内容は予想された通りの展開でどーってことないのだが、第一章と最終章では文体がまるで違うところに、kikiという23歳の作者の意図と巧みさを感じた。「てか」と「みたいな」がミミダコのように頻出する第一章のアタシ=アキは、いくらビッチで強ぶってはみても、社会から十全に承認される自己像を結べない、不安定でモラトリアムで未成熟な人間であることが明らかなのだが、最終章では打って変わって、しっとりした情緒をにじませる落ち着いた散文的な文体が、恋人トモとの関係を通じてアキが精神的に成長したことを伺わせる。
これは、「マジ恋 なぁんて ある訳ないじゃん」と思っていた主人公が、「ただ 変わらず 愛する事の 意味 愛される事の 意味 忘れたくない」と思うに至る物語だ。世間を敵対視していたアキは、最後には「おかん」や病院の「白髪オヤジ」に感謝の気持ちを覚えるまでに変貌する。文体はずっと口語体、アキのモノローグなのだが、第一章と最終章では上記のように文体のベクトルや湿度がかなり違う。また、「トモ」という章をその間に挟み、アキの物語をトモの側から補完している。
物語自体は陳腐でありがちでご都合主義、である。最終的に恋愛が成就することで、愛すべき/愛されるべき存在としての自己保存プログラムを強固に完成させるアキは、ありていに言って保守的で抜け目がないキャラクターのようにも見える。「ねぇ キスしてよ」という冒頭のコトバは、最後に用意周到に繰り返され、ページの真ん中にポツンと置かれた「いいよ」という恋人からの絶対的な承認のコトバで物語は閉じられる。
「あたし彼女」というこれ以上はない簡潔で見事なタイトルがすべてを物語る。「あたしは(トモの)彼女」となるべきところが、「あたし」と「彼女」は有無を言わさず直結する。「あたし、彼女」でも「あたしは彼女」でもない。「あたし」と「彼女」の間にまだるっこしい文学的修辞を含む余地なく「あたし彼女」なのだ。
「あたし」は「彼女」というポジショニングによって存在を保証される。それ以外に「あたし」は存在しえないし「あたし」たりえないのだから。アタシはずっとこの先このままのアタシでいいのだ、という自己肯定、自己同一性(本文では「アタシ」なのに、タイトルだけ「あたし」となっている)。まるで山田詠美だが、この完膚なき肯定を嗤うことはできない。どんな人でも誰かに肯定されてはじめて生かされるという命題から逃れられないから。
誰かがケータイ小説と中絶というファクターの親和性について書いていたが、「あたし彼女」にも中絶は登場する。中絶は、ケータイ小説を好む女性層に最もアピールする「リアル」な物語を補完するアイテムなのだろうか。
ここで僕はなぜか、「ハリー・ポッター」の作者J・K・ローリングが、「ゲド戦記」のアーシュラ・K・ル=グウィンのようなインテリの家系に生まれた文学的素養に恵まれた女性作家ではなく、元は生活保護を受けるシングルマザーだったことを思い出す(成功したローリングが医者、つまり実業家と再婚するというのもとても頷ける話ではある)。
ケータイ小説の書き手がその通商手形である「リアル」を手放して、恋愛という自己実現の物語に頼らないファンタジーを描くことはありうるだろうか、とも思う。
なお、「あたし彼女」に関しては、萩上チキさんの批評が的確だ。
「稚拙なケータイ小説」だけが描ける「リアル」――『あたし彼女』の場合:荻上式!電網テレビ批評 | みんなのテレビ:So-net blog
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