2009/04/03

とりかへばや物語、カウガール編

一個前のエントリーで『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』について書いたが、実は映画の日に『チェンジリング』と『ベンジャミン・バトン』を立て続けに観たのだった。両方とも2時間以上の長尺で20世紀初頭に遡るハリウッド大作ということで共通するが、まったく違う映画だった(当たり前)。ちなみに、今年はじめて劇場で観た映画がコレ。

『ベンジャミン・バトン』は1920年代にスコット・フィッツジェラルドが書いたフィクション、『チェンジリング』は1920年代に実際に起きたノンフィクションが元になっている。蛇足ながら、デヴィッド・フィンチャーの前作『ゾディアック』では、ゾディアック事件の犯人をモデルにしたクリント・イーストウッドの『ダーティハリー』公開をエサに犯人を捕獲しようとするシーンがある。虚実の入れ子状態。さらに蛇足だが、ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーというハリウッドを代表するおしどり夫婦がそれぞれ主演。『ウォッチメン』をあきらめてこの2本を選んだのは、たぶん偶然ではなく必然だったかと。

ベルエポックだったりミッドセンチュリーだったり、ノスタルジックに古き良き時代を回顧する懐古主義と来れば、ハリウッドのお家芸というか常套手段で、現代と地続きではないことでさまざまなリアリティを棚上げした安全な圏内で物語を走らせるのはズルいよなぁと思ったりするのだけど、この2本はそんな下衆(げす)の勘ぐりを遠く離れたところで、いま作るべき作品としてキチンと成立していた。

僕はクリント・イーストウッドの近作を観てないので比較はできないが、『チェンジリング』には「悪には正義の鉄槌を下す!」というイーストウッドの完膚なきまでのカウボーイ魂が横溢していて(この場合、カウガールか?)、そのブレのない竹を割ったような終始一貫した態度にドキドキした。イマドキの複雑系な時代にこんなにシンプルでいいのか?と思うくらい、憎まれ役は憎まれ役としての役割を全うし制裁を受けるのだ。イーストウッドが全員の俳優の顔を選んでるワケじゃないんだろうけど、ちゃんとみんな憎らしい顔をしていて(特に、ニセ息子役の男の子は最後まで憎たらしい、史実では彼の供述が事件解決のきっかけになったらしい)、アンジェリーナ・ジョリーの味方になる人はみんな善良で思慮深い市民の顔つきをしている。

当初は「警察と戦いたいわけではなくて、息子を見つけたいだけ」と言ってたアンジェリーナ・ジョリーは、数々の受難のあとで敢然と毅然と戦う女になっていく。精神病院では院長に「Fuck」と捨て台詞を吐き(それまでは権力に従順な女を演じていたのに、この瞬間、彼女は変貌するのだ)、刑務所の面会で犯人の胸ぐらをつかんで「地獄に堕ちろ!」と叫ぶ(この場面は言うまでもなく事実ではなく脚色だろう)。

犯人の死刑執行はこれでもか!と言うくらいネチっこく丹念に描かれ、それをガン見するジョリーは阿修羅のごとく仁王立ち。パネェ、イーストウッド(笑)。そういえば、昔のイーストウッド映画には必ずソンドラ・ロックという痩せぎすの伴侶が付き添っていたが、なぜか彼女を思い出してしまった。ソンドラ・ロック、名前にも凄みが効いてる。

途中までは息子の誘拐に関する情報が観客には完全にシャットアウトされているので話がどう転んでいくのかわからない(フィンチャーであれば、最後までこの五里霧中なムードを引っ張るだろう)。ある場面でそれが猟奇的な殺人事件と接続されると、映画は真実の探求というゴールを見つけて走り始める。警察署の待合室で少年(=犯人の弟)がリズミカルに膝を叩く男の身振りに注力すると、犯人が斧を下ろすカットがインサートされる。なんという古典的なモンタージュの破壊力。ヒッチコックかと思ったよ。

ハスミン(この言い方って岡崎京子のマンガでもあったな)がアメリカ映画の正統的な継承者としてイーストウッドを擁護したがる気持ちもちょっとだけわかった気がした(ちょっとだけね)。ゆがんだ超広角で街と行き交う車がビシッとフレームに収まっていたり、モガな格好で電話局内をローラースケートするジョリーなど、1920年代を再現した映像や風俗が気持ちよかった。

カメラの外側から物語をながめてる風な傍観者的なフィンチャーに対し、イーストウッドは観客をグイグイとキャラクターに引きつけエモーションの手綱をたぐりよせ感情移入の美酒で酔わせる。映像/特殊効果出身と俳優出身という違いも大きいだろうし、世代の違いもあるだろうが、似たようなノスタルジックな素材を扱いながら、両者のヴェクトルは真逆でそこが面白いと思った。ただ、フィンチャーもイーストウッドも監督として手渡された物語をとことん妥協せず可視化し尽くすという点では似ている。だから、この2本のフィルムには不完全燃焼感がない。

不景気でショボくれたくなることが多い昨今だが、(素朴な感想になるが)お金をかけた圧倒的なエンタメで世界を支配するアメリカの底ヂカラは大したものだと思うし、ハーシー・チョコレートを進駐軍にねだった頃から日本人はどれだけ跳躍できたのだろうか、といぶかしむのだった(なんじゃそりゃ)。こうした一方的な文化的享受の豊かさやゼイタクさ、翻って、それを享受するだけの貧しさや空しさってなんなんだろうね。平たく言うと、やっぱりクヤシイなと。

アップル - Trailers - チェンジリング
 

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