以前、渋谷FMでSOUND BUMの特番を作ったことがあります。そのSOUND BUMの主催者であり、『自分の仕事をつくる』という本の著者でもある西村佳哲さんから、ひさしぶりに近況メールをいただきました。『自分の仕事をつくる』の文庫版がちくま文庫から出版されたとのことです。
そのメールの中の言葉に感銘を受ける部分があったので、勝手ながら引用させてください(少し長いです)。昨日のエントリーで書いた村上春樹のスピーチに通じる話でもあると思います。
以下、引用文。
先日、ソダーバーグの「チェ」二部作を見ました。
とくに後編の「39歳・別れの手紙」ですか。あれは感じ入るものがあった。
闘わざるを得ない負け戦、の話。
中学生の時に萩尾望都の、というか光瀬龍の
「100億の昼・千億の夜」を読んで以来、
自分たちを上回るスケールを持つ力や意図を前にして、
どう在ればいいのか、ずっと考えています。
そのことが「自分の仕事をつくる」という本のことと重なっていて、
いったい「自分の仕事」ということが、
この世の中でどれぐらい可能なんだろう…ということを、考えてしまう自分がいる。
ゲド戦記の作者ル・グィンは、近年「西のはての年代記」という三部作を書いていた。
完結編のタイトルは「パワー(powers)」でした。
グィンはある登場人物を通じて、こんなことを語っている。
「きみをつかみ、操り、おさえつける主人の手。
どんな力をきみが持っていても、
それはきみを通して働く彼らの力にほかならない」
ゴアが「不都合な真実」をひっさげて再登場した時、嫌なものを感じた。
なぜみんな信じるのだろう。(みんなではないが)
いや実は信じていないけど、とりあえずその話にのる…という感じなんだろうか。
自分のまわりには、環境とか、公平性とか、持続可能な社会づくりとか、
そりゃ確かに大事だよねと思える社会的課題に、
生涯をかけて取り組んでいる人が多々いるのだが、
勝ち目のない負け戦に取り組んでいる、
ないしなんらかの力・なんらかの構造によって取り組まされている
(そのことでエネルギーを消費させられている)
ように感じられる側面はないだろうか。私見というか、極めて個人的な感覚ですけど。
一所懸命な彼らに、嫌味なんぞ言いたくないし、
どこかで仕入れた陰謀論をご披露したくもない。
しかし、勝ち目のない負け戦に人を誘う罪深さ、
というかしょうもなさは、
俺の書いている本にも、ありはしないだろうか?
あるいは、大学で学生たちと交わしている言葉の中にも。
僕らには「働いている」という側面と、「働かされている」という側面がある。
上司にとか会社に…という話ではなく、
その会社もさらになにかに「働かされ」ており、
さらに国も「働かされ」ているという構造があるように思う。
仕事というのは、自分の課題と社会の課題の間にあるものだから、
完全に純粋な主体性や、自動性だけでドライブするものではないでしょう。
けど、それにしても、
どこか不自然に、必要以上に「働かされ」ている私たちがいる感じがしていて、
本件に関しましては、まだなんのオチもないのです。
西村佳哲
2009/2/24
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