2008/10/25

批評チャンプルー

10.19に行われた早稲田文学十時間連続公開シンポジウムがニコニコ動画にアップされていた(「早稲田文学」で検索するとすぐ見つかる、映像はなく音声のみ)。ヒマを持て余していたせいか、始めから通して全部聞いてしまった(笑)。メンツが豪華。文芸方面に疎い僕にもそれぞれの立ち位置や問題意識が垣間見えて、勉強になった。

まぁ、対談とかこの手のシンポジウムというのは、どうやったってパフォーマティヴにならざるを得ないので、そうした「場」というか「磁場」の形成も含めて、活字では伺い知れない生々しさを感じ取れたのは面白かった。活躍してる人は声に力があるんだなーという素朴な感想を持ったし。大森望、中森明夫、福田和也、御三方の声を聞いたのは初めて。

福田和也が丹田に力が入ったドッシリとした存在感を感じさせる声なのに対し、東浩紀や阿部和重はキンキンしていて金属質の声だ。これは世代的なものもあると思う。大澤真幸は思っていたより柔らかいソフトな話し方で、シャープな批評家然とした東浩紀と対照的。

以下、個人的に一番面白かったポッド2のテキトーなメモ+自分の感想。後半はうとうと寝ちゃったりしたので。


新城カズマ。ライトノベルはカラオケの普及に似ている。数年前は三人称が主流だったのが、最近は一人称のライトノベルが増えている。

ライトノベルを一冊も読んでなくてケータイ小説を一冊流し読みしただけの僕が言う権利もないのだが、ケータイや日記サイトやブログやカラオケやニコ動やユーチューブといった新しいツールによって、スーパー読者やスーパーユーザーが誕生し、受け手と作り手の間、二次創作と一次創作との線引きがどんどん消えていってるのは、今更ながら当たり前の光景としてあるということ。

東浩紀。空想系男子とリアル系女子という分け方が可能(男子が好むのがライトノベルやミステリー、女子が好むのがケータイ小説)。すごくウソとすごくホントの両極になっている。

昔からこの住み分けはあると思う。

渡部直己。彼は夏目漱石やヌーボーロマンを引き合いに出して近代小説イコール「描写」なのだと言い(ここでいう「描写」は東の「自然主義的リアリズム」とほぼ同じことだと渡辺は補足している)、最近の小説には「描写」がなくなって「語り」しかないと言う。近代小説が見出した「描写」の困難や可能性を今の小説に見出せない。(小説を読んで感動して小説を書きたいとかではなく)小説を読んで何らかのアクションを起こすという、その人の人生を変えうるような事件性が小説の可能性なのではないか。東浩紀は、それに対して、当時は前衛だった「描写」(や小説中の人称の変化)が今では普通になっていると指摘。

ここで話がズレるのだけれど、最近、僕はあるカルチャー雑誌で、蓮實重彦と黒沢清と青山真治の対談を興味深く読んだ。

蓮實重彦はそこで「ショット」という言葉を何度も使い、最近の映画は「ショット」が失われつつある傾向にあり、黒沢清の最新作「トウキョウソナタ」は、「ショット」の映画を作る力のある(あるいは、作ってきた)黒沢が「ショット」を抑制して作った映画だと指摘している。蓮實重彦や彼の門下生である黒沢と青山の間では「ショット」を巡る映画の言説に対する共通認識があるが、彼らはその共通認識が世界的にも理解者の少ない、狭い仲間内の言葉=ジャーゴンであることを認めている。

映画における「ショット」と小説における「描写」というのは、ほとんど同じことを指していると思う(僕の誤解や曲解でなければ・・)。渡部直己の言う「描写」は視覚的なものに由来すると、シンポジウムでも誰かが指摘していたし、渡部は蓮實重彦に影響を受けているから当然といえば当然か。

で、僕は僕なりに彼らの言う「ショット」や「描写」のコダワリはすごくよくワカる気がする。音楽の話に持っていくと、メロディやリズムやハーモニーといったストラクチャーの部分ではなく、テクスチャーとか質感とかアトモスフィアとか細部のディティールで楽しむことにも通じると思う。

音楽をメロディやリズムやハーモニーに分解してしまえば、ほとんどすべての音楽が類型的でありきたりの記号的な貧しいものになってしまうだろう(そういえば、J-POPのコード進行はひとつだという話がこのところブログ界隈で盛り上がっている、ちゃんと読んでないけど)。例えば、ブレイクビーツひとつとっても、ジェイ・ディーやマッドリブの作るブレイクビーツは明らかに他のトラックメイカーとは雲泥の差がある。ストラクチャーに回収されない豊かさがある。

「ショット」や「描写」のない映画や小説は貧しくてやせ細ったものに映るかもしれない。しかし、こうした見方も結局は、ある時代のカルチャーが要請したパースペクティヴ=視点に過ぎないのかもしれない。蓮實重彦らが対談で言っていたように、「ショット」を巡る言説はある種のフィクションであり、そのフィクションを共有しない人々からすれば、何の意味もない。「ショット」や「描写」のない映画や小説が増えているという現実をどう受け止めるかということが問題であって、その現実を否定してしまっては話が始まらない。

抽象的な話はともかく、渡辺直己が舞城王太郎や佐藤友哉の「1000の小説とバックベアード」や高橋源一郎を認めないというのはよくわかった。「高橋源一郎を殺すために批評をやっている」という剣呑な発言もあり、それに対して、池田雄一が「高橋源一郎はもはや作家はキャラクターとしてしか成り立たないことをわかっていて、(あえて戦略的に)作家というキャラクターを演じている」などと言っていた。だから、高橋が中原昌也に賞をあげたのは筋が通っていると。権威をもたらす装置として作家を演じることが作家を生き延びさせるというか、単純に作家の市場価値ってナニ?という問題設定でもある。

大森望は舞城の最新長編「ディスコ探偵水曜日」を「どうでもいいウソを突き詰めたドンキホーテ的な壮大さ」と高く評価していたので、「書いてて上機嫌なんでしょう」と舞城を批判する渡辺と、もう少し突っ込んだ対決を聞きたかった。渡辺は、苦しんで呻吟しながら「描写」の困難に立ち向かう昔ながらの小説家のイメージにこだわっているのだろう。文体の表面的な明るさや暗さが与える印象はともかく、ごくごく一般的な話として、小説を書くという仕事の困難さや大変さ、物理的な作業量のハードさは昔も今も同じだと思うのだが。東浩紀と渡辺直己がそれぞれ擁護するものが対立構造になっていて、そうした状況を客観的に語る大森望という構図だったような。

この後のポッド3で、豊崎由美が「批評と書評の違いは書評がネタばらしをしないことにある」と言っていたのも興味深かった。書評というかレビューは出版産業のベルトコンベアに組み込まれているので、基本はホメるしかない(ネタばらしは厳禁)。読者の興を殺ぐようなことができない仕組みになっている。ポッド2で、福田和也が日本の文芸批評は後進国ならではの発展の仕方をしていて、欧米のようなレビューのテクスチャーとしての厚みはない(どっちが良い悪いという問題ではない)と言っていた。これからは古典芸能としてのプロのレビューか、東浩紀の言うアマゾンのレビューすら必要じゃなくなって友達同士のレコメンドがネット上で趨勢になるという状況か、どちらかに二極化するのだろう。

大森望が言っていたように、こうしたシンポジウムで交わされる批評的な言葉と東野圭吾や「あたし彼女」のようなポピュラーな作品との解離はやはり大きな問題で、インテリあるいは文芸誌や批評と大衆小説との断絶という昔ながらの構図に収まってしまいがち。それはどちらにとっても不幸だなぁと思う。だから、東浩紀が批評のマーケットは小さいから、自分の本より何十倍も売れる作家や作品を相手にすべきだと言うのはよくわかるし、彼の抱く危機感が批評を書くことだけではなく、別のパフォーマンスに向かわせているのも理解できるのだが。

全部聴いてみてとても面白かったけれど、批評をやることの困難さも改めて感じた。どんなジャンルでも、生の現場につきあわないことには何もわからないなと思う。

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