政治のことはよくわからないし、閉塞している状況に対して「閉塞感」をことさら叫ぶことは現実をただ補完するだけだと思うが、福田首相の辞任からおぼろげながらにソーゾーできるのは、表面上は代わり映えのない日常が続いているのだけれど、とてつもなくカタストロフでデストロイな状況が水面下でじわじわと地盤を揺るがして、もう固い地面はどこにも残っていないという、それこそ宮崎駿が「神経症の時代」と名づけたソレの一部に自分もなってしまったかのようなイメージだ(ええと、頭の悪い僕にはいまが「神経症の時代」なのかにわかには判断できないのだけれど。というか、分裂症の時代はどこに行ったの?)。
ここから話は飛ぶのだが、ミシェル・フーコーは「言葉と物」でそれまでの歴史が形作ってきた人間という概念が死につつあることを40年以上前に指摘した。こう書いて自分も驚いてしまうのだけれど、半世紀近い時間がそこから流れているのだ。人間はもう死んでいる。だからこそ、映画や音楽やアートの世界では、人間はもう死んでいるという表徴をトリガーとしてさまざまな表現を手に入れてきた。
平たく乱暴に言えば、ゾンビをはじめとするホラー映画はすべからくそうだと言えるし、エレクトロニカやクリック・ハウスが人間のいないノーマンズランドの風景を描くのも同じことである。その反動や反作用として、人間は称揚され、供養され、再発見され、新たな息吹を吹き込まれ、懐かしがられた。どちらもコインの表裏。
VOCALOIDを使った人工的に合成された実在しない声をフィーチャーした楽曲がオリコンに入る、いま、ここにある日本。肉声をヴォコーダーでコンピュータライズする昔ながらの手法とは真逆だし、その延長線上で中田ヤスタカがPerfumeの肉声をコンピュータで加工するのとも違う。パソコンの普及がもたらしたロボ声を使ったエレクトロでキッチュに気高く遊んでいた90年代ももう遠い昔。それらは、言ってしまえば、とても「人間的」でノスタルジックで安全なのだ。すでにファンクやテクノのアレンジ手法として耳に馴染んでいるのだし。
VOCALOIDを聴いて「気持ち悪い」と生理的に感じてしまうのは、その声音というか声質のせいであって(アレンジ手法はむしろオーソドックスなためにその異質さが強調される)、死んでいる者というか物(?)が生きている者を正確に忠実に模倣しようとする、そのベクトル自体に理由がある。おそらく。だから、それが人間ソックリであるかどうかという完成度とは関係ない。人間ソックリなアンドロイドが現実化した時の気持ち悪さは、これに近いのではないだろうか(未体験だからわからないけれど)。
もうすでに人間は死んでいる、という気づきが現象や事象として実在化されることへの根源的な恐怖がそこにあると思う。死んでるものと生きてるものとの区別がつかないことへの恐怖。お前はもう死んでいる。シミュラークルから逃れることはできない。80年代にはトッポイ先端的な思想やディストピアSFに描かれる未来でしかなかったことが、ゼロ年代末になってリアルに実感させられることがここ最近多いように思う。
ということで、フィリップ・K・ディック的なハナシで、政治とはまったく関係がなかったのでした。(そういえば、エスクァイア誌がクラークとディックをメインにSF特集を組んでいた)
2008/09/10
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