2008/08/12

Google Streetview、覗き見る未来

今月から日本で始まったGoogleマップのストリートビューが「気持ち悪い」という反応があちこちで上がっている。

こういう生理的な反応が日本人だけのものではなく全世界共通であることは「Google Maps (Part I of "The Googling")」というコメディ・ヴィデオを見るとわかる。2人の男がパソコンに向かいストリートビューを楽しんでいる。クリックしていくと、画面は自分たちのいるアパートメントに近づいていき、遂には部屋の入り口に赤い光が・・・。



蛇足だが、この「The Googling」シリーズは全部で4編あってどれも面白い。「Google Moon (Part II of "The Googling")」では、Googleムーンで見つけた月面上のアポロの着陸地点をズームアウトするとカリフォルニアだった!という陰謀論そのままの展開だ(ちなみに「2001年宇宙の旅」の撮影カットが使われている)。



このヴィデオは世界がGoogleというテクノロジーの脅威によって書き換えられ、改竄(かいざん)されていくという不安や恐怖をうまく笑いに転化している。結局、そこであぶり出されるのは、人間の恐ろしさや滑稽さや情報を知ることの功罪であって、テクノロジーは二次的な要素に過ぎない。(カウチでテクノロジーの恩恵に預かりながら)「見る」という欲望を充足させるツケとして、僕らのプライヴァシーとやらの一部が担保にされ誰かに「見られる」ことを許可しているというワケだ。

「気持ち悪さ」の半分は「見られること」より「見てしまうこと」にあるんじゃないかな。たぶんこの2つは同じコインの両面。見ることへの後ろめたさと見られることへの気持ち悪さは一体だよね。(「住宅都市整理公団」別棟:「ストリートビュー」について都市の写真撮っている人に聞いてみたい)

「見ることへの後ろめたさ」は「覗き見(ピーピング=peeping)」に由来するものだ。衛星写真を使ったGoogleマップが登場した時にもこの手の後ろめたさはあったハズだけど、こんなにネガティブな反応はなかったと思う。

google earthの高解像度写真はOKだけどストリートビューは気持ち悪い、というのも面白いと思った。あたりまえだけど。神様から見られるのはいいけど通行人にみられるのは嫌なわけだ。考えてみれば"プライバシー"(それがなんなのかよく分からないのでカッコ付き)は立面方向に配置されてて、神様に向かっては隠されてるのね。たぶん神様って、人間の悪事とかそんなに見えてないと思う。一方、都市全体の情報は平面方向に配置されてる。(「住宅都市整理公団」別棟:「ストリートビュー」について都市の写真撮っている人に聞いてみたい)

俯瞰・鳥瞰(バーズ・アイ・ビュー)というのは「神の目」だとよく言われる。小説でも映画でも、その舞台がどんな世界なのかを表すのにバーズ・アイが使われるのは常套手段である。「神の目」ならOKだが、それがご近所の「人の目」になった途端、NOだということか。

だから撮り方しだいなんだよね、実は。ストリートビューは写真的には洗練されてないのもあって「気持ち悪い」んだと思う。ほんとは撮影者が引き受ける部分をあまり引き受けてないから。クルマの上部にパノラマカメラ付けてガーっと撮るっていう方法が大きな一因かも。(「住宅都市整理公団」別棟:「ストリートビュー」について都市の写真撮っている人に聞いてみたい)

僕も自宅付近をストリートビューで覗いてみて、ビックリはしたがそれほど不快感は持たなかった。でも、違和感はたしかに感じて、それをカンタンに言葉にすると「美しくない」ということだと思う。この「美しくない」には2種類あって、ひとつは、ストリートビューに映っている路上の風景が「美しくない」というミもフタもない感想。整然としてなくて統一感がなくゴミゴミしていて「恥ずかしい」。西欧におけるパブリックとプライヴェートの境界はハッキリしているが、日本ではその境界が曖昧でパブリックな公共空間に「私」が滲み出るような感覚がある(電車内で平気で寝たり食事したりという振る舞いなんかも含め)。

そんな一昔前から言われている文化論っぽい話はともかくとして、もうひとつは、それなりに高い解像度で撮られた、署名(記名)されていない機械による自動撮影による写真が「美しくない」と感じたこと。

Googleマップに限らずGoogleのサーヴィスにはアップルのようなデザイン・オリエンテッドな美的感覚=審美眼が欠けている(これは誰もが認めることだと思う)。ジョナサン・アイブスをはじめとするアップルのデザインチームのような存在がGoogleからは見えてこない。「こんなに便利な技術があるんだから、それを皆で共有しよう(だから皆のために法規制に触れるギリギリまでトライする権利が僕らにはある)」という技術力のアピールであって、それ以上でも以下でもなく、そこに洗練された審美眼を持ち込むことはGoogleの仕事ではない。Googleマップの吹き出し風の情報表示とかストリートビューの人型サインとかナビゲーションはそれなりに洗練されているんだろうけれど、画像そのものは洗練されようがない。

インターネット上では無敵のように見えるGoogleも、ストリートビューのようにリアルワールドと対峙する必要のあるサーヴィスでは、綻びが見えてしまう。百歩譲っても、個人情報を排除した完全無欠にコントロールされたクリーンな都市の景観を撮ることは不可能だろう(もしかしたら、それすらも将来的には可能になるのかもしれないが)。同一の条件で撮ろうとしても誤差が生じるしノイズが発生する。雨などの悪天候や夜には撮影できないし、人や表札や車のナンバープレートや生ゴミの袋や予期せぬ物体が映り込んでしまう。だから、そこに映るナマで(ほぼ)加工されていない現実空間に「気持ち悪い」と思うのは自分の姿を鏡で見るのと同じでわからなくはない。しかし、ストリートとは元々そういうノイズが生まれる場所なのだ。

僕はストリートビューのデータがどのくらいの頻度で更新されるのかに興味がある。トヨタのプリウスで全国の公道を津々浦々回るのは、たとえそのアイディアを誰かが思いついても(それが安価で枯れた技術であっても)実行するのは気が遠くなる物量作戦だ。道そのものは変わらなくても、風景は刻々と変貌する。OSやソフトウェアのアップデートならオンラインで配布すれば一発で終了するが、リアルな世界ではそうは行かない。今後、Googleの事業が下り坂になって資金が回らなくなる時が来るなら、更新は立ち後れ、5年前の古いデータを眺めるという事態に直面することもありうるだろう。日進月歩のネットの世界で墓場のようなデータ空間が発生する、というのはSF的には興味深い。「電脳コイル」の世界がすでに始まっているとも言える(あるいは、近い将来、ストリートビューと同等のサーヴィスが複数立ち上がり、車ではなく飛行ロボットカメラが定期的にデータを回収するようになっているかもしれない・・)。

行ったことのない街に想いを巡らせることや、わざわざそこに出かけていくことは、この先、どんどん無意味になっていくのかもしれない。無駄と思うことの上位に「旅行」が挙がるご時世だし、住所検索をすれば、居ながらにしてその近辺の通りの様子まで覗き見ることができる。ああ、無粋な世の中になったものだ(fab!)

検索でページランクを可視化させたGoogleは世界をあまねく可視化しようという欲望に突き動かされている。世界を平準化し標準化しようという欲望はとどまることがないだろう。僕自身、Googleは日々使っているし、ツールとして積極的に支持したい。だが、元「relax(リラックス)」編集長の岡本さんの「ああ、無粋な世の中になったものだ」という意見にもとても共感する。僕の関心は想像力のあり方がこれからどう変わっていくのだろう、というようなことにある。

ストリートビューについて、上で引用させていただいた「住宅都市整理公団」別棟以外に、参考になったブログ。オマケでグーグルをはじめとする「理想の職場」、5つの現実 - builder by ZDNet Japanも。

[を] この先、Googleストリートビュー的なものは不可避
Googleマップのストリートビューに対する苦痛感が、なぜ日本のほうが強いのか - Zopeジャンキー日記
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