイやリヴァーブにプライドがある」と彼は言う。トータルで平均2、3日で1曲が仕上がる。製作期間は約2年。『Becoming A Cliche』のダブ・アルバム『Dub Cliche』は一週間で完成させたという。

かつて、ダブは日夜スタジオで繰り返されるレコーディングの副産物として生まれた。エイドリアンがスタジオでどのように作業を進めていくのかはブラックボックス=彼以外には解き明かされないナゾであり、我々リスナーは、その最終工程を音盤やライヴで確認することは出来ても、その成り立ちや制作のプロセスには踏み込めない。

リアル・ワールドのサイトには、前作収録の「Boogaloo」をライヴ・ミックスする彼の姿を収めたヴィデオがアップされている(http://www.realworldrecords.com/ntah/)。ダブと言うと、無骨で粗野な(それがラフやタフと同義であることは言うまでもなく)ノリ重視の一発芸と思い浮かべがちだが、この映像を見ればそれが間違いではないにせよ、それだけではないことは直ちに了解できるだろう。音の形を整え、時には崩し、そこに強弱や表情を付け加えていく大胆かつ繊細なアーティキュレーションと指さばき。ミキシング・コンソールは楽器そのものとなり、エンジニアはコントロール・フリークとなり、音に真正面から向き合い格闘する。そのプリミティヴな有り様は、しかし、20世紀以降のテクノロジーと70年代以降のダブの誕生なしにはありえなかった光景なのだ。

『Roots Rock Reggae』で、ブラック・アーク・スタジオ内で背筋を伸ばしたタンクトップ姿で卓をさばいていくリー・ペリーとアップセッターズの一種異様なテンションに包まれた録音風景。『The Harder They Come』でジミー・クリフやメイタルズがスタジオであたかもそこが自分の揺るぎない存在を確認するための唯一の空間であるかのように歌い出す場面。あるいは、レゲエの従兄弟でもあるヒップホップに視点を移してみても、『Wild Style』でグランドマスター・フラッシュがターンテーブル上のレコードをおもむろにコスる瞬間、『Scratch』で地下倉庫に積まれたおびただしい量のレコードの山を前にDJシャドウが無言で佇む姿。これらの映画から垣間見えるのは、アンタッチャブルな聖域(手垢にまみれた言葉だが)と呼んでしまいたくなるような、音という目に見えない何かが個人や社会のフレームを飛び越えて生まれ出る場に特有のマジックだ。そして、エイドリアンもそのマジックに取り憑かれたひとりである。


『Becoming A Cliche』の楽曲紹介

「Animal Magic」はリー・ペリーとの共作。タイトルは、60〜80年代にBBCで放送された子供向けのTV番組「Animal Magic」から。動物の鳴き声の物真似で有名になった司会者のジョニー・モリスを、リー・ペリーとエイドリアンの10歳の娘エミリーが真似てふざけたスポークン・セッションを元にしている。「昔なつかしいものと現在の自分の人生や社会にあるものがフィットした時、リメイクしたいという衝動にかられる」というエイドリアンの想いを形にした曲。シタールの艶かしいフレーズは、ダブ・シンジケートの「Ravi Shankar」(アルバム『Tunes From The Missing Channel』収録、1985年)をリサイクルしたものだ。

「リー・ペリーとは、過去、『Time Boom X de Devil Dead』、『From the Secret Laboratory』という2枚のアルバムと、(リイシュー専門のON-Uの姉妹レーベルである)プレッシャー・サウンズで『Voodooism』というコンピレーションを一緒に手がけてきたから、リーとリーの奥さんには信用されている。以前録音をした曲をリーに聞かせてこれを使いたいと言ったら、リーが笑いながらOKしてくれたんでアルバムに入れることにしたよ」。なお、リー・ペリー&ダブ・シンジケートの『Time Boom X de Devil Dead』はON-U諸作の中でもレゲエ・ファンに知られる一枚で、リーのトボけたヴォーカルとトラックの多幸感がミドルテンポで交錯する「Jungle」は「Animal Magic」にも一脈通じる。

「2 Versions Of The Future」は、途中でクラヴィネットとオルガンによるファンキーでソウルフルな演奏がインサートされる。これは70年代にルーガレーターというバンドのメンバーでやはり初期ON-Uを支えたニューウェイヴ系キーボーディスト、ニック・プリタスによるもの。

「A Piece Of The Earth」は、ジャマイカ人シンガー、リトル・ロイのオリジナルのリメイクで、ドラムンベース黎明期のラガ・ジャングルを彷彿とさせるサウンド。前述した『Johnny Was』のサントラにもコンゴ・ナッティやガンジャ・クルーの曲が収録されていたが、「ほとんどのジャングルはレゲエをダブル・スピードにしたようにしか聞こえないが、レゲエのサンプルやベースラインを使った曲はリスペクトしている」とエイドリアンは話す。この曲は、最初にレゲエ・ヴァージョンを作り、それをラガ・ジャングルの先駆けのひとりであったレベルMCが主宰するコンゴ・ナッティに渡してジャングル・ヴァージョンに、最終的にその2つの素材をプロ・トゥールズ上で交互にドロップさせたトラックに、地球上の土地や石油の奪い合いをテーマにしたリトル・ロイによるポリティカルなリリックが乗る。

「Dennis Bovine Pt.1」はエキセントリックなDJ/エンジニア志向のエイドリアンに対し、よりオーセンティックなミュージシャン/プレイヤー志向のデニス・ボーヴェル、UKダブを支えてきた2人による初の共作。「19歳で初めてのレコーディングを行った時のエンジニアがデニスだったんだ」というエイドリアン。デニスは本作のホーンのアレンジを手伝ったり、ダブ・アルバム『Dub Cliche』にも2曲で参加と、影ながら貢献している。

「J'ai Changé」と「You Wander Why」はラヴ・グローサーによるホーンを従えた同トラック上で、チュニジアとフランスの血を引くON-Uの若手シンガーであるサミア・ファラ(彼女は本作のアートワークも手がける)、リー "L.S.K"ケニーがそれぞれマイクを握る、ワン・ウェイ・リディムの曲。同じくラヴ・グローサーによるインスト「The House Of Games」はアメリカのブルースやジャズの翻訳から始まったスカが時空を飛び越えてコンピュータライズドされたダンスホールに出会ったような、ストイックで屹立した音に身震いする。

「Nu Rizla」はグリーン・ティーからリリースされたエイドリアン・シャーウッド名義の10インチ・シングル「Pass The Rizzla」のリメイク。これはもともとオーディオ・アクティヴのファースト・アルバム『We Are Audio Active (Tokyo Space Cowboys)』に収録された「Free The Marihana」のリメイクだから、3度目のリメイクとなる。おそらく、故プリンス・ファーライとはまた違ったヴェクトルで、エイドリアンが最も信望を寄せる「声」だったであろう故ビム・シャーマン。ビムの胸を締めつけられるようなソルティーな声が、「ハッパ吸ってキマろうぜ」という楽観的なマリファナ讃歌であるエイドリアン本人のリリックと感応し合う。「St Peter's Gate」ではリー "L.S.K"ケニーが再びフィーチャーされ、シングジェイ・スタイルで「あるお金持ちの女性が世の中の悲しいことを無視して楽しく生き、死んで天国の門をくぐると、神様に天国の貧民地区に行くように言われた。生きている間は自分のことだけを考えて生きててはダメだ、さもなければ、カルマとして罰が当たってしまう」と歌う。

「J'ai Changé」から「St Peter's Gate」に至る中盤のルーツ・レゲエ寄りの展開に対して、「Home Sweet Home」「Forgive Yourself」「All Hands On Desk」と続く後半3曲の流れは、エイドリアンのアグレッシヴな側面をアピールする。「Home Sweet Home」は、エイドリアンの長年の友人マーク・スチュアートによる「家庭内暴力や幼児虐待に巻き込まれても、黙っていちゃいけない」といういまだ衰えを知らないアジテートとグレゴリアン聖歌のサンプルが静と動で配置される。なお、「Monastery Of Sound」は「Home Sweet Home」のインスト・ダブ・ヴァージョン。アルバム中、最も過激にディストーションがかかったディレイが炸裂する「Forgive Yourself」は、前作でもリズム・プログラミングを担当したレンキーによるトラック。レンキーは2002年にトライバルなハンドクラップの連打でダンスホール界を席巻したDiwaliリディムの創始者。「Stop The Bloodshed」は、イタリア在住のライ・ミュージシャン、Raizのメリスマの効いた歌声がラストを飾る。


『Dub Cliche』

エイドリアンによれば、当初は『Becoming Cliche』を丸ごとダブ・アルバムに仕立てようとしたが、「Two Versions Of The Future」などはいいヴァージョンが出来なかったため、他のプロジェクトで使った曲を組み込むことにしたという。厳密なプランに基づかない、行き当たりバッタリの無計画性や無方向性、イイカゲンさと稚気にあふれるスタジオの現場主義がなんともレゲエ/ダブらしい。

「『Black Board Jungle Dub』のような70年代のクラシックなダブのスタイルを再現したかった」とエイドリアンは話す。強いて言えば、それが「オリジナルもクリシェだから、ダブもクリシェっぽくやってみたかったんだ」という彼の一言に集約される、このアルバムのコンセプトなのだろう。具体的には、元のトラックにエフェクトをその倍のヴォリュームで入れたり、レコードを自分の指で押さえて独特なワウワウ感を出すといったテクニックを使っている。

「Monkey See, Monkey Dub」は「Monastery Of Sound」/「Home Sweet Home」の、「Zoo Time」は「Animal Logic」の、「Moving House」は「House Of Games」の、「J’ai Dubée」は「J’ai Change」の、「Denis Bovine Pt 2」は「Denis Bovine Pt 1」の、「Dubshed」は「Stop The Bloodshed」の、それぞれダブとなっている。この6曲以外、アルバム半数の楽曲は、いづれも『Becoming Cliche』以外の複数の音源を使用している。

「Zoo Time」には、オリジナルの「Animal Logic」にはクレジットされていなかった、エイドリアンの前妻であり、初期ON-Uの重要なコラボレーターだったキーボーディストのキシ・ヤマモトの名前がクレジットされている。彼女がフレーズを弾いたダブ・シンジケートの「Ravi Shankar」もここではよりはっきりと聞こえる。初期ON-Uのフォト・コラージュによるスリーヴ・デザインも彼女の作品によるもの。

「Clichéd Dub Slave」はデニス・ボーヴェルとの共作で、「Denis Bovine」とはまた違ったストレンジでビザールなダブに仕上がっている。「Stepping Crowd」と「Sans Toupée」は、ダンス・フロアの狂騒になだれ込むようなミリタント・ビート/ハード・ステッパーで、ルードボーイやレイヴァーならずとも踊り出さずにはいられないだろう。かといって、冷たく単調な型通りのニュー・ルーツ風にならないところは、エイドリアンの真骨頂というところか。

「Silly Old Dub」は、エイドリアンとカールトン ”バブラーズ” オギルヴィの双頭ユニット、2バッドカードのお蔵入りになった楽曲「Silly Billy」のダブ。さらに、それをポーランドのダブ・アクト、 Activatorがリミックスしたのが「Silly Billy Remix by Activator (Joint Venture Sound System)」。この2曲はオーソドックスでストレートな風合いを持ったダブで一服の清涼剤のように響く。

約10年前、エイドリアンは、プライマル・スクリームのダブ・アルバム『Echo Dek』で、ON-Uを知らないロックの聴衆にその存在を知らしめた。それはどちらかと言えばレイドバックした内容だったが、今回のセルフ・リメイクとなる『Dub Cliche』は、あらゆる音と接続し自分の器の中に取り込んでしまう折衷主義者のエイドリアンらしさが縦横無尽に発揮されている。


「We Are All Post Exotics」

本作は、あからさまなワールド・ミュージック的なサンプリングはやや控え目に(前作では、宗教上の理由により、エイドリアンがリクエストしたリアル・ワールドのサンプルが全部使えないという事情もあったようだ)、全体にまぶされた中近東やインドの香りも結局はどこにも帰属しないルーツを拒絶した架空のジャングル・サウンドとして鳴っていて、エイドリアンの素や核の部分、つまりはどこを切ってもジャマイカの音楽を聞いて育ったイギリス人の矜持(きょうじ)を強く感じさせる内容となっている。

自分の過去を現在と結びつけ、リメイクとリサイクルとリサンプリングを繰り返し、かつて憧れたり共闘したアーティストの音を今のダンスホールのリディムと共にそこに放り込む。それらは、どこまでもヴァージョンでありダブであり、決して完成することはないスパイラル構造となって、パーソナルというにはあまりに果てしない終わりなき旅だ。

僕個人は、ON-Uやエイドリアン・シャーウッドの仕事をことさら神格化するのには抵抗がある。ただ、彼が産み落とした音の今もってまったく色褪せないエネルギー、偶然を必然に変えていく意志の強さには舌を巻くしかない。あるいは、エイドリアンの言うように彼の音は「クリシェ」かもしれない。そして、「新しい」という言葉もそろそろ書き換えの時期に来ている。フェルナンド・アルヴィンというアフリカの現代作家のキャンバスには「We Are All Post Exotics(僕らはみんな異国情緒時代の後に生きている)」と描かれている。

まだ聞いたことがないようなエキゾティックで新しい音は、もはやこの地上のどこにも存在しない。雑誌に載ったブライアン・イーノのインタビューを読んだだけでエイドリアンがアフリカン・ヘッドチャージのインスピレーションを得たのは30年も昔の話だ。2005年に届いたアフリカン・ヘッドチャージの『Vision Of A Psychedelic Africa』はまさにタイトル通り、その出発地点に立ち返ったような初々しく瑞々しい衒いのない作品だった。

「最近のヒップホップにしろ、レゲエにしろ、世界中がチェックしている。テンポが下がればそういう曲ばかりを作る。昔のレゲエに比べるとどれも同じような感じがしてしまうと、前作に参加したスライ・ダンバーと話したよ。でも、今の音は活き活きはしているんだよね」。世の中には退屈なクリシェがあふれている。さまざまなクリシェや慣習や規範の中でがんじがらめに生きていても、細胞は生まれ変わり一秒たりとも同じ瞬間は訪れない。そこに気づいた時、クリシェは消え失せ、エイドリアンの"オーラル・エクスペリメント"は何度でも再生されるだろう。

富樫信也

How Much Is Your Blog Worth


町山智浩さんのブログ経由で知った、How Much Is Your Blog Worthという、自分のブログの価値を値づけしてくれるサイト。「二モーニック・メモ」の値段は「$1,129.08.」、約12万円とかなり安い。全然マメな性格じゃないし、時々ぷっつりと音信がとだえる弱小ブログなので、こんなところでしょう。どういうアルゴリズムで計算しているかは気になる。地道にやってしていくしかないんだろうな(ブログに限らず)。