2009/02/24

村上春樹のスピーチ

しばらくブログが書けない思考停止状態だったので、リハビリを兼ねて引っ掛かった話題について何かしら書いていこうと思う。


村上春樹のスピーチについて。とても良いスピーチだと思った。以前も書いたように、僕は彼の最新刊をフォローする熱心な読者でもなんでもないが、ある政治的態度を要請されるようなバッシングされやすい公的な場所において、小説家としての誠実な言葉を吐くという行為は素直に讃えられていいと思った。

このスピーチを批判するブログも読んだ。たしかに、「卵と壁」という比喩=メタファーは一見、わかりやすい二分法で、正義(弱者)と悪(強者)があたかも対立構造にあるかのようにとらえられてしまう可能性がある。実際、スピーチが掲載されたメディアに寄せられたイスラエルの読者からのコメントは、村上のスピーチに対する強い反発や違和感を表明している。それを読んで、僕は恐くなった。紛争のただ中にいる当事者の現場感覚からすれば、白か黒かを選ぶしかない状況で、曖昧な文学的比喩のオブラートでくるんだグレーの言説にいらだちを覚えることは想像できる。村上は、そのようなバッシングを当然予想していたはずだ。

彼は壁をハッキリと「システム」だと名指ししている。

その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。

ここを読めば、卵と壁が単純な二分法ではないことは了解できるだろうし、「システム」を環境管理型権カやアーキテクチャという今風の社会学の言葉に言い換えることも可能だろう。


「私はこの言葉に遠い昔に読んだブランショの一節を思い出した。何度目の引用になるかわからないけれど、その一節をもう一度引いておこう。

神を見た者は死ぬ。言葉の中で言葉に生命を与えたものは息絶える。言葉とはこの死の生命なのだ。それは「死をもたらし、死のうちで保たれる生命」なのだ。驚嘆すべき力。何かがそこにあった。そして、今はもうない。何かが消え去った。
(Maurice Blanchot, La Part du feu, Gallimard, 1949)

ブランショが「言葉に生命を与えたもの」と名づけたもの。言葉のうちに息絶えるもの。それを村上春樹はsoulと呼んでいるのだと私は思う」(内田樹の研究室)

この内田樹のエントリーを読んで(彼は村上の良き理解者なので、逆に反対の立場からの批評も読んでみたい)、まったく関係ないが、トマス・ピンチョンの『V』を思い出した。列車のコンパートメントでスパイが人工的、あるいは工学的に身体をいじっていることが明らかになる瞬間。もしかしたら、この場面は僕の記憶間違いで、短編集『スロー・ラーナー』に収められた『秘密裏に』の方だったかもしれない。

暗黙に歴史の舞台裏で粛々と暗殺を行い「死をもたらし、死のうちで保たれる生命」、人間であることを文字通り捨てた、システム=記号=言葉に帰依する者(あるいは物?)としてのありようが、わずか数行の文章からこちらに突きつけられて、大げさに言えば、身の毛がよだつような戦慄を味わった。SFで描かれるポピュラーなガジェットとしてのアンドロイドやセクサロイドやサイボーグには、通常、こちらをガチで揺さぶるようなこんな感覚は覚えないものだ。

村上の話に戻ると、彼の抽象的な小説がなぜ広く海外で流通したのか、このスピーチを読んで初めて腑に落ちた気がした。

「グローバリーゼーションによって「文化間の多様性」がある程度「破壊」されることで、「社会内部の多様性」が「創造」される。前者の損失を補って余りある文化の「創造的破壊」が出現する」(Economics Lovers Live)

ここで書かれているような文化的多元主義の状況が、村上春樹を評価したのだと思う。「ハルキ的グローカル」というエントリーでも書いたように、昔、僕は村上龍の方が春樹よりアグレッシヴだと若さゆえの過ちで思っていたが、そんな単純なハナシじゃない(当たり前か)。

【日本語全訳】村上春樹さん「エルサレム賞」授賞式講演全文 - 47トピックス
壁と卵 (内田樹の研究室)
壁と卵(つづき) (内田樹の研究室)
文化の創造的破壊 - Economics Lovers Live

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