やっと『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』を観れました。以下、感想。
この映画はデヴィッド・フィンチャー監督が前作『ゾディアック』で発見した語り口、いたずらにエモーションを喚起させない平坦なドキュメンタリータッチで数十年にまたがる大きなタイムスケールの物語を描くという手法をメロドラマに活用した作品、と言えるのではないかと。
フィンチャー監督は、平凡な人間の平凡なありようを描くことに意識的な人だと思う。『ファイト・クラブ』は凡人が非凡な超人というオルター・エゴを構築する話だったし、『ゾディアック』は世間を震撼させたシリアル・キラーの実像が平凡な男だったことを粛々と突き止めていく話だった。大抵の映画では、平凡さは感情移入や共感のトリガーとしてあるのだろうけど、フィンチャーの扱う平凡さはそうではない。フィンチャーには「ありふれた」感を「ありふれてない」手法でツイストして撮る才能がある。
人生を逆回ししていく「逆しまの世界」を生きるベンジャミン。年齢と共に若返っていくという設定こそトリッキーだが、ベンジャミンが経験する人生はありふれた出会いと別れの連続で、気の利いた警句やアフォリズムをそこから取り出すことは簡単にできそうだ。
ベンジャミンが誕生してタグボートの船員となり旅先でエリザベスと出会い第二次世界大戦が終わって帰国するまでの前半は、軽妙で楽しい。何度か挿入される稲妻に打たれる老人のエピソードはクリスピーで笑えるし、海上の潜水艦との銃撃戦は、終始静かなこの映画で最もスペクタクルなシーンでその視覚効果と臨場感には度肝を抜かれる。
後半はベンジャミンとデイジーの恋愛が中心で、どちらかというとデイジーにウエイトが置かれている印象(全編の語り部がデイジーだから、これはデイジーから見たベンジャミンの物語でもある)。美貌と才能があるがゆえに傲慢さも持ち合わせ、勝ち組人生を送っていたが交通事故をきっかけに自己を回復していくデイジーをベンジャミンが見守るという構図で、そこに60〜70年代の風俗が絡む。20世紀の血気盛んな壮年期時代と、ふたりの壮年期を重ねているのがうまいなぁと思う(『太陽がいっぱい』まんまなヨットのシーンとか出てくるし)。
ベンジャミンとデイジーが浜辺で陽が昇るのを眺め、「これからは(老いていく)自分を可哀想とは決して思わないわ」とデイジーが言うシーンでは、ベンジャミンと死を予感した父親のシーンが反復される。朝焼けがターナーの風景画のように美しい。また、年老いたデイジーがホテルで見せる身体のラインの崩れは、老いた身体を恥じらい隠そうとする彼女の仕草も相まってなんとも切ない(若い頃のスレンダーな体型を観客がすでに知ってるだけに)。
ブラッド・ピットもケイト・ブランシェットもイイが、個人的に贔屓(ひいき)にしているティルダ・スウィントンが素晴らしい。彼女の身のこなし、演技、表情、怒り肩でやたら面積の広い豊満な背中(笑)、身体の均整は取れているのにどこかイビツでビザールな存在感、それらに目が奪われてしまう。最近では『サムサッカー』の母親役、『コンスタンティン』の天使ガブリエル役も印象に残る(ティルダに興味があれば、ぜひ『オルランド』という逸品があるのでチェックしていただきたい)。
醜いアヒルの子として祝福されずにこの世に誕生したベンジャミンは差別や拒絶やいじめを受けそうだが、この映画ではそうした否定的な感情はほとんど描かれない。捨て子のベンジャミンを育てる黒人女性のクイニー、養老院の老人たち、タグボートの船長、幼なじみのデイジー、彼らは皆、一様にベンジャミンを受け入れ、あたたかい愛情を惜しみなく注ぐ。赤ん坊のベンジャミンを捨てた父親も、最後には彼と和解しボタン製造業で築いた財産を譲り渡す。ラストのカーテンコールで、ベンジャミンに関わった人々が矢継ぎ早のカットバックで登場し、カメラ=ベンジャミンに向かって微笑みかける。これはユーフォリアでありお伽話なのだ。
また、周囲の人間との出会いと別れを逆しまに経験していけば、本来ならPTSDになりそうだが、ベンジャミンの場合、心理的葛藤や人格障害とは無縁で、自分の運命を心穏やかに受け入れていく。はじめから老成してるというか、幼少の頃から悟りや諦めのフラットな精神状態にいるわけで、逆境で培われるメンタルな成長がないということでもある。通常の人生であれば、点と点が次第に線となり面となり、記憶がカラダに累積され脳のシワに刻まれていく。自分が年を取ることで自分以外の大人たちが辿ってきた時間を身をもって反芻していくというプロセスがあるが、ベンジャミンにはそれができない。
だから、ベンジャミンは常に傍観者でオブザーバーだ。点という現在を生きることしかできない、点という現在形でしか人々の傍らに居てあげることができないから(しかし、寄り添うこと=愛であるということを、この映画は物語っていないだろうか)。『ゾディアック』でもこの傍観者的態度は貫かれていた。フィンチャーのこういう醒めた視点が僕にはとても心地よいのだが、Rotten Tomatoesによると、『ベンジャミン・バトン』に否定的な人の多くは「映像技術はスゴいが人物に感情移入できずエモーションを映画にもたらすことに失敗している」(もしくは「ハリウッド式の安全なメロドラマにセルアウトしている」)と思っているようだ。
フィンチャー組で照明を担当していたクラウディオ・ミランダの撮影、映像と音響(環境音がスーッと後景に退いていったり)はいまの時代でしか作れないクオリティ。あとアレキサンドラ・デプラのオリジナル・スコアがよかった。ウェット過ぎずアブストラクト過ぎず、ちょうどいい案配の繊細なオーケストレーション(この人の名前は覚えておこう)。
老人のような子供のVFXで思い出したのは、クリス・カニンガムが手がけたエイフェックス・ツインの『Come To Daddy』のPV。極悪なエイフェックス顔をしたオトナコドモの暴徒集団が廃墟で老婆を襲うという悪意のカタマリのような映像は、当時あまりに斬新だった(デヴィッド・クローネンバーグ『ヴィデオドローム』のオマージュ・シーンもある)。『Come To Daddy』は1997年のリリースで、時代的には1995年の『セブン』と1999年の『ファイト・クラブ』の間に製作されており、寒色系に傾いたカラー設計を含め、ほぼ同時代の空気、反逆精神を体現していたと言えるだろう。なお、シミュラークルとしての増殖する人間のVFXと言えば、1999年の『マルコヴィッチの穴』がある。
mnemonic memo: ゾディアック
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