2009/11/27

ウォーリーとハーレクイン・ロマンス

映画『ウォーリー(Wall・E)』を観ました。

たまたま、速水健朗さんのレクチャー、「ケータイ小説的郊外」@横浜に参加したあとに観たのですが、このレクチャー前半のハイライトだったハーレクイン・ロマンスの話が頭の片隅にあったせいか、『ウォーリー』をハーレクイン・ロマンスの男性主人公&ロボット・ヴァージョンとして観てしまいました。

速水さんは、ハーレクイン・ロマンスのポイントとして、

・階級上昇を巡る物語(シンデレラ・パターンで、主人公は庶民、もしくは上流階級に近い庶民という設定)
・旅行とワンセット(ハーレクイン・ロマンスは、駅や空港で販売されている)
・主人公の相手役は外国人であることが多い(アラブ系、ラテン系が人気)

この3つがあると指摘しています。特に3番目の相手役に関して、もはや人間ですらない宇宙人や吸血鬼をフィーチャーしたパラノーマルと呼ばれるジャンルが現在人気が高く、パラノーマルはそのまま『ウォーリー』に適用できるように思いました。

『ウォーリー』のストーリーを一言で言い表すと、「ゴミ処理を生業とする無骨なブルーカラーの男の子が、高度で洗練されたテクノロジーの申し子であるホワイトカラーの女の子に恋する話」です。

相手役のロボット、イヴが宇宙船に乗って地球にやってくるところは、「空から女の子が落ちてくる」パターンの変型とも言えるし、主人公のウォーリーがイヴを連れ去る宇宙船にくっついて宇宙旅行することも含め、上に書いたハーレクイン・ロマンスのポイントにピタリと当てはまります。

ハーレクイン・ロマンスの核には、オリエンタリズムやポスト・コロニアルな世界認識、文明の衝突がある、と言う速水さんの指摘に添うと、『ウォーリー』にも一見、そのような文明の衝突があるように見えます。草木の生えない砂漠とゴミで埋もれた廃墟と化した地球、そこから逃亡した人類が巨大宇宙船内に作り上げたコクーンのようなハイテク都市、その都市で暮らす内に肥満化した怠惰な人類。

ネタバレすると、地球をスクラップにしたのも、宇宙船を建造して人類のゆりかご状態を作ったのも、BnL社(Buy n Large社)という国家を超越したグローバル企業であり、対立してるかに見えた2つの文明は元を正すと同じものであることが、物語が進むにつれ、わかります。エンド・クレジットの後にBnL社のロゴが映るので、この映画をスポンサードしてるのもBnL社だった、というオチ。

この設定は、子供向けのファミリー・ピクチャーとして物語を単純化するという側面も当然ありつつ(なぜ地球がゴミ屋敷になったのか?BnL社とは?ウォーリーはどうして一人だけ生き残ったのか?というような説明は一切なく)、エコロジー礼賛、テクノロジー批判、グローバリズムへの皮肉というこの映画の割と安直と言えなくもない、わかりやすいメッセージの称揚につながっています。

ハーレクイン・ロマンスでは、西洋から見た東洋(アラブ含む)やニューワールドが美化され、ここにはないどこか遠くへの憧れがロマンスの駆動力になります。『ウォーリー』ではこの図式が反転し、ニューワールドにたどり着くと、そこはグローバル市場主義が行き詰まった西洋社会そのもので、テクノロジーと医療システムで生き長らえる人類は退屈な毎日を無為な消費と享楽で過ごすばかり。伊藤計劃の『ハーモニー』の世界観を思い出しました。

ロマンスの舞台となるべき場所が絵に描いたようなディストピア未来社会なので(実際、人類同士のロマンスが芽生えにくいという描写もあり)、東洋に行ったハズが西洋だったという同じ穴のムジナ状態で、文明の衝突もほとんど起きない。このままではロマンスとして面白くならないところを、ピクサーらしいドタバタ・アクションでカバーし、ドタバタの中で仲間ができたり次第に恋が芽生える過程をソツなく描いています。

個人的には、この後半より、前半の地球編の方が面白かったです。最近のVFXでドーピングしたハリウッド映画にありがちな目まぐるしい視点移動ではなく、冒頭の俯瞰ショットをはじめ廃墟や瓦礫の山を移動する米粒のようなウォーリーをとらえたロングショットを多用していて、古典的なフィルムの作法を精密なCGの絵でシミュレートしたような静かな高揚がありました。ほぼ会話のないサイレント映画で、廃墟にサッチモの「ラ・ヴィアン・ローズ」が響いたりする前半を1時間半の映画に引き延ばしたらよかったのに。そうするとディズニー的なエンタメとしては成立しなくなるか。

ウォーリーはE.T.にソックリで、『E.T.』は地球人の子供が宇宙人と友達になる話、こちらは地球人のロボットが宇宙人のロボットと恋に落ちる話、なぜ、友愛じゃなくて恋愛なのだろう?と考えると、ウォーリーが階級差にも関わらず、一目惚れの片思い状態でイヴに猪突猛進のアプローチをかけるという無茶ぶりがあるから物語が進むので、友愛ベースだと旅の途中で友達を作って聖杯探求に出かけるという王道パターンにしないと、たぶん転がっていかない。シンプルなボーイ・ミーツ・ガールでハーレクイン・ロマンス路線で正解だったと。あと、『E.T.』は地球人の子供がE.T.の保護者的存在だったのが、こちらはウォーリーより高性能で高知能のイヴがウォーリーの保護者的存在になっていて、そこも主客が逆転しているように思います。

気になったのは、ウォーリーと人間の質感の違い。ウォーリーは細密でリアリスティックなCGなのに、人間はいつものピクサー風のデフォルメされたツルンとした絵。BnL社のメッセージヴィデオに実写の人間が登場するのも違和感。あえて質感の統一を避けたのかもしれないけど、アンドリュー・スタントン監督の前作『ファインディング・ニモ 』では、人間は魚視点からしか描かれず、画面に映るのは首から下までという演出だったので、今回はリアリズムとしては後退してるような・・。

宇宙で安寧に暮らしていた人類が荒廃した地球に戻ってきてメデタシという終わり方も、エコロジーの解釈としてやや弱く、ピクサーの盟友である宮崎駿には及ばないというのが正直な感想です。ウォーリーと人間の触れ合いもさほど深くは描かれず、人間側でキャラが立ってるのは艦長くらいなので、ここはいっそのこと、宇宙船には人間の痕跡はあるもののロボットだけが生き残って独自の社会を形成していた、という設定にした方が、SF好きとしてもより興味深い話になった気がします。

このように大人目線でとらえると、色々と疑問が浮かんできて物語に没入できないのですが、ラストでウォーリーとイヴがはじめて手をつなぐシーンは素直に感情移入できました(「手をつなぐ」というのが、この映画の主題のひとつ。そういえば、『エヴァ』もそうだった)。その直前、機能不全に陥ったウォーリーがCPU基盤を入れ換えることで生き返る描写がアッサリし過ぎてる嫌いはあるものの、パラノーマルな異種交流ロマンスの子供向けヴァージョンとしては、この落としどころで腑に落ちました。

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