リーマン・ブラザーズの破綻に関して、内田樹の研究室経由で、リーマンの破産、擬制の終焉。 - カフェ・ヒラカワ店主軽薄というエントリーをクリップ。
この度の米国経済の破綻は、
信用の収縮と呼ぶべきものではなく、行き過ぎたお金への信仰が、
欲望が再生産を繰り返して作り上げた幻影に対するものでしかなかった
ということが露呈したに過ぎない。
最初から信用というようなものは無かった。
信仰は、幻影には実体がないと分かった瞬間に一気に萎む。
たけくまメモにも書いてあるように、1971年のニクソン・ショックを契機に金本位制が廃止されたことで、お金をリアルワールドで価値があるとされるモノ(この場合は金)と交換する仕組みがなくなり、お金は完全にヴァーチャルな幻影の中で取引されるものになった(*)。
いわばお金はオリジナルの存在しないコピーで(メインバンクによって原理的にいくらでも複製することができる)、価値を担保してあるはずのオリジナルを参照できず、コピー自体で価値を生み出し、経済というシステムを回し続けなくてはならない。ウソから出たマコト? そして、その価値は国家間のパワーゲームによって決定される。経済にうとい僕もこの辺は理解できる。
無理な戦争を仕掛けようが、
世界の富を簒奪するシステムを遂行しようが、
政治的・経済的覇権を正当化し、維持するためには
ひとつの擬制(フィクション)が必要だったということかもしれない。
アメリカの正義は、世界の正義であり、人類の利益に資するものだという
擬制がそれである。
彼らがその擬制を補完するために掲げた、自由も、チャンスも、平和も
まさにその社会の根本に、原理的に欠けているがゆえに、
その欠落を隠蔽するために設えられた「正義」のように見える。
グルジア紛争も大統領選挙に焦点を合わせたアメリカとロシアの代理戦争だと言われている。その真偽はともかくとして、国内の経済的・社会的混乱を隠蔽し人々の関心を反らすために、国の外に敵を作るという擬制(フィクション)をアメリカは常に採用してきた。
フィクションで経済が動き、現実に戦争が起こるというのは、改めて考えると恐ろしいことだと思う。人間は動物ではないので本能のみでは行動できない。そこにフィクション(思想でも大義でも哲学でも理念でも入れ替え可能)を補完する必要がある。
「お金が行使できるパワーは極めて限定的なものであり、それを万能だと思うことは恥ずかしいことなのだという認識」はどうやったら社会に広く敷衍(ふえん)できるのだろうか。倫理観としてはわかっているつもりでもそれだけでは実効力が弱い。今回のようにフィクションそのものが崩壊・破綻することでしか認識できないのかもしれない。フィクションと現実のフリクション=衝突は常に避けられない。
とまれ、このまま資本主義で行く限り、よりベターな経済システムが発明されない限り(まさか、原始共産制に素朴に戻ることはできないだろうし)、拝金主義がもたらすディザスターは今後も避けられない気がする。
追記。
いとうせいこうさんがブログで引用していた宇宙物理学者フリーマン・ダイソンの言葉。この人の予想が当たるかどうかは置いといて、こういう大きなスケールで歴史を俯瞰する見方は忘れがちなのでメモ。
「国家という概念が1450年頃、西ヨーロッパで発明されて以来、スペイン、フランス、英国、そしてアメリカの四カ国が順次150年の周期で覇権を握ってきた。アメリカが世界の主導国となったのは、第一次世界大戦後1920年頃のことであり、したがってアメリカ主導の時代は2070年に終わることになる。21世紀の大問題のひとつに、いかに円滑にアメリカから次の主導国へ権力を委譲するかという問題がある。次の最有力候補は中国である。他候補はインドとヨーロッパ連邦。主導国たる条件は軍事力の行使を最小限に押さえつつ、その軍事的優位を保つことにある」
カトラー:katolerのマーケティング言論でも、上記のフィクション云々について指摘している。
現在の世界経済で問題になっている過剰流動性とは、「金余り」というような言葉で表現されるリアルマネーのことをさすのではない。そのリアルマネーをレバレッジ(梃子)にして膨れ上がる信用創造のプロセスそのもののことをさす。とすれば、現在、われわれが立ち会っているのは、過剰流動性=信用創造システムそのものの崩壊に他ならないと考えるべきだろう。
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