iPhoneを使い始めて、4ヶ月が過ぎた。
今まで持っていた携帯とは比較にならないほど生活に密着したデバイスになり、その結果、自分が重度の情報ジャンキーであることを再確認、そして、どうやらインターフェイス・マニアらしいということにも気づいた。
それまでは3年くらいNokia 6630(ボーダフォンの品番はV702NK)を使っていた。ノキアの優れたインターフェイスに感激し(ディスプレイではなくてボタンの配置と操作が考え抜かれている)、国内初のスマートフォンということもあって、Symbian OSのカスタマイズとインストールに明け暮れたことも懐かしい(しばらくすると熱が冷めて、初期状態に戻してしまったが)。キャリアとユーザーの評判が共に悪い機種で「正直オススメできませんね」と言われながらショップで購入した。そんな「出来の悪い子」ぶりも、気に入っていた理由だったかもしれない。いや、実際のところ、メール周りのバグには何度も泣かされたが、ガラパゴス携帯にはないグローバル携帯の風通しの良さを体感したものだった。
iPhoneとMacという2つの情報機器を行き来するようになって、リーダビリティやユーザーインターフェイスについて、以前より意識するようになった。小さい画面で限られた情報を表示するiPhoneに慣れると、新聞の折り込み広告みたいに1ページに情報を詰め込むパソコンのモニターがトゥーマッチで五月蝿く感じてくる。ニュースサイトやブログの記事インデックスや3ペイン構造すら苦痛だ。モニターの解像度を最大にしないと気が済まない人だったのに、この逆転現象はいかがなものか(単純に老化現象かも、笑)。
近い将来、モニターのサイズから割り出される情報量の最適解が、より自由度を高めた形でOSにプリインストールされるだろう。今のMac OS Xにも文字を大きく表示するユニバーサル・アクセスが標準でついているが、昨日リリースされたばかりのSafari 4には、文字だけではなく全体のレイアウトが拡大されるズーム機能が搭載されている。パソコンとケータイの中間形態のインターフェイスがこれから模索されていくと思うと楽しみだ。
iPhoneは、出来ることと出来ないことがハッキリしている。むしろ、こんなことも出来ないのかと思うことも多い。Nokia 6630はブルートゥースのファイル送信やテキストのコピペが実装されていたが、iPhoneにはその当たり前に思っていたことが出来ない。iPhoneはMacよりも不自由で、ガッチリとセキュリティが施されていて、キレイに舗装されているけど信号や進入禁止区域が多い道路を走ってる感じ。また、表面的なタッチ・インターフェイスの新奇さを除くと、すでにある枯れた技術を慎重に組み合わせた古風なマシンだと思えてくる。当時、Newtonを手に入れることは出来なかったけれど、iPhoneはNewtonの遺伝子を引き継いでいるハズ。
要望はある。ビューアーとしては優秀なiPhoneだが、これで長文を書く気にならないので、ポメラみたいな携帯用キーボードが出てきてほしい。OSの改善点としては、Mobile Safariのポートレート・モード固定と、ボタン配置のカスタマイズ(アップルの厳格なUI基準だと難しそうだが、右手/左手で操作ボタンを変えるアプリもすでにある)が可能になれば、他は今のところ不満はない。コピペがないのにも不思議と慣れてしまった。「マクドナルドの硬い椅子」じゃないが、iPhoneって良くも悪くも環境管理型権力を体感できるデバイスだと思う(笑)。
App Storeによって世界中に開かれた流通が確保されたのも大きい。RjDjの登場で思ったのが、iPhoneに最適化された音楽レーベルがこれから出てくるだろうということ。青空文庫リーダーの充実と売れ行きを見れば、文庫や新書や雑誌のレーベルもマーケットとして確実にありそう。現実問題、そんな生易しいもんじゃないだろうけれど、参入障壁が低い分、可能性があることは否めない。本職はFlasherで個人デベロッパーのfladdictさんのブログを読むと、その可能性を感じないではいられない。
ライヴァルであるグーグルのAndroid、伏兵だったPalm Preとインターフェイスの競争は激化しているので、その動向も気になる(数年後にiPhoneが存続しているかどうかなんて誰にもわからない)。が、なぜか、Sekai Cameraにはそれほど萌えない。『マイノリティ・レポート』的な世界観はディストピアだと刷り込まれているからか。
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