2008/08/26

「崖の上のポニョ」その1

やっと「崖の上のポニョ」を観ることができた。評判通り子供向けのアニメーションとしては異様な代物だったが(ラヴクラフトのクトゥルー神話と「ポニョ」を結びつけたり、この映画のイビツな違和感をさまざまに解釈したレビューがネット上にはあふれている)、ゼロ年代の宮崎駿を評価している自分としては、ごく自然な帰結として受け止めることができた。その分、「ナンダコレハ!?」的な衝撃はあまり受けることができなかったのだが。

宮崎なりのリアリズムを突き詰めた(アニメーションならではの自由や想像力を自ら封じたように見えた)「もののけ姫」以降の宮崎アニメは、その特異なリアリズム(キャラが実際に生きて存在しているかのようなリアリティを画面に漲らせる力)を活かしつつ、原初の体験としてのアニメーションにいかに戻って(遡行して)いくか、という首尾一貫した流れを持つように思える。原作がある「ハウルの動く城」、オリジナルの「千と千尋の神隠し」「崖の上のポニョ」という違いは瑣末な違いにしか過ぎず、強靭で揺るぎない作家性は保たれている。(興行収入を期待される立場にも関わらず)物語や既成概念の束縛からアニメーションの自由を奪回する、というのが、ゼロ年代の宮崎駿が自ら課した命題なのではないだろうか。

「もののけ姫」以降の3作品は、魔法が世界を統べるファンタジーという点で一致する(というか、「もののけ姫」以前の劇場作品も「紅の豚」と「カリオストロ」以外は純然たるファンタジーと言って差し支えないと思う)。「千と千尋」は現代の日本を舞台にした、バブル期の名残りのようなテーマパークの廃墟が異界に通じていたという「行きて帰りし物語」の優れたヴァージョンであり、「ハウル」はヨーロッパ世界を雛型にした王道のファンタジーで、主人公は(「千と千尋」と同様に)魔法使いと共に生活することで異界(非日常)は日常と一体化して描かれる。「ポニョ」は現代の日本を再び舞台として取り上げ、現実界と異界はせめぎあいながら、もはや線引きできないほど、どちらがどちらなのか判別できないほどに混ざり合っている。

この3作品を時系列に観ていくと、宮崎のファンタジーの描き方がどんどん大胆になり、既成の約束事から自由になっているのがわかる。「千と千尋」ではファンタジーをファンタジーとして成立させる数々の約束事(千尋が魔女と契約を結ぶことで名前を失う、千尋もハクも本当の名前を奪われることで異界に捕われの身になる、などなど)に満ちていた。それらは、観客をファンタジーの世界に入り込ませるための暗黙の了解事項、ロジック、ルール、コード、プロトコルである。「千と千尋」のカオナシの存在や、「ハウル」後半における一切の説明を欠いた展開は、こうしたロジックやコードを打ち破るものであり、コードを守る(良心的国民的作家としての)宮崎とコード・ブレイカーとしての(自らのリビドーを自由奔放に表現する)宮崎との戦いとしても見ることができる。「ポニョ」ではコード・ブレイカーとしての宮崎が前面に押し出されている。

物語の定型パターンからの逸脱という点で、宮崎は「ナウシカ」「ラピュタ」以降、明確な敵、悪役、ヴィランを作らないことで徹底している(これが古くからの宮崎ファンの一部で最近の作品が不評となる原因のひとつではないだろうか)。善と悪というわかりやすい二項対立のドラマツルギーによるカタルシスの代わりに、より複雑な人物配置と設定による新しい物語を指向する。近作でも明確なヴィランはいないものの、2つ以上の異なる勢力がぶつかりあうことで物語をドライブさせていくというところは共通している。「千と千尋」では銭ババと湯ババという容姿がソックリな魔女、「ハウル」では国家権力に奉仕する魔法使いたち(頂点にいるのはハウルの元師匠サリマン)とハウル。それらは単純な善と悪ではなく、どちらも場合によっては代替可能で、物語のデータベースを補完し合う存在である。「ハウル」のラストには、サリマンが「ハッピーエンドってわけね」と訳知り顔でつぶやく場面がある。とってつけたハッピーエンドを「あえて」了解済みでやってるんだという宮崎の苦しまぎれの独白にも思える。

「ポニョ」は、子供向けとしては先行する2つの劇場映画、「トトロ」と「パンダコパンダ 雨降りサーカス」に似ている。人間の女の子に変身=メタモルフォーゼしたポニョは「トトロ」のメイにソックリだし、街が嵐で水没するのはまんま「雨降りサーカス」。悪役もいなければ、対象年齢が高く設定されている「千と千尋」や「ハウル」にはあった異なる勢力による対立構造がないところも、「トトロ」や「パンダコパンダ」と同じ。「パンダコパンダ」は純粋に子供向けに徹した、宮崎の作家性が開花する前の作品であり、開花した後の作品である「トトロ」にはエコロジーや日本の原風景へのノスタルジーといった思想性やメッセージ性が透けて見えた。今回の「ポニョ」はどうかというと、「パンダコパンダ」ほど素朴なワケはなく、「トトロ」のようなわかりやすいメッセージ性も含まれているのだけれど、もっと混沌とした未整理の無意識がムキダシになっていて(そこがゼロ年代の宮崎の共通項である)、しかし、物語は子供向けなだけにこの上もなくシンプル、というイビツな作品になっている。

(つづく)

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