このブログのエントリーをいくつか読んでもらえれば分かる通り、僕は一般的に見てコダワリが強い人間である。趣味性の強いオタクと言われれば否定できないし(いわゆるオタク第一世代に入ってしまう年代)、今のオタクカルチャーには正直、溶け込めないところも多い。
音楽で言うと、今の若い人の音楽趣味は、かつて僕らの世代が音楽誌やミュージシャンのインタビューで必死に学習したような歴史を線で結んでいくリニアで系統樹的な音楽地図ではなく、iPodやiTunesのプレイリスト(をメタファーとするような音楽観)がすでにデフォルトになっていると思う。
フラットな水平思考というか、ヘンなコダワリがなく、音楽の海に浮かぶ点をスクロールしてスイスイと泳いでいく感じ。系統樹的な知識のアーカイヴは外部記憶としてネットにあるから、それを参照すればいい。古い価値観からすればリテラシーが足りないということになるが、僕はそれをとても自由で羨ましく思う時がある。
「明日の広告」でも書いたが、1994年から2004年までの10年で世の中に流れる情報量は410倍になった(総務省情報流通センサス報告書より)。 たとえば街を歩いていて10個の情報、看板とか人の顔とか音楽とかに接していたのが、たった10年で4100個に増えたということである。それに比してヒトが処理できる情報量は10年でほとんど変わっていない。つまり我々は9割9分以上の情報を処理できずスルーしている
www.さとなお.com(さなメモ): ぼくたちは何だかあっという間に消費しちゃうね
410倍。そりゃみんな一個の情報に費やすエネルギーが減るワケだ。TwitterやTumblrのようなライフログ的なブログも、情報をスルーすることと情報にピン=フラグを立てることの間のグレーゾーン、誰もが役に立つように加工する前段階の生のRAWな情報をいかにつかまえるかという仕組みになっている。両者ともひたすらロギングするためにあり、フラットな水平思考(もっとうまいわかりやすい言い方がないかな)の産物だ。
そして、大友さんのようにそうした潮流にアンチを唱える人もいる。
過去30年、本来皆でやるものだった音楽が、ラップトップの中で作れるようになり、皆で聴くものであった音楽が、鼓膜を直接振動させるイヤホンで、個人だけの所有物になってしまったのを間の当たりに見てきて、そうした流れに、無駄かもしれないけどはっきりと杭を打ちたいという思いもあります。音楽はそういうもんじゃないだろ・・・って素朴に思ってますから。
SHIFT | PEOPLE | 大友良英
「without records」という大友さんによるインスタレーションは、鼓膜ではなく空気を振動させるポータブルプレイヤーを並べた20世紀的な聴取へのレクイエムのようだ。たくさんのレコードプレイヤーを並べて同時にレコードをプレイしたクリスチャン・マークレイ(Christian Marclay)にとても似ているが(当然、大友さんも意識はしているだろうが)、いにしえのアヴァンギャルドな実験やコンセプチュアル・アート云々というより、こういう音を出したいという欲求の素直な具現化に見える。
こだわりがもたらす苦しみ - Zopeジャンキー日記を読んで、脊髄反射的にこのエントリーを書いた。「自分がこだわっているものに、世の中のたいていの人は、こだわっていないのだ」という事実は、他者とつながる場合、決して忘れてはならないだろう。コダワリが強いがために痛い目にあった古傷も多く、「コワダリが強いよね」と言われることもよくあるので、自戒のためにクリップしておこう。
2008/09/23
First Nation & Slow Life
「100円ショップが出来てから日本はダメになった」と、先日、知人が漏らしていた。Wikipediaによると、100円ショップの歴史は1991年にダイソーが最初の店舗を開設して始まった。バブルが弾けるのと同じタイミングというのは象徴的かも。100円ショップですぐ連想するのはブックオフの存在。ブックオフの直営1号店は1990年だから、100円ショップと同時期だ。
書店における新刊書のサイクルが速くなって、ちょっと前にリリースされた本を書店で見つけるのが難しくなったと言われる。本の中身にまったく拘らず買い取りを行うブックオフがそうした新刊書を古書として救済し、再び手に入れやすい状況を作っているという皮肉。高級アパレルとユニクロやH&Mといったファストファッションを同じひとりの人間が活用するという光景もいまでは当たり前になったし、むしろ、賢い消費者像として一般に認められてる節もある。ところで、先日のカタカナ外来語の話につながるけれど、なんで「ファーストファッション」じゃなくて「ファストファッション」なんだろう!?
便利だから、というバリュー志向の「ファーストネイション」が街を覆い尽くす。それに対するアンチテーゼやカウンターとしての消費動向がスローフードやスローライフだったりするのだろう。スローライフの主張は正論だけれど、感度が高い消費者を煽るマーケティングに成り下がってるところがいただけない。僕はどちらも諸手を挙げて賛成するという立場ではないので、どっちつかずで中途半端、それぞれをイイとこ取りして、100円ショップもコンビニもファーストフードもブックオフもユニクロも使う、自堕落な一生活者に過ぎない。
そういえば、リチャード・リンクレイターの「ファーストフード・ネイション(Fast Food Nation)」のプロデューサーがマルコム・マクラレンだというのを今頃になって知った。自分は最近流行ってるグローバリズムや新自由主義を斬る!的なこの手の映画にあまり食指が動かないのだけれど、マイケル・ムーアが先鞭をつけたこの流れ、柳の下のドジョウを狙うジャーナリスティックな告発映画が多過ぎて、観る前にお腹いっぱいになっているのかも(「ダーウィンの悪夢」は面白かった)。この2人の組み合わせなら観たいなと思う。
麻生太郎が自民党総裁になった。この人は祖父である吉田茂をリスペクトしてるらしいが、端から見ても人としての器量がまったく違うと思うのだがいかがなものか。吉田茂は癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストだった。「日本としては、なるべく早く主権を回復して、占領軍に引き上げてもらいたい。彼らのことをGHQ (General Head Quarters) というが、実は “Go Home Quickly” の略語だというものもあるくらいだ」と冗談を言った逸話など、昭和の愛すべきカッコイイ頑固親父であり、作家・吉田健一を生んだ人となりをよく伝えている。
翻って、麻生太郎はこういう人物である。
要するにアキバの若者たちが、喝采しているローゼン閣下とは、口のひん曲がった「封建領主」のことなのだ。少なくとも、麻生が言っている「ニートはニートらしく」というメッセージと野中広務を指して「部落出身者を日本の総理にできないわなあ」と貶めた差別発言とは、ポジとネガ、コインの裏表のような関係にあることを知っておく必要があるだろう。そして、「○○らしく生きる」とは、部落に生まれ、「自助努力」こそが、差別を撲滅する唯一の道と信じ、差別に甘んじる同じ部落の人々とも激しく闘ってきた野中広務が最も憎んだ、奴隷の思想に他ならない。(カトラー:katolerのマーケティング言論)
国家の宰相が優れた倫理観とヒューマニズムを持ち人々に尊敬され愛される父のようなヒーローのような存在である必要はまったくないと思う。いや、むしろ、危険ですらある。「ザ・ワールド・イズ・マイン」で清濁合わせ飲む大器として描かれる由利首相はマンガだからありえる存在であって、現実だったら各所から非難ゴウゴウ、日本がいま以上に悪い方に傾くのは目に見えている。一国の宰相となるべき人が妙に若者に媚びたり「スローライフ」といった口当たりのいい言葉を威勢よく吐き出す時は、額面通りに受け取らない方がいいと思う。ダブルスタンダードの可能性が高いからだ。吉田茂のように、国を背負うことが必然的に抱え込む矛盾の大きさを苦渋に満ちたユーモアで表現するというのならまた話は別だが。
追記。
僕は麻生太郎も吉田茂も直接知っているわけではないので、この比較は恣意的でバイアスがかかっている可能性はある。
書店における新刊書のサイクルが速くなって、ちょっと前にリリースされた本を書店で見つけるのが難しくなったと言われる。本の中身にまったく拘らず買い取りを行うブックオフがそうした新刊書を古書として救済し、再び手に入れやすい状況を作っているという皮肉。高級アパレルとユニクロやH&Mといったファストファッションを同じひとりの人間が活用するという光景もいまでは当たり前になったし、むしろ、賢い消費者像として一般に認められてる節もある。ところで、先日のカタカナ外来語の話につながるけれど、なんで「ファーストファッション」じゃなくて「ファストファッション」なんだろう!?
便利だから、というバリュー志向の「ファーストネイション」が街を覆い尽くす。それに対するアンチテーゼやカウンターとしての消費動向がスローフードやスローライフだったりするのだろう。スローライフの主張は正論だけれど、感度が高い消費者を煽るマーケティングに成り下がってるところがいただけない。僕はどちらも諸手を挙げて賛成するという立場ではないので、どっちつかずで中途半端、それぞれをイイとこ取りして、100円ショップもコンビニもファーストフードもブックオフもユニクロも使う、自堕落な一生活者に過ぎない。
そういえば、リチャード・リンクレイターの「ファーストフード・ネイション(Fast Food Nation)」のプロデューサーがマルコム・マクラレンだというのを今頃になって知った。自分は最近流行ってるグローバリズムや新自由主義を斬る!的なこの手の映画にあまり食指が動かないのだけれど、マイケル・ムーアが先鞭をつけたこの流れ、柳の下のドジョウを狙うジャーナリスティックな告発映画が多過ぎて、観る前にお腹いっぱいになっているのかも(「ダーウィンの悪夢」は面白かった)。この2人の組み合わせなら観たいなと思う。
麻生太郎が自民党総裁になった。この人は祖父である吉田茂をリスペクトしてるらしいが、端から見ても人としての器量がまったく違うと思うのだがいかがなものか。吉田茂は癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストだった。「日本としては、なるべく早く主権を回復して、占領軍に引き上げてもらいたい。彼らのことをGHQ (General Head Quarters) というが、実は “Go Home Quickly” の略語だというものもあるくらいだ」と冗談を言った逸話など、昭和の愛すべきカッコイイ頑固親父であり、作家・吉田健一を生んだ人となりをよく伝えている。
翻って、麻生太郎はこういう人物である。
要するにアキバの若者たちが、喝采しているローゼン閣下とは、口のひん曲がった「封建領主」のことなのだ。少なくとも、麻生が言っている「ニートはニートらしく」というメッセージと野中広務を指して「部落出身者を日本の総理にできないわなあ」と貶めた差別発言とは、ポジとネガ、コインの裏表のような関係にあることを知っておく必要があるだろう。そして、「○○らしく生きる」とは、部落に生まれ、「自助努力」こそが、差別を撲滅する唯一の道と信じ、差別に甘んじる同じ部落の人々とも激しく闘ってきた野中広務が最も憎んだ、奴隷の思想に他ならない。(カトラー:katolerのマーケティング言論)
国家の宰相が優れた倫理観とヒューマニズムを持ち人々に尊敬され愛される父のようなヒーローのような存在である必要はまったくないと思う。いや、むしろ、危険ですらある。「ザ・ワールド・イズ・マイン」で清濁合わせ飲む大器として描かれる由利首相はマンガだからありえる存在であって、現実だったら各所から非難ゴウゴウ、日本がいま以上に悪い方に傾くのは目に見えている。一国の宰相となるべき人が妙に若者に媚びたり「スローライフ」といった口当たりのいい言葉を威勢よく吐き出す時は、額面通りに受け取らない方がいいと思う。ダブルスタンダードの可能性が高いからだ。吉田茂のように、国を背負うことが必然的に抱え込む矛盾の大きさを苦渋に満ちたユーモアで表現するというのならまた話は別だが。
追記。
僕は麻生太郎も吉田茂も直接知っているわけではないので、この比較は恣意的でバイアスがかかっている可能性はある。
2008/09/20
棒がいっぽん
僕の悪い癖のひとつに、文章を生半可な状態でアップしてしまう(よくよくチェックしない)というのがある。悪文ここに極まれり、であるが、それ以上に竹を割ったような即断や決断が下せない優柔不断な性格によるものと自己分析している。
一回アップしたテキストを「この言い回しは違和感あるなー」「このてにをははおかしいよ」と自問自答しながらこねくり回す時間があるのなら、もうひとつエントリーを書いた方がいいんじゃないかと思ったりもする。
しかし、たかがブログとはいえ、人様の目に半永久的に晒されるものであるから、ちょっとでもヘンだなと思ったら修正したりリライトする、後から新しい知見を発見したら追加する、くらいの労力は最低限必要だと思う。
ということで、間違っていた文章を後から判別させる棒線のHTMLタグを今日覚えた。
例:僕はウソをつかない 否、ウソをつくこともある
こんなカンタンなことを今まで知らなかった。こうしてブログで恥を忍んで自分の無知をさらけ出すのもまた一興である。「俺はこんなに物知りだぜベイベー」と裸の王様でいることの方が何倍も恐ろしい。
タイトルは高野文子さんからいただいた。「奥村さんのお茄子」ほど驚かされた漫画はそうそうない(と書いたら今すぐ読みたくなってしまった)。この漫画で描かれた「記憶」と「記録」の興味深い関係は、拙ブログ「ニモーニック・メモ」のタイトルが意味するところでもありマス。
一回アップしたテキストを「この言い回しは違和感あるなー」「このてにをははおかしいよ」と自問自答しながらこねくり回す時間があるのなら、もうひとつエントリーを書いた方がいいんじゃないかと思ったりもする。
しかし、たかがブログとはいえ、人様の目に半永久的に晒されるものであるから、ちょっとでもヘンだなと思ったら修正したりリライトする、後から新しい知見を発見したら追加する、くらいの労力は最低限必要だと思う。
ということで、間違っていた文章を後から判別させる棒線のHTMLタグを今日覚えた。
例:
こんなカンタンなことを今まで知らなかった。こうしてブログで恥を忍んで自分の無知をさらけ出すのもまた一興である。「俺はこんなに物知りだぜベイベー」と裸の王様でいることの方が何倍も恐ろしい。
タイトルは高野文子さんからいただいた。「奥村さんのお茄子」ほど驚かされた漫画はそうそうない(と書いたら今すぐ読みたくなってしまった)。この漫画で描かれた「記憶」と「記録」の興味深い関係は、拙ブログ「ニモーニック・メモ」のタイトルが意味するところでもありマス。
2008/09/19
「ー(音引き)」のナゾ
マイクロソフト、「ブラウザ」を「ブラウザー」にするなど300語以上の表記を変更へ - GIGAZINEという記事を読んで、時代に逆行してないか?とほんのり思った。
以前は自分も「コンピューター」と語尾を伸ばしていた。イメージとしては、大昔の磁気テープがガチャコン回っていて「計算機」とか「演算処理」という言葉が似合いそう。それが「コンピュータ」になったのはいつ頃だろう。一極集中型のメインフレームから分散型コンピューティングへ、スパコンからパソコンへという変化のどこかの地点?
いつの頃からか、「ブラウザー」は「ブラウザ」、「フォルダー」は「フォルダ」、「プリンター」は「プリンタ」、「プロバイダー」は「プロバイダ」、「コントローラー」は「コントローラ」と表記するようになっていた。音引きナシの方が字面や語感的にシャープでキリッとしたモダンな印象だ。
でも、「スキャナ」や「カスタマ」や「サーバ」はなんだか落ち着かない。「スキャナー」は「暗闇のスキャナー」や「スキャナーズ」で刷り込まれてしまってるし、「サーバー」は「アイスクリームサーバー」などIT以外の場面で使われるからか。「カスタマ」は語感的に「カス玉」を思い浮かべてしまう。「ユーザ」や「スピーカ」もしかりで違和感がぬぐえない。
・・・と思ったら、作家の森博嗣さん(「スカイ・クロラ」の原作者)は、「クーラ」「モータ」「ファクタ」「スーパ」「ホームセンタ」「オファ」と、自身のブログで音引き省略を駆使していて、ちょっと、というか、かなり驚く。いや、そもそもタイトルから「クロラ」だし。これに関しては個人差が激しそうだ(森さんは理工系出身と知って納得する)。
「工学系の学術用語では、3音以上のカタカナ用語の末尾の音引きを省略するのが原則。これは戦前に全日本科学技術団体連合会という団体が決めたもので、その元には英語発音への誤解がありますが、工学系学術用語やJIS用語の多くはこのルールをそのまま踏襲しているんです」([雑学] IT用語とかJIS規格etc.音引きの秘密に迫った | RxR | R25.jp)
今回のマイクロソフトの決定は1991年に国語審議会が定めた外来語表記ルールに従ってるらしい。音引きを省略するのは戦前のルールだから、歴史的にはずっと古い。
違和感のあるなしは個々の言葉がどのように社会と接点を持ってきたかによって変わってくるわけで。IT専門用語としては音引きナシ、一般語としては音引きアリという使い分けがニュートラルな実感としてあり、コンピュータやインターネットが普及したいまとなっては、音引きナシの方が今後、趨勢になっていくのでは?と勝手に予測してみる。もしくは、書く時は音引きナシ、口に出して読む時は音引きアリ? 単純に、一字減るだけで入力の手間が省けるというのはデカイ。
ちなみに、昔から「パーティー」は「パーティ」と音引きナシで書くようにしている。だからナンダと言われると困るが。カタカナ表記って奥が深い。
以前は自分も「コンピューター」と語尾を伸ばしていた。イメージとしては、大昔の磁気テープがガチャコン回っていて「計算機」とか「演算処理」という言葉が似合いそう。それが「コンピュータ」になったのはいつ頃だろう。一極集中型のメインフレームから分散型コンピューティングへ、スパコンからパソコンへという変化のどこかの地点?
いつの頃からか、「ブラウザー」は「ブラウザ」、「フォルダー」は「フォルダ」、「プリンター」は「プリンタ」、「プロバイダー」は「プロバイダ」、「コントローラー」は「コントローラ」と表記するようになっていた。音引きナシの方が字面や語感的にシャープでキリッとしたモダンな印象だ。
でも、「スキャナ」や「カスタマ」や「サーバ」はなんだか落ち着かない。「スキャナー」は「暗闇のスキャナー」や「スキャナーズ」で刷り込まれてしまってるし、「サーバー」は「アイスクリームサーバー」などIT以外の場面で使われるからか。「カスタマ」は語感的に「カス玉」を思い浮かべてしまう。「ユーザ」や「スピーカ」もしかりで違和感がぬぐえない。
・・・と思ったら、作家の森博嗣さん(「スカイ・クロラ」の原作者)は、「クーラ」「モータ」「ファクタ」「スーパ」「ホームセンタ」「オファ」と、自身のブログで音引き省略を駆使していて、ちょっと、というか、かなり驚く。いや、そもそもタイトルから「クロラ」だし。これに関しては個人差が激しそうだ(森さんは理工系出身と知って納得する)。
「工学系の学術用語では、3音以上のカタカナ用語の末尾の音引きを省略するのが原則。これは戦前に全日本科学技術団体連合会という団体が決めたもので、その元には英語発音への誤解がありますが、工学系学術用語やJIS用語の多くはこのルールをそのまま踏襲しているんです」([雑学] IT用語とかJIS規格etc.音引きの秘密に迫った | RxR | R25.jp)
今回のマイクロソフトの決定は1991年に国語審議会が定めた外来語表記ルールに従ってるらしい。音引きを省略するのは戦前のルールだから、歴史的にはずっと古い。
違和感のあるなしは個々の言葉がどのように社会と接点を持ってきたかによって変わってくるわけで。IT専門用語としては音引きナシ、一般語としては音引きアリという使い分けがニュートラルな実感としてあり、コンピュータやインターネットが普及したいまとなっては、音引きナシの方が今後、趨勢になっていくのでは?と勝手に予測してみる。もしくは、書く時は音引きナシ、口に出して読む時は音引きアリ? 単純に、一字減るだけで入力の手間が省けるというのはデカイ。
ちなみに、昔から「パーティー」は「パーティ」と音引きナシで書くようにしている。だからナンダと言われると困るが。カタカナ表記って奥が深い。
2008/09/14
よく読まれた記事トップ8
アクセス分析の結果。トップページと月毎のアーカイヴページ以外でよく閲覧された記事のトップ8が以下。対象の知名度からするとまぁそうなんだろうなぁという感じで、キーワードも「Perfume」「David Byrne」関連が一番多かった。この過疎ブログのひとつの傾向を示すデータということで・・。
mnemonic memo: Perfume
mnemonic memo: David Byrne
mnemonic memo: シブヤとレコヤの回顧録
mnemonic memo: 「崖の上のポニョ」その2
mnemonic memo: 火の番をする女
mnemonic memo: 赤塚不二夫、すべてを肯定する哲学
mnemonic memo: Becoming a Cliché
mnemonic memo: Genius Party
mnemonic memo: Perfume
mnemonic memo: David Byrne
mnemonic memo: シブヤとレコヤの回顧録
mnemonic memo: 「崖の上のポニョ」その2
mnemonic memo: 火の番をする女
mnemonic memo: 赤塚不二夫、すべてを肯定する哲学
mnemonic memo: Becoming a Cliché
mnemonic memo: Genius Party
ラベル:
memo,
mnemonic memo
2008/09/11
ちがうより、おなじがいい
Blog Action Dayと「共感のグローバル」 - Tech Mom from Silicon Valleyという記事を読んで、ああそうなんだとずっとモヤモヤしていたことがスッキリした。この記事は「若者は海外旅行をしなくなった」という現象の考察で、昔のように違いやエキゾチシズムを求めて(人生に揺さぶりをかける強烈な強度を求めて)、目的を持たずにあてどなく旅するということが、インターネット時代のいまは難しいというハナシである。
あなたとわたしは違う、ことよりも、あなたとわたしは同じ(似ている)、ことの方が選ばれる時代。異質なものを求める指向から、同質なものを求める指向へ。知らないことを前提とした未知数の可能性よりも、知っていることを前提とした可能性へ。大雑把に括るとこういう大きな流れがあって、それがカルチャーのタコツボ化・島宇宙化の進行、同質のコミュニティ内で充足し(いわゆる、マッタリ)、異質なコミュニティの衝突によるダイナミズムが失われてしまうということにつながる。
「エキゾチシズム」はいわば「出会い頭」のショックであって、「旅行」としては楽しいけれど、それが何か生産的な活動につながるためには、そのショックを消化するための長い時間がかかる。何かを感じても、自分は何からアクションを起こすべきなのか、方向性がはっきりわからない。
昔の旅は費用対効果がハッキリしてなくて、手続きやプロセスが面倒で無駄が多くハードルも高くて、プロセス自体に意味や価値があってその結果はブラックボックスだった。旅とはかつてそういうものだった。もちろん、その傍らにショッピングやビジネスやツアーコンダクターによるパッケージングされた観光など、あらかじめ目的が定まった予定調和的な旅があって、両者は同じ旅でもベクトルが真逆。
いまのインターネットやグローバリズムの時代は、プロセスよりも結果重視で生産性重視、成果主義である。無駄を回避して、できるだけ正確に素早く目的にアクセスすることが求められている(グーグルが検索を武器に世界の覇者となったように)。世界遺産とかファスト風土化とかも、全部つながっている。
異質なコミュニティの衝突によるダイナミズムが本来のカルチャーの醍醐味であるという問題設定、「ヒップホップでもポストパンクでもコンピュータでもなんでもいいけど、あるムーブメントが生まれた時の混沌としたエネルギーや初期衝動や野蛮なダイナミズムってやっぱりサイコーにクールじゃん」的な価値観が、最近何を観たり聴いたり体験しても「つまらない」と思ったり、なんとなく停滞感を感じるということにつながる。
でもどうなのかな。(僕のような人間がヘンにこだわっている)そういう問題設定や価値観を一度取っ払ってみて世界を見ることは大事かもしれない。おもしろいことは実はいつでもどこでも転がっているし、おもしろいこと自体の質、クオリティは昔から変わってはいないのだけれど、それを取り巻く世界の様相やアプローチの仕方は変わってきている。
異質から同質へ。ちがうことより、おなじことへ。うーむ。そうか。そういうことか(いまさらだけど)。
あなたとわたしは違う、ことよりも、あなたとわたしは同じ(似ている)、ことの方が選ばれる時代。異質なものを求める指向から、同質なものを求める指向へ。知らないことを前提とした未知数の可能性よりも、知っていることを前提とした可能性へ。大雑把に括るとこういう大きな流れがあって、それがカルチャーのタコツボ化・島宇宙化の進行、同質のコミュニティ内で充足し(いわゆる、マッタリ)、異質なコミュニティの衝突によるダイナミズムが失われてしまうということにつながる。
「エキゾチシズム」はいわば「出会い頭」のショックであって、「旅行」としては楽しいけれど、それが何か生産的な活動につながるためには、そのショックを消化するための長い時間がかかる。何かを感じても、自分は何からアクションを起こすべきなのか、方向性がはっきりわからない。
昔の旅は費用対効果がハッキリしてなくて、手続きやプロセスが面倒で無駄が多くハードルも高くて、プロセス自体に意味や価値があってその結果はブラックボックスだった。旅とはかつてそういうものだった。もちろん、その傍らにショッピングやビジネスやツアーコンダクターによるパッケージングされた観光など、あらかじめ目的が定まった予定調和的な旅があって、両者は同じ旅でもベクトルが真逆。
いまのインターネットやグローバリズムの時代は、プロセスよりも結果重視で生産性重視、成果主義である。無駄を回避して、できるだけ正確に素早く目的にアクセスすることが求められている(グーグルが検索を武器に世界の覇者となったように)。世界遺産とかファスト風土化とかも、全部つながっている。
異質なコミュニティの衝突によるダイナミズムが本来のカルチャーの醍醐味であるという問題設定、「ヒップホップでもポストパンクでもコンピュータでもなんでもいいけど、あるムーブメントが生まれた時の混沌としたエネルギーや初期衝動や野蛮なダイナミズムってやっぱりサイコーにクールじゃん」的な価値観が、最近何を観たり聴いたり体験しても「つまらない」と思ったり、なんとなく停滞感を感じるということにつながる。
でもどうなのかな。(僕のような人間がヘンにこだわっている)そういう問題設定や価値観を一度取っ払ってみて世界を見ることは大事かもしれない。おもしろいことは実はいつでもどこでも転がっているし、おもしろいこと自体の質、クオリティは昔から変わってはいないのだけれど、それを取り巻く世界の様相やアプローチの仕方は変わってきている。
異質から同質へ。ちがうことより、おなじことへ。うーむ。そうか。そういうことか(いまさらだけど)。
2008/09/10
VOCALOIDと人間の不在
政治のことはよくわからないし、閉塞している状況に対して「閉塞感」をことさら叫ぶことは現実をただ補完するだけだと思うが、福田首相の辞任からおぼろげながらにソーゾーできるのは、表面上は代わり映えのない日常が続いているのだけれど、とてつもなくカタストロフでデストロイな状況が水面下でじわじわと地盤を揺るがして、もう固い地面はどこにも残っていないという、それこそ宮崎駿が「神経症の時代」と名づけたソレの一部に自分もなってしまったかのようなイメージだ(ええと、頭の悪い僕にはいまが「神経症の時代」なのかにわかには判断できないのだけれど。というか、分裂症の時代はどこに行ったの?)。
ここから話は飛ぶのだが、ミシェル・フーコーは「言葉と物」でそれまでの歴史が形作ってきた人間という概念が死につつあることを40年以上前に指摘した。こう書いて自分も驚いてしまうのだけれど、半世紀近い時間がそこから流れているのだ。人間はもう死んでいる。だからこそ、映画や音楽やアートの世界では、人間はもう死んでいるという表徴をトリガーとしてさまざまな表現を手に入れてきた。
平たく乱暴に言えば、ゾンビをはじめとするホラー映画はすべからくそうだと言えるし、エレクトロニカやクリック・ハウスが人間のいないノーマンズランドの風景を描くのも同じことである。その反動や反作用として、人間は称揚され、供養され、再発見され、新たな息吹を吹き込まれ、懐かしがられた。どちらもコインの表裏。
VOCALOIDを使った人工的に合成された実在しない声をフィーチャーした楽曲がオリコンに入る、いま、ここにある日本。肉声をヴォコーダーでコンピュータライズする昔ながらの手法とは真逆だし、その延長線上で中田ヤスタカがPerfumeの肉声をコンピュータで加工するのとも違う。パソコンの普及がもたらしたロボ声を使ったエレクトロでキッチュに気高く遊んでいた90年代ももう遠い昔。それらは、言ってしまえば、とても「人間的」でノスタルジックで安全なのだ。すでにファンクやテクノのアレンジ手法として耳に馴染んでいるのだし。
VOCALOIDを聴いて「気持ち悪い」と生理的に感じてしまうのは、その声音というか声質のせいであって(アレンジ手法はむしろオーソドックスなためにその異質さが強調される)、死んでいる者というか物(?)が生きている者を正確に忠実に模倣しようとする、そのベクトル自体に理由がある。おそらく。だから、それが人間ソックリであるかどうかという完成度とは関係ない。人間ソックリなアンドロイドが現実化した時の気持ち悪さは、これに近いのではないだろうか(未体験だからわからないけれど)。
もうすでに人間は死んでいる、という気づきが現象や事象として実在化されることへの根源的な恐怖がそこにあると思う。死んでるものと生きてるものとの区別がつかないことへの恐怖。お前はもう死んでいる。シミュラークルから逃れることはできない。80年代にはトッポイ先端的な思想やディストピアSFに描かれる未来でしかなかったことが、ゼロ年代末になってリアルに実感させられることがここ最近多いように思う。
ということで、フィリップ・K・ディック的なハナシで、政治とはまったく関係がなかったのでした。(そういえば、エスクァイア誌がクラークとディックをメインにSF特集を組んでいた)
ここから話は飛ぶのだが、ミシェル・フーコーは「言葉と物」でそれまでの歴史が形作ってきた人間という概念が死につつあることを40年以上前に指摘した。こう書いて自分も驚いてしまうのだけれど、半世紀近い時間がそこから流れているのだ。人間はもう死んでいる。だからこそ、映画や音楽やアートの世界では、人間はもう死んでいるという表徴をトリガーとしてさまざまな表現を手に入れてきた。
平たく乱暴に言えば、ゾンビをはじめとするホラー映画はすべからくそうだと言えるし、エレクトロニカやクリック・ハウスが人間のいないノーマンズランドの風景を描くのも同じことである。その反動や反作用として、人間は称揚され、供養され、再発見され、新たな息吹を吹き込まれ、懐かしがられた。どちらもコインの表裏。
VOCALOIDを使った人工的に合成された実在しない声をフィーチャーした楽曲がオリコンに入る、いま、ここにある日本。肉声をヴォコーダーでコンピュータライズする昔ながらの手法とは真逆だし、その延長線上で中田ヤスタカがPerfumeの肉声をコンピュータで加工するのとも違う。パソコンの普及がもたらしたロボ声を使ったエレクトロでキッチュに気高く遊んでいた90年代ももう遠い昔。それらは、言ってしまえば、とても「人間的」でノスタルジックで安全なのだ。すでにファンクやテクノのアレンジ手法として耳に馴染んでいるのだし。
VOCALOIDを聴いて「気持ち悪い」と生理的に感じてしまうのは、その声音というか声質のせいであって(アレンジ手法はむしろオーソドックスなためにその異質さが強調される)、死んでいる者というか物(?)が生きている者を正確に忠実に模倣しようとする、そのベクトル自体に理由がある。おそらく。だから、それが人間ソックリであるかどうかという完成度とは関係ない。人間ソックリなアンドロイドが現実化した時の気持ち悪さは、これに近いのではないだろうか(未体験だからわからないけれど)。
もうすでに人間は死んでいる、という気づきが現象や事象として実在化されることへの根源的な恐怖がそこにあると思う。死んでるものと生きてるものとの区別がつかないことへの恐怖。お前はもう死んでいる。シミュラークルから逃れることはできない。80年代にはトッポイ先端的な思想やディストピアSFに描かれる未来でしかなかったことが、ゼロ年代末になってリアルに実感させられることがここ最近多いように思う。
ということで、フィリップ・K・ディック的なハナシで、政治とはまったく関係がなかったのでした。(そういえば、エスクァイア誌がクラークとディックをメインにSF特集を組んでいた)
地唄舞はおもしろい

前回のエントリーで紹介した俵野枝さんの公演「火の番をする女」を観に行った。(9.16追記)
谷中の大雄寺(だいおうじと読む)は大きなお寺ではないが、お堂の天井からぶら下がってる灯りが唐草文様でどことなくハイカラだったりと、居心地がいい。庭から鈴虫の声が聞こえ、二日間共、舞の最中に雷まで鳴って、幽玄な空間を生み出す舞台装置としてはほぼ完璧だった。
目と鼻の先で観る舞はゾクゾクするほど素晴らしかった。野枝さんの舞は地唄舞というそうだ。自分は日本の古典芸能についてまったくと言っていいほど無知なので、ググった生半可な情報で復習してみる。
以下、メモ。
地唄舞は上方舞と呼ばれることが多く、その名の通り、関西で生まれた舞の総称で、関東で生まれた日本舞踊とは成り立ちが違う。
地唄舞は能の影響が強く(さらに人形浄瑠璃や歌舞伎からも影響を受けている)、日本舞踊は歌舞伎の影響が強い。前者は静的で後者は動的。
舞と踊り(日本舞踊)の違いは、「舞は旋回する静かな動きから“舞”」、「踊りは歌舞伎芝居の大きな舞台で発達したもので、動きが大きく飛び跳ねることから“踊り”」と呼ばれる。
近世・江戸時代に始まった舞は、関西という土地柄、船場の商人がお座敷の酒宴に持ち込んだものであり、屏風を立てた一畳ほどの狭い空間でも踊れるように、ホコリが立たないように静かに舞ったのだという。
このように上方舞は座敷舞とも呼ばれ、土地ごとの流行り唄「地唄」に振りをつけたので地唄舞とも呼ばれている。そのルーツは室町時代まで遡り、その当時の組歌(長唄)や民謡や流行歌が洗練されたものだという。
上方舞で最も古い流儀とされる山村流の舞は商家の子女の習い事にもなり、大阪の花柳界や一般家庭にも浸透し、その様子は谷崎潤一郎の「細雪」にも描かれている。
上方舞の代表的な演目(曲?)は、「雪」(「細雪」に登場)「黒髪」(今回の野枝さんも舞った曲)「こすのと」などが有名。しっとりした風情とワビ・サビを感じさせる趣がある。
ここからは実際に公演を見た僕の勝手な感想である。
地唄舞は限られたミニマルな空間を縦横無尽に使いこなす。お寺の(僕ら一般客も出入りした)入り口を含め、本堂には3方向の出入り口があり、野枝さんはそれらを行ったり来たりする。歌舞伎の舞台のようなハッキリした区別はなく、同じ空間を舞う人と客人が共有する。お寺の入り口やその反対側にある仏像が納められた正面には移動式の屏風が置かれ、空間を開く/閉じるという役割を果たす。
道具も最小限で、衣装以外では、ロウソク(燭台)、傘、衣装の一部としての扇子のみ。傘や頬かむり(一枚布でケープというかマントというかなんと言えばいいのか?)は半透明=トランスパレントで見られることを意識している。傘は舞台の袖からスタッフによって投げ出される(帯のような道具を使って床をローリングさせる)という演出にビックリする。また、舞台の袖(出入り口)から帯を少しづつ引っ張りだして腰に巻いていくという演出もあった。
本堂の中心を二方から客席がはさむようになっていて、舞う人は360度から見られることになる。おそらくお座敷で発展した芸事なので、そもそも大舞台のように一方向から眺めるという作りではないと思われる。自分は左右の席でそれぞれ鑑賞したが、実際、まったく違うものを観ている気がした。左右のどちらかに比重が傾く体のクセがあると野枝さんは言っていたが、なんとなくわかる気がする。
能や人形浄瑠璃の影響はシロート目で見ても顕著だと思う。それぞれの動きと止めが生む緊張感がものすごく、舞う人は人形に成り切っていると思わせる瞬間がある。押井守が「イノセンス」で探求したメタファー(暗喩)としての人形ではなく(あれはどっちかというと西欧における人形観ではないだろうか?)、肉体そのものを魂が空っぽの人形と化すことではじめて、物語の魂を封じ込めるというか。
つまり、個性やアイデンティティやエゴを離脱することではじめてアートとして成立するという普遍的なルールを、あくまで観念的にではなく肉体の鍛錬として、それぞれの舞のパーツを無心にからだで即物的に会得するという行為によって我がものにするという感じがする。舞がはじまる前には、胡蝶さんという人形作家の人形(とてもゴスな雰囲気)が飾られていた。
地唄舞の成り立ちでわかるように、元々は酒宴の場で洗練されてきた艶やかさがある。初日は、赤坂で芸者さんをやっているという野枝さんの妹さんが舞台上で着物の着替えを手伝う場面があり(「後見」というそうだ)、明かりが消えた中で着物が少しづつ抜き取られ、また身にまとわれる姿がとてもエロティックだった。狭い空間、舞う人がひとり、衣装や道具も最小限、それらのミニマルな要素が、そこでしか生まれない生々しいテンションになっているのだろう。もちろん、基本となる舞が優れていることが前提ではある。
・・・ということで、谷崎の「陰翳礼賛」や九鬼周造の「いきの構造」を読み直してみたくなった。この二冊は学生時代に読んで感銘を受けたものだが、いま読むとまた違った見方ができるかもしれない。ありがちな日本回帰ではないが、自分が生まれた国にこのようなアートが綿々と続いていまも更新されているサマを目の当たりにできた貴重な機会だった。野枝さんの舞はかなりオリジナルで古典から離れていくヤンチャな要素もあると思うので、今回の演目がどこまで古典でどこまで野枝さんのオリジナルなのか判然としないまま、このエントリーを書いている。
9.16追記。
後日、野枝さんに会って、今回披露された3つの舞の内、「黒髪」はほぼ古典に忠実、「葵の上」は能と歌舞伎をミックス、「ゆき」はオリジナルに近いことを確認。僕は「ゆき」が衣装も含めて一番モダンに感じたのだけど、その直感は間違ってはいなかったみたい。もちろん、古典だから古臭く見えるとかそういう次元の話ではなく、伝統と現在が一人の人間の中に渾然一体となって表現されていることが重要なのだと思う。彼女の場合、舞はその時その時で即興性がかなり高いそうだ。
僕を含め古典芸能に明るくないお客さんも多いと思うので、次回やる時は、誰かが解説してくれたり、ペラの紙切れでもいいので意図を伝えるテキストを渡したりすると、もっと理解が深まるのではないかと伝えた。おせっかいかもしれないが、あの場所でしか成立しない一回性のイベントなので、そういうフォローがあってもいいなと思ったからだ。
イベントの写真がnoe_tawara Photo Gallery by xavi comas at pbase.comにアップされたので興味ある方はご覧ください。
2008/08/12
映画熱
覚え書き。今年の元旦に「パンズ・ラビリンス」を観て以来(映画の内容が良過ぎてショックだったのか、疲れが溜まっていたのか、それから大風邪を引いて散々な正月だった)、後は「コントロール」を観たくらいで今年前半は映画から遠ざかっていた。コーエン兄弟の「ノー・カントリー」もウェス・アンダーソンの「ダージリン急行」もクローネンバーグの「イースタン・プロミス」もウォン・カーウァイの「マイ・ブルーベリー・ナイツ」も「クローバーフィールド」も「ミスト」も観てない。
最近になって急に映画熱が復活し、レビューに書いた「ハプニング」以外に劇場で「ホット・ファズ」、DVDで「ゾディアック」「ドニー・ダーコ」「サスペリア」「アズールとアスマール」を観た(最後の作品以外はどれも期待以上に面白かった)。どうも波があるみたい。これから観る予定の「ポニョ」と「スカイクロラ」と「ダークナイト」が楽しみ。「8 1/2」と「赤い風船」の再映、あと「ビューティフル・ルーザー」も観たいが手が回らなそう。観た映画のレビューはおいおいアップする予定。
最近痛感するのは、映画は設備の整った映画館で観るべきだということ。と同時に映画も音楽もその他もタイミングがあるから見逃してもジタバタしないようになった(あきらめが簡単につくようになった)。若い時のように無制限にそれらを鑑賞する時間も体力もないし。本当に必要なら遅かれ早かれ出会うハズだから。
オマケ。海外の映画レビューを確認したい時はROTTEN TOMATOES: Movies - New Movie Reviews and Previews!を利用している。大まかな世評がわかるしデータベースとして信頼できる。
最近になって急に映画熱が復活し、レビューに書いた「ハプニング」以外に劇場で「ホット・ファズ」、DVDで「ゾディアック」「ドニー・ダーコ」「サスペリア」「アズールとアスマール」を観た(最後の作品以外はどれも期待以上に面白かった)。どうも波があるみたい。これから観る予定の「ポニョ」と「スカイクロラ」と「ダークナイト」が楽しみ。「8 1/2」と「赤い風船」の再映、あと「ビューティフル・ルーザー」も観たいが手が回らなそう。観た映画のレビューはおいおいアップする予定。
最近痛感するのは、映画は設備の整った映画館で観るべきだということ。と同時に映画も音楽もその他もタイミングがあるから見逃してもジタバタしないようになった(あきらめが簡単につくようになった)。若い時のように無制限にそれらを鑑賞する時間も体力もないし。本当に必要なら遅かれ早かれ出会うハズだから。
オマケ。海外の映画レビューを確認したい時はROTTEN TOMATOES: Movies - New Movie Reviews and Previews!を利用している。大まかな世評がわかるしデータベースとして信頼できる。
Google Streetview、覗き見る未来
今月から日本で始まったGoogleマップのストリートビューが「気持ち悪い」という反応があちこちで上がっている。
こういう生理的な反応が日本人だけのものではなく全世界共通であることは「Google Maps (Part I of "The Googling")」というコメディ・ヴィデオを見るとわかる。2人の男がパソコンに向かいストリートビューを楽しんでいる。クリックしていくと、画面は自分たちのいるアパートメントに近づいていき、遂には部屋の入り口に赤い光が・・・。

蛇足だが、この「The Googling」シリーズは全部で4編あってどれも面白い。「Google Moon (Part II of "The Googling")」では、Googleムーンで見つけた月面上のアポロの着陸地点をズームアウトするとカリフォルニアだった!という陰謀論そのままの展開だ(ちなみに「2001年宇宙の旅」の撮影カットが使われている)。

このヴィデオは世界がGoogleというテクノロジーの脅威によって書き換えられ、改竄(かいざん)されていくという不安や恐怖をうまく笑いに転化している。結局、そこであぶり出されるのは、人間の恐ろしさや滑稽さや情報を知ることの功罪であって、テクノロジーは二次的な要素に過ぎない。(カウチでテクノロジーの恩恵に預かりながら)「見る」という欲望を充足させるツケとして、僕らのプライヴァシーとやらの一部が担保にされ誰かに「見られる」ことを許可しているというワケだ。
「気持ち悪さ」の半分は「見られること」より「見てしまうこと」にあるんじゃないかな。たぶんこの2つは同じコインの両面。見ることへの後ろめたさと見られることへの気持ち悪さは一体だよね。(「住宅都市整理公団」別棟:「ストリートビュー」について都市の写真撮っている人に聞いてみたい)
「見ることへの後ろめたさ」は「覗き見(ピーピング=peeping)」に由来するものだ。衛星写真を使ったGoogleマップが登場した時にもこの手の後ろめたさはあったハズだけど、こんなにネガティブな反応はなかったと思う。
google earthの高解像度写真はOKだけどストリートビューは気持ち悪い、というのも面白いと思った。あたりまえだけど。神様から見られるのはいいけど通行人にみられるのは嫌なわけだ。考えてみれば"プライバシー"(それがなんなのかよく分からないのでカッコ付き)は立面方向に配置されてて、神様に向かっては隠されてるのね。たぶん神様って、人間の悪事とかそんなに見えてないと思う。一方、都市全体の情報は平面方向に配置されてる。(「住宅都市整理公団」別棟:「ストリートビュー」について都市の写真撮っている人に聞いてみたい)
俯瞰・鳥瞰(バーズ・アイ・ビュー)というのは「神の目」だとよく言われる。小説でも映画でも、その舞台がどんな世界なのかを表すのにバーズ・アイが使われるのは常套手段である。「神の目」ならOKだが、それがご近所の「人の目」になった途端、NOだということか。
だから撮り方しだいなんだよね、実は。ストリートビューは写真的には洗練されてないのもあって「気持ち悪い」んだと思う。ほんとは撮影者が引き受ける部分をあまり引き受けてないから。クルマの上部にパノラマカメラ付けてガーっと撮るっていう方法が大きな一因かも。(「住宅都市整理公団」別棟:「ストリートビュー」について都市の写真撮っている人に聞いてみたい)
僕も自宅付近をストリートビューで覗いてみて、ビックリはしたがそれほど不快感は持たなかった。でも、違和感はたしかに感じて、それをカンタンに言葉にすると「美しくない」ということだと思う。この「美しくない」には2種類あって、ひとつは、ストリートビューに映っている路上の風景が「美しくない」というミもフタもない感想。整然としてなくて統一感がなくゴミゴミしていて「恥ずかしい」。西欧におけるパブリックとプライヴェートの境界はハッキリしているが、日本ではその境界が曖昧でパブリックな公共空間に「私」が滲み出るような感覚がある(電車内で平気で寝たり食事したりという振る舞いなんかも含め)。
そんな一昔前から言われている文化論っぽい話はともかくとして、もうひとつは、それなりに高い解像度で撮られた、署名(記名)されていない機械による自動撮影による写真が「美しくない」と感じたこと。
Googleマップに限らずGoogleのサーヴィスにはアップルのようなデザイン・オリエンテッドな美的感覚=審美眼が欠けている(これは誰もが認めることだと思う)。ジョナサン・アイブスをはじめとするアップルのデザインチームのような存在がGoogleからは見えてこない。「こんなに便利な技術があるんだから、それを皆で共有しよう(だから皆のために法規制に触れるギリギリまでトライする権利が僕らにはある)」という技術力のアピールであって、それ以上でも以下でもなく、そこに洗練された審美眼を持ち込むことはGoogleの仕事ではない。Googleマップの吹き出し風の情報表示とかストリートビューの人型サインとかナビゲーションはそれなりに洗練されているんだろうけれど、画像そのものは洗練されようがない。
インターネット上では無敵のように見えるGoogleも、ストリートビューのようにリアルワールドと対峙する必要のあるサーヴィスでは、綻びが見えてしまう。百歩譲っても、個人情報を排除した完全無欠にコントロールされたクリーンな都市の景観を撮ることは不可能だろう(もしかしたら、それすらも将来的には可能になるのかもしれないが)。同一の条件で撮ろうとしても誤差が生じるしノイズが発生する。雨などの悪天候や夜には撮影できないし、人や表札や車のナンバープレートや生ゴミの袋や予期せぬ物体が映り込んでしまう。だから、そこに映るナマで(ほぼ)加工されていない現実空間に「気持ち悪い」と思うのは自分の姿を鏡で見るのと同じでわからなくはない。しかし、ストリートとは元々そういうノイズが生まれる場所なのだ。
僕はストリートビューのデータがどのくらいの頻度で更新されるのかに興味がある。トヨタのプリウスで全国の公道を津々浦々回るのは、たとえそのアイディアを誰かが思いついても(それが安価で枯れた技術であっても)実行するのは気が遠くなる物量作戦だ。道そのものは変わらなくても、風景は刻々と変貌する。OSやソフトウェアのアップデートならオンラインで配布すれば一発で終了するが、リアルな世界ではそうは行かない。今後、Googleの事業が下り坂になって資金が回らなくなる時が来るなら、更新は立ち後れ、5年前の古いデータを眺めるという事態に直面することもありうるだろう。日進月歩のネットの世界で墓場のようなデータ空間が発生する、というのはSF的には興味深い。「電脳コイル」の世界がすでに始まっているとも言える(あるいは、近い将来、ストリートビューと同等のサーヴィスが複数立ち上がり、車ではなく飛行ロボットカメラが定期的にデータを回収するようになっているかもしれない・・)。
行ったことのない街に想いを巡らせることや、わざわざそこに出かけていくことは、この先、どんどん無意味になっていくのかもしれない。無駄と思うことの上位に「旅行」が挙がるご時世だし、住所検索をすれば、居ながらにしてその近辺の通りの様子まで覗き見ることができる。ああ、無粋な世の中になったものだ(fab!)
検索でページランクを可視化させたGoogleは世界をあまねく可視化しようという欲望に突き動かされている。世界を平準化し標準化しようという欲望はとどまることがないだろう。僕自身、Googleは日々使っているし、ツールとして積極的に支持したい。だが、元「relax(リラックス)」編集長の岡本さんの「ああ、無粋な世の中になったものだ」という意見にもとても共感する。僕の関心は想像力のあり方がこれからどう変わっていくのだろう、というようなことにある。
ストリートビューについて、上で引用させていただいた「住宅都市整理公団」別棟以外に、参考になったブログ。オマケでグーグルをはじめとする「理想の職場」、5つの現実 - builder by ZDNet Japanも。
[を] この先、Googleストリートビュー的なものは不可避
Googleマップのストリートビューに対する苦痛感が、なぜ日本のほうが強いのか - Zopeジャンキー日記
ストリート・ビューに対する嫌悪感は、民主社会への恐れの表出でもある « IN MY ROOM…
こういう生理的な反応が日本人だけのものではなく全世界共通であることは「Google Maps (Part I of "The Googling")」というコメディ・ヴィデオを見るとわかる。2人の男がパソコンに向かいストリートビューを楽しんでいる。クリックしていくと、画面は自分たちのいるアパートメントに近づいていき、遂には部屋の入り口に赤い光が・・・。

蛇足だが、この「The Googling」シリーズは全部で4編あってどれも面白い。「Google Moon (Part II of "The Googling")」では、Googleムーンで見つけた月面上のアポロの着陸地点をズームアウトするとカリフォルニアだった!という陰謀論そのままの展開だ(ちなみに「2001年宇宙の旅」の撮影カットが使われている)。

このヴィデオは世界がGoogleというテクノロジーの脅威によって書き換えられ、改竄(かいざん)されていくという不安や恐怖をうまく笑いに転化している。結局、そこであぶり出されるのは、人間の恐ろしさや滑稽さや情報を知ることの功罪であって、テクノロジーは二次的な要素に過ぎない。(カウチでテクノロジーの恩恵に預かりながら)「見る」という欲望を充足させるツケとして、僕らのプライヴァシーとやらの一部が担保にされ誰かに「見られる」ことを許可しているというワケだ。
「気持ち悪さ」の半分は「見られること」より「見てしまうこと」にあるんじゃないかな。たぶんこの2つは同じコインの両面。見ることへの後ろめたさと見られることへの気持ち悪さは一体だよね。(「住宅都市整理公団」別棟:「ストリートビュー」について都市の写真撮っている人に聞いてみたい)
「見ることへの後ろめたさ」は「覗き見(ピーピング=peeping)」に由来するものだ。衛星写真を使ったGoogleマップが登場した時にもこの手の後ろめたさはあったハズだけど、こんなにネガティブな反応はなかったと思う。
google earthの高解像度写真はOKだけどストリートビューは気持ち悪い、というのも面白いと思った。あたりまえだけど。神様から見られるのはいいけど通行人にみられるのは嫌なわけだ。考えてみれば"プライバシー"(それがなんなのかよく分からないのでカッコ付き)は立面方向に配置されてて、神様に向かっては隠されてるのね。たぶん神様って、人間の悪事とかそんなに見えてないと思う。一方、都市全体の情報は平面方向に配置されてる。(「住宅都市整理公団」別棟:「ストリートビュー」について都市の写真撮っている人に聞いてみたい)
俯瞰・鳥瞰(バーズ・アイ・ビュー)というのは「神の目」だとよく言われる。小説でも映画でも、その舞台がどんな世界なのかを表すのにバーズ・アイが使われるのは常套手段である。「神の目」ならOKだが、それがご近所の「人の目」になった途端、NOだということか。
だから撮り方しだいなんだよね、実は。ストリートビューは写真的には洗練されてないのもあって「気持ち悪い」んだと思う。ほんとは撮影者が引き受ける部分をあまり引き受けてないから。クルマの上部にパノラマカメラ付けてガーっと撮るっていう方法が大きな一因かも。(「住宅都市整理公団」別棟:「ストリートビュー」について都市の写真撮っている人に聞いてみたい)
僕も自宅付近をストリートビューで覗いてみて、ビックリはしたがそれほど不快感は持たなかった。でも、違和感はたしかに感じて、それをカンタンに言葉にすると「美しくない」ということだと思う。この「美しくない」には2種類あって、ひとつは、ストリートビューに映っている路上の風景が「美しくない」というミもフタもない感想。整然としてなくて統一感がなくゴミゴミしていて「恥ずかしい」。西欧におけるパブリックとプライヴェートの境界はハッキリしているが、日本ではその境界が曖昧でパブリックな公共空間に「私」が滲み出るような感覚がある(電車内で平気で寝たり食事したりという振る舞いなんかも含め)。
そんな一昔前から言われている文化論っぽい話はともかくとして、もうひとつは、それなりに高い解像度で撮られた、署名(記名)されていない機械による自動撮影による写真が「美しくない」と感じたこと。
Googleマップに限らずGoogleのサーヴィスにはアップルのようなデザイン・オリエンテッドな美的感覚=審美眼が欠けている(これは誰もが認めることだと思う)。ジョナサン・アイブスをはじめとするアップルのデザインチームのような存在がGoogleからは見えてこない。「こんなに便利な技術があるんだから、それを皆で共有しよう(だから皆のために法規制に触れるギリギリまでトライする権利が僕らにはある)」という技術力のアピールであって、それ以上でも以下でもなく、そこに洗練された審美眼を持ち込むことはGoogleの仕事ではない。Googleマップの吹き出し風の情報表示とかストリートビューの人型サインとかナビゲーションはそれなりに洗練されているんだろうけれど、画像そのものは洗練されようがない。
インターネット上では無敵のように見えるGoogleも、ストリートビューのようにリアルワールドと対峙する必要のあるサーヴィスでは、綻びが見えてしまう。百歩譲っても、個人情報を排除した完全無欠にコントロールされたクリーンな都市の景観を撮ることは不可能だろう(もしかしたら、それすらも将来的には可能になるのかもしれないが)。同一の条件で撮ろうとしても誤差が生じるしノイズが発生する。雨などの悪天候や夜には撮影できないし、人や表札や車のナンバープレートや生ゴミの袋や予期せぬ物体が映り込んでしまう。だから、そこに映るナマで(ほぼ)加工されていない現実空間に「気持ち悪い」と思うのは自分の姿を鏡で見るのと同じでわからなくはない。しかし、ストリートとは元々そういうノイズが生まれる場所なのだ。
僕はストリートビューのデータがどのくらいの頻度で更新されるのかに興味がある。トヨタのプリウスで全国の公道を津々浦々回るのは、たとえそのアイディアを誰かが思いついても(それが安価で枯れた技術であっても)実行するのは気が遠くなる物量作戦だ。道そのものは変わらなくても、風景は刻々と変貌する。OSやソフトウェアのアップデートならオンラインで配布すれば一発で終了するが、リアルな世界ではそうは行かない。今後、Googleの事業が下り坂になって資金が回らなくなる時が来るなら、更新は立ち後れ、5年前の古いデータを眺めるという事態に直面することもありうるだろう。日進月歩のネットの世界で墓場のようなデータ空間が発生する、というのはSF的には興味深い。「電脳コイル」の世界がすでに始まっているとも言える(あるいは、近い将来、ストリートビューと同等のサーヴィスが複数立ち上がり、車ではなく飛行ロボットカメラが定期的にデータを回収するようになっているかもしれない・・)。
行ったことのない街に想いを巡らせることや、わざわざそこに出かけていくことは、この先、どんどん無意味になっていくのかもしれない。無駄と思うことの上位に「旅行」が挙がるご時世だし、住所検索をすれば、居ながらにしてその近辺の通りの様子まで覗き見ることができる。ああ、無粋な世の中になったものだ(fab!)
検索でページランクを可視化させたGoogleは世界をあまねく可視化しようという欲望に突き動かされている。世界を平準化し標準化しようという欲望はとどまることがないだろう。僕自身、Googleは日々使っているし、ツールとして積極的に支持したい。だが、元「relax(リラックス)」編集長の岡本さんの「ああ、無粋な世の中になったものだ」という意見にもとても共感する。僕の関心は想像力のあり方がこれからどう変わっていくのだろう、というようなことにある。
ストリートビューについて、上で引用させていただいた「住宅都市整理公団」別棟以外に、参考になったブログ。オマケでグーグルをはじめとする「理想の職場」、5つの現実 - builder by ZDNet Japanも。
[を] この先、Googleストリートビュー的なものは不可避
Googleマップのストリートビューに対する苦痛感が、なぜ日本のほうが強いのか - Zopeジャンキー日記
ストリート・ビューに対する嫌悪感は、民主社会への恐れの表出でもある « IN MY ROOM…
2008/08/02
よく使う音楽データベースサイト
「このアーティスト/アルバム/曲を知りたい」という時、今のところ、なんだかんだと一番重宝しているのは、Discogs。ユーザー参加型のディスコグラフィー・データベースで音楽版ウィキペディアという位置づけになるのだろうか。メジャーからマイナーまでほぼ網羅しているし、余計なものが何もないユーザー・インターフェイスはとても見やすくて使いやすい。必要にして十分な基本情報はここでゲットしている。あと、iTunesやブログ用のジャケット画像もAmazonより高画質なものが見つかりやすい。英語版のWikipediaも有益な情報が得られることがある(常用せず、ググって引っかかった、ということが多い)。
以前よく使っていたallmusic(昔はAMG=All Music Guideという名前で音楽データベースとしては最古参)は、サイトがちょっと重いのとインディー盤に関しては必ずしも見つかるとは限らないのでDiscogsにすっかり座を奪われてしまった。レビューのクオリティは総じて高いと思う。インディー・レーベルのカタログでは随一の規模を誇るオンライン・ショップ/ディストリビューターのForced Exposureもブログやユーザー参加型のネット・コミュニティやネット・ショップが隆盛する前はよくチェックしていた。ここのレビューは、アルバム・リリース時のレーベルの資料がそのまま使われていることが多い(と思う)。
どれが確実に優れていて万人に役立つとかいうことではなくて、あくまで現時点における個人的な傾向を書いただけなのはご理解いただきたいが、こうして見ると、時代の流れを改めて感じる。集合知(クラウドソーシング)の時代である(そして、相対的に旧来のメディアが弱くなっている)という平凡な感想ではある。
「404 Blog Not Found:オレタチはオレより賢い - 書評 - クラウドソーシング」によると、クラウドソーシングの「8つのガイドライン」とは、
裏方に徹する
立ち入る時期を知る
本物のコミュニティを作る
秘密を作らない
「完璧」であることを忘れる
場をかき回す
感謝を示す
先を見据える
・・・ということらしい。これは当然のことながらリアルなコミュニティについても言えることだと思う。よくある手放しのテクノロジー礼賛やシリコンバレー的な楽天主義には注意する必要があるが(ネットの便利さや快適さが強調される時、リアルの世界においてそれらが担保されているという事実が忘れられがちになってしまう)、コミュニティやコミュニケーションの本質は基本的には変わってないのだろう。僕もこのことは肝に銘じておきたいと思う。
以前よく使っていたallmusic(昔はAMG=All Music Guideという名前で音楽データベースとしては最古参)は、サイトがちょっと重いのとインディー盤に関しては必ずしも見つかるとは限らないのでDiscogsにすっかり座を奪われてしまった。レビューのクオリティは総じて高いと思う。インディー・レーベルのカタログでは随一の規模を誇るオンライン・ショップ/ディストリビューターのForced Exposureもブログやユーザー参加型のネット・コミュニティやネット・ショップが隆盛する前はよくチェックしていた。ここのレビューは、アルバム・リリース時のレーベルの資料がそのまま使われていることが多い(と思う)。
どれが確実に優れていて万人に役立つとかいうことではなくて、あくまで現時点における個人的な傾向を書いただけなのはご理解いただきたいが、こうして見ると、時代の流れを改めて感じる。集合知(クラウドソーシング)の時代である(そして、相対的に旧来のメディアが弱くなっている)という平凡な感想ではある。
「404 Blog Not Found:オレタチはオレより賢い - 書評 - クラウドソーシング」によると、クラウドソーシングの「8つのガイドライン」とは、
裏方に徹する
立ち入る時期を知る
本物のコミュニティを作る
秘密を作らない
「完璧」であることを忘れる
場をかき回す
感謝を示す
先を見据える
・・・ということらしい。これは当然のことながらリアルなコミュニティについても言えることだと思う。よくある手放しのテクノロジー礼賛やシリコンバレー的な楽天主義には注意する必要があるが(ネットの便利さや快適さが強調される時、リアルの世界においてそれらが担保されているという事実が忘れられがちになってしまう)、コミュニティやコミュニケーションの本質は基本的には変わってないのだろう。僕もこのことは肝に銘じておきたいと思う。
2008/07/25
近況報告
しばらくエントリーしてませんでした。一応、このブログにも告知しておこうと思いますが、渋谷FM「Radio Sound Painting」を今年春でお休みすることになりました。3年間レギュラーでやらせてもらいましたが(それまでのゲスト期間も含めると5年?・・よく覚えていません)、色々と思うところがあり、また、個人的にちょっと疲れてしまったということもあります(単にネタ切れ?)。ラジオに限らず、選曲や音楽について語ることはなんらかの形で続けていきたいと思っています(毎月第3日曜にやっているFEED@外苑前Signは継続してやっています)。このブログを見て興味を持った、という奇特な方がいましたら、torntone@hotmail.com 富樫宛てにご連絡ください。
ラベル:
memo,
radio sound painting
2008/01/25
雑記
「モーニング」に隔週連載されている山田芳裕「へうげもの」第66話を読む。第65話で真の侘び数寄の道を共に歩もうと千利休と誓った弟子がこの回で秀吉に殺される。それを石田三成から知らされた千利休が見せた苦悶と怒りの表情の見開き。凄い。大げさだが内臓からワナワナと震えがこみ上げてくる感覚があった。この漫画はぶっちぎりでエモだ。最後のコマに「ロング・グッドバイ」の文字。チャンドラー/アルトマン。雑誌掲載時は最初と最後のコマにこういうシャレた言葉が挿入されている(単行本ではなくなってしまうのが残念だ)。隔週のライブ感覚。山田が考えてるのか編集の人が考えてるのか(たぶん後者?)。それにしても時代物なんてまるでアウトオブ眼中だった自分がこんなにハマってしまうとは・・。
楽器屋に行く。最近の機材事情にまったく疎くなってるので新鮮。スタントンのデザインが全体的に垢抜けていていいと思った。あとベスタックスのGUBERというプレイヤー。ハイファイ志向なのに玩具っぽいキュートなアールを起用していて、コワモテの高級オーディオのイメージをくつがえしている。ハードからソフトへ移行しているからこそ、ヒューマン・インターフェイスとしての楽器の重要度は増していくだろうし(monomeのような商品はこれから増えるだろう)、旧態依然のオーディオとデザインの関係が払拭されて、アップルがiPodを生み出したような革命が起こるのを期待したい。明るくない話題が多い音楽周辺だけれど、かつてのターンテーブルのように機材から音楽の新しい作法や流儀が生まれるのは間違いないだろうから。
昨年、自分の凝り固まった守備範囲をほぐしてくれたPerfumeの新曲「Baby cruising Love/マカロニ」を聴く。予想はしていたが、先鋭性は後退。中田ヤスタカのリリックも特にヒネったところがなく、初の(?)素直なラブソングに。アイドル歌謡としては正攻法で、ブレイク直後の第一弾としてはこれでいいのだろう。 個人的に聴き込むことはなさそうだが、街で流れてきたら素直にいい曲だと感じられるようチューニングされている模様。いっぱい稼いでまた「Polyrhythm」のようなトンガッた面白い曲を作ってください。
次回の「Radio Sound Painting」のテーマを及川氏と話し合って、「未来」で行こうということになった。特に音楽と結びつけず、身近な未来を語ろうというもの。とはいえ、あまりに漠然としているので悩む。コンビニで立ち読みした「クーリエ・ジャポン」最新号(ヴァージンのリチャード・ブランソンが宇宙飛行士の格好をしている表紙)がちょうどよく未来の特集。100年後には、地球上の生物の種は半減、言語も半分に減るだろうという記事。こういう環境の話って、自分は何もできないと偽善者面をするか、関係ないと居直るか、手数の少ないカードを渡されているもどかしさがある。映画「マイノリティ・リポート」にも協力したという未来学者ピーター・シュワルツは興味深い人物だ。「可能性を信じる者は生き残る」。アウシュビッツの収容所で生まれ、アメリカン・ドリームを体現した人に言われれば説得力がありすぎる。
楽器屋に行く。最近の機材事情にまったく疎くなってるので新鮮。スタントンのデザインが全体的に垢抜けていていいと思った。あとベスタックスのGUBERというプレイヤー。ハイファイ志向なのに玩具っぽいキュートなアールを起用していて、コワモテの高級オーディオのイメージをくつがえしている。ハードからソフトへ移行しているからこそ、ヒューマン・インターフェイスとしての楽器の重要度は増していくだろうし(monomeのような商品はこれから増えるだろう)、旧態依然のオーディオとデザインの関係が払拭されて、アップルがiPodを生み出したような革命が起こるのを期待したい。明るくない話題が多い音楽周辺だけれど、かつてのターンテーブルのように機材から音楽の新しい作法や流儀が生まれるのは間違いないだろうから。
昨年、自分の凝り固まった守備範囲をほぐしてくれたPerfumeの新曲「Baby cruising Love/マカロニ」を聴く。予想はしていたが、先鋭性は後退。中田ヤスタカのリリックも特にヒネったところがなく、初の(?)素直なラブソングに。アイドル歌謡としては正攻法で、ブレイク直後の第一弾としてはこれでいいのだろう。 個人的に聴き込むことはなさそうだが、街で流れてきたら素直にいい曲だと感じられるようチューニングされている模様。いっぱい稼いでまた「Polyrhythm」のようなトンガッた面白い曲を作ってください。
次回の「Radio Sound Painting」のテーマを及川氏と話し合って、「未来」で行こうということになった。特に音楽と結びつけず、身近な未来を語ろうというもの。とはいえ、あまりに漠然としているので悩む。コンビニで立ち読みした「クーリエ・ジャポン」最新号(ヴァージンのリチャード・ブランソンが宇宙飛行士の格好をしている表紙)がちょうどよく未来の特集。100年後には、地球上の生物の種は半減、言語も半分に減るだろうという記事。こういう環境の話って、自分は何もできないと偽善者面をするか、関係ないと居直るか、手数の少ないカードを渡されているもどかしさがある。映画「マイノリティ・リポート」にも協力したという未来学者ピーター・シュワルツは興味深い人物だ。「可能性を信じる者は生き残る」。アウシュビッツの収容所で生まれ、アメリカン・ドリームを体現した人に言われれば説得力がありすぎる。
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