クリストファー・ノーラン監督の「インセプション」を観た。(*ネタバレあり)
前作「ダークナイト」のような重量級の手応えを勝手に期待していたので、「007」を意識したというノーラン自身の発言の通り、軽快なタッチで展開する物語に最初はのめり込めなかった。緻密だと評されてるわりにスッポヌケてるところもあり、バットマン・シリーズの重圧から逃れて自由にノビノビと作家性を発揮するとこうなるのか、などと思っているうちに、この映画の持つイビツなおもしろさに惹きつけられていった。
前作「ダークナイト」はもともと荒唐無稽なフィクションであるアメコミを限りなくリアリズムに近づけることで、ゴッサム・シティはシカゴという現実の街に、ジョーカーはヒース・レジャーという現実の肉体に置き換えられ、「正義なんてとうに形骸化していて、むしろジョーカーの体現する悪の方がアクチュアルなんじゃないの?」という倫理観を揺さぶるところまで踏み込んだ、ヘヴィな起爆力を持った作品だった。
「インセプション」の場合はちょうどその逆のヴェクトルで成立していて、パリや東京やタンジールといった現実空間で(時制もおそらく現在)、アタッシュケースに入ったローテク過ぎるガジェットと薬剤を使って他人の夢に潜入する技術が体系化され、産業スパイの仕事として成立している世界が展開される。リアリズムをベースにした、一昔前のB級SFめいた荒唐無稽なフィクションで、クラシックな意匠に覆われている。
「ダークナイト」と違って完全オリジナルということもあり、「この世界はこういう因果律で回っているんだよ」という送り手と受け手が共有すべき根っこにあるコンセンサスは提示されず、夢の世界のルールは理路整然と細かく説明される。このイビツな非対称性。SF小説であれば最初の何十頁かを割く、フィクションを駆動させるために必要な世界観の説明を省いてるので、リアリズムのベースの上に乗っかってる「夢を操作する」というフィクショナルなバカバカしさに首をかしげてしまうと、この映画にハマれなくなってしまう。
ノーランはそこはおそらく了解済みで、導入部からいま映っている画面が現実なのかそれとも夢なのかを絶えず観客に意識させることで不安を持続させ、現実と夢を分け隔てるのはカットの切り替えだけという映画の原理を利用して、現実と夢の地続き(というか地滑り?)を詐術として語ることにのみ心血を注いでいる。この作家主義なアプローチが世界中の人が観るメジャー資本の映画であることと齟齬が生じるのは当然で、そこもイビツである。
プロット自体は、各地に散らばった仲間を集めてミッションに挑むという、ケイパーものと呼ばれるジャンルに忠実でシンプル。キャラクターの活かし方や物語内での配置はかなりツイストしてあって、ディカプリオ(コブ)がリーダーをつとめるチームの仲間が、犯罪映画であるにも関わらず全員イイヤツで最後まで裏切らないというのに、まずもって驚くし、敵らしい敵もいない(このへんも途中まで「ダークナイト」に比べて「軽い」と思ってしまった理由のひとつ)。
これは、「千と千尋」以降の宮崎駿が意識的に描いてきた善悪を超越した世界観にも通じるところで、「われわれの世界ですでに始まりつつあるのは、「悪」が消滅し、「対立」や「抑圧」が人工的にしか存在しえない世界である」という、粉川哲夫が「9(ナイン)」のレビューで書いていた言葉が、そのまま「インセプション」の内実を言い当てている。
渡辺謙(サイトー)は超巨大企業のVIPで権力者で東洋人というリアリティのないキャラクター設定で、準主役級の扱いながら、後半はほぼ死体のようにそこに倒れている。どういうことなんだ?と思ってると、リンボー(字幕では「虚無」と意訳されていた、直訳すると「辺獄」=地獄の辺土)でサイトーとコブと対峙する最後のシーンが最初とつながり、渡辺謙の立ち位置が物語を一歩引いて見ている観察者=オブザーバー、現実世界ではコブにミッションを委任するクライアントでありつつ、コブより先に夢の迷宮であるリンボーをさまよう、夢先案内人というか魂の共犯者のような存在であることがわかる。
無重力のホテルでサイレントで優雅なアクションを担当するのは、チーム内で一番草食男子っぽい優男のジョセフ・ゴードン=レヴィット(アーサー)で、これは「マトリックス」的な、あるいは、ブラッカイマー的なスピーディーで物量主義なアクションに対するツイストになっている。
前半、パリの街をねじ曲げたり鏡合わせしたりアイキャンディな夢で魅了するエレン・ペイジ(アリアドネ)が、後半の山場でその能力をまったく発揮しないのは、VFXのドーピングに馴れた観客に対するツイストとも取れるし、コブのトラウマに物語がフォーカスするにつれ、アリアドネがコブのカウンセラーとなり代理母のようにふるまうという、役割のズラしがある。
最も強力なツイストであり物語のフックとなるキャラクターは、コブの妻、マリオン・コティヤール(モル)。モルは即物的にいきなり画面に現れ、コブに対する精神的DVを容赦なく実行する。映画内ルールを突き破るような侵犯者であるモルの登場するシークエンスはホラーそのもので、いくらでも扇情的で生理に訴えかけるサスペンスフルな映像表現に頼れそうなのに、そういう思わせぶりで下品なことをノーランはやらない。
夢をインスピレーションの源泉として扱うデヴィッド・リンチが作る、潜在意識を直接ダウンロードするようなエロティックで扇情的な映画とも違うし(「マルホランド・ドライブ」の伏線の畳み方を夢で思いついたとリンチ本人が告白している)、スパイク・ジョーンズやミシェル・ゴンドリーのような人がスラップスティックな知的操作として夢を扱う手つきとも違う。
良く言えば、生真面目で禁欲的な演出、悪く言えば、エロスが足りない。ノーランは丹念にロジックを積み上げていって大づかみに狙ったものに直球を投げる無骨な人、なんというか、「唯物論者」っぽい気がする(この言い方は適当じゃないだろうけど)。同じくイギリス人の監督ということで、この映画を観ている間、ずっと頭にあったのが、男がファム・ファタールの亡霊=ファントムに幻惑されるというプロットがそっくりなヒッチコックの「めまい」だった。
モルが何かやらかすたび、僕は映画館で不謹慎な笑いを噛み締めていたのだけれど、潜在意識だかイドの怪物だかがセルフコントロールを失って現実(「インセプション」では夢)を浸食していくという、フィリップ・K・ディック的な現実崩壊感覚のトラジコミカルな様相を、ノーランはうまくキャラクタライゼーションとして映画に落とし込んでいる。スラヴォイ・ジジェクだったら、夢が階層構造になってるという、この精神分析ホイホイな映画をどう解説するのか、興味深い(*1)。
ノーランの処女作「メメント」のアイディアは画期的だったけど、主人公が選択する運命の分岐をイーブンに均等の配分で演出することで、「それってどっちに転んでも同じじゃない? つまりは、なんでもアリなのでわ?」という構造的な弱点を抱えていた。仮想現実をゲームのように描いたクローネンバーグの「イグジステンズ」と同じ陥穽にハマっていたというか。「マトリックス」シリーズは、あらかじめ設計された仮想現実内でしか自由を行使しえないという鋭い批評性が、ヒーローの全能感や自己肯定にスリ寄るうちに消えてしまい、つまらなくなってしまった。
不自由な現実に対する自由なフィクションの優位性は、なんでもアリになってしまった途端にその魅力を失効してしまう。これは現実なのか夢なのかという、(町山智浩が「インセプション」について語った言葉を借りれば)「無限後退」していく悪夢のような後味の悪さは、物語はいくらでも何度でもリセットして再生産できるという留保とワンセットなので、本来的に気持ち悪いのだ。
「インセプション」では、先行する諸作品のこうした欠点を、1つは映画内にルールを設けてなんでもアリな自由を制御・制限することで、もう1つはトラウマを克服するという、それ自体はありきたりで古典的だがエモーショナルなドラマを中心に据えることで、クリアしているように思う。コブは自ら作り上げた居心地のいい夢の牢獄、まさにアーキテクチャに自分を縛りつけている幻影に対峙しケリをつける。これは「ゲド戦記」のモダンなヴァージョンにも思える。
コブは自分を現実につなぎとめる唯一の依り代だった子供を取り戻す代償として、モルを失う。映画を通じて、コブは変化し成長し、彼の選択した分岐が意味を持つことが明らかになる。ラスト、自宅の居間で一瞬「??」と怪訝そうな顔をしたコブが、コマが回り続けるかどうかを確認せず子供が待つ庭に向かうのは、分岐による結末がどうであろうと、それを引き受けるという意志の現れだろう(*2)。
この映画のスッキリした後味のよさは、夢や仮想現実を扱ってきた先行作品の後味の悪さを批判的に継承して交通整理できたからこそ生まれたものだ。結果としてハリウッド製エンタメの枠内に収まる家族の神話という倫理コードに添った形になってはいるけれど。この作品の面白さと表裏一体の退屈さは、「マトリックス」が公開された10年前と比べても、仮想現実のありようがより日常レベルに取り込まれたフェーズに入っていることの証明でもあり、エンタメが今後この(各人に最適化され島宇宙化した)新しいリアリティを描くことの困難を、計らずも示していると見ることもできる。
ピカレクス・ロマンだった「ダークナイト」とは逆のヴェクトルで、2010年代に作られるべくして作られたこの作品で、僕の中でノーランはフィンチャーと並んでメジャーグラウンドでチャレンジングなことをやってくれる楽しみな人になった(*3)。
雑感。「バットマン・ビギンズ」のときはヒドかった、なにかとムラのあるノーランのアクション演出。今回も雪山の戦いでは誰が何をやってるのかよくわからず、スリルのなさがちょっと異常。あそこを大幅にカットすれば、もっと締まったんじゃないかと思った。逆に、雪山と同時進行する無重力のホテルでのシークエンスは素晴らしく(メイキング映像を観ると、ポスト・プロダクションに頼らない、かなり大掛かりなセットを組んでいて、それがあのリアリティを生み出している)、渡辺謙の額のあたりに血球が浮かんでるカットは、個人的に本作のベストショット。
*1=春頃に観た「スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド」は、ジジェク本人がシリアスに映画を語れば語るほどコメディになっていくという、パラドキシカルな怪作だった。
*2=このジャンルの先駆者として誰もが認める押井守だが、彼は「スカイ・クロラ」でも無限後退する閉じた世界という美学にこだわるあまり、主人公のベタな成長を描くことができなかった。
*3=この2人はキューブリックの継承者ということでも似ていると思う。
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