今年一発目に読んだ小説、舞城王太郎の「九十九十九」をレビューしてみます。無駄に長いです。
小説は荒唐無稽なデタラメを書き連ねることを許された装置=媒体=メディアである。だから、作者は全能の「神」となって紙の上でどんなウソもホントのようにつくことができる。小説上ではどんなことも可能になる(どんなことも起こりえる)、というのが小説が引き受ける可能性であり同時に困難である。そこでは、平穏な家庭の慎ましい幸せも夥しい数の死体も猟奇的な殺人もスプラッターもフリークスもカニバリズムもパラレルワールドもタイムスリップもワームホールもなんでも盛り込むことができる。
作者が用意するロジック、小説を成立させているロジックはすべからく「どのようにでも説明できる」し、それがどんなにトリッキーでアンリアルでありえないように見えたとしても、筋が通るように説明=証明=究明することが可能である。但し、ここで言うロジックはあくまでその小説内でしか通用しないカッコつきのロジックである、という担保がつく。読者は現実のロジックに縛られて生きているので、「いくらなんでもそりゃ無茶じゃね?」とか「ありえないし」とか「ナイナイ」とか小説と現実を照らし合わせながらも、その小説で起こっていることが小説内で通用するカッコつきのロジックによって生み出されていることをあらかじめ了承済みなので、それをフィクションとして楽しむことができる。
読者が言葉の羅列が生むデタラメをフィクションとして受け取るのはこのようなメカニズムや手続きが必要なのだ。
舞城王太郎の「九十九十九」はこうした(この拙文でクドクド説明するまでもなく自明であるところの)小説=フィクションを巡るメカニズムやフォーマットを真正面から引き受けて、その可能性や不可能性や自由や限界や困難に挑戦した小説だと思う。僕が「九十九十九」を読む前に持っていた予備知識は、この小説が清涼院流水の作品の本家取り(パロディでもパスティーシュでもオマージュでもトリビュートでも呼び方はなんでもよくて)であり、入れ子構造の仕掛けになったメタ・フィクションであるということ、その二点だった。文庫本版の背表紙には、「聖書、創世記、ヨハネの黙示録の見立て連続殺人事件に探偵神のボクは挑む」と書いてあるので、「ああ、ダヴィンチ・コード的なアレね」と早合点してしまいそうになるが、舞城の作品を一度は読んだことがあるならば、その予想が裏切られるだろうなーというのもなんとなく予測がつく。僕は舞城王太郎の「阿修羅ガール」と「煙か土か食い物」を読んだことがあり、清涼院流水の作品はすべて未読で、ミステリー小説にはそんなに明るくない(小説全般だってそんなに明るくはないのだけれど)。
そういう前提でこの本を読んだ感想は、「やっぱこうなるんだ」と「あ〜なるほどな」と「でもでも、これってもしかして・・」が交錯したものだった。「やっぱこうなるんだ」はこちらの予想をハズさないメタメタなメタ小説な展開に対してであり、「あ〜なるほどな」は最も重要な謎解きが小説全体を通じて破綻してないというナットクに対してであり(謎そのものは舞城らしい壊れっぷりなので、その時点で既に破綻しているとも言えるが)、「でもでも、これってもしかして・・」は言葉にしにくい新しさに対してである。
実を言うと、僕は「メタのメタはメタで・・・(永久にループ)」という構造を持つ作品がちょっと苦手だったりする。分厚い「ゲーデル、エッシャー、バッハ」を買ってツン読で終わらせた苦い過去があるし、クローネンバーグの映画「イグジステンズ」でヴィデオゲームのように何度も再起動されるお話にウンザリしたこともある。大雑把に言ってしまうと、メタ・フィクションは一見、破天荒な開放系の構造を持つように見えて、ひたすらループする堂々巡りの閉鎖系であることがえてしてあり(それをメビウスの輪だとか言われても・・)、そこに僕はどうしても「空しさ」を覚えてしまう。
「九十九十九」のラストは、とてもカッコイイ一文で締め括られる。
「だからとりあえず僕は今、この一瞬を永遠のものにしてみせる。僕は神の集中力をもってして終わりまでの時間を微分する。その一瞬の永遠の中で、ぼくというアキレスは先を行く亀に追いつけない。」
この有名なアキレスと亀の話が「ゲーデル、エッシャー、バッハ」の中にも出てくる。「この一瞬」は、「ぼく」=九十九十九=主人公が脳内で作り上げた、母と妻と子供といっしょに安穏と暮らす幸福の情景めいた架空世界、ヴァーチャルワールドの時間であり、「ぼく」はその架空世界から抜け出してほんとうの過酷な現実=物語の起点である西暁に向かうことを「この一瞬を永遠のものにしてみせる」ことで半永久的に遅らせようとする。
最終章の「第六話」とそれに先んじる「第七話」で、「人は自己愛のプログラム、自ら作り上げた居心地よい架空世界から逃れて現実を受け入れ成長することができるか」というテーマを作者は持ち出してくる。なぜ、九十九十九が美し過ぎて人々を失神させるのか、彼が冒頭から神のような存在なのか、という謎も同時に解かれる。しかし、「ぼく」が西暁に向かう(本来の最終章であるべき)「第七話」を先に読者に読ませることで、物語の起点に戻って円環の輪を閉じるという行為を「ぼく」もしくは作者は避けるのだ。実際、「第七話」で「ぼく」=九十九十九とツトムが再会し、九十九十九にまつわる謎が解けたように見えるが、それすら物語を終わらせる決定的な何かではなく代替可能で、ひとつの通過点に過ぎないような書き方になっている。
僕は「ダヴィンチ・コード」を読んでないが、当時社会現象になった「ダヴィンチ・コード」に関心はあった(偶然だろうが、「ダヴィンチ・コード」も「九十九十九」も2003年に出版されている)。この手の聖書や神学をネタにしたフィクションというのは、「暗号のようにコード化されている世界の秘密を解きたい」という人々の根源的な欲求、もっと言えば下世話な欲望によって支えられている。物語の多くは(特にミステリーやSFといったジャンル小説は)、そうした欲求を苗床にしている。謎や起源やルーツを知りたい、ここではないどこか遠くのかつてあったかもしれないオリジナルの本当の自分に遡りたいというのは、人間の持つ素朴で原初的な感情であり、それが宗教やニューエイジや自分探しの旅や陰謀論にまで敷衍することになる。
舞城はミステリーや神学をモチーフにしたフィクションを参照しながらも(リスペクトしつつあくまで素材としてゾンザイに扱うという彼独自の観点で)、「オリジナルなんてないし、起源やルーツなんて真っ赤なウソだし、ボクはコピーのコピーで現在過去未来何度も繰り返され、召還されてきたヴァージョンのひとつに過ぎないし、ボクはパラレルワールドで何人も存在するし、物語はどうにでも転がるし、神が存在するかしないかはどうでもよくて、偶然性や偶有性の中で漂いつつ、かすかな真実めいたナニカ、それも唯一の単独の神聖で真正な真実なんかじゃなくて、ありがちでちっぽけでくだらなくてたまたまそこにあって出会っただけなんだけど、そういうものを一瞬一瞬感じたり信じたりして生きていくしかないんだよね」と言いたいのだろうと勝手に類推してみる。
舞城のこうしたプレゼンスというかプレゼンテーションの仕方にはとても共感する。それはたぶん「新しい」のだと思うし、例えば、フィリップ・K・ディックがネガティヴに描いたことをポジティヴに描き切ろうという意志も感じる(またディックかと思われそうだが)。と同時に、メタ・フィクション特有の「空しさ」もしっかりそこにあって、その「空しさ」=「何でもアリという自由と不自由をどう小説上のロジックで解決するのか?」という読む前に僕が抱いていた疑問には残念ながら、応えてはくれなかった。応えてくれる類の小説ではないとも思う。
僕がこの小説の読後に思い浮かべたのは、なぜか小説ではなく、望月峯太郎が「バタ足金魚」の後に連載した「COLOR」という漫画だった。不条理でグロくてトラッシュな描写とホラーSFとジュヴナイルが共存しているところや、身体の変容を重視しているところ(九十九十九が女性の死体をスイムスーツのように着てその女性が殺される場面を幻視したり、自分の顔を剥いだり、内臓感覚に訴える場面に共通するものを感じる)を表面的には指摘できると思うのだけれど、もっと指摘しにくいところに共通項がある気がする。 あと、タイムスリップで黒い雲の渦が現れるところは「ドニー・ダーコ」かな?
「見立て」の壮絶かつアクロバティックな言葉遊び(笑)については、また機会があれば・・。
僕なんかより全然簡潔で鋭くまとまっているテキストがあったのでリンク。
舞城王太郎『九十九十九』(迷宮旅行社)
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