Feed@Signでクリスマス用のコンピレーション、2種を配布しました。
Quiet Storm
01. Adriatic / Mount Kimbie 1:28
02. Step Pattern / Andres 3:08
03. Often Think To Myself / Mark 4:43
04. History (Feel The Vibe Remix) / ILL Suono 5:30
05. Life On The Ghetto Street / RADIQ 6:06
06. Happenin / Mark 5:39
07. Magic Fly Love Affair / Dorian 3:53
08. Low Shoulders / Toro Y Moi 3:37
09. Girls Dream / Maxmillion Dunbar 5:12
10. Every Kind Of People (Balearic Re-Work) / Robert Palmer 5:40
11. Tha Message / Ras G 2:59
12. Remember John W. Coltrane / Yesterday's New Quintet 1:47
13. We Almost Lost Detroit (Jay Todd Mix) / Gil Scott-Heron 2:05
14. Bobby / Ginger Does'em All 3:38
15. Losalamitoslatinfunklovesong / Gene Harris 3:10
16. Devil Weed And Me / Area Code 615 3:40
17. Where Am I / Tribe 7:08
18. Silver Circle / Jan Jelinek 4:15
File Under: Soulful Quiet Storm Balearic Urban Disco Edit House Music
Crystallographic
01. My Other Body / General Strike 3:52
02. Back To Sleep Back / The Ark 2:13
03. TIME PIE minute pie / Yamo 3:51
04. Miss Eternity / Atom & Masaki Sakamoto 5:16
05. Panorama / John Tejada 7:14
06. Flight 822 / dublee 6:57
07. Ping Pong / Sensorama 5:23
07. The Hysteric Song / März 5:20
09. Hung Markets / Seams 6:32
10. Vessel (Four Tet Remix) / Jon Hopkins 5:47
11. Same Dream China / Gold Panda 4:15
12. Hang For Bruno / Luciano 4:08
13. Surprise Stefani (Luke Abbott Remix) / Dan Deacon 6:15
14. White Diamond (Original Mix) / Hatchback 5:19
File Under: Winter Chill Warm Enfolding Dark Christallographic Electronic Music
「Quiet Storm」は元々「ido #2」の配布用に作ったのですが焼きとジャケが間に合わず(笑)、イベントに参加してもらった皆さんに内々で配布したものをさらに作り直したものです。Quiet Stormというのは、70年代後半に誕生したスロウ・ジャムなブラック・ミュージックを総称するジャンル名で(詳しくはWikipediaを参照ください)、スモーキー・ロビンソンがアルバム・タイトルにつけたことで知られるようになりました。いまではDJ Quietstormの方が日本では知られてるかと思いますが、この言葉の持つどこかミステリアスな響きが昔から好きです。厳密にはQuiet Stormじゃなくても気分としてそれを感じさせるような、デトロイト・ハウスやディスコ・エディットやバレアリックを横断するBPMが遅いダンス・ミュージックを中心に選びました。
「Crystallographic」は、J.G.バラードの「結晶世界」のBGMになりそうな(?)雪の結晶や鉱物=ミネラルを感じるミニマルな人肌電子音楽をセレクトしました。クラフトワークとマウス・オン・マーズのエッセンスが結合したYamoは90年代後半の古い作品ですが、今年いくつかのイベントでかけさせてもらい、自分の中ではレア・グルーヴなテクノとして再発見できたのがうれしい音源。9曲目以降は、去年から今年にかけて刺激を受けた音。Lucianoはこの並びだと展開があまりなくて厳密には飽きてしまうので、短くエディットしています(この空虚な退屈さも好みなのですが)。かといって、複雑で凝ったレフトフィールドな曲ばかり並べればいいかというとたぶんそんなことはなくて、ベタな例えですが、コース料理の最後にご飯と香の物をいただくような匙加減も必要で、その辺りは永遠の課題です。そんなことはともかく、このプレイリストを聴きながら、今はなきCISCO新宿店でバイヤーの東宮君にナビされてケルン・ハウス、ケルン・テクノを浴びるように聴いてた頃を思い出すのです。
'Feed' at Sign Gaienmae, Every 3rd Sunday
http://www.transit-web.com/shop/cafe/sign-gaienmae/
2010/12/22
2010/12/08
# : ido vol.2
直前のお知らせでスイマセン。今週土曜日、12.11に「井:ido」の2回目を開催することになりました。詳細は、「井:ido」の単独ブログを作りましたので、ソチラをご覧ください。
井 : ido Vol.2
2010.12.11 (Sat)
Open: 22:00 Start: 22:00
at 三軒茶屋Bar Orbit
http://bar-orbit.com/
Charge: 1000Yen (1Drink)
Disc Jockey(音楽を紹介する人): 服部全宏
Sound: Coyubi, Softcream, Eucalypso
Live Paint: 小田島等, Yum
http://idoit.posterous.com/2
2010/10/04
ido@BarOrbit
突然ですが、今週金曜日、三軒茶屋ORBITでラウンジなパーティをやらせていただくことになりました。ORBITでやられてるDJの皆さんは凄い人たちばかりなので気が引けてしまいますが、せっかくの機会なのでリラックスした感じで楽しみたいと思っています。今回は初めての試みで、Twitterで知り合ってまだ間もないCybeckさんをお誘いしてみました。多分に井の中の蛙な自分ですが、せっかくソーシャルなツールが身近にあるので活用していきたいなと思ったりしてます。ではでは、よろしくお願いします。
井 - ido -
2010.10.08 Fri. Open: 20.:00 Start 22:00
at Bar Orbit
http://bar-orbit.com/
Charge Free
Sound: hammer, cybeck, izumi-, eucalypso
「市井(しせい)」という言葉は、その昔、中国で井戸のある周辺に人家が集まったこと、または、市街で道が井の字の形をしていることに由来するそうです(三省堂「大辞林第二版」より)。かつて井戸を囲んだ市井の人、名もない人々のアノニマスな営為によって、日々の世界は作られています。「井」は、多種多様なマルチチュードな人と音がタテとヨコに交差する街路をイメージしたラウンジパーティです。井戸から汲み上げた水のような空間に浸りにいらしてください。
井 - ido -
2010.10.08 Fri. Open: 20.:00 Start 22:00
at Bar Orbit
http://bar-orbit.com/
Charge Free
Sound: hammer, cybeck, izumi-, eucalypso
「市井(しせい)」という言葉は、その昔、中国で井戸のある周辺に人家が集まったこと、または、市街で道が井の字の形をしていることに由来するそうです(三省堂「大辞林第二版」より)。かつて井戸を囲んだ市井の人、名もない人々のアノニマスな営為によって、日々の世界は作られています。「井」は、多種多様なマルチチュードな人と音がタテとヨコに交差する街路をイメージしたラウンジパーティです。井戸から汲み上げた水のような空間に浸りにいらしてください。
Burning Inside
舞踏家、振付師、女優として幅広く活動されている俵野枝さんが、先日「progresso 9#」@FIAT SPACEで発表した新作のダンス「Burning Inside 2010 - Short Version - 」のサウンド編集と一部の選曲を担当させていただきました。
野枝さんとのお仕事は、これで3度目になります。前回の覚え書きはコチラ。今回は、季節が近づいては過ぎ去っていくイメージを5分間のイントロで表現したいということで、春(川のせせらぎ、鳥)、夏(蝉、祭り囃子、花火、雷雨)、秋(カラス、稲穂の揺れる田園)、冬(除夜の鐘、木枯らし)をそれぞれの季節を表す楽曲とサウンド・エフェクトで構成しました。
前半のパートでは主人公の女性を「黒髪」という地唄舞の曲で具象的に描写し、後半のパートではその内面を野枝さんからのリクエストで坂本龍一の曲をミックスして抽象的に描写するという形になりました。1年くらい前に、坂本龍一の曲をいくつか焼いて渡していたのですが、まさか本当に使うことになるとは思わなかったです。
野枝さんには坂本も含むわりとリリカルなピアノの曲も聴いてもらったのですが、彼女のダンスそのものがウェットな要素が強いので、センチメンタルな音だとトゥーマッチになる、感情を抑えたフラットな音の方が強弱がついていいと言われ、なるほどと思いました。
ココからちょっと脱線します(↓)。
坂本の曲というのは、彼の理論武装や高度な作曲術うんぬんといった批評家が好みそうなレイヤーではなく、もっと素朴でベタな次元で現代人が抱える虚無=エンプティネスをすくい上げるところがあって(「戦メリ」とか「エナジー・フロウ」とかまさにそうですよね)、アンビエントの自浄作用とかいうとカッコイイけど、、坂本をここまでポピュラーにした良くも悪くも「癒し」という言葉にも通じる回路って改めて強いなと思うわけです。
これはシニカルに言ってるのではなく、癒しやセンチメントって野暮にも下品にもなりやすいし、私小説やケータイ小説などワタクシゴトの領域に向かいがちなのですが、坂本の曲はそういうベタついた感情を排除というか濾過していて、都会人を気取る(?)僕やあなたが心地よく浸れるだけの上質な天然素材やミネラルウォーターのような安全地帯を担保できるのです。
なんだか書いてるうちにイヤミな文章になってますが(汗)、ナンダカンダと20年くらい坂本さんの曲を愛憎込みで聴き続けていて、様子を見てはこっそりカフェでかけたりしますし、下世話に言えば、主張が控えめで使いやすくシーンを問わない彼の曲はツールとしても優れていると思います(あくまでDJ的な視点です。ファンから怒られそう)。
脱線終わり(↑)。
当日の公演は行けなかったのですが、かなりリアクションがあったそうで一安心しました。ラストに沢井忠夫という箏(琴)奏者の「鳥のように」という曲(野枝さんの選曲)が使われてるんですが、その沢井さんの息子さんに指導を受けている奏者の方が偶然お客さんで来ていたというサプライズもあったようです。「鳥のように」を編集中に何度も聴きましたが、日本の伝統音楽に明るくない僕でも素直にカッコイイ!と思える、モダンでエモでちょっとプログレやサイケの匂いも感じなくはない楽曲です。さらに、沢井忠夫がジャズやクラシックにも越境していた音楽家だと知り、そのまったく古びない自由な音楽をちゃんと聴いてみたいと思いました。
Playlist
Intro
River Walk (天気雨) - Hajime Yoshizawa, GoRo
ぼくのかけら (with ダンスリー) - 坂本龍一
Amb - Rafael Toral
Mix
glacier- 坂本龍一
tama- 坂本龍一
国防総省 - 坂本龍一
野枝さんとのお仕事は、これで3度目になります。前回の覚え書きはコチラ。今回は、季節が近づいては過ぎ去っていくイメージを5分間のイントロで表現したいということで、春(川のせせらぎ、鳥)、夏(蝉、祭り囃子、花火、雷雨)、秋(カラス、稲穂の揺れる田園)、冬(除夜の鐘、木枯らし)をそれぞれの季節を表す楽曲とサウンド・エフェクトで構成しました。
前半のパートでは主人公の女性を「黒髪」という地唄舞の曲で具象的に描写し、後半のパートではその内面を野枝さんからのリクエストで坂本龍一の曲をミックスして抽象的に描写するという形になりました。1年くらい前に、坂本龍一の曲をいくつか焼いて渡していたのですが、まさか本当に使うことになるとは思わなかったです。
野枝さんには坂本も含むわりとリリカルなピアノの曲も聴いてもらったのですが、彼女のダンスそのものがウェットな要素が強いので、センチメンタルな音だとトゥーマッチになる、感情を抑えたフラットな音の方が強弱がついていいと言われ、なるほどと思いました。
ココからちょっと脱線します(↓)。
坂本の曲というのは、彼の理論武装や高度な作曲術うんぬんといった批評家が好みそうなレイヤーではなく、もっと素朴でベタな次元で現代人が抱える虚無=エンプティネスをすくい上げるところがあって(「戦メリ」とか「エナジー・フロウ」とかまさにそうですよね)、アンビエントの自浄作用とかいうとカッコイイけど、、坂本をここまでポピュラーにした良くも悪くも「癒し」という言葉にも通じる回路って改めて強いなと思うわけです。
これはシニカルに言ってるのではなく、癒しやセンチメントって野暮にも下品にもなりやすいし、私小説やケータイ小説などワタクシゴトの領域に向かいがちなのですが、坂本の曲はそういうベタついた感情を排除というか濾過していて、都会人を気取る(?)僕やあなたが心地よく浸れるだけの上質な天然素材やミネラルウォーターのような安全地帯を担保できるのです。
なんだか書いてるうちにイヤミな文章になってますが(汗)、ナンダカンダと20年くらい坂本さんの曲を愛憎込みで聴き続けていて、様子を見てはこっそりカフェでかけたりしますし、下世話に言えば、主張が控えめで使いやすくシーンを問わない彼の曲はツールとしても優れていると思います(あくまでDJ的な視点です。ファンから怒られそう)。
脱線終わり(↑)。
当日の公演は行けなかったのですが、かなりリアクションがあったそうで一安心しました。ラストに沢井忠夫という箏(琴)奏者の「鳥のように」という曲(野枝さんの選曲)が使われてるんですが、その沢井さんの息子さんに指導を受けている奏者の方が偶然お客さんで来ていたというサプライズもあったようです。「鳥のように」を編集中に何度も聴きましたが、日本の伝統音楽に明るくない僕でも素直にカッコイイ!と思える、モダンでエモでちょっとプログレやサイケの匂いも感じなくはない楽曲です。さらに、沢井忠夫がジャズやクラシックにも越境していた音楽家だと知り、そのまったく古びない自由な音楽をちゃんと聴いてみたいと思いました。
Playlist
Intro
River Walk (天気雨) - Hajime Yoshizawa, GoRo
ぼくのかけら (with ダンスリー) - 坂本龍一
Amb - Rafael Toral
Mix
glacier- 坂本龍一
tama- 坂本龍一
国防総省 - 坂本龍一
2010/08/15
SUM/ME/R
もともと5月に児玉画廊で行われた「デザイン茶会」というケンチク系イベントのオープニング前後に流した静かめな曲を、改めて配布用のコンピとして選曲し直したものです。振り返りモード全開な、わかる人には丸わかりなベタで恥ずかしい選曲ですが。
こうして集めてみると、僕が勝手に標榜している「壁紙音楽」というのは、情景描写音楽なんだなと。エレベーター・ミュージック/スーパーマーケット・ミュージック/ミューザックみたいに聞き流せる音楽だけど、ディープ・リスニングにも耐えうるような、中間項の音楽なんだと思います。
どの曲も、昔よく聴いてたり、最近部屋から発掘して改めて再発見したものだったり。春に引っ越ししたときに高校、大学、社会人になってから作ったコンピレーションのカセットテープがわんさか出てきて、同じようなことを飽きずに何十年もやってきたんだなと呆れました。
(以下、曲紹介をちょっとだけ)
アルファはFEED@SIGNでレギュラーでやってもらってるIWALSKY君がある日かけていて、そういえば!と思い出しました。まさに日だまりダブ。
ガブリエル・ヤレドのサントラ「ベティ・ブルー」からボサノヴァのリズムでメインテーマを変奏した曲は、打ち込みによるサンプリング音が次第に絡み、ウォリー・バダルーのようなクールネスを醸し出しています。このような響きがなんでもありになったゼロ〜2010年代にナゼ継承されないのか、というのは僕の中でひとつの課題です。
ヘルメート・パスコアールは、この並びの中で一番古い録音ですが、多重録音された管楽器のアンサンブル、生音による饒舌なミニマル・ミュージック、その瑞々しい響きの強度にヤラれます(録音が飛び抜けていいのもありますね)。
マッドリブの音はジャクソン・コンティに限らず、デカイ音で聴くとダンス・ミュージックとして機能し、そうでなくてもリスニングに最適化されるという、理想的な壁紙音楽です。イヴァン・コンティのドラムが最高。
オザケンに関しては同時代の人ながらあまりちゃんと追いかけてなかったのですが、「毎日の環境学」はそのエコロジカルなパッケージをウソっぽくしない内実のあるポストロックとワールドとダブが混じった素晴らしい演奏が詰まってます。
SUM/ME/R
- SUM of MEmoRies of SUMMER -
01 Tiki Tiki Too - Chari Chari
02 Penguin Cafe Single - Penguin Cafe Orchestra
03 Download Sofist - Mouse On Mars
04 Modular Mix - Air
05 Hazeldub - Alpha
06 Chile Con Carne - Gabriel Yared
07 Banda Encarnação - Hermeto Pascoal
08 Praça da Republica - Jackson Conti
09 The Sea (I Can Hear Her Breathing) - Kenij Ozawa
10 Sprout - Masayasu Tzboguchi Trio
11 Discover Tokyo - Shuta Hasunuma
12 The Suspension Bridge At Iguaz' Falls - Tortoise
13 Journey's Homes - Savath & Savalas
14 Shisheido - Christian Fennesz
15 Vacant - Combo Piano
16 Cavatina (Myers) - Hiroshi Fujiwara
Drop Of Sound
先日、「Drop Of Sound」というイベントでかけた曲のプレイリストをアップします。民族音楽や土臭い音からダブステップ、遅めのハウス、ブレイクスという括りでやりました。その前の麹町画廊でやれなかった夏っぽい感じもちょっと意識しました。このところ、フォーテットのミックスを気に入って聴いてたので、その影響が露骨に伺えます(笑)。この中で一番気に入ってる楽曲は、To Rococo RotのShackletonミックス。挿入されたスピーチ+アンビエントなサウンドのレイヤー+ダブステップなリズムによるイメージ喚起力がスゴイ。
ちなみに、便宜上告知などで「DJ」という言葉を使いますが、自分のことを「DJ」だと思ったことはありません。それは、プロフェッショナルなDJに対しておこがましいという気持ちと、自分のやってることは「DJ」というより「選曲家」(桑原茂一さんが広めた言葉で、これもご大層な感じでかしこまってしまいます)というよりむしろ「ディスクジョッキー」=「ラジオやイベントなどで曲を紹介する人」という平たい言い方がしっくり来るのでは?と思ってるからです。
'Drop Of Sound' at Office Gaienmae 2010.07.31
Thursday, August 9, 2007 - Carlos Niño & Friends
Room Runner - Libro
Voice Of The World - Shingo Suzuki
Tha Free Up (Party People) - Ras G
Latinidad Mio - Epstein
Saturday - KuroiOto
Summertime Is Here - Theo Parrish
People ~ finale - RADIQ
You Don't Wash (Actress' Negril Mix) - Kode9
Wing Body Wing - Four Tet
My Teenager Gang - Minilogue
Fridays (Shackleton's West Green Rd Remix) - To Rococo Rot
Gravity - Lusine
Okinawa Song - Chin Nuku Juushii - Ryuichi Sakamoto
Ah! - Oval
Post Atmosphere (Baths Remix) - Shlohmo
MmmHmm - Flying Lotus
ちなみに、便宜上告知などで「DJ」という言葉を使いますが、自分のことを「DJ」だと思ったことはありません。それは、プロフェッショナルなDJに対しておこがましいという気持ちと、自分のやってることは「DJ」というより「選曲家」(桑原茂一さんが広めた言葉で、これもご大層な感じでかしこまってしまいます)というよりむしろ「ディスクジョッキー」=「ラジオやイベントなどで曲を紹介する人」という平たい言い方がしっくり来るのでは?と思ってるからです。
'Drop Of Sound' at Office Gaienmae 2010.07.31
Thursday, August 9, 2007 - Carlos Niño & Friends
Room Runner - Libro
Voice Of The World - Shingo Suzuki
Tha Free Up (Party People) - Ras G
Latinidad Mio - Epstein
Saturday - KuroiOto
Summertime Is Here - Theo Parrish
People ~ finale - RADIQ
You Don't Wash (Actress' Negril Mix) - Kode9
Wing Body Wing - Four Tet
My Teenager Gang - Minilogue
Fridays (Shackleton's West Green Rd Remix) - To Rococo Rot
Gravity - Lusine
Okinawa Song - Chin Nuku Juushii - Ryuichi Sakamoto
Ah! - Oval
Post Atmosphere (Baths Remix) - Shlohmo
MmmHmm - Flying Lotus
2010/08/13
イビツなフィクションとしての「インセプション」
クリストファー・ノーラン監督の「インセプション」を観た。(*ネタバレあり)
前作「ダークナイト」のような重量級の手応えを勝手に期待していたので、「007」を意識したというノーラン自身の発言の通り、軽快なタッチで展開する物語に最初はのめり込めなかった。緻密だと評されてるわりにスッポヌケてるところもあり、バットマン・シリーズの重圧から逃れて自由にノビノビと作家性を発揮するとこうなるのか、などと思っているうちに、この映画の持つイビツなおもしろさに惹きつけられていった。
前作「ダークナイト」はもともと荒唐無稽なフィクションであるアメコミを限りなくリアリズムに近づけることで、ゴッサム・シティはシカゴという現実の街に、ジョーカーはヒース・レジャーという現実の肉体に置き換えられ、「正義なんてとうに形骸化していて、むしろジョーカーの体現する悪の方がアクチュアルなんじゃないの?」という倫理観を揺さぶるところまで踏み込んだ、ヘヴィな起爆力を持った作品だった。
「インセプション」の場合はちょうどその逆のヴェクトルで成立していて、パリや東京やタンジールといった現実空間で(時制もおそらく現在)、アタッシュケースに入ったローテク過ぎるガジェットと薬剤を使って他人の夢に潜入する技術が体系化され、産業スパイの仕事として成立している世界が展開される。リアリズムをベースにした、一昔前のB級SFめいた荒唐無稽なフィクションで、クラシックな意匠に覆われている。
「ダークナイト」と違って完全オリジナルということもあり、「この世界はこういう因果律で回っているんだよ」という送り手と受け手が共有すべき根っこにあるコンセンサスは提示されず、夢の世界のルールは理路整然と細かく説明される。このイビツな非対称性。SF小説であれば最初の何十頁かを割く、フィクションを駆動させるために必要な世界観の説明を省いてるので、リアリズムのベースの上に乗っかってる「夢を操作する」というフィクショナルなバカバカしさに首をかしげてしまうと、この映画にハマれなくなってしまう。
ノーランはそこはおそらく了解済みで、導入部からいま映っている画面が現実なのかそれとも夢なのかを絶えず観客に意識させることで不安を持続させ、現実と夢を分け隔てるのはカットの切り替えだけという映画の原理を利用して、現実と夢の地続き(というか地滑り?)を詐術として語ることにのみ心血を注いでいる。この作家主義なアプローチが世界中の人が観るメジャー資本の映画であることと齟齬が生じるのは当然で、そこもイビツである。
プロット自体は、各地に散らばった仲間を集めてミッションに挑むという、ケイパーものと呼ばれるジャンルに忠実でシンプル。キャラクターの活かし方や物語内での配置はかなりツイストしてあって、ディカプリオ(コブ)がリーダーをつとめるチームの仲間が、犯罪映画であるにも関わらず全員イイヤツで最後まで裏切らないというのに、まずもって驚くし、敵らしい敵もいない(このへんも途中まで「ダークナイト」に比べて「軽い」と思ってしまった理由のひとつ)。
これは、「千と千尋」以降の宮崎駿が意識的に描いてきた善悪を超越した世界観にも通じるところで、「われわれの世界ですでに始まりつつあるのは、「悪」が消滅し、「対立」や「抑圧」が人工的にしか存在しえない世界である」という、粉川哲夫が「9(ナイン)」のレビューで書いていた言葉が、そのまま「インセプション」の内実を言い当てている。
渡辺謙(サイトー)は超巨大企業のVIPで権力者で東洋人というリアリティのないキャラクター設定で、準主役級の扱いながら、後半はほぼ死体のようにそこに倒れている。どういうことなんだ?と思ってると、リンボー(字幕では「虚無」と意訳されていた、直訳すると「辺獄」=地獄の辺土)でサイトーとコブと対峙する最後のシーンが最初とつながり、渡辺謙の立ち位置が物語を一歩引いて見ている観察者=オブザーバー、現実世界ではコブにミッションを委任するクライアントでありつつ、コブより先に夢の迷宮であるリンボーをさまよう、夢先案内人というか魂の共犯者のような存在であることがわかる。
無重力のホテルでサイレントで優雅なアクションを担当するのは、チーム内で一番草食男子っぽい優男のジョセフ・ゴードン=レヴィット(アーサー)で、これは「マトリックス」的な、あるいは、ブラッカイマー的なスピーディーで物量主義なアクションに対するツイストになっている。
前半、パリの街をねじ曲げたり鏡合わせしたりアイキャンディな夢で魅了するエレン・ペイジ(アリアドネ)が、後半の山場でその能力をまったく発揮しないのは、VFXのドーピングに馴れた観客に対するツイストとも取れるし、コブのトラウマに物語がフォーカスするにつれ、アリアドネがコブのカウンセラーとなり代理母のようにふるまうという、役割のズラしがある。
最も強力なツイストであり物語のフックとなるキャラクターは、コブの妻、マリオン・コティヤール(モル)。モルは即物的にいきなり画面に現れ、コブに対する精神的DVを容赦なく実行する。映画内ルールを突き破るような侵犯者であるモルの登場するシークエンスはホラーそのもので、いくらでも扇情的で生理に訴えかけるサスペンスフルな映像表現に頼れそうなのに、そういう思わせぶりで下品なことをノーランはやらない。
夢をインスピレーションの源泉として扱うデヴィッド・リンチが作る、潜在意識を直接ダウンロードするようなエロティックで扇情的な映画とも違うし(「マルホランド・ドライブ」の伏線の畳み方を夢で思いついたとリンチ本人が告白している)、スパイク・ジョーンズやミシェル・ゴンドリーのような人がスラップスティックな知的操作として夢を扱う手つきとも違う。
良く言えば、生真面目で禁欲的な演出、悪く言えば、エロスが足りない。ノーランは丹念にロジックを積み上げていって大づかみに狙ったものに直球を投げる無骨な人、なんというか、「唯物論者」っぽい気がする(この言い方は適当じゃないだろうけど)。同じくイギリス人の監督ということで、この映画を観ている間、ずっと頭にあったのが、男がファム・ファタールの亡霊=ファントムに幻惑されるというプロットがそっくりなヒッチコックの「めまい」だった。
モルが何かやらかすたび、僕は映画館で不謹慎な笑いを噛み締めていたのだけれど、潜在意識だかイドの怪物だかがセルフコントロールを失って現実(「インセプション」では夢)を浸食していくという、フィリップ・K・ディック的な現実崩壊感覚のトラジコミカルな様相を、ノーランはうまくキャラクタライゼーションとして映画に落とし込んでいる。スラヴォイ・ジジェクだったら、夢が階層構造になってるという、この精神分析ホイホイな映画をどう解説するのか、興味深い(*1)。
ノーランの処女作「メメント」のアイディアは画期的だったけど、主人公が選択する運命の分岐をイーブンに均等の配分で演出することで、「それってどっちに転んでも同じじゃない? つまりは、なんでもアリなのでわ?」という構造的な弱点を抱えていた。仮想現実をゲームのように描いたクローネンバーグの「イグジステンズ」と同じ陥穽にハマっていたというか。「マトリックス」シリーズは、あらかじめ設計された仮想現実内でしか自由を行使しえないという鋭い批評性が、ヒーローの全能感や自己肯定にスリ寄るうちに消えてしまい、つまらなくなってしまった。
不自由な現実に対する自由なフィクションの優位性は、なんでもアリになってしまった途端にその魅力を失効してしまう。これは現実なのか夢なのかという、(町山智浩が「インセプション」について語った言葉を借りれば)「無限後退」していく悪夢のような後味の悪さは、物語はいくらでも何度でもリセットして再生産できるという留保とワンセットなので、本来的に気持ち悪いのだ。
「インセプション」では、先行する諸作品のこうした欠点を、1つは映画内にルールを設けてなんでもアリな自由を制御・制限することで、もう1つはトラウマを克服するという、それ自体はありきたりで古典的だがエモーショナルなドラマを中心に据えることで、クリアしているように思う。コブは自ら作り上げた居心地のいい夢の牢獄、まさにアーキテクチャに自分を縛りつけている幻影に対峙しケリをつける。これは「ゲド戦記」のモダンなヴァージョンにも思える。
コブは自分を現実につなぎとめる唯一の依り代だった子供を取り戻す代償として、モルを失う。映画を通じて、コブは変化し成長し、彼の選択した分岐が意味を持つことが明らかになる。ラスト、自宅の居間で一瞬「??」と怪訝そうな顔をしたコブが、コマが回り続けるかどうかを確認せず子供が待つ庭に向かうのは、分岐による結末がどうであろうと、それを引き受けるという意志の現れだろう(*2)。
この映画のスッキリした後味のよさは、夢や仮想現実を扱ってきた先行作品の後味の悪さを批判的に継承して交通整理できたからこそ生まれたものだ。結果としてハリウッド製エンタメの枠内に収まる家族の神話という倫理コードに添った形になってはいるけれど。この作品の面白さと表裏一体の退屈さは、「マトリックス」が公開された10年前と比べても、仮想現実のありようがより日常レベルに取り込まれたフェーズに入っていることの証明でもあり、エンタメが今後この(各人に最適化され島宇宙化した)新しいリアリティを描くことの困難を、計らずも示していると見ることもできる。
ピカレクス・ロマンだった「ダークナイト」とは逆のヴェクトルで、2010年代に作られるべくして作られたこの作品で、僕の中でノーランはフィンチャーと並んでメジャーグラウンドでチャレンジングなことをやってくれる楽しみな人になった(*3)。
雑感。「バットマン・ビギンズ」のときはヒドかった、なにかとムラのあるノーランのアクション演出。今回も雪山の戦いでは誰が何をやってるのかよくわからず、スリルのなさがちょっと異常。あそこを大幅にカットすれば、もっと締まったんじゃないかと思った。逆に、雪山と同時進行する無重力のホテルでのシークエンスは素晴らしく(メイキング映像を観ると、ポスト・プロダクションに頼らない、かなり大掛かりなセットを組んでいて、それがあのリアリティを生み出している)、渡辺謙の額のあたりに血球が浮かんでるカットは、個人的に本作のベストショット。
*1=春頃に観た「スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド」は、ジジェク本人がシリアスに映画を語れば語るほどコメディになっていくという、パラドキシカルな怪作だった。
*2=このジャンルの先駆者として誰もが認める押井守だが、彼は「スカイ・クロラ」でも無限後退する閉じた世界という美学にこだわるあまり、主人公のベタな成長を描くことができなかった。
*3=この2人はキューブリックの継承者ということでも似ていると思う。
前作「ダークナイト」のような重量級の手応えを勝手に期待していたので、「007」を意識したというノーラン自身の発言の通り、軽快なタッチで展開する物語に最初はのめり込めなかった。緻密だと評されてるわりにスッポヌケてるところもあり、バットマン・シリーズの重圧から逃れて自由にノビノビと作家性を発揮するとこうなるのか、などと思っているうちに、この映画の持つイビツなおもしろさに惹きつけられていった。
前作「ダークナイト」はもともと荒唐無稽なフィクションであるアメコミを限りなくリアリズムに近づけることで、ゴッサム・シティはシカゴという現実の街に、ジョーカーはヒース・レジャーという現実の肉体に置き換えられ、「正義なんてとうに形骸化していて、むしろジョーカーの体現する悪の方がアクチュアルなんじゃないの?」という倫理観を揺さぶるところまで踏み込んだ、ヘヴィな起爆力を持った作品だった。
「インセプション」の場合はちょうどその逆のヴェクトルで成立していて、パリや東京やタンジールといった現実空間で(時制もおそらく現在)、アタッシュケースに入ったローテク過ぎるガジェットと薬剤を使って他人の夢に潜入する技術が体系化され、産業スパイの仕事として成立している世界が展開される。リアリズムをベースにした、一昔前のB級SFめいた荒唐無稽なフィクションで、クラシックな意匠に覆われている。
「ダークナイト」と違って完全オリジナルということもあり、「この世界はこういう因果律で回っているんだよ」という送り手と受け手が共有すべき根っこにあるコンセンサスは提示されず、夢の世界のルールは理路整然と細かく説明される。このイビツな非対称性。SF小説であれば最初の何十頁かを割く、フィクションを駆動させるために必要な世界観の説明を省いてるので、リアリズムのベースの上に乗っかってる「夢を操作する」というフィクショナルなバカバカしさに首をかしげてしまうと、この映画にハマれなくなってしまう。
ノーランはそこはおそらく了解済みで、導入部からいま映っている画面が現実なのかそれとも夢なのかを絶えず観客に意識させることで不安を持続させ、現実と夢を分け隔てるのはカットの切り替えだけという映画の原理を利用して、現実と夢の地続き(というか地滑り?)を詐術として語ることにのみ心血を注いでいる。この作家主義なアプローチが世界中の人が観るメジャー資本の映画であることと齟齬が生じるのは当然で、そこもイビツである。
プロット自体は、各地に散らばった仲間を集めてミッションに挑むという、ケイパーものと呼ばれるジャンルに忠実でシンプル。キャラクターの活かし方や物語内での配置はかなりツイストしてあって、ディカプリオ(コブ)がリーダーをつとめるチームの仲間が、犯罪映画であるにも関わらず全員イイヤツで最後まで裏切らないというのに、まずもって驚くし、敵らしい敵もいない(このへんも途中まで「ダークナイト」に比べて「軽い」と思ってしまった理由のひとつ)。
これは、「千と千尋」以降の宮崎駿が意識的に描いてきた善悪を超越した世界観にも通じるところで、「われわれの世界ですでに始まりつつあるのは、「悪」が消滅し、「対立」や「抑圧」が人工的にしか存在しえない世界である」という、粉川哲夫が「9(ナイン)」のレビューで書いていた言葉が、そのまま「インセプション」の内実を言い当てている。
渡辺謙(サイトー)は超巨大企業のVIPで権力者で東洋人というリアリティのないキャラクター設定で、準主役級の扱いながら、後半はほぼ死体のようにそこに倒れている。どういうことなんだ?と思ってると、リンボー(字幕では「虚無」と意訳されていた、直訳すると「辺獄」=地獄の辺土)でサイトーとコブと対峙する最後のシーンが最初とつながり、渡辺謙の立ち位置が物語を一歩引いて見ている観察者=オブザーバー、現実世界ではコブにミッションを委任するクライアントでありつつ、コブより先に夢の迷宮であるリンボーをさまよう、夢先案内人というか魂の共犯者のような存在であることがわかる。
無重力のホテルでサイレントで優雅なアクションを担当するのは、チーム内で一番草食男子っぽい優男のジョセフ・ゴードン=レヴィット(アーサー)で、これは「マトリックス」的な、あるいは、ブラッカイマー的なスピーディーで物量主義なアクションに対するツイストになっている。
前半、パリの街をねじ曲げたり鏡合わせしたりアイキャンディな夢で魅了するエレン・ペイジ(アリアドネ)が、後半の山場でその能力をまったく発揮しないのは、VFXのドーピングに馴れた観客に対するツイストとも取れるし、コブのトラウマに物語がフォーカスするにつれ、アリアドネがコブのカウンセラーとなり代理母のようにふるまうという、役割のズラしがある。
最も強力なツイストであり物語のフックとなるキャラクターは、コブの妻、マリオン・コティヤール(モル)。モルは即物的にいきなり画面に現れ、コブに対する精神的DVを容赦なく実行する。映画内ルールを突き破るような侵犯者であるモルの登場するシークエンスはホラーそのもので、いくらでも扇情的で生理に訴えかけるサスペンスフルな映像表現に頼れそうなのに、そういう思わせぶりで下品なことをノーランはやらない。
夢をインスピレーションの源泉として扱うデヴィッド・リンチが作る、潜在意識を直接ダウンロードするようなエロティックで扇情的な映画とも違うし(「マルホランド・ドライブ」の伏線の畳み方を夢で思いついたとリンチ本人が告白している)、スパイク・ジョーンズやミシェル・ゴンドリーのような人がスラップスティックな知的操作として夢を扱う手つきとも違う。
良く言えば、生真面目で禁欲的な演出、悪く言えば、エロスが足りない。ノーランは丹念にロジックを積み上げていって大づかみに狙ったものに直球を投げる無骨な人、なんというか、「唯物論者」っぽい気がする(この言い方は適当じゃないだろうけど)。同じくイギリス人の監督ということで、この映画を観ている間、ずっと頭にあったのが、男がファム・ファタールの亡霊=ファントムに幻惑されるというプロットがそっくりなヒッチコックの「めまい」だった。
モルが何かやらかすたび、僕は映画館で不謹慎な笑いを噛み締めていたのだけれど、潜在意識だかイドの怪物だかがセルフコントロールを失って現実(「インセプション」では夢)を浸食していくという、フィリップ・K・ディック的な現実崩壊感覚のトラジコミカルな様相を、ノーランはうまくキャラクタライゼーションとして映画に落とし込んでいる。スラヴォイ・ジジェクだったら、夢が階層構造になってるという、この精神分析ホイホイな映画をどう解説するのか、興味深い(*1)。
ノーランの処女作「メメント」のアイディアは画期的だったけど、主人公が選択する運命の分岐をイーブンに均等の配分で演出することで、「それってどっちに転んでも同じじゃない? つまりは、なんでもアリなのでわ?」という構造的な弱点を抱えていた。仮想現実をゲームのように描いたクローネンバーグの「イグジステンズ」と同じ陥穽にハマっていたというか。「マトリックス」シリーズは、あらかじめ設計された仮想現実内でしか自由を行使しえないという鋭い批評性が、ヒーローの全能感や自己肯定にスリ寄るうちに消えてしまい、つまらなくなってしまった。
不自由な現実に対する自由なフィクションの優位性は、なんでもアリになってしまった途端にその魅力を失効してしまう。これは現実なのか夢なのかという、(町山智浩が「インセプション」について語った言葉を借りれば)「無限後退」していく悪夢のような後味の悪さは、物語はいくらでも何度でもリセットして再生産できるという留保とワンセットなので、本来的に気持ち悪いのだ。
「インセプション」では、先行する諸作品のこうした欠点を、1つは映画内にルールを設けてなんでもアリな自由を制御・制限することで、もう1つはトラウマを克服するという、それ自体はありきたりで古典的だがエモーショナルなドラマを中心に据えることで、クリアしているように思う。コブは自ら作り上げた居心地のいい夢の牢獄、まさにアーキテクチャに自分を縛りつけている幻影に対峙しケリをつける。これは「ゲド戦記」のモダンなヴァージョンにも思える。
コブは自分を現実につなぎとめる唯一の依り代だった子供を取り戻す代償として、モルを失う。映画を通じて、コブは変化し成長し、彼の選択した分岐が意味を持つことが明らかになる。ラスト、自宅の居間で一瞬「??」と怪訝そうな顔をしたコブが、コマが回り続けるかどうかを確認せず子供が待つ庭に向かうのは、分岐による結末がどうであろうと、それを引き受けるという意志の現れだろう(*2)。
この映画のスッキリした後味のよさは、夢や仮想現実を扱ってきた先行作品の後味の悪さを批判的に継承して交通整理できたからこそ生まれたものだ。結果としてハリウッド製エンタメの枠内に収まる家族の神話という倫理コードに添った形になってはいるけれど。この作品の面白さと表裏一体の退屈さは、「マトリックス」が公開された10年前と比べても、仮想現実のありようがより日常レベルに取り込まれたフェーズに入っていることの証明でもあり、エンタメが今後この(各人に最適化され島宇宙化した)新しいリアリティを描くことの困難を、計らずも示していると見ることもできる。
ピカレクス・ロマンだった「ダークナイト」とは逆のヴェクトルで、2010年代に作られるべくして作られたこの作品で、僕の中でノーランはフィンチャーと並んでメジャーグラウンドでチャレンジングなことをやってくれる楽しみな人になった(*3)。
雑感。「バットマン・ビギンズ」のときはヒドかった、なにかとムラのあるノーランのアクション演出。今回も雪山の戦いでは誰が何をやってるのかよくわからず、スリルのなさがちょっと異常。あそこを大幅にカットすれば、もっと締まったんじゃないかと思った。逆に、雪山と同時進行する無重力のホテルでのシークエンスは素晴らしく(メイキング映像を観ると、ポスト・プロダクションに頼らない、かなり大掛かりなセットを組んでいて、それがあのリアリティを生み出している)、渡辺謙の額のあたりに血球が浮かんでるカットは、個人的に本作のベストショット。
*1=春頃に観た「スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド」は、ジジェク本人がシリアスに映画を語れば語るほどコメディになっていくという、パラドキシカルな怪作だった。
*2=このジャンルの先駆者として誰もが認める押井守だが、彼は「スカイ・クロラ」でも無限後退する閉じた世界という美学にこだわるあまり、主人公のベタな成長を描くことができなかった。
*3=この2人はキューブリックの継承者ということでも似ていると思う。
2010/07/18
愚直に率直に実直にやるということ
この2日ばかりで、「進撃の巨人」という漫画の1・2巻を読みました。普段は漫画喫茶に駆け込むのですが、珍しくこれはちゃんと腰を据えて読みたいと購入し、そして、その予感が間違ってなかった、という幸福な出会いを果たしました。真っすぐに何かに対峙してそれを婉曲的でなく描く(もちろん、そこには時代の要請や作家本人の企みによるネジレや迂回はあるわけですが)、こういうストレートフォワードなアプローチというか表現が、このところつとに気になるしアガります。下に貼った楽曲も、そのストレートさに惹かれてヘビロテしているもの。「進撃の巨人」については、今度ちゃんとレビューします。以下、文章が音楽に浸りつつ書いたのでウワついてますが、そのままアップします。
Flying Lotus - MmmHmm
サンダーキャットのベースの雄弁なフレーズが、この曲を単なるループするトラックから救い出し、ジ・オーブとマーティン・デニーをミックスしたようなPVが、笑っちゃうほど愚直に内的探求の旅へと誘う。マジにドープでスモーカーズ・ディライトだぜとウソぶいても、気づいたら何回もリピートしているプレーンソング。
「It's plain to see for you and me, love. It cannot hide. Just be who you are.」
( あなたとわたしのために率直に愛を理解するということ。隠す必要はない。ただあるがままでいればいい。)
環ROY - Break Boy in the Dream feat.七尾旅人
コム・デ・ギャルソンやプラダの店の前で佇むなんて、それなんて都会のありふれたイメージ?という意地悪な見方は、この気恥ずかしいまでにナイーブで前向きなステートメントの前で消え失せる。「すごくすごいものつくりたくて」。Bボーイズムなんて肩をいからせてないで、身軽になろうよ、と。ロロロによるニカなメロウネスは決して耳新しくはないけど、これでイーノだ、と思う。「Rollin' Rollin'」に続く、バックトゥナインティーズな側面もある、フラットな日常生活から生まれた等身大のラップと歌。
Autechre - Lowride
最後は古い曲でごめんなさい。いまのオウテカしか知らない人がこれをブラインドで聴いてオウテカとわかるかどうか。「Summer Madness」を丸々サンプリングした、いかにも90年代半ばだよなぁというザックリとしたトラック・メイキング。刻んでナンボの昨今のEDIT界隈から見ると、「素材そのままを味わってください」と言うシンプル・レシピが「こねくりまわすのもいいけど、これでいいんじゃね?」的に耳元でエクスキューズしたり、しなかったり。
Feed@Sign外苑前
2010.07.18 19:00 - 23:00
Sound: Kid Neri, CONV2U, EDM, Eucalypso
Charge: Free
*カフェの通常営業時間内に音楽をかけていますので飲食代はかかります。
Flying Lotus - MmmHmm
サンダーキャットのベースの雄弁なフレーズが、この曲を単なるループするトラックから救い出し、ジ・オーブとマーティン・デニーをミックスしたようなPVが、笑っちゃうほど愚直に内的探求の旅へと誘う。マジにドープでスモーカーズ・ディライトだぜとウソぶいても、気づいたら何回もリピートしているプレーンソング。
「It's plain to see for you and me, love. It cannot hide. Just be who you are.」
( あなたとわたしのために率直に愛を理解するということ。隠す必要はない。ただあるがままでいればいい。)
環ROY - Break Boy in the Dream feat.七尾旅人
コム・デ・ギャルソンやプラダの店の前で佇むなんて、それなんて都会のありふれたイメージ?という意地悪な見方は、この気恥ずかしいまでにナイーブで前向きなステートメントの前で消え失せる。「すごくすごいものつくりたくて」。Bボーイズムなんて肩をいからせてないで、身軽になろうよ、と。ロロロによるニカなメロウネスは決して耳新しくはないけど、これでイーノだ、と思う。「Rollin' Rollin'」に続く、バックトゥナインティーズな側面もある、フラットな日常生活から生まれた等身大のラップと歌。
Autechre - Lowride
最後は古い曲でごめんなさい。いまのオウテカしか知らない人がこれをブラインドで聴いてオウテカとわかるかどうか。「Summer Madness」を丸々サンプリングした、いかにも90年代半ばだよなぁというザックリとしたトラック・メイキング。刻んでナンボの昨今のEDIT界隈から見ると、「素材そのままを味わってください」と言うシンプル・レシピが「こねくりまわすのもいいけど、これでいいんじゃね?」的に耳元でエクスキューズしたり、しなかったり。
Feed@Sign外苑前
2010.07.18 19:00 - 23:00
Sound: Kid Neri, CONV2U, EDM, Eucalypso
Charge: Free
*カフェの通常営業時間内に音楽をかけていますので飲食代はかかります。
2010/07/04
Pinkman Soft Cream Exhibition Opening Party
Pinkman Soft Cream Exhibition Opening Party 2010.7.03 (SAT) 20:00-21:00 @ 麹町画廊
Holger Czukay - Persian Love
Van Dyke Parks - Steelband Music
John Gibbs And The Unlimited Sound Of Steel Orchestra - Steel Funk (Inst)
Brian Eno & David Byrne - Jezebel Spirit
The Books - A Cold Freezin' Night
General Strike - Interplanetary Music
Cabaret Voltaire - Nag Nag Nag (Akufen's Karaoke Slam Mix)
□□□ - Summertime
Tes - Space Travel (Tofubeats Ghetto Mix)
Hidenobu Ito - Deep The Flag (Funk Method 4 T.Kadomatsu)
Y.M.O. - Tighten Up (The Robert Gordon Remix)
Luke Vibert - Brain Rave
大貫妙子 / UR - The City Is The High-Tech Jazz
Dublee - Bounce
曽我部恵一 - サマー・シンフォニー
Rammelzee Vs K-Rob - Beat Bop
'Cyclichedelic Mix' by Eucalypso
さいとうりょうた君の個展オープニングに参加させていただきました。当日、画廊というよりカウンターもある居酒屋風+ミラーボールと提灯もある空間で、来ていただいた皆さん、他のDJの方々の選曲共々、楽しい時間を過ごせたので、ひさしぶりにプレイリストをUPしてみます。展覧会は2週間やってますので、興味のある方は足を伸ばしてみてください。
ソフトクリーム/渦巻き/夏がお題だったので、最初はもっとユルいダブやサイケっぽい感じで考えていたんですが、サイケ→個人的にハウスを感じる民族音楽寄りのロックという風に解釈してみました。ホルガー・チューカイもイーノ&バーンもキックが4つ、イーブンに刻んでます。スチールバンドの2曲はややムリヤリですが・・。
ジェネラル・ストライク(デヴィッド・トゥープ&デヴィッド・カニンガム&スティーヴ・ベレスフォード)は最近、聴き直して、もしかしたらライフタイム・フェイヴァリットになるかも?という予感がしました。こういう安易な書き方はよくないと思うんですが、実際ナカナカないことなので。ヴォーカル曲は、サン・ラの2曲のカバーはもちろん、オリジナルの「My Other Body」の深い憂いをたたえたミニマル・ソウルも出色です(こちらでヴォーカルもアレンジも違う「My Other Body」のシングル・ヴァージョンが試聴できます)。僕が勝手に標榜している「壁紙音楽」のエッセンスを凝縮したような音楽で、ポスト・ロックやエレクトロニカやアルゼンチン音響派を通過した、いま生まれたての音のようにも聴こえます(こんな素敵な音楽を現在やってる人たちがいたら、誰かそっと教えてください)。デヴィッド・カニンガムによる、残響成分が少ないデッドなダブ処理を施した録音が、何より音楽の「質」を決定しています。デヴィッド・トゥープのソロ作はいくつか聴いて、正直、気軽なリスニングとしては楽しめないものも多かったのですが、これは耳通りがよく、ストレンジなのにナチュラルボーンなポップなのです。
僕が持ってるのはPianoから90年代に再発されたCDで、ジャケは淡い色調のポストカード・エキゾチカという体裁ですが、1984年のオリジナル・リリースはカセットテープで、このようなロシア・アヴァンギャルドなデザイン。ユニット名も文字通り、全国規模のストライキ=労働争議ですから、かなりポスト・パンクな政治色が強いパッケージングです。もともとシリアス・ミュージックとして作られたがゆえに、ただの弛緩した「壁紙音楽」ではない強度がある、とも解釈できそうです。
後半は、キャバレー・ヴォルテールのアクフェン・ミックスからエディット/カットアップ・ハウス〜アシッド・ハウスという流れ。せっかちで畳みかけるような神経症っぽい曲が多くなってしまったので、セオ・パリッシュの「Summertime Is Here」みたいなまったり夏な曲はこの流れには入れられず。残念。Tofubeatsの「Edit」集は、この曲以外に、Shoko Nakagawaの「I Wanna Sherbet You」の構成力と過剰なキレ方に新世代のムチャな勢いを感じました。エディットは屍体いじりのフェティシズムを不可避的に伴ってしまうものだと思うのですが、マイケル・ジャクソンの「Rock With You」が一瞬カットインする刹那の殺傷力にハッとします。イトウヒデノブが角松敏生に捧げた(?)曲は、Tofubeatsと聴き比べると、ずっと大人のエディットに聴こえます。ホントはこの後にソフト・ピンク・トゥルースをかけるハズが、時間がなくなってかけれませんでした(ユニット名の語呂合わせ的にも今回の展覧会に合っていたのに・・)。
曽我部恵一の新曲、「サマー・シンフォニー」は、OTOTOYのフリーダウンロード(〜7.14)で聴いて、即ヘビロになった曲です。ベースラインに、ファラオ・サンダースの「Love Is Everywhere」が控えめに使われています(おそらく高音の周波数をカットオフして輪郭をぼやかしてるのでは?)。この有名なベースライン、僕が知る狭い範囲でも、竹村延和、Calm、最近だとOlive Oilがサンプリングしていて、どれも名曲になってしまうという万能調味料みたいなネタです、笑。サニーデイ・サーヴィス時代はまったく聴いてなくて、ソロ作しか聴いてませんが、曽我部さんがときどき作る、黒人音楽寄りの曲が好きです。日本人がベイビーとかブラザーとか連呼すると気恥ずかしくなって首を垂れてしまうクチなのに、曽我部さんの歌はサラリとしていてイヤミなく耳に入ってきます。リリックとソングライティングのシンプルな絡み、「アイスクリーム、とろけるような、暑い暑い夏に、アイスクリーム、届けるつもり、暑い暑いやつ」というパンチライン、ブレイクビーツと波の音のシンクロ。季語を使った俳句的なテーマ設定を余すことなく曲に活かしたクラフトマンシップの高さを感じました。
最後は、R.I.P ラメルジーということで「Beat Bop」。一応、エクスキューズすると、このような行為は、本来卑しいものなのかもしれません。僕は選曲というのは、そのとき感じたことを率直にアウトプットしたり句読点を打つことだと愚直に思っています、うまく行ったかどうかは別にして(聴いて不謹慎だと思われた方、申し訳ないです)。音数少ないのにとぐろを巻くような酩酊感。ダビーでスペーシーでサイケデリシャス。大音量で聴くとやっぱり凄い、ワンアンドオンリーの音源だと思います。アフロ・フューチャリズムなどと言われる黒人音楽が内包する宇宙感覚、ことこの音源に関しては、サン・ラやファンカデリックなんかともまた違うものを感じます。黒いんだけど白い、白いんだけど黒い。ダウナーともアッパーとも言い難し。何度聴いてもわからない。
ラップパートはピンプとスクールボーイとの掛け合いですから、本来、宇宙を描写したりイメージした音楽ではないのです。もっとベーシックな日常生活に地に足をつけたコンシャスで教育的なラップのハズなのに、出来上がったものはこんなにブッ飛んでしまった、という「計らずしも」感がこの曲が「TEST PRESSING」とジャケに描かれている理由なのかもしれず(ググってリリックを探しましたが、あいにくどのサイトも権利関係の問題なのか?消えていて、見つけられませんでした)。BPMが遅いので、テープを遅く再生したような引き延ばされたタイム感覚が、粘っこいラップのスタイルと相まって独自のサイケ感を醸し出してる、というのが案外シンプルな真相かも、とも思います。先日のDommuneで、コンピューマさんが電子音とミックスして、この曲をかけてたのもカッコよかった。ラメルジー本人がバスキアとの関係で、この曲を生涯気に入ってなかったというのも、この追悼番組で遅まきながら知りました。
気づけば、上記の通り、日本人ものが多かったのですが、さいとう君の今回の展示も駄菓子屋風というか、水木しげるのお化けが出てきそうなジャパニーズ・スタイルだったので、後付けですがアリではなかったかと手前味噌的に思ってます。なんでこの曲がここに?とか、全体的にチージーで安っぽいね、などと感想を持たれるかもしれないし、クラブの現場でやってるDJの方からすれば、とっちらかったイビツなプレイリストだと思いますが、快感原則に忠実にやると、こうなってしまったのでした。あしからず。
Holger Czukay - Persian Love
Van Dyke Parks - Steelband Music
John Gibbs And The Unlimited Sound Of Steel Orchestra - Steel Funk (Inst)
Brian Eno & David Byrne - Jezebel Spirit
The Books - A Cold Freezin' Night
General Strike - Interplanetary Music
Cabaret Voltaire - Nag Nag Nag (Akufen's Karaoke Slam Mix)
□□□ - Summertime
Tes - Space Travel (Tofubeats Ghetto Mix)
Hidenobu Ito - Deep The Flag (Funk Method 4 T.Kadomatsu)
Y.M.O. - Tighten Up (The Robert Gordon Remix)
Luke Vibert - Brain Rave
大貫妙子 / UR - The City Is The High-Tech Jazz
Dublee - Bounce
曽我部恵一 - サマー・シンフォニー
Rammelzee Vs K-Rob - Beat Bop
'Cyclichedelic Mix' by Eucalypso
さいとうりょうた君の個展オープニングに参加させていただきました。当日、画廊というよりカウンターもある居酒屋風+ミラーボールと提灯もある空間で、来ていただいた皆さん、他のDJの方々の選曲共々、楽しい時間を過ごせたので、ひさしぶりにプレイリストをUPしてみます。展覧会は2週間やってますので、興味のある方は足を伸ばしてみてください。
ソフトクリーム/渦巻き/夏がお題だったので、最初はもっとユルいダブやサイケっぽい感じで考えていたんですが、サイケ→個人的にハウスを感じる民族音楽寄りのロックという風に解釈してみました。ホルガー・チューカイもイーノ&バーンもキックが4つ、イーブンに刻んでます。スチールバンドの2曲はややムリヤリですが・・。
ジェネラル・ストライク(デヴィッド・トゥープ&デヴィッド・カニンガム&スティーヴ・ベレスフォード)は最近、聴き直して、もしかしたらライフタイム・フェイヴァリットになるかも?という予感がしました。こういう安易な書き方はよくないと思うんですが、実際ナカナカないことなので。ヴォーカル曲は、サン・ラの2曲のカバーはもちろん、オリジナルの「My Other Body」の深い憂いをたたえたミニマル・ソウルも出色です(こちらでヴォーカルもアレンジも違う「My Other Body」のシングル・ヴァージョンが試聴できます)。僕が勝手に標榜している「壁紙音楽」のエッセンスを凝縮したような音楽で、ポスト・ロックやエレクトロニカやアルゼンチン音響派を通過した、いま生まれたての音のようにも聴こえます(こんな素敵な音楽を現在やってる人たちがいたら、誰かそっと教えてください)。デヴィッド・カニンガムによる、残響成分が少ないデッドなダブ処理を施した録音が、何より音楽の「質」を決定しています。デヴィッド・トゥープのソロ作はいくつか聴いて、正直、気軽なリスニングとしては楽しめないものも多かったのですが、これは耳通りがよく、ストレンジなのにナチュラルボーンなポップなのです。
僕が持ってるのはPianoから90年代に再発されたCDで、ジャケは淡い色調のポストカード・エキゾチカという体裁ですが、1984年のオリジナル・リリースはカセットテープで、このようなロシア・アヴァンギャルドなデザイン。ユニット名も文字通り、全国規模のストライキ=労働争議ですから、かなりポスト・パンクな政治色が強いパッケージングです。もともとシリアス・ミュージックとして作られたがゆえに、ただの弛緩した「壁紙音楽」ではない強度がある、とも解釈できそうです。
後半は、キャバレー・ヴォルテールのアクフェン・ミックスからエディット/カットアップ・ハウス〜アシッド・ハウスという流れ。せっかちで畳みかけるような神経症っぽい曲が多くなってしまったので、セオ・パリッシュの「Summertime Is Here」みたいなまったり夏な曲はこの流れには入れられず。残念。Tofubeatsの「Edit」集は、この曲以外に、Shoko Nakagawaの「I Wanna Sherbet You」の構成力と過剰なキレ方に新世代のムチャな勢いを感じました。エディットは屍体いじりのフェティシズムを不可避的に伴ってしまうものだと思うのですが、マイケル・ジャクソンの「Rock With You」が一瞬カットインする刹那の殺傷力にハッとします。イトウヒデノブが角松敏生に捧げた(?)曲は、Tofubeatsと聴き比べると、ずっと大人のエディットに聴こえます。ホントはこの後にソフト・ピンク・トゥルースをかけるハズが、時間がなくなってかけれませんでした(ユニット名の語呂合わせ的にも今回の展覧会に合っていたのに・・)。
曽我部恵一の新曲、「サマー・シンフォニー」は、OTOTOYのフリーダウンロード(〜7.14)で聴いて、即ヘビロになった曲です。ベースラインに、ファラオ・サンダースの「Love Is Everywhere」が控えめに使われています(おそらく高音の周波数をカットオフして輪郭をぼやかしてるのでは?)。この有名なベースライン、僕が知る狭い範囲でも、竹村延和、Calm、最近だとOlive Oilがサンプリングしていて、どれも名曲になってしまうという万能調味料みたいなネタです、笑。サニーデイ・サーヴィス時代はまったく聴いてなくて、ソロ作しか聴いてませんが、曽我部さんがときどき作る、黒人音楽寄りの曲が好きです。日本人がベイビーとかブラザーとか連呼すると気恥ずかしくなって首を垂れてしまうクチなのに、曽我部さんの歌はサラリとしていてイヤミなく耳に入ってきます。リリックとソングライティングのシンプルな絡み、「アイスクリーム、とろけるような、暑い暑い夏に、アイスクリーム、届けるつもり、暑い暑いやつ」というパンチライン、ブレイクビーツと波の音のシンクロ。季語を使った俳句的なテーマ設定を余すことなく曲に活かしたクラフトマンシップの高さを感じました。
最後は、R.I.P ラメルジーということで「Beat Bop」。一応、エクスキューズすると、このような行為は、本来卑しいものなのかもしれません。僕は選曲というのは、そのとき感じたことを率直にアウトプットしたり句読点を打つことだと愚直に思っています、うまく行ったかどうかは別にして(聴いて不謹慎だと思われた方、申し訳ないです)。音数少ないのにとぐろを巻くような酩酊感。ダビーでスペーシーでサイケデリシャス。大音量で聴くとやっぱり凄い、ワンアンドオンリーの音源だと思います。アフロ・フューチャリズムなどと言われる黒人音楽が内包する宇宙感覚、ことこの音源に関しては、サン・ラやファンカデリックなんかともまた違うものを感じます。黒いんだけど白い、白いんだけど黒い。ダウナーともアッパーとも言い難し。何度聴いてもわからない。
ラップパートはピンプとスクールボーイとの掛け合いですから、本来、宇宙を描写したりイメージした音楽ではないのです。もっとベーシックな日常生活に地に足をつけたコンシャスで教育的なラップのハズなのに、出来上がったものはこんなにブッ飛んでしまった、という「計らずしも」感がこの曲が「TEST PRESSING」とジャケに描かれている理由なのかもしれず(ググってリリックを探しましたが、あいにくどのサイトも権利関係の問題なのか?消えていて、見つけられませんでした)。BPMが遅いので、テープを遅く再生したような引き延ばされたタイム感覚が、粘っこいラップのスタイルと相まって独自のサイケ感を醸し出してる、というのが案外シンプルな真相かも、とも思います。先日のDommuneで、コンピューマさんが電子音とミックスして、この曲をかけてたのもカッコよかった。ラメルジー本人がバスキアとの関係で、この曲を生涯気に入ってなかったというのも、この追悼番組で遅まきながら知りました。
気づけば、上記の通り、日本人ものが多かったのですが、さいとう君の今回の展示も駄菓子屋風というか、水木しげるのお化けが出てきそうなジャパニーズ・スタイルだったので、後付けですがアリではなかったかと手前味噌的に思ってます。なんでこの曲がここに?とか、全体的にチージーで安っぽいね、などと感想を持たれるかもしれないし、クラブの現場でやってるDJの方からすれば、とっちらかったイビツなプレイリストだと思いますが、快感原則に忠実にやると、こうなってしまったのでした。あしからず。
2010/01/30
渋谷百軒店でteaParty
当日の告知ですいません。
GAOS、PINKMANなど複数の名前でゼロ年代前半からグラフィティ・ライターとして活動を行う、さいとうりょうた君に誘われまして、渋谷ホテル街の奥まったところ、百軒店(ひゃっけんだな)にある12月に出来たばかりのレストランでスタートするラウンジ・パーティに参加します。百軒店は関東大震災直後に再開発されたとのことで、1920年代にオープンした喫茶店ライオンがあったり、稲荷神社とラブホテルが隣り合ったり、映画のロケに使われそうな昭和の色濃い摩訶不思議な路地裏空間です。力を抜いて楽しめるオープンなパーティになるといいな。
渋谷の隠れ家|百軒店商店街|道玄坂
以下、告知テキスト。
スパイスキッチン魚THEユニバースという渋谷の穴場のような新しいお店で心地よい音楽と壁のない交流の場/サロン/ラウンジ/お茶会(お酒もありますよ)を目指すパーティ、teaParty~オフ・ザ・ウォール~の幕開けです。入場無料なので(*1ドリンクオーダーいただきます)、気楽に遊びに来ていただけたらと思います。飲み物はずっとワンコイン。おいしい食べ物も頼めます。ご興味ございましたらぜひ。
teaParty~オフ・ザ・ウォール~ vol.0
2010/1/30/SAT
*入場無料(1drink order)
OPEN 23:30- All Night
@スパイスキッチン-魚THEユニバース-(渋谷)
http://sakana-spice.jp
03-5456-0308
東京都渋谷区道玄坂2-20-9-1F
・DJ:サダメ, くわまん, softcream, Nobuya Togashi
・ライブペイント:さいとうりょうた
・作品展示: さいとうりょうた
・撮影:青木勝紀
*今回が初回、これから定期的に開催する予定で、参加&協力していただける方を募集しています。
FEEDという限りなくニッチな居場所の話
「FEED」というカフェの通常営業時間内にやってるイベントについて、とりとめもなく過去を振り返るエントリーです。とても個人的でつまらない話ですが、よろしければ、おつきあいください。
その昔、IDEEが経営していたスプートニック・パッドというカフェで不定期にやらせてもらったり、学芸大学にあったOFFICEで月一でやらせてもらうようになったのが、カフェとの最初の接点です。その2店舗がクローズした後は、ピンクのネオンサインがいかにも夜の止まり木的なバーっぽかった改装前の外苑前SIGNで月一でやるようになります。このへんの記憶がアイマイで、しかも、何年に始めたかとか時系列的なことを見事に忘れてますが・・。
その後、同じビルにある1階のSIGNと5階のOFFICE、2つのカフェを掛け持ちして月2回やることになります。余程ヒマだったんでしょうか・・汗。さすがにこの時期は体力的にしんどかったので、どちらか一個に絞ろうということになり、自分の音はOFFICEの方が合ってると近しい友人に言われたり自分でもそうだよなと思いつつ、色々考えた末に、5階まで階段で上がることでフィルターがかかるという意味でもややスノッヴで大人の遊び場めいたOFFICEではなく、SIGNで続けることにしました。なぜ、SIGNにしたのかと言うと、身も蓋もない理由ですが、単純にお客さんが多かった、からです、笑。
いまはもうそんな対抗意識はないですが、SIGNで始めた頃はまだゼロ年代初頭のカフェ・ブームの残り香があり、いわゆるカフェ・ミュージック、お洒落なボサノヴァやフリー・ソウルみたいな音楽は意地でもかけないゾ!というよくわからない自負心があり、また、そういうわかりやすいカテゴリーじゃない音を持ち込むことに存在意義を勝手に感じていました。一度、SIGNでラップトップを持ち込んでアシッド・ハウス・セットを一時間以上流すという無茶をやったこともあります。その時はさすがにお店から五月蝿いとお叱りを受けました。なぜそこまで暴走してたんでしょうか・・よく覚えていません・・・。
そんなこんなで月日が経ち、カフェ・ブームはあっという間に過ぎ去り、夜遊び族や怪しげなクリエイターなどのトッポイ人種ではなく、青山界隈のビジネスマンやOLがメインの客層になっていき、SIGNが改装されて、夜っぽい内装が昼っぽいクリーンな内装になり、どんどんフラットな状況になっていくのを実感するようになります。改装でDJブースが2階に上がりスペースに余裕ができた分、お客さんとブースとの距離ができて一体感がなくなり、「この曲、なんですか?」と聴きに来るお客さんがいなくなったのは、ちょっと寂しい変化です。単なるBGMとはいえ、公共空間で音を流しているのだから、お客さんに届いてナンボだと、おこがましくも思ってますから。
音楽を巡る時代状況としては、著作権のせいでいつまでもブレイクできないインターネット・ラジオを一足飛びに飛び越えて、音楽をかける場所・空間の持つヒエラルキーを無効化する最終兵器USTREAMが昨年出現し、いつでもどこでもプロでもアマでも自由に音楽を流して享受するという風通しのいいカルチャーが産声を上げ、従来からあるクラブやライヴハウスの現場とストリーミングやポッドキャスティングの現場に二極分化しつつあるのは、ご存知の通りです。この不況下で商業空間と音楽とのマッチングが難しくなっていることも確かでしょう。
クラブの血で血を洗う政治社会(やや大げさ)に入り込めない自分のようなノンポリで付き合い下手な人間が、オタクDJよろしくカフェというニッチな場所でお気楽に音楽をかけるという行為にもはや意味って見い出せるのかな?と思ったりもします(実際は、ノルマはないけどやるからにはお客さんを呼ばなくちゃとか、ブッキングとか、お気楽なりに苦労はあるわけですが、それはさておき)。いつでも止めていいミニマムな居場所としての「FEED」を、これからどう続けていけばいいのか、けっこう正念場な気もしています。
ちなみに、「FEED」という名前は、カフェという飲食店で食べたり飲んだりしながら聴く音楽、そこで音を供給するということ、地域のラジオやテレビの放送、ウェブ・サイトやブログが概要を吐き出すフィード、という即物的な意味合いやシンプルな響きが気に入ってつけました。「FEED」でかかる音楽についてうまく言い表せる言葉を思いつかず、クラブ・フライヤーのようにジャンル名を書き連ねていく紹介の仕方を避けたいんだがどうしたものだろうと思っていたところ、昨年、Twitter経由で「壁紙音楽」という便利な言葉を思いつき、頭がスッキリしました。当分は、この名称を掲げていくと思います(!?)。
最後に、その時々でレギュラーやゲストでDJしてもらったりサポートしてもらってる仲間や友人、お店のスタッフの皆さんには感謝です(こうしてエントリーに起こすと、自分にとってのゼロ年代の少なくとも何パーセントかは「FEED」だったんだなぁ・・)。
もし、このエントリーの続きを書くとしたら、お洒落な記号としての音楽の風化について、ですが、また、それは機会があればということで。
SIGN GAIENMAE|TRANSIT GENERAL OFFICE INC.
FEED告知、または壁紙音楽宣言
その昔、IDEEが経営していたスプートニック・パッドというカフェで不定期にやらせてもらったり、学芸大学にあったOFFICEで月一でやらせてもらうようになったのが、カフェとの最初の接点です。その2店舗がクローズした後は、ピンクのネオンサインがいかにも夜の止まり木的なバーっぽかった改装前の外苑前SIGNで月一でやるようになります。このへんの記憶がアイマイで、しかも、何年に始めたかとか時系列的なことを見事に忘れてますが・・。
その後、同じビルにある1階のSIGNと5階のOFFICE、2つのカフェを掛け持ちして月2回やることになります。余程ヒマだったんでしょうか・・汗。さすがにこの時期は体力的にしんどかったので、どちらか一個に絞ろうということになり、自分の音はOFFICEの方が合ってると近しい友人に言われたり自分でもそうだよなと思いつつ、色々考えた末に、5階まで階段で上がることでフィルターがかかるという意味でもややスノッヴで大人の遊び場めいたOFFICEではなく、SIGNで続けることにしました。なぜ、SIGNにしたのかと言うと、身も蓋もない理由ですが、単純にお客さんが多かった、からです、笑。
いまはもうそんな対抗意識はないですが、SIGNで始めた頃はまだゼロ年代初頭のカフェ・ブームの残り香があり、いわゆるカフェ・ミュージック、お洒落なボサノヴァやフリー・ソウルみたいな音楽は意地でもかけないゾ!というよくわからない自負心があり、また、そういうわかりやすいカテゴリーじゃない音を持ち込むことに存在意義を勝手に感じていました。一度、SIGNでラップトップを持ち込んでアシッド・ハウス・セットを一時間以上流すという無茶をやったこともあります。その時はさすがにお店から五月蝿いとお叱りを受けました。なぜそこまで暴走してたんでしょうか・・よく覚えていません・・・。
そんなこんなで月日が経ち、カフェ・ブームはあっという間に過ぎ去り、夜遊び族や怪しげなクリエイターなどのトッポイ人種ではなく、青山界隈のビジネスマンやOLがメインの客層になっていき、SIGNが改装されて、夜っぽい内装が昼っぽいクリーンな内装になり、どんどんフラットな状況になっていくのを実感するようになります。改装でDJブースが2階に上がりスペースに余裕ができた分、お客さんとブースとの距離ができて一体感がなくなり、「この曲、なんですか?」と聴きに来るお客さんがいなくなったのは、ちょっと寂しい変化です。単なるBGMとはいえ、公共空間で音を流しているのだから、お客さんに届いてナンボだと、おこがましくも思ってますから。
音楽を巡る時代状況としては、著作権のせいでいつまでもブレイクできないインターネット・ラジオを一足飛びに飛び越えて、音楽をかける場所・空間の持つヒエラルキーを無効化する最終兵器USTREAMが昨年出現し、いつでもどこでもプロでもアマでも自由に音楽を流して享受するという風通しのいいカルチャーが産声を上げ、従来からあるクラブやライヴハウスの現場とストリーミングやポッドキャスティングの現場に二極分化しつつあるのは、ご存知の通りです。この不況下で商業空間と音楽とのマッチングが難しくなっていることも確かでしょう。
クラブの血で血を洗う政治社会(やや大げさ)に入り込めない自分のようなノンポリで付き合い下手な人間が、オタクDJよろしくカフェというニッチな場所でお気楽に音楽をかけるという行為にもはや意味って見い出せるのかな?と思ったりもします(実際は、ノルマはないけどやるからにはお客さんを呼ばなくちゃとか、ブッキングとか、お気楽なりに苦労はあるわけですが、それはさておき)。いつでも止めていいミニマムな居場所としての「FEED」を、これからどう続けていけばいいのか、けっこう正念場な気もしています。
ちなみに、「FEED」という名前は、カフェという飲食店で食べたり飲んだりしながら聴く音楽、そこで音を供給するということ、地域のラジオやテレビの放送、ウェブ・サイトやブログが概要を吐き出すフィード、という即物的な意味合いやシンプルな響きが気に入ってつけました。「FEED」でかかる音楽についてうまく言い表せる言葉を思いつかず、クラブ・フライヤーのようにジャンル名を書き連ねていく紹介の仕方を避けたいんだがどうしたものだろうと思っていたところ、昨年、Twitter経由で「壁紙音楽」という便利な言葉を思いつき、頭がスッキリしました。当分は、この名称を掲げていくと思います(!?)。
最後に、その時々でレギュラーやゲストでDJしてもらったりサポートしてもらってる仲間や友人、お店のスタッフの皆さんには感謝です(こうしてエントリーに起こすと、自分にとってのゼロ年代の少なくとも何パーセントかは「FEED」だったんだなぁ・・)。
もし、このエントリーの続きを書くとしたら、お洒落な記号としての音楽の風化について、ですが、また、それは機会があればということで。
SIGN GAIENMAE|TRANSIT GENERAL OFFICE INC.
FEED告知、または壁紙音楽宣言
2010/01/27
2009年・個人的にお世話になった音楽BEST 1
'Who Is It' by Michael Jackson
昨秋、しばらく実家のある熊本に戻っていました。東京に戻る前日、阿蘇の西原村にあるオーディオ道場というところに遊びに行き、元・剣道場の建物内に所狭しとオーディオ製品が立ち並ぶ中で、50年以上昔のJBLのスピーカーやオーナー自作のカスタムメイドのスピーカー&真空管アンプで音を聴かせていただくという至福の時間を過ごすことが出来ました。
iPhoneに入ってた音源で唯一AIFFで高音質だった坂本龍一の「Out Of Noise」から「2 hwit」、オーナー私物のジャズCDから選んだマイルスの「死刑台のエレベーター」やケニー・ドーハムの「Afrodisia」、カサンドラ・ウィルソンの「New Moon Daughter」からホーギー・カーマイケルの「Skylark」とニール・ヤングの「Harvest Moon」、電気グルーヴの「虹」、道場に寄贈されたLPからキング・タビーやKLFの「Chill Out」など。LPはオーナーの若い友人の形見だそうで、WAVE六本木のシールが貼ってありました。僕とちょうど同じくらいの年齢だったということで不思議な縁を感じました。
帰る間際、道場のオーナーが前置きなしにいきなりマイケルの「Who Is It」をCDでかけたのですが、正直、それまで特に思い入れのない曲だったので、ニュー・ジャック・スイングな打ち込みリズム+分厚いシンセ・ストリングス+マイケルの声というシンプルなアレンジで構成された、ポップ・ソングとしてスムーズで完璧すぎて普段なら聴き流してしまうこの曲が、高密度で高解像度の音の塊として不意打ちのように目の前に立ち上がり、度肝を抜かれました。凶暴なアンビエントの暴風雨のような、鉄壁のウォール・オブ・サウンドに気圧された数分間でした。
オーナーに車で送っていただいて少し話をしたのですが、MP3用のアンプも開発中とのことで、ハイ・オーディオ信仰に釘を刺すように、音楽を聴くのにソースは関係ないとおっしゃっていたのが印象に残っています。もちろん、物見遊山で高揚したエゴトリップだったことを差し引くとしても、あの場所で聴かせてもらったマイケルが去年の音楽体験としてはベストでした(客がほとんどいなかったのをいいことに長居してしまい、きっと迷惑だったろうと思いますが、オーナーと娘さんの温かいホスピタリティには本当に感謝します。濃厚なチョコレートケーキも美味しかったです)。
ちなみに、西原村は全国から若いアーティストが集まり独自のコミュニティが出来てるそうです。この日も革のアクセサリー職人さんが西原村に移り住むための視察で神奈川から訪れていました。
オーディオ道場公式ページ
昨秋、しばらく実家のある熊本に戻っていました。東京に戻る前日、阿蘇の西原村にあるオーディオ道場というところに遊びに行き、元・剣道場の建物内に所狭しとオーディオ製品が立ち並ぶ中で、50年以上昔のJBLのスピーカーやオーナー自作のカスタムメイドのスピーカー&真空管アンプで音を聴かせていただくという至福の時間を過ごすことが出来ました。
iPhoneに入ってた音源で唯一AIFFで高音質だった坂本龍一の「Out Of Noise」から「2 hwit」、オーナー私物のジャズCDから選んだマイルスの「死刑台のエレベーター」やケニー・ドーハムの「Afrodisia」、カサンドラ・ウィルソンの「New Moon Daughter」からホーギー・カーマイケルの「Skylark」とニール・ヤングの「Harvest Moon」、電気グルーヴの「虹」、道場に寄贈されたLPからキング・タビーやKLFの「Chill Out」など。LPはオーナーの若い友人の形見だそうで、WAVE六本木のシールが貼ってありました。僕とちょうど同じくらいの年齢だったということで不思議な縁を感じました。
帰る間際、道場のオーナーが前置きなしにいきなりマイケルの「Who Is It」をCDでかけたのですが、正直、それまで特に思い入れのない曲だったので、ニュー・ジャック・スイングな打ち込みリズム+分厚いシンセ・ストリングス+マイケルの声というシンプルなアレンジで構成された、ポップ・ソングとしてスムーズで完璧すぎて普段なら聴き流してしまうこの曲が、高密度で高解像度の音の塊として不意打ちのように目の前に立ち上がり、度肝を抜かれました。凶暴なアンビエントの暴風雨のような、鉄壁のウォール・オブ・サウンドに気圧された数分間でした。
オーナーに車で送っていただいて少し話をしたのですが、MP3用のアンプも開発中とのことで、ハイ・オーディオ信仰に釘を刺すように、音楽を聴くのにソースは関係ないとおっしゃっていたのが印象に残っています。もちろん、物見遊山で高揚したエゴトリップだったことを差し引くとしても、あの場所で聴かせてもらったマイケルが去年の音楽体験としてはベストでした(客がほとんどいなかったのをいいことに長居してしまい、きっと迷惑だったろうと思いますが、オーナーと娘さんの温かいホスピタリティには本当に感謝します。濃厚なチョコレートケーキも美味しかったです)。
ちなみに、西原村は全国から若いアーティストが集まり独自のコミュニティが出来てるそうです。この日も革のアクセサリー職人さんが西原村に移り住むための視察で神奈川から訪れていました。
オーディオ道場公式ページ
2009年・個人的にお世話になった音楽BEST 2-5
すいません。ココから長くてクドいです。
'Adepressive Cannot Goto Theceremony' by Imoutoid
昨年亡くなった後に彼のことを知りました。萌えカルチャーに疎くサンプリングされたアニメの原曲も知らないんですが、Maltineからリリースされた3曲、特に「Part3」のソフィスティケイトされた音にノックアウトされました。切り刻まれたヴォイスがポップにせめぎあう空間(=「桜雪の舞う」という歌詞とサウンドの一致)が、曲のコーダで挿入される不穏なパッド・サウンドによってねじ曲げられ、日本人的な湿った情念が浮かび上がるというアレンジの巧みさは、タダモノじゃないです。90年代的な渋谷系な「サバービア」ではなく、ゼロ年代的な「郊外」で鳴ってる音。殺風景なロードサイドの虚無に覆われた空間を音で埋め尽くすような強迫神経症+10代にしか出せない刹那感。いくつか聴いた中では、この曲と、Tomad氏がゼロ年代を代表する曲として選んでいた「ファインダー (imoutoid's Finder Is Not Desktop Experience Remix)」が突出してるように思いました。
http://maltinerecords.cs8.biz/14.html
'Ambivalence Avenue' by Bibio
アーティスト単体の新作として去年一番よく聴いたBibioを挙げます。ずっとビートレスだったBibioが、この作品ではブレイクビーツを導入し、トレードマークだったボーズ・オブ・カナダ的なトリートメントを曲から取り除くことでより霧が晴れたように輪郭がクリアになり、内向的な音が外に開いていくようなポジティヴさを感じます。
ジェイ・ディー仕込みの骨太なビーツに甘酸っぱいヴォイス・サンプルをチョップしてトッピングした「Fire Ant」と「S'Vive」(この2曲は双生児のような関係)は、ゼロ年代に大量生産されたメロウでジャジーなヒップホップとは一味も二味も違うし、Warp直系のエソテリックなメロディを被せた「Sugarette」と「Dwrcan」は、Bibioの友人でもあるクラークに感じるタテノリのリズムの物足りなさをヨコに組み替えるだけで、こんなに腰を落ち着けて聴けるのかと驚きます。スライを思わせるソウル・マナーの「Jealous Of Roses」は、この中ではやや異色。
これらブレイクビーツ主体の曲と対照的に、「Ambivalence Avenue」「Haikuesque」「Lovers' Carvings」、クラップが軽やかに打ち鳴らされブラジル音楽とイギリスの田園が思い浮かぶフォークが溶け合った3曲は、Bibioの歌モノとしては現時点で最高の出来映えだと思います。Bibioつながりで高橋健太郎さんにTwitter経由でArthur Verocaiのことを教えていただいたのも、2009年っぽい出来事として印象に残っています。
http://www.myspace.com/musicabibio
'Moscow Dub' & 'Sick House 2' by Killer Bong
たぶん、ブレイクビーツに関してはそれなりに聴いてきた方だと思います。良くも悪くも酒や煙草のように嗜好品として体に染みついてしまってるのかもしれません(煙草は吸いませんが・・)。マッドリブやジェイ・ディー以降、ご他聞にもれずフライング・ロータスやハドソン・モホーク(新作でDam Funkとコラボしたのはうれしい誤算)なんかを追いつつ、それらともまた違うKiller Bongのロウキーな辺境系ブレイクビーツに、遅ればせながらハマりました。紛れもなくアンダーグラウンドな音ですが、狭いサークルで聴かれるのがもったいない気もします。特に、ハウスを取り入れたこの2作品がお気に入りで、「Moscow Dub」はビル・ラズウェルのような先行世代のヘヴィさを程よく中和し、「Sick House 2」はクリック・ハウスやポールのようなベルリン・ダブを完全にモノにしています。去年の正月は、「Sweet Dreams」の原稿のためにSublime Frequenciesレーベルのマージナルな民俗音楽を集中的に聴くという貴重な体験をしたんですが、後半にKiller Bongを聴いて、自分の中で一本の線がつながった気がします。
http://www.powershovelaudio.com/album/xqbp1016/
'Balance' by 砂原良徳
ここ数年、鬱だと噂されていた沈黙期間を経て、昨年復活を遂げたこと自体がとてもうれしいニュースでした。これはその復活を告げるサントラではなく、2002年の「Lovebeat」に入っている曲。波のようなシークエンス、マントラのように唱えたくなる(笑)「Balance, Difference, Flat, Oneself」と繰り返す無機質なヴォイス、5分あたりから聴こえるエアリーで温かいシンセにギュッと鷲掴みされます。クラフトワーキアン砂原による鎮痛剤サウンドには、個人が20世紀的なエゴの重力から解き放たれ、フラットな時空に浮いている、そんなイメージもあり、2010年代/並行世界/Twitter時代を先読みしているようです。外に出かける時、iPhoneでたぶん去年一番よく聴いた、自分にとっての精神安定剤でした。YouTubeで砂原良徳を検索すると真っ先に出てくる、庵野秀明「ラブ&ポップ」とのマッシュアップ、音と映像のミスマッチぶりが妙にツボに入る出来だったので貼っておきます(イントロ部分は原曲に付け足したもの)。
'Adepressive Cannot Goto Theceremony' by Imoutoid
昨年亡くなった後に彼のことを知りました。萌えカルチャーに疎くサンプリングされたアニメの原曲も知らないんですが、Maltineからリリースされた3曲、特に「Part3」のソフィスティケイトされた音にノックアウトされました。切り刻まれたヴォイスがポップにせめぎあう空間(=「桜雪の舞う」という歌詞とサウンドの一致)が、曲のコーダで挿入される不穏なパッド・サウンドによってねじ曲げられ、日本人的な湿った情念が浮かび上がるというアレンジの巧みさは、タダモノじゃないです。90年代的な渋谷系な「サバービア」ではなく、ゼロ年代的な「郊外」で鳴ってる音。殺風景なロードサイドの虚無に覆われた空間を音で埋め尽くすような強迫神経症+10代にしか出せない刹那感。いくつか聴いた中では、この曲と、Tomad氏がゼロ年代を代表する曲として選んでいた「ファインダー (imoutoid's Finder Is Not Desktop Experience Remix)」が突出してるように思いました。
http://maltinerecords.cs8.biz/14.html
'Ambivalence Avenue' by Bibio
アーティスト単体の新作として去年一番よく聴いたBibioを挙げます。ずっとビートレスだったBibioが、この作品ではブレイクビーツを導入し、トレードマークだったボーズ・オブ・カナダ的なトリートメントを曲から取り除くことでより霧が晴れたように輪郭がクリアになり、内向的な音が外に開いていくようなポジティヴさを感じます。
ジェイ・ディー仕込みの骨太なビーツに甘酸っぱいヴォイス・サンプルをチョップしてトッピングした「Fire Ant」と「S'Vive」(この2曲は双生児のような関係)は、ゼロ年代に大量生産されたメロウでジャジーなヒップホップとは一味も二味も違うし、Warp直系のエソテリックなメロディを被せた「Sugarette」と「Dwrcan」は、Bibioの友人でもあるクラークに感じるタテノリのリズムの物足りなさをヨコに組み替えるだけで、こんなに腰を落ち着けて聴けるのかと驚きます。スライを思わせるソウル・マナーの「Jealous Of Roses」は、この中ではやや異色。
これらブレイクビーツ主体の曲と対照的に、「Ambivalence Avenue」「Haikuesque」「Lovers' Carvings」、クラップが軽やかに打ち鳴らされブラジル音楽とイギリスの田園が思い浮かぶフォークが溶け合った3曲は、Bibioの歌モノとしては現時点で最高の出来映えだと思います。Bibioつながりで高橋健太郎さんにTwitter経由でArthur Verocaiのことを教えていただいたのも、2009年っぽい出来事として印象に残っています。
http://www.myspace.com/musicabibio
'Moscow Dub' & 'Sick House 2' by Killer Bong
たぶん、ブレイクビーツに関してはそれなりに聴いてきた方だと思います。良くも悪くも酒や煙草のように嗜好品として体に染みついてしまってるのかもしれません(煙草は吸いませんが・・)。マッドリブやジェイ・ディー以降、ご他聞にもれずフライング・ロータスやハドソン・モホーク(新作でDam Funkとコラボしたのはうれしい誤算)なんかを追いつつ、それらともまた違うKiller Bongのロウキーな辺境系ブレイクビーツに、遅ればせながらハマりました。紛れもなくアンダーグラウンドな音ですが、狭いサークルで聴かれるのがもったいない気もします。特に、ハウスを取り入れたこの2作品がお気に入りで、「Moscow Dub」はビル・ラズウェルのような先行世代のヘヴィさを程よく中和し、「Sick House 2」はクリック・ハウスやポールのようなベルリン・ダブを完全にモノにしています。去年の正月は、「Sweet Dreams」の原稿のためにSublime Frequenciesレーベルのマージナルな民俗音楽を集中的に聴くという貴重な体験をしたんですが、後半にKiller Bongを聴いて、自分の中で一本の線がつながった気がします。
http://www.powershovelaudio.com/album/xqbp1016/
'Balance' by 砂原良徳
ここ数年、鬱だと噂されていた沈黙期間を経て、昨年復活を遂げたこと自体がとてもうれしいニュースでした。これはその復活を告げるサントラではなく、2002年の「Lovebeat」に入っている曲。波のようなシークエンス、マントラのように唱えたくなる(笑)「Balance, Difference, Flat, Oneself」と繰り返す無機質なヴォイス、5分あたりから聴こえるエアリーで温かいシンセにギュッと鷲掴みされます。クラフトワーキアン砂原による鎮痛剤サウンドには、個人が20世紀的なエゴの重力から解き放たれ、フラットな時空に浮いている、そんなイメージもあり、2010年代/並行世界/Twitter時代を先読みしているようです。外に出かける時、iPhoneでたぶん去年一番よく聴いた、自分にとっての精神安定剤でした。YouTubeで砂原良徳を検索すると真っ先に出てくる、庵野秀明「ラブ&ポップ」とのマッシュアップ、音と映像のミスマッチぶりが妙にツボに入る出来だったので貼っておきます(イントロ部分は原曲に付け足したもの)。
2009年・個人的にお世話になった音楽BEST 6-11
2009年・個人的にお世話になった音楽BEST 10+1
年間ベストみたいなまとめが苦手な移ろいやすい人間で、ゼロ年代総括なんて現時点ではとてもムリなので(ゼロ年代ってこんなのもあったんだ!と今頃発見してる最中でもあり)、2009年、ヘヴィロテだったり心に残った音楽、未来を感じた音楽を書いてみます。日に日にクラブ・ミュージック的なものからは遠ざかりつつありますが、こうして並べると、基本はジャンクでポップな変態音楽が好きなんだなと改めて再認識。ホントは固有名詞ではなくて、TwitterとUstreamで形成されるプロもアマもごった煮状態になった公共圏の盛り上がりが2009年一番ホットだった、と掛け値なしに思います。
BEST 6 - 11(*順不同)
'Ensembles '09' by 大友良英 at 旧フランス大使館/「No Man's Land」展 2009.12.27
Twitter的な非同期ライヴ。モダニズムな建築空間との対話。2009年最後にやっと観れました。
http://www.ima.fa.geidai.ac.jp/memento/event.htm
http://www.ensembles.jp/
'Nobody (River Of Tin)' by Scott Tuma
こんな声を聴いたことはない気がします。ノーマンズランドに佇むノーバディの音楽。
http://www.myspace.com/scotttuma
'High With A Little Help From' by Carlos Niño & Friends
羊水の中に浸るような不定形のアモルファスなアンビエンス。とにかく良い音、良い響きが詰まっています。
http://bls-act.co.jp/music/1809
'アワーミュージック' by 相対性理論 × 渋谷慶一郎
リリースは今年1月だけど、12月に先行配信されたので無理矢理入れました。たとえそれが並行世界の地獄巡りだとしても未来に進むしかない、という決意表明、もしくは「時かけ」の音楽版のようにも聞こえます。
'People' by Radiq
デトロイト・ハウスそのままじゃないかという見方もあるでしょうが、なるべく遠くに直球を投げることの方がハードルが高いと思います。半野喜弘の黒人音楽サイドの集大成。「Movements (Live In 1978)」「Life On The Ghetto Street」が好きです。
http://www.myspace.com/radiq
'ロックとロール (Yasterize MIX)' by やけのはら
熱いです。真っすぐです。清々しいです。等身大のカッコつけないヒップホップ。曽我部恵一のROSE RECORDSのコンピ「Perfect! -Tokyo Independent Music-」収録曲。下記リンクのライヴ・ヴァージョンも熱い。
http://www.dax.tv/?item=2849
年間ベストみたいなまとめが苦手な移ろいやすい人間で、ゼロ年代総括なんて現時点ではとてもムリなので(ゼロ年代ってこんなのもあったんだ!と今頃発見してる最中でもあり)、2009年、ヘヴィロテだったり心に残った音楽、未来を感じた音楽を書いてみます。日に日にクラブ・ミュージック的なものからは遠ざかりつつありますが、こうして並べると、基本はジャンクでポップな変態音楽が好きなんだなと改めて再認識。ホントは固有名詞ではなくて、TwitterとUstreamで形成されるプロもアマもごった煮状態になった公共圏の盛り上がりが2009年一番ホットだった、と掛け値なしに思います。
BEST 6 - 11(*順不同)
'Ensembles '09' by 大友良英 at 旧フランス大使館/「No Man's Land」展 2009.12.27
Twitter的な非同期ライヴ。モダニズムな建築空間との対話。2009年最後にやっと観れました。
http://www.ima.fa.geidai.ac.jp/memento/event.htm
http://www.ensembles.jp/
'Nobody (River Of Tin)' by Scott Tuma
こんな声を聴いたことはない気がします。ノーマンズランドに佇むノーバディの音楽。
http://www.myspace.com/scotttuma
'High With A Little Help From' by Carlos Niño & Friends
羊水の中に浸るような不定形のアモルファスなアンビエンス。とにかく良い音、良い響きが詰まっています。
http://bls-act.co.jp/music/1809
'アワーミュージック' by 相対性理論 × 渋谷慶一郎
リリースは今年1月だけど、12月に先行配信されたので無理矢理入れました。たとえそれが並行世界の地獄巡りだとしても未来に進むしかない、という決意表明、もしくは「時かけ」の音楽版のようにも聞こえます。
'People' by Radiq
デトロイト・ハウスそのままじゃないかという見方もあるでしょうが、なるべく遠くに直球を投げることの方がハードルが高いと思います。半野喜弘の黒人音楽サイドの集大成。「Movements (Live In 1978)」「Life On The Ghetto Street」が好きです。
http://www.myspace.com/radiq
'ロックとロール (Yasterize MIX)' by やけのはら
熱いです。真っすぐです。清々しいです。等身大のカッコつけないヒップホップ。曽我部恵一のROSE RECORDSのコンピ「Perfect! -Tokyo Independent Music-」収録曲。下記リンクのライヴ・ヴァージョンも熱い。
http://www.dax.tv/?item=2849
2010/01/25
B級の一流キャメロンによる異世界観光映画
ジェームズ・キャメロン監督の「アバター」を川崎のIMAXシアターで観ました。(以下、全面ネタバレ)
前後に、ぼんやりした記憶しか残ってない「ターミネーター」と「ターミネーター2」、初見の「エイリアン2」を観て、処女作と未だに観る気が起きない「タイタニック」を除き、おおよそキャメロンの過去作を観た素朴な感想としては、この人は「B級の一流」なんだな、です。
Bムーヴィーの帝王、ロジャー・コーマンの下でキャリアをスタートという出自もそうだし、レイ・ハリーハウゼンばりの安っぽいストップモーション・アニメでロボットがしつこく襲ってくる「ターミネーター」ラストのチェイスは、低予算ならではの限定された条件・状況下において、ショックとカタルシスを観客からいかに絞り出すかという、エンタメの極意が過不足なく駆動したシーンとして脳裏に刻まれています。
多くのB級映画の傾向がそうであるように、キャメロンもブルーカラーの労働者を描くことを好み、ホワイトカラーには無頓着というか冷たく、また、白人至上主義の無自覚な露呈も見受けられます。「ターミネーター」の主要人物は白人のみだし、サラ・コナーはダイナーでウェイトレスとして働く承認欲求を抱えた女の子、「テクノアール」という80年代ニューウェイヴな混血音楽の匂いを漂わせる名前のクラブでかかってる音楽は黒人ディスコやジャングルビートなどではなく、ビルボードチャート系の軽めのダンスロック。ちなみに、サラ・コナーの女友達が持つウォークマンが当時の世相を表す享楽主義、物質主義のアイコンとしてうまく機能しています(いかにもホラー/サスペンスの定石っぽい小道具使いですが)。
「ターミネーター2」では、暗澹たる未来社会を支配するスカイネットを生み出す直接の因子であるダイソンは、富裕層に属する黒人のコンピュータ技術者でした。彼とその家族は物語のキーを握る重要な存在でありながら、かなり邪険に扱われていて、ダイソンはサラ・コナーから頭脳労働者であることを罵られさえします。家族想いの善人の技術者が自身の研究に没頭するあまり、人類の最悪の未来を意図せず作り出したというアイロニーを描きたいのだろうと脳内補完できますが、ダイソンは影の薄い脇役としてあっけない最期を遂げ、物語内でサルベージされることはありません。
「エイリアン2」においても、海兵隊の中で唯一の黒人は葉巻を吸う単細胞なリーダーとしてステレオタイプ的に描かれ、真っ先にエイリアンに殺されてしまいます。シガニー・ウィーバー演じるリプリーは、前作と異なり、サラ・コナーやマザーエイリアンと同じく、生存本能と母性原理により行動するマッチョで力強い女性として書き換えられています。パワーローダーに乗ったリプリーとマザーエイリアンがプロレスするという一見して間抜けな絵ヅラは、1/4スケールと実物大ショットのモンタージュによるアナログな力技によって、いま観ても映像的快楽をはらんでいます。マザーエイリアンに足をつかまれたリプリーという危機一髪の場面でリプリーのブーツが脱げて(!)エイリアンが宇宙に放下されるというのもB級の味わい。
まぁ細かいツッコミはいくらでも出来ますが、キレイに刈り込まれ整理された人物設定とプロット、お約束の物語を長丁場でキッチリ盛り上げまとめ上げるオーソドックスな演出手腕こそが、キャメロンの真骨頂なんだと思います(監督の趣味である海洋世界にアプローチした「アビス」は冗長でしたが)。
「アバター」は3D技術を新たなドル箱たらしめるためにハリウッドが資金投入したデモンストレーション映画でもあるので、ぶどう酒を新しい皮袋に入れるために、ぶどう酒自体は昔ながらのストーリーテリングに準じていて、冒険はしていません。キャメロンがスマートかつ狡猾だなぁと思うのは、異世界=ニューワールドの資源を略奪しようとする企業や海兵隊の存在など、出世作である「エイリアン2」の設定をソックリそのまま「アバター」に持ってきて、白人が主導権を握る人類側ではなく、アフリカンとインディアンを足して2で割ったようなルックで有色人種のメタファーであるナヴィ側に観客が共感できるように、エイリアンと人類の配置を反転させ、自身の過去作が持っていたマーケティング的にマズいであろう白人至上主義を払拭し、グローバリズム/マルチ・エスニシティな社会に対応したところだと思います(2010年代の現在であっても、超国家・超法規的存在を体現するのが一企業であるというのはちょっと短絡的で想像力が足りない気はしますよね・・)。
それは、近代兵器を持った人類が近代兵器を持たないエイリアンに駆逐される「エイリアン2」から、近代兵器を持った人類が近代兵器を持たないナヴィを駆逐する「アバター」へ、という転換も意味します。また、ホワイトカラーを貶めるという愚を犯さず、アバターの技術を持つ科学者チームを物語の中心に据え、そのトップであるグレイス博士にリプリーまんまの容姿と性格を持つシガニー・ウィーバーを持ってくるという用意周到さ。海兵隊出身の主人公ジェイクはブルーカラーであると同時に下半身不随の身体障害者で、冒頭でアバター使いの優秀な科学者だった兄が死に、その身代わりとして彼が惑星パンドラに派遣されることがわかります。彼は二重の意味でアバター=分身なのです(兄の遺体が入った棺のショットと、ジェイクがアバターと接続するマシンのショットが 同じ構図であることからも、それは伺えます)。「エイリアン2」でも、地球に残してきたリプリーの娘はすでに死んでいて、リプリーはエイリアンの惑星で生き残った少女ニュートに娘の不在を埋めるように感情同調していく過程がストーリーの要になっていました。違うのは、ジェイクは兄が使っていたアバターと即座に何の齟齬もなく同期することで、兄より劣っているというトラウマ克服は工学的にいとも簡単に成し遂げられてしまいます。
町山智浩は「アバター」の人物造形を「浅い」「子供っぽい」と評してます。たしかに類型的でゲーム的なキャラクターばかりなのですが、上記で挙げたように、「アバター」では「エイリアン2」のモチーフやキャラクター設定が反復され反転して、商品として時代の要請にフィットするために巧妙な操作が仕組まれています。ジェイクと兄のエピソードが示すように、キャメロンは、キャラクター同士の関係性の変化をプロセスとしてじっくり描くことに今回ほとんど注力していないと思います。ジェイクとネイティリの恋愛も、ジェイクが二転三転しつつもナヴィに受け入れられる下りも、他者とのコミュニケーションの困難とその超克といった方向には行かず、アッサリと成立してしまう(それぞれの理由づけは物語内でちゃんと説明されています)。
敵としてのターミネーターやエイリアンがコミュニケーション自体を拒否する圧倒的な他者だったのに対し、ナヴィはアバターで簡単にアクセスできるコミュニケーション容易な亜人類であり、越境や超克という厳しいドラマはここでは主題ではなくなります。キャラクターの関係性として例外的なのは、グレイス博士がジェイクのために作る食事の皿が何度も登場することで、ジェイクがナヴィの世界に没入していく過程と、彼の代理母的存在であるグレイス博士との間に次第に家族愛が芽生える過程が、同時進行で描かれます。ジェイクとナヴィとの関係では食事をすることで絆を深めるというシーンがほとんどないので、これはキャメロンによる母性愛信仰の告白のようにも見えてしまいます。グレイスの死によって人類側の保護者を失ったジェイクは、ナヴィとして生きることを選択します。
観客にストレスフリーに感情移入できるようキャラクターを単純化/様式化する代わりに、キャメロンは異世界のヴィジュアライゼーションに膨大なリソースを割いています。森や空に浮かぶ島々を移動する、歩く、走る、上る、下る、飛ぶといったアクションと共に風景が3DCGとして刻々と展開されていく稠密な情報量は、量がある水準を超えると質に転換するということを実感させます。CGを全面的に取り入れたSF映画として先行する「スター・ウォーズ エピソード1/2/3」でも、風景がメインに映る俯瞰のパンショットはほんの数秒、残りの大半のパートは人物+セットにCGがハメこまれるという平面的で書き割り的なレイアウトだったので、ここまで異世界の中に「いる」ことを体感させる映画は初めてかもしれません。「WETAってILM超えちゃったなー」って思ったりも。
あとは、宮崎駿のエレメントの咀嚼も目立ちます。ジェイクがナヴィの通過儀礼としてパンドラの鳥類イクランの巣を訪ねる一連のシーンに顕著ですが、キャメロンの過去作ではあまりなかった、高さを意識したタテの空間設計に特に宮崎を感じました(どうでもいいですが、最後の方でデイダラボッチを出してくるかなと思いましたが、さすがに出ませんでしたね・・)。パワードスーツは「エイリアン2」に続き今回も登場してますが、「SFマガジン」のインタビューで、キャメロンがSF作家の中ではロバート・A・ハインラインが一番好きだ!と言ってたので、なるほど。とはいえ、ハインラインの「宇宙の戦士」を下世話な悪夢としてリファインしたポール・バーホーベンの「スターシップ・トゥルーパーズ」と違い、キャメロンはバーホーベンほどバカに振り切れない優等生っぷりで、しかし、ウェルメイドなファンタジーに魅力的な記号を整然と散りばめ、伏線を回収していく手つきは大したものだと思います。
ジェイクがアバターとして生きることを選ぶという、「行きて帰りし物語」ではなく行きっぱなしで終わるというラストは、ハッピーエンドのようでそうではないというか、半身不随で生きる現実を捨てて、自由に幸福に生きられるもうひとつの現実、我々観客からすればゲーム内仮想現実にも見える世界に没入することを選択するわけで、夢から醒めないことをあえて選ぶというバッドエンドにも感じました。これがインテリのコッポラなら、ジャングルの「闇の奥」で自分探しに奮闘した挙げ句、自分が何者でもないこと、越境して自分の王国を構築するという高踏的で審美主義的なふるまいがいかに醜い自己欺瞞に過ぎないのかということを3時間かけて発見するわけですが、B級出身で大衆映画の権化であるキャメロンはそんな優雅なエリートの自分探しなんてコストかかるしキツくてやってらんないよと。だったら安全で洗練された居心地いい虚構空間を作って自由を満喫したり自己実現すればいいのであって、でもその没入にもそれなりに危険は伴うし、帰ってこれないこともあるからアットユアオウンリスクでよろしく。「そんなのヌルいじゃん!SF映画の本格を目指すならキツくても他者を描けよ!」って思う人は、春公開の「ディストリクト9(邦題:第9地区)」を観るべきかもしれませんね。
・・・ということで、4千字超えちゃって「何やってんだろ俺」状態になってますが、「B級の一流」キャメロンによる異世界観光映画としての濃度はたしかにあった、というのが今回の結論です。
前後に、ぼんやりした記憶しか残ってない「ターミネーター」と「ターミネーター2」、初見の「エイリアン2」を観て、処女作と未だに観る気が起きない「タイタニック」を除き、おおよそキャメロンの過去作を観た素朴な感想としては、この人は「B級の一流」なんだな、です。
Bムーヴィーの帝王、ロジャー・コーマンの下でキャリアをスタートという出自もそうだし、レイ・ハリーハウゼンばりの安っぽいストップモーション・アニメでロボットがしつこく襲ってくる「ターミネーター」ラストのチェイスは、低予算ならではの限定された条件・状況下において、ショックとカタルシスを観客からいかに絞り出すかという、エンタメの極意が過不足なく駆動したシーンとして脳裏に刻まれています。
多くのB級映画の傾向がそうであるように、キャメロンもブルーカラーの労働者を描くことを好み、ホワイトカラーには無頓着というか冷たく、また、白人至上主義の無自覚な露呈も見受けられます。「ターミネーター」の主要人物は白人のみだし、サラ・コナーはダイナーでウェイトレスとして働く承認欲求を抱えた女の子、「テクノアール」という80年代ニューウェイヴな混血音楽の匂いを漂わせる名前のクラブでかかってる音楽は黒人ディスコやジャングルビートなどではなく、ビルボードチャート系の軽めのダンスロック。ちなみに、サラ・コナーの女友達が持つウォークマンが当時の世相を表す享楽主義、物質主義のアイコンとしてうまく機能しています(いかにもホラー/サスペンスの定石っぽい小道具使いですが)。
「ターミネーター2」では、暗澹たる未来社会を支配するスカイネットを生み出す直接の因子であるダイソンは、富裕層に属する黒人のコンピュータ技術者でした。彼とその家族は物語のキーを握る重要な存在でありながら、かなり邪険に扱われていて、ダイソンはサラ・コナーから頭脳労働者であることを罵られさえします。家族想いの善人の技術者が自身の研究に没頭するあまり、人類の最悪の未来を意図せず作り出したというアイロニーを描きたいのだろうと脳内補完できますが、ダイソンは影の薄い脇役としてあっけない最期を遂げ、物語内でサルベージされることはありません。
「エイリアン2」においても、海兵隊の中で唯一の黒人は葉巻を吸う単細胞なリーダーとしてステレオタイプ的に描かれ、真っ先にエイリアンに殺されてしまいます。シガニー・ウィーバー演じるリプリーは、前作と異なり、サラ・コナーやマザーエイリアンと同じく、生存本能と母性原理により行動するマッチョで力強い女性として書き換えられています。パワーローダーに乗ったリプリーとマザーエイリアンがプロレスするという一見して間抜けな絵ヅラは、1/4スケールと実物大ショットのモンタージュによるアナログな力技によって、いま観ても映像的快楽をはらんでいます。マザーエイリアンに足をつかまれたリプリーという危機一髪の場面でリプリーのブーツが脱げて(!)エイリアンが宇宙に放下されるというのもB級の味わい。
まぁ細かいツッコミはいくらでも出来ますが、キレイに刈り込まれ整理された人物設定とプロット、お約束の物語を長丁場でキッチリ盛り上げまとめ上げるオーソドックスな演出手腕こそが、キャメロンの真骨頂なんだと思います(監督の趣味である海洋世界にアプローチした「アビス」は冗長でしたが)。
「アバター」は3D技術を新たなドル箱たらしめるためにハリウッドが資金投入したデモンストレーション映画でもあるので、ぶどう酒を新しい皮袋に入れるために、ぶどう酒自体は昔ながらのストーリーテリングに準じていて、冒険はしていません。キャメロンがスマートかつ狡猾だなぁと思うのは、異世界=ニューワールドの資源を略奪しようとする企業や海兵隊の存在など、出世作である「エイリアン2」の設定をソックリそのまま「アバター」に持ってきて、白人が主導権を握る人類側ではなく、アフリカンとインディアンを足して2で割ったようなルックで有色人種のメタファーであるナヴィ側に観客が共感できるように、エイリアンと人類の配置を反転させ、自身の過去作が持っていたマーケティング的にマズいであろう白人至上主義を払拭し、グローバリズム/マルチ・エスニシティな社会に対応したところだと思います(2010年代の現在であっても、超国家・超法規的存在を体現するのが一企業であるというのはちょっと短絡的で想像力が足りない気はしますよね・・)。
それは、近代兵器を持った人類が近代兵器を持たないエイリアンに駆逐される「エイリアン2」から、近代兵器を持った人類が近代兵器を持たないナヴィを駆逐する「アバター」へ、という転換も意味します。また、ホワイトカラーを貶めるという愚を犯さず、アバターの技術を持つ科学者チームを物語の中心に据え、そのトップであるグレイス博士にリプリーまんまの容姿と性格を持つシガニー・ウィーバーを持ってくるという用意周到さ。海兵隊出身の主人公ジェイクはブルーカラーであると同時に下半身不随の身体障害者で、冒頭でアバター使いの優秀な科学者だった兄が死に、その身代わりとして彼が惑星パンドラに派遣されることがわかります。彼は二重の意味でアバター=分身なのです(兄の遺体が入った棺のショットと、ジェイクがアバターと接続するマシンのショットが 同じ構図であることからも、それは伺えます)。「エイリアン2」でも、地球に残してきたリプリーの娘はすでに死んでいて、リプリーはエイリアンの惑星で生き残った少女ニュートに娘の不在を埋めるように感情同調していく過程がストーリーの要になっていました。違うのは、ジェイクは兄が使っていたアバターと即座に何の齟齬もなく同期することで、兄より劣っているというトラウマ克服は工学的にいとも簡単に成し遂げられてしまいます。
町山智浩は「アバター」の人物造形を「浅い」「子供っぽい」と評してます。たしかに類型的でゲーム的なキャラクターばかりなのですが、上記で挙げたように、「アバター」では「エイリアン2」のモチーフやキャラクター設定が反復され反転して、商品として時代の要請にフィットするために巧妙な操作が仕組まれています。ジェイクと兄のエピソードが示すように、キャメロンは、キャラクター同士の関係性の変化をプロセスとしてじっくり描くことに今回ほとんど注力していないと思います。ジェイクとネイティリの恋愛も、ジェイクが二転三転しつつもナヴィに受け入れられる下りも、他者とのコミュニケーションの困難とその超克といった方向には行かず、アッサリと成立してしまう(それぞれの理由づけは物語内でちゃんと説明されています)。
敵としてのターミネーターやエイリアンがコミュニケーション自体を拒否する圧倒的な他者だったのに対し、ナヴィはアバターで簡単にアクセスできるコミュニケーション容易な亜人類であり、越境や超克という厳しいドラマはここでは主題ではなくなります。キャラクターの関係性として例外的なのは、グレイス博士がジェイクのために作る食事の皿が何度も登場することで、ジェイクがナヴィの世界に没入していく過程と、彼の代理母的存在であるグレイス博士との間に次第に家族愛が芽生える過程が、同時進行で描かれます。ジェイクとナヴィとの関係では食事をすることで絆を深めるというシーンがほとんどないので、これはキャメロンによる母性愛信仰の告白のようにも見えてしまいます。グレイスの死によって人類側の保護者を失ったジェイクは、ナヴィとして生きることを選択します。
観客にストレスフリーに感情移入できるようキャラクターを単純化/様式化する代わりに、キャメロンは異世界のヴィジュアライゼーションに膨大なリソースを割いています。森や空に浮かぶ島々を移動する、歩く、走る、上る、下る、飛ぶといったアクションと共に風景が3DCGとして刻々と展開されていく稠密な情報量は、量がある水準を超えると質に転換するということを実感させます。CGを全面的に取り入れたSF映画として先行する「スター・ウォーズ エピソード1/2/3」でも、風景がメインに映る俯瞰のパンショットはほんの数秒、残りの大半のパートは人物+セットにCGがハメこまれるという平面的で書き割り的なレイアウトだったので、ここまで異世界の中に「いる」ことを体感させる映画は初めてかもしれません。「WETAってILM超えちゃったなー」って思ったりも。
あとは、宮崎駿のエレメントの咀嚼も目立ちます。ジェイクがナヴィの通過儀礼としてパンドラの鳥類イクランの巣を訪ねる一連のシーンに顕著ですが、キャメロンの過去作ではあまりなかった、高さを意識したタテの空間設計に特に宮崎を感じました(どうでもいいですが、最後の方でデイダラボッチを出してくるかなと思いましたが、さすがに出ませんでしたね・・)。パワードスーツは「エイリアン2」に続き今回も登場してますが、「SFマガジン」のインタビューで、キャメロンがSF作家の中ではロバート・A・ハインラインが一番好きだ!と言ってたので、なるほど。とはいえ、ハインラインの「宇宙の戦士」を下世話な悪夢としてリファインしたポール・バーホーベンの「スターシップ・トゥルーパーズ」と違い、キャメロンはバーホーベンほどバカに振り切れない優等生っぷりで、しかし、ウェルメイドなファンタジーに魅力的な記号を整然と散りばめ、伏線を回収していく手つきは大したものだと思います。
ジェイクがアバターとして生きることを選ぶという、「行きて帰りし物語」ではなく行きっぱなしで終わるというラストは、ハッピーエンドのようでそうではないというか、半身不随で生きる現実を捨てて、自由に幸福に生きられるもうひとつの現実、我々観客からすればゲーム内仮想現実にも見える世界に没入することを選択するわけで、夢から醒めないことをあえて選ぶというバッドエンドにも感じました。これがインテリのコッポラなら、ジャングルの「闇の奥」で自分探しに奮闘した挙げ句、自分が何者でもないこと、越境して自分の王国を構築するという高踏的で審美主義的なふるまいがいかに醜い自己欺瞞に過ぎないのかということを3時間かけて発見するわけですが、B級出身で大衆映画の権化であるキャメロンはそんな優雅なエリートの自分探しなんてコストかかるしキツくてやってらんないよと。だったら安全で洗練された居心地いい虚構空間を作って自由を満喫したり自己実現すればいいのであって、でもその没入にもそれなりに危険は伴うし、帰ってこれないこともあるからアットユアオウンリスクでよろしく。「そんなのヌルいじゃん!SF映画の本格を目指すならキツくても他者を描けよ!」って思う人は、春公開の「ディストリクト9(邦題:第9地区)」を観るべきかもしれませんね。
・・・ということで、4千字超えちゃって「何やってんだろ俺」状態になってますが、「B級の一流」キャメロンによる異世界観光映画としての濃度はたしかにあった、というのが今回の結論です。
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