2008/07/25

Speak No Evil

佐々木敦さんがブログに書かれていた文章を引用します。


90年代に日本の音楽ジャーナリズムに何が起きたのかというと、これはもちろん12インチベースのクラブ・ミュージックの隆盛が大きく寄与しているのだが、レコード店バイヤーにディスク・レビューを書かせる音楽雑誌が急増したということが挙げられるだろう(それは輸入レコ屋チェーンの台頭ともパラレルな出来事だが)。この話は「LIFE」の「教養」の回の番外編で水越真希さんとも少ししたのだが、仕事柄、常に最新のリリース情報に触れているのは当然バイヤーであるわけで、それはすなわちマーケットにおける最新動向ということだが、速報性と目端の効かせ方を最大の目標とする限り、それは当然の成り行きであったのだと思う。そこで当時の僕が考えたのは、ならば自分はバイヤーに影響を与えたり、バイヤーのネタ元になるようなライターにならなくては、ということだったのだが(そして率直に言ってそれは結構成功したと思っている)、それはともかくとして、レコード・ショッピング・カタログとしてのディスク・レビューの隆盛は、情報の過飽和と商品の過剰供給とがもたらした必然ではあったのだが、たとえばクラブ系音楽が、ある時代と世代に枠取られたジャンルであったということがほぼ明らかになってしまったゼロ年代以降、それでも同じやり方しか出来ない音楽誌の多くは、これは自戒も込めて言うのだが、非常に苦しくなってしまったのではないかと思える。それは簡単に言うと、レコ屋で最新盤を買い求めるようなひとが刻々と減少してしまっているからだ。自分なりの現実認識として、僕はもはや音楽において「最新情報」の提示はほぼ意味を成さなくなっていると思う。そしてだからこそ、実は今こそ「音楽批評」と呼ばれるものが(それがどういうものなのか?という問いも含めて)重要になってきているとも思うのだ。かつては「こんなの出ましたよ」と「コレがオススメですよ」だけでも価値があった。しかし確実に状況は悪化しているのであって、それゆえに「レビュー」ではなく「批評」ということの必要性が、逆接的に生じている、というのが、今の僕の考えだ。

How It Is : レビュワーの時代なのだ(…)


多かれ少なかれ、誰もがここで指摘されたことを感じているのではないでしょうか。僕の場合、ラジオで試みていたことのひとつに、音そのものを便りに(頼りに)、ある曲とある曲に関連性を見い出すということ(DJ的なつなぎ、という意味ではなく)、カッコつけて言えば、音の肌理そのものにフォーカスするというのがありました。その時々で、音の記憶=「music meme」、音を巡る風景=「surround sound」というタイトルをつけてコーナー展開したりしました。しかし、端的に言えば、こういう試みはとてもパーソナルなもので、オタクが遊んでいるだけとも言えます。

僕の中で音楽を媒介にして社会と渡り合うというモチベーションが下がってしまったのは、上で佐々木さんが述べられているような時代認識があるからだと思います。いまネット上にはブログやSNSをはじめ、かつてないほど音楽に関する言説があふれています。レビュワーやガイドやジャーナリストや批評家の需要が相対的に下がっているのかどうかはわかりませんが、ちょっとアクセスすれば、それなりに潤沢な情報にすぐ触れられるわけですから、そうした中でマニアックな情報の引き出しの有無を競い合う(そこにプレステージを置く)のは今となってはあまり効率のいい戦い方ではないように思えます。もちろん、そうしたリテラシーを高める競争の中で何かが生まれる可能性はどんな状況下でもあるとは思いますが。

とはいえ、こう書いたからと言って、自分の中に音楽についてなにがしか語りたいという欲求がなくなったわけではないので、ここでは覚え書きとしてなんでもアップしていくつもりです。

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