2008/10/02

2004年のアニメの立ち位置

「スカイ・クロラ」を観た。思い起こせば、2004年。「ハウルの動く城」と「イノセンス」と「スチームボーイ」が同じ年に公開され、僕は3本とも映画館で観ている。以下、「スカイ・クロラ」とはまったく関係のない妄言をつらつらと書いてみる。

まったくベクトルも作風も異なるこの3作が、表現と内容との著しい解離において驚くほど似ていたことに、僕は当時ある種の感慨を覚えた。まぁ平たく言うと、失望しちゃったわけである。それなりに宮崎・押井・大友を追いかけてきた者としては、こりゃマズイんじゃないかと(「じゃあ、お前がやれるの?」と言われれば、返す言葉もないが)。これは、作品が面白いかつまんないかというのとは別次元の話だ(個人的な面白さで言えば、「ハウル」>>>「イノセンス」>>>>>>>>>>「スチームボーイ」)。

監督自身が脚本を書いた「ハウル」と「イノセンス」、監督の書いた脚本に後から脚本家がテコ入れした「スチームボーイ」。非凡なアニメーターであり絵描きが作った右脳派の「ハウル」と「スチームボーイ」、絵を描けない演出家が作った左脳派の「イノセンス」。細かな違いはあるが、どれも映像表現の精度が際立って高いために、観客に訴求するためのストーリーや脚本といった物語の骨格、土台がおざなりにされていて、両者のバランスの悪さが気になった。肝心のお話がスッポ抜けていて、映像が空回りしている気がしたのだ。

商品として流通させるために精緻なリアリズム表現を突き詰めていった結果、万人が楽しめるという意味での通俗的なアニメーションとしてはもはや破綻してしまっているというか。これは作家の力量の問題もあるが、それよりも、爛熟期を迎えた日本のアニメーションが巨大産業となったことの弊害であり、そのイビツな進化がポストモダンと呼ばれるような状況に対応しているという好意的な見方もできると思う。

日本の携帯産業が国内の需要に最適化されたために特殊な進化を遂げ、挙げ句、海外の動向に乗り遅れてしまい、「日本のケータイはガラパゴスだ」と揶揄される話に一脈通じる。これはコインの表裏でもあって、閉鎖的な島国だからイビツで偏った面白いカルチャーが生まれたのも事実であり、唐突かもしれないが、ジャマイカというカリブの小国で生まれたレゲエがポピュラー音楽の世界でいまだに強い影響力を持ち、特異なポジションを占めていることも参考になるかも。

ダンスホールはゼロ年代の音楽市場において最も繁殖力のあるウイルスであり、今のヒットチャートを占めるヒップホップやR&Bはソレなしには語れない。ダンスホール=レゲエとアニメーション=オタクカルチャーは一見、水と油の関係のようだが、「動物化」という一点において重なり合うと思う。

カルトな押井や大友はともかく、より人口に膾炙する作品を連打してきた宮崎駿は普遍的な物語の担い手として世界的に評価が高いという意見もあるだろう(何年か前の「Time」誌がトヨタ社長と宮崎を「世界で最も影響力のある100人」に選んでいたのも記憶に新しい)。しかし、僕が知る限り、ベルリン国際映画祭で金熊賞を取り、アカデミー賞の長編アニメーション部門で受賞した「千と千尋の神隠し」は別格として、「ハウル」も「ポニョ」も海外で手放しに大絶賛されているわけではない気がするのだけど(参考までに)。

この国のアニメーション作家は、ヨーロッパへの憧憬やコンプレックスをバネに作品世界を構築してきた節がある。宮崎の原点のひとつはフランスのアニメ映画「王と鳥(旧題:やぶにらみの暴君)」だし、押井は「ブレードランナー」と共にゴダールの影響を公言しているし、宮崎と大友はバンド・デシネを代表するメビウスからのインスピレーションを隠さない。つまり、もともと地勢図的にはハリウッド・システムにはアンチを唱える出自を持ち、ハリウッドが量産してきた安っぽい物語や話法には与しない立場である。

だから、ヨーロッパへの憧憬を完全に消化し、日本に由来する様々なリソースをすくい上げてオリジナルの物語に抽出した「千と千尋の神隠し」が高く評価されるのはよくわかる(個人的にも「ポニョ」より傑作だと思う)。逆に、汎ヨーロッパ世界を描く「ハウル」にしろ、東欧と中国がミックスされたようなチャイニーズ・ゴシックな無国籍都市を舞台に設定した「イノセンス」にしろ、19世紀の万博博覧会をモチーフにした「スチームボーイ」にしろ、作り手がヨーロッパ人ではないのだから精緻なリアリズムにこだわるほどヨーロッパ的意匠はどこか借り物で地に足が着いていないように見えてしまうのではないだろうか。

これもアニメーションが世界市場に流通し、大人が鑑賞するゲージツ作品となったことで引き受けざるを得ないハードルや課題だ。今後、日本のアニメーションがもっと国際競争力をつけて世界市場でサバイヴしていくためには、映像表現だけがイビツに突出するのではなく、表現に拮抗するだけの説得力ある脚本やプロットやストーリーが必要になってくると思う。アニメに限らず、日本という土壌に生まれた表現が抱える問題の根深さもその辺に潜んでいる気がする。

日本のアニメーションはカルトとメインストリームの間にあるという意味で「閉じている」と思う。「このまま閉じたままやっていけばいいじゃん!」でもいいだろうし(それは決して間違いじゃない)、「開いていって、で、そこからどうするの?」ということでもある。半世紀も前に作られた黒澤明や小津の映画は、なぜあんなに閉じていながら同時に世界に開かれていたのだろう。たぶん、経済や社会状況が大きく絡んでいるのだが、今の僕に明快な答えはない。(以上、書きっぱなしの失言、多々あり)

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