ジェームズ・キャメロン監督の「アバター」を川崎のIMAXシアターで観ました。(以下、全面ネタバレ)
前後に、ぼんやりした記憶しか残ってない「ターミネーター」と「ターミネーター2」、初見の「エイリアン2」を観て、処女作と未だに観る気が起きない「タイタニック」を除き、おおよそキャメロンの過去作を観た素朴な感想としては、この人は「B級の一流」なんだな、です。
Bムーヴィーの帝王、ロジャー・コーマンの下でキャリアをスタートという出自もそうだし、レイ・ハリーハウゼンばりの安っぽいストップモーション・アニメでロボットがしつこく襲ってくる「ターミネーター」ラストのチェイスは、低予算ならではの限定された条件・状況下において、ショックとカタルシスを観客からいかに絞り出すかという、エンタメの極意が過不足なく駆動したシーンとして脳裏に刻まれています。
多くのB級映画の傾向がそうであるように、キャメロンもブルーカラーの労働者を描くことを好み、ホワイトカラーには無頓着というか冷たく、また、白人至上主義の無自覚な露呈も見受けられます。「ターミネーター」の主要人物は白人のみだし、サラ・コナーはダイナーでウェイトレスとして働く承認欲求を抱えた女の子、「テクノアール」という80年代ニューウェイヴな混血音楽の匂いを漂わせる名前のクラブでかかってる音楽は黒人ディスコやジャングルビートなどではなく、ビルボードチャート系の軽めのダンスロック。ちなみに、サラ・コナーの女友達が持つウォークマンが当時の世相を表す享楽主義、物質主義のアイコンとしてうまく機能しています(いかにもホラー/サスペンスの定石っぽい小道具使いですが)。
「ターミネーター2」では、暗澹たる未来社会を支配するスカイネットを生み出す直接の因子であるダイソンは、富裕層に属する黒人のコンピュータ技術者でした。彼とその家族は物語のキーを握る重要な存在でありながら、かなり邪険に扱われていて、ダイソンはサラ・コナーから頭脳労働者であることを罵られさえします。家族想いの善人の技術者が自身の研究に没頭するあまり、人類の最悪の未来を意図せず作り出したというアイロニーを描きたいのだろうと脳内補完できますが、ダイソンは影の薄い脇役としてあっけない最期を遂げ、物語内でサルベージされることはありません。
「エイリアン2」においても、海兵隊の中で唯一の黒人は葉巻を吸う単細胞なリーダーとしてステレオタイプ的に描かれ、真っ先にエイリアンに殺されてしまいます。シガニー・ウィーバー演じるリプリーは、前作と異なり、サラ・コナーやマザーエイリアンと同じく、生存本能と母性原理により行動するマッチョで力強い女性として書き換えられています。パワーローダーに乗ったリプリーとマザーエイリアンがプロレスするという一見して間抜けな絵ヅラは、1/4スケールと実物大ショットのモンタージュによるアナログな力技によって、いま観ても映像的快楽をはらんでいます。マザーエイリアンに足をつかまれたリプリーという危機一髪の場面でリプリーのブーツが脱げて(!)エイリアンが宇宙に放下されるというのもB級の味わい。
まぁ細かいツッコミはいくらでも出来ますが、キレイに刈り込まれ整理された人物設定とプロット、お約束の物語を長丁場でキッチリ盛り上げまとめ上げるオーソドックスな演出手腕こそが、キャメロンの真骨頂なんだと思います(監督の趣味である海洋世界にアプローチした「アビス」は冗長でしたが)。
「アバター」は3D技術を新たなドル箱たらしめるためにハリウッドが資金投入したデモンストレーション映画でもあるので、ぶどう酒を新しい皮袋に入れるために、ぶどう酒自体は昔ながらのストーリーテリングに準じていて、冒険はしていません。キャメロンがスマートかつ狡猾だなぁと思うのは、異世界=ニューワールドの資源を略奪しようとする企業や海兵隊の存在など、出世作である「エイリアン2」の設定をソックリそのまま「アバター」に持ってきて、白人が主導権を握る人類側ではなく、アフリカンとインディアンを足して2で割ったようなルックで有色人種のメタファーであるナヴィ側に観客が共感できるように、エイリアンと人類の配置を反転させ、自身の過去作が持っていたマーケティング的にマズいであろう白人至上主義を払拭し、グローバリズム/マルチ・エスニシティな社会に対応したところだと思います(2010年代の現在であっても、超国家・超法規的存在を体現するのが一企業であるというのはちょっと短絡的で想像力が足りない気はしますよね・・)。
それは、近代兵器を持った人類が近代兵器を持たないエイリアンに駆逐される「エイリアン2」から、近代兵器を持った人類が近代兵器を持たないナヴィを駆逐する「アバター」へ、という転換も意味します。また、ホワイトカラーを貶めるという愚を犯さず、アバターの技術を持つ科学者チームを物語の中心に据え、そのトップであるグレイス博士にリプリーまんまの容姿と性格を持つシガニー・ウィーバーを持ってくるという用意周到さ。海兵隊出身の主人公ジェイクはブルーカラーであると同時に下半身不随の身体障害者で、冒頭でアバター使いの優秀な科学者だった兄が死に、その身代わりとして彼が惑星パンドラに派遣されることがわかります。彼は二重の意味でアバター=分身なのです(兄の遺体が入った棺のショットと、ジェイクがアバターと接続するマシンのショットが 同じ構図であることからも、それは伺えます)。「エイリアン2」でも、地球に残してきたリプリーの娘はすでに死んでいて、リプリーはエイリアンの惑星で生き残った少女ニュートに娘の不在を埋めるように感情同調していく過程がストーリーの要になっていました。違うのは、ジェイクは兄が使っていたアバターと即座に何の齟齬もなく同期することで、兄より劣っているというトラウマ克服は工学的にいとも簡単に成し遂げられてしまいます。
町山智浩は「アバター」の人物造形を「浅い」「子供っぽい」と評してます。たしかに類型的でゲーム的なキャラクターばかりなのですが、上記で挙げたように、「アバター」では「エイリアン2」のモチーフやキャラクター設定が反復され反転して、商品として時代の要請にフィットするために巧妙な操作が仕組まれています。ジェイクと兄のエピソードが示すように、キャメロンは、キャラクター同士の関係性の変化をプロセスとしてじっくり描くことに今回ほとんど注力していないと思います。ジェイクとネイティリの恋愛も、ジェイクが二転三転しつつもナヴィに受け入れられる下りも、他者とのコミュニケーションの困難とその超克といった方向には行かず、アッサリと成立してしまう(それぞれの理由づけは物語内でちゃんと説明されています)。
敵としてのターミネーターやエイリアンがコミュニケーション自体を拒否する圧倒的な他者だったのに対し、ナヴィはアバターで簡単にアクセスできるコミュニケーション容易な亜人類であり、越境や超克という厳しいドラマはここでは主題ではなくなります。キャラクターの関係性として例外的なのは、グレイス博士がジェイクのために作る食事の皿が何度も登場することで、ジェイクがナヴィの世界に没入していく過程と、彼の代理母的存在であるグレイス博士との間に次第に家族愛が芽生える過程が、同時進行で描かれます。ジェイクとナヴィとの関係では食事をすることで絆を深めるというシーンがほとんどないので、これはキャメロンによる母性愛信仰の告白のようにも見えてしまいます。グレイスの死によって人類側の保護者を失ったジェイクは、ナヴィとして生きることを選択します。
観客にストレスフリーに感情移入できるようキャラクターを単純化/様式化する代わりに、キャメロンは異世界のヴィジュアライゼーションに膨大なリソースを割いています。森や空に浮かぶ島々を移動する、歩く、走る、上る、下る、飛ぶといったアクションと共に風景が3DCGとして刻々と展開されていく稠密な情報量は、量がある水準を超えると質に転換するということを実感させます。CGを全面的に取り入れたSF映画として先行する「スター・ウォーズ エピソード1/2/3」でも、風景がメインに映る俯瞰のパンショットはほんの数秒、残りの大半のパートは人物+セットにCGがハメこまれるという平面的で書き割り的なレイアウトだったので、ここまで異世界の中に「いる」ことを体感させる映画は初めてかもしれません。「WETAってILM超えちゃったなー」って思ったりも。
あとは、宮崎駿のエレメントの咀嚼も目立ちます。ジェイクがナヴィの通過儀礼としてパンドラの鳥類イクランの巣を訪ねる一連のシーンに顕著ですが、キャメロンの過去作ではあまりなかった、高さを意識したタテの空間設計に特に宮崎を感じました(どうでもいいですが、最後の方でデイダラボッチを出してくるかなと思いましたが、さすがに出ませんでしたね・・)。パワードスーツは「エイリアン2」に続き今回も登場してますが、「SFマガジン」のインタビューで、キャメロンがSF作家の中ではロバート・A・ハインラインが一番好きだ!と言ってたので、なるほど。とはいえ、ハインラインの「宇宙の戦士」を下世話な悪夢としてリファインしたポール・バーホーベンの「スターシップ・トゥルーパーズ」と違い、キャメロンはバーホーベンほどバカに振り切れない優等生っぷりで、しかし、ウェルメイドなファンタジーに魅力的な記号を整然と散りばめ、伏線を回収していく手つきは大したものだと思います。
ジェイクがアバターとして生きることを選ぶという、「行きて帰りし物語」ではなく行きっぱなしで終わるというラストは、ハッピーエンドのようでそうではないというか、半身不随で生きる現実を捨てて、自由に幸福に生きられるもうひとつの現実、我々観客からすればゲーム内仮想現実にも見える世界に没入することを選択するわけで、夢から醒めないことをあえて選ぶというバッドエンドにも感じました。これがインテリのコッポラなら、ジャングルの「闇の奥」で自分探しに奮闘した挙げ句、自分が何者でもないこと、越境して自分の王国を構築するという高踏的で審美主義的なふるまいがいかに醜い自己欺瞞に過ぎないのかということを3時間かけて発見するわけですが、B級出身で大衆映画の権化であるキャメロンはそんな優雅なエリートの自分探しなんてコストかかるしキツくてやってらんないよと。だったら安全で洗練された居心地いい虚構空間を作って自由を満喫したり自己実現すればいいのであって、でもその没入にもそれなりに危険は伴うし、帰ってこれないこともあるからアットユアオウンリスクでよろしく。「そんなのヌルいじゃん!SF映画の本格を目指すならキツくても他者を描けよ!」って思う人は、春公開の「ディストリクト9(邦題:第9地区)」を観るべきかもしれませんね。
・・・ということで、4千字超えちゃって「何やってんだろ俺」状態になってますが、「B級の一流」キャメロンによる異世界観光映画としての濃度はたしかにあった、というのが今回の結論です。
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