「電脳コイル」を全話観終わったのは昨年末の話なので、いまさら感想を書くのはどうかと思いつつ、前回のエントリーでかなり褒めちぎってしまった手前、やはり、落とし前として(?)書いておかないとと思います。
中盤まで僕は本当にドキドキワクワクしながら観ていたのですが、クライマックスに至る数話で熱が冷めてしまったのが正直なところです。最後の方は、散りばめられた伏線を回収するのに精一杯で、生真面目すぎるというか、中盤までの遊び心がなくなってしまったというか。異常なテンションは持続しているのですが、観てるこちらが自由に楽しめなくなるような息苦しさがありました。
アッチの世界=「古い空間」と呼ばれるサイバースペースと、それに付随するヌルやイリーガルという電脳生物、都市伝説として語られるミチコさんという存在がどのようにして生まれたのか、その謎を解くことが後半の大きなお題目なのですが、その謎解きの多くが登場人物の長台詞で語られてしまうというので、白けてしまったのです。そこはやはり、カットの積み重ねで想像力を鼓舞するアニメ本来の力を示してほしかったと思うのです。最終話ひとつ手前のエピソードでは、宮崎アニメの模範解答のような素晴らしい空中戦がクライマックスとして描かれるので(「電脳コイル」に集結したアニメーターの技術力の高さについては、改めて僕なんかが言うまでもなく)、なおさら口惜しい気がします。子供向けアニメにしては難解な設定を敷いてしまった以上、ある程度説明的になってしまうのは仕方ないのかもしれないけれど、「謎を解く」「物語の核心に迫る」という部分をもう少しエンターテイメントとして魅せてほしかったなと。
もうひとつ、重要な点として、物語はヤサコとイサコのふたりの子供に収束していくので、集団ドラマの基底としての社会を描くという部分が曖昧になってしまった気がします。これは僕が「友情」や「恋愛」をメインにしたストーリーにあまり萌えない種類の人間だというのも大きいですが、意図的な演出であることは承知の上で、最後まで子供たちの周りの大人(電脳世界を生み、世界をこのように変えてしまった原因を作った大人)の存在が希薄なまま、悪役は猫目という青年ひとりに押しつけて終わり、ではちょっと説明不足かなと思いました(これも「セカイ系」の影響下にあるのだろうか?)。その代わり、ヤサコとイサコのメンタルな変化については繊細に緻密に十全に描かれていて、特に主人公のヤサコについては、いじめっ子だった過去やイサコとイサコの兄=4423を仮想空間で取り合う(それが予期せぬ闇を作る要因になってしまった)という過去も暴露され、決して優等生の良い子ちゃんではなくリアルな子供として描かれていて、そこはとてもいいなと思いました。たぶん、「電脳コイル」を見る子供は、主人公の心の痛みと自分の心の痛みをスムーズに重ね合わせることができるのでしょう。
広げた大風呂敷を畳む、というのは「電脳コイル」に限らず難儀な問題だと思います。それは「ご都合主義」という言葉と裏表だったりするし、作家が全力を尽くして「解」を示しても、あらゆる物語に慣れ親しみ飽きてしまった現代人を納得させるのは至難の技です。一般的に見てこの作品が力作であることは疑いなく、アニメーションのクオリティも非常に高く、バーチャルとリアルの古くて新しいテーマに肉迫した意欲的な作品だっただけに、あえて苦言を呈してみました。僕のオススメのエピソードは全体のストーリーの中では外伝っぽい位置づけだった11話・12話・13話です。どれもどこか藤子不二雄を思わせる内容で(藤子不二雄のSF短編集が好きならハマるハズ)、特に12話「ダイチ、発毛ス」はある生態系の誕生から破滅までを顔に生えた毛にたとえるというユーモラスな発想の傑作。この3話のエッセンスが本編後半にも反映されていたら・・・と無いものねだりは承知で妄想したくなります。やっぱりユーモアって大事だなと。
「電脳コイル」が「エヴァ」のような90年代的なオタク・カルチャーを苗床にしながら、そこから一歩踏み出していること。つまり、否定から肯定へという転換。作者の意図は明らかで、だから、ラストもこれで正解なのです。そこは汲み取らないといけないと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿