2008/09/24

コダワルことの難しさ

このブログのエントリーをいくつか読んでもらえれば分かる通り、僕は一般的に見てコダワリが強い人間である。趣味性の強いオタクと言われれば否定できないし(いわゆるオタク第一世代に入ってしまう年代)、今のオタクカルチャーには正直、溶け込めないところも多い。

音楽で言うと、今の若い人の音楽趣味は、かつて僕らの世代が音楽誌やミュージシャンのインタビューで必死に学習したような歴史を線で結んでいくリニアで系統樹的な音楽地図ではなく、iPodやiTunesのプレイリスト(をメタファーとするような音楽観)がすでにデフォルトになっていると思う。

フラットな水平思考というか、ヘンなコダワリがなく、音楽の海に浮かぶ点をスクロールしてスイスイと泳いでいく感じ。系統樹的な知識のアーカイヴは外部記憶としてネットにあるから、それを参照すればいい。古い価値観からすればリテラシーが足りないということになるが、僕はそれをとても自由で羨ましく思う時がある。

「明日の広告」でも書いたが、1994年から2004年までの10年で世の中に流れる情報量は410倍になった(総務省情報流通センサス報告書より)。 たとえば街を歩いていて10個の情報、看板とか人の顔とか音楽とかに接していたのが、たった10年で4100個に増えたということである。それに比してヒトが処理できる情報量は10年でほとんど変わっていない。つまり我々は9割9分以上の情報を処理できずスルーしている

www.さとなお.com(さなメモ): ぼくたちは何だかあっという間に消費しちゃうね

410倍。そりゃみんな一個の情報に費やすエネルギーが減るワケだ。TwitterやTumblrのようなライフログ的なブログも、情報をスルーすることと情報にピン=フラグを立てることの間のグレーゾーン、誰もが役に立つように加工する前段階の生のRAWな情報をいかにつかまえるかという仕組みになっている。両者ともひたすらロギングするためにあり、フラットな水平思考(もっとうまいわかりやすい言い方がないかな)の産物だ。

そして、大友さんのようにそうした潮流にアンチを唱える人もいる。

過去30年、本来皆でやるものだった音楽が、ラップトップの中で作れるようになり、皆で聴くものであった音楽が、鼓膜を直接振動させるイヤホンで、個人だけの所有物になってしまったのを間の当たりに見てきて、そうした流れに、無駄かもしれないけどはっきりと杭を打ちたいという思いもあります。音楽はそういうもんじゃないだろ・・・って素朴に思ってますから。

SHIFT | PEOPLE | 大友良英



「without records」という大友さんによるインスタレーションは、鼓膜ではなく空気を振動させるポータブルプレイヤーを並べた20世紀的な聴取へのレクイエムのようだ。たくさんのレコードプレイヤーを並べて同時にレコードをプレイしたクリスチャン・マークレイ(Christian Marclay)にとても似ているが(当然、大友さんも意識はしているだろうが)、いにしえのアヴァンギャルドな実験やコンセプチュアル・アート云々というより、こういう音を出したいという欲求の素直な具現化に見える。

こだわりがもたらす苦しみ - Zopeジャンキー日記を読んで、脊髄反射的にこのエントリーを書いた。「自分がこだわっているものに、世の中のたいていの人は、こだわっていないのだ」という事実は、他者とつながる場合、決して忘れてはならないだろう。コダワリが強いがために痛い目にあった古傷も多く、「コワダリが強いよね」と言われることもよくあるので、自戒のためにクリップしておこう。

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