2008/02/07

雑記

「真説 ザ・ワールド・イズ・マイン」付記。

絵について。新井英樹の絵は個人的には苦手である。ぶっちゃけ、スタイリッシュではなく泥臭いから。同じように「へうげもの」の山田芳裕の絵も好みが分かれるだろう。僕には、山田の絵はすんなり受け入れやすく、新井の絵は受け入れにくい。山田は、ある強弱を持ったペンによる描線がそのまま感情移入にダイレクトにつながるという、テヅカとオオトモの描線をミックスした浦沢直樹を筆頭にした日本の漫画の伝統的なラインからはややハズれるかもしれない。描線そのものは禁欲的でセクシーではないが、デザインとしてカッチリと整理されていて収まりがよく(生硬だとも言えるか?)、自分はそれを気持ちよいと感じる。新井の描線は、デザインとしてまとまるような性質のものではなく、スプラッターな殺人の描写も、あくまで目を反らせたくなるような不快な内臓感覚そのものを線に宿らせていて、その整理されてない描線が生理的に気持ち悪いということにつながるのだろう。新井はデュオニソス的、山田はアポロン的というか(そんな、オオゲサな話かどうかはともかく)。

リンク:漫棚通信ブログ版: 『ザ・ワールド・イズ・マイン』と『度胸星』

ユリイカの「荒木飛呂彦」特集と、スタジオ・ボイスの「少年ジャンプ」特集を読む。スタンスは違うとはいえ、かつての難解系サブカルの旗手だった両雑誌がほぼ同時に「少年ジャンプ」を取り上げるところがいまの時代だなぁと思う(ユリイカは以前から大友克洋や高野文子の特集をやっているが、それらはサブカルをアカデミックに語るといういつもの視点だった)。「少年ジャンプ」からも「荒木飛呂彦」からも遠いところに住む僕だが、個人的にはスタジオ・ボイスが面白かった。たしかに、90年代までは「少年ジャンプ」を仮想敵にするというのは、メジャー対マイナー/インディーという構図でインディーの方が作家にとって理想的な居場所であり単純にカッコイイ生き方なのだ云々という言説にとって、都合のいいものだったのだろうと想像する。しかし、いまではどうなのだろうか。そうした幻想はインターネットを始めとする情報の流通によってすっかり払拭されてしまい、そうした二項対立の問題設定自体が意味を為さないような世の中になってきている。いや、メジャーとインディーの線引きは資本やビジネスの規模からいっても可視化できるほどにハッキリあるのだが、話はそんなに単純じゃないことに誰もが気づいていて、その副作用として、どメジャーの存在にスポットライトが当てられるということなのだろう。

だいぶ前に読んだ「デスノート」では、「友情・努力・勝利」というジャンプが掲げる少年誌としてのテーゼが青年誌的なテコ入れによって反転していて、「友情・努力・勝利」がすでに動脈硬化に陥っている事実をおぼろげながら僕も感じたのだった。カウンターとしてのマイナーがメジャーに取り込まれる、あるいは相互補完/共生することによって両者が生き延びる。ルイ・ヴィトンがグラフィティのモノグラムを採用し、村上隆やリチャード・プリンスとコラボする。コレはどっちかというと特殊事例で、マーク・ジェイコブスが切れ者だというだけかもしれないが。マークとリチャード・プリンスとの共同作業は「ありえなさ」がちゃっかりヌケヌケと実現してしまっていることが単純に面白い。アーティなスノッブ趣味のかけらもないことが逆説的にファッションの「これをいいと思う」という成立基盤の虚実を浮かび上がらせていて、いいのだ。漫画の話からズレてきたのでこのへんで。

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