2008/08/26
「崖の上のポニョ」その2
前回のエントリーに続き、「ポニョ」についてまとまらないまま書いてみる(ネタバレ)。*8.28加筆。
悪役の不在。
ポニョの父親であるフジモトが本来はその役目のハズだが、コミック・リリーフ的なポジションで悪人に見えないし、また、フジモトとポニョの母親である海の女神(名前は作中では触れられない、フジモトは「あの人」と呼ぶ)との相克というようなありがちなドラマは描かれない。「パンダコパンダ」では両親がいないことを主人公の女の子が明るく話す場面がある(ホントだったら、悲惨な家庭のハズなのに)。
ノー・クライマックス。
宮崎の映画は昔から脚本や構成が弱いと言われていて、その弱点を類いまれなアニメーションとエモーションのコントロールで「エイヤッ!」とうっちゃらかるという特徴がある。オープニングでフジモトのもとから逃げてきたポニョはソウスケと出会い、ソウスケは幼稚園にポニョを連れていき、ポニョはフジモトに連れ去られる。これだけで前半30分。ポニョの力で嵐が起こり街が海に沈み、本編最大の山場であるポニョが波に乗ってソウスケを追いかけるところまで30分(オープニングから1時間)。そこからラストまで、前半を超えるクライマックスがずっと来ないまま40分。
後半で力尽きたのか、意図的なものなのかはわからない(たぶんその両方)。アニメーションという集団作業は個々のアニメーターの力量に負う部分が大きく、宮崎はインタビューでこのアニメーターならこの場面を描けるからと絵コンテを膨らませたり場面を追加すると言っている。そうした力のあるアニメーターを後半で確保できなかったのではないかと邪推してみたり。僕はこの映画の最大の短所であり、もしかしたら最大の長所は、クライマックスがないことに尽きると思う。そして、それは映画は盛り上がりがあってしかるべきというドグマに僕が陥っているということでもあるのだが。
後半のナゾ。
「千と千尋」の最後の方で、それまでの湯屋を舞台にした動的な展開(湯屋の内部をジェットコースター的に激しく上下する垂直運動)から、千尋が海上を走る電車で銭ババの家に向かう旅という静的な展開(水平運動)へと切り替わる。死を思わせるシュールレアルな絵画的な静けさが、それまでのダイナミックで映画的な展開と対比される。「ポニョ」では、嵐を境にした前半と後半で似たようなトーンの変化があるが、劇的な変化というより、どこか平坦でなだらかなカーブを描くような変化であり、物語が収束していく(回収されていく)という実感を伴わない。むしろ、時間が区切られていないでずっと続いていくような、時間が引き延ばされていくような、子供の頃に感じていた感覚。これをページをめくっていく絵本のようだと言い換えることもできるかもしれない。
古代魚が泳ぐ海を眺めながら、ポニョとソウスケの運命を巡って、フジモトや女神や異形の者たちによる一大カタストロフな展開を今か今かと待っていたら、「世界はこのままでは滅んでしまう」というフジモトのセリフが唐突にやって来て、ソウスケは世界を救済するという重すぎる運命を(なんの抵抗もなく)受け入れる。ポニョとソウスケの恋愛が成就するというシンプルなお話がなぜかセカイ系になってしまっている。
この運命の受諾と婚姻の誓いの最中ずっと眠っているポニョも、フジモトや女神の言うことにまったく疑いを持たずに従うソウスケも主体性がまるでなく、生きてる感じがしない。ポニョを好きになるソウスケ/ソウスケを好きになるポニョ(宮崎アニメではお決まりの一目惚れのパターン)、そして、ソウスケに会うために嵐を起こすポニョと、前半では、感情の赴くままに激烈に行動し、そこにナゼ?というエクスキューズを入れる余地がないという「コナン」から続く宮崎キャラの典型である2人が、最後は虚勢されたようにおとなしく、大人たちの思うがままなのだ。ここに至って、ソウスケとポニョは自分たちの力で物語を更新していく力強さを失ってしまっている。
表面的には自分たちの意志で運命を選んだと言えるし、子供の成長には親の庇護が必要だとも読めるのだけれど、このラストの不可解さは人間世界から神話世界へと物語が受け渡されたと考えた方がいいのかもしれない。後半の展開をロジカルに考えるとワケわからなくなるが、あの世や夢の世界、神話世界への道行きと考えればまったく不思議ではない。水木しげるや楳図かずおの漫画がそうであるように。
ポニョとソウスケがトンネルをくぐるという意味深なシーンについて、mixiの「ポニョ」コミュに、トンネルが産道を指し、ポニョが人間として生まれ変わることを示唆しているという意見があった。ヒッチコックの「北北西に進路を取れ」で、トンネルに列車が突っ込むシーンがセックス(主役の2人に男女関係が成立したこと)を表しているという解釈を昔読んだが、それを思い出してしまった。このようなフロイト的解釈、あるいは俗流心理学の援用もアリなのだろうけれど、このシーンに限らず、宮崎が「ポニョ」に散りばめた謎はそういうロジカルな解釈を拒むような、「わからない」ことの豊かさの方を選び取るような態度が見受けられる(それを承知で、この文章もああだこうだと書いてるわけだけど)。
ポニョとソウスケの旅は、途中でボートに乗った母子に出会う、陸地に揚がって母親のリサの車を見つけた後トンネルをくぐる、と言葉にすると拍子抜けするほどシンプルで、事件らしい事件もサスペンスフルな展開も起きない。これをイニシエーションのための試練と見るには、(ファンタジーの約束事としても)ヒネリやツイストが足りないと思う。しかし、ここでわかりやすく試練としての事件やスペクタクルな戦いを挿入すれば、後半の独特なムードは失われてしまうだろう。
「ハウル」や「千と千尋」と同じく、あっけない幕切れは、奔放なイマジネーションによって紡がれる物語をロジックでスパッと中断して無理矢理終わらせるという感じがする。ゼロ年代の宮崎は、前回のエントリーでも書いたように大団円やハッピーエンドによる余韻を避ける傾向がある。
その他気づいたこと。
古代魚が泳ぐ海から陸に揚がったソウスケとポニョが手をつないで坂をのぼっていくカットで、ユージン・スミスの「The Walk to Paradise Garden」という有名な写真を思い出した。宮崎が実際にこの写真をイメージしたかはわからないが、「楽園への歩み」というこの写真の持つふくよかで満ち足りたムードはたしかに「ポニョ」の後半とつながっていくように思える。このシーンでは、ポニョが眠ると魔法が解けてしまい、船はもとのオモチャに戻ってしまい用済みになる。楽園に入るには武器や道具はいらないという寓意だろうか?
「パンダコパンダ 雨降りサーカス」では、主人公の家にあったベッドが船の代わりになる。「ポニョ」では、最初にソウスケが登場した時に持っていたオモチャの船をポニョが魔法で大きくして船の代わりにする。「雨降りサーカス」では、航海に携えていく食べ物は、洪水で水に閉じ込められたサーカスの動物たちに与えられる。「ポニョ」では、航海に携えていく食べ物は(本来の目的である、洪水で閉じ込められた老人たちへではなく)、ポニョによって途中で出会ったボートに乗った赤ん坊のお母さんに惜しみなく与えられる(リュックは空になる)。
「パンダコパンダ」では、最初から最後まで観客を脅かすような描写はなく、すべてが子供向け映画の一部として安全に機能している。「ポニョ」では、このような歪みやズレや誤配が各所にあり、観客はどう解釈していいのか途方にくれる。この撹乱や混乱が、「こうなるだろう」という観客のベタな期待に対する気持ちのいい裏切りになっている。このエピソードに限って言えば、無垢な赤ん坊に未来を託すという寓意だろうと容易に想像できるのだが、実際の画面におけるポニョと赤ん坊はそうした寓意や作意を超えて、いともたやすく互いに感応し合いキスをするのだった。
フジモトが魔法の源泉として取り扱う生命の水について、カンブリア紀の爆発という言葉が彼の口から出る。女神はポニョが引き起こした嵐による海の変容を「デボン紀のようだ」と話す。古代魚の海を船で進んでいくポニョとソウスケは古代魚の学名を次々に言い当てる。
人面魚、両生類、人間とメタモルフォーゼしていくポニョ。変身は「千と千尋」以降の宮崎作品に欠かせない要素である。「ハウル」では、ハウルやソフィーや荒地の魔女など、主要キャラが魔法の力で姿を変えていく。人面魚ポニョのルックスは、奈良美智を思わせる(オープニングでポニョが妹たちと一緒にいる場面で、ポニョの顔が一瞬、奈良美智的なツリ目になる)。両生類ポニョは「千と千尋」の湯屋の使用人に似ている。
フジモトと女神の造形は手塚治虫そのもの。Wikipediaに書いてある通り、漫画雑誌上で組まれた手塚の死去直後の特集で、宮崎は手塚が日本のアニメーションに起こした弊害について歯に衣着せず手厳しく批判している。当時それを読んだ僕は、亡くなった人物に対して容赦ない攻撃を加える宮崎にちょっと怖いものを感じた。表現者の業というか、宮崎にとって手塚はあらゆる意味で乗り越えるべき存在だったのだろう。その宮崎が「ポニョ」では手塚を引用する。漫画の表現にメタモルフォーゼを積極的に持ち込んだのも手塚の功績である。もともと人間で女神と結婚することで生命の秘儀を得たフジモトは手塚が何度か漫画化した悪魔メフィストフェレスに魂を売るファウストとも言えそう。
「ポニョ」制作時、宮崎はワーグナーを聴いていた。ポニョが波に乗ってソウスケを追うシークエンスで、ワルキューレの騎行のようなメロディがちょっとだけ聴こえる。どこの場面か忘れてしまったが(たしか老人介護センターの場面?)、ワーグナーとニーベルンゲンの歌に関連するように「ヴァルハラ(Valhalla)」(ヴァルハラとは北欧神話で「戦死者の家」を指す)という文字が背景に書かれていた。この手の作者の隠れた意図を画面に散りばめるお遊びは、「千と千尋」で湯屋の背景に「回春」とデカデカと書いてあったのに通じる。「ヴァルハラ(Valhalla)」と、後半の濃厚な死の匂いはつながっている。
たぶん、宮崎はこちらが求めているようなリニアな求心力のある物語を作る気はさらさらないのだろう。前半は、ソウスケとポニョの物語であり、後半は、その物語を解体した後の残滓のようだ。ラストを器用にまとめず、その残滓のイメージ(イマージュ)がはらむ豊かさを中盤並みにカンブリア紀ばりに爆発させてほしかったというのは無いものねだりだろうか。仮にそうしてしまえば、子供向けの娯楽映画として破綻するのは目に見えている。ソウスケとポニョ(と観客)は一緒に旅をすることで、その丹念なアニメーションによって形成される(映画であると同時に、小説や絵本のようでもある)不可思議なリアリズムの時空を共有するのだ。
こんな奇妙な映画に客が殺到するという不可解さも含め、「ポニョ」は宮崎駿という予定調和を拒む67歳のアニメーション作家がさらに未踏の地へ突き進んだ作品であることは間違いないと思う。
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