2008/02/07

世界は僕のもの、と叫ぶこと

昨年読んで最もインパクトを受けた漫画が、新井英樹の「真説 ザ・ワールド・イズ・マイン」だった。

この漫画は、「デビルマン・コンプレックス(または、デビルマン症候群と勝手に名付けてみる)から派生した、カタストロフ=世界の崩壊を90年代的リアルの視点で描いた漫画」という風に読めると思う。そして、こうわかりやすく書いてしまうことで多くの事物を取りこぼしてしまう漫画でもある。この漫画に込められた甚大なエネルギーを文章で置換することは不可能なので、思いつくままにメモをしてみようと思う。

主人公は、モンとトシという大量無差別殺人者コンビ、彼らと行動を共にするマリア(と怪物ヒグマドン)。

モンは人間界からハズれた獣人である。モンが人間の住む世界から超越しているのは、内面描写がほとんどないことや、銃弾が当たらないということでもわかる。人間の(卑小な)価値観、道徳観、倫理観とはかけ離れた畏怖の対象であり、それゆえに「美しい」存在でもあるという描かれ方をされるアンチ・ヒーローのモンは、世界や人間を救う代わりに、世界や人間を破壊し尽くす。

「異能な者がその作品世界で不可侵領域にある(ので、決して死なない)」というのはヒーローものの約束事で、この漫画はそのルールをヒロイック・ファンタジーになりえない現実世界、東北の田舎に適用し、そこから生まれる矛盾をも作品のエネルギーに変換する。登場人物がみな地方語の東北弁でしゃべることが強力なフックになっている。

トシはモンとは対照的に卑小で卑屈な弱い人間であることを自覚し、だから、怪物然として人間の住む世界、つまり社会を軽々と踏み越えていくモンに憧れる。トシはどう頑張ってもモンにはなれないから、モンと友達になり、共同戦線を張る。どこまでも社会を逸脱していくモンに対し、トシは社会の圏内にからめとられたままで変わる(=超越する)ことができないために、最期はトシモンに愛する者を殺された人々の「正義」によって裁かれる。

マリアは正義感と友愛の情が深く、その情の深さゆえに(大人たちとは別に)人間の善なる部分を代表し、トシモンと接触する。マリアはモンに淡い恋心を抱くが、モンはマリアが寄って立つところの人間界の掟とは決して相容れない道義的に許されざる存在だから、その矛盾に引き裂かれる。その矛盾を引き受けることでマリアは(どちらの立場も肯定も否定もできずに)狂ってしまう。

最終巻(第5巻)の半ばで、マリアは死ぬ。マリアが死ぬことは、モンを抑止する力がなくなったこと、人を愛することで社会とつながるわずかな可能性をモンが失ってしまったことを意味する。マリアの死は、モン、モンと共振する怪物ヒグマドン、人間世界の三者が和解し、そこに調和がもたらされるチャンスが失われただけではなく(読者も作者もそんな生ぬるい大団円な結末を期待してないだろうが)、物語がバランスを崩して破綻してしまう危惧を抱かせる。ここで物語は一度、中断し、モンとヒグマドンは姿を消してしまう。

大量無差別殺人に対して社会が要請するのは殺人者に罪を認めさせ罰を与えること、つまりは「死」である。罪と罰が明示されることで、読者の住む現実世界の安全は保障され、反社会的でアンモラルな作品に身を委ねたという身も蓋もない快楽を棚上げすることができる。しかし、新井英樹はそういうありがちな選択をしなかった。最終巻の後半で、新井はこの作品が「現実に起こりうるカタストロフとそこで展開される人間模様を徹底的に無慈悲にリアリスティックに描いた作品」ではなく、「ホラ話」だと明かしている。

最終巻の後半、舞台は日本から世界へと移る。作品のスケールが大きくなるにつれ、作品の綻びは増す。ある特定の限定された場所で物語るがゆえに確保されたリアリティはなくなってしまう。そんなことは百も承知で作者は行けるところまで行く、のである。

再登場したモンは新興宗教の教祖さながら世界中のテロリストたちのカリスマになっている。そこに至るプロセスは十分に描かれているとは言えない。現実に大量無差別殺人者がカリスマとして崇められる可能性はほぼゼロだろうし、モンに対社会を相手に自分のカリスマ性を構築する知性はないと思う(その代わり、内面のない空っぽな人ほどカリスマとして祭り上げられる側面の方を採用しているのだろう)。野暮を言うなと、これは漫画であり、フィクションであり、その作品世界の内部で辻褄があっていれば、いや、多少辻褄があってなくても面白ければOKなのだ、ホラ話なんだからさ、という作者の声がする。

一方、ヒグマドンは捕らえられ、研究対象にされて、果ては太平洋に浮かぶ巨大な球体になって生命活動を停止する。なんだコリャ、と思うが、ヒグマドンとモンの道行きはシンクロしているので、このように類推できる。ここに至って、現実世界を極めてアンモラルなやり方で超克しようとした殺人者が、どこかリアルさを欠いた非現実、TVスクリーンの向こう側のカリスマになってしまうことで去勢されてしまう。同様に、超自然的な未知のモンスターだったヒグマドンも、白日の元にさらされ、「生きもの」から「もの」へと化すことで去勢されてしまう。

どちらも、人間世界から屹立する強靭な「個」(=ヒーローとしての属性であり絶対条件)であることをやめ、凶暴な野性と神秘性を失い(テロリストのリーダーとなったモンを取り巻く神秘性は、新興宗教の教祖のソレに似て、絵空事のようだ)、キャラとしての救心力を失い、機能不全に陥ってしまう。そして、ラストでは、「2001年宇宙の旅」よろしく、大量無差別殺人者のモンは人類を進化させる苗床となるのだ。これはアイロニーのようにも読めるが、アイロニーを感じる前に、どう解釈していいのかわからないから、最後までたどり着いた読者(含む自分)は突き放される。

新井は、モンを罰する=殺すことで作品を道徳的・倫理的に回収する愚を犯さない。漫画が作者によるメッセージの解説本でしかないなら、わざわざ漫画にする必要はないからだ。最初に読み終わった時、この最終巻後半が納得できなかったのだが、いまでは腑に落ちるようになった。最終巻における一見、飛躍とも取れる展開は、作品世界のロジックの暴走と拡張を作者が忠実にシミュレートした帰結であると思うし、大風呂敷を広げるだけ広げて、その限界の先を見つめたいという表現者(及び、それを享受する読者)の業を感じる。

この漫画の連載時(1997年から2001年にかけて)、僕は音楽一辺倒でその存在すら知らなかった。同時体験できたらよかったのにとも思うが、「ザ・ワールド・イズ・マイン」があの頃の空気から醸成されたものであろうことは、僕にもわかる。たとえば、わかりやすく言うと、ヒップホップを日本独自の土壌で培ったザ・ブルー・ハーブの音楽なんかがそうだ。現実の痛みを受肉することでしか立ち上がらないある種の表現。世界標準語ではなく方言(Dialect)であることで(それはヒップホップのビートに乗せて日本語でラップするということにも通じる)、自分の拠り所を手に入れる表現。

「ザ・ワールド・イズ・マイン」は叙情詩ではなく叙事詩であり、複数の異なる価値観がせめぎあうこの現実の世界を図式的にではなく、なまなましい実感を持って描く。このことがどんなにハードルが高い作業かは、単一の価値観で出来上がった作品がいかに多いか、でわかるだろう。結局は、作品は作者の思い描いた範疇から出ることはない、ほとんどの場合は。最終巻が示すように、現実とフィクションの間に横たわる偏差をも飲み込み、閉じた系であることに準じず、作品の内部に外部を取り入れようとする懐の深さ、そういうところに、この漫画の優れた批評性があると思う。

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