某月某日。
ブログにはタイトルと本文がある。TwitterにもTumblrにもタイトルはなくボディ=本文しかない。タイトルとサブタイトルと本文の重層関係による三段論法で読者をうならせる、みたいな旧来のメディアの編集技法って、ゼロ年代末にはまだるっこしいのかも。時代はタイトルレス、ボディが同時にタイトルでありキャッチコピーである時代。
旧来のメディアのトップダウン式ロジックがある種の特権性や権力意識と結びついていることを、あたらしいメディアが気づかせてくれるというか。でも、これはインターネット黎明期に、ハイパーリンクだハイパーテキストだって散々言われてきたことのヴァージョンでしかないのかも。
外国映画の邦題に名コピー(迷コピー)がいっぱいあった時代がすっかり遠のいたこととも関係あると思う。
上に書いたようなことがなんで気になったかというと、Twitterのリンクって短縮URLなのでリンク先がどんなサイトかわからない&リンク先の説明がていねいに書いてあるなんてことは当然のごとく少なくて、「ここ」とか「これ」とか指示代名詞が添えられてる程度で、中身がわかんないから確認するという意味でもリンクに飛んじゃうことがよくあって(自分もブログの文中で「コレ」ってリンクを張るから同じことなんだけど)、実はかなり暴力的で恣意的=その場限りのコミュニケーションの作法なんじゃないの?という。
どちらが良い悪いじゃなくて、情報社会に最適化された野蛮な(かつ洗練された)ネットのコミュニケーション作法と、昔ながらの「おもてなし」に近いまだるっこしいコミュニケーション作法とでは、やはり依拠するカルチャーが自ずと違ってくる。
たぶん、リアルでは面倒くさい手続きを踏んだ生け花や茶の湯のようなコミュニケーションが、ネットではまったく逆のベクトルのコミュニケーションが、これからそれぞれ先鋭化していくのだろうなぁとぼんやり思う(なんだか、音楽がダウンロードとライヴに両極化するみたいな話だ)。
某月某日。
トレードオフという言葉がなぜか最近目につく。トレードオフ=二律背反の状態=背に腹は代えられない=エネルギー保存の法則? 人生を表象するような言葉だなぁとひとりごちる。
「エントロピーとは、覆水盆に返らず」というフレーズを今日起き抜けに思いつくが、そのあとググるとエントロピーの説明で「覆水盆に返らず」を例に上げている記事がいっぱい出てきた(笑)。
トレードオフ - Wikipedia
2009/04/16
2009/04/11
Stray Sheep, Straight Edge
某月某日。
代々木公園で花見だというので重い腰を上げて行ったら、こちらの勘違いで場所を間違えていたというオチ。ニコラ・テスラの呪いが春たけなわの東京を襲ったのか、代々木公園の電磁波の一極集中はすさまじく、ケータイはウンともスンとも動作せず、途方にくれてヨヨコーをさまよい歩く。花や語らいを楽しむよりケータイでベシャるのが今っぽいのか? それとも桜の写真が大量にTwitterやFrickrやモブログにアップされてるのかジャストナウ? だとしたら、これは一種の集団ヒステリー、テクノロジーの没入による没我状態、みんなで共有すれば恐くないアハ体験の集いとは言えないか? なんとか別のグループと落ち合い、知人がDJブースの横でライヴペインティングしてるというので行くと、滅法かっこよいミニマルが鳴っていて、ある者は楽しそうに、ある者はストイックに、桜の樹の下には死体があるやも知れないのに昏々と踊り続ける若者たちに、刹那の快楽に興じるということの何たるかを教えられた気がして、気がつけば自分も一心不乱に踊ってしまっていた。A-HA! そのあと、トイレに行ったら迷ってしまい、どこを見ても桜と人と生ゴミの山でチガイがわからず、一生この鏡の迷宮めいたデジャヴュー魔界ヨヨコーから出られないかもという恐怖に陥った矢先、移動中の先のグループと遭遇(なんともいえない間の悪さに、一瞬の沈黙が訪れたのだった)。教訓。花見の時期の公園は生体エネルギーを無駄に吸い取られるので注意されたし。
某月某日。
『Sweet Dreams』を独りで編集・発行している福田さんと会ってお話する。音楽・出版業界のことから、サブライム・フリーケンシーズのアラン・ビショップが数ある宗教の中でヒンズー教に一番惹かれてるらしい(彼はレバノン人なので本来であればイスラム教だろうけど)という話からジャイナ教やゾロアスター教やブッディズムについて、ワシントンDCのパンク・シーンではいま重いリフのヘヴィな音がキてる、なぜDCで興ったGO-GOはなんでもリバイバルされる時代なのにいまだにリバイバルしないのか(NYラテンとは切断された独自のストイシズムの美学を感じる)、ストレート・エッジ、黒人と白人のミクスチャー・パンクはいまいづこ(DEATHというP-VINEからリイシューされた黒人のパンクバンドがイイとのこと)、ライオット・ガールズとジン・カルチャーと婦人公論と暮らしの手帖、インターネット上のコミュニティでは未知とは出会わないという例の話、リチャード・パワーズ、フィッツジェラルド、トマス・ピンチョン、古川日出男、舞城王太郎、夏目漱石、ラフカディオ・ハーン、『日本語が亡びるとき』と教養主義、高千穂、出雲、鳥取と水木しげる、スサノオノミコトとアマテラスオオミカミと中央集権化、古来より「い」が言霊的にパワフル、松岡正剛と『遊』と『エピステーメー』、大野一雄、あたらしい舞踊の兆候&演劇に疎いという話、マクロビオティック(アンチコンのホワイ=Why?のツアー中、ビーガンであるホワイの影響で某氏がベジタリアンに目覚めたという話はとても興味深かった、そんなこともあるんだなぁ)などなど。文字に起こすと一端(いっぱし)の文化人気取りだが、端から見ればビールを飲んだくれてるオヤジにしか見えなかったと思う・・。それ以前に、僕は「あれ」とか「あれあれ」とか「あれってあれ?ですよね?」とか「☆■●△*」とか会話で固有名詞が出てこないアルツな人なのでアレだが。
代々木公園で花見だというので重い腰を上げて行ったら、こちらの勘違いで場所を間違えていたというオチ。ニコラ・テスラの呪いが春たけなわの東京を襲ったのか、代々木公園の電磁波の一極集中はすさまじく、ケータイはウンともスンとも動作せず、途方にくれてヨヨコーをさまよい歩く。花や語らいを楽しむよりケータイでベシャるのが今っぽいのか? それとも桜の写真が大量にTwitterやFrickrやモブログにアップされてるのかジャストナウ? だとしたら、これは一種の集団ヒステリー、テクノロジーの没入による没我状態、みんなで共有すれば恐くないアハ体験の集いとは言えないか? なんとか別のグループと落ち合い、知人がDJブースの横でライヴペインティングしてるというので行くと、滅法かっこよいミニマルが鳴っていて、ある者は楽しそうに、ある者はストイックに、桜の樹の下には死体があるやも知れないのに昏々と踊り続ける若者たちに、刹那の快楽に興じるということの何たるかを教えられた気がして、気がつけば自分も一心不乱に踊ってしまっていた。A-HA! そのあと、トイレに行ったら迷ってしまい、どこを見ても桜と人と生ゴミの山でチガイがわからず、一生この鏡の迷宮めいたデジャヴュー魔界ヨヨコーから出られないかもという恐怖に陥った矢先、移動中の先のグループと遭遇(なんともいえない間の悪さに、一瞬の沈黙が訪れたのだった)。教訓。花見の時期の公園は生体エネルギーを無駄に吸い取られるので注意されたし。
某月某日。
『Sweet Dreams』を独りで編集・発行している福田さんと会ってお話する。音楽・出版業界のことから、サブライム・フリーケンシーズのアラン・ビショップが数ある宗教の中でヒンズー教に一番惹かれてるらしい(彼はレバノン人なので本来であればイスラム教だろうけど)という話からジャイナ教やゾロアスター教やブッディズムについて、ワシントンDCのパンク・シーンではいま重いリフのヘヴィな音がキてる、なぜDCで興ったGO-GOはなんでもリバイバルされる時代なのにいまだにリバイバルしないのか(NYラテンとは切断された独自のストイシズムの美学を感じる)、ストレート・エッジ、黒人と白人のミクスチャー・パンクはいまいづこ(DEATHというP-VINEからリイシューされた黒人のパンクバンドがイイとのこと)、ライオット・ガールズとジン・カルチャーと婦人公論と暮らしの手帖、インターネット上のコミュニティでは未知とは出会わないという例の話、リチャード・パワーズ、フィッツジェラルド、トマス・ピンチョン、古川日出男、舞城王太郎、夏目漱石、ラフカディオ・ハーン、『日本語が亡びるとき』と教養主義、高千穂、出雲、鳥取と水木しげる、スサノオノミコトとアマテラスオオミカミと中央集権化、古来より「い」が言霊的にパワフル、松岡正剛と『遊』と『エピステーメー』、大野一雄、あたらしい舞踊の兆候&演劇に疎いという話、マクロビオティック(アンチコンのホワイ=Why?のツアー中、ビーガンであるホワイの影響で某氏がベジタリアンに目覚めたという話はとても興味深かった、そんなこともあるんだなぁ)などなど。文字に起こすと一端(いっぱし)の文化人気取りだが、端から見ればビールを飲んだくれてるオヤジにしか見えなかったと思う・・。それ以前に、僕は「あれ」とか「あれあれ」とか「あれってあれ?ですよね?」とか「☆■●△*」とか会話で固有名詞が出てこないアルツな人なのでアレだが。
2009/04/03
とりかへばや物語、カウガール編
一個前のエントリーで『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』について書いたが、実は映画の日に『チェンジリング』と『ベンジャミン・バトン』を立て続けに観たのだった。両方とも2時間以上の長尺で20世紀初頭に遡るハリウッド大作ということで共通するが、まったく違う映画だった(当たり前)。ちなみに、今年はじめて劇場で観た映画がコレ。
『ベンジャミン・バトン』は1920年代にスコット・フィッツジェラルドが書いたフィクション、『チェンジリング』は1920年代に実際に起きたノンフィクションが元になっている。蛇足ながら、デヴィッド・フィンチャーの前作『ゾディアック』では、ゾディアック事件の犯人をモデルにしたクリント・イーストウッドの『ダーティハリー』公開をエサに犯人を捕獲しようとするシーンがある。虚実の入れ子状態。さらに蛇足だが、ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーというハリウッドを代表するおしどり夫婦がそれぞれ主演。『ウォッチメン』をあきらめてこの2本を選んだのは、たぶん偶然ではなく必然だったかと。
ベルエポックだったりミッドセンチュリーだったり、ノスタルジックに古き良き時代を回顧する懐古主義と来れば、ハリウッドのお家芸というか常套手段で、現代と地続きではないことでさまざまなリアリティを棚上げした安全な圏内で物語を走らせるのはズルいよなぁと思ったりするのだけど、この2本はそんな下衆(げす)の勘ぐりを遠く離れたところで、いま作るべき作品としてキチンと成立していた。
僕はクリント・イーストウッドの近作を観てないので比較はできないが、『チェンジリング』には「悪には正義の鉄槌を下す!」というイーストウッドの完膚なきまでのカウボーイ魂が横溢していて(この場合、カウガールか?)、そのブレのない竹を割ったような終始一貫した態度にドキドキした。イマドキの複雑系な時代にこんなにシンプルでいいのか?と思うくらい、憎まれ役は憎まれ役としての役割を全うし制裁を受けるのだ。イーストウッドが全員の俳優の顔を選んでるワケじゃないんだろうけど、ちゃんとみんな憎らしい顔をしていて(特に、ニセ息子役の男の子は最後まで憎たらしい、史実では彼の供述が事件解決のきっかけになったらしい)、アンジェリーナ・ジョリーの味方になる人はみんな善良で思慮深い市民の顔つきをしている。
当初は「警察と戦いたいわけではなくて、息子を見つけたいだけ」と言ってたアンジェリーナ・ジョリーは、数々の受難のあとで敢然と毅然と戦う女になっていく。精神病院では院長に「Fuck」と捨て台詞を吐き(それまでは権力に従順な女を演じていたのに、この瞬間、彼女は変貌するのだ)、刑務所の面会で犯人の胸ぐらをつかんで「地獄に堕ちろ!」と叫ぶ(この場面は言うまでもなく事実ではなく脚色だろう)。
犯人の死刑執行はこれでもか!と言うくらいネチっこく丹念に描かれ、それをガン見するジョリーは阿修羅のごとく仁王立ち。パネェ、イーストウッド(笑)。そういえば、昔のイーストウッド映画には必ずソンドラ・ロックという痩せぎすの伴侶が付き添っていたが、なぜか彼女を思い出してしまった。ソンドラ・ロック、名前にも凄みが効いてる。
途中までは息子の誘拐に関する情報が観客には完全にシャットアウトされているので話がどう転んでいくのかわからない(フィンチャーであれば、最後までこの五里霧中なムードを引っ張るだろう)。ある場面でそれが猟奇的な殺人事件と接続されると、映画は真実の探求というゴールを見つけて走り始める。警察署の待合室で少年(=犯人の弟)がリズミカルに膝を叩く男の身振りに注力すると、犯人が斧を下ろすカットがインサートされる。なんという古典的なモンタージュの破壊力。ヒッチコックかと思ったよ。
ハスミン(この言い方って岡崎京子のマンガでもあったな)がアメリカ映画の正統的な継承者としてイーストウッドを擁護したがる気持ちもちょっとだけわかった気がした(ちょっとだけね)。ゆがんだ超広角で街と行き交う車がビシッとフレームに収まっていたり、モガな格好で電話局内をローラースケートするジョリーなど、1920年代を再現した映像や風俗が気持ちよかった。
カメラの外側から物語をながめてる風な傍観者的なフィンチャーに対し、イーストウッドは観客をグイグイとキャラクターに引きつけエモーションの手綱をたぐりよせ感情移入の美酒で酔わせる。映像/特殊効果出身と俳優出身という違いも大きいだろうし、世代の違いもあるだろうが、似たようなノスタルジックな素材を扱いながら、両者のヴェクトルは真逆でそこが面白いと思った。ただ、フィンチャーもイーストウッドも監督として手渡された物語をとことん妥協せず可視化し尽くすという点では似ている。だから、この2本のフィルムには不完全燃焼感がない。
不景気でショボくれたくなることが多い昨今だが、(素朴な感想になるが)お金をかけた圧倒的なエンタメで世界を支配するアメリカの底ヂカラは大したものだと思うし、ハーシー・チョコレートを進駐軍にねだった頃から日本人はどれだけ跳躍できたのだろうか、といぶかしむのだった(なんじゃそりゃ)。こうした一方的な文化的享受の豊かさやゼイタクさ、翻って、それを享受するだけの貧しさや空しさってなんなんだろうね。平たく言うと、やっぱりクヤシイなと。
アップル - Trailers - チェンジリング
『ベンジャミン・バトン』は1920年代にスコット・フィッツジェラルドが書いたフィクション、『チェンジリング』は1920年代に実際に起きたノンフィクションが元になっている。蛇足ながら、デヴィッド・フィンチャーの前作『ゾディアック』では、ゾディアック事件の犯人をモデルにしたクリント・イーストウッドの『ダーティハリー』公開をエサに犯人を捕獲しようとするシーンがある。虚実の入れ子状態。さらに蛇足だが、ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーというハリウッドを代表するおしどり夫婦がそれぞれ主演。『ウォッチメン』をあきらめてこの2本を選んだのは、たぶん偶然ではなく必然だったかと。
ベルエポックだったりミッドセンチュリーだったり、ノスタルジックに古き良き時代を回顧する懐古主義と来れば、ハリウッドのお家芸というか常套手段で、現代と地続きではないことでさまざまなリアリティを棚上げした安全な圏内で物語を走らせるのはズルいよなぁと思ったりするのだけど、この2本はそんな下衆(げす)の勘ぐりを遠く離れたところで、いま作るべき作品としてキチンと成立していた。
僕はクリント・イーストウッドの近作を観てないので比較はできないが、『チェンジリング』には「悪には正義の鉄槌を下す!」というイーストウッドの完膚なきまでのカウボーイ魂が横溢していて(この場合、カウガールか?)、そのブレのない竹を割ったような終始一貫した態度にドキドキした。イマドキの複雑系な時代にこんなにシンプルでいいのか?と思うくらい、憎まれ役は憎まれ役としての役割を全うし制裁を受けるのだ。イーストウッドが全員の俳優の顔を選んでるワケじゃないんだろうけど、ちゃんとみんな憎らしい顔をしていて(特に、ニセ息子役の男の子は最後まで憎たらしい、史実では彼の供述が事件解決のきっかけになったらしい)、アンジェリーナ・ジョリーの味方になる人はみんな善良で思慮深い市民の顔つきをしている。
当初は「警察と戦いたいわけではなくて、息子を見つけたいだけ」と言ってたアンジェリーナ・ジョリーは、数々の受難のあとで敢然と毅然と戦う女になっていく。精神病院では院長に「Fuck」と捨て台詞を吐き(それまでは権力に従順な女を演じていたのに、この瞬間、彼女は変貌するのだ)、刑務所の面会で犯人の胸ぐらをつかんで「地獄に堕ちろ!」と叫ぶ(この場面は言うまでもなく事実ではなく脚色だろう)。
犯人の死刑執行はこれでもか!と言うくらいネチっこく丹念に描かれ、それをガン見するジョリーは阿修羅のごとく仁王立ち。パネェ、イーストウッド(笑)。そういえば、昔のイーストウッド映画には必ずソンドラ・ロックという痩せぎすの伴侶が付き添っていたが、なぜか彼女を思い出してしまった。ソンドラ・ロック、名前にも凄みが効いてる。
途中までは息子の誘拐に関する情報が観客には完全にシャットアウトされているので話がどう転んでいくのかわからない(フィンチャーであれば、最後までこの五里霧中なムードを引っ張るだろう)。ある場面でそれが猟奇的な殺人事件と接続されると、映画は真実の探求というゴールを見つけて走り始める。警察署の待合室で少年(=犯人の弟)がリズミカルに膝を叩く男の身振りに注力すると、犯人が斧を下ろすカットがインサートされる。なんという古典的なモンタージュの破壊力。ヒッチコックかと思ったよ。
ハスミン(この言い方って岡崎京子のマンガでもあったな)がアメリカ映画の正統的な継承者としてイーストウッドを擁護したがる気持ちもちょっとだけわかった気がした(ちょっとだけね)。ゆがんだ超広角で街と行き交う車がビシッとフレームに収まっていたり、モガな格好で電話局内をローラースケートするジョリーなど、1920年代を再現した映像や風俗が気持ちよかった。
カメラの外側から物語をながめてる風な傍観者的なフィンチャーに対し、イーストウッドは観客をグイグイとキャラクターに引きつけエモーションの手綱をたぐりよせ感情移入の美酒で酔わせる。映像/特殊効果出身と俳優出身という違いも大きいだろうし、世代の違いもあるだろうが、似たようなノスタルジックな素材を扱いながら、両者のヴェクトルは真逆でそこが面白いと思った。ただ、フィンチャーもイーストウッドも監督として手渡された物語をとことん妥協せず可視化し尽くすという点では似ている。だから、この2本のフィルムには不完全燃焼感がない。
不景気でショボくれたくなることが多い昨今だが、(素朴な感想になるが)お金をかけた圧倒的なエンタメで世界を支配するアメリカの底ヂカラは大したものだと思うし、ハーシー・チョコレートを進駐軍にねだった頃から日本人はどれだけ跳躍できたのだろうか、といぶかしむのだった(なんじゃそりゃ)。こうした一方的な文化的享受の豊かさやゼイタクさ、翻って、それを享受するだけの貧しさや空しさってなんなんだろうね。平たく言うと、やっぱりクヤシイなと。
アップル - Trailers - チェンジリング
2009/04/02
ベンジャミン・バトン 数奇な人生
やっと『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』を観れました。以下、感想。
この映画はデヴィッド・フィンチャー監督が前作『ゾディアック』で発見した語り口、いたずらにエモーションを喚起させない平坦なドキュメンタリータッチで数十年にまたがる大きなタイムスケールの物語を描くという手法をメロドラマに活用した作品、と言えるのではないかと。
フィンチャー監督は、平凡な人間の平凡なありようを描くことに意識的な人だと思う。『ファイト・クラブ』は凡人が非凡な超人というオルター・エゴを構築する話だったし、『ゾディアック』は世間を震撼させたシリアル・キラーの実像が平凡な男だったことを粛々と突き止めていく話だった。大抵の映画では、平凡さは感情移入や共感のトリガーとしてあるのだろうけど、フィンチャーの扱う平凡さはそうではない。フィンチャーには「ありふれた」感を「ありふれてない」手法でツイストして撮る才能がある。
人生を逆回ししていく「逆しまの世界」を生きるベンジャミン。年齢と共に若返っていくという設定こそトリッキーだが、ベンジャミンが経験する人生はありふれた出会いと別れの連続で、気の利いた警句やアフォリズムをそこから取り出すことは簡単にできそうだ。
ベンジャミンが誕生してタグボートの船員となり旅先でエリザベスと出会い第二次世界大戦が終わって帰国するまでの前半は、軽妙で楽しい。何度か挿入される稲妻に打たれる老人のエピソードはクリスピーで笑えるし、海上の潜水艦との銃撃戦は、終始静かなこの映画で最もスペクタクルなシーンでその視覚効果と臨場感には度肝を抜かれる。
後半はベンジャミンとデイジーの恋愛が中心で、どちらかというとデイジーにウエイトが置かれている印象(全編の語り部がデイジーだから、これはデイジーから見たベンジャミンの物語でもある)。美貌と才能があるがゆえに傲慢さも持ち合わせ、勝ち組人生を送っていたが交通事故をきっかけに自己を回復していくデイジーをベンジャミンが見守るという構図で、そこに60〜70年代の風俗が絡む。20世紀の血気盛んな壮年期時代と、ふたりの壮年期を重ねているのがうまいなぁと思う(『太陽がいっぱい』まんまなヨットのシーンとか出てくるし)。
ベンジャミンとデイジーが浜辺で陽が昇るのを眺め、「これからは(老いていく)自分を可哀想とは決して思わないわ」とデイジーが言うシーンでは、ベンジャミンと死を予感した父親のシーンが反復される。朝焼けがターナーの風景画のように美しい。また、年老いたデイジーがホテルで見せる身体のラインの崩れは、老いた身体を恥じらい隠そうとする彼女の仕草も相まってなんとも切ない(若い頃のスレンダーな体型を観客がすでに知ってるだけに)。
ブラッド・ピットもケイト・ブランシェットもイイが、個人的に贔屓(ひいき)にしているティルダ・スウィントンが素晴らしい。彼女の身のこなし、演技、表情、怒り肩でやたら面積の広い豊満な背中(笑)、身体の均整は取れているのにどこかイビツでビザールな存在感、それらに目が奪われてしまう。最近では『サムサッカー』の母親役、『コンスタンティン』の天使ガブリエル役も印象に残る(ティルダに興味があれば、ぜひ『オルランド』という逸品があるのでチェックしていただきたい)。
醜いアヒルの子として祝福されずにこの世に誕生したベンジャミンは差別や拒絶やいじめを受けそうだが、この映画ではそうした否定的な感情はほとんど描かれない。捨て子のベンジャミンを育てる黒人女性のクイニー、養老院の老人たち、タグボートの船長、幼なじみのデイジー、彼らは皆、一様にベンジャミンを受け入れ、あたたかい愛情を惜しみなく注ぐ。赤ん坊のベンジャミンを捨てた父親も、最後には彼と和解しボタン製造業で築いた財産を譲り渡す。ラストのカーテンコールで、ベンジャミンに関わった人々が矢継ぎ早のカットバックで登場し、カメラ=ベンジャミンに向かって微笑みかける。これはユーフォリアでありお伽話なのだ。
また、周囲の人間との出会いと別れを逆しまに経験していけば、本来ならPTSDになりそうだが、ベンジャミンの場合、心理的葛藤や人格障害とは無縁で、自分の運命を心穏やかに受け入れていく。はじめから老成してるというか、幼少の頃から悟りや諦めのフラットな精神状態にいるわけで、逆境で培われるメンタルな成長がないということでもある。通常の人生であれば、点と点が次第に線となり面となり、記憶がカラダに累積され脳のシワに刻まれていく。自分が年を取ることで自分以外の大人たちが辿ってきた時間を身をもって反芻していくというプロセスがあるが、ベンジャミンにはそれができない。
だから、ベンジャミンは常に傍観者でオブザーバーだ。点という現在を生きることしかできない、点という現在形でしか人々の傍らに居てあげることができないから(しかし、寄り添うこと=愛であるということを、この映画は物語っていないだろうか)。『ゾディアック』でもこの傍観者的態度は貫かれていた。フィンチャーのこういう醒めた視点が僕にはとても心地よいのだが、Rotten Tomatoesによると、『ベンジャミン・バトン』に否定的な人の多くは「映像技術はスゴいが人物に感情移入できずエモーションを映画にもたらすことに失敗している」(もしくは「ハリウッド式の安全なメロドラマにセルアウトしている」)と思っているようだ。
フィンチャー組で照明を担当していたクラウディオ・ミランダの撮影、映像と音響(環境音がスーッと後景に退いていったり)はいまの時代でしか作れないクオリティ。あとアレキサンドラ・デプラのオリジナル・スコアがよかった。ウェット過ぎずアブストラクト過ぎず、ちょうどいい案配の繊細なオーケストレーション(この人の名前は覚えておこう)。
老人のような子供のVFXで思い出したのは、クリス・カニンガムが手がけたエイフェックス・ツインの『Come To Daddy』のPV。極悪なエイフェックス顔をしたオトナコドモの暴徒集団が廃墟で老婆を襲うという悪意のカタマリのような映像は、当時あまりに斬新だった(デヴィッド・クローネンバーグ『ヴィデオドローム』のオマージュ・シーンもある)。『Come To Daddy』は1997年のリリースで、時代的には1995年の『セブン』と1999年の『ファイト・クラブ』の間に製作されており、寒色系に傾いたカラー設計を含め、ほぼ同時代の空気、反逆精神を体現していたと言えるだろう。なお、シミュラークルとしての増殖する人間のVFXと言えば、1999年の『マルコヴィッチの穴』がある。
mnemonic memo: ゾディアック
この映画はデヴィッド・フィンチャー監督が前作『ゾディアック』で発見した語り口、いたずらにエモーションを喚起させない平坦なドキュメンタリータッチで数十年にまたがる大きなタイムスケールの物語を描くという手法をメロドラマに活用した作品、と言えるのではないかと。
フィンチャー監督は、平凡な人間の平凡なありようを描くことに意識的な人だと思う。『ファイト・クラブ』は凡人が非凡な超人というオルター・エゴを構築する話だったし、『ゾディアック』は世間を震撼させたシリアル・キラーの実像が平凡な男だったことを粛々と突き止めていく話だった。大抵の映画では、平凡さは感情移入や共感のトリガーとしてあるのだろうけど、フィンチャーの扱う平凡さはそうではない。フィンチャーには「ありふれた」感を「ありふれてない」手法でツイストして撮る才能がある。
人生を逆回ししていく「逆しまの世界」を生きるベンジャミン。年齢と共に若返っていくという設定こそトリッキーだが、ベンジャミンが経験する人生はありふれた出会いと別れの連続で、気の利いた警句やアフォリズムをそこから取り出すことは簡単にできそうだ。
ベンジャミンが誕生してタグボートの船員となり旅先でエリザベスと出会い第二次世界大戦が終わって帰国するまでの前半は、軽妙で楽しい。何度か挿入される稲妻に打たれる老人のエピソードはクリスピーで笑えるし、海上の潜水艦との銃撃戦は、終始静かなこの映画で最もスペクタクルなシーンでその視覚効果と臨場感には度肝を抜かれる。
後半はベンジャミンとデイジーの恋愛が中心で、どちらかというとデイジーにウエイトが置かれている印象(全編の語り部がデイジーだから、これはデイジーから見たベンジャミンの物語でもある)。美貌と才能があるがゆえに傲慢さも持ち合わせ、勝ち組人生を送っていたが交通事故をきっかけに自己を回復していくデイジーをベンジャミンが見守るという構図で、そこに60〜70年代の風俗が絡む。20世紀の血気盛んな壮年期時代と、ふたりの壮年期を重ねているのがうまいなぁと思う(『太陽がいっぱい』まんまなヨットのシーンとか出てくるし)。
ベンジャミンとデイジーが浜辺で陽が昇るのを眺め、「これからは(老いていく)自分を可哀想とは決して思わないわ」とデイジーが言うシーンでは、ベンジャミンと死を予感した父親のシーンが反復される。朝焼けがターナーの風景画のように美しい。また、年老いたデイジーがホテルで見せる身体のラインの崩れは、老いた身体を恥じらい隠そうとする彼女の仕草も相まってなんとも切ない(若い頃のスレンダーな体型を観客がすでに知ってるだけに)。
ブラッド・ピットもケイト・ブランシェットもイイが、個人的に贔屓(ひいき)にしているティルダ・スウィントンが素晴らしい。彼女の身のこなし、演技、表情、怒り肩でやたら面積の広い豊満な背中(笑)、身体の均整は取れているのにどこかイビツでビザールな存在感、それらに目が奪われてしまう。最近では『サムサッカー』の母親役、『コンスタンティン』の天使ガブリエル役も印象に残る(ティルダに興味があれば、ぜひ『オルランド』という逸品があるのでチェックしていただきたい)。
醜いアヒルの子として祝福されずにこの世に誕生したベンジャミンは差別や拒絶やいじめを受けそうだが、この映画ではそうした否定的な感情はほとんど描かれない。捨て子のベンジャミンを育てる黒人女性のクイニー、養老院の老人たち、タグボートの船長、幼なじみのデイジー、彼らは皆、一様にベンジャミンを受け入れ、あたたかい愛情を惜しみなく注ぐ。赤ん坊のベンジャミンを捨てた父親も、最後には彼と和解しボタン製造業で築いた財産を譲り渡す。ラストのカーテンコールで、ベンジャミンに関わった人々が矢継ぎ早のカットバックで登場し、カメラ=ベンジャミンに向かって微笑みかける。これはユーフォリアでありお伽話なのだ。
また、周囲の人間との出会いと別れを逆しまに経験していけば、本来ならPTSDになりそうだが、ベンジャミンの場合、心理的葛藤や人格障害とは無縁で、自分の運命を心穏やかに受け入れていく。はじめから老成してるというか、幼少の頃から悟りや諦めのフラットな精神状態にいるわけで、逆境で培われるメンタルな成長がないということでもある。通常の人生であれば、点と点が次第に線となり面となり、記憶がカラダに累積され脳のシワに刻まれていく。自分が年を取ることで自分以外の大人たちが辿ってきた時間を身をもって反芻していくというプロセスがあるが、ベンジャミンにはそれができない。
だから、ベンジャミンは常に傍観者でオブザーバーだ。点という現在を生きることしかできない、点という現在形でしか人々の傍らに居てあげることができないから(しかし、寄り添うこと=愛であるということを、この映画は物語っていないだろうか)。『ゾディアック』でもこの傍観者的態度は貫かれていた。フィンチャーのこういう醒めた視点が僕にはとても心地よいのだが、Rotten Tomatoesによると、『ベンジャミン・バトン』に否定的な人の多くは「映像技術はスゴいが人物に感情移入できずエモーションを映画にもたらすことに失敗している」(もしくは「ハリウッド式の安全なメロドラマにセルアウトしている」)と思っているようだ。
フィンチャー組で照明を担当していたクラウディオ・ミランダの撮影、映像と音響(環境音がスーッと後景に退いていったり)はいまの時代でしか作れないクオリティ。あとアレキサンドラ・デプラのオリジナル・スコアがよかった。ウェット過ぎずアブストラクト過ぎず、ちょうどいい案配の繊細なオーケストレーション(この人の名前は覚えておこう)。
老人のような子供のVFXで思い出したのは、クリス・カニンガムが手がけたエイフェックス・ツインの『Come To Daddy』のPV。極悪なエイフェックス顔をしたオトナコドモの暴徒集団が廃墟で老婆を襲うという悪意のカタマリのような映像は、当時あまりに斬新だった(デヴィッド・クローネンバーグ『ヴィデオドローム』のオマージュ・シーンもある)。『Come To Daddy』は1997年のリリースで、時代的には1995年の『セブン』と1999年の『ファイト・クラブ』の間に製作されており、寒色系に傾いたカラー設計を含め、ほぼ同時代の空気、反逆精神を体現していたと言えるだろう。なお、シミュラークルとしての増殖する人間のVFXと言えば、1999年の『マルコヴィッチの穴』がある。
mnemonic memo: ゾディアック
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