2008/10/11

ハルキ的グローカル

東浩紀が村上春樹を例に出して、日本の文学の主流はコミットメントではなくデタッチメント(関わらないこと、距離を置くこと、超然としていること)であると言っていて、なるほどなと思った。

死者からのメッセージをただしく受信することこそが人間の本務であるという信念は世界中のすべての社会集団に共有されている。村上春樹が世界中で読まれているのは、その前衛性によってでも、先端性によってでもない。おそらくはその太古性においてである。(内田樹の研究室)

ノーベル賞はル・クレジオがとったわけだけど。村上春樹が大衆に受け入れられて批評家に受けないのは、内田樹が「蓮實重彦は村上文学を単なる高度消費社会のファッショナブルな商品文学にすぎず、これを読んでいい気分になっている読者は詐欺にかかっているというきびしい評価を下してきた」と書いている理由が大きいのだろう。内田は村上を認めない日本の批評家の「ローカリティ」を上のエントリーで非難している。

僕はその昔、村上龍派でアンチ村上春樹派だった。今はどちらでもない。しかし、村上春樹がなぜ世界で流通するのかは、おぼろげながらわかる気がする。村上春樹の文体は翻訳文体だとよく言われるが、各国語に翻訳しやすい(日本語独自の強度やクセに頼らない)プレーンで「透明」な文体である。

村上の描く物語も日本独自の風土やカルチャーに依拠しないプレーンな物語だから、どんな国(正確にはある程度豊かな先進諸国に限定される)の誰が読んでも、スッと入っていける。終生、熊野のローカリティにこだわって物語を紡いだ中上健次みたいな存在とは対照的だ。乱暴に言えば、中上は地方語=方言(dialect)で物語り、村上は標準語で物語る。どちらが優れているかはともかく、流通しやすいのは標準語である。

これは英語が標準語である世界市場で作品がどのような経路でどのような流通するかというグローバリズムに行き着く話で、ここここで映画やアニメーションについて拙いテキストに起こしたように、日本から生まれた表現が世界でどのように受け入れられているのか、僕はどうにも気になって仕方がない。

ここ最近の金融恐慌を論じる時に、「過剰流動性」という言葉がよく取り沙汰されている。何がどう過剰に金融市場に満ちあふれ、はたまた滞っているのかは経済オンチの僕にはチンプンカンプンなのだが、アングロサクソンが作り上げた流動性のシステムが強固に存在していて、そこにコミットできるかどうかで作品がふるいにかけられるというのは、厳然たる事実だろう。

ある表現が翻訳可能かどうかという話は、「村上春樹が世界中で読まれているのは、その前衛性によってでも、先端性によってでもない。おそらくはその太古性においてである」と内田が断言する話につながる。宮崎駿が世界中で支持される理由もその「太古性」にあるのであって、ぶっちゃけ、そういうものがポピュラリティを得るという構造は昔から変わってはいないと思う。

80年代、村上春樹という人がどういうところに位置していたのかは、「おまえにハートブレイク☆オーバードライブ」でラッセンをネタに間接的に語られている。

一口にその他のマス(80年代文化として回顧されない部分のマスのこと)とはいうものの、何しろ広大だから、やはりここですべて網羅することはできないが(それ以前に整理できていないのだが)、本誌20号ブルーハーツ特集で取り上げた、銀色夏生や相田みつをのようなものがひとつ大きなエリアを占めていたことは間違いない。オフコース的なるものも相当な領域を覆っていた。一群としてすぐに浮かぶのは、わたせせいぞう『ハートカクテル』、ヒロ・ヤマガタに代表されるインテリア・アートあたりか。村上春樹や、もっとさかのぼって片岡義男の小説などもこの群に数えてもいいかも。(おまえにハートブレイク☆オーバードライブ)

音楽で言えば、オフコースもその支流のひとつである70年代から80年代にかけて隆盛したニューミュージックというジャンル、アメリカの洗練されたポップミュージックを日本の風土に翻訳した一群の人々、もっと言えば、八王子出身という都市生活者としてのビミョーな距離感やコンプレックスを持っていたユーミンに代表される感受性(僕は「感性」という言葉に欺瞞を覚える育ち方をしてしまったので、いまだに「感性」という言葉を使えないのでこう書くが、言葉の意味するところは同じ)が、村上春樹にダイレクトにつながる。

“無味無臭”が、小田和正ひいてはオフコースの特徴だと先に書いたが、これらの80年代カルチャーに通底しているのは、そういう生活感のなさ、リアリティの欠如だ(おまえにハートブレイク☆オーバードライブ)

デオドラント文化というのは、80年代に育った人特有の、ある種の「呪い」なのではないだろうか。漫画家の江口寿史が当時描いた漫画でわたせせいぞうの秀逸なパロディがあって、わたせせいぞうなデオドラントな世界に「ねじ式」の少年が迷い込むと、そこはペラペラの広告看板のような舞台装置だったことが判明するという内容だった。

じゃあ、「なーんだ、田舎の古臭いフォークロアじゃなくて、都会的なアーバンシティライフ(笑)が世界でウケるってハナシじゃん!」と言われれば、まぁその通りだよね、と言うしかない。フォークナーよりもサリンジャーが好まれる、みたいな? 内田樹の言う「太古性」と矛盾する? つまり、新しいぶどう酒を古い革袋に入れるってことで、ローカルでいながらグローバルというスタンスを表すグローカル(glocal)という言葉が少し前に流行ったけど、そういうことなのかな?

阿修羅ガールのレビューでも書いたように、村上春樹的なナニカは人口に膾炙する巨大なマーケットであり、影響力というか繁殖力が大きい。村上春樹を取り巻く今の状況はあまり興味がないし、オウムの事件&「アンダーグラウンド」以降、村上が変節したとかいう話も確認したわけではないけれど、デタッチメントや死者との交信うんぬんについては、また考えてみよう。

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