2008/02/07

阿修羅ガール

「私は一応この世界でこんな風にこの私として生きてくの」(「阿修羅ガール」)。

舞城王太郎の「阿修羅ガール」を読む。面白かったっす。と、「っす」をつけたくなる読後感。

「つーか」とかケーハクさとバカっぽさを文体で全面に押し出しながらも、コーエン兄弟や「パルプ・フィクション」を引用する作者の賢さ(ある文化圏を享受するスノッブとしての表明のようなもの)が透けて見えるし、キャラを借りて自分の屈託を語る系かなという第一印象もありつつ、気づいたら、あっという間に読み終わってしまった。

描かれてる物語自体にはそんなに面白さを感じなかった。最初は「女子高校生を主人公にした、いまっぽい口語で描かれたジュブナイルかぁ」と思ったら、ミステリの要素が出てきて、「ん、このへんから新本格?」と思ったらソッチには行かず。佐野の誘拐の話は最後まで解決されないし、綾辻行人という固有名詞がいきなり文脈なく出てきたりする。さらに、「ヘンゼルとグレーテル」ちっくな残酷メルヘン(勝手に諸星大二郎の絵で脳内変換して読んでいた)、ルパン三世の替え歌を歌うヒキコモリの猟奇殺人鬼の荒みまくったサイコ描写、とグルグルと叙述形式を変えながらも、これらが主人公アイコの臨死体験&幽体離脱体験としてつながることはわかるし、第三部でその辺はキッチリ説明されるから物語のオトし方としてはキレイにまとまっていて、見かけよりオーソドックスな構成である。すましたようにマジメにブンガクする第三部がPTA(文壇?)への釈明っぽくもあり、最後にもっとブチ切れてもよかったんではないか?という感想が出てくるのもわかる。

全部が一人称で語られるので、ユルい「叙述ミステリ」として読めなくはない。ジュブナイル、メルヘン、ミステリ・・・など、それぞれの要素を単品で見ると「弱い」。それらのミクスチャーの仕方が独特で、あえて陳腐極まりない安っぽくウスっぺらい物語を使いながら、やせた土地で突貫工事をしてるような感じが、同じ三島由紀夫賞を取ったからではないが、中原昌也を思わせる。アンチ・ロマンというか、シミュレーショニズムというか(物語の操作という点で)、「いま小説を書くとすればこういう前提でやるしかないんだぜ」という方法論を選びとってるというか。

中原に比べると、舞城の「阿修羅ガール」にはそれなりにロマンもあるし、カタルシスもある。アイコは徹頭徹尾、自分と自分に起こっている状況を観察してマトモに考えることができる人間として描かれていて、そこにブレはない。大好きな男の子にはフラれ、傍らにいるのはオタクっぽい風体で同人誌の作者のような名前の男で、決して女の子としてはシアワセではないのだが、臨死体験の後ではその状況を静かに受け入れているし、「そんなに悪くはない」とどこかで思っている。「私は一応この世界でこんな風にこの私として生きてくの」。そして、誰かを好きになって一緒に楽しく生きよう、と切に願う。この揺るぎない自己肯定、どんなに凄惨でブラックな物語をくぐり抜けても微塵もブレない「私」。そのありようが2000年代? というか、エンターテイメントである限り、このブレない「私」は過去も未来も存在し続ける。この小説はやはりカッコつきのジュブナイル、青春小説なのかもしれない。 

文体は精緻で練られていて、そこがこの小説を小説たらしめている(というか、そこだけかもしれない)。「ピンポンダッシュ」のような文体のスピード感とは裏腹に、読むにはそれなりに時間がかかる。文章の密度が濃いからだ。改行のない文体はノッてる時の村上龍みたいでもあり(ちょっとアーパーな女の子の一人称ってのがそもそもそうか)、全体に漂う寂寥感やシニシズムの焼け野原をバックに元気な女の子が快活に走り回るというのは村上春樹チルドレンの証? 解釈はどうにでもできる。

小説も基本的には「こういうものを描きたい」欲望のメディアである。すこやかな表現衝動と、巧みなセルフ・コントロール(そこに物足りなさを覚えるかどうかで、この小説の評価も変わるのだろう)。「阿修羅ガール」にはその欲望がみなぎっていて、閉塞した状況を突き抜けようとする意志を感じる。

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