このブログはGoogleのブログサーヴィス、Bloggerを使っている。至ってシンプルな使い勝手、データの遅延やアクセスできないといった不備も今まで経験したことなく、その安定性も気に入っている。Googleだから検索されやすいのでは?という淡い期待も密かにあった。たしかにエントリーしてから検索結果に出るまでは速い気はする(他と比較したわけではない)。が、当然ながら、それがアクセス数に跳ね返るわけではない・・・。
で、ここからは個人的な話。このブログを始めた当初はまだGmailを本格的に使っておらず、別のメルアドで登録したのだが、いまはGoogleの各種サーヴィスやその他のウェブサーヴィス(Delicious、Evernote、Tumblr、Dropboxなど)、YahooやOCNのメールもすべて一括してGmailで管理しているので(すっかりGoogleの思うツボ)、ブログを書くたびにGoogleアカウントを切り替えるのが結構面倒になっていた。そこで窮余の策。
GoogleアカウントAで登録したブログのデータをバックアップ(エクスポート)>ブログを削除>現在メインで使用しているGoogleアカウントB(Gmailのアカウント)で同名のブログを再登録>データをインポート
こういう手順で、ブログのアドレスと内容はそのままでアカウントのみ変更という風にしたかったのだが、意外と手こずった。途中でBloggerのヘルプを発見し、ブログを削除する必要がなかったことに気づいたが時すでに遅し。やっちまいました。Blogger初心者の備忘録として、誰に役立つかもわからない事の顛末をアップすることにする。
まず、同じBlogger同士のデータのやりとりは拍子抜けするほど簡単(同じアドレスを使わないのであれば)。
「ダッシュボード>設定>ブログをエクスポート」で、画像以外のブログの全データをxmlファイルとしてハードディスクに保存する(画像はPicasa Web Albumで管理しているので)。あとは、移行したいBloggerの「ダッシュボード>設定>ブログをインポート」でOK。下書きもちゃんと保存される。自分のxmlファイルの容量はちょうど1MBだった。
ブログの削除は、「ダッシュボード>設定>ブログを削除」で行える。ところが、ブログを削除しただけでは、別のGoogleアカウントで同じアドレスを取得できなかった。おそらく、親元のGoogleアカウントとそこにぶら下がるBloggerが1セットになっていて、親元を削除しないとダメなのだろうと思うが、検証する前に、下のヘルプに従ってアカウントをAからBに譲与して解決してしまったので、真相はわからず。
アカウント間で Blog を移動するにはどうすればよいですか。 - Blogger Help
予想外の事故、ドツボにハマったのはテンプレート(=Bloggerのテーマ)だった。
「ダッシュボード>レイアウト>HTMLの編集>テンプレートをすべてダウンロード」で保存したxmlファイルを再びアップロードすると、何度やってもエラーになる(直前まで使えていたはずなのだが・・)。結局、気に入っていた前のテンプレート(Integral | Blogger Templates)の復旧をあきらめ、あまり気に入ってない新しいテンプレート(Unqua | Blogger Templates)を導入、編集して、やっと終了。全体的に暗めになりました・・。プログラマーではないので、テンプレートの編集はエディタではなくIllustratorのように直感的にイメージを触るようにやりたいのだけれど。(追記:Firefoxのアドオン、Web Developerを復活させたりして作業続行。少しマシになって文字は以前より読みやすくなったかも?)
オマケ。Picasa Web Album上に保存してある全画像のバックアップは、Picasa Web Albums Uploaderでこちらも簡単に行えた。インテルMacな人なら、Picasa for Macという選択肢もある。自分のPicasa Web AlbumはGoogleアカウントAにぶら下がっているので、これをGoogleアカウントBに移行するには、画像のリンクを全部手で直さないといけないのだろうか(ため息)。
2009/02/27
2009/02/25
自分の仕事をつくる
以前、渋谷FMでSOUND BUMの特番を作ったことがあります。そのSOUND BUMの主催者であり、『自分の仕事をつくる』という本の著者でもある西村佳哲さんから、ひさしぶりに近況メールをいただきました。『自分の仕事をつくる』の文庫版がちくま文庫から出版されたとのことです。
そのメールの中の言葉に感銘を受ける部分があったので、勝手ながら引用させてください(少し長いです)。昨日のエントリーで書いた村上春樹のスピーチに通じる話でもあると思います。
以下、引用文。
先日、ソダーバーグの「チェ」二部作を見ました。
とくに後編の「39歳・別れの手紙」ですか。あれは感じ入るものがあった。
闘わざるを得ない負け戦、の話。
中学生の時に萩尾望都の、というか光瀬龍の
「100億の昼・千億の夜」を読んで以来、
自分たちを上回るスケールを持つ力や意図を前にして、
どう在ればいいのか、ずっと考えています。
そのことが「自分の仕事をつくる」という本のことと重なっていて、
いったい「自分の仕事」ということが、
この世の中でどれぐらい可能なんだろう…ということを、考えてしまう自分がいる。
ゲド戦記の作者ル・グィンは、近年「西のはての年代記」という三部作を書いていた。
完結編のタイトルは「パワー(powers)」でした。
グィンはある登場人物を通じて、こんなことを語っている。
「きみをつかみ、操り、おさえつける主人の手。
どんな力をきみが持っていても、
それはきみを通して働く彼らの力にほかならない」
ゴアが「不都合な真実」をひっさげて再登場した時、嫌なものを感じた。
なぜみんな信じるのだろう。(みんなではないが)
いや実は信じていないけど、とりあえずその話にのる…という感じなんだろうか。
自分のまわりには、環境とか、公平性とか、持続可能な社会づくりとか、
そりゃ確かに大事だよねと思える社会的課題に、
生涯をかけて取り組んでいる人が多々いるのだが、
勝ち目のない負け戦に取り組んでいる、
ないしなんらかの力・なんらかの構造によって取り組まされている
(そのことでエネルギーを消費させられている)
ように感じられる側面はないだろうか。私見というか、極めて個人的な感覚ですけど。
一所懸命な彼らに、嫌味なんぞ言いたくないし、
どこかで仕入れた陰謀論をご披露したくもない。
しかし、勝ち目のない負け戦に人を誘う罪深さ、
というかしょうもなさは、
俺の書いている本にも、ありはしないだろうか?
あるいは、大学で学生たちと交わしている言葉の中にも。
僕らには「働いている」という側面と、「働かされている」という側面がある。
上司にとか会社に…という話ではなく、
その会社もさらになにかに「働かされ」ており、
さらに国も「働かされ」ているという構造があるように思う。
仕事というのは、自分の課題と社会の課題の間にあるものだから、
完全に純粋な主体性や、自動性だけでドライブするものではないでしょう。
けど、それにしても、
どこか不自然に、必要以上に「働かされ」ている私たちがいる感じがしていて、
本件に関しましては、まだなんのオチもないのです。
西村佳哲
2009/2/24
そのメールの中の言葉に感銘を受ける部分があったので、勝手ながら引用させてください(少し長いです)。昨日のエントリーで書いた村上春樹のスピーチに通じる話でもあると思います。
以下、引用文。
先日、ソダーバーグの「チェ」二部作を見ました。
とくに後編の「39歳・別れの手紙」ですか。あれは感じ入るものがあった。
闘わざるを得ない負け戦、の話。
中学生の時に萩尾望都の、というか光瀬龍の
「100億の昼・千億の夜」を読んで以来、
自分たちを上回るスケールを持つ力や意図を前にして、
どう在ればいいのか、ずっと考えています。
そのことが「自分の仕事をつくる」という本のことと重なっていて、
いったい「自分の仕事」ということが、
この世の中でどれぐらい可能なんだろう…ということを、考えてしまう自分がいる。
ゲド戦記の作者ル・グィンは、近年「西のはての年代記」という三部作を書いていた。
完結編のタイトルは「パワー(powers)」でした。
グィンはある登場人物を通じて、こんなことを語っている。
「きみをつかみ、操り、おさえつける主人の手。
どんな力をきみが持っていても、
それはきみを通して働く彼らの力にほかならない」
ゴアが「不都合な真実」をひっさげて再登場した時、嫌なものを感じた。
なぜみんな信じるのだろう。(みんなではないが)
いや実は信じていないけど、とりあえずその話にのる…という感じなんだろうか。
自分のまわりには、環境とか、公平性とか、持続可能な社会づくりとか、
そりゃ確かに大事だよねと思える社会的課題に、
生涯をかけて取り組んでいる人が多々いるのだが、
勝ち目のない負け戦に取り組んでいる、
ないしなんらかの力・なんらかの構造によって取り組まされている
(そのことでエネルギーを消費させられている)
ように感じられる側面はないだろうか。私見というか、極めて個人的な感覚ですけど。
一所懸命な彼らに、嫌味なんぞ言いたくないし、
どこかで仕入れた陰謀論をご披露したくもない。
しかし、勝ち目のない負け戦に人を誘う罪深さ、
というかしょうもなさは、
俺の書いている本にも、ありはしないだろうか?
あるいは、大学で学生たちと交わしている言葉の中にも。
僕らには「働いている」という側面と、「働かされている」という側面がある。
上司にとか会社に…という話ではなく、
その会社もさらになにかに「働かされ」ており、
さらに国も「働かされ」ているという構造があるように思う。
仕事というのは、自分の課題と社会の課題の間にあるものだから、
完全に純粋な主体性や、自動性だけでドライブするものではないでしょう。
けど、それにしても、
どこか不自然に、必要以上に「働かされ」ている私たちがいる感じがしていて、
本件に関しましては、まだなんのオチもないのです。
西村佳哲
2009/2/24
2009/02/24
休刊のクリップ
本当は年初にエントリーすべきところが今頃になった。しばらく購読していたマグ(今風に言えばジン?)の休刊がいくつかあったので覚え書きとしてクリップ。
PingMag - 東京発 「デザイン&ものづくり」 マガジン
外国人の視点から日本を眺めたデザイン・マグ。昨年末で終了。雑多で雑誌然とした、気取ってない卑近なアプローチ、フットワークの軽さが今時、貴重だった(日本の雑誌はセグメントされすぎているように感じるので)。地方のものづくりをレポートするのはTABlog | Tokyo Art Beatが最近始めたが、おそらく『PingMag』を参考にしていると思う。
TATAKIDAI
デザイン関係の言説というのはどうしてもおカタい感じになりがちで、時々、息が詰まりそうになるのは自分だけ? ここは街場の忌憚ない意見が聞けて面白かったが、昨年末で終了。掲示板仕様だったためか、最後の方は2ちゃんねる化して炎上が多くなっていたのが残念。(現在はトップページのみ)
Music Thing
こちらは個人サイト。海外の音楽機材系ブログとして有名、かつ、どこにも引けを取らない情報量を誇っていた。その経歴が買われ、筆者は現在はThe Timesのウェブ版の仕事をやっているそう。マニアックなブロガーの成功例か?
『エスクァイア』休刊のニュースも。
この10年でもっとも悲しいニュース:痩せたり太ったり:So-net blog
2009-02-22 - 【海難記】 Wrecked on the Sea
「アメリカではすでにほとんどフリーペーパー状態で、アマゾンで年間契約すると、年間12冊合計でわずか8ドル」という話は目からウロコ。色々事情はあるのだろうが、昔のように海外との情報格差で物を売るというのが不可能な時代だし、『エスクァイア』が体現していた、20世紀的な知的で豊かな暮らし=最大公約数的な人口に膾炙する「夢」に憧れることがもう難しくなっているのでは?と思う。
PingMag - 東京発 「デザイン&ものづくり」 マガジン
外国人の視点から日本を眺めたデザイン・マグ。昨年末で終了。雑多で雑誌然とした、気取ってない卑近なアプローチ、フットワークの軽さが今時、貴重だった(日本の雑誌はセグメントされすぎているように感じるので)。地方のものづくりをレポートするのはTABlog | Tokyo Art Beatが最近始めたが、おそらく『PingMag』を参考にしていると思う。
TATAKIDAI
デザイン関係の言説というのはどうしてもおカタい感じになりがちで、時々、息が詰まりそうになるのは自分だけ? ここは街場の忌憚ない意見が聞けて面白かったが、昨年末で終了。掲示板仕様だったためか、最後の方は2ちゃんねる化して炎上が多くなっていたのが残念。(現在はトップページのみ)
Music Thing
こちらは個人サイト。海外の音楽機材系ブログとして有名、かつ、どこにも引けを取らない情報量を誇っていた。その経歴が買われ、筆者は現在はThe Timesのウェブ版の仕事をやっているそう。マニアックなブロガーの成功例か?
『エスクァイア』休刊のニュースも。
この10年でもっとも悲しいニュース:痩せたり太ったり:So-net blog
2009-02-22 - 【海難記】 Wrecked on the Sea
「アメリカではすでにほとんどフリーペーパー状態で、アマゾンで年間契約すると、年間12冊合計でわずか8ドル」という話は目からウロコ。色々事情はあるのだろうが、昔のように海外との情報格差で物を売るというのが不可能な時代だし、『エスクァイア』が体現していた、20世紀的な知的で豊かな暮らし=最大公約数的な人口に膾炙する「夢」に憧れることがもう難しくなっているのでは?と思う。
iPhone
iPhoneを使い始めて、4ヶ月が過ぎた。
今まで持っていた携帯とは比較にならないほど生活に密着したデバイスになり、その結果、自分が重度の情報ジャンキーであることを再確認、そして、どうやらインターフェイス・マニアらしいということにも気づいた。
それまでは3年くらいNokia 6630(ボーダフォンの品番はV702NK)を使っていた。ノキアの優れたインターフェイスに感激し(ディスプレイではなくてボタンの配置と操作が考え抜かれている)、国内初のスマートフォンということもあって、Symbian OSのカスタマイズとインストールに明け暮れたことも懐かしい(しばらくすると熱が冷めて、初期状態に戻してしまったが)。キャリアとユーザーの評判が共に悪い機種で「正直オススメできませんね」と言われながらショップで購入した。そんな「出来の悪い子」ぶりも、気に入っていた理由だったかもしれない。いや、実際のところ、メール周りのバグには何度も泣かされたが、ガラパゴス携帯にはないグローバル携帯の風通しの良さを体感したものだった。
iPhoneとMacという2つの情報機器を行き来するようになって、リーダビリティやユーザーインターフェイスについて、以前より意識するようになった。小さい画面で限られた情報を表示するiPhoneに慣れると、新聞の折り込み広告みたいに1ページに情報を詰め込むパソコンのモニターがトゥーマッチで五月蝿く感じてくる。ニュースサイトやブログの記事インデックスや3ペイン構造すら苦痛だ。モニターの解像度を最大にしないと気が済まない人だったのに、この逆転現象はいかがなものか(単純に老化現象かも、笑)。
近い将来、モニターのサイズから割り出される情報量の最適解が、より自由度を高めた形でOSにプリインストールされるだろう。今のMac OS Xにも文字を大きく表示するユニバーサル・アクセスが標準でついているが、昨日リリースされたばかりのSafari 4には、文字だけではなく全体のレイアウトが拡大されるズーム機能が搭載されている。パソコンとケータイの中間形態のインターフェイスがこれから模索されていくと思うと楽しみだ。
iPhoneは、出来ることと出来ないことがハッキリしている。むしろ、こんなことも出来ないのかと思うことも多い。Nokia 6630はブルートゥースのファイル送信やテキストのコピペが実装されていたが、iPhoneにはその当たり前に思っていたことが出来ない。iPhoneはMacよりも不自由で、ガッチリとセキュリティが施されていて、キレイに舗装されているけど信号や進入禁止区域が多い道路を走ってる感じ。また、表面的なタッチ・インターフェイスの新奇さを除くと、すでにある枯れた技術を慎重に組み合わせた古風なマシンだと思えてくる。当時、Newtonを手に入れることは出来なかったけれど、iPhoneはNewtonの遺伝子を引き継いでいるハズ。
要望はある。ビューアーとしては優秀なiPhoneだが、これで長文を書く気にならないので、ポメラみたいな携帯用キーボードが出てきてほしい。OSの改善点としては、Mobile Safariのポートレート・モード固定と、ボタン配置のカスタマイズ(アップルの厳格なUI基準だと難しそうだが、右手/左手で操作ボタンを変えるアプリもすでにある)が可能になれば、他は今のところ不満はない。コピペがないのにも不思議と慣れてしまった。「マクドナルドの硬い椅子」じゃないが、iPhoneって良くも悪くも環境管理型権力を体感できるデバイスだと思う(笑)。
App Storeによって世界中に開かれた流通が確保されたのも大きい。RjDjの登場で思ったのが、iPhoneに最適化された音楽レーベルがこれから出てくるだろうということ。青空文庫リーダーの充実と売れ行きを見れば、文庫や新書や雑誌のレーベルもマーケットとして確実にありそう。現実問題、そんな生易しいもんじゃないだろうけれど、参入障壁が低い分、可能性があることは否めない。本職はFlasherで個人デベロッパーのfladdictさんのブログを読むと、その可能性を感じないではいられない。
ライヴァルであるグーグルのAndroid、伏兵だったPalm Preとインターフェイスの競争は激化しているので、その動向も気になる(数年後にiPhoneが存続しているかどうかなんて誰にもわからない)。が、なぜか、Sekai Cameraにはそれほど萌えない。『マイノリティ・レポート』的な世界観はディストピアだと刷り込まれているからか。
今まで持っていた携帯とは比較にならないほど生活に密着したデバイスになり、その結果、自分が重度の情報ジャンキーであることを再確認、そして、どうやらインターフェイス・マニアらしいということにも気づいた。
それまでは3年くらいNokia 6630(ボーダフォンの品番はV702NK)を使っていた。ノキアの優れたインターフェイスに感激し(ディスプレイではなくてボタンの配置と操作が考え抜かれている)、国内初のスマートフォンということもあって、Symbian OSのカスタマイズとインストールに明け暮れたことも懐かしい(しばらくすると熱が冷めて、初期状態に戻してしまったが)。キャリアとユーザーの評判が共に悪い機種で「正直オススメできませんね」と言われながらショップで購入した。そんな「出来の悪い子」ぶりも、気に入っていた理由だったかもしれない。いや、実際のところ、メール周りのバグには何度も泣かされたが、ガラパゴス携帯にはないグローバル携帯の風通しの良さを体感したものだった。
iPhoneとMacという2つの情報機器を行き来するようになって、リーダビリティやユーザーインターフェイスについて、以前より意識するようになった。小さい画面で限られた情報を表示するiPhoneに慣れると、新聞の折り込み広告みたいに1ページに情報を詰め込むパソコンのモニターがトゥーマッチで五月蝿く感じてくる。ニュースサイトやブログの記事インデックスや3ペイン構造すら苦痛だ。モニターの解像度を最大にしないと気が済まない人だったのに、この逆転現象はいかがなものか(単純に老化現象かも、笑)。
近い将来、モニターのサイズから割り出される情報量の最適解が、より自由度を高めた形でOSにプリインストールされるだろう。今のMac OS Xにも文字を大きく表示するユニバーサル・アクセスが標準でついているが、昨日リリースされたばかりのSafari 4には、文字だけではなく全体のレイアウトが拡大されるズーム機能が搭載されている。パソコンとケータイの中間形態のインターフェイスがこれから模索されていくと思うと楽しみだ。
iPhoneは、出来ることと出来ないことがハッキリしている。むしろ、こんなことも出来ないのかと思うことも多い。Nokia 6630はブルートゥースのファイル送信やテキストのコピペが実装されていたが、iPhoneにはその当たり前に思っていたことが出来ない。iPhoneはMacよりも不自由で、ガッチリとセキュリティが施されていて、キレイに舗装されているけど信号や進入禁止区域が多い道路を走ってる感じ。また、表面的なタッチ・インターフェイスの新奇さを除くと、すでにある枯れた技術を慎重に組み合わせた古風なマシンだと思えてくる。当時、Newtonを手に入れることは出来なかったけれど、iPhoneはNewtonの遺伝子を引き継いでいるハズ。
要望はある。ビューアーとしては優秀なiPhoneだが、これで長文を書く気にならないので、ポメラみたいな携帯用キーボードが出てきてほしい。OSの改善点としては、Mobile Safariのポートレート・モード固定と、ボタン配置のカスタマイズ(アップルの厳格なUI基準だと難しそうだが、右手/左手で操作ボタンを変えるアプリもすでにある)が可能になれば、他は今のところ不満はない。コピペがないのにも不思議と慣れてしまった。「マクドナルドの硬い椅子」じゃないが、iPhoneって良くも悪くも環境管理型権力を体感できるデバイスだと思う(笑)。
App Storeによって世界中に開かれた流通が確保されたのも大きい。RjDjの登場で思ったのが、iPhoneに最適化された音楽レーベルがこれから出てくるだろうということ。青空文庫リーダーの充実と売れ行きを見れば、文庫や新書や雑誌のレーベルもマーケットとして確実にありそう。現実問題、そんな生易しいもんじゃないだろうけれど、参入障壁が低い分、可能性があることは否めない。本職はFlasherで個人デベロッパーのfladdictさんのブログを読むと、その可能性を感じないではいられない。
ライヴァルであるグーグルのAndroid、伏兵だったPalm Preとインターフェイスの競争は激化しているので、その動向も気になる(数年後にiPhoneが存続しているかどうかなんて誰にもわからない)。が、なぜか、Sekai Cameraにはそれほど萌えない。『マイノリティ・レポート』的な世界観はディストピアだと刷り込まれているからか。
最近読んだマンガのこと
前にエントリーした『へうげもの』でチェックするようになった『週刊モーニング』で、諸星大二郎の『西遊妖猿伝』と望月峯太郎『東京怪童』。『西遊妖猿伝』は末梢神経をチクチクと刺すようなオーバードーズ気味の今の漫画にはないゆったりとした展開、時間感覚が心地よい。「リア・ディゾン」が台詞に出てくるのにはたまげた(秋まで連載延期らしい)。『東京怪童』は、望月が真正面から現代に挑戦していて、ディティールの描写に力点を置くあまり、物語の展開がグダグダになってしまわないかとファンとしてはヤキモキ。
福島聡の『機動旅団八福神』をまとめ読み。
ガンダムやエヴァやパトレイバーのような日本のロボット・アニメの系譜を参照しつつ、自由な翻案を行っていて面白かった。未来の日本が中国の属国になっていてアメリカと戦争をしているという、いわゆる歴史改変SFだがヒネり具合が素晴らしく、人を食った描写にどうしても黒田硫黄の色濃い影響を感じる(特に、日常に非日常を挿入/接続させる手つき、女性キャラの扱いなど)。主人公の名取はのび太のパロディだし、ロボットというかパワードスーツは原爆にも耐えうるが、刃で簡単に裂けるという間抜けっぷりなど、各種アイテムはありがちなのにハズシが効いている。超能力者のラテン系の女の子が聴いているのはなぜかトオル・タケミツ。読後感はヘヴィー。
いろんな読みが可能だけれど、主人公の女の子、頭は弱いが超絶的な身体能力を持つ半井(なからい)が仲間やアメリカ軍の超能力者を圧倒してしまうところに(って書くとこれもありがちな設定みたいだが・・)、頭デッカチな思想やロジック、男性原理から跳躍しようとする・・・なんかうまく書けないな。戦闘美少女とかそういうことじゃなくて。
空間コミックビーム:漫画家に訊く! 〜ぶっちゃけそのへんどうなんスか!〜 第10回 福島聡さん part.1
素朴な疑問として、日本のSFマンガやアニメってどうして人がやたらとバタバタと死ぬのだろうか? 敗戦の記憶などない世代にも受け継がれる特異なDNAというか、戦時下の限定的サバイバル状況を召還してしまいがちなハルマゲドン指向の心性ってなんなんだろう。
『GANTZ』も『バイオメガ』も『ディエンビエンフー』も男の子が好むようなエロとグロと大量殺人を圧倒的な画力とゲーム的想像力で描いていて、それが商品としての価値に結実してるわけだからそれでOKなんだろうけど(僕からすると、『GANTZ』はまんま『幻魔大戦』だし、『バイオメガ』の後半は『ナウシカ』に見えてしまう)。そうした同時代性はともかく、「どう描くか」という表現手法がマックスまで洗練された結果、「なにを描くか」という部分が空洞化しちゃってるような気もしなくはない。
だからか、上に挙げたマンガ家に比べ、(あくまで僕自身の狭い好みや感覚で)失礼ながら相対的に表現=絵が洗練されてないように見える岩明均の『ヒストリエ』には、逆に骨太な物語の面白さが際立っているように感じる。失礼続きで言うと、諸星大二郎もこっちのカテゴリーに入ると思う。今さらだけれど、『寄生獣』も読んだ。発表当時に読んでいなかったのが悔やまれるが、時代性というのを抜きにして成立しうる傑作。デビルマン・チルドレンとしては、『ワールド・イズ・マイン』と双璧の完成度かと。あとは、『海獣の子供』を読み始める。言葉にするとロハスやニューエイジの一言で終わってしまいそうな五十嵐大介の微細で繊細な表現力はやっぱり凄いな。似たような資質を持っている松本大洋に僕が不満に思っていた部分(主に地に足をつけたリアルな生活が描かれているかどうか)がちゃんとクリアされている。
以上、感想の書き散らしでごめんなさい(ちなみに、基本的に好きな作品・作家しか取り上げていません)。
福島聡の『機動旅団八福神』をまとめ読み。
ガンダムやエヴァやパトレイバーのような日本のロボット・アニメの系譜を参照しつつ、自由な翻案を行っていて面白かった。未来の日本が中国の属国になっていてアメリカと戦争をしているという、いわゆる歴史改変SFだがヒネり具合が素晴らしく、人を食った描写にどうしても黒田硫黄の色濃い影響を感じる(特に、日常に非日常を挿入/接続させる手つき、女性キャラの扱いなど)。主人公の名取はのび太のパロディだし、ロボットというかパワードスーツは原爆にも耐えうるが、刃で簡単に裂けるという間抜けっぷりなど、各種アイテムはありがちなのにハズシが効いている。超能力者のラテン系の女の子が聴いているのはなぜかトオル・タケミツ。読後感はヘヴィー。
いろんな読みが可能だけれど、主人公の女の子、頭は弱いが超絶的な身体能力を持つ半井(なからい)が仲間やアメリカ軍の超能力者を圧倒してしまうところに(って書くとこれもありがちな設定みたいだが・・)、頭デッカチな思想やロジック、男性原理から跳躍しようとする・・・なんかうまく書けないな。戦闘美少女とかそういうことじゃなくて。
空間コミックビーム:漫画家に訊く! 〜ぶっちゃけそのへんどうなんスか!〜 第10回 福島聡さん part.1
素朴な疑問として、日本のSFマンガやアニメってどうして人がやたらとバタバタと死ぬのだろうか? 敗戦の記憶などない世代にも受け継がれる特異なDNAというか、戦時下の限定的サバイバル状況を召還してしまいがちなハルマゲドン指向の心性ってなんなんだろう。
『GANTZ』も『バイオメガ』も『ディエンビエンフー』も男の子が好むようなエロとグロと大量殺人を圧倒的な画力とゲーム的想像力で描いていて、それが商品としての価値に結実してるわけだからそれでOKなんだろうけど(僕からすると、『GANTZ』はまんま『幻魔大戦』だし、『バイオメガ』の後半は『ナウシカ』に見えてしまう)。そうした同時代性はともかく、「どう描くか」という表現手法がマックスまで洗練された結果、「なにを描くか」という部分が空洞化しちゃってるような気もしなくはない。
だからか、上に挙げたマンガ家に比べ、(あくまで僕自身の狭い好みや感覚で)失礼ながら相対的に表現=絵が洗練されてないように見える岩明均の『ヒストリエ』には、逆に骨太な物語の面白さが際立っているように感じる。失礼続きで言うと、諸星大二郎もこっちのカテゴリーに入ると思う。今さらだけれど、『寄生獣』も読んだ。発表当時に読んでいなかったのが悔やまれるが、時代性というのを抜きにして成立しうる傑作。デビルマン・チルドレンとしては、『ワールド・イズ・マイン』と双璧の完成度かと。あとは、『海獣の子供』を読み始める。言葉にするとロハスやニューエイジの一言で終わってしまいそうな五十嵐大介の微細で繊細な表現力はやっぱり凄いな。似たような資質を持っている松本大洋に僕が不満に思っていた部分(主に地に足をつけたリアルな生活が描かれているかどうか)がちゃんとクリアされている。
以上、感想の書き散らしでごめんなさい(ちなみに、基本的に好きな作品・作家しか取り上げていません)。
Sweet Dreams
音楽ライターの福田教雄さんが刊行する雑誌、『Sweet Dreams』の次号に寄稿しました。Sublime Frequenciesというストレンジな民俗音楽レーベルについてです。久しぶりの長文原稿(といっても、4、5千字程度ですが)、難産でした。
客観的な記述を心がけつつも、エイヤッ!と俺節になってしまったので、『Sweet Dreams』を読むようなインディ・ロック好きな方にどう読まれるのかちょっと、いや、かなり心配です。
最近、音楽について書くということが対・社会的にどれほどのもんなのか考えてしまうと腰が引けてしまうのですが、この原稿を引き受けるに当たって、ひとつの胸に秘めた野望がありました(笑)。それは、「いまコレがキテるぜ!」的に周りやトレンドを意識せず(すいません、今まで意識しまくってました、いや、今も完全にシャットアウトなんて出来ないのだけれど)、たとえズレててもいいから、言葉の連なりによって何かをリスナーや読者に喚起させるような、そんなテキストを書きたいということです。元より不器用で、大した文章力や語彙力もなく、いろんな文体を書き分ける器用さも持ち合わせてないので、結局はいつもと同じにしかならない、その中でドタバタするしかないのですが。
音楽を冷徹にジャーナリスティックに語るという意味では破綻しているかもしれませんが、小説的な(あるいは批評的な?)作法で音楽のことを書けないか、とぼんやりと思っています。「今、何が起こっているのか?」というニュース的な時事性で物事を切ることにしばらく前から興味が持てなくなってしまっているので(優れたレビューを書くブロゴスフィアの住人は数多くいます)。こうした機会をいただいた福田さんに感謝します。
Sweet Dreams' Current Topics
Sublime Frequencies produces music from Java Bali Sumatra Burma ...
客観的な記述を心がけつつも、エイヤッ!と俺節になってしまったので、『Sweet Dreams』を読むようなインディ・ロック好きな方にどう読まれるのかちょっと、いや、かなり心配です。
最近、音楽について書くということが対・社会的にどれほどのもんなのか考えてしまうと腰が引けてしまうのですが、この原稿を引き受けるに当たって、ひとつの胸に秘めた野望がありました(笑)。それは、「いまコレがキテるぜ!」的に周りやトレンドを意識せず(すいません、今まで意識しまくってました、いや、今も完全にシャットアウトなんて出来ないのだけれど)、たとえズレててもいいから、言葉の連なりによって何かをリスナーや読者に喚起させるような、そんなテキストを書きたいということです。元より不器用で、大した文章力や語彙力もなく、いろんな文体を書き分ける器用さも持ち合わせてないので、結局はいつもと同じにしかならない、その中でドタバタするしかないのですが。
音楽を冷徹にジャーナリスティックに語るという意味では破綻しているかもしれませんが、小説的な(あるいは批評的な?)作法で音楽のことを書けないか、とぼんやりと思っています。「今、何が起こっているのか?」というニュース的な時事性で物事を切ることにしばらく前から興味が持てなくなってしまっているので(優れたレビューを書くブロゴスフィアの住人は数多くいます)。こうした機会をいただいた福田さんに感謝します。
Sweet Dreams' Current Topics
Sublime Frequencies produces music from Java Bali Sumatra Burma ...
村上春樹のスピーチ
しばらくブログが書けない思考停止状態だったので、リハビリを兼ねて引っ掛かった話題について何かしら書いていこうと思う。
村上春樹のスピーチについて。とても良いスピーチだと思った。以前も書いたように、僕は彼の最新刊をフォローする熱心な読者でもなんでもないが、ある政治的態度を要請されるようなバッシングされやすい公的な場所において、小説家としての誠実な言葉を吐くという行為は素直に讃えられていいと思った。
このスピーチを批判するブログも読んだ。たしかに、「卵と壁」という比喩=メタファーは一見、わかりやすい二分法で、正義(弱者)と悪(強者)があたかも対立構造にあるかのようにとらえられてしまう可能性がある。実際、スピーチが掲載されたメディアに寄せられたイスラエルの読者からのコメントは、村上のスピーチに対する強い反発や違和感を表明している。それを読んで、僕は恐くなった。紛争のただ中にいる当事者の現場感覚からすれば、白か黒かを選ぶしかない状況で、曖昧な文学的比喩のオブラートでくるんだグレーの言説にいらだちを覚えることは想像できる。村上は、そのようなバッシングを当然予想していたはずだ。
彼は壁をハッキリと「システム」だと名指ししている。
その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。
ここを読めば、卵と壁が単純な二分法ではないことは了解できるだろうし、「システム」を環境管理型権カやアーキテクチャという今風の社会学の言葉に言い換えることも可能だろう。
「私はこの言葉に遠い昔に読んだブランショの一節を思い出した。何度目の引用になるかわからないけれど、その一節をもう一度引いておこう。
神を見た者は死ぬ。言葉の中で言葉に生命を与えたものは息絶える。言葉とはこの死の生命なのだ。それは「死をもたらし、死のうちで保たれる生命」なのだ。驚嘆すべき力。何かがそこにあった。そして、今はもうない。何かが消え去った。
(Maurice Blanchot, La Part du feu, Gallimard, 1949)
ブランショが「言葉に生命を与えたもの」と名づけたもの。言葉のうちに息絶えるもの。それを村上春樹はsoulと呼んでいるのだと私は思う」(内田樹の研究室)
この内田樹のエントリーを読んで(彼は村上の良き理解者なので、逆に反対の立場からの批評も読んでみたい)、まったく関係ないが、トマス・ピンチョンの『V』を思い出した。列車のコンパートメントでスパイが人工的、あるいは工学的に身体をいじっていることが明らかになる瞬間。もしかしたら、この場面は僕の記憶間違いで、短編集『スロー・ラーナー』に収められた『秘密裏に』の方だったかもしれない。
暗黙に歴史の舞台裏で粛々と暗殺を行い「死をもたらし、死のうちで保たれる生命」、人間であることを文字通り捨てた、システム=記号=言葉に帰依する者(あるいは物?)としてのありようが、わずか数行の文章からこちらに突きつけられて、大げさに言えば、身の毛がよだつような戦慄を味わった。SFで描かれるポピュラーなガジェットとしてのアンドロイドやセクサロイドやサイボーグには、通常、こちらをガチで揺さぶるようなこんな感覚は覚えないものだ。
村上の話に戻ると、彼の抽象的な小説がなぜ広く海外で流通したのか、このスピーチを読んで初めて腑に落ちた気がした。
「グローバリーゼーションによって「文化間の多様性」がある程度「破壊」されることで、「社会内部の多様性」が「創造」される。前者の損失を補って余りある文化の「創造的破壊」が出現する」(Economics Lovers Live)
ここで書かれているような文化的多元主義の状況が、村上春樹を評価したのだと思う。「ハルキ的グローカル」というエントリーでも書いたように、昔、僕は村上龍の方が春樹よりアグレッシヴだと若さゆえの過ちで思っていたが、そんな単純なハナシじゃない(当たり前か)。
【日本語全訳】村上春樹さん「エルサレム賞」授賞式講演全文 - 47トピックス
壁と卵 (内田樹の研究室)
壁と卵(つづき) (内田樹の研究室)
文化の創造的破壊 - Economics Lovers Live
村上春樹のスピーチについて。とても良いスピーチだと思った。以前も書いたように、僕は彼の最新刊をフォローする熱心な読者でもなんでもないが、ある政治的態度を要請されるようなバッシングされやすい公的な場所において、小説家としての誠実な言葉を吐くという行為は素直に讃えられていいと思った。
このスピーチを批判するブログも読んだ。たしかに、「卵と壁」という比喩=メタファーは一見、わかりやすい二分法で、正義(弱者)と悪(強者)があたかも対立構造にあるかのようにとらえられてしまう可能性がある。実際、スピーチが掲載されたメディアに寄せられたイスラエルの読者からのコメントは、村上のスピーチに対する強い反発や違和感を表明している。それを読んで、僕は恐くなった。紛争のただ中にいる当事者の現場感覚からすれば、白か黒かを選ぶしかない状況で、曖昧な文学的比喩のオブラートでくるんだグレーの言説にいらだちを覚えることは想像できる。村上は、そのようなバッシングを当然予想していたはずだ。
彼は壁をハッキリと「システム」だと名指ししている。
その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。
ここを読めば、卵と壁が単純な二分法ではないことは了解できるだろうし、「システム」を環境管理型権カやアーキテクチャという今風の社会学の言葉に言い換えることも可能だろう。
「私はこの言葉に遠い昔に読んだブランショの一節を思い出した。何度目の引用になるかわからないけれど、その一節をもう一度引いておこう。
神を見た者は死ぬ。言葉の中で言葉に生命を与えたものは息絶える。言葉とはこの死の生命なのだ。それは「死をもたらし、死のうちで保たれる生命」なのだ。驚嘆すべき力。何かがそこにあった。そして、今はもうない。何かが消え去った。
(Maurice Blanchot, La Part du feu, Gallimard, 1949)
ブランショが「言葉に生命を与えたもの」と名づけたもの。言葉のうちに息絶えるもの。それを村上春樹はsoulと呼んでいるのだと私は思う」(内田樹の研究室)
この内田樹のエントリーを読んで(彼は村上の良き理解者なので、逆に反対の立場からの批評も読んでみたい)、まったく関係ないが、トマス・ピンチョンの『V』を思い出した。列車のコンパートメントでスパイが人工的、あるいは工学的に身体をいじっていることが明らかになる瞬間。もしかしたら、この場面は僕の記憶間違いで、短編集『スロー・ラーナー』に収められた『秘密裏に』の方だったかもしれない。
暗黙に歴史の舞台裏で粛々と暗殺を行い「死をもたらし、死のうちで保たれる生命」、人間であることを文字通り捨てた、システム=記号=言葉に帰依する者(あるいは物?)としてのありようが、わずか数行の文章からこちらに突きつけられて、大げさに言えば、身の毛がよだつような戦慄を味わった。SFで描かれるポピュラーなガジェットとしてのアンドロイドやセクサロイドやサイボーグには、通常、こちらをガチで揺さぶるようなこんな感覚は覚えないものだ。
村上の話に戻ると、彼の抽象的な小説がなぜ広く海外で流通したのか、このスピーチを読んで初めて腑に落ちた気がした。
「グローバリーゼーションによって「文化間の多様性」がある程度「破壊」されることで、「社会内部の多様性」が「創造」される。前者の損失を補って余りある文化の「創造的破壊」が出現する」(Economics Lovers Live)
ここで書かれているような文化的多元主義の状況が、村上春樹を評価したのだと思う。「ハルキ的グローカル」というエントリーでも書いたように、昔、僕は村上龍の方が春樹よりアグレッシヴだと若さゆえの過ちで思っていたが、そんな単純なハナシじゃない(当たり前か)。
【日本語全訳】村上春樹さん「エルサレム賞」授賞式講演全文 - 47トピックス
壁と卵 (内田樹の研究室)
壁と卵(つづき) (内田樹の研究室)
文化の創造的破壊 - Economics Lovers Live