2008/01/25

「いま、ここ」の自由と不自由

孫引きになってしまうけど、引っかかったのでクリップ。紙屋研究所より。

くり返しこのサイトでも引用している、ジャーナリストの吉岡忍の指摘を思い出す。

「サブカルチャーはメインの、あるいはトータルな文化が硬直し、形式化して人々の生活実感や感受性からずれてくると、あちらこちらで噴きだし、広がっていく。メインのつまらなさ、退屈さ、権威性に気づき、そこからの疎外感を感じとった人間は、みずからの生理や感覚をたよりに動きはじめる」(吉岡『M/世界の、憂鬱な先端』p.197)

「いま、ここで生きているという生理的リアリティーは大切だが、それを背後から励ますものがない。歴史の強靭な精神につなぐものがない。ここから先へ一歩を踏みだすための楽観の根拠がない。/いまここだけの関心。スライスされた現在にしか広がっていかない意識。それは過去から解き放たれて自由だろうが、どこに向かっても、どんな速度でもはじけ飛んでいけるという意味で、やっかいなものでもある。ときとして危険でもあるだろう」(吉岡前掲書p.28)

大塚英志・大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』


引用元は宮崎勤についての本なので、その文脈の中でこの引用文がどう使われているかはわからない。しかし、サブカルチャーとは一般的にこのように定義されるのだろう。「いま、ここ」と歴史意識をどのようにつないでいくか。

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