山田芳裕の「へうげもの」(現在は5巻まで刊行)を読みました。面白い漫画です。
「文武両道」とはよく言ったもので、主人公の古田織部(佐助)は、文人(茶人)と武人の間で引き裂かれている存在(古田重然 - Wikipediaを読むと、興味深い人物であることがわかります)。武が勝る群雄割拠の戦国の世なれど、趣味人=数寄者としての自分も貫きたい、そこに生まれる軋轢や葛藤、その振り子のような人生を山田芳裕は漫画の文法を駆使して深くえぐるように描いています。文人のトップである千利休、武人のトップである信長や秀吉、その間に居る古田織部。物語はこのトライアングルを中心にドライブしていく。キャラの立て方はこの漫画ならではで、過剰にデフォルメされた人物(数寄に傾く、まさにカブキ者としての信長、そこまでやるか!と思わせる業の深い権力志向の千利休は、過去に描かれた時代物のキャラの中でも出色の出来ではないかと)、そして、バロッキーな躍動感あふれる構図(得意の見開きも折々で遺憾なく発揮されている)は、山田の筆力の確かさを示しています。
僕はこの漫画の漫画ならではの漫画でしかありえない存在理由のひとつは、多用されるキャラの顔アップにあると思います。セコくて狡賢く小心者ででもどこか真っ直ぐで素直で一所懸命に生きる古田織部が見せる、「名物」の器に出会った時の喜びの顔、天下人の権謀術数の数々に直面した時の驚きの顔、謀(はかりごと)や企みを心に潜ませ口を歪ませてニヤニヤする顔。それとは対照的な、千利休の無表情。どれもが、パターン化され記号としての役割を全うしながら、その時その時で微妙なニュアンスを含み、豊かなバリエーションを生んでいます。往年の「劇画」に追随する井上雅彦のようなスタイリッシュなカッコよさとは違い、山田芳裕は時代物のど真ん中のメジャーな題材を手中にしても、どこかハズシの美学、その中心からどこまでもズレていく面白さがあり、それが「へうげもの」というタイトルを始め(各話のタイトルも存分に遊んでいて楽しい、「Just A Tea Of Us」とか「黒く塗れ」とか・・)、キャラ、ストーリー、テーマ、あらゆる細部にその美学が活きているのです。この中心からズレながらその重力圏内で独自の軌道を描く、オーソドキシーとの丁々発止が山田芳裕なのかなぁという気がします。
なんとなくでしか理解してなかった利休の「わびさび」(「渋い」という概念の誕生を描いたページにはシビれました)と信長や秀吉の派手好みな成金趣味との対立、数寄者の古田織部と無粋な野人としての家康との相容れなさ。この漫画を読むとそれらは生きていく上で避けられない戦いなのかもしれず、平たく言えばアートとビジネスやエコノミーとの相克なのでは?と思います。そういえば、原研哉の「なぜデザインなのか。」を読むと、古今東西の器や建築物の多くには細密な文様がデザインされていて、それはその時々の最先端の技術と才能と財を投入した権力を生むための装置だったワケで、階級社会から市民社会に移行してはじめて、シンプルな己を誇示しないデザインが生まれたとあります(青磁や白磁はどうなのだろう?という素朴な疑問もありますが)。原はそれを「感覚の平和」という言葉で表現しています。ある特定の階級が占有する美ではなく、あまねく人々が共有する美。安土桃山時代に限らず、この種の話は普遍的なことなのだと思います。
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