2008/08/14

ゾディアック


ゾディアック 特別版: デビッド・フィンチャー

作品に現れた兆候を作者本人にも重ねるという愚を犯すなら、デビッド・フィンチャーはナイン・インチ・ネイルズやピクシーズを聴きながら不健康でアンモラルなことを四六時中考えている青臭いルーザー気質の健康優良不良青年という感じだろうか(実際は、ILMを経てMTVディレクター、初監督が大作「エイリアン3」というキャリアの持ち主)。と言っても、僕はフィンチャーの映画をこれまで「セブン」と「ファイト・クラブ」しか観ていないので、あくまでその2本から類推するしかないのだが。

ひたすら後味の悪さが後を引いた「セブン」のデモーニッシュな(露)悪趣味には諸手を挙げて賛成はできないが、暴力が個人をスポイルする消費社会に対する最大のカウンターになりうるという単純明快なロジックでボンクラ男子の夢をブラッド・ピットというキャラクターに託した「ファイト・クラブ」は、ロック由来のサブカルチャーの若々しいエネルギーを感じる痛快エンタメだった(「ドラッグストア・カウボーイ」でも「キッズ」でも「バッファロー66」でもなんでもいい、そうした青春映画がとらえたルーザー/社会的弱者であるがゆえに確保されたオルタナティヴな視点というのは諸刃の刃なのだ、と今の僕は思っているが、それについてここで書く余裕はない)。

フィンチャーの「ゾディアック」は、1969年を起点とするゾディアック事件を基にしている。多くの人が書いているようにこの映画にはカタルシスがない。観客はずっと宙吊りにされたままクライマックスはやってこない。「セブン」のようなシリアルキラー・サスペンスでも「ファイト・クラブ」のような叙述トリック・ミステリーでもない。わかりやすい落とし所はどこにもなく、史実を忠実に描こうとするシンプルなわかりやすさが、真実が秘める複雑なわかりにくさとコインの表裏にある。謎解きや真犯人を知る決定的瞬間は訪れない。正確にはラストに訪れるのだが、そこに至る150分を経験した観客にはそれすらもとりあえずのオチにしか受け取れない。エンドロールで事件の顛末が語られ、DNA鑑定でシロと判定された容疑者がすでにこの世にはいないということが観客に知らされる時、ラストの決定的瞬間も歴史の闇の中へと漂泊する点のひとつになり、線を結ばない。

当初はフィンチャーが監督するはずだったというブライアン・デ・パルマの「ブラック・ダリア」は、未解決の猟奇事件という似た題材を扱いながら(そして、ジェイムズ・エルロイというカリスマ作家の原作でありながら)個人的には退屈な映画だったように思う(「ゾディアック」が退屈だと思う人も少なくないだろうし、結局は好みなのだろうけれど)。「ブラック・ダリア」は映画的記憶としてのフィルム・ノワールを再現しようとするだけでそこに新味はなく、事件そのものよりも主人公たちの三角関係という横道のドラマに関心が逸れていく。

点と線ということで言えば、「ゾディアック」を特徴づけるのは、60年代から現代まで刻々と移り変わっていく時間の流れのスピーディーさだ。映画の主要な舞台である新聞社、サンフランシスコ・クロニクルではないが、新聞やニュース報道の持つ素っ気なく機械的で情緒を排した叙述形式をなぞるようでもあり、まるで、この不確かなドラマに句読点やピリオドを打つのは、日付という確かさだけだと言いたいかのようだ。本編中唯一(時間の経過を示す技法として)ハイスピード撮影が使われるのは、サンフランシスコのランドマークであるトランスアメリカ・ピラミッドの尖塔がみるみる建設されていくカットで、そこにマーヴィン・ゲイの「Inner City Blues」のイントロがカブるところは映像と音楽の美しい交差にハッとさせられた(よくある手法なのに)。

事件を追う漫画家の主人公がブラッド・ピットやエドワード・ノートンやジョディ・フォスターのようなスターではなく、アングラ・コミックから抜け出してきたかのような冴えない風貌の(だが存在感はある)ジェイク・ギレンホールであり、90年代のアイコンとなったクロエ・セヴィニーが眼鏡をかけた化粧っ気のない地味で平凡なその妻を演じる。こんなところに、フィンチャーの時代との距離の取り方を感じ取ってしまう(時代の寵児がその後どのように生き延びるのか、というのが僕のこのところの関心事だったりする)。ロバート・ダウニー・Jr演ずる主人公の同僚は、「ゾディアック」のひとつ前の出演作「スキャナー・ダークリィ」同様に私生活そのままのヤク中で身を持ち崩してボートハウスで余生を送る人物として描かれる。リー・アレン容疑者もトレーラーハウスの住人であり、連続殺人が車と深い関わりを持っていて、下層社会に属する人々がアメリカという車社会を「移動」していくというのがこの映画のモチーフのひとつにあると思う。

DVDについてくるメイキング・ムーヴィーには、主人公のモデルとなった漫画家であり原作者、事件に関わった警察官が実名で登場する。ベイエリア生まれのフィンチャーは、幼い頃、ゾディアックがスクールバスを襲うと予告した(実際には起きなかった)事件を自ら経験している。事件を恐れた父親がスクールバスではなく車で子供のフィンチャーを送ってくれた時、「親は自分の身を守れるのだろうか」という一抹の不安を覚えたという。それだけ当時は社会的インパクトのある劇場型犯罪だったのだろう。この事件とポップカルチャーとの関連で言えば、ゾディアックはSF映画から犯行のアイディアを頂いてるし、劇中にはゾディアックをモデルにした「ダーティ・ハリー」が映画館で上映されるシーンもある。フィンチャーのリサーチは凄まじい。第二の殺人現場である湖畔を当時そのままに再現するために木を植えたりもしている。ここまでやると立派なパラノイアだ。

フィンチャーはゾディアックを「ハッタリ野郎で頭の切れるヤツじゃない」「つまらない男だとわかればオーラも人々の不安も消える」と言う。犯人は数々の足跡やヒントやミスを残していて、警察はそれらをひとつにつなげることが出来なかっただけなのだ。リー・アレンが警察と最初に対面するアップを多用した緊迫感のあるシーンは、本編でも見所のひとつだ。映像は雄弁に彼がゾディアックだと、黒に限りなく近い灰色だと観客に語っている(リーは愉快犯らしい警察を挑発するセリフを吐き、後半に複数による犯行だったのでは?と思わせる描写もある)。

ゾディアックを執拗に追いかける主人公がリー・アレンと対面するのは80年代に入ってからで、そこでも何かが起こるわけではなく、2人は視線を交わすだけ。なんともじれったく歯がゆく、しかし、それぞれの場面は関連し合いながら個々の独立した魅力を放っている。ヒーローも悪漢もこの映画では成立しない。追う者も追われる者も平凡な人々であり、そして、彼らの内面にフィンチャーは踏み込まない(そこがこの映画の優れたところでもある)。レクター博士や「セブン」のシリアルキラーのような非凡で特殊な人間の狂気というカッコは外され、観客はどこまでもうつろな表面を覗いてるかのような気分を味わう。

ジョンベネでもサカキバラでも古今東西の猟奇事件の舞台裏を一度は追ってみたことがある人(自分もそのひとりなのだが)が感じる目眩のようなもの、真実を知りたいという行為に必ずつきまとう決定不可能性というか、真実に近づくほど真実は遠ざかっていく(当事者以外には知り得ない)という不気味さ、もどかしさ、煮え切らない気持ち。この映画はそれらを真っ向から衒いなく描いている。フィンチャーはとても倫理的な作家だと思う。

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