2007/11/13

Bubble Architechture

最近読んだムックっぽい雑誌「バブル建築へGO!」が面白かったです。女性二人によるけんちくユニット(「建築」ではなく、「けんちく」もしくは「ケンチク」というニュアンス、わかってもらえるでしょうか?)=ぽむ企画の責任編集。僕が個人的に建築に興味を持って掘り下げていた時期に、ぽむ企画のサイトをよくナナメ読みしていました。この本ではバブル期の建築にチャチャを入れつつストレートに対象にメスを入れています。オモシロマジメという言葉を思い出しました。このノリ、どこか懐かしいというかまさにサブカル(インターネット初期のまだ整備されてない野放しの空間に近いというか、ウェブ2.0以前というか)、最近ではこういう軽快な批評をまとまった形であまり見かけないので新鮮でした。というか、ブログってこういうパーソナルな思考を一気に吸収してしまったんだなと思います(ぽむ企画の日記がブログじゃないところが象徴的)。

悪名高いM2(今は葬儀場になっている!)を作った隈研吾や磯崎新のもとでバブルを経験した青木淳など、建築家たちの証言が読みどころです。高松伸のキリンプラザ大阪が取り壊しになるという話も初めて聞きました。バブル華やかりし頃、一会社員として大阪で勤務していた時期に、リドリー・スコットの「ブラック・レイン」に登場したこの建築の中に入ったことがあります。意外とそんなに大きくなく、派手な外観に比べ中の印象はあまりなく、狭いけれどスタイリッシュなトイレがなぜか記憶に残っています。そういえば、先日亡くなられた黒川紀章のソニータワーも今は現存していません(写真はこちらが鮮明です)。もちろん、当時は黒川紀章の作品だとはツユとも知らず、心斎橋に行けば必ず立ち寄るスポットでした。フロア面積は狭かったけれど明るくソニーらしいアミューズメント空間でした。細野晴臣の「オムニサイトシーイング」を初めて視聴したのもここ・・・。ワールド・ミュージック全盛時代ですね。

実際の使われ方や企業のアプローチとしては、キリンプラザよりもソニータワーの方が一枚上手だったと推測されます。76年竣工のソニータワーの方が87年竣工のキリンプラザよりも近未来、アカルイミライだったというか。キリンプラザ大阪は良くも悪くもモニュメンタルな建物、むしろ当時から遺跡に近かったという言い方もできるでしょう。モノリシックな遺跡、ですね。「バブル建築へGO!」のインタビューで、高松伸が「ポスト・モダンの潮流と一括りにされたけれど、ポスト・モダンは歴史の引用で自分はそうじゃなかった」と発言しているのも興味深いです。それまでの建築になかった物語性や虚構性という点で、建築家が社会性ではなく極めてパーソナルな自己表現・自己表出に向かっていた点で、やはり高松伸はポスト・モダンのひとりだったのではないでしょうか。なお、ソニータワーの施工は竹中工務店だそうです。最近だと、MVRDVが手がけた表参道のGYREも竹中工務店(まだ実物を見てないけれどどうなんだろう?)。著名建築家によるケンチクが施工者側からどう見えているのか、自分がもし取材する機会があるなら聞いてみたいです。

バブル時代の建築の検証で面白いなと思ったのは、パンチング・メタルが手法として多用されたという事実。気分としてのパンチング・メタル。または、パンチング・メタルに魅せられて。バブル期の音楽で言えばなんだろう? スネアにかかったゲート・エコー? サンプリングの連打? メタリックな音色のパーカッションに代表されるインダストリアル? ちょっとわかりやすすぎでしょうか。スカスカで浮遊感のある音場構成はバブルっぽいのかもしれません。浮遊感もバブル建築の重要なキーワードです。巷の80年代リバイバリズムって肩入れしたくないような表層的なものが多い気がしますが、この本のように緻密で具体的な検証が音楽でも可能なら読んでみたいです。

恥ずかしながら、この本を読むことで、レム・コールハース以前と以降という頭でなんとなく受け止めていたことをやっと図式化できました。レム・コールハースは自律するケンチク、思弁し内向する自閉的なハイアートとしてのケンチクというバブル期のポスト・モダンの悪しき袋小路を突き破って、現実社会と向き合い闘うことでしかブレイクスルーはありえないということを身を以て実証しています。現実と知的に戯れるというようなバブル時代の生半可なレベルではなく、徹底的なリサーチとプログラミングで現実を問いただし、現実を自らの力で変えようとすること。実は、建築の一ファンに過ぎない自分がコルビュジェのような過去形の巨匠ではない人で一番インパクトを受けたのがコールハースです(僕にとって建築が他の表現より優位性があるとするなら、それは社会性の一点に尽きると思います)。

本来、アンビルトである建築が様々な社会的障壁をクリアして現実に立ち上がるというダイナミズム。コールハースは、例えば安藤忠雄に対して外国人が抱くような禅を感じさせる静かな佇まいとは対極的です。環境に馴染み、自然と同一化するのではなく、環境そのものを積極的にプログラミングする。それは傲慢さにもつながるし、植民地主義=コロニアリズムやグローバリゼーションに乗ることにもつながる。実際、コールハースの最近のプロジェクトは、中国やドバイのクライアントだったりする。でも、安易にそれを批判することは難しい。建築(に限らずですが)はリアライズしない限りは専門領域の閉ざされた言論空間、夢想の領域に留まってしまいます。グローバリズム批判は自分の足下を見ないキレイごとに陥る危険性がいつでもあるのは言うまでもなく。

理屈はともかく、北京のCCTVやドバイのリゾート都市案は、単純にこんなに奇抜で奇妙なモノが建つ=立つんだというセンセーショナルな驚きがあります。後者は古典的なSF都市の景観そのものです。極めつけは、デス・スターを思わせるドバイの物件。冷徹な思考によるケンチクが大衆的なポップ・アイコンに近づいてしまうという皮肉。どこかで見聞きしたような話です。バブル時代の東京がそうだったように、ドバイも2〜30年後には同じように懐古され、あるいは忘れ去られるのでしょうか。例えば、ザハ・ハディドの建築の優美で未来的なフォルムが、逆に形式主義者=フォルマリストに見えてしまうという嫌いがあるのに対し、コールハースの建築は受け手の「これはいい、あれはよくない」という審美眼に殴り込みをかけるようなパワーがあります。彼の建築はシンプルな直線で構成されているものが多く、直方体を切ったりズラしたり分節化したりすることで既成概念を崩すという手法が見られます。完成した建築の有無を言わせないアイコンとしての明快さ、力強さが驚きにつながるのでしょう。

しばらくケンチク方面の興味が薄れていた、ケンチク熱が冷めていたので(有志と「Re: 建築+エレクトロニカ」なるイベントをやったのも遠い昔のようです)、これをきっかけにコールハースの「錯乱のニューヨーク」を読み返したい気もします。ただ、あの甚大なエネルギーに立ち向かうにはもう少しこちらが充電しないと。青木淳のサイトに書いてあった「面白いことなら何でもしよう」。これもコールハースに通じるものがあります。僕自身も彼らとはまったくレベルは違いますが、ミーハーな野次馬根性を失わず、面白がることを忘れないでいようと改めて思いました。

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